大波(夕雲型駆逐艦)とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した夕雲型駆逐艦7番艦である。1942年12月29日竣工。1943年11月25日のセント・ジョージ岬沖海戦で魚雷を受けて沈没。
概要
艦名の大波は文字通り大きな波の事。
夕雲型とは、前級陽炎型の性能を更に突き詰めて改良を施した艦隊型駆逐艦である。甲型駆逐艦とも。陽炎型の時点でほぼ理想的な性能を実現していたが速力が目標の36ノットに届かず、やむなく35ノットで妥協。この事を心残りに思っていた帝國海軍は速力面を改良しようと夕雲型の設計に着手する。陽炎型の時点で設計が完成されていたため小改良のみ実施、まず速力不足の原因が艦尾にあると考えて陽炎型より50cm延伸、スクリューの形状変更や艦橋を楔型に変える等の改良を加えて速力35.5ノットを発揮した。他にも主砲を12.7cm連装砲C型から同D型に変更して仰角を55度→75度に改良し、重油が冷えてドロドロになるのを防ぐための加熱装置を重油タンクに新設している。
第三次ソロモン海戦で猛威を振るった猛将こと吉川潔中佐が艦長に就任し、各種輸送任務や護衛任務を遂行。ラバウル空襲では対空砲火で敵機4機を撃墜した。
要目は排水量2077トン、全長119m、全幅10.8m、最大速力35.5ノット、出力5万2000馬力、重油搭載量600トン、乗員225名。兵装は12.7cm連装砲3基、25mm連装機銃2基、61cm四連装魚雷発射管2基、九三式魚雷16本、爆雷18個。
大波は夕雲型の中でも特に影が薄い。「駆逐艦大波」と画像検索しても護衛艦のおおなみか、姉妹艦の画像ばかりが出てきてしまう。原因として考えられるのは、現存する写真が1枚も無い、実績が輸送任務や護衛ばかりで目立った戦果が無い、大規模な海戦に全く参加しておらず、最期の戦いとなったセント・ジョージ岬沖海戦では何も出来ないまま沈没、全乗員が戦死しているため大波視点の戦記や記録が残っていない、艦船擬人化や海戦ゲーに取り上げられた事が無いといった事が挙げられる。
司令駆逐艦の座と名艦長を戴く格式ある駆逐艦
猛将の魂を宿す
1939年に策定されたマル四計画において甲型一等駆逐艦第122号艦の仮称で建造が決定。1941年11月15日に予算1060万5000円を投じて藤永田造船所で起工、開戦後の1942年6月20日に駆逐艦大波と命名され、8月31日に進水式を迎える。11月15日に平山敏夫少佐が艤装員長に就任。彼は駆逐艦白雪の艦長も務めていて、損傷修理のため内地帰投中だった。
11月23日より造船所の片隅に艤装員事務所を設置して業務を開始するが、完成が間近に迫った12月20日、吉川潔中佐が新たな艤装員長に着任。吉川中佐は第三次ソロモン海戦で駆逐艦夕立の艦長を務め、単独で巡洋艦2隻撃沈、2隻撃破、駆逐艦1隻撃沈、3隻撃破というとんでもない戦果を挙げた猛将であった。その代償に弾片で頭、顔、肩、腕等をえぐられて重傷を負い、夕立も撃沈されてしまうも無事生還。負傷していた事もあり吉川中佐には海軍兵学校教官への転任命令が出される。しかし吉川中佐はそれを断って前線勤務を強く希望、それが認められて大波の艤装員長へと据えられたのだった。
こうして猛将の魂を宿した大波は年の瀬も迫った12月29日に竣工。同日中に艤装員事務所が撤去された。
初陣はガダルカナル島撤退作戦
1942年12月29日に竣工した大波は、舞鶴鎮守府に編入され、呉鎮守府直卒部隊に部署、同日付で涼月、初月、大波の3隻は警備駆逐艦に指定された。
1943年1月7日から16日にかけて瀬戸内海西部で慣熟訓練に従事し、それが終わると呉へ帰投。1月20日午前9時30分、トラックに向かう重巡洋艦愛宕を護衛して呉を出港。同日付で第2艦隊第2水雷戦隊第31駆逐隊に転属。いよいよ最前線に赴く時が来た。翌21日、洋上にて軽巡長良と合流し、長良艦長の指揮下に入る。1月25日15時30分にトラック諸島へ無事入港。最初の航海をつつがなく完了させた大波であったが、右舷送水筒の故障が発覚したため工作艦明石から姉妹艦長波用のものを転用して修理を行い、1月30日に完了した。大波がトラックに進出した頃、ガダルカナル島からの撤退を企図した「ケ」号作戦が始まろうとしていた。前進部隊に編入された大波はガ島に突入する収容部隊を間接援護するためアメリカ艦隊の注意を引き付ける囮を担う。
1月31日午前6時30分、前進部隊警戒隊の一員として軽巡神通、駆逐艦朝雲、五月雨、陽炎、時雨、敷波とともにトラックを出撃。続航する隼鷹、瑞鳳を基幹とした航空部隊のため午前8時から午前10時45分までトラック北水道海面の対潜掃討を行い、午前10時50分に泊地から出港してきた航空部隊の直衛に回った。2月1日より駆逐艦による撤収作戦が開始。前進部隊はわざと目立つように之字運動を繰り返し、高速で右往左往して敵の目を引き付けようとする。万が一収容部隊が攻撃を受ければ壊滅は火を見るより明らか。そうなればガ島に取り残された将兵約2万は敵中に孤立してしまう事となる。緊迫の時は続く。
2月6日21時、牽制のため大波は長良、初雪、時雨とともに前進部隊から分離して南進、翌7日午前7時にガ島北方550海里に到達して北上を開始し、2月8日午前6時に本隊と合流して補給を受ける。3回に渡って行われた撤収作戦は、姉妹艦巻雲を触雷で喪失してしまったものの、1万2682名を収容して予想以上の成功を収めた。これに伴って前進部隊も帰路に就き、2月9日16時45分にトラック泊地へ帰投。大波たちの活躍により多くの将兵の命が救われる事となった。
太平洋を縦横無尽に駆け巡る
ガダルカナル島とブナからの撤収を終えた後、陸海軍が協議を行い、敵の航空兵力からなるべくラバウルを遠ざける目的でニュージョージア島及びイザベル島以北の堅持を決定。ニューギニアと中部ソロモン方面への増援輸送が開始される運びとなった。
2月12日、巻波から第31駆逐隊の旗艦を継承し、香川清登大佐が座乗する司令駆逐艦となる。当時南東方面にあった艦艇の大半は、ガダルカナル島争奪戦が勃発した1942年8月から戦い続けており、損傷修理や整備の必要性から連合艦隊司令部は艦隊の内地帰投を決断。2月15日午前11時、内地の各軍港に帰投する戦艦金剛、榛名、重巡鳥海、利根、水上機母艦日進、商船改造空母冲鷹、隼鷹等を護衛してトラックを出港。数多の駆逐艦や輸送船の墓標となったガダルカナル島を背に新たな目的地に向かう。舞鶴や呉に向かう僚艦と別れて大波、嵐、鳥海、冲鷹の4隻は2月20日午前10時30分に横須賀へと入港。2月25日に新たな就役艦清波を第31駆逐隊に加える。
しかし内地帰投しても休む間は与えられず、2月28日13時、萩風とともに航空機を満載した冲鷹を護衛して横須賀を出発。3月5日午前7時にトラックへと入港して南東方面での護衛任務に就く。大波は主に物資集積地となっているラバウルへ向かう輸送船の護衛を担当。先のビスマルク海海戦で駆逐艦4隻を失ったため駆逐艦の不足が一層深刻化していた。
3月9日19時3分、ギルバート諸島タラワへ佐世保第7特別陸戦隊を送る事が決まり、第2水雷戦隊に護衛用の駆逐艦2隻の派出を求めたところ、大波と清波が選ばれた。3月12日午前5時、今度は駆逐艦清波と特設巡洋艦西貢丸、盤谷丸を護衛してトラックを出港。護衛兵力の不足から艦隊型駆逐艦と言えど護衛任務に駆り出されていた。3月17日朝、タラワ近海にてナウルから飛来した第755航空隊の哨戒機に一時米巡洋艦部隊と誤認される事もあったが午後12時30分にタラワへ到着し、西貢丸と盤谷丸が輸送してきた佐世保第7特別陸戦隊を揚陸、3月20日午前6時にタラワを出発。クェゼリンに向かう清波と別れた。3月27日正午にサイパンへ到着した時に特設巡洋艦2隻と別れ、大波単独で15時に出港、3月29日午前10時30分にトラックへ帰投した。
4月3日午前8時、出動訓練のため出港。環礁外にて清波と主砲射撃、主砲対空射撃、機銃対空射撃を行い、17時に環礁内へと戻った。ウェーク島方面やトラック近海で米潜水艦の跳梁が激化し、商船の喪失が相次いでいる事を鑑み、トラック進出中の駆逐艦2隻を一時的に内南洋部隊へ編入させる事とし、4月9日に大波と清波が内南洋部隊へ転属する。
4月14日14時、清波とともに雄島、豊光丸、長光丸を護衛してトラックを出港。道中でラバウル行きの大波と長光丸、カビエン行きの清波、雄島、豊光丸のグループに分かれ、4月19日午前5時にラバウル到着。4月23日午前10時、ラバウルを出発する天城山丸、菊川丸、二号天洋丸をたった1隻で護衛し、4月27日午前10時30分に無事トラックまで辿り着いた。トラック近海においても米潜水艦の活動が度々報告されていた事から、4月30日15時20分、環礁外での対潜掃討任務のため出撃。
5月1日15時45分に環礁内へ帰投した。5月3日午前8時30分、最上川丸、新夕張丸、北開丸を護衛してトラックを出港、5月7日午前10時33分にラバウルへ入港する。5月9日午前4時30分、第2030船団を護衛してラバウルを出港、道中カビエンに寄港したのちトラックに向かう。5月10日に内南洋部隊から原隊の第31駆逐隊に復帰。5月13日午前9時、トラック入港。触雷により陽炎・黒潮・親潮の3隻を一挙に失った事で護衛任務は更に多忙を極めていく事となる。
5月17日正午、トラックを出発する日本丸を環礁外150海里の地点まで護衛するため出発し、米潜水艦が遊弋する危険な北水道の突破を援護したのち、翌18日13時にトラックへと帰投。続いて5月21日13時、給糧艦間宮他6隻で編制された船団と駆逐艦春雨をを礁外150海里まで護衛するべく出港、翌日18時にトラックまで戻った。5月24日午後12時30分、旗艦神通、清波と出動訓練のため出発。煙弾射撃各艦3発、対空射撃、主砲2発、25mm機銃15発、13mm機銃20発、魚雷発射2本の発射を行うとともに夜間砲撃訓練、礁外にて約45分間の最大戦速航走を実施。猛特訓を重ねて乗員の練度を高めていった。5月30日、トラックを出港する日栄丸を礁外150海里の地点まで護衛。
6月10日、隼鷹がトラックに輸送した第2航空戦隊の人員と物件をマーシャル方面に輸送するため、大波、隼鷹、神通、江風、夕暮の5隻で東方部隊を編制。隼鷹からブラウン基地宛ての隼鷹・飛鷹の搭乗員と物資を受け取った大波は6月14日にトラックを出港。6月15日から17日までブラウンに寄港して輸送物件を揚陸し、6月18日、回航された先のクェゼリンでマキン行きの第18御影丸と合流、行き先がタロアに変更となったため6月21日に同地へ第18御影丸を護送。それが終わると帰路に就いて6月26日にトラックに帰投した。
7月7日、大波の内地帰投も兼ねて、特設水上機母艦山陽丸と特設給兵船興業丸を護衛してトラックを出発、7月11日に山陽丸とともに呉へ到着。実に半年ぶりの内地帰投となった大波は早速工廠に入渠して整備を受ける。とはいえ大した休暇もなく、7月18日に駆逐艦漣と南海第4守備隊の第二次進出部隊を乗せた特設給兵船日朗丸、日威丸を護衛して呉を出発。道中の20日に漣が船団より離脱したため護衛任務を一手に引き受けた。7月28日午前6時にトラックへと入港。輸送船2隻は護衛艦艇を変えてラバウルに向かっていった。何かと共に行動する事が多かった清波が去る7月20日に沈没し、大波は相方を失ってしまう。
8月4日午前4時15分、内地に向かう商船改造空母大鷹を駆逐艦舞風と護衛してトラックを出発。同日夕刻に舞風が分離したため大波ただ1隻で大鷹を守らなければならなくなってしまった。そしてその隙を海中の怪魚は見逃さない。8月6日13時、対空教練のため之字運動を停止して直進していた大鷹に向けて米潜水艦パイクが放った魚雷6本が迫り、このうち1本が右舷中央部に命中。幸い不発で被害は無かった。大鷹は潜望鏡に向けて高角砲や機銃で応戦、すぐに大波も駆け付けて制圧射撃を行ったが、損傷を与えられないままパイクに逃げられてしまっている。8月9日に横須賀へ到着して大鷹の護衛任務を終了。8月15日に母港の舞鶴へ回航されて入渠整備を受ける。
9月3日、長波や五月雨とともに出撃準備を完了。9月7日14時に舞鶴を出港して翌日17時に瀬戸内海西部の八島泊地へ到着。長波ともども新設された第11水雷戦隊に混じって訓練を行う。9月10日午前5時に八島泊地を出発した大波は戦隊の指揮下で訓練を行い、20時10分に柱島泊地へと移動。大本営陸軍部は中支那派遣軍から戦力を抽出してトラック地区やマリアナ方面、ニューブリテン島方面の防備を強化しようとし、それを支援するため海軍は大型輸送船や巡洋艦を投じて丁一号から四号からなる輸送作戦を実施する事に。翌11日、大波はGF電令作第698号により第31駆逐隊から除かれて丁一号輸送部隊に編入、これに伴って午前6時に柱島を発ち、同日午前11時に呉へと入港。丁一号輸送部隊の兵力は軽巡多摩、栗田丸、谷風、大波の計4隻であった。
9月17日午前10時に呉を出発し、陸軍の船舶部隊司令部がある宇品港へ午前11時45分に到着。現地で陸軍部隊を乗艦させる。9月18日17時、ポンペイ島に向かう特設巡洋艦粟田丸を僚艦と護衛して宇品を出港。道中何事も無く9月26日午前5時45分にポンペイへ到着して部隊を揚陸し、9月30日午前5時に粟田丸を護衛してポンペイを出発、10月1日午前10時20分にトラック泊地へと入港した。ここで、コロンバンガラ島沖海戦で撃沈された軽巡神通に代わり、新たな第2水雷戦隊旗艦となった能代(軽巡洋艦)と顔を合わせる。しかし能代は練度未熟なまま内地から進出してきたため環礁内で慌ただしく教練を行っている最中だった。丁一号輸送を完了させた大波は遊撃部隊に編入。
10月6日未明、トラックに向かっていた給油艦風早が米潜スティールヘッドの雷撃を受けて損傷、救援のため午前7時50分に長波とトラックを出発するが、現場海域に到達する事無く16時50分に帰投。風早の救助は軽巡五十鈴や駆逐艦海風、初風によって行われたものの、風早はあえなく沈没してしまった。
Z一号作戦で勇躍出撃するも
その頃、アメリカ軍の猛攻は留まる所を知らなかった。10月5日、モントゴメリー少将率いる米第14機動部隊が北東のウェーク島を空襲し、第22航空戦隊に甚大な被害を与え、7日未明にも敵艦上機が大挙来襲したため、午前7時20分、連合艦隊は丙作戦第一法警戒を発令。トラック在泊の艦艇に出撃準備を下令する。10月8日午前2時、旗艦能代、駆逐艦海風、涼風、大波、長波はトラックを出撃し、ブラウン島に向かう。同島には第61警備隊が基地用レーダーを持って駐屯しており艦隊の前進基地として理想的だったのだ。15時49分にブラウンへの進出を完了。
10月10日に準戦技のため礁外にて諸訓練に従事。10月12日午前8時、巻波とともにブラウンを出撃して探知された敵潜水艦の対潜掃討を実施、15時25分に敵潜らしき反応を探知して大波が爆雷を投下したが手応えが無く、未だブラウン近海を遊弋しているものとして明朝に掃討を再開。敵艦隊に備えてブラウンで待機する大波であったが、得られた情報を統合してみたところ、敵に空襲以上の意図は無いと判断され、大波と巻波は対潜掃討を打ち切って10月13日午前6時35分にトラックへ帰投した。
連合艦隊旗艦の戦艦武蔵には司令部付きの暗号解読班が乗り組んでおり、彼らは新しい無電の呼び出し符号がホノルル発の電信に度々現れている事に気付いた。連合艦隊はこれを米空母が近く作戦を再開する予兆と判断。古賀長官はトラック在泊の主力を投入して艦隊決戦に持ち込むZ一号作戦を発令する。10月17日早朝、武蔵のマストに「出港用意、移動物固縛」を意味する信号旗が掲げられた。午前7時4分、戦艦金剛や榛名を基幹とした主力艦隊とともに一躍トラックを出撃。午前8時30分から午前9時40分まで礁外の対潜掃討を行って主力艦隊の安全を確保し、翔鶴、瑞鶴、瑞鳳を中心とした輪形陣を組んでトラック近海に潜む敵潜水艦を振り切るため24ノットに増速、危険海域を突破した後は15ノットに落とした。そして前回同様、10月19日午後12時40分にブラウンへ進出する。
一方、敵の動きを探るため伊36にハワイを航空偵察させたところ、港内に戦艦4隻、空母4隻、巡洋艦5隻、駆逐艦17隻の在泊が確認され、敵艦隊が出撃していない事が判明してしまう。勇んで出撃したところで戦う相手がいなければ意味が無い。決戦の機会を逸した事でブラウン以東への進出は中止。
古賀長官はウェーク方面に再び敵が来攻すると考え、10月23日午前1時56分に艦隊はブラウンを出発。ウェーク南方まで進出したのち西方海域の索敵を行う。しかし敵空母出現の兆候は認められず、10月25日に航空教練で発進した最上の艦載機が行方不明になった上、何ら戦果を挙げられないまま瑞鳳を護衛して帰路に就き、10月26日15時にトラックへと帰還。10月29日、機動部隊第2部隊に転属。
獄炎に包まれるラバウルでの死闘
10月31日午前4時、第2航空戦隊の基地員物件をカビエンに届けるべくトラックを出港。カビエン近海は作戦計画に支障を与えかねないほど敵の機雷敷設が激しい場所だったが、11月1日午前6時35分、幸い触雷する事無くカビエンへ入港して輸送人員と物件を揚陸、完了後はラバウルに向かった。
11月2日午前3時にラバウルへ無事到着。今まで攻撃らしい攻撃を受けなかった大波にいよいよ敵の魔手が迫る。午前10時40分、ラバウルにB-25爆撃機72機とP-38戦闘機80機が出現して激しい空襲が始まった。シンプソン湾にはブーゲンビル島沖海戦から帰投した部隊が入港したばかりで非常に動きづらい中、大波、時雨、白露、五月雨、長波等が銃爆撃をかわしながら対空戦闘を行う。吉川艦長の指揮の冴えにより激しい空襲を無傷で切り抜け、大波は敵機3機を叩き落として戦果を挙げた。この攻撃で船舶15隻が撃沈される被害が生じたが、敵の攻撃はこれで終わりではなかった。
11月5日午前9時17分に空襲警報が発令され、米空母サラトガとプリンストンから飛び立ったF6Fヘルキャット戦闘機52機、TBFアベンジャー雷撃機23機、SB2Cヘルダイバー急降下爆撃機22機の計97機がラバウル上空に出現。飛行場から零戦71機と彗星5機が迎撃に上がると同時に湾内の艦艇も航行を開始。艦艇を狙うアベンジャーとヘルダイバー、これを迎撃する零戦と阻止しようとするヘルキャットが乱れ飛び、ラバウル上空はたちまち弾幕に包まれた。艦載機による攻撃は午前9時44分に終了したが、入れ替わるように27機のB-24と67機のP-38が襲来して戦闘続行。最終的に空襲警報が解除されたのは21時17分の事だった。一連の対空戦闘で大波は1機撃墜の戦果を挙げる。しかし損害も大きく、戦死者134名と重軽傷者190名以上を出し、零戦3機及び彗星1機が失われた。空襲が終わった翌日の11月6日13時48分、巻波や長波とともにラバウルを出港。南東方面部隊挺身輸送部隊警戒隊に所属して第10戦隊の指揮下に入る。
去る11月1日早朝、ブーゲンビル島タロキナ岬にアメリカ軍海兵隊が上陸。南東方面艦隊はタロキナへ逆上陸を仕掛けるべく駆逐艦天霧、文月、卯月、夕凪からなる輸送隊を送り込み、その直接援護を警戒隊の大波、巻波、長波に命じていた。輸送隊は闇夜に紛れるように翌7日午前0時15分よりタロキナへの揚陸を開始し、午前0時45分に作業を完了して帰路に就く。これに伴って警戒隊や支援隊も反転、大波ら3隻は午前7時10分にラバウルへ帰投したが、午前10時5分にラバウルで空襲警報が発令されて1時間ほどの対空戦闘を強いられる。11月8日と9日は空襲こそ無かったものの警報が三度に渡って発令。
11月11日午前6時30分、近海に敵空母が確認されたため湾外への退避を開始。そして午前6時57分に空襲警報が発令、その2分後に敵艦上機158機が出現し、緊急発進した零戦107機と協力して対空戦闘を実施。この戦闘で第2水雷戦隊に入ったばかりの駆逐艦涼波が沈没、長波も後部に飛来して航行不能に陥る被害を受けた。空襲の間隙を縫って大波は涼波艦長の神山昌雄中佐や水雷長以下約100名を救出。更に身動きが取れなくなった長波を湾外まで曳航しようとしたが、ワイヤーがスクリューに絡まってしまったため巻波が代わりに曳航している。
午前9時30分、南東方面艦隊司令・草鹿任一中将はこれ以上の被害拡大を防ぐため大破した重巡摩耶や第2水雷戦隊、第10戦隊、潜水母艦迅鯨をラバウルから引き揚げさせた一方、無傷で空襲を切り抜けていた大波はラバウル残留を命じられる。これによりラバウルに留まった第2水雷戦隊所属艦は大波が旗艦を務める第31駆逐隊(大波、巻波、長波)だけとなった。
セント・ジョージ岬沖海戦への道のり
11月20日、ラバウルやトラック在泊の艦艇を寄せ集め、軽巡夕張を旗艦とした襲撃部隊を編制。大本営はアメリカ軍の次なる目標をブーゲンビル島北西のブカ島と睨み、ラバウルの第17師団を輸送して兵力を増強しようと考えた。実際に兵力を輸送する天霧、夕霧、卯月を第31駆逐隊の大波と巻波が支援する。
11月21日13時26分、第一次ブカ輸送作戦のため巻波とラバウルを出港。警戒隊に所属しながらも大波も物資・人員を積載しており、翌22日午前5時25分にブカへ到着して陸兵約700名と物資25トンの揚陸に成功、敵に発見される前に反転離脱してラバウルへ帰投した。11月24日13時20分に第二次ブカ輸送のためラバウルを出撃。20時49分、輸送隊がブカに到着して兵員約920名と物資35トンを揚陸、代わりにブカから引き揚げる海軍航空要員600名を乗せて帰路に就く。沖合いで警戒していた大波と巻波は敵魚雷艇群の襲撃を受けたが被害は無かった。
突然訪れた最期
1943年11月25日午前0時、ラバウルへの帰投中、ニューアイルランド島セント・ジョージ岬東方でアーレイ・バーク大佐率いる第23駆逐戦隊にレーダーで先制探知され、大波たちが気付かない遠方から一斉に魚雷を放ってきた(セント・ジョージ岬沖海戦)。突然魚雷の群れが日本駆逐隊に突き刺さり、このうち大波には推定2本の魚雷が命中して真っ先に轟沈。吉川艦長や香川大佐を含む全乗員230名が戦死してしまった。生き残った巻波は反撃を試みようとしたが撃沈され、逃走を図った夕霧も集中砲火を浴びて沈没。海戦から生還したのは天霧と卯月だけだった。
セント・ジョージ岬沖海戦の敗戦により帝國海軍はソロモン諸島に対する鼠輸送を打ち切り、以降は上陸用舟艇や潜水艦を使って細々と補給していく事となる。戦死した香川大佐は少将へ特進した一方、吉川中佐は駆逐艦長としては異例の二階級特進して少将になっており、上層部から功績を認められていた事が窺える。また本海戦と吉川艦長の戦死は日米の技術格差を象徴するものと言えた。
関連項目
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