天下五剣(てんがごけん)とは、日本刀の中でも特に名刀と呼ばれる5振のことである。
天下五名剣とも。
概要
出典は不明だが、室町時代の日本では既に使われており、口伝えに広まった言葉だという。
江戸時代に本阿弥光遜が、明治時代に本阿弥日洲が用いた記録がある他、明治から昭和にかけての刀剣研究家はこの名称を用いており、完全に定着したのは明治以降という考え方もある。
5振とも出来栄えだけでなく、由緒や伝来も加味された上での選定であるため、各々が名士の持ち物であり、また様々な逸話を持っている。
一覧
童子切安綱(どうじぎりやすつな)
平安時代の刀工・大原安綱(おおはらやすつな)の作。
大包平(おおかねひら)と共に「日本刀の東西の両横綱」とも絶賛される傑作である。
銘 安綱(名物 童子切)
国宝(昭和26年(1951年)6月9日)
所蔵:東京国立博物館(東京都台東区)
刃長:二尺六寸五分(約80.3cm)
平安時代、源頼光が丹波国(現在の京都府)大江山に住み着いた鬼・酒呑童子の首をこの太刀で切り落としたという「大江山の鬼退治」の伝承からこの名がついた。
時代が下って足利将軍家に渡り、代々の重宝として数多の名刀と共に大切にされた。15代将軍・足利義昭から豊臣秀吉に贈られ、徳川家康、秀忠へと受け継がれた。
秀忠の娘の輿入れと共に越前松平家、更に津山松平家と渡り、同家の家宝となる。
元禄年間に町田長太夫によって試し斬りが行われ、六人分の罪人の死体を重ねたものを切断した上、下の土壇まで斬れ込んだという凄まじい逸話が存在する。
昭和8年(1933年)1月23日、旧国宝第一号の指定を受ける。太平洋戦争終結後は売立に出されて刀剣愛好家の許を転々とし、昭和39年(1963年)に文化庁が買い上げ、国有化された。
たびたび展示の機会があり、年1回の頻度で東京国立博物館にて公開されている。直近では2018年11月~2019年2月に公開された。
鬼丸国綱(おにまるくにつな)
鎌倉時代の刀工・粟田口国綱(あわたぐちくにつな)の作。
国綱は後鳥羽上皇御鍛冶番を務めた名工であり、粟田口一門は多数の著名作を作刀したことで名高い。
銘 国綱(名物 鬼丸)
御物
所蔵:皇居内 山里御文庫・御剣庫蔵(東京都千代田区)
刃長:二尺五寸八分五厘(78.2cm)
鎌倉時代、鎌倉幕府五代執権・北条時頼が、夜ごと夢の中で小鬼に苦しめられるという怪事があった。
しかし夢枕に立った老人の言葉に従い、この太刀を手入れして枕元に置くとひとりでに倒れ掛かり、火鉢の台に施された細工の小鬼の首を斬り落としたという。以後悪夢を見る事はなく、時頼の病は快癒した。
北条家の重宝として伝わるが、鎌倉幕府の崩壊と北条氏滅亡に伴い新田義貞、更に足利尊氏に渡り、以後は足利家に伝来した。
童子切同様に豊臣秀吉、徳川家康へと受け継がれ、後水尾天皇の皇太子誕生に際して贈り物とされるが、皇太子が若くして亡くなった為に不吉であるとして返されてしまう。
以後は京都の刀剣鑑定師・本阿弥家によって保管されていたが、明治維新後に処遇に窮して新政府に届け出た結果、改めて明治天皇の許に届けられ、御物となった。
皇室の所有物であることから、展示される機会は限られている。直近では2002年に公開された。
三日月宗近(みかづきむねちか)
平安時代の刀工・三条宗近(さんじょうむねちか)の作。
天下五剣の中でも最も美しいと評され、刀身に三日月形の打除け(うちのけ)が見られることからこの名がついたとされる。
銘 三条(名物 三日月)
国宝(昭和26年(1951年)6月9日)
所蔵:東京国立博物館(東京都台東区)
刃長:二尺六寸四分(約80.0cm)
伝来については不明な点が多い。足利家の重宝であったとされ、十三代将軍・足利義輝が三好三人衆らに攻められた折、最後の抵抗において振るわれたという話もあるが、巷説の域を出ない。はっきりした来歴は豊臣秀吉の正室・高台院(寧)が所持していたという記録からになる。
高台院の死後は徳川秀忠に贈られ、徳川将軍家に長く伝来した。
昭和8年(1933年)に旧国宝指定を受けた後で同家から売りに出され、刀剣愛好家・渡邊三郎の所持となった。
その後平成4年(1992年)、渡辺氏の子息から東京国立博物館に寄贈。この時同家では三条宗近の伝承を題材とした長唄「小鍛冶」を流し、見送ったという。
たびたび展示の機会があり、年1回の頻度で東京国立博物館にて公開されている。2018年秋に京都国立博物館の特別展「京のかたな 匠のわざと雅のこころ」にて通期展示され、貴重な裏面が公開された。
※ 個別記事 → 三日月宗近
大典太光世(おおでんたみつよ)
平安時代の刀工・三池典太光世(みいけでんたみつよ)の作。
古刀らしからぬ非常に広い身幅と、他の太刀と比較しても短めの刀身が特徴。
銘 光世作(名物 大典太)
国宝(昭和32年(1957年)2月19日)
所蔵:前田育徳会(東京都目黒区)
刃長:二尺一寸七分(約66.1cm)
鬼丸や童子切同様に足利家に伝来し、豊臣秀吉が所有することとなる。その後前田利家に渡ることになったが、その霊威によって利家の娘・豪姫の病を平癒させたと伝えられている。
前田家では大典太を特別な蔵に置いて大切にしたが、「鳥や小動物が近寄らず、蔵の屋根に止まった鳥が急死して地面に落ちた」という話が伝わっており「鳥止まらずの蔵」と呼ばれたという。
寛政年間に山田浅右衛門による試し切りが行われ、死体の胴二つを切断し、三つ目の背骨で止まったという記録が存在する。
以後は長らく前田家に伝えられ、現在は前田家の文化財を保存・管理する前田育徳会が所蔵。
直近では2015年5月に公開。2019年秋に福岡市博物館の特別展「侍~もののふの美の系譜~」にて展示。
数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ)
鎌倉時代の刀工・青江恒次(あおえつねつぐ)の作。
朝廷から「備前守」の受領名を拝命し、後鳥羽上皇御鍛冶番を務めた。
銘 恒次(名物 数珠丸)
重要文化財(昭和25年(1950年)4月13日)
所蔵:本興寺(兵庫県尼崎市)
刃長:二尺七寸七分(約82.1cm)
鎌倉時代の僧・日蓮が所持していたとされる。日蓮が諌暁と幕府に対する批判によって甲州身延山へ配流された時、信者から贈られたという。
日蓮はこの太刀の束に数珠を巻き、刀としてではなく護身用の杖として用いたと伝えられる。
日蓮の没後は護法の宝として身延山久遠寺で大切にされていたのだが、享保年間の記録を最後に所在が不明となり、長らく消息が解らなかった。
それから約2世紀後の大正9年(1920年)、宮内省の刀剣御用掛・杉原祥造が、さる華族の競売の中から数珠丸を発見。私財を投じて落札し、身延山久遠寺に返還を申し出るものの、真贋を疑われて断られてしまう。止むを得ず杉原氏は当時自宅前にあった日蓮宗の寺院・本興寺に相談を行い、同寺に奉納されることとなった。
普段は非公開だが、毎年11月3日の「本興寺虫干会」にて特別公開されている。
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