奥平信昌単語

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「奥平信昌」おくだいら・のぶまさ 1555~1615)とは、戦国時代江戸時代初期の武将である。九八郎、貞
徳川家康に仕えて活躍し、長篠の戦いでは武田軍の攻撃からを守り通して勝利に貢献した。

概要

三河の長男
武勇に優れ、特に長篠の戦い長篠を守り抜いたことで織田信長からも高い評価を受けた。
徳川家康婿になり、徳の重臣として活躍。
関ヶ原の戦いの後、美濃加納を創設した。
  

詳しい概要

平家は三河北部の有人衆の一つ。信平家本家に位置づけられ、三河作手に地盤を持っていた。

平家今川に属していたが、今川の衰退を見て徳に従った。ただし祖貞勝が今川の忠臣だったからか、平家が正式に徳に従ったのは1569年頃とかなり遅かった。
この頃の奥平信昌は、徳の合戦に従軍しての戦いなどで奮闘した。
しかし徳川家康武田信玄の抗争が始まり、武田が優勢になって三河にも侵攻を始めると、平家武田寝返り、信に従い武田軍に参加して徳軍と戦った。

1573年に武田信玄が死去し、徳川家康が反撃を始めると、・信子は徳寝返り、賛同した一門衆と臣を連れて武田領から逃亡し、徳領へ移った。
事前家康織田信長を相手にして駆け引きを行い、息子の信が将来厚遇されるよう二人に約束させた。
一方、祖の貞勝をはじめ一門の半数が武田に従い続けることを選び、甲斐へ移住した。
子の寝返りを受け、武田平昌勝(信)や分(日近平家の「おふう」)を含む人質を処刑した。

翌1574年、徳は遠江攻略に失敗して大打撃を受け、続いて徳に属する遠江高天神武田勝頼攻略されてしまい、一転して劣勢に追い込まれた。
武田軍は三河にも侵攻し、徳方の諸は次々に攻め落とされた。武田軍が三河北部をし、さらに東部の吉田にまで攻め寄せたのはこの時期だったという説がある。

1575年1月、奥平信昌は長篠に任命され、叔父貞治や一門の定直たち平家の将兵を連れて長篠に入った。
長篠には先に忠たちが駐屯していたが、平家揮下に入った。忠は三河定戦やの戦いで活躍した歴戦の勇将だった。
家康古参の武将たちを差し置いて、新参若者を最重要拠点のに据えたことになる。
また家康は、将兵500人の長篠に200丁のを配備した。
同年3月には織田佐久間信盛が三河へ兵糧を輸送して徳へ渡し、徳織田の連絡役を務めている。
以上から、長篠の人事は武田の侵攻を誘う挑発だったと考えられる。

孤立援のまま開に追い込まれた高天神の前例を知りながら、奥平信昌は(拒否権はかったとしても)最も危険なの守りを引き受けたことになる。

同年織田信長は背後を脅かす宿敵三好を排除するため、河内和泉に出
ところが三好康長の善戦や石山本願寺の参戦により戦いは長期化。最終的に三好一門は織田に降したが、本願寺対策を含めた事後処理が終わってから織田は三河への兵準備を進めた。

その間に武田勝頼は1万5千の大軍を召集し、三河北部へ侵攻。
奥平信昌は長篠に籠し、武田軍を迎え撃った。

長篠の戦い

1575年5月長篠へ攻め寄せた武田軍はの周囲に砦や地を築いて長篠を孤立させた。
長篠は背後を崖とに守られていたが、包囲されてしまうと兵の脱出は困難な地形だった。

武田軍は筏を使って一気に兵を送り込み、同時に得意の土木工事での施設を破壊し、さらに損を省みない強襲を繰り返しての拠点を制圧していった。
これに対して守備軍は果敢に応戦し、武田軍に奪われた拠点を奪い返すほどの奮闘振りを示した。
しかし武田軍に兵糧倉を焼かれてしまい、本丸にまで追い詰められた守備軍は窮地に陥った。
武田軍は戦法を攻めから兵糧攻めに変更し、長篠を厳しく監視した。
奥平信昌は援軍の催促をする使者を鳥居強右衛門に任せ、鳥居から脱出して岡崎へ向かった。

この時、家康岡崎織田信長が率いてきた織田軍と合流し、出の準備を進めていた。
岡崎から戻った鳥居強右衛門武田軍に捕縛されたが、援軍の接近を長篠に伝えることに成功。
奥平信昌たちは籠戦を続けて武田軍の攻撃をいだ。

織田連合軍は長篠西方設楽原に布武田軍の二倍の兵を動員した連合軍は、しかし長篠を囲む武田軍をすぐに攻撃せず、地の強化に努めた。
これに対して武田軍も長篠から西へ移動し、同じく堅固な地に篭って連合軍の東進を阻む構えを見せた。
長篠を囲む武田軍の砦・地にはなおも合計三千人の将兵が籠っていた。
すでに長篠の食糧が尽きていて、睨み合いが続く間に守備軍の壊滅は必至だった。

だが連合軍の到着から3日後、徳酒井忠次が軍勢を率いて武田軍の砦に奇襲を仕掛けた。
奇襲部隊にはも参加して奮闘し、現地の武田軍を壊滅させた。
長篠の守備軍は奇襲部隊に迎え入れ、共に出撃して武田軍の地を攻撃。敗走した武田軍を追撃して西のを渡り、武田地の背後に回った。
これで武田は速やかな撤退が不可能になり、決戦では連合軍が武田軍を撃ち破った。

戦後、過酷な籠戦を続けて連合軍の勝利に貢献した奥平信昌を織田信長は絶賛し、「信」の字を与えた。
徳川家康を奥平信昌にがせた。さらに三河北部を奪還した後、平家に多くの所領を与えた。
家康信長約束させた平家に対する厚遇は、奥平信昌の活躍により履行された。
※ただし奥平信昌は長篠の戦いの前から「信」の名前を使っていて、を妻に迎えたのも同合戦より前のこととされる。

長篠の戦いで戦死した将兵の遺族を厚遇した。
ボロボロになった長篠家康の命により破却され、奥平信昌は「新城」を築いてと共に移り住んだ。
しかし長篠の櫓などは新城に移築された。長篠への思い入れは深かったようである。
ちなみに夫妻の子供たちは皆この新城で誕生した。

奥平家の苦難

1579年、奥平信昌は酒井忠次と共に徳川家康の使者として安土城へ行った。
その後に、である徳川信康が、家康の命により身柄を拘束され切腹させられた。
この信康切腹事件の相については諸説あるが、徳川信康の義であり家康婿である奥平信昌が安土城へ行ったことは、重要な出来事だったと考えられる。
事件後、徳川信康付きの重臣だった鳥居重正という人物が平家で身柄預かりの処分を受けている。

1582年、織田・徳・北条武田領に侵攻し、武田が滅亡。
この時、甲斐で暮らしていた貞勝たちは徳に降して家康に助命を嘆願した。
家康武田の遺臣を積極的に雇用したが、徳を裏切った者たちに対しては厳しい措置をとった。
武田にいた叔父常勝はじめ一門は家康の命により殺されてしまい、祖貞勝だけは高齢という理由で助命された。

また随分後のことだが、分の日近平家は、(「たつ」)が定勝(家康)にいだ縁を頼りに、一家を挙げて本家から離れて平家に仕えている。

本能寺の変後

本能寺の変に遭い上方から生還した徳川家康は、信濃甲斐の奪取をして行動を開始。
信濃に出してで徳に従う下頼安を支援し、酒井忠次らと共に北上して信濃高島を攻撃。
ここで北条軍の接近を知った徳軍は甲斐へ向かい、途中で捕捉されて交戦したが撤退に成功した。

1584年の小牧長久手の戦いでは、酒井忠次榊原康政らと共に徳軍の先遣部隊を形成し、前戦となった羽黒の戦いで敵軍を撃退して最重要拠点の小牧山を確保した。

1586年、豊臣秀吉に従うことを決めて上した徳川家康の御供をしている。
この時、叔父貞治が秀吉に引き抜かれた。

同年、家康は徳領の各で二か所ずつ選び、勧進行させた。
この時、三河では吉田酒井忠次)と新城(奥平信昌)が選ばれた。信に対する家康の重用振りが示されている。

1590年、徳関東に移封されると、奥平信昌は上野甘楽宮崎となり3万石を与えられた。この時点で3万石以上の大名になった徳臣は数えるほどしかいない。
平家の伝承では、先祖は甘楽郷の出身とされ、真実なら先祖の土地に帰ってきたことになる。
※現地に染むための創作とも考えられる。
また奥平信昌は甘楽の旧領だった小幡の御に協した。

関ヶ原の戦い以降

1600年、関ヶ原の戦いが勃発。
叔父貞治は小早川秀秋軍を先導して東軍の危機を救ったが、戦死した。
奥平信昌は関ヶ原の戦いでは活躍しなかったが、家康から京都代に任命されて治安維持を担い、その間に西軍の一員だった安国寺恵瓊が捕縛され処刑されている。
翌年、美濃加納10万石に加増転封された。また長男平家下野宇都宮10万石を与えられた。

加納の領地は織田秀信信長の孫)の旧領岐阜だった。織田信長岐阜の名を付けた。
そして家康の命により土地の名が「加納」に変更され、岐阜は破却されて新たに加納が築かれた。
今川に従って人質時代を過ごした駿河で晩年を送り、宿敵だった武田には却って最大限の敬意を払ったこととは対照的であり、かつての盟友に対する家康の心情がえる一件である。
加納に移った奥平信昌は領内の開発頭し、隠居して三男の忠政にの座を譲った後も、領地の半分を治め続けた。

晩年はぎ先である大久保落、世した次男に続いて長男と三男に先立たれるなど不幸が重なった。
奥平信昌は幼い孫たちを加納宇都宮に据えて後見した。
1615年に奥平信昌は亡くなり、(盛徳院)が後見役を引き継いで平家を支えた。

加納の発展に貢献した信だが、加納平家は後に転封したため現地に根付くことができず、現在では織田信長に隠れて奥平信昌の知名度は低いらしい。

剣術の達人

奥平信昌には剣術の達人という逸話があり、の戦いでは敵の騎武者2名をすぐにり殺したほどの腕前だった。
その戦振りを知った家康の師を尋ねられ、「奥山流」と答えた。家康は「奥山休賀斎だな」と納得した。
奥山休賀斎は、上泉信綱子だった剣豪で、家康名前を知っていた。
家康は若い頃に剣術を学んだが、成長してから止めてしまっていた。奥平信昌から話を聞いて再び剣術に励むようになり、晩年も続けた。

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奥平信昌

6 ななしのよっしん
2017/09/02(土) 22:59:19 ID: ug19g9FtN3
への臣従は遅く一度は武田寝返りに戻った後も祖を含む一門が武田に居続けてるという状況で、長篠に任命されて家康を迎えれる程も信用されるとか凄すぎ
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7 ななしのよっしん
2018/07/07(土) 21:10:36 ID: RKmkQUoQQx
今川に従って人質時代を過ごした駿河で晩年を送り、宿敵だった武田には却って最大限の敬意を払ったこととは対照的であり、




最大限の敬意どころか、徳川家康は自分の息子武田信吉)使って
武田を乗っ取ろうとして、
しかも武田信玄の孫にあたる武田もご丁寧に伊豆大島まで遠処分してるんですが・・・

そもそも岐阜は典的な山政治には向かないし・・・
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8 ななしのよっしん
2018/07/22(日) 10:30:44 ID: KZBa5oCuhN
武田というには敬意を払い、中身は徳に入れ替えて利用したってところだろ
あと岐阜信長の頃から麓の館で政務してたからな
用の破却は分かるとしても地名まで変えたのは含むところがあったんだろ
普通は縁起物の地名に変えるが加納の場合は違うからな
そのため明治から昭和にかけて地元では岐阜加納かで大いに揉めた
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9 ななしのよっしん
2019/03/04(月) 13:46:10 ID: NX+p0sdrF0
岐阜の命名者は信長(あるいは側近の僧侶)だが
加納の命名者は家康ではないだろ。
同じような事例で佐和山)→彦根城になってるけど
家康根を命名したわけではない。元々そこにあった地名。

単に関ヶ原の戦い石田三成(佐和山)と羽秀信(岐阜)といったの拠点だったから
それを払拭するために政治的な処置を行っただけで、
武田に敬意を払ったが~などというお気持ち透視じみた文章は消したほうがいいと思う。
全に筆者の妄想で終わるし、大坂の陣で大した戦功もない織田信雄に5万石もあげてる時点で
家康の立場が「織田」なのは疑いようがない。
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10 ななしのよっしん
2019/10/24(木) 17:38:14 ID: nR2m7TL70u
信の偏諱については武田晴信から与えられた説もあんのね
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11 ななしのよっしん
2020/06/10(水) 09:58:58 ID: L4roRumnEM
武田から戻ってきた直後に重臣である酒井揮とかさせたり武田信玄が亡くなった情報を信じた辺りとか考えると最初に武田へ寝返ったのは家康示で潜入させられてたのかもしれない
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12 ななしのよっしん
2020/09/10(木) 23:46:32 ID: 95oYdQurnK
中津側に神社というのがあって、「えっ!」とびっくりした。

長篠の戦い英雄の子孫が、こんなところまで来たんだねぇ。
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13 ななしのよっしん
2023/06/03(土) 16:04:07 ID: rLuxUXaBgP
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前波吉継桂田長俊)とかは?
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14 ななしのよっしん
2023/06/06(火) 02:20:28 ID: ni/s1dLzwl
>>3
どうするの時代考によると「信」の字は長篠以前から使ってたらしいね
実際は武田から貰ってたけど都合悪いから信長から貰ったことにしたんじゃないかとか

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15 ななしのよっしん
2023/06/06(火) 02:23:07 ID: ni/s1dLzwl
というかこの人よく見たら他の記事でもいるやけに本多と井sageて他の徳武将の信長の野望上げるよう要する人やん…
返信して損したわ
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