大内弘世(?~1380)とは、南北朝時代から室町時代にかけて活躍した武将である。
概要
大内氏とは百済の聖明王の末裔を称した周防の在庁官人で、鎌倉時代には御家人として活動していた。ところが元弘の乱の際嫡流の大内弘幸を差し置いて、叔父の大内長弘(鷲頭長弘)が家中を握り、宮方につくことになったのである。彼は、そのまま足利尊氏を支持したため、尊氏は長弘の戦功を認め、彼を周防守護につけ、嫡流である弘幸一門は雌伏の時を過ごしたのであった。
転機が訪れたのが1351年の鷲頭長弘の死である。その後彼の次男・大内弘直(鷲頭弘直)が跡を継いだが、大内弘幸の息子・大内弘世が巻き返しを図り、彼は南朝に帰順して1352年弘直を討ち取り、家中を統一したのである。
さらに1358年には隣国長門に侵攻し、北朝守護の厚東義武を九州に追い落として制圧したのである。このことは九州への出入り口である下関が封鎖され、室町幕府にとっては混乱する九州に援軍が送れなくなったことを意味するのだ。そこで幕府は大内弘世に周防だけでなく長門守護職も認め、1363年に彼を恭順させることに成功したのである。同年には山名時氏も幕府に帰順し、西国が幕府の勢力圏へと再び変じたのである。
一方、これに抵抗したのが厚東義武である。彼は1364年南朝に転じ、菊池・名和両軍と連合して打倒大内弘世の兵をあげたのである。弘世は敗戦続きで長門を失うこととなったが、厚東氏の内訌もあり1368年にふたたび長門を回復することに成功した。
こうして周防・長門をおさめた大内氏であったが、今川了俊が1375年に少弐冬資を誅殺したことで、幕府から距離を置くようになる。一方彼の息子である大内義弘は、了俊の弟・今川仲秋の娘婿であったため依然として了俊に協力し、親子関係にしこりを残したまま大内弘世は亡くなった。その結果息子の大内義弘と大内満弘の間で家督争いが勃発するのであった。
関連項目
- 1
- 0pt