「天野景貫」(あまの・かげつら 15??~158?)とは、戦国時代の武将である。今川家・徳川家・武田家・北条家に仕えて活躍した。
概要
はじめ今川家に仕えて三河平定戦で活躍。
今川家が衰退すると徳川家に従ったが、すぐに武田家に仕えた。
1574年の犬居城の戦いでは城に籠城して徳川軍を撃退した。
長篠の戦いの後、徳川軍の攻撃を受けると天野景貫は開城して武田領へ退去した。
武田家滅亡後は北条家に仕えて、佐竹家との合戦で活躍した。
今川家時代~犬居城の戦い
遠江の国人・天野家の分家の出身。遠江天野家は遠江北部の有力な国人であり、南北朝時代から今川家に従い活躍した家柄だった。
天野景貫も父や天野家宗家と共に今川家の武将として働き、三河攻略で活躍して今川義元から感状を与えられた。
桶狭間の戦いの後、遠江の国人衆は今川家から離反する動きを見せ、天野家の宗家も徳川家康と手を結んだ。
天野景貫は父と共に挙兵して宗家を攻撃し、勝利して犬居城を制圧した。敗北した宗家は徳川領へ移った。
天野父子の活躍は今川氏真に讃えられ、以後は天野父子が遠江天野家を率いた。
やがて徳川家康が遠江に攻め込み、今川家傘下の国人衆が次々に徳川家へ寝返る中で、天野景貫は今川家に仕え続けたが、大名としての今川家が滅びた1569年になると徳川家に従った。
しかし天野景貫は武田家にも接近していた。
天野家の所領と犬居城は駿河・遠江・三河・信濃を結ぶ交通の要衝で、天野家の帰趨は武田家と徳川家に大きな影響を与えた。
徳川家と北条家が同盟して武田家と抗争を始めると、天野景貫は武田家に寝返った。
1570年、武田信玄は水陸両軍を動員して徳川領の遠江東部へ侵攻。この時、天野景直(景貫の息子)が武功を挙げて駿河国庵原郡の郡代に抜擢された。
武田軍は高天神城も攻撃したがこの城は落とせず、武田信玄は犬居城で休息してから信濃へ引き揚げた。
翌1571年、天野景貫は三河北部へ侵攻した。この侵攻から間もなく、奥平家など三河北部の有力な国人衆が武田家へ寝返った。
翌1572年に武田信玄が大軍を動員して徳川領へ侵攻すると、天野景貫は武田軍を先導して活躍した。
1573年、武田軍が引き揚げて武田信玄が死去すると、徳川家康は反撃を行い各地の城を奪還した。
さらに翌年春、徳川家康は自ら軍勢を率いて遠江北部へ侵攻。天野景貫は犬居城に籠城して徳川軍を迎え撃った。
この時、武田勝頼は武田軍主力を率いて美濃東部の諸城を攻撃している最中だった。
救援が望めない状況で天野勢は善戦し、悪天候が続いたこともあって徳川軍は犬居城の攻略を断念し、撤退を始めた。
そうと知った天野勢は密かに城を出て徳川軍を追跡、先回りして奇襲を仕掛けた。
徳川軍は混乱に陥ったが、殿軍を務めた大久保忠世、榊原康政たちが奮戦して潰走を防いだ。
天野勢が引き揚げた後も、徳川軍は帰路で武田方の諸城の軍勢や現地民に襲撃された。
天野勢の活躍で徳川軍が撃退された後、武田勝頼は高天神城を攻撃した。
浜松城の徳川軍は救援に向かわず、旗本の大須賀康高が城の守備軍に参加しただけだった。
当時畿内で三好家・本願寺と戦っていた織田信長が救援軍を派遣し、織田軍は徳川家重臣の酒井忠次と三河で合流して現地へ向かったが、間に合わず高天神城は武田軍に降伏した。
武田信玄が率いる大軍にも屈しなかった堅城を、徳川家康は結果的に見捨てたことになる。
武田軍はさらに三河にも侵攻したが、この時も抗戦したのは現地の国人衆だった。
犬居城の戦いは徳川軍にとって惨敗であり以降は武田軍に対抗できなくなったほどの大損害を受けた可能性がある。
長篠の戦い以降
1575年の長篠の戦いで武田軍が大敗すると、徳川家康は反撃に転じて武田方の諸城を攻撃した。
遠江では犬居城と二俣城の中間に位置する光明城が陥落。さらに徳川軍は二俣城を包囲した。包囲戦は半年に及んだがその間に武田家は救援軍を派遣できず、城将の依田信蕃は武田勝頼の指示を受けて退去した。
翌1576年、徳川軍は北上して犬居城を再び攻撃。孤立無援の状況で天野勢は戦ったが、遂に開城した。
天野景貫は一族郎党を連れて武田領へ移住した。
こうして遠江北部の大半は徳川領となり、現地に留まった天野家の親族の多くは徳川家に従ったが、徳川軍への抗戦を続ける人々も少なくなかった。
家康は先手役(旗本軍団)筆頭格の大久保忠世を二俣城の城主に任じて、遠江北部の制圧に専念させた。
大久保忠世は以降2年に渡り現地の敵対勢力と戦い続けて遠江北部を平定した。
天野景貫は1577年に垂井山という土地の砦に篭って徳川家臣の安倍元真と戦ったという記述があり、事実なら天野自身も最前線で徳川軍と戦い続けていたことになる。
1582年、織田家・徳川家・北条家が武田領へ侵攻し、武田家が滅亡。天野景貫は北条家を頼った。
北条家の重鎮・北条氏照が治める八王子に土地を与えられて移り住んだ天野景貫は、息子(天野左衛門)と共に北条軍の合戦に参加し、佐竹家と戦って活躍した。
苦労人だった天野景貫を北条氏照らが労わったことを示す内容の手紙が伝わっている。
天野景貫のその後は不明。子孫は帰農したり各地の藩に仕えた。
息子の一人である天野景直は、駿河で郡代を務めた時期に開基を行った駿河秋葉山の寺院を頼って現地に移り住んだ。
武田家滅亡後に駿河を治めた徳川家康は、徳川家から武田家へ降った武将たちを赦さず処刑した。
しかし天野景直は出家したためか迫害されることはなく、子孫は現地に根付いた。
関連項目
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