大内義尊(おおうちよしたか)とは、周防の戦国大名・大内義隆の嫡男である。
また、弟・問田亀鶴丸(大内義教)、大内歓寿丸、大内義胤が、姉に大内珠光がおり、ここのページでは5人姉弟全員紹介し、年齢順とする。
本当は6人姉弟共言われているが混同されている箇所もある。
あらかじめ表記しておきますが、このページには性的表現が含まれていることもあるので閲覧する時はくれぐれもご注意下さい。
大内珠光(おおうちじゅこう 1537-1551)
陶隆房が隠居したり謀叛を起こそうとしたりという風聞が大内家中に流れて不穏な雰囲気になると、父は隆房の子・陶長房に珠光を嫁がせようとした。
しかし、隆房は適当な理由でこれを拒否した。(前年にも相良武任の娘と陶長房の婚姻を断っている。)
大寧寺の変では父が落ち延びるよう促すが、これを拒否して父と共に自害した。
大内義尊(おおうちよしたか 1545-1551)
大内義隆の嫡男で読みは父と同じ。父の養子であった大内晴持の死後の待望の嫡男であり大内家に光が差し込んだ時であった。(一瞬だったが。)
大寧寺の変では父と姉らと共に一緒に行動していたが義尊は若年の武将・小幡義実に護られて脱出した。
しかし、あっけなく父が自害した日に捕らえられて翌日に斬首された。
問田亀鶴丸/大内義教(といだきかくまる/おおうちよしのり ????-1557)
大内義隆の次男。母が内藤興盛の娘で問田殿であったことから問田姓と称した。(同じ大内家臣・問田隆盛とはなんら関係もない。)
幼少の身であり、弟・歓寿丸と違って内藤興盛の外孫ということもあったので助命される。
毛利元就によって大内家が滅亡すると、遺臣によって大内家再興の名目として擁立されて挙兵する。
なお、93歳まで生き延びて酒造業を営んだ説もある。
大内歓寿丸(おおうちかんじゅまる 1548-1552)
大内義隆の三男。(四男というのもある。)当時は弟・義胤が誕生する前だったので『義隆の末子』と表記するものも少なくない。
大寧寺の変が起きた時は家臣によって女装して長門国内の山中に逃げ込み難を逃れた。
しかし陶晴賢(隆房から改名)の捜索はしつこく、翌年春には発見されて男児の証拠としてペニスを切り取られてペニスは晴賢のもとへと送られてしまった。
5歳児のペニスを切り取って主君に送りつけるとは鬼畜の所業である。
現在山口県長門市の俵山温泉近くに歓寿丸の霊を慰めるための麻羅観音という社を建設した。
ここはとにかく歓寿丸を祀っていることもあり、ペニス像が数百数千あり石製の他に木造や金属製も存在している。(ただ金属製は根元は錆びている。)
効果は子宝繁栄・安産祈願・縁結びなどとされており、県内外から訪れる人は少なくない。(アレ見たさの人が多いと思うが・・・)
数は日本一という。
大内義胤(おおうちよしたね 1551-????)
大内義隆の末子。大寧寺の変が勃発した時は母は身重の状態であったとされ、1552年生まれの可能性もあるが1551年と表記する。
どこで出産したかは不明だが、益田家臣・城一正納の食客となり、石見の豪族・福屋正兼の娘を娶り、のちに大石姓と称して血脈を伝えた。
関連項目
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