大政翼賛会 | |
たいせいよくさんかい - Imperial Rule Assistance Association |
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基本情報 | |
公用語名称 | 大政翼賛会 |
国・地域 | 日本 |
本部所在地 | 東京府東京市麹町区 |
成立年月日 | 1940年10月12日 |
解散年月日 | 1945年6月13日 |
機関紙 | 大政翼賛 |
国際組織 | -- |
シンボル | -- |
公式サイト | -- |
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概要
1940年に一部を除いた日本の全ての政党が合流することにより結成された。
この経緯から、「一国一党の政治体制」と主張されることもあったが、「国体に反する」との主張との整合性から「大政翼賛会」は政党なのかという疑問が結成当時から発生した。
大政翼賛会は『公事結社』という組織であるが、『公事結社』自体が昭和十六年十二月二十一日(西暦1941年12月21日)施行の「言論、出版、集會、結社等臨時取締法」による独自の概念である。
結成から解散までの間に衆議院議員選挙があったが、「翼賛政治体制協議会」として381議席を獲得した。
大政翼賛会によって構築された戦時中の体制を「翼賛体制」と呼ぶ。
大政翼賛会結成の経緯
大政翼賛会が結成された経緯としては結成の10年以上前に遡ることになる。
1928年の第1回普通選挙で立憲政友会と立憲民政党が議席を五分五分に分け合う形になって2大政党がそれぞれ過半数を取れなかったことから双方の党が党利党略で議会運営を行うようになり、その後は政友会と民政党が選挙のたびに大勝と大敗を繰り返すようになり、党利党略は議会および政党政治を腐敗させた。
特に問題になったのが1930年の衆議院選挙で、このときは浜口内閣が国民の人気を得ていたこともあり民政党が政友会に99議席差をつける大勝で浜口内閣は盤石の基盤を作ることになるが、それに対抗した当時の政友会総裁の犬養毅が民政党を追い落とす切り札として統帥権を持ち出して浜口内閣が推し進めたロンドン海軍軍縮会議にケチをつけて倒閣運動を始めたことである。当時は昭和恐慌で国内経済は混沌を極め、国内ではナショナリズムが台頭、そのなかでも有名な右翼であった北一輝が主張する統帥権干犯を政友会総裁の犬養毅が採用して海軍と結託して統帥権を振りかざして浜口内閣に大打撃を加えたのである。
国会の大政党の総裁が右翼の主張をそのまま採用してしまう時点で国会議員ひいては政党として相当に問題があったのだが、統帥権干犯を振りかざして浜口内閣を責め立てる犬養毅の熱弁はラジオ放送されて国民に知れ渡り、次第に浜口内閣が押されだして浜口首相が襲撃されて後に死亡する事態になり、2年後の衆議院選挙では政友会が民政党に155議席差をつける圧勝、総裁の犬養毅は総理大臣に就任した。
統帥権を振りかざして見事選挙に大勝して総理の座を獲得した犬養毅であったが、その犬養自身が自ら振りかざした統帥権に飲み込まれ、2年後に海軍の青年将校に殺されることになる。あくまで軍を利用して与党と内閣を倒す手段であった統帥権という猛毒は衆議院と政党政治そのものを蝕んでいくことになる。
これ以後は政府と内閣が軍の横暴を抑えられなくなり、満州事変から始まった軍部の独断による大陸侵略において、軍部に都合が良い方の政党に軍部が加担して政党政治に介入するようになり、こうなると内閣は軍部の言い分を呑まざるを得なくなり、内閣と政党は軍部の事実上コントロールされることになった。
この状況を打破するためには政党同士で争っている場合ではない、という考えから軍部の横暴に対抗するために衆議院が一致団結しようという動きが生まれた。その一致した考えを持ちつつあった衆議院において強力に政治を推し進める組織を作りたいと考えていた当時の総理大臣の近衛文麿は新体制の構想に着手、新たな国民統括組織として大政翼賛会を発足させた。
大政翼賛会の実態
軍部の横暴に対抗するための衆議院一致団結、という目的で1940年10月12日に大政翼賛会が発足した。しかし軍部もまた日中戦争が中国の首都の南京を陥落させても終結せず、国民党政権との講和の見通しが全く立たなくなったことから戦争長期化に備えて国内構造を戦時体制に持ち込みたいと考えていた。その考えを実行に移すのに都合の良かった大政翼賛会は軍部に大いに利用されることになる。
翼賛体制
日中戦争の長期化に備えて国家を戦時体制に移し、国民は団結して戦争の終結に向けて頑張る挙国一致体制を作る、これが近衛文麿が想定していた大政翼賛会の意義であった。しかし早期の戦争終結は同じでも政府側は好条件での早期講和であり、一方の軍部はあくまで中国国民党政権を屈服させて勝利する、というように両者の理想はかけ離れており、『要は中国に勝てば全て解決する』と言う結論で次第に軍部の思惑通りに大政翼賛会の理想は捻じ曲げられて行く。
大政翼賛会発足当初は近衛文麿が推していた昭和研究会などの知識人を中心とした早期戦争終結を目指す穏健派の有力者が集められていたが、戦争遂行を推し進める軍部や軍需産業関連の資本家や右翼が昭和研究会を目障りに感じはじめ、少し経つと昭和研究会は共産主義者だとレッテル貼りをした中傷が相次ぎ、世間もまた戦争遂行の邪魔をしている売国奴と見なして批判するようになる。
大政翼賛会発足から僅か2ヶ月の1940年12月には近衛総理の直属であった企画院の革新派の官僚らが共産主義者だとして特高警察に逮捕される企画院事件が起き、大政翼賛会の中の穏健派の知識人も一斉に疑いをかけられて排除されていき、軍部に都合の良い組織へと変えられて行った。
隣組
大政翼賛会の主張や考えを全国に波及させるために作られた体制のこと。
各道府県知事がそれぞれの道府県の大政翼賛会支部長となり、市町村長が支部、さらに各町内に町内会長が置かれて各地域の統括を行い、町内会組織においては隣組と呼ばれる地域監視組織が作られ、町内で翼賛体制の邪魔になるものがいないかを相互監視する隣組員が配置された。
町内会での隣組における支部からの伝達には各家庭に回し読みする回覧板が使われた。皮肉にも現在の町内会などの地域の自治組織の基礎は大政翼賛会のアイディアによるものが多いのである。
機能不全
結局、日中戦争の泥沼のなかで大本営が政治を握る戦時体制の当時では大政翼賛会の主張も軍部に配慮したものにならざるを得ず、また軍部の賛同を仰がねば大政翼賛会の内部で意見をまとめることも出来なかったため、軍部の横暴に対する議会の一致団結という当初の目的はしょっぱなから骨抜きになってしまい、単なる軍部の応援団に成り下がってしまった。
実際に翼賛体制になった以降の国会では総理大臣の主張が演説されることに対し、議員は異論や反論、質問などをすることは無く、ただただ拍手喝采を行って政府の方針に賛同するだけ。もはや議会は議論の場ですらなくなっていたと言える。しかも大政翼賛会には綱領すら存在せず、政党として機能していなかった。
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