女学生とは日本の旧制の女学校の生徒のこと。広義では女子生徒・学生一般の俗称としても用いられる。
- エミール・ワルトトイフェルのワルツ。 原題「Estudiantina」
- 安達明のシングルレコードおよびCDアルバムとその表題曲。
- 岡田奈々のシングルレコードとその表題曲。
- つボイノリオのアルバム『ジョーズ・ヘタ』内の収録曲およびシングル『ワッパ人生(再リリース版)』B面曲。
概要
第二次世界大戦終戦後の1947年(昭和22年)に公布された「教育基本法」「学校教育法」以前の、明治・大正・昭和のいわゆる旧制女学校、特に「高等女学校」の生徒を女学生と呼ぶ。
入学時年齢・修業年数は制度の改正などによって多様だが、おおよそ尋常小学校卒業の12歳以上で入学可能、修業年数は2年~5年程度となっており、現在の女子中学生と女子高校生の範囲に相当する。
歴史
「女学生」という語がいつ発生したのかは定かではないが、日本の女子学校教育は明治より始まった。
1870年(明治3年)に、ミッション系女学校であるA六番女学校(現・女子学院)と、ミス・キダー学校(現・フェリス女学院)が開校する。
一方、官立としては1872年(明治5年)に東京女学校が開校、次いで1875年(明治8年)に東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)が開校。
その同年には非ミッション系私学である跡見女学校(現・跡見学園)が開校している。
これら諸々の女子を対象とした教育機関は、統一されたカリキュラムがあるわけではなかったが、総称して「女学校」と呼ばれた。
その後、数々の教育関連法制が公布・改正され、女子教育の基盤が確立していく。
1899年(明治32年)に「高等女学校令」が公布されたことにより、ついに男子の(旧制)中学校に相当する女子の中等教育機関として「高等女学校」が制定された。
これにより、各道府県に最低一校の高等女学校の設置が義務付けられることとなり、女子の進学率が急速に上昇。「女学生」の存在が一般化していくことになる。
髪型・服装
女袴の普及まで
明治に文明開化によって生活様式が変化すると、女性にも立ち歩き椅子に座るのが容易な服装が必要になり、職業婦人などの中に男の袴をはく女性が現れた。
その流れを受け、明治初期の女学生は江戸時代の町娘と変わらない日本髪・和服・草履であったのが、後に女教師・女学生にも文部省により袴着用を認められる。
しかし男袴を女性が身につけることに反対が多く、1883年(明治16年)には禁止されることになる。
やがて1885年(明治18年)に華族女学校(現・学習院女子)が開校し、ここで行灯袴(スカート状)の女袴が採用される。
これは学監である下田歌子が、女学生のための服装として、従来の緋袴と指貫とを折衷して考案したものと言われている。
「高等女学校令」公布と同年の1899年(明治32年)、この女袴を女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)が採用したことで流行し、女学生の袴姿は数年のうちに全国的に普及することになる。
海老茶式部
大正時代には女袴と革靴を履くスタイルがハイカラな女学生の定番となり、その袴の代表的な色である海老茶色と、かの紫式部とをかけて「海老茶式部」と呼ばれた。
「鈴の音高く、現れたのはすらりとした肩の滑り、デートン色の自転車に海老茶の袴、髪は結流しにして、白リボン清く、着物は矢絣の風通、袖長けれど風に靡いて、色美しく品高き一八九の令嬢である。」
「勤めよ励めよ恋の道、今は昔紫の、式部は人に知られたる、女子の鑑と聞たるが、恋に違いは無かりしと、紫ならぬ薄海老茶。年は移りて紫も、今は海老茶に変れども、兎角変らぬ恋の道。」
束髪や束髪くずしにリボンを結んだ髪型、矢絣柄の着物との組み合わせは「はいからさんが通る」などの作品を通じて現在でも大正時代の女学生のスタンダードとして認識されており、大学の卒業式の服装などで人気がある。
セーラー服への移行
1905年(明治38年)、女子高等師範学校教授の井口阿くりにより、上衣をセーラー服、下衣を膝下までのブルマーとする体操服が提案された。
以来、セーラー服は一部の女学校で運動着として用いられていたが、当時の女性観の中では普及することはなかった。
しかし大正時代に入ると世相が変化し、洋装化や女子体操教育が推進されるようになる。
1920年(大正9年)、平安女学院が日本で初めてセーラー服を制服として採用。
その後、ミッション系女学校を先駆けとして、女学生への洋装の普及と、セーラー服の制服化が進んでいった。
大正末期には和装と洋装が入り交じるようになり、昭和に入るとほとんどの女学校がセーラー服を導入している。
教育・教養
「賢母良妻タラシムルノ素養ヲ為スニ在リ。故二優美高尚ノ気風、温良貞淑ノ資性ヲ涵養スルト倶ニ、中人以上ノ生活ニ必須ナル学術技芸ヲ知得セシメンコトヲ要ス」
つまり、中流以上の家庭において女子に必要とされる教養や技術を身につけることを目的とするものであった。
そのため、男子の中学校にはない「家事」「裁縫」の設置、「修身」「音楽」などの教科増強が行われ、代わりに「数学」「理科」といった高等教育へと結びつけるための教科は時数を減らされる傾向にあった。
特に、近代的な西洋文化の発信源となったミッション系女学校にはリベラルな校風が多く見られ、官立の女学校よりも文学・音楽・美術などに力を入れている場合が多かった。このためミッション系女学校は、多くの少女たちの憧憬、羨望の的となった。
一方で保守的な立場からは、女性が家庭内での生活に不必要な過剰な教養を身につけることは「良妻賢母」に反する、そもそも「女だてらに」学問をすることが「生意気」である、といった論も見られた。「女学生」そのものに、近代的で知的なイメージと、ふしだら・不良・反社会的なイメージの両方が抱かれたのである。
「学問で台所は出来ませぬ。生中ちッとばかり見識があると、高くとまるのが女の持論。権利だの同権だのと、歯の浮く事を言われると、余ッ程の美人でも二度と見る気は出ぬもの」
こうした世間の目や、田舎の農村部での実情などから、家政教育を重視した「実科高等女学校」も作られた。しかしながら、大正後期には実科高等女学校への入学者は頭打ちになり、高等女学校への入学者が増加していく。
女学生文化
思春期の少女たちが同性のみで寄り集まる女学校やその寄宿舎という特異な場では、女学生たちに求められた教養文化と、時代の大衆文化・モダン文化とが結びつき、独自の「女学生文化」「少女文化」が生まれた。
国語教育と近代小説の普及は、女学生に小説読書の習慣をもたらした。
明治に女学校ができた当初は学校が読書を禁じることも珍しくなかったが、それでも女学生の読書熱は収まることなく高まり続けた。
明治末期から大正にかけて、女子の進学率の増加に呼応して『少女の友』『令女界』『少女画報』『少女倶楽部』といった少女雑誌が次々と創刊していき、これらを通じて全国の女学生が女学生文化を共有するようになる。
いわゆる「文学少女」の類型が生まれたのもこの頃である。
また、多くの女学生にとって、親しい仲の相手との手紙のやりとりや贈り物による交際は、非常に重要なものであった。
特に親しい上級生と下級生の関係は「エス(sisterの略)」と呼ばれ、清らかで美しい精神的な絆として持て囃された。(詳しくは「エス(女学生文化)」の単語記事を参照のこと。)
この「女学生文化」で育まれた叙情的でロマンチックな美意識は、現在の少女小説・少女漫画の基盤となっている。
関連項目
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