概要
時は第二次世界大戦の真っただ中、1938年に制定された陸上交通事業調整法に基づき、1942年から東京横浜電鉄(現在の東急)は傘下にあった鉄道会社やバス会社、タクシー会社、運送会社を合併していった。例えば京浜急行の本線の一部は東急品川線と名乗り、京王線も東急京王線と言う具合になり、バスも今風に言えば京急バスの久里浜営業所は東急バス久里浜営業所という具合に東京・神奈川の陸上交通は軒並み東急グループ独占状態であった。さらに系列を加えれば埼玉や静岡、長野などと関東圏の一大グループといえる状況でもあった。
戦後において、各々の会社で独立の機運が高まり、1948年に京王・小田急・相鉄が独立した。その他の会社も再編の中で独立をしていき、結局東急は合併前のエリアに落ち着いた。
傘下に入った会社
ここに記載している会社は現在の名称で表記する。
この他、多くの会社が傘下に入った。
大東急の名残
非常に広範囲にエリアを持っていた為、分離後も大東急時代の名残を残すものも存在する。
車両
東急のかつての名車にいわゆる旧3000系列があるが、1000系から始まらずこの数字から始まっているのは合併前の所属路線を基準にしていた為であり、1000系は小田急系、2000系は京王系で付番されていた。4000番台は忌み番なので5000系に飛んで、この番号は京急系に付番された。
独立後は概ね車番は踏襲されたが、京王1700形のように小田急(井の頭線)に導入されながら、戦後も車番がそのままであったケースもある。1700形が所属していた井の頭線は東京大空襲によって8割近い車両が稼働不能という壊滅的被害を受けたため、救済措置として後述する代田連絡線を敷設、1700形以外にも車両の融通が多く行われた。また、この車両は本来東急東横線用に導入され、先々に標準軌化の計画が予定されていたこともあり、今では見られない軌間の異なる井の頭線から京王線への転用も行われていた。
この他、東急3500形は他の旧3000系に見られない特徴である幅広の台車、即ち標準軌化を念頭に置いた設計をされていたり、これら戦時下に登場した車輛のシルエットはよく似通っているなど、色濃い特徴がある。
京王電鉄
良く知られているのは京王井の頭線である。京王線と井の頭線は元々の経営母体が異なり、井の頭線は小田急系列の帝都電鉄がルーツである。帝都電鉄はその後小田急と合併したので文字通り小田急線となった。戦時中には両線の車両を融通するための代田連絡線も設けられた。そして戦後の独立の中で本来ならば井の頭線は小田急系列に戻るはずであったが、何故か京王線に組み込まれた。これは戦前の京王の主力事業でもあった電力供給事業が大東急への統合の際に切り離されてたことで企業体力の弱かった京王を援助することが目的であったといわれる。
この為、線路の規格が京王線と異なり、1067mmの狭軌となっている。車両設計も井の頭線は「ステンプラ」で知られるオールステンレス車の3000系を1962年に既に導入したのに対して、京王線にオールステンレス車が登場したのは1984年の京王7000系とかなり時代が下ってからである。現在でも1000系のステンレス車体と日車式ブロック工法を採用している9000系とで設計思想がだいぶ異なっている。
この他、下北沢駅の京王⇔小田急の乗り換えには会社自体が異なるにもかかわらず、中間改札が存在しないと言う具合に歴史的な経緯がそこかしこに感じられる。しかし、この面影も複々線化の進捗で早晩消え去るものと言われる。
京王電鉄のかつての名称は「京王帝都電鉄」であったが、「帝都」の部分は帝都電鉄の部分をつかったものである。京王線部分の旧社名も「京王電気軌道」と「電鉄」の文字がなかったため、現社名の「京王電鉄」の「電鉄」も帝都電鉄由来といえるかもしれない。無理があるかな?
代田連絡線
前述した代田連絡線は空襲によって車両が焼失し、運行もままならない井の頭線に車両を融通する為に敷設された。井の頭線は他線と線路が繋がっておらず、近くを走る小田急線とつなげて当時経堂駅にあった小田急の車両工場まで被災した車両を運んだり、新車の搬入に使用された。現在の新代田駅と世田谷代田駅を結ぶ格好で敷設され、戦後の混乱の中でこの連絡線は大いに活躍したが、地権者からの返還要求があった事、戦時中の敷設と言う事で粗末な資材を使用していた事による設備の老朽化、井の頭線の新車搬入は陸路となった事で連絡線は廃止、戦後の復興の中で線路跡はきれいさっぱりと消え去り、そこに線路があった面影を見出すのは難しい。
とはいえ、線路があった部分の住宅街には不自然な形状になっている建物などがあり、細かな所にその痕跡を見出す事が出来る。また、地上駅時代の世田谷代田駅には上りホーム裏にかつての連絡線の線形と思われる不自然に湾曲している柵と空間があったが、地下化でその分かりやすい遺構は消えてしまったようだ。なお、新代田駅側にも車両の搬出入に使用したと思われる片渡り線があったが、結構前に無くなっている。
新宿駅敷地
現在の京王線新宿駅がある土地は、元々は東急東横線を新宿駅まで延伸する計画があった際に東横線新宿駅を建設するつもりだった敷地を転用したものである。
京王線開業から1945年までは京王線の新宿駅は甲州街道陸橋を併用軌道で乗り越えた先の新宿三丁目付近に存在した。しかし、太平洋戦争の空襲で電気を供給する変電所が被災し電圧が低下したため、電車が甲州街道陸橋を乗り越えられなくなり、この地に駅を移転させた。
京王の東急からの再独立、駅の地下化を経た現在も「幻の東横線新宿駅」の敷地に京王線新宿駅が存在し続けている。
余談だが、2013年に東横線と東京メトロ副都心線の相互乗り入れ開始に伴い、東急の新宿方面乗り入れが実現した。1936年の東横線渋谷~新宿間の免許失効から77年後のことである。
神奈川中央交通
元々、神奈川中央交通は独立したバス会社であったが、大東急への統合を経て、独立をする事になった。その中で小田急は井の頭線を京王の所有になったのでバーターとして神奈川中央交通を傘下に収めた。神奈川中央交通が神奈川県内の小田急沿線に多くの路線を持つのはこの経緯が無関係ではないと思われる。この他、現在の町田営業所は元々、同じ大東急傘下であった関東バスの営業所として作られ、当時の神奈中に系列間で譲渡された経緯がある。
社紋は東急電鉄の当時の社紋と酷似したものとなっている。但し最近CIマークが制定され代替されつつあるため、目にする機会は少なくなった。
神奈川都市交通
東急電鉄は大手私鉄としては珍しく、自前のタクシー会社を持っていないが、神奈川都市交通は主に田園都市線における構内営業が出来たり、東急のクレジットカードのポイントの付与と言う具合に見方によっては東急のタクシー部門と言う見方も出来る。資本も少し入っており、社紋も東急のものと酷似している。
その他
- 東京西南私鉄連合健康保険組合は元々、大東急の健康保険であり、現在も東急を始めとしたいくつかの私鉄やその傘下の会社の健康保険組合として存在している。無論、大東急下における元東急線の会社も入っている。
- 神奈川県の大和駅は相模鉄道と小田急電鉄の互いの乗り換えには中間改札を経ないで乗り換えができる。これもまた下北沢と同じ大東急時代は一緒の会社であったことの名残といわれているが、下北沢の例ほどに詳しい経緯が明言されておらず、真相は不明である。
- 静岡鉄道の1000形のシルエットは東急7200系の設計をベースとしており、また大東急の下では傘下に名を連ねていた。現在でこそ独立はしているものの、東急の資本が入っている。
- 関東バスは大東急から外れた後、持ち株が京王に行った。その為か車番などに京王の書体が採用されている。しかしかつての社長は東急出身であり、京王でもなく東急でもない独立色が目立ち、社長退任後はその傾向が強くなっていった。とはいえ、東急の拡大路線に間接的に協力するなど、細かな所で影響が見え隠れする。
- タクシーにおいては東京4社(大和自動車交通・日本交通・帝都自動車交通・国際自動車交通)に名を連ねる日本交通もまた、戦時統合の中で大東急傘下となり、戦後は東急グループとなった。現在ではタクシー部門全てが日本交通や神奈川都市交通になり、完全に独立し、東急と名のつくタクシー会社は東京、神奈川にはない。また場所によっては(日本交通は横浜にグループ会社を多く持っている)生い立ちが似通った神奈川都市交通と競合をしている。
- かつて存在した相鉄運輸は実は東急グループであり、東急の系列なのに名前は相鉄と言う一種のねじれ?もまた大東急の名残である。
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関連項目
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