大井篤 (1902年12月11日~1994年12月27日:92歳没) とは、元日本帝国海軍軍人。最終階級海軍大佐である。
ここでは大井篤氏および彼が戦時中携わった海上護衛(船団護衛)について簡単に記述している。
概要
海上護衛総隊に赴任するまで
海軍兵学校卒業時255名中9番目の成績。
以後、海軍大学校に派遣され英語を学び、語学留学でアメリカにも渡って在米大使館に出張するなどしており英語は堪能であった。帰国後、軍令部へ配属され海軍大学校へ正式に進む。
このころから、氏の「情より論」「空気を読む気なし」「理屈でやりこめる」ことで問題を起こすこと度々だったようで、海軍大学校もあやうく退学しかける始末で、同期の口添えと協力が無ければ危ういところだったという。
大学校を30名中3位で卒業すると、完全に海軍のエリートコースに乗り、以後艦隊参謀、軍令部参謀など歴任する。この頃も日独伊三国同盟には反対で周囲といろいろと軋轢があったという記録が残っている。
そして、太平洋戦争が開戦。大井篤はある新設部署に参謀として送り込まれることとなる。
海上護衛総隊の設立
戦前、日本の商船団は総量600万トンを誇り世界有数の商船団をもっていた。戦前の通商路保護は国力などの関係から台湾以北の航路に限定しており、南方航路が考慮されるようになったのは仏印進駐などで米国や英国との関係が悪化してからであった。
太平洋戦争開戦にあたり、国の指導者層では要約すると「300万トンは軍が使って、輸送船建造も40万トンからスタートして年20万トンずつ増やしながら輸送船を建造すればいいね」とまぁ、ドンブリ勘定、もとい、恐ろしく楽観的な見通しを立てていたにすぎなかった様子である。
ところが開戦すると状況は一変、本格的に戦闘状態に入った昭和17年(1942年)、輸送船舶喪失量は100万トンに達した。ちなみに建造トン数は30万トンと当初予定すら下回り当然本土への物資輸送量は右肩下がりとなっていく。その一方で開戦冒頭は各所に上陸部隊を送り込む必要上から輸送の手配など陸軍からの要望もあり、連合艦隊司令部はその処理に苦慮することになった。
開戦時には「年度戦時通商保護計画要領」に基づき海上護衛を行うことになっていた。
海域をいくつかの区域に分け、連合艦隊や鎮守府、警備府などで分担し護衛する計画であった。
近海などは鎮守府や警備府などが担当し、連合艦隊はそれ以外の外洋などを担当することになっていた。
とにもかくにも、海外からの資源搬入、陸軍部隊の輸送など船団護衛を本腰で考える必要が生じた連合艦隊司令部ではあったが、作戦が進み物資輸送が増え、護衛しなければならない範囲も増大していくにつれ、連合艦隊では重要な輸送の度に有力な部隊が引き抜かれては作戦が成りたたくなるとの意見が出ており、艦隊司令部の主目的はあくまで「対米英作戦任務の立案・指揮が目的」であり船団護衛はちゃんと責任部門を作るべきだという声もあり…まぁ、つまりは面倒なことはやりたくないという本音があって…、その他にも、護衛の担当区域が分かれていたため、護衛対象が複数の区域を通過した際に引き継ぎなどで不利不便との声などもあったことから、その中で輸送任務は計画的に行うべきで一貫して護衛を行う専門の常設の艦隊・装備が必要ではないかという意見が通って、本当に遅まきながら昭和17年4月(!)に第1海上護衛隊(日本-シンガポール間)、第2海上護衛隊(日本-トラック間)が設立される。昭和18年に入ると船舶被害が急激に増加。第1、第2海上護衛隊を総括する部署として、昭和18年11月に海上護衛総司令部(以後、海上護衛総隊)が設立された。組織上、連合艦隊司令部と同列の位置づけだった。12月には対潜や護衛を主任務とする第九〇一海軍航空隊が編成され海上護衛総隊の直属部隊となった。
海上護衛を専門的に行う部署と言えば聞こえがいいが、アウトソーシングという名目で下請に丸投げしたようなものに等しく、専門部署が設立されたものの、配備された艦艇も少なく、装備は旧式が主体であった。当然というかなんというか、司令部といっても人員は足りず発足当時は常設艦隊司令部も無い有様とはいえ、無いよりマシとはいえた。…その時点では。
ちなみに海上護衛総隊司令部発足当時の人員数は司令長官(大将・中将)の下に、参謀スタッフが8名(少将1、大佐1、以下5名)。尉官が5名。下士官・水兵含めて36名。
多いか少ないかは当時連合艦隊司令部スタッフが総勢90名弱。各戦隊司令部が20名弱だったこと考えると色々…ではある。これで全船団の護衛をやろうと考えていたのなら…であるといえるだろう。
結局、海上護衛総隊では各護衛の艦隊司令部スタッフを構成することがままならず、昭和19年に特設護衛船団司令部制度を発足する。まぁ、これまた特設(臨時)なので指揮官も参謀スタッフも護衛にあたる艦艇もすべてその場その場の臨時編成だったため、効力を発揮できたのかといわれると…である。
(ちなみに大井篤本人は、連合艦隊司令部に対する文句を言い続けていたためか、後年連合艦隊司令部兼務扱いになっている…そもそもの護衛総隊司令部も戦後末期には連合艦隊司令部に吸収された。守る船もまねるべき船も無くなったためではある)
海上護衛総隊の悪戦苦闘
大井篤はこの海上護衛総隊に参謀として着任。以後、日本の海上護衛任務に苦労する羽目となっていく。
結論から言えば、大井篤ら海上護衛総隊はその任を確実にこなしていたか、といわれれば疑問符がつくのが実際である。致し方ない側面も多分にあるのだが。
機雷などで作った航路帯を作り潜水艦侵入を阻む、という当初のプランは、連合艦隊の無協力の結果充分な数の機雷を確保できずごく一部の沿岸部に安全地帯を作るのが精一杯。後期にはバラバク海峡など敵潜水艦の侵入路と予想された海峡などに機雷敷設を行ったが、敷設艦や機雷の不足により十分な効果を上げることはできなかった。
情報戦で優位に立つ米軍側に輸送船団の出発および途中の電信を傍受され(暗号解読され)、外洋で待ち伏せを受ける羽目になった。
海上護衛総隊の問題ではないが、当時の日本では戦前から第一次世界大戦の様子を踏まえて、国が輸送船の規格化を行おうという気雲が高まっており(これは諸外国も同様)、戦時標準船を考えだしていた。が、平時のことも踏まえた作りだったために性能はいいとしても生産性が上がっていない状況だった。ところが、あまりの輸送船喪失量にあわてて第一次戦時標準船と言われる国産輸送船の設計を見直し、スペックダウン(というかまぁ、極端に言えば手抜き)し生産性を高めた第二次戦時標準船建造をスタートしたのだが、これがひどすぎた。
この第二次戦時標準船、複数の型があったが殆どの型の航海速力は10ノットに満たず、工期短縮のため当時ですら常識的だった二重船底や隔壁すら省略されていた(さらに言えば戦争の間だけ持てばよいと1~2年[1]しか運用しないからとアチコチ端折った作りだった)。
ついでに言えば兵員輸送もこの第二次戦時標準船で行っていたのだが、数千人乗り込んでも兵員の甲板入り口は二つだけとか、一発でも魚雷食らえば即沈没間違いなしで避難もままならないという極悪なシロモノ。ついでにいうと戦争も中ごろを過ぎると造船所のかなりのところでグダグダとなり、満足に浮けば良しというような低品質のシロモノになった(これは色々な事情があり造船所職員、工員がフルタイムで従事できなかったという理由も遠因にあった。たとえば食糧を入手するために休んだりとか、彼らも生活があるので大変だったのだ)。
あまりの低品質ぶりに「轟沈型」と呼ばれるようになり、こんな船に誰が乗るかと民間船会社や船員達は抗議したのは言うまでもないが、当時の海軍および国は黙殺している。ちなみにアメリカ、イギリスが建造していたリバティ船、エンパイア船と言われる戦時標準船はこんな雑な作りでなかったことをも書いておく。
(二重船底を止めたのは松型駆逐艦も同様だが、この戦時標準船、松型駆逐艦とも、ブロック工法、電気溶接を導入し後の戦後日本における造船技術の貴重な一里塚となったのは確かではある。色々と複雑ではある…余談だが戦後、第二次戦時標準船を調査したGHQはあまりの粗製濫造に唖然となり、安全性の問題から運航禁止処置にしている。しかし、終戦直後の日本には新規に造船できるだけの余力が無かったので、大幅な改修を経た上で再就役させ、戦後日本の復興の礎となった。)
また装備・運用方法についても色々と問題があった。対潜装備として代表的なものにソナー(水中探信儀/聴音機)、レーダー(電探)、攻撃手段として爆雷だったのだが、ソナー一つとってしても大戦中に使用されたのは93式水中探信儀/聴音機(1933年開発)であり、後継機の研究は行われたものの10年あまりマトモに機材更新が行われなかった実情がある(後継機は3式…1943年になってから)。レーダーは一応モノにはなりつつあったが、肝心の夜間など潜水艦の潜望鏡を察知できるほど波長の短い高出力レーダーが開発されたわけではなかった。これら装備を運用する艦艇についても同様で、基本的には護衛駆逐艦、あるいはそれより小型で輸送船より若干優速であれば良い海防艦などがあればよかったが、戦前はあまり熱心ではなかった(さすがに開戦直前になって占守型をベースにした海防艦などの大規模建造がスタートするのだが。とはいえ、平時では予算の関係や抑止力維持などのため正面戦力の整備が優先されていたのは他国も同様であった。)。
対潜哨戒機である東海や既存の九六式陸攻などに搭載され運用がスタートした磁気探知など中々見どころもあったのは事実なのだが…。
またこれを運用する乗組員の訓練もあまり熱心なものとはいえず専門的に教育する対潜学校の前身でもある機雷学校が設立されたのは1941年という形であった。
このような状況で初期のアメリカ海軍潜水艦による通商破壊は緒戦の魚雷の大量喪失や搭載された魚雷の欠陥のため活発ではなかった。魚雷は当初はまともに爆発しないお粗末な代物だったが、大戦後半ともなると改良されその威力を発揮した。戦術も大西洋でドイツ海軍潜水艦部隊がしてみせたような群狼作戦をとり、3隻1グループが最大4グループ、つまり最悪の場合12隻が船団に一斉に襲いかかるのである。
米英が大西洋で行ったような船団を組むという案も、港の荷揚げ能力の関係で出る滞船や船団が組み上がるまで「遊び」の輸送船が出てしまい輸送効率が低下するという理由で認可されず、護衛には非効率な小船団もしくは単独航行をやらせざるをえなかったため、輸送船狩りに対する抵抗力はほとんどない有り様だった。
重要船団として指定された比較的大きな船団には海上護衛総隊の貴重な護衛艦艇である空母や海防艦をつけたものの、昼間はともかく夜間の監視能力が欠如していたため[2]船団の殆どが潜水艦の餌食となることもあった。このため喪失トン数は膨れ上がる一方だった。そして43年後半は潜水艦による通商破壊が本格化し、44年後半以後はここに米の空母機動部隊が日本の輸送路遮断任務にあたるようになったため、手も足も出ない状況に追い込まれていく。(戦線の縮小などもあり、それまでは数パーセントだった会敵率や損害率が増加。44年中頃には会敵率が100%を超える事態となった。)
その結果、先にも述べたように船舶喪失量は、昭和17年・1942年で100万トン、以後1943年200万トン、1944年400万トンと倍々ゲームのように膨らんでいくのである。
ちなみにその間日本の建造数は、30万→80万→175万と、喪失量を決して上回ることはなかった。必然と海上交通路は遮断されていくことになる。それにしても45年1月には40万トン以上が沈められ、他の月も20万トン近くかそれ以上が沈められた月が大半であり、45年8月までの喪失量は1943年と同様の180万トンに達していた(隻数で踏まえると(S43)463隻に対して(S45)791隻)。これが指し示す理由として国内沿岸を航行する小型の輸送船まで沈められるようになっていたことを示しており、資源搬入どころか国内の物流すら支障がでる始末になっていた。
さらに輪をかけたのは船員の問題もあった。戦時中大量に必要になる輸送船および海防艦などの乗組員が足りず、高等商船学校出身の船員を予備士官として扱うこととなった。教育期間は大幅に短縮され十分な技量・能力を持っているとは言えない状態で送り出されていった。また一般船員も徴用の対象となった。必然彼らは海軍兵学校出の士官よりも危険にさらされ、その若い命を海に散らしていくこととなる[3]。なお、徴用船員の徴用年齢は際限なく引き下げられていき、国民学校高等科卒業生までも徴用されるようになった。この国民学校高等科とは現在の学校制度では中学2年、すなわち14歳である。昭和19年の徴用船員の教育期間は2ヶ月。想像してほしい、14歳の子供が2か月間研修を受けただけで、武器も無しに地獄の戦場に送り込まれる姿を。現在、世界中の紛争地帯で少年兵の存在が問題視されているが、徴用船員はそれ以下の扱いだった。
ちなみ昭和19年、彼ら予備士官・徴用船員らに配布した輸送時にあたり心得を書いた冊子には、対潜水艦戦において必要なのは「大和魂・武士道精神であり」潜水艦は「心眼で見張れ」と述べている。
彼らに十分な装備、配慮、教育を施していればあたら失わずによかったかもしれない犠牲だったかもしれない。だが一部海軍士官の記述では対潜水艦戦において1)装備が足りなかったこと。2)商船学校出の予備士官らに能力・技量が足りてなかったこと。が敗北の理由であるという書かれ方をされる始末なのだが後世の我々からしてみれば1)まずもって海軍の認識が甘すぎたのが一因。2)予備士官らの能力・技量以前の問題で任務に当たる人員の命をないがしろにしていた。3)装備開発と運用方法が適切ではなかった。が正しいのではないかと思われるがどうだろうか。とはいえ、連合艦隊も含め戦力や装備が足りていなかったのも事実ではある。
また、このような認識であったためなのか、もうひとつの海軍の後継ともいえる海上保安庁、海上自衛隊のみならず日本の復興なった商船団・また近海で海軍に協力し命を失った漁民など決定的な対立を生む羽目ともなった(後述)。
ちなみに海の向こう、ドイツのUボートに苦しめられていた連合国軍、特に英国海軍は、開戦してしばらくの間は輸送船を単独航行させて多数の船がUボートの餌食になっていたのだが、オペレーションズ・リサーチ(OR)などによる定量的、統計学的アプローチなどにより船団形成を検討。船団数とその護衛にあたる艦艇数とその配置まで緻密に検証を重ね、改善を続けていった。また暗号解読も進める一方、哨戒機にソナー、レーダーを搭載。投射型対潜小型爆雷(ヘッジホッグ)などの装備を行い、対ドイツ、日本海軍への対潜水艦戦を戦い、Uボートの活動を封じ込めていくこととなるのだが、これに対して日本海軍の努力は足りていたのかということに対して、アメリカの支援があったことやドイツの水上戦力が小規模で対Uボートに注力できたことなども考慮する必要はあるが、良い比較対象にもなるだろう。
このように過程と結果の話しをかけば総じて海軍には色々な問題があった。海上護衛総隊の苦労を知ってか知らずか旧式とはいえ駆逐艦や潜水艦狩りのための航空機を運用する空母を固めたとしても連合艦隊がかっさらって損害を被って失うわ、せっかく開発し、配備を終えた対潜哨戒機部隊も同様に(誤報に終わった)台湾沖航空戦をめぐる戦いで連合艦隊が持っていき失ってしまうという始末。
しょうがないので連合艦隊に増援を求めると「商船護衛は我々の任務ではない」みたいなにべない返事。数少ない所属艦艇も前述の通り潜水艦にやられる始末なのだから、大井篤ら海上護衛総隊にとって満足な働きをできる状況ではなかったというべきだろう。
落日の海軍の中で
かくして1945年4月。大井篤氏のあの有名な言葉が残る事件が起きることになった。
1945年春。レイテ沖海戦後、海外のシーレーンはおろか内海の交通路すらアメリカ軍が投下する機雷で封じ込められ、国内の経済活動すらままならない状況の中で、必死にかき集めた大陸からの物資を持ち込む計画が立ち上がる。
海上護衛総隊に割り当てられた燃料を使えばなんとか護衛付で船団をもってくることができると大井篤ら参謀らは検討するが、そこで連絡が入り、総隊への燃料割り当てが半分以下に減らされるという内容が届く。
これでは作戦も十分に果たせないと、詳細の説明を求めた大井篤に応じた海軍参謀は、沖縄に向けて戦艦大和以下の艦艇をもって海上特攻を行うために燃料を回すのだということを明かした。
唖然とする大井に対して参謀は以下のように連合艦隊司令部の言葉を伝えることとなった。色々長い文章だったようだが、要点は最後にまとめられていた。
「・・・ここに海上特攻隊を編成し、壮烈無比の突入作戦を命じたるは、帝国海軍力をこの一戦に結集し光輝ある帝国海軍水上部隊の伝統を発揚すると共に、 その栄光を後世に伝えんとするに外ならず。」
つまり作戦成功の可能性は度外視で成算の望み少ない作戦に多数の人員、艦艇をつぎ込み、
「帝国海軍の伝統と栄光」のために貴重な燃料を使い切ろうというのだった。
ここにおいてついに大井篤は声を荒げた。それは国家の命運を誤まらせつづける組織で、力及ばずとも抗い続けた男の心の叫びでもある。
結果はいうまでもなかった。
天一号作戦に参加した第一遊撃部隊、戦艦大和以下軽巡1、駆逐艦8の艦隊は、沖縄へ向かう途中、航空兵力による迎撃(坊の岬沖海戦)を受け、大和となり作戦は中断。駆逐艦4隻のみが帰還した。
かくして日本海軍は貴重な燃料と、3,700名あまりの海軍将兵を失って最後の艦隊作戦行動を終えることになる。
冷静に振り返れば、日本海軍の規模で対米戦を行うにはもともと艦隊決戦志向にならざるをえず、海上交通路防衛の任務を果たしながらそれを行うには装備も心構えも覚悟もすべてが足りていなかったのかもしれない。対米戦が艦隊決戦と海上交通路防衛の両方が求められる国家総力戦になるということを理解せず、安易に強硬論を振りかざした戦前日本がたどり着いた必然的結末ともいえる。
前述した戦前あった日本の600万トンあまりの商船団は戦後直後、137万トンまですり減らされていた(若干数は海外に残っており、日本に戻れない状況であった)。
戦後、「海上護衛戦」の執筆へ
戦後、大井篤はこの海軍・海上護衛総隊で起きた出来事を一冊の本にまとめる。それが太平洋戦争を語る上で外せない名書のひとつともなった「海上護衛戦」である。
そこには日本海軍の海上交通路防衛に関する無定見さと問題がありありと記述されていた。
著者である大井篤氏の憤懣やるかたなしな心情(ついでに言えば海軍本流に対する恨み辛み妬み嫉み)もこれでもかと込められているために、読めばよむほど気がめいる内容で「血湧き肉踊らざる戦記」とも言われたこの本は出版当時、あまりにも生々しすぎて出てくる海軍士官名がすべてイニシャルで表現されていたほどである(現在入手できる本は実名表記)。
彼の怒りは度々言葉となって残っており、戦艦大和の生存乗組員らでつくられた会合に出ては
「貧乏人(日本)の娘(海軍)がとんでもなく高い晴れ着(大和・武蔵)を持っているようなものだ。それがあるばかりに、テスト前日というのに着飾って帝劇に行きたくなってくる。試験に落ちるのは当たり前だ。こんな馬鹿なことはない」
という言葉を残したという。
…気持ちはわかるけど生存乗組員にそんなこと言っても…なぁ。
それは戦争指導を行った軍令部であり、連合艦隊司令部にその責があるような…。
彼は以後、NHKの番組にも出演して海軍の海上護衛戦に対する不備を切々と説いている映像が残されている。
余談・海軍のその後
ちなみに戦後、日本海軍後継・末裔を自認する海上自衛隊であったが、戦後ながらくの間、民間船会社、船員および漁民との間の仲は決して良いものではなかった。
前述したように船員に対する戦時中の対応は決して良いものではなかったが故でもあるし、戦中、軍に徴用されて失われた民間船の賠償が行われなかった(厳密に言うと、賠償は形式的にしたのだが、その賠償金に100%の課税をしたため、相殺されてしまった。課税である以上、国会でそのための特別法である「戦時補償特別措置法」を制定して行ったということになる!)ためでもある。ほとんど非武装に近い大型漁船も日本の哨戒線警戒任務に就いて多くが失われたがこれに対する補償も…である。日本郵船などは戦時徴用でもって行かれた船のうち8割を失ったものの、損害賠償は行われていないという始末で、当然、海上自衛隊に対する風当たりは強いものだった。
また、海上自衛隊も前身である海軍が失われた理由を補うかのように、対潜水艦戦、機雷掃海能力に注力していくものの、海上護衛については「シーレーン防衛」、あるいは「千海里シーレーン防衛」とお題目を唱えるのみで、「何をどこからどれだけどうやって守るのか」という想定はついぞ聞けることなく額面のみのお題目でしかなかった。(そういう研究発表も許されない状況でもあり、民間ベースでしかなかったのもあるが)
海上自衛隊が、海軍の本分でもあり、日本海軍が決して十分に行ったとは言い難い船団護衛を実行に移すのは、その設立から半世紀後あまりたち、21世紀の世。ソマリア沖での海賊対策のための対処行動まで待つ必要があった。
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関連項目
脚注
- *設計段階では年間250万総トン建造可能であれば船の寿命は1年でもよいが、114万総トンに及ばない場合は5~10年位はほしいとされた。
- *特に空母は何れも搭載した哨戒機の活動ができない夜間に沈められている。
- *太平洋戦争での船員の死亡率は推定で43%になると言われ、約6万人が犠牲になったと言われる。
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