天龍源一郎とは(1950年2月2日 - )とは、元大相撲力士、プロレスラーである。通称「ミスタープロレス」。外国人には「てんりゅう」が発音しづらいのか「テンルー」と呼ばれる。
概要
本名嶋田源一郎。角界で力士をした後(最高位は前頭筆頭)全日本プロレスに入団。なお、天龍源一郎というのは力士時代の四股名からきている(出羽海部屋の力士だった天竜三郎からとったもの)。
幕内力士として活躍していた1975年に、所属していた二所ノ関部屋でお家騒動が勃発する。急逝した二所ノ関親方の跡目を、幕内力士の金剛が引退して女壻となって継ぐことが決まったことに押尾川が反発し、彼を慕う天龍ら16人の力士と共に瑞輪寺に立てこもり、分家独立を申し入れたのである。分家独立こそ認められたものの、それは6人までとされ、天龍は加わることが出来なかった。
二所ノ関部屋に戻ったものの、天龍は裏切り者扱いされて強い疎外感を感じていた。そんな時、後に筑波大学名誉教授となる森岡理右という記者からプロレス転向を持ちかけられる。秋場所を最後に廃業すると決めていたが、勝ち越してしまい未練が生じた。それを見た親方が「天龍はプロレスに行く」と喋ってしまい、それが記事になったので天龍は腹をくくるより他なくなってしまった。
ジャイアント馬場との交渉の席にも森岡氏は立ち会い、「天龍は幕内まで行った力士だから、ファイトマネーは1マッチ〇万円、移動はグリーン車、宿泊は一人部屋で、馬場ちゃん頼むよ」と、プロレスの右も左も分からない天龍の代わりに段取りまでしてくれた。ただ、自分がプロレスで全然芽が出ないときも先輩を差し置いてグリーン車や個室の部屋を使っていることが、後でずいぶん重荷になったもんだと天龍は自嘲している。
期待されながらも最初は通常の試合でも負けが多く人気でもジャイアント馬場やジャンボ鶴田との差が歴然だったが、地方でも手を抜かず闘志を全面に押し出すファイトスタイルを確立し、一躍トップレスラーになる。
1990年にSWS設立の際に移籍するが派閥争いなどで短期で崩壊。1992年にWAR設立後は新日本プロレスに乗り込み、ほぼ全てのレスラーから勝利を収め、アントニオ猪木からもピンフォール勝ちし、「ジャイアント馬場とアントニオ猪木の両方からピンフォール勝ちした唯一の日本人レスラー」になる。その後大量離脱後の古巣全日本への参戦、ハッスルへの参戦を経て最後の天龍革命である「天龍PROJECT」を立ち上げ、ドラゴンJOKERや14Kなどを輩出。
2015年に引退を表明してからは、様々な団体の選手と熱い勝負を繰り広げ"龍魂伝承"を行う。その引退ロードを駆け抜け、11月15日の両国国技館にて行われたオカダ・カズチカとのシングルが最後の試合となった。
ファイトスタイル
打撃による真っ向勝負を得意とし、力士時代には格が上だった元横綱輪島大士の顔面を躊躇無く蹴ったり、神取忍との「ミスタープロレスvsミスター女プロレス」でも容赦ないグーパンチやチョップでTKOに追い込んだりもしたが、メジャーインディー問わず多数の団体を渡り歩きデスマッチも経験し、芸人である江頭2.50やレイザーラモンHGとも闘い、60才を越えても初代タイガーマスクと名勝負を繰り広げたりと、プロレスの幅はかなり広い。
最大の必殺技はパワーボム。テリー·ゴディから喰らってから使い始め、筋肉が衰えた今ではジュニア相手以外には使用されなくなったが、パワーボム=天龍の等式が成り立つ程その威力は凄まじい。分かり易く言うとこの技で、
それ以外の得意技としては逆水平チョップ、グーパンチ、独特のフォームによる延髄斬り、DDT(本人いわくデンジャラス・ドライバー・テンリュウ)などがある。近年は53歳という技を主に必殺技として使用するが、時期によってはノーザンライトっぽかったり垂直落下ブレーンバスターぽかったりとその性質が安定しない技でもある。
また非常に器用な一面もあり、雪崩式フランケンやシャイニングウィザードなど相手や時代に合わせて様々な技を繰り出すこともある。
天龍と言えば、酒と声
酒豪として知られ、「大底の力士には勝った」と言った松方弘樹に飲み勝った数少ない人物である。
さらにプロレス界では本間朋晃とともに、特に聞き取りづらい強烈なしゃがれ声、いわゆるハスキーボイスの持ち主としても知られる。そのため様々な場においてマイクやトークに注目が集まる選手でもある。
関連動画
関連項目
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