大政翼賛会単語

タイセイヨクサンカイ

大政翼賛会(たいせいよくさんかい)とは、日本の結社である。

概要

1940年に一部を除いた日本の全ての政党が合流することにより結成された。
この経緯から、「一一党の政治体制」とされることもあったが、「国体に反する」とのとの整合性から「大政翼賛会」は政党なのかという疑問が結成当時から発生した。

大政翼賛会は『事結社』という組織であるが、『事結社』自体が昭和十六年十二月二十一日(西暦1941年12月21日)施行の「言論、出版、集、結社等臨時取締法」による独自の概念である。

結成から解散までの間に衆議院議員選挙があったが、「翼賛政治体制協議会」として381議席を獲得した。

大政翼賛会によって構築された戦時中の体制を「賛体制」と呼ぶ。

大政翼賛会結成の経緯

大政翼賛会が結成された経緯としては結成の10年以上前に遡ることになる。

1928年の第1回普通選挙立憲政友会立憲民政党が議席を五分五分に分け合う形になって2大政党がそれぞれ過半数を取れなかったことから双方の党が党利党略で議会運営を行うようになり、その後は政友会と民政党選挙のたびに大勝と大敗を繰り返すようになり、党利党略は議会および政党政治を腐敗させた。

特に問題になったのが1930年の衆議院選挙で、このときは浜口内閣民の人気を得ていたこともあり民政党が政友会に99議席差をつける大勝で浜口内閣は盤石の基盤を作ることになるが、それに対抗した当時の政友会総裁の犬養毅が民政党を追い落とす切り札として統帥権を持ち出して浜口内閣が推し進めたロンドン軍縮会議にケチをつけて倒閣運動を始めたことである。当時は昭和恐慌で経済は混沌を極め、内ではナショナリズムが台頭、そのなかでも有名な右翼であった北一輝する統帥権干犯を政友会総裁の犬養毅が採用して軍と結託して統帥権を振りかざして浜口内閣に大打撃を加えたのである。

国会の大政党の総裁が右翼をそのまま採用してしまう時点で国会議員ひいては政党として相当に問題があったのだが、統帥権干犯を振りかざして浜口内閣を責め立てる犬養毅の熱弁はラジオ放送されて民に知れ渡り、次第に浜口内閣が押されだして浜口首相が襲撃されて後に死亡する事態になり、2年後の衆議院選挙では政友会が民政党155議席差をつける圧勝、総裁の犬養毅は総理大臣に就任した。

統帥権を振りかざして見事選挙に大勝して総理の座を獲得した犬養毅であったが、その犬養自身が自ら振りかざした統帥権に飲み込まれ、2年後に軍の青年将校に殺されることになる。あくまで軍を利用して与党と内閣を倒す手段であった統帥権という猛衆議院政党政治そのものを蝕んでいくことになる。

これ以後は政府内閣が軍の横暴を抑えられなくなり、満州事変から始まった軍部の独断による大陸侵略において、軍部に都合が良い方の政党に軍部が加担して政党政治に介入するようになり、こうなると内閣は軍部の言い分をまざるを得なくなり、内閣政党は軍部の事実コントロールされることになった。

この状況を打破するためには政党同士で争っている場合ではない、という考えから軍部の横暴に対抗するために衆議院一致団結しようという動きが生まれ、それが大政翼賛会が結成されるきっかけとなった。

大政翼賛会の実態

軍部の横暴に対抗するための衆議院一致団結、という的で1940年10月12日大政翼賛会が発足した。

当時は非合法の日本共産党を除く全ての政党が解散したうえで結成した大政翼賛会であったが、実際に結成したとはいえ政友会と民政党の出身議員が大半を占め、その政友会と民政党は軍部の横暴に振り回されっぱなしであったことから一致団結したところで軍部を敵に回してでも横暴に対抗するというような覚悟はなく、これまでの党利党略と軍部との利一致で進められてきた議会運営を刷新することはできなかった。

結局、日中戦争の泥沼のなかで大本営が政治を握る戦時体制の当時では大政翼賛会も軍部に配慮したものにならざるを得ず、また軍部の賛同を仰がねば大政翼賛会の内部で意見をまとめることも出来なかったため、軍部の横暴に対する議会の一致団結という当初の的はしょっぱなから抜きになってしまい、単なる軍部の応援団に成り下がってしまった。

こんな経緯で誕生したため大政翼賛会には綱領すら存在せず、もはや政党として機していなかった。

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大政翼賛会

5 ななしのよっしん
2015/04/29(水) 18:46:09 ID: lOh417wkrT
ナチ共産党国家の上にたち、民を党員が「導」するという体制だった。それはとても効率的で、当時はよく支持されたので、だから日本戦争効率を上げるためにそれを導入しようとした。

しかし、国家の上には天皇がおり、全体主義体制を敷こうとすると、天皇がないがしろになるというジレンマが発生する。なら、ヒトラースターリンの地位を天皇が座れば丸く収まるのだが、その天皇自身が「立君主制で」と寝言を言うからめんどくさい。

結局日本は「集団義」ではあったけど、いわゆる「全体主義」ではなかった。導者原理を働かせようとして機しなかっただ。
6 ななしのよっしん
2015/08/29(土) 09:27:19 ID: OF0TrRpYIg
>>5
政治的体制な意味での全体主義ではなかったけど、時の権者たちがそれをしていたことは確かだな。
君主制における徴として自制していた天皇を都合のいい傀儡に仕立て上げようとし、日本を泥沼の戦争状態へ叩き落した。

GHQがせっかく町内会を大政翼賛会末端組織として解体してくれたのに再編し、報酬どころかを取られて滅私奉を強制され、自治体も己の義務を果たさず町内会に依存している。この現状を見るに、日本人のやたら群れたがる性質は実に全体主義に向いているといえる。
7 ななしのよっしん
2016/04/08(金) 00:41:43 ID: z/4E3R9XaB
正直ナチスの鉤十字も大政翼賛会マークもかっこいい
8 ななしのよっしん
2016/09/02(金) 18:12:02 ID: bJPvOUdSXg
ナチスソ連共産党みたいな全に党が独裁権を握るようなもんじゃないし
イギリスの挙一致内閣の方がノリが近い気がするよな
9 ななしのよっしん
2017/05/13(土) 00:19:34 ID: 8iNHPuWQuV
ナチスの鉤十字的扱いを旭日旗が背負ったせいでシンボルマーク
があまりファシズム日本イメージとして使われず、左にも
右にも視されてるのがなんか不思議な印がある。
あとデザイン的に日の丸シンプルさが日本的で
けっこう好きなんだけど、だと思ってたらだった
んだね…西洋の平和徴かつ、日本神話の戦いの八幡
使ななのは深いなぁとか思ってたのが恥ずかしい……

10 ななしのよっしん
2017/09/30(土) 19:22:12 ID: Hj/UpfeN7V
当時の空気が分からないから「勝ちに乗り遅れるな」的な一時的熱狂だと思ってたけど
実際に左政党賛するのをにするとそれだけじゃないっぽいね

当時の新聞がテレビに代替わりしただけで
マスメディアの大衆迎合と政策軽視が長い時間をかけて政治に浸透することで起きるんだな
政党名は政治的立場を意味するもの」っていう感覚がまだ残ってるうちは起こらない
11 ななしのよっしん
2017/10/01(日) 18:34:55 ID: Ign2ZHGf8R
大政翼賛会って治安維持法の適用対じゃね?」というツッコミ帝国議会に上がった話最高に笑える。
12 ななしのよっしん
2018/01/08(月) 22:49:38 ID: bNNFooFy+j
立法権、法権、行政権、加えて統帥権あたりも大政翼賛会に一元化したいって構想は
各分野のスペシャリストがそれぞれ天皇を協賛、弼(代行)する
大日本帝国憲法の構造にっ向から反しているシロモノだからね
もちろん結成当初から抜きにされたある意味ギャグな組織
13 ななしのよっしん
2019/02/22(金) 23:18:41 ID: umDRXORypi
政党同士の争いを終止符を打つために、全政党を統合してしまえばいいんだ!

政党閥に取って代わっただけで内部対立しいこと変わらなかったし、単一の政治による国家運営とか天皇大権への侵じゃね?という疑問が発生

……ほんと、なんのために作ったのかがわからないの存在
14 ななしのよっしん
2019/05/07(火) 00:19:58 ID: UwSGGArCWk
議会の外で寝技やり放題じゃん