大石鍬次郎とは新選組の隊士である。
概要
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一橋家の家臣であったが、元治元年(1864年)10月に江戸で新選組の隊士募集に応じ入隊。新選組では諸士調役兼監察を務めた。
慶応3年(1867年)11月18日の伊東甲子太郎暗殺事件(油小路事件)で襲撃に加わり、12月5日の天満屋事件にも出動した。
慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いに敗れて敗走後、3月の甲州勝沼の戦いに参加したが、近藤勇が投降すると脱走。その後東京に潜伏していたが、元新選組の三井丑之助と、元御陵衛士の加納道之助によって誘い出され捕縛された。加納から坂本龍馬暗殺について尋問を受けた大石は、拷問から逃れるため新選組がやったと自供したが、その後兵部省での取調べ中に「あの供述は拷問から逃れるためのものだった」として具体的な人名を出し関与を否定した。
兵部省口書 元一橋家来大石捨二郎倅
新選組 大石鍬二郎
新 吉 午三十三歳
口 書(前略)且つ同年十月比、土州坂本龍馬、石川清之助(中岡慎太郎)両人を暗殺之儀、私共の所業には無之、是は見廻り組海野某、高橋某、今井信郎他壱人にて暗殺致候由、勇(近藤勇)より慥(たしか)に承知仕候。先達薩藩加納伊豆太郎に被召捕候節、私共暗殺に及び候段申立候得共、是は全く彼の薩の拷問を逃れ候為にて、実は前に申上候通に御座候。(下略)
兵部省に続き刑部省での取り調べでも以下のように供述し、新選組関与を否定した。
刑部省口書 元一橋家来大石捨二郎倅
新選組 大石鍬二郎 午三十二(三)歳
口 書(前略)その節、伊豆太郎(加納道之助)よりあい訪ね候には、京師において土州藩坂本龍馬殺害に及び候も、私どもの所業にこれあるべく、その証は場所に新選組原田左之助差科の刀鞘落としこれあり、その上勇(近藤勇)捕縛の節、白状に及ぶの旨申し聞き候えども、右はかねがね勇咄には、坂本龍馬討ち取り候ものは見廻組今井信郎、高橋某等、少人数にて剛勇の龍馬刺留め候義は感賞いたすべくなど、おりおり酒席にて組頭のもの等へ噺候を脇聞きいたしおり候えども、右のとおり就縛候上は即坐に刎首いたさるべくと覚悟いたし候に付き、右用の申し訳はいたし候も、誓言と存じられ、私所業の趣申し答え置き候ところ、はからずも同月中兵部省へ御引渡しにて(下略)
これらの証言から函館戦争の投降者のうち、元新選組の横倉甚五郎、相馬肇、そして名指しされた元京都見廻組の今井信郎が取り調べを受けることになった。その結果横倉も相馬も新選組関与については全く知らない事が分かり、更に今井が詳細な供述をしたため新選組関与の可能性はなくなったが、伊東甲子太郎暗殺については公務ではなく私闘であると見做され、明治3年(1870年)10月10日に伝馬町獄舎にて斬首された。享年33。
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