奈良時代とは、日本の時代区分。平城京遷都(710)から平安京遷都(794)までを指す。
概要
中大兄皇子(天智天皇)による大化の改新、大海人皇子(天武天皇)による壬申の乱とその後の天武天皇・持統天皇による律令制の推進によって中央集権国家としての様々な改革が行われた前代。皇位継承にすこし時間が生じたものの、平城京に遷都されたのち、聖武天皇もそれを引き継いでいった。
ヤマト王権による中央集権体制は東大寺の大仏建立によってその最盛期を見せるが、その裏では数多くの政変を引き起こし、ついに称徳天皇の死によって、天武天皇系の皇統も絶えてしまった。こうして天智天皇系の光仁天皇を中継ぎにし、天武天皇系の皇統の復活がもくろまれたが、肝心の光仁天皇の離反を招き、百済王氏出身である高野新笠との間に生まれた桓武天皇が即位。傍流ゆえの弱体な基盤を母系で強化しようとした桓武天皇によって山城への遷都がもくろまれ、794年に平安京への遷都をもって、平城京の時代は終わりを告げるのである。
平城京前史
天武天皇の妻である持統天皇は、律令制を進めていく一方で、息子の草壁皇子亡き後の自分の皇統への継承を確固たるものとした。こうして即位したのが文武天皇である。ところが持統天皇が没してからわずか4年後の大宝三年(707年)に文武天皇が亡くなり、文武天皇の息子である後の聖武天皇が成人するまでの期間別の天皇が必要になったのである。
そこで中継ぎとなったのが、文武天皇の母・元明天皇である。そして和銅元年(708年)に、元明天皇に議政官たちが遷都を進める。旧来の都をモデルにした藤原京への遷都計画はそれ以前から進められていたものの、唐の長安をモデルにした新しい都の造営が、律令制の象徴として進められていく。こうして和銅三年(710年)に平城京への遷都が行われたのであった。
聖武天皇の即位
元明天皇は霊亀元年(715年)に退位した。その跡を継いだのは後の聖武天皇である孫の首皇子ではなく、娘の元正天皇であった。これは中継ぎとしての役割を果たす実力があるからと、元明天皇が元正天皇を信頼していたためとされる。
元正天皇の代には元明天皇の政策が引き継がれていたが、石上麻呂、穂積親王、大伴安麻呂といった前代のトップたちが亡くなっていき、唯一残った藤原不比等とその息子たちが養老律令などを進めていった。しかし藤原不比等は養老四年(720年)に亡くなり、長屋王がそれを引き継ぐこととなる。
不比等が亡くなった後、多治比三宅麻呂と穂積老の二人が、謀反を企てたとして斬刑を命じられるも、首皇子の奏上で配流に減じられる、という事件が起きた。すでに藤原氏への反発が高まっていたのである。
そんな中、中継ぎを見事に勤め上げ、譲位しても問題ないと元正天皇はついに判断し、養老八年→神亀元年(724年)、ついに聖武天皇が即位したのであった。
聖武天皇政権と大仏建立
こうして聖武天皇は即位した。しかし、神亀四年(727年)には藤原光明子との間に生まれた皇子はわずか3日で亡くなり、藤原氏に焦りが見え始めた。
そこでまず起こったのが天平元年(727年)の長屋王の変である。長屋王が謀反をたくらんだというのである。長屋王一家はすぐに自害したものの、『続日本記』の記されたころにはすでにこれは冤罪である、という見方が強かった。その背後にいたのが、藤原氏とされた。
そして同年、荒業を使い藤原光明子が立后され、天皇家以外から初の皇后が誕生したのである。ところが、天変地異と疫病が流行。天平七年(735年)から天平九年(737年)にかけて、新田部親王、舎人親王や聖武天皇の外祖母・賀茂比売といった皇族、活躍華々しかった藤原不比等の息子たち、藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂の藤原四子といった朝廷のトップが一気にいなくなり空洞になったのである。
その隙間を埋めたのが、臣籍降下した葛城王、つまり橘諸兄である。藤原氏は藤原不比等の孫たち、というまだ経験不足の人々しか残っておらず、藤原豊成を除けば、橘諸兄の政権に残ることはできなかった。そこで起きたのが天平十二年(740年)の藤原広嗣の乱であり、彼は橘諸兄政権に参画した僧・玄昉と吉備真備の排除をもくろんだのだ。
九州で起きたこの反乱に聖武天皇は次々と遷都を繰り返す(この順番がまた覚えにくい)。恭仁京、紫香楽京、難波京といった数々の都を放浪した末に、聖武天皇は大仏の建立を計画する。結局天平十七年(745年)に平城京に戻ってきた聖武天皇は、この間国分寺建立の詔や墾田永年私財法を発布しつつも、僧・行基を大僧正に任じ、ついに天平勝宝四歳(752年)に東大寺の廬舎那仏に開眼供養が行われたのであった。
聖武天皇の没後と数々の政変
さかのぼること天平感宝元年(749年)に聖武天皇は娘の阿倍内親王に譲位し、孝謙天皇が即位した。そして大仏の建立を見届けると、天平勝宝八歳(756年)に橘諸兄は引退、聖武天皇も没することとなる。
翌天平勝宝九歳(757年)に橘諸兄が亡くなると、突然皇太子道祖王が廃され、大炊王が皇太子となる。道祖王に継がせるという聖武天皇の遺言はあっさり反故にされたのである。
かつて藤原不比等が作った養老律令が施行される一方で、朝廷では橘諸兄の息子である橘奈良麻呂が外され、代わって藤原仲麻呂が頭角を現した。そしてついに橘奈良麻呂が謀反を企てているという橘奈良麻呂の変が発し、安宿王、黄文王、道祖王ら皇族も含めた刑罰の末、橘奈良麻呂は獄死したのである。
さらにこの件で責任を取らされた藤原豊成が解任され、元号は天平宝字に変わる。そして孝謙天皇は皇太子の大炊王(淳仁天皇)に譲位する。一方藤原仲麻呂は恵美押勝と名を改め、唐風に改められた官名の中から恵美押勝は従一位の大師に任じられたのである。しかし一方で調整役だった光明子が亡くなり、淳仁天皇、恵美押勝と孝謙天皇との間に齟齬をきたし始めていた。さらに恵美押勝の弟、藤原乙麻呂が亡くなったことで、次第に恵美押勝の権勢に陰りがさし始めていた。
そして安史の乱の影響下で、新羅への侵攻計画も進められる中、悪天候が続くようになった。そんな中孝謙天皇に接近したのが僧・道鏡である。疫病の結果新羅征討計画がついに中止されたタイミングで、天平宝字八年(764年)、恵美押勝の乱が起きる。先手を打たれた恵美押勝は太政官印を持って逃走するも、水陸からの攻撃でついに捕まり、斬首された。
乱が終わると、藤原豊成が復権し、淳仁天皇が廃位されて淡路に流される。また舎人親王の子である船親王、池田親王も流された。こうして孝謙天皇が称徳天皇として重祚。翌年には天平神護に改元する。そして、和気王が殺されるという和気王の変が唐突に起きる。称徳天皇はさらに道鏡を法王に、藤原永手を左大臣に、吉備真備を右大臣に任じ、道鏡の権勢は絶頂に達した。称徳天皇は、神護景雲に改元。神護景雲三年(769年)には突然不破内親王が配流される。
こうして相次ぐ政変の後、ついにかの有名な宇佐八幡宮神託事件が起きる。道鏡を皇位につかせようとする神託を、和気清麻呂が否定した結果、配流されたのである。
光仁天皇の即位と平安京へ…
しかし、翌年ついに称徳天皇が亡くなった。吉備真備の反対工作があったかどうかは不明だが、藤原氏らによって天智天皇系の白壁王が皇太子とされ、さらに道鏡も含めた孝謙・称徳天皇の関係者が処罰されていった。
白壁王、つまり光仁天皇は藤原仲麻呂以来の混乱した政務の立て直しを図り、聖武天皇の娘・井上内親王を皇后とした。しかし、宝亀二年(771年)に井上内親王および、皇太子・他戸親王が廃され、高野新笠との間の子・山部親王が皇太子とされたのである。光仁天皇は姉・難波内親王が亡くなると、井上内親王、他戸親王を幽閉し、二人とも怪死する。
なお、光仁天皇の時代は宝亀十一年(780年)に伊治呰麻呂の乱に代表される、奥羽での三十八年戦争が盛んになった時代でもあった。
そして天応元年(781年)、山部親王、つまり桓武天皇が即位する。光仁天皇はその年のうちに亡くなる。あけて延暦元年(782年)、塩焼王の子・氷上川継が謀反を起こそうとしているという事件が起きる。氷上川継や母親の不破内親王は流罪にされ、藤原浜成といった人々が処罰された。加えて左大臣・藤原魚名も降格左遷された。
そしてついに平城京からの遷都が行われ、時代は平安時代になっていく。
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