「大村純忠」(おおむら・すみただ 1533 ~ 1587)とは、ポルトガルとの貿易とキリスト教の為に長崎を開港した日本初の切支丹大名であり、貿易による利益よりもキリスト教による救いを求めてキリスト教に改宗して暴走した事が切支丹追放令の遠因になった事に定評のある和製モズグス(のようなもの)。
大村氏を継ぐ
肥前の戦国大名・有馬晴純の子に生まれ、藤原純友の後裔を称する肥前の豪族・大村純前に庶子しか男子がいなかった事から、養嗣子となって大村氏を継いで大村純忠と名乗った。この庶子はのちに後藤氏の養子に出されて後藤貴明と名乗る。
庶子とは言え、実子でありながら家督を継げなかった事や、養子入りに大村純忠の父・有馬晴純が絡んでいるとされた事等から、後藤貴明は大村純忠を終世恨み続け、キリスト教徒になって以降の暴走に定評のある大村純忠を良く思わない大村家臣と結託して、たびたび大村純忠を危機に陥れた。
キリスト教受洗
松浦隆信が治める平戸港でポルトガル人殺傷事件起きた事から、新たな交易港を探していたポルトガル商人に対して、後藤貴明と言う明確に自分を狙っている敵の存在や急激に台頭してきた龍造寺隆信に対抗する為の資金確保の為に、大村純忠は自身の治める横瀬浦を提供し、イエスズ会に対しても住居を提供する等便宜をはかった事から、横瀬浦はポルトガル商人の寄港地となり、大村氏の財政も大いに改善され、大村純忠はトーレス神父から洗礼を受けて洗礼名:バルトロメオはキリスト教徒となった。
※大村純忠の四人の息子もキリスト教の洗礼を受けて洗礼名を持っている。
ポルトガル商人からの利益目的に洗礼を受けたともいわれるが、洗礼を受けて以降の大村純忠は、領内の寺社や異教徒である先祖の墓所を破壊し、領民にもキリスト教への改宗を強制したり、横瀬浦での仏教徒の居住を禁止する等、後にキリスト教徒の追放政策所謂バテレン追放令の遠因となる暴走を行った他、キリスト教徒となって以降は妻以外の女性と関係を持たない等良い方にも悪い方にも入れ込んでしまった事から、周辺に敵を抱える大村純忠としてキリスト教に心の拠り所を見出したのかもしれない。
長崎開港
大村純忠の政策により、領内には6万人を越えるキリスト教徒が集まったが、罰あたりで行きすぎた政策については、元々実子を押しのけて家督を継いだ身であることからも大村家中や領民への反発を買う結果にもなり、深堀純賢と図った西郷純堯の攻撃を受ける事になった。
熱心な仏教徒であり、大村純忠の兄・有馬義貞を囲う西郷純堯は、大村純忠にキリスト教を棄教すれば敵対する事をやめると、有馬義貞を通じて大村純忠に忠告したが、すでにモググズ化がはじまっていた大村純忠は、
自分がキリシタンであることには異義を唱えないでいただきたい。
自分は領国、家、家臣および生命を失っても棄教はしない。
と断固たる態度をとり、西郷純堯の数度にわたる攻撃に対抗した。
さらに、戦国時代のモズグスとして周囲にとっては大迷惑な方向にも暴走した大村純忠に対して、実子なのに大村家の家督を継げなかった事に恨みを抱いていた後藤貴明は、暴走する大村純忠に反発する大村家臣と結託して横瀬浦を焼き払った。
その為、大村純忠はとある寒村を新たな寄港地として与えた。後の長崎である。
三城七騎籠
大村純忠の資金源を焼き払ってもまだ恨みの晴れない後藤貴明が1500の兵を率いて攻め込んでくると、女子供も含めて80人程で居城の三城に籠り
天に代かわりてこの私が!!あなたにバチを当てましょう!!!
とばかりに使徒たる七人の配下の者達と共に後藤貴明の軍と戦うも、万事休すかと思われたタイミングで、城に入るのが遅れた家臣が偽って敵軍に加わり、敵将を傷つけて混乱を起こす幸運により、後藤貴明の軍が撤退し、龍造寺隆信の軍勢が長崎を襲撃した際も、ポルトガル商人の支援をうけて撃退した。
信仰とは、死ぬことと見つけたり!
といきりたった大村純忠だったが、龍造寺隆信の圧力に耐え切れず、息子達を人質に差し出して龍造寺隆信に半従属するかたちとなった為、長崎の生み出す利益をクマーなんぞに渡さんとばかりに、長崎をイエスズ会に寄進し、天正遣欧少年使節をポルトガルに派遣した。
※その後、長崎は豊臣秀吉により取り上げられて豊臣家の直轄領となった。
最初のキリシタン大名の最期
龍造寺隆信の命令により大村純忠は居城を追いだされた上に、人質に送っていた大村喜前と共に大村領に入ってきた龍造寺家臣によるキリスト教徒の殺戮が始まっても手を出すことの出来ない身に、大村純忠は顔面が平坦になるほどに地面に打ちつけたのではないかと思われる。
もはや肥前のクマーと言う名の使徒にしか見えなくなった龍造寺隆信の旗下として、甥の有馬晴信と島津家久のタッグに対抗した沖田畷の戦いに参加した大村純忠は空砲を撃つ等して戦いに参加せず、龍造寺隆信が島津家のベルセルクこと島津家久に討ちとられた際も特に敵方として島津勢に襲われることもなく、豊臣秀吉の九州征伐軍が上陸してくるとこれに従い、所領を安堵された。
様々なストレスが襲い来る中で信仰に活きた大村純忠は1587年に55歳で没した。
大村純忠の死後、大村純忠の生前の暴走が遠因であるバテレン追放令が発っせられた。
※その他「大村純忠」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
関連動画
▼萩原建設社員として田原親賢や佐伯惟教と共に登場するiM@S架空戦記シリーズ「律子の野望」(削除ずみ)
補足
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | 66 | 戦闘 | 37 | 智謀 | 49 | 政治 | 70 | 野望 | 34 | ||||
天翔記 | 戦才 | 94(C) | 智才 | 100(B) | 政才 | 138(B) | 魅力 | 66 | 野望 | 40 | ||||
将星録 | 戦闘 | 42 | 智謀 | 59 | 政治 | 67 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 51 | 戦闘 | 37 | 智謀 | 55 | 政治 | 59 | ||||||
嵐世紀 | 采配 | 39 | 智謀 | 44 | 政治 | 51 | 野望 | 11 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 53 | 知略 | 43 | 政治 | 58 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 52 | 知略 | 40 | 政治 | 59 | 教養 | 62 | ||||||
革新 | 統率 | 58 | 武勇 | 37 | 知略 | 48 | 政治 | 69 | ||||||
天道 | 統率 | 58 | 武勇 | 37 | 知略 | 48 | 政治 | 69 | ||||||
創造 | 統率 | 55 | 武勇 | 47 | 知略 | 50 | 政治 | 67 |
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関連コミュニティ
関連項目
- 日本初のキリシタン大名
- イエズス会
- 天正遣欧使節
- 南蛮貿易
- 有馬晴純
- 有馬義貞
- 有馬晴信
- 大村純前
- 大村喜前
- 後藤貴明
- 龍造寺隆信
- 戦国時代の人物の一覧
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