大内惟義(?~?)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。
概要
義光流清和源氏のうち、信濃源氏平賀氏の出身。平賀義信の長男で、苗字は伊賀国大内荘に由来するとも、大内守護に由来するともいわれている(周防大内氏とは無関係)。
鎌倉側につく経緯は不明な点が多いが、当初は源義仲に従い彼と横田河原の戦いで越後城氏を破っている。1183年ごろには源頼朝の命を受けた武田信光が信濃出兵を行っており、この頃には父子そろって頼朝に従ったようだ。彼の父平賀義信は平治の乱で最後まで源義朝に従ったため、彼らの帰属を非常に歓迎した。
1184年の源義仲追討の際には源義経軍に加わり、戦後右衛門尉に任官。一ノ谷の戦いでも義経に従い、伊賀守護に任命されている。波多野盛通、大井実春、山内首藤経俊らとともに志田義広を討ち取るが、平信兼らの反乱に苦戦。惟義は援軍である加藤景員父子や山内首藤経俊を待たずに何とか押し切るが、かえって頼朝の叱責を受けたようだ。
その後も義経麾下で活躍し、1185年8月に相模守に任命された。父・平賀義信は武蔵守護であり、父子そろって信頼されていたのは変わらずだったようだ。義朝の遺骨が勝長寿院で葬られたとき、郭内に招かれたのは彼らと毛利頼隆の3人だけであった。
さらに1186年ごろには源義経追討のために在京しており、1187年には美濃守護在任が確認される。彼は鎌倉幕府では中央担当としてたびたび京都鎌倉を往復しており、奥州合戦の従軍、三左衛門事件の鎮圧、梶原景時与党の追補などを行っている。
1201年には駿河守に転じ、後鳥羽院との関係を深めている。異母弟・平賀朝雅誅殺に対し彼がどのような動向を示したかは不明である。ただしその後朝雅の伊賀・伊勢守護を与えられたようだ。さらに1214年ごろには摂津・越前・丹波の守護も兼ね、京を取り囲むこととなり、幕府、院双方から重用されていたことがうかがえる。1219年ごろ修理言大夫に任じられてしばらくして亡くなったとされる。
彼の場合は中央と幕府のパワーバランスの中うまく立ち回っていたが、息子の大内惟信は完全に京方に取り込まれてしまい、承久の乱の敗北で没落するも、清和源氏唯一の堂上公家・竹内家として現代まで生き残っている。
関連項目
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