大淀(おおよど)とは、
- 大淀川 - 宮崎県を流れる河川。
- 大淀町 - 奈良県吉野郡に存在する町。
- 大淀 - 大阪府大阪市北区の地名。
- 大淀- 日本海軍が保有した軽巡洋艦。命名は1.に由来する
- おおよど - 海上自衛隊の護衛艦。あぶくま型護衛艦三番艦。
- おおよど - 博多駅~宮崎駅間を熊本駅経由で結んでいた特急列車。
この記事では4.について記述する。
名前の由来は1.の大淀川で、宮崎県に由来する艦名としては<霧島>、<日向>に続き太平洋戦争期で3隻目。
華々しき諸元
1939年、マル4計画において建造された軽巡洋艦である。同型艦は計画段階で中止された<仁淀>。ちなみに<仁淀>は未成艦になってしまったものの、その艦名は戦後になって護衛艦<によど>として陽の目を見る事になる。
ところで<大淀>は、「丙巡」である。甲乙丙でいう丙。排水量8000トンと同期の「乙巡」である阿賀野型より3000トンも大きいが「丙巡」である。とはいえこれは別に設計ミスとか勘違いとかでもなんでもなく、ただ用途別に甲乙丙と分けただけの事らしい。丙型二等巡洋艦第136号という仮称を付けられ、1941年2月14日に起工。翌年3月10日に軍艦<大淀>と命名され、横須賀鎮守府に配属。4月2日に進水し、1943年2月28日に竣工した。
その諸元はといえば主砲として15.5cm三連装砲を二基前部に集中配置、対空兵装に長10cm高角砲を4基。その機関は高温高圧缶の搭載で11万馬力を誇り、公試最大速力は阿賀野型に勝る35.5ノット。しかもアッと驚く為五郎、実戦ではなんと39.5ノットを発揮できたといわれ、秋月型駆逐艦のような同時期の駆逐艦にすら匹敵・凌駕する快速艦であった。夕張より、ずっとはやい!!
船体も大型化。軽巡洋艦の中では最大級の長さを誇る阿賀野型をも凌駕し、重巡洋艦の青葉型に匹敵する長さとなった。計画途中では最上のように航空巡洋艦として建造する案もあったが、中途半端になるという事で却下され、軽巡洋艦としての建造と相成った。
そして何より、大型化した船体には魚雷発射管の代わりに水上偵察機6機分の搭載設備と格納庫、そして大型射出機を備え、偵察巡洋艦ないし航空軽巡とでも言うべき存在となっていた。搭載する水上偵察機はといえば、「紫雲」という超かっこいー高速水上機を新開発。しかも露天係止であった「航空巡洋艦」利根型と違い、独立した格納庫を甲板上に設置。すごい!たかなみ型みたい!
軽巡洋艦である<大淀>にそのような航空艤装が求められたのは、ひとえに潜水艦の目としてである。
潜水艦の索敵といえば、基本は浮上しての露天艦橋からの偵察か、あるいは潜望鏡。ときおり水上機を載せている潜水艦もあるが、やはり運用面で潜水艦には限界があるというもの。そこで、高速かつ視野の広い空からの目で標的を見つけ出し、麾下の潜水艦に情報を与える潜水艦隊の旗艦。それが<大淀>に求められた能力だったのだ。
しかも長時間の航海が予想されたため冷暖房完備。平均的な公立小学校より環境が良いな、おい。
……しかしまあ、何事もそう上手くは行かないものである。現実は厳しい。
どうしようもない諸々の問題
水上偵察機が使えない問題
超かっこいー高速水上機こと、十四試高速水上偵察機、E15K「紫雲」。それは君が見た光。
その簡単な開発目標は、「敵の戦闘機より先へ――《加速》したくはないか?紫雲」みたいな感じ。無茶言うな。
しかしそこは二式大艇を作った川西。すごく頑張った。とても頑張った。
ヤマグチノボル一押し二式戦闘機「鍾馗」 でも使用された二重反転プロペラを本邦初採用(ただしよく故障する)。
空気抵抗を抑えるためのフロート落下装置の配備(ただし実験機喪失が怖いので試してない)。
これらの新機軸を交えて三年間頑張った結果、達成した最高速度は468km/h!零式水偵より100km/hも速い!
……のだが、 相手はF6Fヘルキャットである。最高速度612km/hである。所詮水上機、どこかの艦偵みたいな「我に追いつく敵機無し」なんてご都合主義、無理だったのだ。現実は厳しい。
その艦偵もF6Fに実質勝てないとか言ってはいけない。現実は厳しい。
そういうわけで、敵の戦闘機を振りきって敵艦隊を偵察する高速水上機なんて、日本にはなかった。
……というか、そもそも「念仏行者が臨終のとき、仏が乗って来迎する雲」なんて意味のネーミングはどうなのよ。
そもそも使い所がない問題
潜水艦隊旗艦としての<大淀>が成すべき仕事は、いわゆる「漸減要撃作戦」の一部として潜水艦の網を張り、敵艦隊を発見次第周辺海域の潜水艦を急行させ雷撃を仕掛けて主力艦の一隻なりとも減らすことだった。
後甲板を全て航空艤装に当てたのはそのためだった。魚雷発射管を積んでいないのもそのためだった。
しかし。
諸兄もお察しの通り、4年に渡る太平洋戦争で、そんな状況は起きなかったのである。
敵がかつてのバルチック艦隊の如く総力を上げて太平洋を押し渡ってきたりなんてしなかった。
漸減作戦を実行しようにも、何段にも渡る太平洋の戦略縦深なんてものはなかった。時代は航空決戦だった。
そんな中で、2番艦<仁淀>すら建造が中止されてしまった<大淀>が単独で出張る場所なんて、なかったのだ。
そういうわけで実際の状況
生生流転
そういうわけで、いまいち使うタイミングが無くなってしまった<大淀>。とはいえ、別にやたら高重心だとか、やたら対空砲が故障するとか、やたら速いだけで防御が残念とか、そういったたぐいの何か欠陥がある訳でもないので、竣工以来一年以上にも渡って内地や南洋で訓練や輸送を繰り返すことになる。中には機動部隊でアッツ島反撃作戦へ参加のため待機ということもあったが、これは中止になってしまった。
1943年7月には南洋を守備する陸軍部隊をラバウルへと運び、12月には戊一号輸送作戦に従事してカビエンへと兵員・物資を輸送。この最中となる翌1944年1月、空襲を受けて小破している。2月には内地へ戻りサイパンへと軍需輸送にあたる。このように、潜水艦隊の旗艦として設計されたはずの<大淀>が本来の運用をされないまま、太平洋戦争の戦況は変転していく。
しかし、確かに<大淀>に載せる予定の偵察機はいまいち使えない子だったし、<大淀>が潜水艦を率いて出張る機会も失われてしまったとはいえ、潜水艦隊旗艦としての設備はきちんと整っていた。広大な太平洋に広がる潜水艦に命令を下すための、十分な通信能力を有していたのである。電波ゆんゆん。
時は折しも、栄光の第一艦隊第一戦隊も大和ホテルとか武蔵旅館とかやってられなくなってきた時期。もはや指揮官先頭の時代でもなくなってきたというわけで、この第一艦隊と連合艦隊司令部を分離しようという話が持ち上がった。そこで連合艦隊は通信能力が整い、その上不遇にも半ば遊休状態の<大淀>に目をつける。そして1944年3月、連合艦隊司令部を<大淀>に置くための改装工事が横須賀にて始まった。
最後の連合艦隊旗艦
連合艦隊旗艦にすると言っても、もともと高くない戦闘能力をこれ以上下げる訳にはいかない。そこで犠牲にされることになったのは、結局まともに使える予定のないやたらと大きな水上機格納庫と大型射出機である。
後方に大きく開いた格納庫の開口部を閉じてしまい、中身を上中下三段に区切った中段を連合艦隊司令部としての作戦室に仕立てる。 上下段もそれぞれ連合艦隊司令部に付随する諸々の施設に改装された。ただし司令長官室と参謀長室だけは艦橋真下にあったというから、誰かが追い出されたということだろうか。
1944年5月3日、豊田副武大将が第29代連合艦隊司令長官に親補されると、同時に連合艦隊旗艦は<大淀>に移された。日清戦争における防護巡洋艦<松島>以来50年ぶりに、連合艦隊司令長官の将旗が戦艦以外の軍艦の主檣に翻ったのだ。そして木更津沖及び柱島に停泊した本艦から、マリアナ沖海戦の指揮が執られた。
しかし、やっぱり連合艦隊司令部は軽巡洋艦に載せるには大きすぎた。潜水艦隊向けの通信能力は低くは無かったが全艦隊を指揮するには十全とはいえなかったし、ついでに格納庫を司令部施設という重量物にしてしまったせいでバランスも悪化するという有り様。最大戦速で転舵すると、被弾したと錯覚するくらい大きく傾斜してしまうんだとか。結局、連合艦隊司令部は半年で<大淀>を降りてしまった。さらに連合艦隊司令長官豊田副武大将は「こんな小さな艦で戦死したら連合艦隊の足元を見られる」とバッサリ切り捨ててしまっている。
……何事も、そううまくは行かないものである。
戦場へ
<大淀>の連合艦隊司令部がついに陸に上がり、横浜日吉台の海軍地下壕に完全に移ったのは9月29日。
それから一週間ののち、レイテ沖海戦に先立って<大淀>は小沢治三郎中将指揮下の第三艦隊に編入される。通信機能に優れた<大淀>を旗艦にする案もあったが、小沢中将がそれを嫌がったようで結局瑞鶴が旗艦となった。
第三十一戦隊旗艦として駆逐艦四隻を率い、さらに艦隊予備旗艦として戦闘中に有事あるときは艦隊司令部を座乗させることとなっていた。
そして10月25日。エンガノ岬沖海戦が生起。小沢艦隊は次々に戦力を喪失していった。比較的大型艦だったためか、<大淀>も集中攻撃を受けたが、自慢の対空砲火で生き延びる。午前10時54分、そしてレイテ沖海戦のさなか、被弾炎上・傾斜する第三艦隊旗艦<瑞鶴>から予備旗艦たる本艦に第三艦隊司令部が移乗。ついに戦場で司令部設備を役立てる時が来たのである。<大淀>は自慢の対空兵装を振りかざし、対空主砲弾の8割近くを撃ち尽くすほどに健闘しつつ撤退。27日、奄美大島で連合艦隊司令部を降ろした。
その後再び南方に向かった<大淀>は木村昌福少将率いる挺身部隊に所属し、ミンドロ島沖海戦を戦うことになる。この時空襲を受け機関室に爆弾直撃を受けるも不発で終わり、速力低下のみの被害で済むという幸運を受けた。
最後の作戦
いよいよ太平洋戦争も押し詰まってきた1945年2月、かの北号作戦に参加。今度は広大な司令部設備(旧格納庫)を輸送設備に改造し、ドラム缶と天然ゴムを詰め込んでいる。水上機格納庫としては結局出番のなかったあの大きな箱が、後に司令部設備に流用され、今度は輸送庫として使われることになった訳で、そこが面白いというか、なんというか。
さて、今更説明の必要もないとは思うが、この北号作戦は見事なまでに成功する。
本土に戻った<大淀>は燃料不足から練習艦に格下げされたものの、数少ない無傷の艦艇として呉に残った。
3月19日、呉軍港が米軍に空襲された際に機関室に大損害を受け、事実上航行不能となり浮き砲台となる。
7月29日、呉軍港空襲によって艦橋至近をはじめ次々と被弾、横転転覆し、その戦歴を終えた。よくよく考えれば司令部設備を積んだ改装以降の高重心を修正する機会が結局無かった訳で、傾斜転覆も当然のことだったかもしれない。
同年11月除籍。47年引き揚げ・傾斜復旧の上ドックで解体されている。
関連動画
関連項目
- 2
- 0pt