大豊泰昭(本名:陳大豊、1963年11月15日 - 2015年1月18日)とは、台湾出身の元プロ野球選手である。
日本では中日ドラゴンズ、阪神タイガースに所属した。弟の大順将弘も元プロ野球選手、また巨人に在籍していた呂明賜は高校時代の後輩。
概要
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台湾にて4兄弟の長男として生まれ、野球は小学5年生から始めている。
中学生の時に初めて台湾出身であり、ハンク・アーロンが持っていた通算755本塁打という記録を抜いた王貞治のことを知り、以降大豊は王貞治にあこがれを抱き、「いつかこの人に会いたい」という思うようになる。
そして華興高2年の時、野球部監督の知り合いで、日本で新聞販売店及びスポーツ用品関係の仕事をしていた松井秀郎という人物から「金銭援助もするから日本のプロを目指してみないか」という誘いが舞い込み、大豊もこの提案に賛同したが、台湾では兵役があるためすぐには実行に移せなかった。
台湾で兵役を免除されるためには「身長190センチ以上か体重が90キロ以上」という条件があり、大豊は体重の条件に該当していたが、それを証明してパスポートを入手できるようになるには20歳からだったため、大豊は高校卒業後の2年間は母校でコーチをしつつ、日本語学校に通って日本語を勉強する日々を送る。
そして83年の12月にようやく来日を果たすが、今度は外国人枠に縛られないために「5年在住すれば日本のドラフトの対象になる」という条件を満たすため、日本の名古屋商科大学に進学。
大学では愛知大学野球リーグ記録となる24本塁打を放ち、全日本にも2度選出され、卒業後は残り1年分を中日ドラゴンズの球団職員として過ごした。
そして1988年、台湾の高校卒業から実に7年となる歳月をかけ、大豊は中日ドラゴンズにドラフト2位で指名され、ついに憧れていた日本のプロ野球界に飛び込む。背番号は憧れの王貞治が作った本塁打記録と同じ「55」を選んだ。
当時の監督であった星野仙一によって大豊は1年目からレギュラーに抜擢されるが、本来のポジションである一塁には落合博満がおり、慣れない外野を守ることとなったため、打撃では打率.233、14本塁打36打点という成績に終わる。
それでも3年目の91年には26本塁打72打点という成績を残し、92年は足の故障で11本塁打と成績を落としたが、秋季キャンプでは張本勲の指導で王貞治の代名詞だった一本足打法に挑戦する。
大豊は一本足打法をモノにするため一本足のままで1分間立ち続けた後にボールを打ったり、赤ん坊をあやす時でさえも一本足のままあやす等の努力を重ね、93年は25本塁打と記録する。ただ試合では相手投手によってタイミングを外されることも多くなり、結果的に三振も増えている。
転機となるのは94年、それまで一塁の絶対的レギュラーだった落合博満がFAにて読売ジャイアンツに移籍したため、大豊は一塁のレギュラーの座を手に入れると、それまで負担となっていた外野守備から解放されたためか、この年130試合にフル出場し、7月31日の広島戦では3打席連続本塁打を記録する暴れっぷりで一時は三冠王も狙える位置にいたが、最終的に打率.310、38本塁打107打点という成績で首位打者こそ同僚のパウエルに譲ったが、初の打撃タイトルとなる本塁打王・打点王に輝く。
ちなみのこの38本塁打の内、18本が広島から放ったものであり、同一カード年間本塁打の記録となっている。
また同年発生した中日と巨人の優勝決定戦となった10.8決戦では4打数無安打に終わった。
95年は故障もあって24本塁打65打点と不本意な成績に終わったが、96年は再び打棒が爆発し38本塁打89打点という成績を残したが、本塁打王は同僚の山崎武司に1本差で持っていかれ、打点王も広島のロペスが獲得。
97年は本拠地が広いナゴヤドームに移り、さらに腰痛にも苦しめられるようになって打率.240、12本塁打35打点と打撃不振に陥り、広いドームにおいて守備を重視する方針に切り替えた星野監督によって、オフに矢野輝弘と共に関川浩一、久慈照嘉とのトレードで阪神タイガースに移籍。
阪神1年目の98年は打率こそ.231ながら21本塁打61打点と持ち直し、99年は代打での出場も増えたことで規定打席には到達しなかったものの、打率.341、18本塁打39打点の好成績。さらに高井保弘、石嶺和彦と並ぶ歴代2位の6本の代打本塁打を放ち、8月24日から10月1日にかけて26試合連続安打という記録を残した。
ちなみにこれほど打撃好調だったのにもかかわらず出場が少なかったことに関して一部では「野村監督と対立して干された」と言われているが、実際にはこの年限り阪神に在籍したマーク・ジョンソンいたからであり、そのジョンソンが弱点を露呈して打撃不振に陥った後半戦は先発起用も増えている。
2000年は前年よりも出場機会を増やし、打率.241、23本塁打54打点とまずまずだったが、契約更改では本塁打・打点は増えたものの、打率が著しく下がったことを指摘されて30%のダウン提示をされたことに納得がいかず自由契約となり、中日に復帰する。
しかし中日では阪神以上に出場機会に恵まれず、自慢の打撃も2年間で7本塁打に終わり、2002年オフに戦力外通告を受けた後も現役続行を希望したが獲得球団は現れず、現役を引退した。
引退後は中日のアジア地区担当スカウトとして中日にチェン・ウェインを入団させた他、名古屋に中華料理店「大豊飯店」を開業する。
2009年、2010年に急性骨髄性白血病を患い、一時は死も覚悟したというが、妹のヒト白血球型抗原が大豊と完全一致していることが判明し、これを移植して退院。(完治したわけではない)2011年3月26日には上述の「大豊飯店」を閉店し、同年5月26日に岐阜県内に「大豊ちゃん」として移籍オープン、抗がん剤の副作用耐えつつ毎日お客さんに料理を提供していた。しかし、2015年1月18日に名古屋市内の病院で死去。享年51歳。
引退後の肩書は「中日球団台湾地域情報提供員」だったらしい。
エピソード
90年に結婚し、2女をもうける。長女は宝塚音楽学校を次席で卒業している。
妻は2005年に亡くなっているが、監督として大豊を間近で見ていた星野仙一・野村克也はそれぞれ「大豊がこんなに選球眼がいいとは思わなかった、野球ではボール球ばかり振るくせに」・「大豊のストライクゾーンは地上2階、地下1階だが、なんで女性を見る選球眼はこんなにもいいんだ」とコメントしている。
中日時代の97年、この年はアメリカから審判の技術の向上としてマイク・ディミュロ審判が来日していたが、6月5日の中日対横浜戦おいて大豊の打席の際に、大豊がディミュロの判定に不服な態度を示したためディミュロは報復措置として次のボール球をストライクとし、大豊は見逃し三振となる。
しかしこの判定に納得のいかない大豊は「ホワイ、ストライク?」と尋ね、これが「アメリカにおいて審判の判定は絶対」という考えに反するものだったためディミュロ審判から退場を言い渡されるが、これに怒った大豊は審判の胸を小突き、さらにこれに星野監督以下コーチなどが続いたため、ディミュロ審判は「経験したことのない恐怖感を覚えた」として翌日に辞表を提出している。
またこの年の7月3日の横浜戦では「台湾に帰れ!」というヤジに激昂してバットを投げ、3試合の出場自粛処分を受けた。
現役時代のころから頭髪が薄いことをネタにされていたが、99年の9月9日の中日戦では長髪がトレードマークだったサムソン・リーからバックスクリーン脇の育毛剤の看板に直撃するホームランを放ち、そのあまりに狙ったかのような状況から珍プレー扱いをされてしまっている。
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外部リンク
関連項目
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