大津事件とは、日本が法治国家であるための重要な転機となった明治時代の事件である。
概要
明治24年(1891年)5月11日、事件は起きた。
ロシア帝国の皇太子ニコライは日本を訪問していた。当時、日本は近代化して間もない弱小国、ロシアは世界最強クラスの大帝国で、まさに象と蟻のような関係であった。皇太子の身に何かがあれば、日本など簡単に吹き飛ばされ、植民地とされてしまう。そんな緊張が日本中を包んでいた。
だが、滋賀県滋賀郡大津町(現:大津市)において、こともあろうに皇太子の警護をしていた巡査・津田三蔵が皇太子にサーベルで斬りかったのだ。
津田は皇太子に同行していたギリシャ王国のゲオルギオス王子や人力車の車夫らによってすぐに取り押さえられ、皇太子も顔に怪我をしただけで命に別状は無かったものの、頭蓋骨に裂傷が入り、後遺症として頭痛が残ってしまった。
事件の報復としてロシアが攻めてくるという恐れから、日本中が大パニックとなった。日本中の神社、寺院、教会では皇太子平癒の祈祷が行われ、皇太子への見舞いの電報は1万通を超えた。また、事件と何の関係もない山形県のある村が、犯人の津田三蔵の姓名を禁ずる条例を決議したこともあった。
あまりの事の重大さに、現地の皇族や関係者らは自分達の手には負えないと判断。明治天皇に緊急行幸を要請し、天皇自らが直々にニコライ2世を見舞う事態となった。
一番の問題となったのは、犯人である津田三蔵に対する刑罰である。
明治政府は津田に本来日本の皇室に対する罪である大逆罪を適用し、死刑にすべきであると主張した。死刑にしなければロシアの許しが得られず、日本は植民地となってしまう、という主張からである。
これに対し、大審院(今の最高裁判所)の院長である児島惟謙(いけん・これたか)は、法治遵守主義を唱え、できたばかりの法律を曲げることこそが欧米に所詮は黄色人種に法治国家など不可能なのだと舐められ、国家百年の計を誤る。法を曲げることこそが植民地化への道に他ならないとして、通常の殺人未遂の適用を主張した。
三権分立がとられているため、明治政府には津田の判決を決める権限は無い。政府は大審院に圧力をかけて、なんとしてでも津田を死刑にしようとした。
大逆罪適用による死刑か。殺人未遂による無期徒刑か。全世界が大津事件の判決に注目した。
結果は無期徒刑。法治国家日本は守られたのである。これによって、諸外国は日本を近代国家と認め、不平等条約の改正が早まることになったのである。
大逆罪適用の圧力が、児島に「ロシアの皇太子と日本の天皇を同一視するのか」の一言で跳ね返されたことも大きかったが、何より"天皇より直々の指名を受けた"大審院院長という児島の地位と主張は政府と言えど覆せなかったというのが、児島の勝因であった。
これらの経緯が、三権分立、法の秩序の独立性の重要性を示す美談と言う文脈で語られることもある。
しかし本事件は上記のように、「本来この事件の裁判官でもない児島が」「天皇より直々の指名を受けたという権威を示すことで」なんとか法を曲げることを回避したというケースであり、いわば「権力からの圧力を他の権威によってねじ伏せた」のみとも言える。
実際この事件の後にも、政治的な意向によって審理が歪められたケースは国内・国外を問わず多発しており、日本そして世界各国が本当の意味での「法の秩序の独立性」「三権分立」を確立するには未だ時間が必要であった。
また児島惟謙を始めとした当時の法曹界上層部は、当時の政府内で薩摩藩および長州藩の出身者が幅を利かせていた状態(いわゆる藩閥)に批判的・対立的であったとも言われている。
政府からの圧力への反発の理由として、「法の独立護るべし」という信条ももちろんあったであろうが、そのような派閥的対立も背景として影響していたのではないか……という考察をしている文献もある。
事件後
ロシア公使のシェービッチは対外強硬派で、大津事件後は津田三蔵の死刑を要求しており、自分の要求が通らず無期が確定となったときには「どの様な事態になるか分からない」という脅迫めいた発言を残している。しかし、ロシア皇族が日本に友好的であったのか [1]日本の対応の早さを評価したのか、結果として日本に対する報復や制裁などは行われなかった。それどころか、ニコライ2世は離日する際に侍従武官名義で感謝状を新聞に寄稿している。 [2]
ロシアも近代国家なのだから、皇太子を傷つけられたとはいえ法を守った近代国家に対して強引に攻撃しては、国際社会から非難を浴びる可能性もあり、それも勘案していたものと思われる。また、ロシア側もただ死刑を求めていたわけではなく、ロシア外相のニコライ・ギールズは、津田に死刑判決が下った直後にロシア皇帝が減刑嘆願を行い、そのおかげで減刑されて無期徒刑となるという大国ロシアの懐の大きさをアピールする筋書き(いわゆる「仁慈」)を用意していたといわれている。(なお、当の皇帝本人は、明治天皇が直接謝罪したことを高く評価しており、津田の無期徒刑という日本側の処置にも満足の意を示していたといわれている)
余談だが、この事件にショックを受け、「ロシアの皆様、皇太子様を傷つけて申し訳ございません。でも日本にはいい人もいます。この事件を申し訳なく思う人もたくさんいます。だからどうか日本を攻撃しないでください」という手紙を携えた女性が京都府庁前で自殺するという事件が起こった。これがロシア側の心証にいくらか作用していた可能性も皆無ではない。
当時の日本の新聞は最初、津田を大逆罪で死刑に処すべきと書き立てていたが、ロシア側が何もしてこないことが分かると手のひらを反して法を捻じ曲げて津田を死刑にしようとした政府を糾弾し始め、政府はそれらの新聞に対して発行停止処分を下すなど厳しい態度で臨んだ。
一方でロシアの新聞は、皇太子を守ったのは一緒にいたゲオルギオス王子だけであり、日本人はただ傍観していただけだったという事実無根の内容を書き立てていたが、こちらもロシア政府の報道管制によって沈静化した。
ゲオルギオス王子と一緒に皇太子を助けた2名の人力車夫は、日本政府・ロシア政府双方から勲章や多額の報奨金と年金を支給されたが、片方は博打や買春に明け暮れた挙句、婦女暴行事件を起こして勲章を取り上げられ、さらに日露戦争とロシア革命によって年金も停止され、晩年は困窮した。もう片方は郷里に土地を買って地主となり、その後郡会議員にまで上り詰めたが、日露戦争の勃発によって露探(ロシアのスパイ)扱いされ、戦死者の遺族などから糾弾された。しかし現在は郷里の英雄とされており、地元の神社に記念碑がたてられている。
関連書籍
- 大津事件日誌 (児島惟謙, 1971) | 平凡社
- 児島惟謙 大津事件手記 (山川雄巳 編注, 2003) | 関西大学出版部
- 児島惟謙: 大津事件と明治ナショナリズム (楠精一郎, 1997) | 中央公論新社
- 護法の巨人 児島惟謙と其時代 (原田光三郎, 1940) | NDLサーチ(国立国会図書館サーチ)
関連項目
脚注
- *ニコライ2世の日記には日本を観光したときの記述があり、そこには事件のことも記されていたが、日本を嫌う様な内容はとくに記述されていなかった。一方で、皇太子の日記には「助けてくれたのはゲオルギオスだけで、群衆は誰一人として私を助けようとしてくれなかった。」と書いてあったとする説もある。(しかし事件の目撃者は、皇太子を助けた一番の功労者は2名の人力車夫であると裁判で証言しており、後にニコライ2世もこれを認めている)
- *しかし、こののち三国干渉を行ったのも、日露戦争で戦ったロシア側のトップも、このニコライ2世である。後にロシア首相となるセルゲイ・ヴィッテは、この事件以降、皇太子は日本人に対して嫌悪感を持つようになり、この日本人蔑視が日露戦争の遠因になったと分析している。
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