大隈重信(1838~1922)とは、幕末から明治時代初頭にかけて活躍した人物である。
概要
佐賀藩士で、板垣退助と並ぶ自由民権運動の旗頭、および日本最初の政党内閣「隈板内閣」の際の内閣総理大臣としてもおなじみ。幼名は八太郎。最初の諱は信義。
佐賀藩士・大隈信義の長男として会所小路に生まれる。大隈家は代々萩野流砲術師範を務め、父も石火矢頭人を務めた。大隈重信も藩校・弘道館で学び、安政元年(1855年)に枝吉神陽を盟主とする勤王組織「義祭同盟」に参加して、尊王攘夷活動に身を投じた。
慶応3年(1867年)になると長崎に佐賀藩の英学塾・蛮学稽古所(のちの致遠館)を創設し、実質的な経営者となる一方で、大隈重信自身も宣教師フルベッキに英学を学ぶ。明治元年(1868年)には新政府の徴士、やがて参議となって鉄道・電信の建設事業、工部省の開局、財政改革に尽くして近代産業の発展を推進した。
しかし、明治14年(1881年)の明治十四年の政変で下野。明治15年(1882年)には立憲改進党を結成する。同年には東京専門学校(のちの早稲田大学)を創設した。やがて、伊藤博文・黒田清隆両内閣では外務大臣を務めたものの、明治22年(1889年)に条約改正交渉中、改正案に反対する政治組織・玄洋社社員・来島恒喜の投弾に遭って右足を失うほどの重傷を負い辞任する。
明治29年(1896年)に進歩党を結成、明治31年(1898年)には板垣退助と憲政党を結成し、日本最初の政党内閣「隈板内閣」を組織する。明治40年(1907年)にいったん政界を引退し大学総長に就任したが、大正3年(1914年)に立憲同志会の援助のもと第二次大隈内閣を組織。第一次世界大戦に参戦して対華21カ条要求を強行した。
大正5年(1916年)には今度こそ完全に引退し、亡くなった際には国民葬が行われた。
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関連項目
第7代 | 第8代 | 第9代 |
伊藤博文(無所属) 1898 |
大隈重信(憲政党) 1898 |
山縣有朋 (無所属) 1898~1900 |
第16代 | 第17代 | 第18代 |
山本権兵衛(無所属) 1913~1914 |
大隈重信(無所属) 1914~1916 |
寺内正毅(無所属) 1916~1918 |
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