概要
大原美術館は、実業家の大原孫三郎が、画家の児島虎次郎が収集した作品と児島の作品を基にして建てた美術館である。この美術館があるのは、岡山県倉敷市の中でも江戸時代の街並みがそのまま残っており、観光地として有名な美観地区である。川を挟んで反対側には、大原孫三郎が住んでいた「旧大原家住宅」がある。
収蔵されている作品の中でも特にエル・グレコの『受胎告知』が有名であり、実際大原美術館にはこの1作だけを飾っているスペースがわざわざ作られているほどである。
大原美術館が創設されたのは1930年と、代表的な西洋美術館であるブリヂストン美術館(1952年創設)や国立西洋美術館(1959年創設)よりもずっと早い。そのため、大原美術館は「日本初の西洋近代美術館」と紹介されることがあり[1]、更には「日本で初めての美術館」などと紹介されることもある[2]。
特徴
美術館は本館、分館、工芸館・東洋館に分かれている。本館は古代ギリシャやローマ風の建物である一方で、敷地内には新渓園と呼ばれる日本庭園があり、周辺の江戸時代風の街並みと合わせ、和と洋が入り混じった独特な雰囲気を醸し出している。
本館には、主に西洋や古代オリエントの美術品と大原美術館設立に関わった児島虎次郎の作品が展示されている。分館には主に日本人の作品が展示されている。そして、東洋館・工芸館には器や染物などの日本の工芸品、版画、古代中国の遺跡から発掘されたものが展示されている。また、美術館設立当時の作品だけでなく、その後の蒐集した現代アートと言えるような作品も多数展示されている。以上のことからわかるように、年代、地域、作品形態などの異なるものが幅広くまとめて展示されている。
即ち、大原美術館は外観にしても収蔵作品にしても、様々な文化が入り混じった美術館である。
歴史
倉敷の大地主で実業家の大原孫三郎(1880-1943)が行っていた事業の1つ「大原奨学会」で、児島虎次郎(1881-1929)は奨学生となり絵の勉強をしていた。1907年に児島は東京府主催勧業博覧会の美術展に2作品を応募し、1作が入賞、もう1作が1等賞に輝いた。さらに1等賞の作品は昭憲皇后の目に留まり、当時の宮内省のお買い上げとなった。このことに喜んだ孫三郎は、児島に5年間の欧州留学をプレゼントした[3]。
その後、2回目の海外留学を許可されると児島は自分のように海外の作品に触れられている人が日本にはまだ少ないことを鑑みて、「日本にいる画家たちの勉強のために、本物の西洋絵画を買ってほしい」と孫三郎に進言した。後に孫三郎はこれを許可し、児島が美術品の収集をした。これらの収集作品を地元倉敷の小学校で展示したところ、予想外の盛況を見せたため、孫三郎は美術館建設を計画し始めた。
しかしそのような中、児島が47歳の若さで亡くなってしまう。そこで孫三郎は、児島の作品と児島が収集した作品を展示するために1930年に大原美術館を創設した。
1943年に孫三郎が亡くなると、息子の總一郎(1909-1968)が跡を引き継ぎ、日本近代洋画や西欧の前衛芸術などを精力的に収集し続けた。また美術館の拡張も行い、1961年には分館、工芸館が、總一郎が亡くなった後の1970年には工芸館に付随する東洋館が作られた。
その後、總一郎の息子の謙一郎が理事長を務め[4]、2016年からは謙一郎の娘のあかねが理事長を務めている。
主な収蔵作品
- エル・グレコ『受胎告知』
- ポール・ゴーギャン『かぐわしき大地』
- クロード・モネ『睡蓮』
- オーギュスト・ロダン『カレーの市民ージャン=デール』
- ジョルジョ・デ・キリコ『ヘクトールとアンドロマケーの別れ』
- レオン・フレデリック『万有は死に帰す、されど神の愛は万有をして蘇らしめん』
- 児島虎次郎『里の水車』
- 岸田劉生『童女舞姿』
- 熊谷守一『陽の死んだ日』
- 棟方志功『美尼羅牟頌板画柵』
入館料・定休日・開館時間・アクセス
入館料
一般:1300円
大学生:800円
高校・中学・小学生:500円
入館券は本館、分館、工芸・東洋館でそれぞれ入館時にスタンプを押してもらう形式になっており、入館していない館なら購入当日でなくても入ることができる。
開館時間
定休日
アクセス
美観地区までは、駅の南口から出てそのまま真っ直ぐ歩けば辿り着く。
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関連項目
脚注
- *兼田麗子『大原孫三郎―善意と戦略の経営者』(中央新書,2012)p. 178
- *大原美術館監修『大原美術館で学ぶ美術入門』(JTBキャンパスブック,2006)p. 91
- *児島虎次郎「里の水車」
- *大原美術館のあゆみによると謙一郎は第4代理事長となっている。第3代が誰かいるはずだが調べた限りでは不明。
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