大日本帝国陸軍単語

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大日本帝国陸軍とは、大日本帝国の栄えある皇軍のなかの陸軍部隊である。

日本陸軍最強伝説

世界最強の軍隊であり、九七式中戦車チハ一式戦闘機」は中国共産党の発表によると支那5000万人を殺傷したとのことである。

ドイツティーガー戦車アメリカグラマン戦闘機の戦果を圧倒的に上回っている!
大日本帝国の技術世界一ィィィィィ!

また、アメリカ陸軍などとべ物にならないほど余裕があった為、自前の空母潜水艦を持っていた!
陸軍空母潜水艦を保持した大日本帝国のみである!

 

やったッ!! さすが大日本帝国陸軍!

おれたちにできない事を然とやってのけるッ!

そこにシビれる!あこがれるゥ!

               . -―- .      
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    , ヘー‐- 、 l  | /^''⌒|  | | ,ゝ )、,>(_9,`!i!}i!ィ_9,) |人
  -‐ノ .ヘー‐-ィ ヽ  !‐}__,..ノ  || /-‐ヽ|   -イ,__,.>‐  ハ }
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世間では『九七式中戦車は弱い』だの『日本軍最強戦車鹵獲したM3軽戦車』って言う人がいますがとんでもない誤解である!

ソ連英雄ゲオルギー・ジューコフ元帥ウィキペディアで調べたところによると、「生涯で最も苦しかった戦いは何だったか」と問われた際も、即座に「ハルハ河」(ノモンハン事件)と答えている!

おお、何ということでしょう!強ティーガー戦車マウス戦車を擁するナチス・ドイツと戦った時よりも、大日本帝国陸軍の九七式中戦車チハと戦う方が苦戦したとは!

また、航空部隊の活躍も素らしく、九七式戦闘機ソ連戦闘機を合計1252機』撃墜している!
凄いぞ!これはメッサーシュミットなんぞ較にならない戦果である!

これを総合するとナチスの技術よりも大日本帝国の技術が優れていたということですな!
否定するやつは『シベリア送り』だ!

概要

大日本帝國陸軍は、明治4年 - 昭和20年までに存在していた組織である。単に陸軍帝国陸軍と呼ばれた。現在は、旧日本軍もしくは旧帝国陸軍という名称も使用される。

誕生

明治四年、薩摩長州・土佐から徴集され組織された天皇直属の御兵から始まる。
初めは士族(武士)中心だったが、徴兵制度を外から輸入して民皆兵をした。
士族は反発して西郷隆盛を中心した士族が反乱を起こすが、農民・商人部隊がこれを撃破した。

幕末から陸軍フランス軍式の訓練方法だったが、1885年にドイツ軍参謀少佐クレメンス・メッケルが来日。三年間、教を執り、そのを受けて、フランス陸軍式から、ドイツ陸軍式に転換することになった。
初期の歩兵操典はドイツ陸軍操典を和訳したものであった。

組織

大日本帝国憲法では軍事大権について内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属するものとされた。したがって、陸海軍の最高指揮官は大元帥たる天皇ただ一人であり、陸軍については陸軍大臣・参謀総長・教育総監が天皇を除く最高位にあり、これらは陸軍三長官と呼称された。なお、三長官には陸軍大将ないし陸軍中将が任命されるため、役職自体は陸軍の最高位といえど階級自体は必ずしも最高位の者がなるものではなく、特に歴代の陸軍大臣と教育総監には少なくない陸軍中将が補職されている。

この三長官の補佐機関として、「省部」や「中央」とも呼称される陸軍省・参謀本部・教育総監部の3つの官衙(役所)が設けられており、陸軍大臣が軍政・人事を、参謀総長が軍作戦・動員を、教育総監が教育をそれぞれっていた。また、三機関の序列第2位の次席相当職として陸軍次官(陸軍省)・参謀次長(参謀本部)・教育総監部本部長教育総監部)がある。

昭和13年12月航空の拡独立および統率柔軟化のため陸軍航空総監部が新設。航空総監を長とし、航空関連学校など航空隊の教育った。末期には航空関連学校ともども戦化され、航空総監部は止、航空総軍に編された。

参謀本部は戦時・事変時に陸海軍の最高統帥機関として設置される大本営において大本営陸軍部となり、大元帥の名において発する大本営陸軍部命を作成する存在であるが、これをもって参謀総長がいわゆる陸軍最高指揮官となるわけではない。なお、教育総監は帝国陸軍の教育握する建前であるが、憲兵・経理・衛生・法務や機甲・航空、参謀・諜報といった特定職務に関係する学校等は、それぞれ陸軍省・参謀本部・航空総監部やその外局の管轄である。

帝国陸軍の組織は、役所である官衙・部隊組織である軍隊・将兵を養成ないし再教育する学校と、これらのいずれにも属さない特務機関とに区分されていた。

階級

帝国陸軍においては戦闘職種および憲兵兵科(へいか)、支援職種を各部(かくぶ)とし、合わせて兵科(へいかぶ)と称した。歩兵科・砲兵科・騎兵科・工兵科・輜重兵科航空兵科兵科区分は、昭和15年正により憲兵を除き止されまとめて「兵科」とし、また、兵科「定色」(兵科色)も止された。なお、これはあくまで従来の兵科区分を撤しただけであり、広義の意味で戦闘職種を意味する「兵科」の呼称や職種を更に細分化した「兵種」、および各部と各部「定色」は存続している。建軍最初期の僅かな期間を除き、日本海軍において元帥は階級ではなく、元帥府に列せられた陸海軍大将に与えられる称号である(名誉職)。帝国陸軍においては大将から少尉将校、准尉を准士官、曹長から伍長下士官兵長から二等兵までをと称していた。将官のうちの大将任官、中将少将は勅任官、佐官・尉官は奏任官、准士官・下士官は判任官でこれらは武官たる官吏となり、これらの階級に任命される際には任官と称する。兵は民の義務たる兵役によって軍隊に入隊し与えられる階級であるため、官吏ではなく任官とも称しない。なお陸軍予科士官学校陸軍幼年学校陸軍少年飛行兵学校などに属する陸軍生徒は階級を定されない。

なお、昭和7年正されるまでは下士官を下士、兵を卒(「一等兵」は「一等卒」、「二等兵」は「二等卒」)と、同年2月正されるまでは「准尉」を「特務曹長」と称していた。また、各部の相当官制は止され兵科に準ずることとなり(旧・各部将校相当官は「各部将校」)、階級呼称も同様になった(例:「陸軍軍医総監」を「陸軍軍医中将」、「陸軍一等剤正」を「陸軍大佐」、「陸軍一等計」を「陸軍大尉」、「陸軍上等蹄工長」を「陸軍医務准尉」、「陸軍一等楽手」を「陸軍軍楽曹長」、「陸軍上等看護兵」を「陸軍衛生上等兵」など)なお、「兵長」は昭和15年に新設されたものである。「准尉」は叩き上げの古参下士官が任官する階級(判任官たる将校待遇の下士官)であり、「見習士官」(階級は曹長)や士官補生たる士官学校本科及び航空士官学校生徒(階級は軍曹)とは全く異なる位置づけである。

陸軍軍人の階級
階級 兵科 各部
技術部 経理部 衛生部 医部 軍楽部 法務部
  憲兵 建技 軍医 歯科医 衛生 医務 法務 法事
元帥
天皇陛下
元帥大将 元帥陸軍大将(名誉職)                        
大将 陸軍大将                        
中将 陸軍中将 陸軍技術中将 陸軍中将 陸軍建技中将 陸軍軍医中将 陸軍中将 陸軍歯科医中将   陸軍中将     陸軍法務中将  
少将 陸軍少将 陸軍技術少将 陸軍少将 陸軍建技少将 陸軍軍医少将 陸軍少将 陸軍歯科医少将   陸軍少将     陸軍法務少将  
大佐 陸軍大佐 陸軍憲兵大佐 陸軍技術大佐 陸軍大佐 陸軍建技大佐 陸軍軍医大佐 陸軍大佐 陸軍歯科医大佐   陸軍大佐     陸軍法務大佐  
中佐 陸軍中佐 陸軍憲兵中佐 陸軍技術中佐 陸軍中佐 陸軍建技中佐 陸軍軍医中佐 陸軍中佐 陸軍歯科医中佐   陸軍中佐     陸軍法務中佐  
少佐 陸軍少佐 陸軍憲兵少佐 陸軍技術少佐 陸軍少佐 陸軍建技少佐 陸軍軍医少佐 陸軍少佐 陸軍歯科医少佐 陸軍衛生少佐 陸軍少佐 陸軍医務少佐 陸軍軍楽少佐 陸軍法務少佐 陸軍法事少佐
大尉 陸軍大尉 陸軍憲兵大尉 陸軍技術大尉 陸軍大尉 陸軍建技大尉 陸軍軍医大尉 陸軍大尉 陸軍歯科医大尉 陸軍衛生大尉 陸軍大尉 陸軍医務大尉 陸軍軍楽大尉 陸軍法務大尉 陸軍法事大尉
中尉 陸軍中尉 陸軍憲兵中尉 陸軍技術中尉 陸軍中尉 陸軍建技中尉 陸軍軍医中尉 陸軍中尉 陸軍歯科医中尉 陸軍衛生中尉 陸軍中尉 陸軍医務中尉 陸軍軍楽中尉 陸軍法務中尉 陸軍法事中尉
少尉 陸軍少尉 陸軍憲兵少尉 陸軍技術少尉 陸軍少尉 陸軍建技少尉 陸軍軍医少尉 陸軍少尉 陸軍歯科医少尉 陸軍衛生少尉 陸軍少尉 陸軍医務少尉 陸軍軍楽少尉 陸軍法務少尉 陸軍法事少尉
准尉 陸軍准尉 陸軍憲兵准尉 陸軍技術准尉 陸軍計准尉 陸軍建技准尉       陸軍衛生准尉   陸軍医務准尉 陸軍軍楽准尉   陸軍法事務准尉
曹長 陸軍曹長 陸軍憲兵曹長 陸軍技術曹長 陸軍計曹長 陸軍建技曹長       陸軍衛生曹長   陸軍医務曹長 陸軍軍楽曹長   陸軍法事務曹長
軍曹 陸軍軍曹 陸軍憲兵軍曹 陸軍技術軍曹 陸軍軍曹 陸軍建技軍曹       陸軍衛生軍曹   陸軍医務軍曹 陸軍軍楽軍曹   陸軍法事軍曹
伍長 陸軍伍長 陸軍憲兵伍長 陸軍技術伍長 陸軍伍長 陸軍建技伍長       陸軍衛生伍長   陸軍医務伍長 陸軍軍楽伍長   陸軍法事伍長
兵長 陸軍兵長 陸軍憲兵兵長 陸軍技術兵長           陸軍衛生兵     陸軍軍楽兵長   陸軍法事兵長
上等兵 陸軍上等兵 陸軍憲兵上等兵 陸軍技術上等兵           陸軍衛生上等兵     陸軍軍楽上等兵   陸軍法事務上等兵
一等兵 陸軍一等兵   陸軍技術一等兵           陸軍衛生一等兵          
二等兵 陸軍二等兵   陸軍技術二等兵           陸軍衛生二等兵        

陸軍の編制

帝国陸軍ではな編制単位に「総軍」、「方面軍」、「軍」、「集団」、「師団」、「団」、「団」、「連隊」、「戦隊」、「大隊」、「中隊」、「小隊」、「分隊」があった。うち時にも設置されているものは師団から中隊で、軍以上は軍などにより設置される。小隊・分隊は戦時等、動員の際に中隊を分ち設置される。団以上に部が設けられ、連隊以下中隊までは本部が置かれる。

「集団」は師団に準ずる規模のものと師団を統括する規模の物と二種類あった。前者は騎兵集団・挺進集団・飛行集団などがあり、飛行集団は後に飛行師団へと編された。後者は複数の師団や独立混成団を統括するもので、「パラオ地区集団」、「北部マリアナ地区集団」、「南部マリアナ地区集団」などがあった。同様に師団相当ないし軍相当の部隊として「兵団」があり、「支那駐屯兵団」、「東京湾兵団」、「小笠原兵団」、「航空兵団」などが例である。ただし、兵団文字符といった用法のように、師団や団などことを総称して「兵団」と呼ぶこともあり、この場合は正式な編制単位としての用法ではなく通称である。

師団はに師団部と2個歩兵団(もしくは2個歩兵連隊)、砲兵騎兵工兵・輜重兵連隊、師団通信隊・衛生隊・野戦病院兵器勤務隊で構成された。歩兵団にはそれぞれ2個歩兵連隊が属していた。これを4単位編制いは4単位師団といい、支那事変が始まった頃まではこの編制が基本となっていた。支那事変から大東亜戦争が始まる頃には、それまで各師団に4個歩兵連隊ずつあったものを1個連隊ずつ抽出しそれをもって新たな師団を編成した。師団には歩兵連隊が3個ずつ配置されており、それまで歩兵連隊の上位であった歩兵団はされ、歩兵団が編成された。これを3単位編制いは3単位師団という。これは作戦地域が広範囲になり、戦略単位である師団の数を増やして対応した為である。歩兵は減少したが、代わりに砲兵戦車等の部隊を増員した為、諸外の師団にいては総合的な戦は向上したとされる。また、日本では師団長は長く中将の職で、更に特に補職としていたが、終戦間際に新設された機動打撃師団などの師団長補職では少将も任命された。その他、一部の教導師団や飛行師団等では少将が「師団長心得」を務めた。

各戦線拡大に応じて、治安維持には師団より小規模な独立混成団が多く編成される。独立混成団は、1個団規模の歩兵部隊砲兵戦車工兵等の特科部隊をあわせて独立した作戦を行えるようにしたもの。多くの独立混成団に歩兵連隊はく、4個至5個独立歩兵大隊と砲兵隊・工兵隊・団通信隊等で構成され約5000人規模になる。独立混成団は100個編成されたが、この内幾つかは師団に編される。これとは別に、「独立」の名称を冠さない「混成団」という編制もあり、一般には、師団全部を動員する代わりに、師団内の歩兵団に砲兵などを臨時に分属させて動員したものである。ただし、第二次世界大戦中の師団の一部には、師団内団として歩兵団の代わりに最初から混成団を持つ例がある。

なお、上記以外に「隊」も使用されており、「○○師団通信隊」、「○○師団工兵隊」、「○○師団砲兵隊」、「○○師団戦車隊」、「○○師団捜索隊」、「○○師団輜重隊」等多数が存在し、満州国内に駐留する部隊には連隊と同等規模である守備隊や独立守備隊などが配置されていた。

このほか、軍隊区分と呼ばれる作戦上の都合による臨時の組織変えを行うことがあった。支隊の多くはこの軍隊区分の方式で編成されたほか、各師団の患者収容隊や防疫給部なども軍隊区分で設置されることがある。

おおむね戦時中の部隊・隊指揮官の補職例は以下の通り

通称号・秘匿名・秘匿号・通称符

師団・独立混成団以上の独立した作戦を持つ部隊に固有の漢字一字いは二字からなる符号を付け、その隷下部隊番号を振って区別した。漢字の符号を「兵団文字」、個別の番号を「通称番号」と呼称し、両者を合わせたものが「称号」である。「陸軍部隊戦時通称号規定」によって定められていた。

時にあっては内地に常設師団があり、部や衛戍地の位置が決まっているため部隊名称を秘匿する必要は薄いが、戦時には編制・兵種(兵科)・動員について敵軍に推知される虞があるため部隊の正式名称を秘匿した。

満州事変までは特に部隊名は秘匿しなかったが、昭和12年9月の「動員部隊の称呼名に関する件」制定により、外地・戦地にある部隊部隊指揮官の姓から「田中部隊」や「鈴木部隊」とした。この方式では戦争化し指揮官の異動や戦死が多くなるとその都度変えなければならず、昭和15年11月の「昭和16年陸軍動員計画細則」から漢字一字からなる「兵団文字符」を師団・独立混成団などの独立した作戦を持つ単位に割り当て、その隷下部隊には数字3桁から5桁の「通称番号」を割り当てた。その為、上級部隊が変更されると隷下部隊の「兵団文字符」は当然変更されるが、通称番号は原則固有のものであり変更されない。

例として、昭和13年支那事変当時に治安維持を的として編成された三単位制師団で、満州派遣されのちにノモンハン事件に動員された第23師団の場合、ノモンハン事件時の秘匿名は師団長小松原道太郎陸軍中将の姓から「小松原兵団」と呼ばれたが、のちの大東亜戦争時は「兵団」となっている。

これらの通称号は外地のみならず、軍管区隷下の内地部隊や、留守部隊(外地動員中の部隊へ兵員等補充のため内地衛戍地に設置される部隊)にも割り当てられた。内地部隊の兵団文字符は軍管区の名称を使用する(例:中部軍管区は「中部」)。

大東亜戦争末期になると兵団の編成数が増えると同時に一文字文字符が足りず、漢字二字からなる文字符が作られた。例として、昭和20年編成の第135師団が「心」、第138師団は「不動」だった。

本来通称号部隊正式名称の秘匿が的であるが、兵団文字符の中には古参の常設師団を中心に編成地や兵種が類推できるものもあり、一種の称とも言えるものもあった。

宮城守衛の近衛師団は「宮」、東京の第1師団は「玉」、大阪の第4師団は「」、広島の第5師団は「」、北海道第7師団は「」、戦車第4師団の「鋼」、第2飛行師団の「」、第3飛行師団の「」、第4飛行師団の「翼」、第10飛行師団の「」、高射第1師団の「」など。

また、第1総軍の「東方」と第2総軍の「西方」のように、編成地のみならず防衛担当地域を表した文字符も存在した。これら通称号を定める規則は、昭和20年制定の「陸軍部隊戦時通称号規定」によってめられた。

新聞ラジオなどに対しては防諜のため、軍以上は「集団」、師団・団は「兵団」、連隊・飛行戦隊・大隊は「部隊」、中隊・小隊は「隊」を使用していた。将兵の家族が戦地に郵便電報を送る場合にはこの通称号を記して送った。

兵役

満20歳になった男子は、徴兵(後に兵役法)により、徴兵を受ける義務があった。徴兵に関しては、海軍徴兵する者も、陸軍が一括して行った。海軍徴兵する者を除いた者が、下記の区分に従って徴兵された。

徴兵4月16日から7月3日にかけて全的に行われた。検を受ける者は、ひとつになって身体計測や内科検診を受けた。軍隊の嫌う疾病は、伝染性の結核性病(集団生活に不都合。性病が発見されると成績が大きく下がり、その連隊にいる限りまず絶対に一等兵以上に進級しなかった)で、また軍務に支障ありとされる身体不具合は、偏足・心臓疾患(長距離行軍が不能のため)・近視乱視(射撃不能のため・諸動作・乗に不都合)であった。X線検などはなく、単に軍医の問診・聴診・触診や動作をさせての観察など簡単な方法にて診断が行われた。またをはずさせて軍医が性器を強く握り性病患を確かめる、いわゆるM検、さらに後ろ向きに手をつかせ、肛門を視認する痔疾検も検として規定され、全員に実施された。航空機搭乗者・聴音などの特殊兵種の少年志願兵の検には、より入念な方法が実施された。

が終わると、次の5種に分類された。

甲種: 身体が特に頑健であり、体格が標準的な者。現役として(下記の兵役期間を参照)入隊検後に即時入営し       た。甲種合格者の人数が多いときは、抽選により入営者を選んだ。

種: 身体が普通健康である者。補充兵役(第一または第二)に(同)組み込まれ、甲種合格の人員が不足した場合に、志願または抽選により現役として入営した。

種: 体格、健康状態ともに劣る者。民兵役に(同)編入。入隊検後に一旦は帰宅できる。

丁種: 現在でいう身体障害者。兵役に適さないとして、兵役は免除された。

種: 病気療養者や病み上がりなどの理由で兵役に適しているか判断の難しい者。翌年再検を行った。

学力はなく、身長が152センチメートル以上で身体が強健、視がおおむね良好ならば甲種合格とされた。ただし、身長が極度に高いなど体格が標準でない場合は、軍服の支給に支障があるため種もしくは種であった。

徴兵責任者は聯隊区部より派遣される徴兵官(佐官級の陸軍将校)で、これを市町村自治体の兵事担当部署が補助し、身体検自体は部隊派遣の衛生部員が実施した。会場整理など雑務は在郷軍人会が補助人員を差出した。身体検後は、その場で徴兵官より合格・不合格が告げられ、志願の有(外地部隊海軍)を問われた。海軍は志願制が体であったが、不足人員の徴兵も行っており、徴兵陸軍に委任していた。

兵科兵種への割当は、それぞれに基準があって、たとえば砲兵は重量物を扱うため体格良好でなければならず、騎兵は乗するため高身長で、さらに偵察任務のため視良好でなければならず、工兵職人・熟練工が選ばれた。輜重兵は大勢の輸卒を部下に持つため一等兵でも分隊長なみの統率が要され、較的に高学歴者が選ばれた。なお秀麗・姿勢良好が要される近衛兵は入営してから一般部隊より抽出されるので、その選考は徴兵では関係しない。

時はに検があり、翌年の1月に入営した。入営即日に軍医の身体検があり、そこで兵役に耐えられずとされると、即日帰郷を命ぜられ除隊となった。これは自己申告制で、軍医が中隊ごとに新兵を集めては「身体に不具合のある者は申し出よ」と命じ、その場で簡単な診察を行って決定した。従って不具合があっても認められない者や、虚偽申告によって入営を免れた者など、さまざまな悲劇?が生まれた。

軍隊生活

陸軍では、入営と同時に二等兵の階級を拝命する。二等兵は入営したばかりの新兵(初年兵)で、入営から約四ヶ月経過して行われる第1期検閲、その後一ヵ半経過して行われる第2期検閲を終えると、成績の良い者は一等兵になり、どんなに成績が悪くても二年には一等兵となった。上等兵には中隊あたり1割の者しかなれなかった。

入営後の第一年教育年次科を簡単に書く。騎兵砲兵工兵などは、それぞれの兵種独自の教育が付加される。

第一期:約四ヶ

術科:各個教練・体操射撃予行演習距離測量・狭射撃小隊教練・射撃・野外演習銃剣
学科:勅諭・読法・各種兵の識別および性・団体編制の概要・上官の官姓名・武官の階級および制・勲章の種類および起因・軍隊内務書の摘要・陸軍刑法および懲罰の摘要・射撃教範の摘要
隊長検閲を受ける。

一期の検閲が終わるまでは外出は許可されなかった。

第二期:約一ヵ

術科:第一期の課・中隊教練・工作
学科:第一期の課衛兵勤務・赤十字条約の大意・救急法の概要
隊長検閲を受ける

第三期:約一ヵ

術科:第一期、第二期の課・大隊教練
学科:第一期、第二期の課・聯隊歴史概要
隊長検閲を受ける

第四期:約三ヶ
術科:第一期、第二期、第三期の課・遊泳および漕艇術
学科:第一期、第二期、第三期の課・聯隊教練
団長検閲を受ける

第五期:約一ヶ

術科:第一期、第二期、第三期、第四期の課
学科:第一期、第二期、第三期、第四期の課団教練
団長検閲を受ける

第六期:約一ヶ(強)

演習

現役期間を終えると、どの兵は一旦は除隊し、予備役になった。その際伍長勤務の上等兵及び一部の上等兵には下士官適任が渡された。中には除隊の日に上等兵に昇任する一等兵もいた(これを営門上等兵と呼ぶ)。

兵の階級は、官吏(武官)であった将校や下士官と違い「官階」ではなく、「等級」とされ、例えば上等兵が一等兵の上官ということはなかった。兵の間では、どちらが古年次兵か、が先任かで従うべき者が決まった。どの兵にとって上等兵は一挙手一投足を見習わなければならない最古参の「偉い」人であった。下士官と兵は、起居する部屋が別だから、上等兵は「の内務班長」とも言える。陸軍には週番、週番士官、週番下士官があった。上等兵になると、週番上等兵として防災、防犯、紀の取り締まり、人員の確認などの任務に当たった。また、歩敬礼の有などにも差があった。

しかし支那事変で戦線が拡大し、多くの兵が除隊即日再召集という形で事実上召集が常態化していたために古参兵が増えてしまい、上等兵の上に兵長を設けることになった。これによって、伍長勤務上等兵制度は止されたが、下士官の不足は埋まらず、昭和16年1月に下士官勤務兵長制度が設けられる。(兵長ノ下士官勤務並ニ其標識及身分取扱ヒニ関スル件達)

初年兵教育

初年兵教育は中隊附の下級将校(少尉や見習士官)が教官となり揮をした。実際に初年兵の手を取って導するのは下士官の助教、二年次以上の古参兵の助手である。「気をつけ」や敬礼などの基本動作から始まり、銃剣術、兵器の取り扱い、戦術的な訓練などへと進んでいく。中隊長は日々の訓辞や精講話などを除いて現場には直接関与しない。教育進捗状況は3かごとに検閲を受け、その結果は初年兵の将来だけでなく教官や中隊長定の材料ともなった.

初年兵を一番苦しめたのは、課業時間以外の内務班生活における古年次兵からの私刑である。これは本来は認められたものではなかったが、兵隊同士で黙認されており、中隊長の命陸軍大臣の訓示でもくならなかった。多くはビンタなどの体罰だが、体罰によって怪をさせるといはずの私的制裁の存在が否定できなくなるため、セミウグイス真似をさせたりして精的な苦痛を与えたりするなど、様々な「しごき」があった。

上等兵候補者特別教育

幹部補生や士官学校予科修了者は別にして、この課程を経なければ、一般の兵が上等兵になるのは、極めて難しかった。
1期の教育期間中の勤怠や成績を元に、内務班長や准尉の推薦を受けて中隊長から補者に名され、上等兵補者特別教育を受けた。通常の演習などは免除されないため、や夕食後など、厳しい条件の教育訓練となった。ただし、普通兵士には受けられない法規などの学科を学び、修得した。この上等兵補者教育を修了した者より、数ヶおきに数次に分けて上等兵への選抜が行われた。

1年の終わり、12月に最初の選抜があり、ここで進級する者を「一選抜上等兵」と呼んだ。昭和15年頃より、補者は実際の上等兵要員より多く名されるようになった。兵隊の資質を向上させることと、補者同士の競争を行うこと、上等兵の権威付けのためといわれている。
上等兵補者に選ばれても体力・知暗記に加え「将来は下士官になる」という上昇志向が強くないと、合格者となり上等兵になるのは難しかったと言われている。

召集

徴兵制度下の日本民が軍務につくには、徴集、召集、志願の三通りがあった。時代により細かな用が異なる場合があるが、徴集とは徴兵に合格した者を現役または補充兵役に編入することで、現役に編入された者が時と有事とにかかわらず軍務につく。現役兵が軍隊に入ることは召集ではない。召集とは現役以外で兵役にし終わった者(在郷軍人)で、現在軍務についていない者を、戦況逼迫による必要から軍務につかせることである。予備役の将校あるいは補充兵などが召集されて軍務についても役種は変わらず、あくまでも「召集中の予備役将校」「召集中の補充兵」である。したがって「何も訓練されていない一般人が召集されて兵隊に」などの表現は誤りとなる。

陸軍将校

陸軍では、陸軍将校の階級となるのは、「大将-中将-少将-大佐-中佐-少佐-大尉-中尉-少尉」である。

当初は、兵科分類は階級名称においても反映され、佐尉官では「陸軍○○大尉」(歩兵騎兵砲兵工兵憲兵など)と区別された。後に将校相当官が各部将校にめられるに伴い、衛生部・経理部といった各部等でも同様の階級名が用いられるようになる。更に昭和15年には兵科止され、憲兵科と各部将校を除きいずれの兵科も階級の前に称していた兵科名をし単に「陸軍大佐」のように称した。

将校になるには中学校陸軍幼年学校卒業して陸軍士官学校で学ぶのが一般的であった。士官学校卒業後、4ヶ間の見習士官を経て少尉に任官した。ただし、後に陸軍士官学校本科が陸軍士官学校航空士官学校に分かれると、航空士官学校は6ヶ教育期間が長かったため、見習士官はなかった。他に兵や下士官から選抜されて、カリキラムは異なるものの士官補生と同じ陸軍士官学校で将校学生として教育される少尉補者や、甲種幹部補生として予備士官学校卒業して将校になる者もいた。大東亜戦争末期歩兵部隊における幹部補生出身の将校の重は、師団の急増とともに高まっていった。

大日本帝国陸軍の兵器

実包(爆薬・爆雷含む)

三八年式実包

距離400mの場合は8mm鉄板を貫通し、22cmレンガも貫通した。また口付近では、人体3体を貫通する威があった。小銃を発射として、三八式歩兵銃で発射した場合、初速762m/s、最大飛翔距離3,700mであった。三八式実包の最大の課題は、コサック騎兵に対する突撃破砕射撃であった。そのために頭弾を採用している。頭弾の創は、騎の前脚部にダメージを及ぼし、の前脚部が疾走時の自重負荷により、創部へ応集中が生起するよって自壊作用を生じ、走行不能となるダメージを与えた。これにより、コサック騎兵の存在価値は著しく低下した。

口径にして弾頭重量が大きいため、重量の割に空気抵抗が少なく、発射後の減速が少ない。加えて初速も高いことから、弾道の直進性に優れる。これが、三八式歩兵銃が高い命中精度を得られた、大きな理由と思われる。

の7mmクラスライフル弾とべ、口径が小さく威が弱いと言われるが、口径が小さいと言っても弾頭重量と運動エネルギーに関してはフルサイズライフル弾であることは疑いがい。事実現在でも欧ではフルサイズライフル弾に分類されている。

九X式破甲(徹甲)榴弾

一式徹甲弾以前の徹甲弾徹甲弾というよりは弾殻の厚い榴弾に近い。資の制約及び研究不足から来る質の低さや構造上による強度不足も相まって貫通は低く、口径を上回る厚みを持った装甲を貫通できないという報告がある。陸軍徹甲弾が悪く言われるのは大体こいつらのせい

一式徹甲弾

九X式破甲榴弾シリーズの後継。いままでの「弾殻の厚い榴弾」から構造だけはまともな徹甲弾になった。
質自体はそのままで性不足などの問題点は残っているものの貫通は幾分かマシになった。

一式徹甲弾特甲/特乙

従来の日本陸軍徹甲弾との違いをわかりやすく書くと、
日本陸軍製の徹甲弾は基本的に普通鋼に焼き入れを施しただけに過ぎない代物に対し
コイツだけは産と日本海軍製の徹甲弾と同じく、レアメタルを添加した合鋼で出来ていることである。そのためこの弾を使えば欧の同級のと遜色ない対戦車火力を発揮できた。ただしコストの問題でごく少数配備に留まっている。

試製一〇〇式徹甲弾/試製二式徹甲弾/四式徹甲弾

四式徹甲弾日本初のの(対)戦車徹甲弾であるが、弾頭強度の強化を狙ったものではなく
生産の簡略化を狙ったものである可性がある。
試製二式徹甲弾は九二式十加農や試製十加に配備されたが一式徹甲弾との相違は不明。
試製一〇〇式は、一式徹甲弾の前身と思われるが詳細は不明。
被帽付き徹甲弾や硬芯徹甲弾開発されていたがコスト面や特性面から試作止まりだったとされている。

タ弾

産の成形炸薬弾。かつては試製止まりであり、実戦経験はないと思われていた。
しかし近年の資料開から、昭和19年頃までには、敵に鹵獲される程度には普及していたことが判明した。
現在実戦に投入されていたことが確認されるのは山歩兵用と小銃用のみ。 
貫通後の威徹甲弾より低く、傾斜にも弱い。また、技術的な問題から弾速の遅い場合が多いため、500m以上先の標に対しては命中率が低下するという欠点があった。しかし、対戦車戦闘イマイチな山歩兵戦車戦車はるかに上回るを付与できるのは大変魅的だった。

四式四十糎墳進砲

墳進とは、ロケット弾の事。大戦後期に造られ迫撃砲より命中性がよく、安くて大威だったことから重宝された。
この兵器はム弾こと九八式特殊臼砲と共に硫黄島沖縄戦にも投入されアメリカ軍に甚大な被害を与え、
本土決戦の切り札の一つとして秘密兵器扱いだった。

三式刺突爆雷

タ弾の一種であり(事実上の)自殺兵器の一つ。米軍からは「愚者の棒」と呼ばれた。
構造は1m以上ある柄の先に成形炸薬弾頭を付けた代物でこれを戦車名前の通り突き刺して使う。
は資料によってばらつきが大きく総合すると75㎜~150mm の垂直装甲を開けることが出来た
といわれる。多分布団爆弾よりは強い。
ちなみにこの爆雷、正しい姿勢で使用すると生還が可(ということになっている)で、一両潰したらまた一両と反復して攻撃を行う兵器だったりする。
本当に生還できるのかは不明(使う前に撃滅&使ってもその後玉砕で不能)。

九九式破甲爆雷

対装甲用の吸着地雷。独特の形状からの子と呼ばれる。1つでチハたんと同じ装甲の25㎜を貫通した。
ソ連のBT-5の背面には6個収束しないと効果がないが、アメリカM4A3の正面だと3個で貫通する兵器
本来は自殺兵器ではなく適切な使用法を守っていれば(刺突爆雷とは異なり)生還可だった。
正しい使い方:機擲弾筒などで歩兵戦車を切り離す→戦車に接近→標的の戦車爆雷り付ける→
→安全装置を外し爆雷本体をいて信管を作動させる→10後に爆発されるので安全圏に退避。
似たよう兵器布団爆弾こと梱包爆雷があり使用法も体の上に設置して信管を起動させるという違いがあるが基本的には破甲爆雷と同じである。威はこちらの方が上。 

小火器

三八式歩兵銃

口径6.5mm 装弾数5発 ボルトアクション作動方式 全長1.276mm 重量3.730kg 有効射程距離460m

明治38年に制式された陸軍小銃。量産された各年代で細部に変更がある。
全軍装の歩兵は、弾薬5発を1セットにした挿弾子(クリップ)を30発分収めた前盒(弾薬盒)を前身頃に2つ、また60発入の後盒1つをそれぞれ革帯(ベルト)に通し計120発を1基数として携行した。銃剣には三十年式銃剣を使用。

規格の統一性のさや威さや装填機構(手動装填式)の古さなどを批判されることがあるが、
当時の欧も似たような小銃なので(米軍は別格)格別きにすることはない。自動小銃はどの製作しているが弾薬の消費が生産をえてしまい補給に問題を抱えてしまい小銃ボルトアクション式の小銃だった。

支那事変以降(帝国陸軍は歩兵操典案で本格的な分隊疎開戦闘に移行)当時の日本陸軍歩兵小隊火力の中心は、軽機関銃と重擲弾筒であり、1個小隊には小銃のほか第1~3分隊に軽機関銃1挺と、第4分隊に八九式重擲弾筒3門が定数であった。また、1個大隊にはこれに重機関銃九二式重機関銃)12挺を擁する1個機関銃中隊、歩兵(九二式歩兵ないし九七式曲射歩兵)2門を擁する大隊小隊が付随する。さらに歩兵連隊には山(四一式山)4門を擁す連隊中隊、対戦車(九四式三十七)4門を擁す速射中隊が加わり歩兵大隊に直接・間接協している為、「日本軍三八式歩兵銃のみで戦った時代遅れの軍隊」という俗説はやや誇されている。

九九式(長)短小銃

口径7.7mm 装弾数5発 ボルトアクション作動方式 全長1.258mm(長) 1.118mm(短)重量4.100kg(長) 3.800kg(短)

三八式歩兵銃の口径スケールアップ・小良版とも言うべき小銃。基本的なメカニズムは変更していないが、弾倉底が吹っ飛んでいかないようになったり、部品の互換性が向上したりしている。

あと対標尺尽き(初期のみ)。ちなみに海外で対標尺がよく笑われるが、理由は「緊急時にしか使わないものを標準搭載しているから」であり、「小銃で対射撃をする根性」ではないので注意。M16マニュアルにも対射撃の方法があったりする。

初期昭和14年から昭和16年にかけて初期生産された。対表尺、単脚を標準装備しており、品質管理も行き届いていた。

中期昭和17年から昭和18年にかけて生産された。対表尺、単脚を省略

後期昭和19年から昭和20年にかけて生産されたもので、生産数は最多。品質について、後期自体は材質・生産方等基本の作りは保たれていたが、末期の中でも最末期生産のものは極度に低下している。末期には表尺がなく固定照準のみで、敵対距離に応じて仰を変えることはできない。また上部ハンドガード床のプレート省略され、中には着装置も省略されている物もある。
末期末期は部品精度が落ちているためネジの締まりが悪く、部品脱落が多かったほか、不発や暴発事故も報告されている。つまり、後期に移るにつれ、品質が劣化していく。

簡易小銃

九九式小銃系をベースとした小銃。装弾数は5発から1発になり、材質はギリギリの最底辺に変更、ストックがただの材をそれっぽく削ったものになっている。こんなんでも一応軍用小銃なので、歩兵が装備する。

国民小銃

本土決戦用に後へ装備させるために開発された小銃ベースは不明だが、ボルトアクション系で8mm南部を1発装填できる。身長はあるので拳銃よりは強であり、マシな方の分類になる。

噴進小銃

の噴進弾を使用した小銃。2種類作成され、片方は20mm機弾を流用した弾頭を使用し、専用銃剣を装備。もう片方はガラス瀬戸物製弾頭を使用し、斜めカットされた身が銃剣をかねている。どちらも物にならなかった。

その他即席銃

本土決戦用にマッチロックパーカッションロック、ばね式、が準備・作成されていた。軍導で設計したかは不明。マッチロック及びパーカッションロック式は管が使用されており、室を針で補強してある。黒色で小石、ガラス球、瀬戸物を発射する予定だった。ばね式はいわゆる豆形式で、小石などを相手の顔面に向かって発射しその隙に接近戦を挑むというものだった。 

火砲

八九式重擲弾筒

軍及び人民解放軍が使用した軽迫撃砲。列強の同形の兵器とほぼ互の性を持ちながら重量は半分程度と、
なかなかできる子。米軍からは台座が太ももにピッタリであるためニーモーターと呼ばれた。(しかしこ兵器は地面の上に台座を置くのが正しい使用法である。)このような使い方をした兵の太ももを粉砕したとかしないとか。

九四式山砲

陸軍(おもに歩兵部隊)の女神
成形炸薬弾を用いた場合距離に関わらず100㎜の垂直装甲を貫通できた。

九二式歩兵砲

命中精度がイマイチで一応だいたい当たることから、本が大隊でも運用されることもあることから「だいたい」ともよばれた。
成形炸薬弾を用いた場合距離に関わらず90㎜の垂直装甲を打ち抜けた。

試製八十一粍無反動砲

和製パンツァーファウスト。近年まで試作どまりとされていたが沖縄戦向けに輸送されていたことが判明した。
有効射程は30mで貫通100㎜程度。 

八八式野戦高射砲

軍の高射砲射撃をすると壊れやすい。対用だけど北ではノモンハンソ連戦車に、南ではビルマ英軍戦車に対し火を噴いた。米軍からは対戦車として認識される場合がある。アメリカ爆撃機B29に対抗するため航空機に搭載された。

試製七糎高射砲

八八式野戦高射砲の後継として開発された高射砲1936年頃から研究が始まったものの架や駐退器などの器具が理想の物に中々ならず大戦直前に開発は一時ストップ。その後42年ごろに再びスタート架や駐退器などの機構を日中戦争勃発時に国民党軍から鹵獲したボフォース社製75㎜高射砲と同様の機構をコピーすることでやっとものにできた。後のチリ/チト・チヌ改ベースになった四式高射砲である。・・・らしい

九〇式野砲

本来は野だが米軍からは対戦車として認識される場合があり、
陸軍の戦訓報でもM4戦車に対し極めて有利なりと言われていた。
重いので敬遠されがちでこのの後継でありスケールダウン版の九五式野開発された。
また一式七糎半自走砲三式砲戦車三式中戦車の備ベースになった。

三八式十二糎榴弾砲

明治の頃に採用された古参大砲日露戦争で使うつもりだったが、間に合わなかった。
ドイツのクルップ社製の12榴弾日本向けに小良してあるが、射撃時の反動を吸収する駐退・複座器に問題があり射撃を行うたびに反動を吸収しきれずピョンピョンと跳ねたそうな
また、重量の割に低威で射程が短く、口径も中途半端であったため、不評だった。

試製九七式四十七粍速射砲

後に、戦車に対し戦果をあげることになる一式機動四十七の原になった速射(対戦車)。当初は開発に乗り気ではなく、それまでの九四式三十七で十分だと考えていた。
とりあえず作ってみようかな」というカンジで1937年昭和12年7月ごろに研究スタート、翌年の3月には試作品が完成した。そして各種試験を行っていく途中、ソ連との紛争が勃発。それまで関心の薄かった対戦車開発などに強い意欲を持つようになり、またこのソ連から鹵獲した45㎜対戦車より威が低いことが分かったため採用されなかった。しかし、試製九七式四十七研究データは、一式機動四十七開発活用されることとなる。

九六式十五糎榴弾砲

は良く、というよりその前の15榴弾がダメダメだった。)戦でも、期待の一線級火として大活躍した。
将来にむけて優先的に量産が進められたほか、自走砲にする構想もい時期から存在した。
(ただ、長らく理想の存在しなかったため自走化することは渋られており、最終的には開発こそ着手されたが、本来の構想とは違う的だったうえに、結局間に合うことはなかった。)

特筆すべき戦果として、沖縄戦において前線視察中だった指揮官サイモンBバックナー中将を殺した。
彼は現在に至るも米軍最高位の戦死者である。

車両

九七式中戦車 チハ

基本的に旧のみを1930年代中後期に開発・採用された大日本帝国陸軍の中戦車

昭和13年から昭和19年にかけて総計2,123輌が生産され、九五式軽戦車 ハ号とともに日本陸軍戦車として使用された。トレードマークである手すりのような形状の鉢巻アンテナや短身がないせいか区別される。
ちなみに世界的にはハ号の方がメジャーチハマイナーである。

にはとして九七式五戦車が搭載された。この八九式中戦車に搭載された九〇式五戦車で、そのものの性は同等であるが機及び抗堪性を向上させている。尚、発射速度は標準10発毎分であるが熟練した戦車兵は15発を発した。

装甲貫は九〇式五戦車と同程度であり、射距離300mで26mm、500mで23mm、1000mで20mm程度である。対戦車戦闘は想定していないであり、あくまでも軟標やトーチカ座破壊のためのであった。昭和17年4月ビルマラングーンにて戦車第一連隊が鹵獲M3軽戦車に対する射撃試験を実施したところ、側面でさえ射距離200mはおろか射距離100mでも貫通はできず、3輌から5輌が集中射撃を加えたところようやく装甲が裂けた、という程度の威しかもっていなかった。

九五式軽戦車 ハ号

初の制式戦車である八九式の後継。当初は戦車として開発され大戦中期までそのような運用法がなされた。(ちなみにチハたんは元々は本車両火力支援するために開発された補助戦車である。)
車両開発時、軽量で機動性の高いことが望まれたため装甲がかなり薄く小口径対戦車であっさりと沈んだり対戦車ライフルはもちろんのこと大口径重機も素通りで
距離度が悪いと小銃弾でさえ貫通してしまう場合があった。チハの防御に対する悪評は実はこいつとテケのものだったというものも少なくない。
だが、
重量の軽さと故障のしにくさから当初は「強くて速くてよい戦車」と現場の評価は良好だった。
は、大陸戦線の機甲部隊の活動や大戦初期の電撃戦において進撃を支え戦車火器をほとんど持たぬ英軍や国民党軍相手に大活躍をした。しかし対戦中期以降は劣勢になり戦車として奮戦したものの本車両の陳腐化は避けられず各地で全滅して行くことが多かった。
後期である九八式三十七ミリ戦車ならば口前では50㎜の垂直装甲を貫通できた。

九七式中戦車改/新砲塔

M3スチュアートとの遭遇によってチハたんを(本来はチハたんの後継であるチホ搭載予定の)
高初速の47㎜に換装した車両ハ号と違いM2ローニンもへっちゃら。
37mm級対戦車射撃も被帽なし徹甲弾の場合なら400m前後でぎりぎり防げた。 
末期における陸軍機甲部隊事実上の戦車であり旧式ながらも各地で奮戦した。
M4戦車を撃破する場合遠くとも400m以内に引き付けたうえで側後面を狙う必要があり、
正面からだと70m以内に引き付けなければ損傷を与えられなかった。
米軍からは正面や体正面上部以外を抜くので「type97 スぺツィアル」と呼ばれ警されていた。
なおチハたんというとコイツではなく大抵は短身の物をす。

一式中戦車 チヘ車

本来であればノモンハン事件での戦訓を取り入れたチハの後継になるはずだった車両
戦車戦闘を考慮し高初速の47㎜戦車を搭載し(後の計画では同軸機関銃を搭載する計画が追加される。)
ソ連製45㎜対戦車及びBT戦車500mで防ぐことを考慮し最大装甲35㎜と設定され、 退却するソ連戦車を追撃できるようにチハ搭載エンジンより高性高出の一〇〇式統制エンジンを搭載しかつ運転操縦を円滑にする油圧式変向装置を取り入れた快速戦車になる予定だったが、油圧式変更装置の開発で躓いたため一向に完成途が立たなくなってしまう。最終的には戦局の悪化もあり妥協案として、「一足先に完成していた二式砲戦車体に新チハ修した物を乗せてとりあえず完成」という形でこの案はパーになってしまった。
ただ、試作昭和17年ごろに完成しており外観は、九八式軽戦車に似たものだったといわれている。 

試製一式砲戦車(のちの二式砲戦車の前身または制式化前の二式砲戦車)

チハ体に全周旋回密閉戦闘室方式に山を搭載した車両
戦車地を破壊するために造られたものの、移動標に対する命中低さや体強度な低さ、チハたんの量産に乗り気じゃなかったなどの理由から試作一両のみにとどまった。
代わりに紆余曲折あって、同時期に曲射支援用に開発されていた一式七糎半自走砲がのちに砲戦車改造され、三式砲戦車として機甲科の兵器として正式採用された。
(後に砲戦車体として新規開発された二式砲戦車は少数ながらも生産され体は
チヘやチヌ/チヌ改ベースとなった。)
なお、砲戦車大雑把に説明すると「対戦車地や既存の戦車では速な撃破が困難地や戦闘車両を除去する為に既存の戦車より強大口を積んだ戦車であり、既存の戦車とほぼ同様の体を使用することも砲戦車の条件としているため技術限界や重量制限からやむを得ず固定戦闘室を採用している車両も存在する。
では駆逐戦車や対戦車自走砲と同義とされることがあるが厳密には誤りである。

三式中戦車 チヌ改

三式中戦車(チヌ)は本土決戦においてチヘ・チハの本来の後継車両であるチリ/チト
どう足掻いても間に合いそうになかった為に急遽、すでに陳腐化していたチヘ(または二式砲戦車ホイ)を魔改造して
造られた急造車両だった。(しかし補助戦車的な立ち位置でありながら対戦車戦闘の要として大いに期待されていた。)
車両火力強化のためにそのチヌに五式七戦車を搭載する予定だった計画車両である。
は一般雑誌では1000mで75㎜戦史では1000m/100㎜、戦車戦闘の参考(補遺)では1000m/140mmの垂直装甲を貫通可
としているがいずれも貫通を探る数の一つと考えたほうが吉
身の生産はカトほどではないがキツキツだったため代用身が搭載される可性が高く対戦車火力の低下は避けられないもののそれでも従来べれば対戦車の向上という点は消えず後座長の低下・操作の容易化等、使い勝手は向上したと思われる。
なお、本車両もチヌと同じく敵戦車と正面から殴り合うことを想定した車両でないことに注意。

試製五式中戦車 チリ

末期開発していた試製中戦車最強最後の日本陸軍戦車であり和製ティ―ガーとも言われ完成していれば、
M4T-34と優勢に戦えたと言われる。
・・・だが、その実態は、パンター並みの格を持ちながら号後期程度の火力と装甲しか持たない
(更に前面には面積的にも、大きな弱点となる副が存在する
まさに
かけ倒しのやわらか戦車であった
また、試験的な車両という面が強い車両であったとも言われる。88㎜搭載案はデマ
ペーパープランのみではあるか副や自動装填機をなくし被弾傾斜を取り入れた簡略チリやそのチリを固定戦闘室にした案。補助戦車ホリ)等のも存在した。

試製砲戦車(甲)ホリ

試製五式中戦車チリ)の補助戦車でありフェルディナントのような戦車戦における火消し役になるハズだった車両
(本来は、旋回形式を取るのが理想だが技術的な問題から”やむを得ず”固定式を採用している。
これはすべての砲戦車と呼ばれる車両にも該当することである。)
最大装甲はソ連の重対戦車1000mで防ぎうるものとして前面125と設定し、
ソ連戦車を撃破できるように貫通1000m/150~175㎜の105を搭載(する予定)
末期の時点でもなかなかのを持っているように見えるが
側面は25㎜と年代的にも重量的にも極端に薄く(三突等のように低姿勢でもない)火消し役としては
やや心もとない。
カトと同じでありの生産は絶望的で更に体も生産を全に断念しているチリのモノであるため
いずれにせよ生産される望みを全に断たれた絵に描いた餅である

チセ車

チリ程度の体に105㎜級火を旋回式で搭載する予定だった車両。構想のみ。なお、昭和18年頃の会議では、「旋回に搭載できるは、直射用(長身)なら75㎜級、曲射用(短身)なら105㎜級が技術的に限度」という旨の報告がなされているためチリのような試験的な要素が強い車両であった可性が高い。

チト車 三菱図面案もしくは量産型(?)

図面のみ。どっかのに沈んでるとかしてないとかといわれてるモノとは別タイプ車両
従来との差異は溶接になり体も量産性を考慮したものとなっており、
正面の面積も絞られ、操縦席前面装甲にも(被弾傾始が有効な程度に)傾斜が付き
従来べ防御面も幾分善されている。(なお、上の試製中戦車にも言えることだが
最大装甲75㎜という数値は戦車を参考にされたものではなくkv-1戦車を参考にしたものであり、
機動性&重量制限を考慮しソ連の76㎜対戦車500mでギリギリ防ぐものとして想定した数値である。)
 仮に量産にうつされたとしてもチヌ改と同じく代用身が搭載される可性が高く
チヌの時点で運用限界重量的にギリギリだったので充分な運用ができたかは怪しい。
(当時の陸軍に本車両を積みおろしできるや湾港は少数で、工兵機材・資材も戦場の広さに対し不足しがちだった。)

試製超重戦車 オイ車(試製150t戦車)

昭和14年赤軍との間で発生したノモンハン事件の機甲戦における戦訓などから、昭和15年陸軍技術本部を訪れた陸軍省の岩畔雄大佐が、正規の手続きを踏まずに巨大戦車開発の極秘命を下した。これは岩畔大佐独断の命だったとも言われている。九五式重戦車の寸法を2倍に延ばして作ることを要したとされる。

大東亜戦争直前に開発が始まった多砲塔戦車であり、戦車でもある。また、命系統無視であり、当時の陸軍どころか戦車部隊の方針をほとんど無視した私物命である。T-35SMKなどのソ連戦車情報を受けて開発したそうだが、厳重な情報管理のもとに開発が進められたため、不明な点もあり発案者の開発意図はよく分かっていない。(この車両開発に多くの人員や資材が奪われたため、戦車やそれに関連する機器の開発の計画が狂ったらしい。)
 

三式砲戦車 ホニⅢ

ホニⅠこと一式七糎半自走砲砲戦車化案。ホニⅠが砲戦車として採用が所望された際、意見が通った場合はこれに近い形状へ改造することを強くめられていた。本来は泥縄的な急造兵器ではなく、昭和15年頃には、戦車部隊が使用する駆逐戦車案の一つとして原が存在していた。(世が世なら、これが一式砲戦車になっていたのかもしれない車両である。)

九七式軽装甲車 テケ

八九式重擲弾筒と並ぶ陸軍の(歩兵部隊)戦友。
ハ号とは人員を除き同じ武装・装甲でありながら歩兵部隊が、
気軽に使える機甲車両だっただけに本車両が陳腐化した大戦後期においても重宝された。
また重量が軽く安かった為に運用側から製造側までみんなの人気者だった。
乗り心地が良かったとかそうでいとか。

九五式重戦車

先述のオイ車と同じ多砲塔戦車であり軍が一量産に移した重戦車
ただし軍は大陸での機動戦を重視し少数の重戦車を配備するより大多数の戦車豆戦車.軽戦車)を
配備した方が効果的であるとしたため生産は少数にとどまった。自重は26t 。

一式砲戦車 ホニⅠ

自走式の野戦は前述の九〇式野であるが、九〇式野をそのまま搭載した物ではなく車載用に尾栓を縮小し後座長を低減させたなどの良を施したものを使用している。元々は戦車部隊火力支援(対戦車戦闘とは別)が的であり対戦車戦闘も前提に入っていたがどちらかと言えば二の次であった。 後にその対戦車火力を買われ初陣では対戦車戦用に使われるようになった。名称は一式砲戦車が有名だが一次史料上では一式七糎半自走砲または一式七自走砲一式自走砲と表記される場合が多い。
生種として105㎜榴弾搭載で曲射支援のみを想定した一式十糎自走砲ホニやホニⅠを対戦車戦闘の中核を担えるよう良したホニ三式砲戦車 別名砲戦車甲)がある。砲兵部隊所属の兵器である。 

試製七糎半対戦車自走砲 ナト

75㎜級対戦車。重量が大きいため自走式になっている。
ホロとは違い即席の車両ではなくカトと同じく最新鋭の車両に最新鋭の75㎜を搭載した車両
ただ、後述のチヌ改/チト量産型の項にもあるように代用身が搭載される可性が高かった。
というよりはこちらは確定事項だった。)とはいえあと二年く配備されていれば
前線の速射部隊の苦労は緩和されていたかもしれない。

試製四式重迫撃砲 ハト

30cmの口径を持つ迫撃砲。カトやナトと同じく大重量の為自走式である。
また、ナトと同じ体でありこちらの方がく作られている。
ただ、前述の墳進の方が低コスト・大威なため量産はされていない。

四式十五糎自走砲 ホロ

旧式のチハ体に董品の重を乗っけた即席の自走式対戦車
口径やモデルこそ違えど独軍で言うマルダーに近い。15cmの大きな弾でどんな戦車イチコロさ!
同じく実戦に投入されたホニとべ評価は低い。(理由は乗員の断片防御がホニとべ劣っているから・・・らしい。)
当然、その大口火力を生かした火力支援も想定していた。 

試製十粍対戦車自走砲 カト

四式中戦車を元にして作られた体に新の対戦車を搭載する予定だった、即席でない自走式対戦車
完成品はない。貫通は一般雑誌には1000mで150㎜の垂直装甲を、戦史をまとめた資料では
1000mで175㎜の垂直装甲を貫通できたとされるが、いずれもみにせず実際の貫通を探る数として
扱ったほうが良い。実が投入されていれば固定車両としては大きい射界を生かし大活躍したであろう。
全備重量25t~30tであり後述のホリより軽いのもポイント


(実は本の搭載の生産はまさに「絵に描いた餅」状態だったのは内緒。)

航空機

キ43 一式戦闘機 隼

戦後ゼロ戦のおかげでが薄くなりがちな陸軍戦闘機
しかしゼロ戦より防弾性が高く米軍からは日本軍最優秀機と称賛されたことがある。
米軍側の呼び名は「オスカー」。

キ84 四式戦闘機 疾風

称は「疾風」。も認める大日本帝国最強・最速の機体…らしい。
設計思想から旋回性を控えめにしたため、格闘戦に慣れた一部のパイロットからは「何でもできるが、なにをしても大したことはない」と揶揄されることがあった。

エンジン理に小高性になるよう作った上、工員の質の低下も重なったことで本来の性を発揮できないものが少なくなかったといわれる。
ただし、本機以外の日本軍機も軒並み稼働率が低下しており、四式戦のみが極端に稼働率が低い、というわけでもないとか・・・

実戦では中国大陸に期限付きで投入され、一時的に制権を取り戻すなど問題を抱えながらも活躍した。

特殊防空戦闘機 キ109

非常に出来が良かった四式重爆撃機改造した八八式野戦高射砲を機首に搭載した迎撃機。
少数が生産されたが戦果は芳しくなかった・・・。
実はアメリカにも似たような航空機が存在しキ109は防用に対してあちらは対艦用である。

秋水 キ200

海軍共同開発ロケットエンジン搭載の特別防戦闘機
速度が速すぎ機の照準が困難だったため、特攻兵器として使われる計画があった。

富嶽

陸軍開発していた飛行機。具体的には「の要塞」とも言われていた大爆撃機B-29を更に上回る
巨大爆撃機であり完成していれば同盟ドイツを経由してソ本土に爆撃を行う予定だった。
 しかし、陸軍のみ技術では手におえるものでなかったため開発は放棄されてしまった。 

艦船

あきつ丸

陸軍が作った強襲揚陸艦。揚陸の際に航空支援が欲しいことから空母のような形状になった。
このことから陸軍が作った空母とも呼ばれる。

四式肉薄攻撃艇

通称マルレ。大挙して敵団に奇襲をかけ薄、体当たりおよび手動にて至近距離爆雷をばらまき離脱する戦法で戦果を上げた。
よく震洋と同一の自爆ボートと勘違いされるが(内のみならずアメリカ軍も含む)、自爆装置の類いはついておらず体当たりによる爆雷投下装置がぱっと見撃針とその作動索に見えることからついた誤解と思われる。(ただし後期だと投下装置が首にしかついていないため、敵に対して垂直に突っ込む必要がある)
陸軍では面での爆発よりも面下のほうが効果があると考えており、純陸軍自爆ボートは破孔爆雷及び五〇ノットまで出るロケットモーター搭載の五式薄攻撃艇まで待たないといけない。(未完
ちなみに爆雷投下はもっぱら手動だったらしく、あんまり体当りした記録がない。でも震洋より戦果がある…らしい。(まだ震洋とごっちゃになっているため詳細が不明)

試製五式大型発動艇

の試製揚陸艇。チハなんと四式中戦車を搭載する予定だったらしい

潜航輸送艇

三式潜航輸送艇世界一の陸軍が所有する潜水艦海軍に潜航輸送艇の使用権を握されるのを恐れて作られた。
海軍の仲の悪さに関して引き合いに出されることもある。 
でもその後、陸軍が本気で悩んでいるのを知った海軍潜水艦技術者派遣し陸共同での潜行輸送艇を開発しているので、ある意味解けに一役買っていたりする。(ちなみに自体は図面書いてる途中で終わった)

衣類

九〇式鉄帽(鉄兜)

軍の標準的なヘルメット。年代によっておでこ真鍮製になったり製になったりエナメルになったりする。
クロームモリブデン鋼で作られており、世界トップクラスの防御を誇る…と内雑誌等では言われているが、対戦相手のアメリカでは「低品質でよく割れヘルメット」扱いだったりする。その上「ふちの処理がひどく首を切るので、兵士略帽を下にかぶっていた」ということになっていたりする。ホントに首を切るかどうかは不明。

防弾衣

いわゆる甲冑防弾チョッキ。軍正規品と民間品があり、将校が自分で買ったりいわゆる戦闘工兵が敵に接近する際に支給された。
400mくらいで7mm~8mmクラス小銃弾を跳ね返す。重いので近代戦に対応できず、大陸戦初期であっという間に消滅した。…塹壕戦だったら使えたかもしれない。

戦闘食

飯の防腐錠

この錠剤を入れてごはんを炊くと、一週間ぐらい常温で腐らないご飯ができる。
仕組みとしては炊飯の熱により剤がホルマリンに変化し飯を殺菌消毒、更に加熱すると一緒に入っているグルタミンナトリウムが余分なホルマリン分解化するというもの。
グルタミンナトリウムの効果により味の良いご飯になるため、兵士たちも積極的に使用したそうな。
気になる健康へのだが、ラットによる実験済みで問題なく海軍でも引っりだこっだった。
ちなみにホルマリンは法で食材への使用が禁止されており(当時から今も)、軍部のみの使用に留まっている。安易に真似しないように。

セロファン袋

ただの炊飯用セロハン袋だが、「味噌汁に入れて一緒にご飯を炊く」「芯が残っていたらもう一度茹でればOK」「敵弾下でも塹壕内から投げて配給」とかなり使い勝手が良くとても好評だった。
今でもキャンプ用として類似品が売られている。

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472 ななしのよっしん
2022/08/06(土) 17:37:54 ID: j8Bl56Ls5v
>>468
中国って他との軍事同盟に頼りきれないと自を防衛できないほどに
貧弱なだったのか… 知らなかったな(呆)

経済や技術もすべて米国依存しているんだね…

>>469
GDP中国アルゼンチンより低いと聞いたが…

それを抜きにしても近代化していない中国相手に8年戦争しても
できなかったという事実は変わらないね
(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
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473 ななしのよっしん
2022/08/16(火) 00:01:11 ID: CgD4LcQjXa
中国→ご存知膨大な人口
アルゼンチン→当時トップクラス先進国の一つ
較先が悪いんよw
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474 ななしのよっしん
2022/08/16(火) 06:59:02 ID: /K5dkKm1gI
中国は当時から人口4億の大だからね
一人当たりGDPが低くても人口パワーでそんじょそこらのよりGDP多くなるよ

アルゼンチン戦後になってからグッダグダになったけど、当時は
枢軸より中立してたおかげで両営と商売で来て大けしてたもんなぁ
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475 ななしのよっしん
2022/08/24(水) 04:35:35 ID: j8Bl56Ls5v
むしろそんな低レベルでよく中国米国を相手にしようと考えたよな

大和で何とかなるとか本気で思ってたんかな
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476 ななしのよっしん
2022/08/24(水) 04:39:59 ID: WYeiK/RuHL
>>475
中国は内戦状態でアメリカアジアへの橋頭保かった。フィリピン米軍基地があっても真珠湾で戦闘が起きただけで撤退を余儀なくされている。
連合視点で見れば「抑止の失敗」であり敵を過小評価してはいけないというて典例だろう。
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477 ななしのよっしん
2022/12/18(日) 12:35:06 ID: CgD4LcQjXa
>>475
そのへんはプーチンに聞けばだいたい分かるよ
らの核兵器戦艦とかに置き換えたのがこれだから
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478 ななしのよっしん
2023/04/03(月) 06:17:16 ID: dR2BROZSzA
ネタで書いてるけどジューコフの最も苦戦したのは〜って話はデマだしさすがに削除したほうがいいような気がする
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479 ななしのよっしん
2023/04/06(木) 03:37:09 ID: LE/v7hKTut
貧乏だからまともな機械化出来なかったというけどさえ食わせておけば文句言わずに死ぬまで働く歩兵という資がそれこそ使い捨てるくらい有り余ってたからそれに甘えてた側面もあるんじゃないか
食料問題で常に悩みの種だった余剰人口を有効活用できるし日本が持つ一豊富な資だったわけだから
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480 ななしのよっしん
2023/08/10(木) 18:37:02 ID: dR2BROZSzA
今気づいたけど大百科って松岡洋右の記事ないんだな
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481 ななしのよっしん
2023/09/11(月) 20:33:03 ID: VVrEduJd/C
イメージほど兵戦や銃剣術は評価されてなくて
地防御や狙撃の巧みさは高評価なんだっけ
あと擲弾筒はもう少し評価高くても良い気がする
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