大野治房(1576頃~?)とは、戦国時代の武将である。
概要
大野治長の弟で、大坂の陣の際の豊臣方の武闘派として知名度が高い。なお、『法隆寺文書』に慶安2年(1649年)に彼の捜索が行われた際生きていたら72~3歳とあるので、おおよそ天正4~5年(1576~1577年)の生まれ。通称は主馬首。
慶長16年(1611年)に徳川家康のもとに訪れたのが初見。このくらいの頃に古田織部から千利休の秘伝を伝授され、諸々が藤堂家に残っていたが、関東大震災で失われた。
豊臣秀頼の使者として徳川家康らの前に現れることが多かった傍ら、ひそかに浪人を募っていた。『翁草』で直前まで大坂城にいた畠山政信が言うには、大坂方の主力はほとんどが少身のもので、彼も千石程度の身代であったようだ。しかし以下の浪人たちが大野治房の指揮下に入った。
初戦の真木嶋昭光と赤座永成の堺制圧に加わり、以後各地を転戦していく。しかし、大野治房が担当していた防衛ラインでトラブルが相次ぎ、後退することとなった。『大坂御陣覚書』によると、これに反対した大野治房を始末しようとしたも失敗して、結局命は助けられた大野治房が後退して引き続き指揮を執ることになったが、事実かは不明。
以後、何かと夜襲を起こそうとする大野治房があちこちでトラブルを引き起こし、結局塙団右衛門とともに実行して成功した。
大坂冬の陣が終わると、怪しいそぶりを見せていた石川外記を粛正し、引き続き軍事行動をひそかに進行させていた。しかし、これはどうも大野治長のあずかり知れぬことであり、兄弟仲の悪化が進み、大坂夏の陣の開戦当初大野治長の暗殺未遂の黒幕に大野治房の名前も挙げられていたほどであった。なお、大坂城を退去した織田有楽斎によると、3つの派閥に分裂した豊臣方のうち、長宗我部盛親、毛利吉成(いわゆる毛利勝永)、仙石秀範が大野治房の派閥にいると述べた。
大野治房は以後も大和、紀伊、和泉などを転戦していくが、塙団右衛門を失う。しかもこれがきっかけで岡部大学がその遠因であるという話が持ち上がり、離反者が現れてしまった。5月7日以降の激戦も耐えたが、大野治房は行方不明になってしまい、徳川方から卑怯者呼ばわりされていった。
以後、大野治房の足跡は途絶え、妻・いんせいと息子・大野宗室が彦根藩の城下で医者を営んでいたことが慶安年間に発覚する。かくして、一緒に暮らしていた大野治房の家族はあらかた罰せられた。
この結果、板倉重宗が井伊直孝が苦言を呈すほど捜索網を敷く。慶安2年(1649年)には子息とされる永井勘兵衛も処刑され、ついに行方不明のまま退場してしまったようだ。なお、鳥取池田家に仕えた山本五郎右衛門が子孫を名乗っているが、事実かは不明。
補足
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | 118 | 智才 | 50 | 政才 | 108 | 魅力 | 49 | 野望 | 74 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | 50 | 智謀 | 28 | 政治 | 46 | 野望 | 55 | ||||||
蒼天録 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天下創世 | 統率 | 54 | 知略 | 28 | 政治 | 46 | 教養 | 30 | ||||||
革新 | 統率 | 62 | 武勇 | 44 | 知略 | 39 | 政治 | 52 | ||||||
天道 | 統率 | 62 | 武勇 | 44 | 知略 | 39 | 政治 | 52 | ||||||
創造 | 統率 | 58 | 武勇 | 51 | 知略 | 43 | 政治 | 52 | ||||||
戦国立志伝 | 統率 | 58 | 武勇 | 64 | 知略 | 43 | 政治 | 52 |
関連項目
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