「大久保彦左衛門」(おおくぼ ひこざえもん 1560~1639)とは、「三河物語」の作者としてその名を知られる、戦国時代~江戸時代初期の武将である。
諱は忠教(ただたか)、幼名は平助と名乗っていたが、ここで最も有名な通称の彦左衛門の名で統一する。
概要
徳川家(松平家)に先祖代々仕えてきた古参中の古参家臣・大久保氏の生まれ。大久保忠世、大久保忠佐の弟。三河武士の見本ともいえる人物。後年、自らの体験談や見聞きした話、徳川と大久保にまつわる数々の歴史をまとめた「三河物語」を書きあげる。その中での物事について遠慮せずバッサリ言及する姿が、やがて江戸時代を通じて講談のネタとして多く用いられ「天下の御意見番」の異名を取った。
生涯
徳川家の重臣・大久保忠員の八男として生まれる。彦左衛門が誕生した永禄三年(1560年)は、桶狭間の戦いを期に徳川家康(当時は松平元康)が今川家から独立し、長年にわたって今川家の元で苦汁の日々を送っていた徳川家臣団にとっても、大きな転機となった年であった。
父・忠員は兄の大久保忠俊と共に、松平清康・松平広忠・徳川家康の三代にわたって徳川家を支えた重鎮であり、兄弟力を合わせて徳川家を盛り立てた。彦左衛門ら、忠員の息子達も同様に徳川家の武将として活躍し、特に長男の大久保忠世と次男の大久保忠佐は、主立った家康の合戦に加わり、その武勇を天下に知らしめた(余談だが、1983年に放送された大河ドラマ「徳川家康」では、大久保忠員をまだ声優となる前の中田譲治が演じている)。
彦左衛門もまた、兄達の元で各地を転戦し、忠世とその息子・大久保忠隣が小田原藩の大名となるとそれに仕えた。なお、忠隣は彦左衛門の甥にあたるが、彦左衛門より7歳年上である(忠員は1511年生まれ、忠世は1532年生まれ、忠隣は1553年生まれと、それぞれ21歳の時に生まれた子である一方、彦左衛門は忠員が50歳の時に生まれた子であるが、どちらもそれほど極端な年齢差ではない)。
1613年、嫡男を若くして失った次兄・忠佐が病に倒れると、後を継ぐように頼まれたが、彦左衛門は「この所領は兄上の功績によるものであって、自分が受け取れるものではない」とこれを辞退。これによって忠佐の分家(沼津藩)は跡継ぎ不在によって断絶する(三河武士らしい話である)。その翌年には忠隣が、大久保長安の謀反疑惑に連座する形で改易となり、彦左衛門も所領を失った。この事件の影には忠隣と対立関係にあった本多正信・本多正純の讒言があったと言われており、元々本多父子を快く思っていなかった彦左衛門の人生にも影を落とした。
間もなく、彦左衛門は旗本として復帰を果たし、大坂の陣では家康の槍奉行として従軍。真田幸村が家康の本陣を急襲した際、混乱によって家康の本陣の旗が倒れたと騒動になった。他の武将や兵が旗を見失ったあるいは倒れたと答える中、彦左衛門はただ一人「本陣の旗は立ったままだった」と主張して、意見を曲げなかった。彦左衛門の頑固さに家康は腹を立てたが、本陣の旗が倒れたという不名誉を残さないために命をかけて主張を変えなかった彦左衛門に折れたのか、彼は罰せられることもなく、そのまま徳川家に仕え続けることが出来た。
1622年、本多正純が徳川秀忠によって改易され所領没収となる。その過程は、大久保忠隣の失脚と非常によく似ていた。彦左衛門が仇敵の末路についてどう思ったのか、因果応報と喜んだか、それとも諸行無常を悟って虚しい気持ちになったのかはわかってはいない。この頃から、彦左衛門は「三河物語」の著作に取りかかる。徳川家の歴史と共に、武士のあり方を子孫に伝えたこの作品は、本来門外不出であったが、写本の流出や口コミなどによってたちまち武士の間でベストセラーとなった。また彦左衛門も数少ない戦国の世を生き抜いた生き字引として、上は徳川家光から、下は就職難にあえぐ浪人まで、多くの人物に慕われるようになる。1632年に忠隣の孫・大久保忠職が大名に復帰するのを見届けると、その7年後に80年の生涯を閉じた。
彦左衛門は徳川家への忠義を貫く典型的な三河武士であったが、自分たちのようなタイプの人間が次第に徳川家の中で窓際に追いやられるようになり、本多正信・正純のような忠節や信義より弁舌でのし上がっていくタイプの人間が幅をきかせる風潮を苦々しく思っていた。単に忠義に厚いだけでなく、徳川家と三河武士の主従関係の変容と矛盾、そうした屈折した思いが彦左衛門の「三河物語」には記されており、戦が無くなり武士の存在意義が無くなりつつある中、不平不満を持つ武士たちは彦左衛門の考えに共感・喝采したのであろう。
後世、彦左衛門は「天下のご意見番」と呼ばれ、魚屋の一心太助と共に江戸の数々の事件を解決した、徳川家光の直言も辞さない相談役となった、輿が禁止されたので大きなたらいに乗って江戸城を登城したなど、様々な逸話が残されている。これらの多くはフィクションだが、彼が記した「三河物語」が多くの人々に広まったことから、いつしか彦左衛門は庶民に愛される大スターとなったのである。
補足
かつては、その名を知らない人はいない程庶民の人気者だった大久保彦左衛門だが、最近の知名度はどうも今ひとつである。以前は彦左衛門や一心太助の活躍が映画やドラマとして描かれていた時代劇が廃れてしまったのが最大の要因だろう。
また、コーエーのゲーム「信長の野望」シリーズでも、れっきとした徳川譜代の武将にもかかわらず、天翔記以降は長らく再登場せず、これがネットにおける彦左衛門の知名度の低さの原因に拍車を掛けているのかもしれない。しかし、こんな時代だからこそ、彦左衛門はもっと再評価されるべき人物である。
信長の野望シリーズにおける大久保彦左衛門の能力一覧(全て本名の大久保忠教名義である)。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | |||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | 146(A) | 智才 | 100(B) | 政才 | 98(C) | 魅力 | 60 | 野望 | 48 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | - | 知略 | 政治 | - | |||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | 71 | 武勇 | 56 | 知略 | 82 | 政治 | 88 | ||||||
創造 | 統率 | 77 | 武勇 | 83 | 知略 | 75 | 政治 | 67 |
関連項目
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