「太田道灌」(おおた・どうかん 1432 ~ 1486)とは、築城と攻城に定評のある扇谷上杉家の築城マニアな戦国武将である。「道灌」は出家後の名前であり、元は「資長」(すけなが)と名乗った。
概要
1432年、扇谷上杉家の家宰を務める太田資清(のち出家して道真)の長男として生まれる。幼い頃より聡明で知られ、鎌倉五山や足利学校という当時の関東最高峰の学問機関で学んだ。この当時の関東は鎌倉公方(のち古河に逃れ、古河公方)足利成氏と関東管領上杉憲忠の対立が深まっており、管領上杉家を補佐する扇谷上杉家の家宰として道灌も28年に渡るこの「享徳の乱」を戦い抜くこととなる。
享徳の乱&長尾景春の乱
何回かの戦闘の結果、関東は利根川を挟んで東側の古河公方足利陣営と西側の関東管領上杉陣営に分かれていた。このため上杉側では利根川西岸の地域に防御拠点として何ヶ所かの城を早急に築く必要があった。この任務に当たることになったのが道真・道灌父子だった。この時二人は二年間で河越、岩槻、江戸と三つもの城を築き、上杉軍の防御体制の構築に成功した。(近年では岩槻城は成田氏が築いたと言う説のほうが有力となっている)
その後、対足利の最大の防御拠点となっていた五十子(イカッコ)の陣(今の埼玉県本庄市)にて上杉・足利両軍は断続的に20年に渡るにらみ合いを続ける。が、その途中に管領上杉家の家宰・長尾景信が死去し、その子景春は自分に回ってくると思い込んでいた家宰の地位が自身の叔父、忠景に渡ったことで主家に逆ギレ。宿敵・足利と通じ、五十子の陣を急襲する。山内上杉顕定・扇谷上杉定正は大敗を喫して上野に敗退した。
実は道灌はこの乱の前に景春から逆心を打ち明けられていたがこれを拒否、顕定・定正に対して「景春を懐柔するか、さもなければ急襲して殺す」という二案を提示するがどちらも受け入れられなかった。その結果がこれだよ! さらに景春に同調した豊島氏が石神井城で挙兵し河越城と江戸城の連絡が絶たれてしまう。
このとき、道灌は今川家のお家騒動(龍王丸騒動)を鎮定するため駿河に出かけていた(その時に北条早雲(伊勢盛時)と会談した)が、この急報を聞いて関東に大急ぎで帰還。まず景春方の溝呂木城(厚木)と小磯城(大磯)、平塚城を落とし、江古田で豊島氏に完勝し練馬城を落とす。そのまま豊島氏の本拠・石神井城を落とすと用土原で景春軍を破り、本拠・鉢形城を攻める。その合間に攻めてきた足利軍と渡り合い講和を引き出すと、翌年には景春方の小机城(横浜市)を落として相模の景春派を一掃。和議に反対していた足利軍の千葉孝胤を境根原で破るとその拠点の一つ臼井城を落とす。
さらにその一年半後景春の最後の拠点日野城(秩父市)を陥落させ、長尾景春の乱は幕を閉じた。ていうかほとんど一人で乱の幕を閉じさせた。ここまで三十回以上の戦いに出てほとんど負けなしというパーフェクトぶりである。後に道灌は
と自慢しちゃったりしているが、あながちそれも間違っていない。
主君との反目。そして暗殺へ……
この活躍によって管領上杉家の補佐役に過ぎなかった扇谷上杉家の勢力は大きく増した。そして道灌自身の声望も否応なく増大していた。この状況に対して主君・扇谷上杉定正は道灌を厚遇するどころかむしろ冷遇し、ことあるごとに道灌に文句をつけるようになった。そして1486年8月、定正の居館・糟屋館に招かれた道灌は「まあまあまずは風呂でも浴びて」と浴室に通され、一風呂浴びた風呂上りに風呂場の入口で斬殺された。殺される瞬間、道灌は「当方滅亡!(私を殺せば御家の将来は真っ暗だ!)」と叫んで果てた。こんな死に様なのに辞世の句が残っているあたり、大体自分の死を予期していたようでもある。
道灌の予言どおり道灌の死後、太田家家臣やその配下にあった地侍が管領上杉側に付き、扇谷家の力が大きく削がれた。そして定正から数えて4代目、道灌の死から60年後、河越夜戦において伊勢盛時の孫・北条氏康の奇襲によって扇谷上杉朝定が戦死し扇谷上杉家は滅亡した。
暗殺に至った経緯は諸説ありはっきりしない。有力な説としては
- 道灌の勢力が余りにも大きくなりすぎ、取って代わられるのではないかと上杉定正が恐れた結果。
- 扇谷家の勢力が大きくなったことに対して上杉顕定が警戒し、定正に「道灌に逆心あり」と吹き込んだ結果。
- 道灌が家政を一手に仕切っていたことに対する他の家臣の僻みから、定正に「道灌の謀叛の恐れ」と讒言したものがあった。
- 実際に道灌自身が謀反を目論んでおり、それを察知されて先手を打たれた。
等がある。ただし最後の説は扇谷家の公式文書のみが主張しており、忠臣暗殺という事件に対する言い訳とも取れる。
※その他「太田道灌」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
逸話
その聡明さを示す逸話には事欠かない。
「障子は、真っ直ぐであるから立つのであって、曲がっていては立たない。
と言ったのに
と言い返して資清を憤然とさせたと言う。また資清が
「驕者不久」(驕れる者は久しからず)
の書で説教しようとしたところ、
「不驕者又不久」(驕らざる者も、また久しからず)
と書き加え、資清は憮然とするしかなかった。
- 江戸城内に文士達のサロンを開き、短歌にも定評のある道灌であるが、若い頃はこちらにはあまり詳しくなかったらしい。ある時父を訪ねた道灌が雨に降られ、越生(埼玉県越生町)あたりの山村の一軒家を訪ねて笠でも借りようとしたところ、その家の娘に山吹の花を一輪渡されただけで追い返された。ずぶ濡れで帰城して娘の無礼な態度に怒る道灌に対し、旧臣の一人が
という和歌を示し、「蓑がない」事を表したのだと種明かしをした。自分の無知を恥じた道灌は、一層歌道にも励んだと言う。
- 家臣が謀反を起こし、館に立てこもった。その周りを取り囲んでいよいよ突入と言う時、声の大きな家来に「あいつだけは殺すな!」と叫ばせた。自分だけは助かるのではないか、と思った謀反人達は一瞬棒立ちになり、その隙に全員斬られてしまった。
- それまで正々堂々名乗りを上げてからの一騎打ちという古式ゆかしい戦闘法が主体だった関東にあって、全く違う集団戦術である「足軽戦法」を考案し、多用したとされる。彼が考案したものであると言う説と彼自身が京都を訪れた折に情報を入手した説とがあるが、当時の関東では画期的な戦法であり道灌の活躍を支えた。なお息子・資康にも謀殺説があったり、道灌のひ孫・太田資正は日本で初めて軍用犬を用いたトップブリーダーで有名であったり、まさに血は争えないを地で行く一族である。
戦国大戦では…
Ver2.2にて参戦。武力・統率バランスの良い騎馬隊、そして攻城特技を手にしている。CV:森川智之。
計略「五山無双」は、まず武力と移動速度が上がり、その後突撃準備状態を続けていると徐々に武力と移動速度が上がっていく。更にカードを回転させることでオーラが出て敵にダメージを与え、それが槍足軽であれば槍オーラが数秒消える。騎馬隊の最大の敵である槍の穂先を自分で消す事が出来、更に突撃で叩き潰せるという自己完結性の高い計略である。
補足
信長とは世代が違うので基本的には登場しないが、IFシナリオ専用や特典扱いで登場することがある。北条早雲と並んで、関東最強クラスの能力である。ここには記載しないが、兵科適正も尋常ではない。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(※註) | 戦闘 | 91 | 政治 | 86 | 魅力 | 87 | 野望 | 42 | 教養 | 86 | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | 81 | 知略 | 92 | 政治 | 90 | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | 99 | 武勇 | 88 | 知略 | 99 | 政治 | 90 | ||||||
天道 | 統率 | 99 | 武勇 | 88 | 知略 | 99 | 政治 | 90 | ||||||
創造 | 統率 | 98 | 武勇 | 95 | 知略 | 91 | 政治 | 80 |
関連動画
▼能力値ランキングにて、北条早雲・氏康と共にチートを超えた『大チート枠』に登場。全国ランキングは5位。
関連項目
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