大江広元単語

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大江広元1148~1225)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した公家・武将である。

概要

文章つかさどる中級公家大江氏の出身。大江、もしくは藤原大江維順のである。しかし明法博士中原広季の養子となり明法つかさどる中級公家中原氏が姓となる。1216年に再び大江姓に復した。このように文章と明法の両方の系譜をひき、学問と法律に優れた人物であった。

1184年に源頼朝の招きで鎌倉に下向し、幕府門所の別当となる。1185年には守護・地頭の設置を献策し、1190年には政所の初代別当となって幕府の基礎固めに尽した。

一方では明法博士、左衛門大尉検非違使に任ぜられ、朝廷と幕府の間のパイプ役となったのである。官位ももともと貴族であったことから陸奥守を経て正四位下まで上りつめ、北条氏よりも高かった。そのため源頼朝の死後は北条政子の信任を受けて、北条氏、特に北条義時と歩みを同じくする。

彼は官僚的気質から一貫して幕府の政争には冷静であり、比企能員源頼家畠山重忠北条時政平賀朝雅和田義盛らが失脚していくのに対し、事件鎮圧に淡々と参画したのである。そして承久の乱おこると、息子大江親広が後鳥羽院方についたにもかかわらず電撃的な進軍による積極策を進言し幕府を勝利させるきっかけとなった。賀氏の変では直ちに北条泰時執権の座につかせることを進言し、執権政治の成立を導いたのだ。

しかし1217年にの病を患って以来、病を押して活動していたが、1225年という北条義時の亡くなった翌年に亡くなることとなる。この年は北条政子も亡くなった年であり、幕府内の勢交代が起こりつつあった。

なお、息子のほとんどが宝治合戦で三浦方についたため没落し、その結果嫡流となった長井氏は官僚として室町時代に至るまで活躍する一方、毛利氏が西遷御人として安芸に土着し戦国時代どころか現代にいたるまで続いていくのである。

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2020/09/24(木)07時00分 現在

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