女性・女系天皇(前編)単語

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女性天皇とは、文字通り女性天皇のことである。

女系天皇とは、母親が皇統に連なる血筋で、父親が非皇統の天皇のことである。性別は問わない。

上記のように、女性天皇と女系天皇は全く別の概念である。

本記事では女性天皇と女系天皇、及び21世紀の皇位継承問題を解説する。各節末の(書名、資料名)は参考文献を示す。敬称略。

目次

序章 女性天皇

1章 女系天皇

2章 新旧皇室典範作成の経緯

3章 世数と皇位継承

4章 十一宮家皇籍離脱の経緯

  • 1節 皇族の降下に関する施行準則
    • 臣籍降下の開始
    • 準則の起
    • 波乱の皇族会議
    • 準則の運用
  • 2節 GHQと皇籍離脱
    • GHQ皇室改革
    • 東久邇宮稔の皇籍離脱論
    • 皇族会から皇籍離脱へ
  • 3節 昭和天皇の宮皇籍離脱への態度
  • 4節 古代の臣籍降下と宇多天皇の即位
    • 臣籍降下の始まり
    • 宇多天皇の即位
    • 皇位継承補となった文屋浄三(ふんやのきよみ)(おおち)兄弟
    • 即位後の宇多天皇
    • 皇籍復帰の諸例

5章 女帝中継ぎ論(持統〜称徳)

6章 女帝中継ぎ論(推古と皇極・斉明)

7章 以後の女帝と女帝中継ぎ論

8章 崇神〜仁徳天皇の継承

9章 倭の五王と王統分裂説

  • 1節 王統分裂説を支持する諸学説
  • 2節 「倭」姓
  • 3節 『梁書』の史料批判
  • 4節 倭
  • 5節 済王の事例

10章 継体天皇の即位

11章 古代日本の社会構造

12章 記紀の歴史叙述

13章 女性皇族の婚姻

14章 皇統観の歴史

15章 天照大神の考証

16章 神武天皇の考証

17章 近代天皇制と伝統

18章 日本共産党と女系天皇

19章 海外諸国との比較

各章の内容

1章 女系天皇

1章では女系天皇の反対論と賛成論。女系天皇に関する世論調査の結果などを紹介する。男系天皇(女系反対)の中心にあるのは「男系男子継承が皇統の則である」「女系天皇には先例がないこと」である。男系男子の伝統は先人が大切に守ってきた皇統の大前提である。女系継承は皇統(神武系)から夫の系列に移ることを意味し、それは万世一系の断絶・易姓革命であり、ひいては日本国体)の崩壊に繋がるものである。これに対して女系賛成ジェンダ等の観念に加え、男系継承は中国的な儒教倫理に過ぎず、日本は「婿養子」などの形で古来から双系継承を続けていたこと、また継体天皇以前の大王には男系世襲制は存在せず実際には女系継承が行われてたことなどを挙げている。

現在、女系天皇の対案として1947年に皇籍離脱した旧宮家子孫の復帰が提案されている。過去には臣籍から天皇になった多-醍醐子の先例も存在するし、古墳時代に皇統が断絶の危機にあった時に在野にいた継体天皇を即位させた前例もある。しかし「多-醍醐が臣籍にいたのは2年なのに対し、現在旧宮家子孫は80年近く民間人として暮らしており較にならない。また継体天皇が応神天皇の五世子孫なのに対し、旧宮家子孫は崇天皇の二十数世とこちらも大きな差がある。さらに皇族ではない旧宮家の子孫が門戸を理由に特別扱いされることは憲法14条の法の下の等に反するのではないか」という摘もある。近年の世論調査では女系天皇の賛成率は75~85%旧宮家子孫復帰案の賛同率は35~45%前後となっている。

2章 新旧皇室典範作成の経緯

2章では、男系男子の皇位継承法を成文化した明治皇室典範(旧典範)の成立過程、典範の起者である井上(こわし)の思想や当時の社会状況、また戦後皇室典範(新典範)の作成経緯などを記す。

皇位継承法の初期案では女性-女系天皇も容認されていたが、会議の中で女系天皇は「の人情に注意いささかも払っていない」「女系継承では血統が他系に移り万世一系が断絶する」「女統(女系)は卑しい」と批判を受けてまず女系が削除された。女性天皇は過去に数多く先例が存在していたため賛成意見が強く、有力者の伊藤博文もそれに同意していたが、井上の働きかけによって女も禁じられることとなった。完成した典範では男系男子継承が則化され「過去の女はいずれも仮摂(中継ぎ)であった」という論理歴史上の女性天皇はいずれも正統な存在ではないことになった。当時、自由民権運動に勤しんでいた民権も私擬憲法を作成し、その多くは女性・女系天皇を容認していたが、伊藤はそれらを「書生の上の理屈」として無視した。

旧典範作成の思想的背景にあるのは、井上をはじめとする政府近代儒教義である。「教育勅語」に代表されるように儒教明治日本道徳的根幹であった。井上は「男女には生物学的な違いが存在し、男には男の役割があり女には女の役割がある」という、儒教自然科学を組み合わせた理念を持っており、男女平等的な近代キリスト教を「過思想」として排斥した。戦後の新皇室典範ではGHQ女性議員から女性天皇容認をめられたが「女系継承は万世一系の断絶である」「過去の女性天皇は全て中継ぎであり、日本に女制度は存在しない」と旧典範作成時と同様の論理が繰り返され、男系男子則は新典範にも踏襲された。

3章 世数と皇位継承

天皇子(1世)─孫(2世)─曾孫(3世)─玄孫(4世)─来孫(5世)─6世子孫─7世子孫……

  • 背景で「皇」の範囲に含まれる(最初は4世までで後に5世まで拡された)
  • 歴代で最も世数が離れたところから即位したのは応神5世子孫の継体

21世紀の皇位継承問題に現れる旧宮家とは、南北朝時代の崇天皇を祖とし誕生した伏見の末裔である。しかし現在旧宮家子孫は男系20数世子孫となっており、これほど遠縁から天皇に即位した前例はない。ただし現在皇室典範は永世皇族制度を採用しており、男性皇族は世数にかかわらず皇位継承権を持っている。3章では皇位継承と世数の関連。伏見をはじめとした中・近世世襲がどのように誕生したか。そして旧皇室典範で永世皇族制度が定められた経緯を見ていく。

では皇(皇族)の範囲は4世までと定められ、5世以上は皇位継承権がなかった。しかしこの法は平安時代初期には既に文化しており、以後は皇位継承権を持つのは王宣下を受けた者だけとなった。1世子孫(つまり天皇子供)でも王宣下を受けなければ皇位継承権がなく、世数が離れていても天皇の猶子(養子)となり擬制1世となることで皇位継承権を得ることもあった。

中世社会では門跡(有名寺社)に皇族をいれるために皇族を常に一定数確保する必要があり、また天皇は複数に分かれた皇統を統一させずに保存する意図を持っていたため、恣意的王宣下や皇籍復帰が多発するようになっていく。そのような政治背景の中で世数を越して代々王宣下を受ける世襲が生まれていく。その中の一つが旧宮家の先祖となる伏見である。伏見宮もまた崇院流と後光厳院流の皇位継承争いの中から生まれた傍系宮であり、近代まで生き残った中世世襲であった。江戸時代には伏見に加えて閑院宮(かんいんのみや)宮、有栖川近世四宮として皇統を支え、実際に嫡流が断絶した際には閑院宮から天皇が即位している。

明治皇室典範作成会議では永世皇族制度を巡りしい議論が発生した。公家出身グループの5世規定に基づいて四親王家止をし、井上毅らは男系子孫は世数に関係なく皇族であり続ける永世皇族制度を支持した。公家グループ伏見宮系皇族が今の天皇と血統がかけ離れていることや、皇族費の増加の不安、そして永世皇族制度が「祖宗以来ノ慣例」に反することをした。これに対し井上は「継嗣を広め皇基を固くする」するために永世皇族制度を支持した。当時、明治天皇には男子が一人しかおらず控えとなる皇族が必須だったこともあり、賛成多数(賛成14、反対10)で皇室典範に永世皇族制度が盛り込まれた。

4章 十一宮家皇籍離脱の経緯

4章では1947年に11宮が皇籍離脱するまでの過程を、日本政府GHQとの関わり合いの中から詳述する。また古代多-醍醐天皇の即位事情についても触れる。

皇室典範の永世皇族制度によって宮の男系男子皇族は世子孫に至るまで皇位継承権を持つようになった。しかし宮内省や元老たちは皇族の数が多過ぎれば皇室財政を圧迫し、また皇室の名誉を汚す皇族が出てくる可性を危惧していた。その後、大正天皇が4人の男児をけたことで傍系宮がおらずとも皇位継承に差し支えがなくなったため、宮内省は伏見宮系皇族の臣籍降下案を提出し、特に大正9年に皇族を世数で限って強制的に族に降ろすことを可にする「皇族の降下に関する施行準則」を提議した。だが皇族はこの法案にっ向から反対し、宮内省・元老と対立を深めた。皇族会議は紛糾し、準則はなかば理やり可決されることとなる。

だが準則が効力を発揮する前に日本は敗戦を迎え、GHQによる皇室改革が始まる。GHQ的は日本民主権のにすることであり、天皇・皇族から政治力と経済力を奪っていった。特にGHQによる皇室財産凍結財産税の課税により皇族の暮らしは困窮した。GHQは直接皇籍離脱を命することはなかったので、皇族会議を経て伏見宮系11宮の皇籍離脱が決定される。昭和天皇はこれに反対はしなかったものの宮皇族たちに深い同情の念を示し、菊栄親睦会という皇室旧皇族の交流会を催した。親睦会による両者の交は令和現在に至るまで続いている。

52嵯峨─54仁明┬55文徳─56清和┬57陽成
        |        ├貞保親王
        |        
        58─59─60醍醐……

現在の皇位継承問題で、一度皇籍離脱してから天皇になった先例として平安時代多-醍醐天皇が注されている。当時、嫡流にいたのは陽成天皇であったが、陽成は時の権力者、藤原基経と不仲であった。陽成は基経によって強制的に退位させられ、光孝天皇が即位する。孝は陽成の子供(貞保や貞王)が育つまでの中継ぎであったため、自分の子孫に皇位継承しないとして子女の大半を臣籍降下させた。しかし基経の意向で嫡流の移動が行われ、孝が死ぬ直前に定省(さだみ)を皇籍復帰させ多として即位させた。この例に見るように臣籍降下や皇籍復帰は明確な基準がなくその時々の権力者の恣意によって行われることが多い。過去には57年間臣籍にいてから皇籍復帰した兼明王や、臣民から生まれ20数年を過ごしてから皇族になった忠房王の例も存在する。

5章 女帝中継ぎ論(持統〜称徳)

現在の皇位継承法では「過去の女性天皇は全員中継ぎであった」という論理で女の即位を禁じている。女中継ぎ論には学術的にも支持されているが、近年ではその再検討も進み、一部見直しも迫られている。5章から7章にかけて、女性天皇中継ぎ説についての諸学説を検討していく。

40天天皇
  |────皇子
41持統天皇    |───44元正天皇
      43元明天皇  42文武天皇45聖武天皇46孝謙天皇(48称徳天皇として重祚)

天皇の妃であった鸕野讃良(ののさらら)(後の持統天皇)は息の皇子の即位を強く望んでいた。しかし願いはわず天皇になる前に折してしまう。そこで彼女息子の軽皇子(文武)の成長を待つために持統天皇として自ら即位した。文武の後はその息子の首皇子(武)が幼年であったため、やはり元明・元正天皇が成長を待つために玉座に登った。しかし当時の伝統的皇位継承法は兄弟間で継承させる同世代継承であり、死後の本来の正統後継者は他の武の息子たちであったはずである。持統らが向した子直系継承はその慣例に反するものであった。そこで持統、元明、元正は他の兄弟に皇位を移さないため、自ら正統な天皇でなければならず践祚大(せんそだいじょうさい)不改常法(あらたむまじきつねののり)不改常法などを持ち出して正統性をアピールした。大祭とは古来から続く大王の重要祭であり、持統はそれを天皇の践祚(即位)に結びつけ一世一代の神事として完成させる。不改常法は「天智天皇が定めた」という触れ込みの法典で、その詳細は不明だが持統や元明らの正統性を保するものであったと見られている。

その後の朝廷では藤原氏が伸長し、皇権を蚕食していった。では初の臣民皇后として皇后が誕生し、藤原氏武と明の間に男児が生まれることを熱望したが、生まれた子はいずれも世してしまった。そこで武と明の子として、女子である孝謙が男児が生まれるまでの繋ぎとして即位をめられた。しかし結局武と皇后の間に男児は生まれず、皇位継承は行き詰まりを見せる。一時は天皇が即位するも天皇大権を行使していた皇后が崩じると、自らこそが嫡流であると自負する孝謙上皇によって位させられる。称徳天皇として再び登極した女によって補者が次々と追放される異常事態はやがて、道鏡への譲位未遂事件へと発展する。道鏡事件の背景には称徳の嫡流意識、仏教への崇拝心、また藤原氏の専横・皇族化が存在した。称徳の後は皇統は武系から智系へと移る。称徳から二代後の桓武天皇は自らの血統を「新王」と捉え、郊中国の祭)によって智を始祖とする新しい王の誕生を世の中に知らしめた。

6章 女帝中継ぎ論(推古と皇極・斉明)

時代は戻って飛鳥時代の2人の女大王推古天皇と皇極(重祚(ちょうそ)して斉明)天皇は、持統、元明、元正とは状況がかなり異なった存在であった。定説では、紛糾する皇位継承争いを緩和するための政治妥協として推古、皇極は中継ぎとして即位したとされているが、これには反論も多い。特に推古と斉明は、中継ぎ天皇としては必須要素である次世代の男性皇族に生前譲位を欠いている。後の持統、元明、元正、孝謙はいずれも次世代に生前譲位しておりその中継ぎ性が明確なのとべて大きな違いを見せる(皇極が譲位した孝徳は即位時50歳であり次世代の皇族ではない)。また推古は他に有力男性皇族が存在する中で群臣に推戴されて即位している点も注される。

現在研究では、推古天皇は即位以前から皇位継承や軍事行動などに深く関わり、また私部(さいち)と呼ばれる私有地を所有していことからその政治力と経済力が高く評価されている。『日本書紀』には厩戸皇子聖徳太子)が「皇太子」「摂政」に任命され推古から「万機を委ねられた」と書かれている。この箇所は明治に「女性天皇には統治力がないため男性皇族に政治を委ねていた」として女否定の論拠に用いられたが、書紀の文章には推古の執政が多く書かれる一方で厩戸の実態は不明瞭である。当時は「摂政」や「皇太子」という職位は存在せず、厩戸が執筆したとされる十七条憲法も後世の修飾が多く見られ、太子の政治関与は基本的に推古の「詔」「勅」を受けてのものであった。「万機を委ねられた」という表現も中国朝鮮の史書の表現を引用したものであり、厩戸が文字通り「全てを委ねられていた」訳ではい。厩戸は有力皇族として推古と蘇我馬子との三頭政治の一を担う存在であった。

皇極・斉明も、推古と同じように皇位継承争いの緩和のための即位し、息子中大天智天皇)が十分に年齢になるのを待つために復位したという緊急避難中継ぎ・嫡子の成長待つための中継ぎ即位説が有力視されているが、それでは説明できない不審な点も多々見受けられる。皇極の夫、舒明天皇が崩御したときの朝廷には有力後継者補に古人大皇子と山背大王がおり、どちらとも決め難い状況にあった。当時の権力者、蘇我夷は古人大を推していたが、山背大を支持するも強かった。大陸との軍事的緊が高まる中、いらぬ紛争を避けるための妥協の産物として前大王の大后であった宝皇女(皇極)が擁立されたものと見られる。

の変(いわゆる大化改新)によって蘇我氏宗が滅ぶと、皇極は同の孝徳に譲位し、中大皇太子となった。当時の中大は19歳で天皇になれる年齢でなかったため、孝徳はその成長を待つために中継ぎ即位したと言われるが、中大を将来天皇したいならば皇極がそのまま皇位にあれば良く、わざわざ孝徳に史上初めての生前譲位して皇位継承に要らぬ混乱を持ち込むのは不可解である。実際に孝徳の息子の有間皇子は中大によって殺されている。これに関して「の変の首謀者は実は孝徳であった」「蘇我氏の傀儡であった皇極は強制退位させられた」などさまざまな解釈が試みられているが、確実な定説はない状態である。

その後、孝徳が死ぬと中大は30歳とやや若いとも言えるが年齢的に成熟していたにもかかわらず女が再び天皇に立ち、息子に譲位することもなく終身天皇の座に留まった。しかも斉明の死後も中大は7年も即位せず皇太子の座に居続けた。この不自然な皇位継承を説明するために血の穢れ説や近親相姦説、間人皇女が女として即位していた説などが唱えられているが、いずれも決め手を欠いておりやはり定説がない状態は。斉明の執政に関してはその多くを中大に委ねていたと考えられるが、女もまた自ら積極的に土木工事軍事行動に携わり息子との共治体制を敷いていた。

7章 以後の女帝と女帝中継ぎ論

称徳天皇の崩御後、女性天皇は約900年姿を見せなくなる。その要因はさまざまに考えられるが、特に藤原氏の台頭のは大きかった。皇族に限定されていた皇后位に明子が昇り、やがて皇后そのものが現れなくなると皇族女性皇后から女になるが閉ざされていく。幼弼する役割を藤原氏摂政が負うようになったことも女の需要を低下させた。また古来から続く朝廷中国化が平安時代初期にさらに進展していく。女性政治参加を嫌う儒教倫理の普及により、女性政治の表舞台から遠ざけられ、女性天皇のみならず奈良時代まで存在した女性官僚も表舞台から姿を消していった。しかし女性天皇は禁止されていた訳ではなく、12世紀には暲子内親王が女補となったこともあった。平安時代中期以降は「女院」と呼ばれる女性権力者が生まれ暲子内親王もその一人であったが、それも鎌倉時代以降には見られなくなる。

江戸時代に久方ぶりに誕生した2人の女、明正天皇と後桜町天皇はその即位事情が特殊であったことと、称徳からだいぶ年を経ていたこともあり反対のもあった。明正はまだ7歳だったにもかかわらず、徳幕府と不仲であった後水尾天皇電撃的に譲位されたことで、野を揺るがす一大事件となる。後町はの成長を待つために即位したが、これは一部の貴族から強い批判を浴びた。強権を振るった推古や称徳に近世の女の地位は格段に低く、男性天皇より明確に下に置かれていた。二人とも然るべき男性皇族が成長すると生前譲位を行っており、はっきりした中継ぎ天皇であった。近世には朱子学(近世儒教)の普及もあり既に「女性天皇は中継ぎである」という思想は生まれていたが、明治と違いそれは女即位を否定する意図は薄かった。現在歴史学では女性天皇が中継ぎであったことは有力学説になっているが、男性中継ぎ天皇も数多く存在する中で女性にだけ中継ぎ性を強調するのを疑問視するも存在する。

8章 崇神〜仁徳天皇の継承

8章からの10章にかけて、記紀系譜を分析し、10代 崇神天皇から29代 天皇までの皇位継承が実際に男系継承だったのかを分析する。

継体以前の皇統譜は正確性は古くから疑問視されており、特に15代 応神天皇以前の皇統譜を全て史実と認めている歴史学者は現在ではかなり少数になっている。実在性が低い1代〜9代までの初期天皇については16章で解説するので、まずは実在した可性がある最初の大王と言われる10代 崇神天皇を取り上げる。崇神から応神までの旧辞(大王物語)には上界の神々が登場し、神秘的にられている。身長一丈(3m)のヤマトタケル、神の祟りに触れて死んだ仲哀天皇妊娠したまま朝鮮征した神功皇后などいずれも実在性に乏しく、実在したとしてもその伝承は大半が史実とは考え難い。崇神天皇実在しない可性も高いが、稲荷山古墳から出土されたに、崇神の叔父にあたる「オホヒコ」という人物の名前が記載されており、その実在性について議論されている。現在ではオホヒコもまた実在しない神話的人物であるという解釈が強い。

昭和の時代に仲哀と応神、武と継体の間に血統的断絶があり、古代には「崇神を始祖とする王」と「応神を始祖とする王」と「継体から始まった王」の三王が存在したという三王交替説が提唱され、学会に大きなを与えた。河内と呼ばれる2つの王の始祖の応神天皇の仲哀、の神功皇后実在性が薄く、さらに応神自身は「神の子」として描写されており、新王の始祖としての貫を伴っている。崇神から仲哀にかけて「イリ」という名前を持つ皇族が頻出するの対し、応神以後は全く姿を見せなくなるのも何らかの画期が存在したことを示唆している。そこで応神はそれまでの崇神王に入婿した新系統の人物であるという説も唱えられた。しかし現在では仲哀と応神、武と継体の両者とも、文献的にも考古学的にも連続性が評価され、王交替説をそのままの形で支持する専門は少数になっている。

崇神〜応神の物語はその大部分が脚色されたものであるのはほぼ確かであるが、モデルになった人間や史実が存在してた可性は存在する。例えば崇神天皇東西南北に皇族将軍派遣した「四将軍伝説は、ヤマト王権が日本各地の族を討伐して列を統一していった逸話を寓話化したものと考えられるし、崇神が大物などの神々を鎮めていく物語は史実で大王奈良地の祭権を握していった出来事を神話化したものと見られる。神功皇后の三征伐に関しても、時代的に異なった人物が登場するなど多くの矛盾を抱えながらも倭が何度も大陸に侵攻していたことは朝鮮側の史料でも裏付けが取れている。神功皇后の伝承は3~8世紀の長きにわたる大陸戦争の逸話を、斉明や持統など実在の女性天皇を媒介にして完成したものと考えられる。

9章 倭の五王と王統分裂説

5世紀初頭の大王は、邪馬台国以来断絶していた中国への貢を再開していた。『書』や『梁書』など中国の史書には貢をめた倭の五王(讃、、済、、武)のことが記されるが、注すべきはと済の間に続柄(族関係)が書かれていないことである。新しい王と前代の王の続柄は王の正統性を保する重要な情報であり、詳細が不明な場合はとりあえず子関係で結ぶのが定石である。にもかかわらずと済の続柄が不明ということは、済と前王との間はに血縁関係がなかったか、あっても済が報告しなかった想定される。これを考古学的に裏付けるように当時の大王墳墓は古市古墳群と百舌鳥(もず)古墳の二系統に分裂している。これを根拠に、5世紀の大王世襲性ではなく2つの血統から大王を排出していたという仮説が唱えられた。これを王統分裂説あるいは二つの大王説という。

の例を見ると済王の腆支王と毗有王の間も続柄は書かれていない。済の史書『三国史記』では両者は血縁関係で結ばれているものの、この三国史記の記述は『日本書紀』、『書』との間でそれぞれ矛盾が存在し、その系譜の信憑性は低いと見なければならない。続柄が書かれていないことが済王の血統的断絶を意味するのであれば、日本と済の間にもやはり血統的断絶が存在したと見なすことができる。

王統分裂説への反論として、倭の五王が「倭」姓を名乗っているということがある。姓は同一系出自集団を示すものであり、大王達が倭姓を共通させているということは倭の五王がいずれも同一の系集団であったことを示すものである。また倭姓は五王以外にも倭という人物も冠しているが、倭も同様に皇族であったと考えられる。

10章 継体天皇の即位

応神五世孫という歴代でも飛び抜けて遠縁から、嫡流の皇女を配偶者にする婿入りの形で即位した継体天皇は史上最も女系継承が疑われている天皇である。かつては継体にはそれまでの王権と血縁関係はなく継体から新王が始まったという説が有力視されていたが、上述したようにように武から継体の間のヤマト朝廷は政権を担っていた大連(おおむらじ)大臣(おおおみ)がそのままに据え置かれるなど連続性がはっきりしており、王交替といった大きな社会変動は存在しなかったと評価されている。血統的に応神と継体が男系で繋がっていたかは不明であるが、少なくとも継体は皇族として認められて即位した人物であった可性が高い。

記紀には応神から継体に繋がる系譜は書かれていないものの『上宮記』という文献にその全貌が掲載されている。上宮記は語彙の古さから記紀成立以前の文献と実されているものの、短い文章の中で用字法がバラバラであり異なった系譜を組み合わせて作った疑いが高い。例えば天皇の呼び方だけでも垂仁の敬称は「大王」、応神は「王」、継体は「大公王」と一貫しておらず、音仮名(平仮名の音1字に漢字1字を当てる表記)の人物と訓仮名表記の人物が混在している。さらに『』や『神皇正統記』など後世の史書では『上宮記』と異なる継体の系譜が掲載されているのも不審である。平安時代には数多くの偽書が作成されていたこともあり、上宮記もまた偽書ではないかと唱える専門も存在する。

また継体の妃の出身氏族である息長(おきなが)氏と和邇(わに)氏は、継体の即位以前から皇統譜で重要な役割を果たしており、この二氏に関わる箇所で系譜の仮冒・造作があった可性が摘されている。特に息長氏は以後で皇氏族として尊重されていたことから、継体の出身氏族ではないかという仮説が唱えられている。考古学的には隅田八幡(すだはちまんきょう)銘文には、継体が天皇になる前からヤマト朝廷政治に携わっていたことが記されているものの、その解釈には異論も多く未だ結論を見ない。継体の前後の天皇も存在が曖昧なところがあり、継体に先んじる清寧、顕宗、仁賢、武天皇実在したのかは議論がある。特に武は10歳と少しで即位し、妊婦を裂くなど数々の残虐な行為を働くなど事実とは信じ難い経歴を持っており、実在しない天皇というのが定説である。継体の死後も継体の息子達の間で皇位継承争いがあり、二併立状態にあった(辛の変)と考えられている。

11章 古代日本の社会構造

11章では皇室を離れ、日本古代家族論・族論を広い視点から見ていく。特に族系譜は当時の貴族層の継承法を示唆するものであり、天皇の男系世襲検証する際には不可欠な分野である。

古代家族論は断片的な出土物・史料から当時を再現する困難さから学説は割れているが、日本族体系の原には底した男系継承が存在しなかったことには異論がない。人・墳墓の分析や、日本語言語学的特徴にも双系的・女系的な特徴がうかがえる。時期は諸説あるが3~7世紀にかけて日本社会は男系化の傾向が強くなり、それまで存在していた女性首長・女系継承はその数を減らしていく。7世紀の改新の詔の中で「男女の法」が制定され男系継承は成文化された。唐から輸入したはその傾向はさらにはっきりとし男系継承は貴族社会の原則になった。日本社会が男系化した理由は中国の男系イデオロギー輸入と、戦争化により男性社会的地位が向上したことが考えられる。中世に入るとイエ制度が完成する。日本独特の文化であるイエ制度では血統より督の継承が重要視され、摂関や大名のような貴族層でも男系継承は完徹されなくなった。

また族系譜の分析を通じて、飛鳥時代以前の族はから息子への直系継承ではなく、一族内の複数の血統から氏族を排出していたことが判明している。特に物部氏や倍氏のような大族はその配下に多数の氏族を抱え、巨大な擬似血縁集団を構成していた。そして族は血統的には遠い、あるいは繋がらない族から族長を選出し、前族長と新族長を子関係で繋いだ首長系譜を形成していた。このような族系譜の研究から記紀系譜の実態を模索する試みがある。このような族の実態を根拠に、大王もまた複数の血統が擬制族集団を形成しており、5世紀の大王には血統に基づいた世襲制は存在してなかったとする研究者も数多く存在する。

12章 記紀の歴史叙述

12章では『古事記』と『日本書紀』がどのように皇室歴史を記し、系譜を形成していったのかを見る。古代研究記紀に大きく依存しているため記紀の史料批判古代研究にとって欠かせないものであり、天皇系譜の史実性を検討する際にも避けては通れない分野である。

日本神話典である古事記日本書紀は、編纂過程も文章もその多くを中国思想、特に儒教依存している。記紀神話とは、個別に存在していた日本の伝承を儒教倫理によって一つの神話体系に再構築したものであり、そこに用いられる文章もかなりの部分が籍から引用したものである。皇室制度も中華の制を踏襲しており、「天皇」の称号や「日本」という号も帝国を強く意識して名付けられたものであった。近年では『日本書紀』の音韻研究が進み、書紀の記述はα群とβ群に分けられ、α群は渡来人一世、すなわち中国人によって執筆されたと考えられている。

2節では古代日本国家の血統的構造を見る。11章で述べたように、古代族は元々は血統的に繋がらない氏族が、神話上の人物を共通祖先にすることで同祖系譜を形成していた。それは大王も同様で、ヤマト王権の勢力が伸長するにつれ、族の同祖系譜の先祖を初期天皇の皇子に設定することで地方族を血縁的に皇統譜の中に組み込んでいく。そうして完成した律令国ではそのものが一つの擬制血縁集団となっていた。具体的には『古事記』に現れる201氏族のうち、88%に当たる177氏族が系譜上は天皇と同じ男系一族に設定されている。天皇民が同じ祖先をもっているという「君臣同祖」の観念は明治日本の中で強化され、やがてそれは「万世一系」の前提となっていった。

13章 女性皇族の婚姻

女系天皇は女性天皇を含む女性皇族が臣籍の男性結婚することで誕生する。そこで13章では過去女性皇族の立ち位置、そしてその結婚がどう扱われたのかを詳述する。

21世紀の皇位継承問題で頻繁に引き合いに出されるのは、の継嗣(皇位継承法)に記載される「女の子もまた同じ」という語句である。「女性天皇の子供もまた男性天皇と同じく王にする」という意味の法文であり、女系天皇を容認しているようにも解釈できる。ただし継嗣では女性皇族の婚姻相手は男性皇族に限定されており、当初は女系天皇が生まれる余地はなかった。しかし桓武天皇の時代にこれが撤され、女性皇族と藤原氏結婚が行われることで法的には女系天皇が生まれる余地が生まれた。そのための注釈書には、女系子孫の扱いについて「女性皇族が、配偶者を四世王(男性皇族)までに限定している継嗣王娶王条に違反して凡人臣民)と結婚した場合、その(女系の)子供凡人(臣籍)となるのか?」と問題提起が加筆されている。

また過去の女性天皇はその全員が夫を亡くした寡婦か未婚の皇族である。これが偶然ではないことは確かだが、その理由は必ずしも明確ではない。古代女性皇族は男性皇族と結婚するのが普通であったのだから、男系継承を守するためとは考えられない。これの問題に関して、子供を産んで皇位継承問題を拡大させないため、儒教倫理で再婚は不義とされたため、女性天皇は巫女として処女性が要されたため、次世代の男子天皇と擬制夫婦になるためなど数々の仮説が提示されている。

神道では女性月経出産を「穢れ」として忌避する教えがある。近世の女性天皇はのものを迎えると祭が行えず、神事を第一とする天皇としては大きな障害となっていた。しかし記紀土記ではそのようなタブーは見られず、女性穢れ日本本来の観念でなかったことが分かっている。女性穢れ思想が生まれた要因は複数想定しうるが、道教インドのマヌ経典などの外来思想をな由来であると見られる。9~10世紀にかけて女性穢れ観は朝廷に定着し、妊娠月経に触れた女性は祭のみならず日常間からも排除されていった。

14章 皇統観の歴史

この章では中世から近現代にかけての知識人たちの、に「女性天皇」と「臣籍降下した元皇族」に関する思想を紹介していく。

全体的な傾向として前例が多かった女は肯定的な意見が強いが、江戸時代の儒女性を否定する儒教倫理から女性天皇の存在を嫌っている。例えば中世の『愚管抄』では「男女の性別よりも性の才を第一に考えるべきという理」が存在するとされ、『小夜のねざめ』では「日本は女の治めるべきである。アマテラス女性であった」と語られている。逆に近世儒者の佐藤直方は「女子にて天子の位にのぼること、聖人にはなきこと也」と女性天皇を批判している。

臣籍降下した人物については、多-醍醐の前例がありながらも、中世近世近代のいずれの時代も皇統であると認められておらず、臣民から皇位をうかがうことを厳しくめている。中世の『神皇正統記』では「天皇の子孫は確かに一般の人とは違うが、は神代からの約束事として天皇の子孫が皇位を継ぐことになっている。源氏は新しく生じた人臣であり、驕り高ぶることがあればアマテラスの怒りに触れる」と説かれており、近世正胤は『大帝国論』の中で「王であっても一度姓を賜って臣籍になったら二度とは皇族に戻れない。このように君臣の名分が厳然としているからこそ日本世界一"帝国"と呼ぶにふさわしい」と述べている。明治皇室典範製作会議においても源氏出身で神武天皇の男系子孫の人があっても、その人物は「全クニシノ御人」であり、その子孫が天皇になれば万世一系の断絶であるとされていた。

15章 天照大神の考証

タカミムスヒタクハタチヂヒメ
         |ニニギホオリノミコトウガヤフキアエズイワレヒコ(神武天皇
アマテラスアメノオシホミミ

  • 記紀ではタカミムスヒには性別はないが、男神説が有力。

女系天皇賛成の一つに「皇祖アマテラス女性であり、これを女系継承と認めることができる」というものがある。そこで15章では、神話的に天皇の正統性を保する皇祖神アマテラスタカミムスヒについて解説する。

天皇の「皇祖」というと「女神」のアマテラスが一般的であるが、『日本書紀』本文ではタカミムスヒという神が「皇祖」になっている。タカミムスヒはニニギの方の祖父に当たる人物であり、中近世神道でもタカミムスヒはアマテラスに匹敵するかそれ以上に重要な神とされた。現在神話学ではタカミムスヒが本来の大王の最高神であることはほぼ異見がない状態になっている。天皇が行う宮中祭アマテラスを対とするものは全て平安時代から始まったものであり、天皇の最も重要な神事である大祭がっていた神も元はタカミムスヒであった。

また日本書紀で「女神」とされるアマテラスだが、その元は男神あるいは性神であった。『盛衰記』や「三十番神図」など中世の伝承やアマテラス彫像は男神の外見をしているものが多く、近世の思想たちも本来のアマテラスは男神であったと考察している。神話学的にもそれは支持されており、大王が男神の太陽神に巫女ヒルメ)を派遣しているうちにその女性性が太陽神に投影された。あるいは記紀編纂期に持統天皇が自らを女神の皇祖神に準えることで息の皇子の正統性を保しようとしたと考えられている。

16章 神武天皇の考証

16章では初代神武および欠史八代の9代の天皇実在性に関する諸説、そして神武歴史的にいかに信仰されてきたのかを一望していく。

実在しないと言われる神武欠史八代であるが、その論拠は必ずしも十分ではない。神武126歳など異常な長寿を現実的に直しても、初期大王が生きた時代は記紀立か500年以上かけ離れており、ヤマト王権成立(3世紀後半)のか以前のことである。考古学的な決め手はゼロに等しく、研究になる文献も記紀と「倭人伝」などの不十分な記述のみである状態では「実在した、していない」は掛論に陥らざるをえない。そのため現況では実在論よりも神武伝承の形成過程に重きを置いた研究が進められている。日向宮崎県)出身であるはずの神武が「イワレ」という奈良の地名を負っていることからも分かるように、神武東征は複数の伝承(その中のいくつか、例えば九州勢力が畿内に漸東してきたなどの史実的背景が存在した可性はある)を組み合わせたものに、数世紀にわたる加筆と造作が繰り返され、8世紀に記紀神話として成立したものと見られている。

また現在では天皇の「始祖」として扱われる神武だが、古代中世にかけて神武天皇の「起点」として崇拝されたことはほとんどなかった。天皇の「始祖」とされたのはアマテラスタカミムスヒの神々や、応神天皇天智天皇などであり、神武は初代といえど数字の1番天皇という立ち位置であった。それが中世末期には神武を始祖として扱う向きが生まれ、江戸期の学や水戸学のと共に神武は顕されていく。そして明治政府によって皇室シンボルとして採用されることで、神武の「日本の建者」「天皇の始祖」のポジションは確固たるものになる。数々のまつろわぬ者を討伐してを建てた「軍人」神武天皇は、富強兵を明治日本のポリシーに合致するものであった。

17章 近代天皇制と伝統

17章では明治維新以降の近代日本の中で「伝統」がどう変遷していったのかを概観する。

明治政府日本を西洋列強に並ぶ近代国家にするために、皇室近代化(すなわちヨーロッパ化)していった。皇室改革にあたり、それまで千年以上天皇と不可分であった仏教は切り離され、各地の由緒ある寺が大量に破壊された(毀釈)。重大な議である元旦節会、(あおうま)節会、踏歌節会などが縮小・止される一方で、「万世一系イデオロギーを強化するために天皇陵や祭が新造されていった。このような皇室近代化改革は「神武創業」の名の下に「肇(建)以来の伝統」と喧伝された。近代国家創設のために「伝統」を創出することは日本のみならず世界に普遍的に見られるものである。また政府皇室シンボルとしてなる女神アマテラスと、軍人の神武天皇を二重に使い分けて、皇室俗のバランスをとっていた。

戦後明仁天皇平成天皇)の皇后となった正田美智子は旧族でも旧皇族でもない民間人である。彼女飛鳥時代皇后制度が成立して以来、史上初めて民出身の皇后であった。皇族や旧族は皇后の誕生を嫌い、特に昭和天皇の配偶者の良子(ながこ)(香皇后)は周辺の人物を使って結婚反対運動を起こした。右翼団体もそれに同調し、正田への脅迫事件も発生している。しかし皇后になった後の美智子妃は民から人気を博し、「ミッチーブーム」と呼ばれる社会現象を起こした。

18章 日本共産党と女系天皇

現在、最も女性・女系天皇を支持している政党日本共産党である。日本共産党戦前から天皇制廃止の急先鋒であり、「天皇制」という言葉も元々は共産党が使い始めたものであった。戦前、コミンテルンの支部に過ぎなかった日本共産党ソ連に言われるままに君主制打倒を掲げ、治安維持法で組織は壊滅状態になりながらも戦後に至るまで暴力革命を標榜し「天皇制廃止」を党の綱領に掲げ続けた。しかし1960年代にソ連と手を切り自独立路線に進んだ日本共産党は、選挙に勝つために天皇制への攻撃を緩めざるをえなかった。平成天皇代替わりすると軟化はさらに進み2004年には綱領から「君主制止」規定は削除され、2022年には「(共産党が)与党になったら天皇制は止?絶対にしません」というパンレット製作している。現在日本共産党民統合の徴に定める憲法の条項や、ジェンダ等の観点から女性・女系天皇を推進している。

またフェミニズム皇室の関連も紹介するが、日本フェミニズム団体は現在の皇位継承問題についてほとんど関心である。フェミニズム運動はその成立過程から共産主義と関わりが深く、皇室に言及しているフェミニストは女性・女系天皇以前に天皇制そのものに反対している論者が多い。

19章 海外諸国との比較

19章では海外の継承法との較や、歴史的に日本と密接だった中国朝鮮社会の継承法を見る。

世界史レベルで見る王の観念は非常に多様であり、古くから女系継承を認めるもあれば養子継承を認めるも存在した。逆に中国で男系で血統が繋がっていても王交替することもあった。東アジアでは王名の交替がそのまま国家亡を意味するのに対し、ヨーロッパでは王名(名)の交替は国家継続性とは関係であり、民が海外貴族を招聘して自の王にすることも頻繁にあった。21世紀現在ヨーロッパ諸王ジェンダ等の理念から、ルクセンブルクなどの例外を除き、大半が女性・女系継承を容認する法改正を行なっている。その他イスラーム系王では男系男子を固守し、アジアではタイ女性継承を容認している。

中国古代から「宗法」と呼ばれる男系継承法を原則としていた。それを理論化したのが朱子学の「気同気」である。「気同気」の理念では息子は同じ「気」を持ち、それは何世代経ても減ることはないが、と子の間ではその気は受け継がれない。そのため先祖祭を行うのは必ず同宗(男系族)でなければならないと教えられる。また儒教倫理では「男には男の役割があり、女には女の役割がある」と説く「男女の別」を重視する。男性は女を導いて外のことをやり、女性は男に従って内のことをやる。そうすれば庭は落ち着き、ひいては社会国家も安定していく。逆に女が政治に口出しすれば世の中は乱れる。古代中国はこうした「宗法」と「男女の別」に基づいた男権社会を築き、その道徳を知らない周辺諸を禽ケダモノ)と蔑視していた。朝鮮ベトナム日本なども当時の先進国である中国文化輸入し、やがて儒教東アジアの共通規範となっていった。

朝鮮王の継承も男系男子が原則であったが、新羅は女王を3人輩出し、また何度か女系継承も行なっている。その中の一人である善徳女王の時代、新羅は唐に援軍を申し入れたが女性を嫌う唐は婦人のを退位させよと命している。また新羅の女系継承は日本婿養子と違い、その子孫は夫の姓を継いでいる。そのため新羅には姓が、昔、金の三種類存在する。朝鮮はその後も双系的な族意識を持ち続け、近世では両班と呼ばれる男系血統に基づいた貴族が出現したが、それとは別に息子族を辿る双系的な系譜も多く作成されていた。

序章 女性天皇

時代 女性天皇 在位年 系の系統 婚姻の有 即位前の身位 譲位の有








33代 推古天皇 592~628 天皇 寡婦 皇后 終身
35代 皇極天皇 642~645 敏達天皇 寡婦 皇后 譲位
37代 斉明天皇(皇極の重祚(ちょうそ) 655~661 敏達天皇 寡婦 祖母(すめみおのみこ) 終身
41代 持統天皇 690~697 天智天皇 寡婦 皇后 譲位
43代 元明天皇 707~715 天智天皇 寡婦 皇太妃 譲位
44代 元正天皇 715~724 天皇 未婚 譲位
46代 孝謙天皇 749~758 聖武天皇 未婚 皇太子 譲位
48代 称徳天皇(孝謙の重祚) 764~770 聖武天皇 未婚 太上天皇 終身



109代 明正天皇 1629~1643 後水尾天皇 未婚 譲位
117代 桜町天皇 1762~1770 桜町天皇 未婚 譲位

※重祚:同じ人物が二度の即位をすること。

女性天皇の概要

日本の歴史上、女性天皇は以上の8人10代が現在認定されている。近代までは神功(じんぐう)皇后飯豊皇女(いいとよあおのひめみこ)が女性天皇の一代に数えられることもあったが大正時代に正式に除外された。女の即位以前の身分は元皇后、元皇太子妃、未婚のと様々であるが、女の中に即位後に結婚(再婚)した例はない。

過去の女性天皇は全て、男子後継者が一人に定まらない時、または若年の時にその成長を待つために臨時で即位した中継ぎ天皇であるというのが定説である。最初の2人の女推古天皇皇極天皇蘇我氏の権勢の最中で突発的な皇位継承争いを防ぐために位に登った。持統天皇から元正天皇までの女は、幼年の嫡流男子が統治者として育つまで皇位を守る存在であったが、奈良時代末期に嫡流男子は断絶し、孝謙上皇の代には天皇位事件や道鏡への譲位未遂事件など政治混乱が起きた。積極的に政に関わった古代達に対して約900年ぶりに即位した江戸期の二人の女性天皇は成人していても摂政が置かれ(通常は成人すると関白になる)、菩提寺に肖像画すら残してもらえないなど影が薄い存在であった。(女帝中継ぎ論については5~7章で詳述する)。

現在皇室典範(てんぱん)では戦前の旧典範を受け継ぎ、女の即位が禁じられている。明治中期に旧皇室典範が定められる際に、案では女性・女系天皇も可であったが女系天皇は反対多数により削除。また典範制作に携わった井上毅が過去の女は仮摂(中継ぎ)であり正統な天皇でなかったこと。女性参政権がないのに君女性であるのは矛盾であること。天皇は軍隊の最高統帥者であり女性には務まらないということ等を理由に女性天皇も除外した。ヨーロッパに留学していた井上欧州王室の男子継承の根拠となるサリカ法を学んでおり、それも男系男子継承を則とする旧皇室典範にを与えている(旧皇室典範作成の経緯については2章で詳述する)。

戦前の旧皇室典範は議会を受けない不磨の大典であったため、明治憲法における「世襲」とは明確に男系男子し、それが覆ることはありえなかった。しかし戦後の新皇室典範は普通法律であり改訂は較的容易である。そのため男系男子継承に拘るのならば硬性である日本国憲法にその旨を明記しておくべきであったが、これは新典範作成の責任者であった務大臣の金森次郎によって意図的に排除された。金森本人は熱な男系男子支持者ではあったものの将来的に国会で女性・女系天皇の議論をしやすくするために憲法にあえて世襲の性別を載せなかった[1]


  1. 皇室事典皇室事典編集委員会

愛子内親王と悠仁親王

現在の直系皇族

上皇明仁┬今上徳仁敬宮愛子
    篠宮文仁┬篠宮佳子
          └篠宮

待遇の差

令和天皇には一人敬宮(としのみや)愛子王がおり、皇篠宮(あきしののみや)には小室眞子佳子内親王の他に皇族一の若年男子である悠仁親王がいる。愛子王は嫡流(内廷皇族)であり、悠仁親王は傍流(内廷外皇族)である。そして愛子女性皇族であり、仁は男性皇族である。この二つの差異により二人には様々なところで待遇の差がある。

例えば生誕時の命名が挙げられる。天皇皇太子子供は、厳密な手順を踏んだ上で今上天皇名前を決めることになっており、愛子の誕生の折には宮内庁依頼を受けた勘申者と呼ばれる漢文学者ら識者が集まり男女それぞれ3つずつの補を選定し、その中から皇太子夫妻(当時)が生まれた「新宮」の名前を決めた(ただし形式上の命名者は祖父明仁である)。命名には四書五経や万葉集などを出典にするのが通例であり、敬宮愛子の「敬」と「」は孟子離婁章句下(りろうしょうくのげ)の一節「仁者は人を愛し、礼有る者は人を敬す。人をする者は人恒に之を愛し、人を敬する者は、人恒に之を敬す」から引用された。一方で傍系の悠仁親王の命名には厳密な決まりがないため、篠宮が学者の意見を参考に両や紀子妃と相談して決めた。篠宮は、出典よりも「ひさひと」という音のきと「ゆったりとした」という言葉の意味を大事にしたと語っている。

また愛子誕生に際して宮内庁で一般記帳が行われ、皇居や東宮御所、京都事務所などに合計62,000人が詰めかけた。あまりのフィーバーぶりに宮内庁は記帳場所を倍増したうえ、予定時間を前押しして受付を始めなければいけなかった。片や仁誕生の時には宮内庁は一般記帳を行わず、問い合わせがあっても「宮なのでない」という返事であった。平成19年皇室予算の分配も愛子が約6400万円なのに対して仁は約1500万と1/4以下であり、皇居への入り口も前者は半蔵門を用いるが後者門から入るように厳重に決められていた(令和6年現在篠宮も半蔵門の使用を許可されており、内廷皇族としての待遇を受けている)。

だが仁には次代の天皇としていわゆる帝王学(上皇く「徴学」)が教授されており、愛子には天皇になるための教育は与えられていない。将来、仁が天皇に即位し、愛子婚姻により皇籍離脱していれば逆に仁が半蔵門を通り、愛子門から入るようになる。また愛子や二人の女性皇族の教育費は内廷費、すなわち私的な出費と見做されるのに対して、仁の教育費や習い事の費用は宮廷費、的な支出として扱われる。傍系といえど次期天皇補の仁は然るべき待遇を受けている。

また皇室法の定めでは、女性皇族は結婚すれば皇籍離脱できるし、男性皇族でも離脱の意志を示せば臣籍になれる(ただし戦後、自分の意志で皇籍離脱した男性皇族はいない)。だが皇太子、皇太孫はその例外とされている。篠宮が皇嗣であり、実質的な皇太孫である仁は自らの意志で皇籍から離れられないことになる。


男子優先派と直系派

女性天皇支持にも2種類ある。「皇族に継承可男子が存在しない時のみ女性天皇の誕生を許す」男子優先と「性別に関わりなく直系の子女を優先して即位させる」直系である。後者ならば、現在のように悠仁親王愛子王が2人存在しても直系の愛子天皇を支持することとなる。

男子優先の方が過去の前例に則っているが、直系優先だと次期天皇い段階で確定できるというメリットがある。例えば男子優先かつ女許可されている場合、まず愛子王が生まれた時点で次期天皇補は愛子になり、天皇になるための厳しい教育が施される。しかし悠仁親王が生まれたら男子が優先され次期天皇補は仁になるので、愛子梯子を外され今度は仁に帝王学が授けられる。更にその後、愛子が出来れば直系男子としてその子供皇太子となり、仁は皇位継承補のランクが下がる。このように男子優先だと皇太子補が頻繁に動いてしまうことになる。直系優先であるならば愛子が生まれた間に次期天皇彼女に確定させられる。

一方で、皇室では女性の血の穢れを厭う慣習がある。女性の血の穢れとは要するに月経のことであり、宮中では血のことをアセ(世)、生理をマケと呼ぶ。例えば、生理中の女性は宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)に上がれず、生理が始まって8日後にお清めをすることで初めて三殿に上がれるようになる。生理中の女性天皇は祭を遂行できないため、延期あるいは代理人の手によって行われることになる。また妊娠ともなればほとんどの務が滞ることとなる。以上の伝統は皇室の私的領域になるため今後も変更されることは考えづらい。このように女性天皇には障害が多く、男性天皇の方が円滑な祭務が可になるため男子を優先すべきであるとも考えられる。ただし以上の宮中における穢れ観は10世紀頃から顕著になるもので古代の女とは縁のものであった(参照『13章 女性皇族の婚姻』「3節 女性皇族と穢れ」)。


1章 女系天皇


          平民男性
           ├─────┬女系男子
上皇明仁┬今上徳仁敬宮愛子   └女系女子
    篠宮文仁篠宮仁 
              ├───┬男系男子
            女性  男系女子

水色背景の人物が天皇になった場合、女系天皇と呼ばれる。

女系天皇とは女性を通じて皇統を継ぐ天皇のことである。伝承の上では神武天皇から令和今上天皇に至るまで女系天皇は存在せず、126代一貫して男系継承が続いている(その史実性は後述する。参照『8章 崇神〜仁徳天皇の継承』)。記紀系譜を尊重する立場からは女系天皇は先例がないことを理由に保守層からしい反対がある。

1961年篠宮が生誕して以来40年以上皇室に男児が生まれず(9人連続で女児が誕生)、21世紀初頭には皇室危機が叫ばれていた。そこで女性・女系天皇を容認するべく2005年に当時の小泉内閣皇室典範に関する有識者会議を開き、女性・女系天皇のを開くこととなった。だが会議の報告書が出された3ヶ後に篠宮夫妻が子を授かり、翌年に悠仁親王が誕生したことで議論は一時下火となる。

2025年現在大学生になった悠仁親王は心身ともに健康であり、次世代の天皇は彼であるとされている。しかし男子継承を安定して続けるためには仁夫妻が男子最低でも一人、できれば複数人けなくてはならず皇室が不安定であることに変わりない。そのため女系天皇を巡る議論は今でも続けられている。

「1節 女系天皇の定義」。「女系天皇」は様々に定義できるが、皇位継承問題における女系天皇とは系出自集団ではない人物が即位することをす。系出自集団とはいわゆる「男系」のことであり、父親を辿っていけば必ず始祖(起点となる一人の人物)に突き当たる人物だけで構成される社会集団を意味する。過去には10代の女性天皇が存在したが彼女たちは全員父親をたどっていけば必ず天皇に行き着く男系女子であった。これに対し愛子王が男性との間に産んだ子は父親をたどっていっても天皇に行きつかない。これが女系天皇となる。

斉明女から息子天智天皇への継承や、元明天皇から元正天皇への継承は、皇位自体は女系で継承されているため女系天皇と定義することも不可能ではないが、それは現在の皇位継承問題とは関係のものである。智の父親は舒明天皇であり、元正の方の祖父天皇なので、両者とも男系族であり男系継承である。このことから男系固守は「女系天皇は父親を辿った場合に始祖となる神武天皇に行きつかない」として女系継承に反対している。ただし明治皇室典範では系出自集団であっても臣民は皇統とされず、あくまで皇族のみが男系と考えられた。例えば徳将軍は清和天皇の男系子孫であるが臣籍であるため皇統ではない。よって徳の男が皇女を娶って産んだ子は女系天皇であり、万世一系は断絶することになる。

「3節 男系継承固守の意見」と「4節 女系継承容認の意見」ではそれぞれのを詳細に見ていく。男系固守は「女系天皇には前例がなく伝統に反すること」「女系継承は万世一系の断絶であること」に集約されている。皇統とは男系のことをし、女系継承が行われれば神武系の血統が皇女の夫の系に移り、2680余年の天皇歴史はそこで断絶する。そうならないよう先人たちが守ってきた男系男子則を今後も守っていくのが現代人の役である。一方の女系容認男女平等の観点に加え、側室がない場合の男系継承の持続可能性の乏しさや男子出産を強制される皇妃の負担軽減。また男系継承は儒教中国的な思想であり日本本来のものではないこと、古代大王継承に実質的な女系継承が存在したこと、男系の論理父親をたどっていけば確かに全員神武にはいきつくものの皇祖の女神アマテラスには行きつかないことなどさまざまな視点から女系天皇を支持する。

「5節 女系天皇か旧宮家復帰か」。現在皇室には若い男性皇族が悠仁親王一人しかいないため、1947年に皇籍離脱した十一宮旧宮家)の皇籍復帰案が出されている。復帰推進旧宮家が臣籍降下したのはGHQの外圧のせいであること、嫡流が断絶した際に在野にいた継体天皇を推戴した前例があること、また臣籍から皇籍復帰して天皇になった先例として多-醍醐子があることを挙げて復帰に問題なしとする。復帰不可は11宮GHQが来る以前から皇籍離脱の対になっていること、継体が応神5世子孫であるのに対し旧宮家子孫は約600年前の崇の20数世子孫と継体とべても桁違いに血が離れていること、また多-醍醐が臣籍にいたのはわずか2年であり80年以上も民間にいた旧宮家子孫とはべられないことを挙げて反論している。

「6節 女性・女系天皇に関する世論調査」「7節 旧宮家子孫に関する世論調査」では皇位継承問題に関する民世論を見る。戦後世論調査では賛同率の低かった女性天皇であるが近年の調、特2001年に敬宮愛子が誕生して以来、女性・女系天皇共に高い民支持率を得ており、女性天皇は75〜85%、女系天皇は70〜75%前後で推移している。一方の旧宮家子孫復帰の調歴史が浅いが、近年のものでは賛成率はおよそ35~45%となっている。「8節 世論調査に用いられる統計的手法」ではその世論調査に使われている統計学的手法を掲載する。世論調査は専門による作為抽出と統計処理が行われており、人口ではごく一部にすぎない2000人程度を対にした調でも日本人1億3000万人の意見を検討することが可になっている。

1節 女系天皇の定義

記事冒頭で女系天皇の定義

1.「母親が皇統に連なる血筋で、父親が非皇統の天皇

としたが、女系天皇は多義的な語である。文化人類学における女系(系)継承とは「母親の血統のみを辿って共通祖先にいきつく継承」をすため、この定義に基づく女系天皇とは

2.「母親の血統のみを辿って共通皇祖先にいきつく天皇

である。

定義2の女系天皇

始祖─女性天皇
     |──女性天皇
    男性   |──女性天皇
        男性    |──女性天皇(女系天皇)
             男性 

  • を辿っていくと始祖にたどり着く(系単系出自)

すると1の定義天皇は「双系天皇」あるいは「両系天皇」と呼ばれるべきだろうが、現在メディアおよび政府の有識者会議等でも1の定義の女系天皇が定着している。女系天皇に反対する論者の中には「女系天皇は架概念である」とする者もいるが、1の定義に依れば「女系天皇」、2の定義の依れば「双系天皇」と、要は定義と呼び方の問題である。明治には「女統」という語が官民で使われており、「女系天皇」の概念が遅くとも維新期には既に存在していた。

また女系の漢字の意味だけをとって女系天皇を単に、

3.「母親が皇統に連なる血筋の天皇

とするならば天智天皇のように方も方も皇族で、女系かつ男系という天皇も大勢(歴代で27代26人)存在する。

定義3の女系天皇の例

敏達─押坂人大┬────舒明
         |      |─(父も母も皇族) 
         └茅渟王─皇極       

更に、

4.「父親は即位しておらず母親から皇位を受け継いだ、つまり女系で皇位継承した天皇

定義するならば元正天皇という女系天皇も存在する。

定義4の女系天皇の例

40天皇
  |───壁皇子
41持統天皇    |───44元正天皇
      43元明天皇  └42文武天皇─45聖武天皇

  • 数字は代数
  • 母親の元明はの元正に「女系」で皇位を継承している

皇位継承問題の議論にでてくるのは1の定義の「女系天皇」なので3、4の定義の「女系天皇」と混淆(こんこう)しないように留意されたい。元正は系で天皇に連なり、男系女子に該当する。1と3の定義の女系天皇を混ぜないよう、非男系天皇という呼び方をする論者もいる。

また皇室典範では明治の旧典範以来、女系天皇の即位が禁止されているが、ここでいう女系天皇の定義定義1と同じではない。詳しくは『2章 新旧皇室典範作成の経緯』「1節 旧皇室典範」で解説するが、典範作成で想定された女系天皇は、

5.「母親が皇族女性で、父親が(先祖がであれ)皇族でない男性である天皇

となっている。つまり臣籍降下した人物は皇統ではなく、その人物が内王と結婚して産んだ子は女系天皇であり万世一系は断絶するとされる。

定義5の女系天皇

          天皇─
              |──女系天皇
天皇王─(皇籍離脱)─さん

実例として仁孝天皇の息女の和宮と、清和天皇の男系子孫の徳川家茂の間にできた子供は女系子孫として扱われる(実際には二人の間に子供はなかったが)。

2節 議論の要点

男系固守

  • 過去に一度も例のない女系天皇の即位は神武天皇以来2600年以上続く万世一系の皇統の断絶である。女系天皇の即位は日本の根幹である皇室の存在を揺るがすものであり許されることではない。
  • 過去の女性天皇は女系天皇を生み出さないために全員独身か寡婦(未亡人)であった。
  • 古代天皇がいたにもかかわらず伝統を守るために在野に男系の皇統をめて即位させた継体天皇という前例がある。また一度臣籍降下してから皇籍に復帰して登極した宇多天皇醍醐天皇という前例も2件ある。
  • 皇室は前例義であり、前例のない女系天皇ではなく前例のある旧宮家の復帰を選ぶべきである。旧宮家子孫は現在天皇と交流を持っており、準皇族身分と言える。

女系容認

  • 万世一系の男系男子、女系天皇は皇統の断絶」という思想は明治時代に造られた「伝統」である。旧皇室典範案では女系継承が容認されており官民共に女系天皇に賛同する者はいた。「皇統は男系でなければならない」という暗黙の共通認識は存在していなかった。
  • 神武天皇神話的存在であることは言うまでもなく、天皇世襲確立したのは6世紀初頭であり、それ以前の大王で女系継承が行われていたことは既に現在の文献史学考古学では定説になっている。
  • 日本社会古代から伝統的に双系継承社会であり、女系で継承された将軍や女系で継承された関白も存在する。女系継承は男系血統義が強固な中国社会と一線を画す日本国の個性である。
  • 継体天皇は応神天皇の五世子孫であるが、現在旧宮家子孫は600年前の崇天皇から二十世代以上離れている。また多、醍醐が臣籍に居たのは2年だが旧宮家は既に80年近く民間人として過ごしている。そのような世数の離れた臣籍の者が皇位につくことを先人たちは固く禁じてきたため、前例がない点では旧宮家子孫と女系天皇の立場は変わらない。

現状の皇室構成を踏まえた女系天皇に対する立場は大きく4種に分類できる。

  1. 天皇でなく愛子天皇を推す(直系長子、積極的女性→女系天皇
  2. 天皇息子が生まれなかったら女系天皇を容認する男子優先・女系天皇
  3. 女性天皇は認めるが女系天皇は反対(男系
  4. 女性・女系天皇共に反対(男系男子
  5. 番外として天皇制廃止

実際には「女系天皇も容認するが旧宮家を優先すべきである(八木秀次氏など)」とする立場や逆に「旧宮家も容認するが女系天皇を優先すべきである(所功氏など)」のように男系、女系も一枚岩でなく多種多様な考え方が存在する。「女系継承は皇統断絶」と考えるラディカルな男系からすると、旧宮家推進であっても女系を容認する論者は論敵となりうる。

2021年現在政治家の大勢を占めているのは「今上陛下から篠宮皇嗣殿下、次世代の悠仁親王殿下という皇位継承の流れをゆるがせにしてはならない」という男子優先であり、宮内庁男子優先を明言しているため、愛子天皇誕生のは薄い。的な女系天皇に関する議論天皇息子が生まれなかった事態を想定して進められている。そしてその場合の選択肢は「女系天皇容認」か「1947年に皇籍離脱した旧宮家子孫の皇籍復帰」の2択にほぼ絞られている。理論上は側室案、再婚案などもあるが、現在家族観念からして採用されることはまずないと思われる。とはいえ今後の世論の変化によって趨勢が変わり、愛子天皇や側室制度採用という可性もゼロではない。

上皇陛下は女系を容認している」という噂や「旧宮家は復帰する覚悟を持っているexit」という話もあるがいずれも的な発言ではなく聞の域を出ない。上皇、今上、篠宮らは的なインタビューで皇位継承問題の話題になると頑なにノーコメントを貫いており、本心はどうあれ皇族らの皇位継承への立場は白紙と考えて良い。また菊栄親睦会旧宮家子孫の集まり)も同様に「皇室典範問題で一切意見を述べない」と意思決定し、マスコミ取材にも応じないとしている[1]。しかし後の2022年旧宮家筆頭格の伏見伏見博明氏は自伝の中で、要請があれば皇室復帰する覚悟があると発言している。氏は皇籍離脱した時にすでに生まれていた生の皇族であるものの、氏の子孫に男系男子はいない。


  1. 『お世継ぎ問題読本』佐藤文明、P64

3節 男系継承固守派の意見

女系天皇反対の本質女系天皇が即位すれば2680年以上続いてきた皇統が断絶してしまうことにある。

  1. 長い皇統の歴史の中でも女系天皇には一度として前例がない。過去126代の天皇はその全員父親を辿っていけば始祖・神武天皇にいきつくが、女系天皇はその皇室の絶対のルールから外れることになる。伝統を遵守することが皇族の存在理由の一つであるのだから、前例がないというのは女系天皇否定の重大な論拠となる。
  2. 天皇の根は男系継承にあり、女系を許せば天皇の権威が揺らぐ。女系継承によって皇室止論が民の中にはびこるようになり、日本の根幹である皇室危機に陥れる。
  3. 女系天皇が即位した場合、民の中に女系天皇を認める人と認めない人に分かれ、社会の分断が発生する。男系の伝統を守ることで、わずかでも天皇の権威性に疑問を持たせる余地をくすことができる。
  4. 日本の伝統的イエ観念からすると、女系継承になった時点でイエは旦那のものとなる。例えば愛子殿下田中さん(仮名)と結婚し、その子が天皇になった場合は易姓革命となり天皇は断絶し、新たに田中が始まってしまう。それは2680年以上続いてきた世界最古の王の断絶を意味する。
  5. 女系継承と許すと外戚の簒奪を容易にしてしまう恐れがある。藤原氏や徳氏など時々の権力者が息子女性皇族と結婚させ、その女系の子を天皇とすることで皇室を乗っ取ることを防いでいたのは男系の原則があったからである。
  6. 婿外国人だった場合、皇統に外の血が混じることとなる。仮に愛子さまが中国人結婚した場合、中国系の天皇が誕生し、アフリカ人と結婚した場合、アフリカ系の王になる。そうなれば王は外系となり、日本が乗っ取られてしまう。
  7. 女性皇族が品位に欠ける旦那結婚した場合、天皇父親が皇族にふさわしくない者になりかねない。
  8. 男系継承にしないと神武天皇のY染色体が残らない。Y染色体は系のみを通じて受け継がれるものであり、女系継承では神武天皇のY染色体が損なわれる。論、古代人がY染色体を知っていたはずもないが、知識として知らずともY染色体を残そうとしてきた先祖たちの知恵と奇跡を大切にすべきである。
  9. 過去日本人が大切にした皇室の伝統をたまたま同時代に生まれただけの々が人気投票じみた議論で破壊して良いわけがない。
  10. 古代日本から存在した氏姓制では日本の氏族は男系共通祖先を持つ血縁集団であった。その観念からすれば女系継承は氏姓の断絶を意味する。
  11. 男系、女系を無視して天皇の子孫全てに皇位継承権を認めるのならば、民の高い割合が皇位継承者になってしまい、天皇・皇族と民間人の血統上の差異がなくなってしまう[1]
  12. ・女系の禁止は男尊女卑ではなく、むしろ外部から皇室に男が入ってくることを防いでいるものであり、むしろ女尊男卑の思想である。
  13. 日本には外でいう皇配(プリンス・コンソート)族とでもいうような特種の柄が存在せず、現実に女性天皇に婿を迎えること非常な困難を伴う[2]
  • 竹田恒泰は「男系継承は特定理論に基づいて成立したのではなく、理屈でそれを説明することはできない。しかし古来より男系で皇位継承されてきたという厳然たる事実を重く捉えなければいけない。なぜ男系継承でなくてはいけないかは、もはや理由などどうでも良い」としている[3]

  1. 『「女系天皇論」の大罪』小堀一郎櫻井よしこ八木秀次、P83
  2. 皇室法概論』園部逸夫、P338
  3. ブログ『天皇弥栄』exit竹田恒泰
  4. 皇室典範改定問題に関する提言exit小堀一郎
  5. 『女系天皇論」の大罪』小堀一郎櫻井よしこ八木秀次
  6. 『お世継ぎ問題読本』佐藤文明、P53

アマテラスと皇位継承は無関係

皇統譜

アマテラスアメノオシホミミ─ニニギ─ヒコホホデミ─ウガヤフキアワセズ─イワレヒコ(神武天皇

「皇祖神が女神アマテラスなのだから女系継承でも問題がない」というがあるが、このには様々な問題点が存在する。

⑴男系、女系の概念が発生するのは父母る時だけであり、アマテラスは夫を持たずして子を産んだのだから男系・女系の括りに当てはまらない。

⑵男系継承が固守されるようになったのはアマテラスの孫のニニギが地上に降り立って以降の話である。竹田恒泰は皇位継承は「皇位」なのだから初代天皇の神天皇以後のみを指すしている。

⑶アマテラスは本来は男神であった。古代から江戸時代にかけて男神として祀らるアマテラス伝承が数多く存在し、荻生徂徠や片蟠桃とった近世思想家も神説を支持している。アマテラス男神説は現代史学でも定説となっており、元々の太陽神は男神であったがそれに仕える巫女(ヒメ)のイメージが投されて女神となった、あるいは記紀編纂時期に女帝・天皇が愛草壁の血統を正当化するために自らを皇祖になぞらえ、太陽神を女神化したと考えられる。(参照『15章 天照大神の考証』3節 男神アマテラス」)

⑷アマテラスは誓約(ウケヒ)スサノオとの間に子を作ったため、神武天皇の先祖であるアメノオシホミミの父親スサノヲである。スサノヲアマテラス兄弟であるため、男系継承は守られている。これは学術的にも定説となっており、ウケヒはアマテラススサノヲの性交の暗喩ということは間違いない。(参照『15章 天照大神の考』「4節 ウケヒ」)

イザナギ
  |────┬アマテラス
イザナミ   |  ×(ウケヒ)─アメノオシホミミ─……神武天皇
       └スサノヲ

皇位継承は常に男系男子が優先される

歴史を紐解くと、天皇は嫡流に女子がいたとしても常に傍系の男子を優先させてきた。例えば武天皇には数多くの姉妹がいたが、武が子亡くして死んだ後に彼女たちのも女性天皇とならず、非常に遠戚で地方王族であった継体をわざわざ擁立している。女系が容認されているのであれば、武姉妹婿をとって皇位継承すれば良いのだがそうはなっていない。このことから古墳時代には既に大王天皇)は男系男子が即位するものであるという則が存在したことが分かる。

仁賢┬高橋皇女
  ├皇女
  ├───────香女
  ├皇女     |──欽
  ├皇女     継体 
  ├
  ├皇女
  └春日山田皇女

同様の例は他にも多数あり、清寧天皇が死んだ時に春日皇女がいたが遠戚で孫王にすぎない顕宗天皇が即位しているし、奈良時代の称徳天皇死後、彼女姉妹聖武天皇井上王を差し置いて孫王の王が天皇として登極している。

16仁徳┬17履中─辺王┬23顕宗
   |             └24仁賢
   |         |───25武
   └19允恭─21雄略┬春日皇女
            └22清寧


┬40武─皇子─42文武─45武┬48称徳
|                 └井上
|                   |
38天智─施基王───────────49仁(王)

過去の女帝に皇配はなく、いずれも男系男子をつなぐ中継ぎだった

古代大王は女系天皇はもちろん女系皇族も作らないために、女性皇族に厳しい婚姻制限を課しており、記紀には女性皇族と臣下の婚姻は一件も記されていない。特に女性天皇が独り身であることは皇室の不易のであり、それが男性皇族であっても過去の女性天皇に「皇配」がいたことは一度もない。推古や皇極のように皇女時代に夫がいた天皇は存在するが、彼女たちが即位したのは夫が死んで寡婦となってからのことである。江戸時代に6歳で即位した明正天皇は、譲位して天皇を辞めた時まだ20歳であり結婚出産も可であったが、彼女は74歳で崩御するまで半世紀にわたって独り身を貫いた。それほど女性天皇の「独り身」の法が重たかったと言える。もし愛子王が女性天皇となった場合、その皇室ルールに従って結婚は許されなくなる。これは非人的であり、望ましいことではない。

そうした婚姻制限の上で即位した女性天皇も、以下の図に見るように8人10代が全て男系男子天皇と男系男子天皇を繋ぐだけの中継ぎ天皇であった。

崇峻→(推古)→舒明
舒明→(皇極)→孝徳
孝徳→(斉明)→
武→(持統)→文武
文武→(元明)→
文武→(元正)→
武→(孝謙)→
仁→(称徳)→
尾→(明正)→後光
桃園→()→後桃園

三笠宮寛仁親王の女系反対論

2006年上皇陛下明仁)の従兄弟である三笠寛仁(ともひと)殿下櫻井よしことの対談で以下のような発言をしている。

二千六百六十五年の間、神話の時代から延々と男系、方の血統で続いてきたという稀有な伝統であり、この血の重みにはも逆らえなかったということだと思います。血統に対する暗黙の了解、尊崇の念を民が持っていてくださるから、私のように仕事はするけれど毒舌の乱暴者であるとか、のような車椅子の重度障碍者であっても、みなさんがきちんと扱ってくださるわけです。

(「日本というの安定装置、振り子の原点」という発言を受けて)私に言わせると振り子の原点、アメリカ人は担保と考えるくらい、日本の歴史に根ざしているこの天皇制度というものが崩れたら、日本は四分五裂してしまうかもしれません。そう考えると、この女系天皇容認という方向は、日本という終わりの始まりではないかと、私は深く心配するのです。

殿下によれば、女系天皇が即位したら日本というバラバラになるという。当事者の一人である三笠殿下の発言は重く受け止めなければいけない。


4節 女系天皇容認派の意見

以下、女系天皇および女系継承を前提にした女性天皇の賛成意見を記す。

  • 「女系天皇は皇統の断絶」というのは明治時代に生まれた新規法であり、先人達が将来に渡って永劫遵守すべきとした伝統ではない。明治以前に「万世一系とは男系継承のことであり、女系継承は皇統の断絶」とする史的根拠も神道的根拠も存在しない。確かに系譜上では天皇は古くから男系継承を続けているが、それは軍事的要因(古墳時代は皇族間の殺し合い、地方族との紛争、朝鮮との対外戦争が頻発しており、戦場に出られない女性が即位して、王に所属していない婿を外部から取ることは難しかった)と中国の模倣(道教由来の「天皇」号をはじめ、古代天皇制度はほぼ全てが当時の先進国であった中国の模倣である。男系的な系譜もその一つ)から生まれたものが、以後男性中心社会の中で惰性的に保存されていたに過ぎず、要するに祭者としての皇統の本質とは何ら関係がないものである。
  • 記紀で皇祖アマテラスがニニギに授けた天壌無窮の御神勅は「日本が子孫が治めよ」であり男や女を区別していない。歴史学者の田中卓が「皇統譜で血統を旨とする『世系第一』として天照大神が記され、神武天皇は『皇統第一』ではあるが『世系第六』とある。もともと日本国体の誇りはいわゆる一夫多妻による男系の継続などではなく、統治の君の祖先がかに神につながり、その神が、単に観念状の昔の物語ではなく、今に生きる君民一体の信仰の対として仰がれてゐる点にある」と述べているように[1]天皇の尊さは根は男系継承ではなく神の子孫という事にある。以下に示す文武天皇即位の宣命でも皇統の正統性はやはり「アマテラスの子孫」にあって、「男系」々とは史書のどこにも書かれていない。

「高天原にはじまり、遠い先祖の天皇の御歴代から中頃・近年に至るまで、天皇の皇子がお生まれになるままに、相次いで大八日本)をお治めになる順序ということで、つ神の御子(アマテラスなどの子孫)として、においでになる神のお授けになるとおりに、執り行っていたこのつ日嗣・高御座の業(天皇としての務めと使命)である」『続日本紀』

  • 日本は伝統的に双系継承制社会である。上古の倭では男女が同じ重みを持った双系継承制であったが、5世紀から文明して当時の先進国である中国から男系血統原理を導入した。大化改新の折に「良男・良女間の子を父親の氏族に属させる」と制定され、以後8世紀にかけて緩やかに上流階級の間で男系継承が定着していく[2]。しかし中世以降は男系優先の原則の上で、婿養子という形式で男系の名を守りつつ女系を容認する双系継承に回帰している。「女系継承は断絶」と見なすの中国社会の思想(宗法)であり、日本の伝統にはそぐわない。徳将軍すら女系継承者が就任できるのが日本社会である。男系男子の「伝統」が記された旧皇室典範の作成会議参加者で先祖代々男系継承している者はむしろ少数であり、男系筆頭の井上毅ですら子供しかいなかったため督を女系継承させている。「民間人と皇室は全く別」という反論もあるかもしれないが、日本民族の伝統的継承法・家族観に反して、その徴である皇室のみが民族の法に縛られる理由がない。
  • 女系天皇容認によって皇室断絶のリスクが軽減・分散されると同時に、皇族女子に押し付けられている男子出産の義務をなくすことができる。現段階では悠仁親王の将来の配偶者に皇室の命運が丸投げされている状態であり、悠仁親王の配偶者へ「男児出産」のプレッシャーを与えないためにも期に女系天皇を認めることは人的処置と言える。かつて子妃と紀子妃は「男子を産まなければいけない」という圧力に苦しみ、特に子妃は心身共に負担の大きい不妊治療を強制された上、一度の流産を経た後に愛子王を出産した際、明仁天皇(当時)から「次は男の子をお願いします」と言われたことが宮内庁の定例会見で明らかになっている[3]。その後、子妃は「女しか産めなかった」ことで精神を病み、適応障害に陥っている。昭和の香皇后も4連続で女児を産み「女」と陰口とかれていた。仮に今後、宮が増えたとしても女系を認めない限り男子出産圧力はいつまでも残り続ける。「女児が生まれてガッカリ」というグロテスク光景は避けるべきことである。
  • 明治時代天皇男子に限ったのは側室ありきのことであった。歴代天皇も半数近くが側室の子である。その後「人倫に(もと)る」ということで側室制度がれた(戦後は法的にも禁止)ので女性・女系天皇を認めなければ皇族は減っていく一方なのは自然現象である。よって皇室を存続させるためにも女性・女系天皇容認は必要不可欠といえる。「側室ありきだったのは死亡率が高い時代の話であり、医療が発達した現代では宮も含めれば側室がなくても男子継承は断絶しない」という反論もあるが、実際問題、戦後皇室には3宮があったにもかかわらず天皇の代で全て断絶してしまっている。
  • 「これまで全て男系継承だった」ことは「これからも必ず男系継承でなければならない」ことを意味しない。後醍醐天皇が「今の例は昔の新義なり」と述べたように、「伝統」と言われるものも最初は全て前例のないものであった。天皇古代から現代まで存続できたのは伝統を守りながらも時代に合わせて柔軟に変異してきたからである。たとえば天皇はその長い歴史の中で皇族か摂関のような上級貴族のみを皇后としてきた。上皇が旧族でもない生民の正田美智子を皇后としたことはその伝統に背く行為であり、当時は香皇后を筆頭として保守、皇族、旧族から大きな反対運動があった。「民間人を皇后にしたら伝統が壊れ、歴史ある万世一系が乱される」とまさに女系天皇と同じことが考えられていたのである。しかし結果として美智子妃は民から広く受け入れられ、新しい皇后像を形成することに成功した(参照『17章 近代天皇制と伝統』「5節 初の皇后」)。今回の場合も、時代の要請に応じて女系継承を行うのは理にかなっている。
  • 何が「伝統」で何が「伝統」でないかは常にその時々の政治によって決定されるものである。たとえば女性皇族は、臣下と結婚しても皇族であり続けるのが古来からの皇室の伝統であった。そのため明治の旧皇室典範で婚姻した女性皇族は強制的に臣籍降下することになった際には公家から先例と異なると批判されていた。他にも、血統が離れても皇族であり続ける永世皇族制度もまた明治に生まれた伝統破壊法である。しかし現代の「伝統を大切にする人々」は「女性皇族の臣籍降下は伝統に反する」「先例にない永世皇族制度を止せよ」とは言わない。また戦前の軍人勅諭では「天皇が軍隊を率いることは子々孫々まで守るべき伝統である」と定められているが、現在保守の中に「伝統を守るために」軍人天皇復活を望む動きはい。上述した皇后もその例の一つであるが、このように「伝統」とは政治状況で簡単に変わるものであり、女系天皇が誕生した時はそれが新しい「建以来の皇室の伝統」になるだけである。
  • 6節で示すように世論調査では女系天皇は民から広く受け入れられている。憲法に「天皇の地位は権のある民の総意に基づく」と明記されている以上民の賛意は重く受け止められるべきである。女系天皇と女性天皇の違いも分からない人が多く参加しているとの摘もあるが、皇室に詳しい人しか口出ししてはならないというのは民主主義的ではない。一方で専門の意見はどうかというと、先述した皇室典範に関する有識者会議において20回に会議の末に女性・女系天皇容認の結論が出ている。同会議には憲法学者佐藤幸治や日本古代史を専門とする生や緒方貞子など各界の重鎮が参加しておりその信頼度は高い。ちなみに同会議では長子優先義(愛子王にが生まれても愛子皇太子になる)を採択している。
  • 明治初期に旧皇室典範の案では、女性・女性天皇は容認されていた。元老院の『国憲按exit』でも学者である横山由清の『継嗣考』でも女・女統は認められていた。天皇の権威を高めることに熱心な政府高官、専門たちは必ずしも全員が女系天皇を問題視しているわけではなかった。
  • 戦後の新皇室典範作成の折、女系天皇だけでなく男系女子の女性天皇も皇位継承から外す論拠として「歴史上の女はいずれも後継者が幼年であったのでその成長を待つ間の一時就任でしかなかった。このように考えると女性天皇の即位はむしろ皇位の不安定を意味するものといえる[5]」と言われたが、これは歴史事実に反している。推古天皇斉明天皇皇太子聖徳太子中大兄皇子が成長しても終身天皇でありつづけ、一時就任の存在ではなかった。「女性天皇の即位が皇位を不安定化させる」の箇所も史実に反しており、幼年の皇太子の成長を待つために中継ぎ即位した持統、元明、元正天皇らはむしろ皇位を安定化させるための存在である。

以下、上述の女系天皇反対意見の数字に対応する反論。

1.「女系天皇には前例がない」
現代史学には15代応神天皇は12代行の曽孫である中日売に婿入りしたという説(応神王説)や26代継体天皇の時代に女系継承が行われたという説(継体王説)が存在する。これらの女系継承は飛鳥時代中国長的思想が輸入された際に、女系継承を野蛮と考える中国(参照『19章 海外との較』「4節 中国の男系継承の理論」)に倣って歴史から殺されてしまったと考えられる[6]。当時の日本が双系継承社会であったことは種々の遺跡や史料から確認でき、連合の長に過ぎなかった当時の天皇だけが男系継承にこだわる理由がない。また幕末まで守られていた養老の継嗣には「女ノ子同シ」という女系継承を認める文章があり、男系継承はけして絶対的な祖法ではなかった(参照『13章 女性皇族の婚姻』「1節 女同の解釈」)。

2.「男系継承こそ皇統の本質である」
天皇の権威の神武天皇ではなく女神アマテラスである。「日継(太陽神の子孫)」であるからこそ天皇天皇たりえるのであって、現在の皇統譜に名前すら記載されていないスサノヲイザナギを(神武の高祖父の)アメノオシホミミの先祖と言うのは皇室本質を取り違えたと言える。男系イデオロギーに基づいて父親をたどっていっても「皇祖」アマテラスにたどり着くことはない。

イザナギ
  |────┬アマテラス
イザナミ   |  ×(ウケヒ)─アメノオシホミミ─……神武天皇
       └スサノヲ

アマテラス男神説に関しても『日本書紀』ではアマテラスは「」と呼ばれ明確に女神であり、『古事記』でもアマテラススサノヲに対して「那勢命(なせのみこ)」と言う、女性が男兄弟を呼ぶ時の呼称を使っておりやはり女神である。儒教思想に基づいた後世史料を引用してアマテラスは男神と言うのは記紀神話の否定である。また「アマテラスは元々は男神だった」というも、「元々は」を言い出すならば太陽は元々は男も女もない恒星である。それをあえて女神にした皇室の伝統を尊重すべきである。

3.「女系天皇が即位するとそれを認める人と認めない人の間で分断が起きる」
現在でも天皇制廃止論を唱える民は数万人に昇るが立った社会の分断は起きていない。また世論調査では女系天皇の賛成率は、対抗案の旧宮家子孫の皇籍復帰より格段に高い。女系天皇即位による民分断を憂慮するならば、民間出身で天皇から血の離れた旧宮家子孫が即位して民を分断してしまう可性を考慮しないのは不適当である。

4.「日本のイエ観念ではイエは夫のものであり、女系子孫は夫の姓を受け継ぐことになる。これは易姓革命えある」
日本には中国のような強い男系族形態は存在せず、女系でイエを相続する伝統が古代から現代にかけて存在していた。中世婿養子という形での女系継承が日本社会で広く行われており、日本のイエは男系継承は絶対視されていなかった。また易姓革命とは政権を譲り渡す譲か、前政権を武力で倒す放伐によって為されるが、婿入りによる女系継承はそのどちらにも当てはまらない。そのため「女系を許すと天皇は断絶する」論理的根拠はい。加えて、皇室には姓がないため入婿した時点で皇婿の姓は失われるので易姓革命が起きる余地はない。

5.「女系継承を許すと外戚の簒奪を容易にする」
藤原氏や徳氏などの権力者が皇位簒奪を企図したことを示す史料はなく「女系継承禁止が簒奪を防いだ」という論は根拠が乏しい。むしろ皇位を狙ったと言われる孝元天皇男系子孫)や蘇我氏(孝元天皇男系子孫)や足利義満(清和天皇男系子孫)や、新皇を僭称した平将門桓武天皇男系子孫)は皆天皇の男系子孫であることから、臣籍降下した皇統の末裔による簒奪の危険性の方が高かった。最も皇室危機であった道鏡騒動は天皇による譲位未遂であり、継承の男系・女系は関係である。また男系継承下でも藤原摂関のように男子天皇がせて天皇る者がでる可性や、中国武則天のように皇后自身が簒奪する可性もあるので、女性天皇の皇婿による簒奪だけを危惧する理由もない。

6.「女性天皇の夫が外国人の場合、皇統に外の血が混じる」
古代天皇大陸から渡ってきた集団ではないか?」の議論を横に置くとしても、外の血が混じることに男女の区別はなく皇后を通じて混じることもあるうるので皇婿だけを不安視するのはおかしい。これには実例があり、平安京を建てたことで有名な桓武天皇母親済武寧王の子孫とされ、桓武天皇本人も済由来の祭を行っており、「済王等は朕が外戚なり」と強い族意識を持っていた。上皇はかつてお言葉exitの中で桓武天皇の名を挙げて「韓国とのゆかりを感じる」と述べている。また応神天皇方の祖母も新羅王の血筋である。

さらに「天皇外国人の血が混じって何の問題があるのか」という論点もある。現行憲法では天皇日本徴であってヤマト民族徴ではない。現在日本には外ルーツがありながら日本人としてのアイデンティティを持つ日本人が何万人といる。彼らのような民が多く住む日本において「外の血が混じると日本徴に相応しくない」と言してしまうのは差別的である。もし彼らが「自分には関係ない」と天皇にそっぽを向いてしまえば、その方がよほど皇室危機である。

現実的には婿入りする皇婿外国人が選ばれる可性はゼロであろう。可性が存在すること自体がダメだというのなら、外国人旧宮家子孫が天皇になる可性もある。実際に東伏見男系子孫でブラジル籍のAlfredo Tarama氏という人物は存在する。

7.「女性天皇の夫が品位に欠ける人物の可性がある」
品位に欠ける者が結婚を通じて皇族になる可性は性別に関係に存在する。また皇室典範十条には「立后及び皇族男子婚姻は、皇室会議の議を経ることを要する。」とあり結婚で皇籍から出ていく内王と違って男性皇族の婚姻で皇籍に入ってくる者の選定には皇族や宮内庁民の非常に厳しい審を経る。よって十条の改訂により男女問わず皇籍に民間人が入ってくる場合に皇族会議を経ることにすれば不適格者が皇室に入る可性は限りなく薄い。

8.「女系継承では神武天皇のY染色体が遺伝されない」
過去の人々が染色体という概念を意識していたはずもなく、男系の結論ありきの「科学」を装った後付け論法である。日本人天皇信仰とY染色体は全く関係だ。仮に「神武天皇のY染色体」が大事だというのなら陵を調して過去天皇と今上や皇嗣子とY染色体が一致するかDNA鑑定が必須になってしまう。また染色体以外にもの形質を伝える遺伝的キャリアは多数存在するのに染色体に拘る理由もない。もし女系で遺伝が途絶えるなら、あなたとあなたの方の祖父生物的に赤の他人ということになってしまう。

さらに古代天皇は征した地方勢力を皇室系譜に組み込むことを繰り返していたため、大和朝廷を構成する族の大半は理論上「神武天皇のY染色体」を持っていた。例えば皇位簒奪を論んだとされる道鏡も系譜に従えば「神武天皇のY染色体」を持っており、その道鏡の野望を防いだ和気清麻呂垂仁天皇の男系子孫であり「神武天皇のY染色体」を所持している。また近世学や皇史観では全ての日本国民は天皇の傍系子孫であると考えられたため、理念上は日本人全員神武天皇のY染色体」を持っていることになる。(参照『12章 記紀歴史叙述』「2節 擬制国家の形成 」)このことに鑑みても「神武天皇のY染色体」と皇位継承が関係であることが分かる。

9.「たまたま今に生まれただけの現代人が過去の伝統を簡単に変えていいわけではない」
憲法第1章第1条で「天皇の地位は権の存する日本国民の総意に基づく」とある。よって天皇の今後は民の議論によって決定されるべきである。上皇2009年に「皇位継承の制度にかかわることについては、国会の論議にゆだねるべきであると思いますexit」と述べている。理念上は「民の総意」とは現在だけでなく過去未来日本国民も含むが、現実的に過去未来日本人の意見を聞く方法はなく、「伝統からすれば民出身の天皇も、20世代以上も離れた遠縁の天皇も絶対に許されるものではない」と都合良く何とでも言えてしまう。

10.「古代日本から存在した氏姓制度は男系共通志尊を持つ血縁集団であった」
先述したように先史時代の日本は双系制社会である。また中国朝鮮社会から輸入された男系血統遵守の氏姓制は中世には日本のイエ制度の発展によって絶対視されなくなった[7]。以来、日本人はイエを残すために婿養子(女系継承)を多々行なっている。武の頂点である大名でも婿養子は数多く見られ、男系血統原理が絶対的な氏姓制は日本の伝統的文化ではない。

11.「男系女系を無視した場合、民の大半が皇位継承者になってしまう」
一般市民と皇族は法的に峻別されており、血統上の繋がりがあるからといって市民と皇族が同一視されることはありえない。

12.「女の禁止は男尊女卑ではなく、むしろ皇室に外部の男が入ってくることを防いでいるものであって、女尊男卑の思想である」
「ある性別は民間から皇族になることができるが、別の性別はできない」という状態は性差別的なことに変わりがない。また旧皇室典範作成時に女・女系排除の論拠に『女ヲ立ツルノ可否』という論争が援用されている。ここでは「の実態として男の方が尊く、男は女の上に位している」などかなり露な「男尊女卑」(この言葉はそのまま使われている)が押し出されている。また新皇室典範作成時も同じく「わが現実においては夫の妻に対するが大なると普通とするため」仮に女性・女系天皇を容認するとしても男系男子の補充的なものにすべしと議論されている。(参照『2章 新旧皇室典範作成の経緯』「2節 『女ヲ立ツルノ可否』」「8節 新皇室典範」)女性・女系天皇の禁止は「男(夫)は女(妻)の上に立つもの」という男尊女卑(あるいは長制)の観念に基づいていることには疑いがない。

13.「日本には皇配(プリンス・コンソート)になれるがなく、女性天皇に皇配を迎えることは非常な困難を伴う」
族制度が止されて以後は皇后になるべきがなくなり、配偶者を迎えることに非常な困難を伴うのは男性天皇も同じである。事実、史上初めて皇后として正田美智子を迎える際に宮内庁は強引な手を使って正田に圧力をかけている。皇族や旧家族皇后反対運動をくり広げる中で、その仕事遂しているのだから「女性天皇に配偶者を迎えることは難しいので最初からやらない」という理屈は通らない。

以上をまとめると、男系継承維持はデメリットが数多くある一方で続ける合理的な理由は少ない。日本には今も昔も「女系だと父親の血統になる」という族観は存在しない。一「皇室には女系継承には前例がない」という意見にはある程度の説得力があるかもしれないが、次節で述べるように対抗案である旧宮家子孫復帰案も、血統が非常にかけ離れた、しかも貴族でもない民を天皇にするという過去に一度も前例のないものである。先例義に則るならば女系案も復帰案も許されないはずであり「女系は先例がないから厳禁だが、復帰案は伝統だから許される」と言うのは歴史無視したである。

備考

  1. 『続・田中卓著作集 日本史と邪馬台国P5
  2. 『皇位継承の中世史』佐伯智広、P21
  3. 宮内庁長官』井上P169
  4. 諸外国における王位継承制度の例(概要)exit
  5. 『「世一系」の研究皇室典範なるもの」への視座』P112
  6. 『大祭』工藤
  7. 日本人の姓・苗字名前」大修、P20
  8. 小泉信三』小川原正P148

5節 女系天皇か旧宮家復帰か

(復帰皇室存続のためには旧宮家を皇籍復帰させるか旧宮家から養子を取れば良い話であり、女性・女系天皇を認めなければ断絶不可避というのはである。旧宮家は菊栄親睦会などを通じて現在皇室と交流があり、天皇にとって決して「他人のような存在」ではない。

(女系)近年は開催頻度も減少した菊栄親睦会をはじめ、皇室旧宮家の交流は民にとって不透明な活動である。民間人として80年近くも過ごしていた人たちを連れてきて皇族にしても民の支持は得られないという懸念があり、実際に世論調査の賛成の率は最初に案が出てから20年を経ても低い数値に止まっている。また皇籍離脱時に皇室にいた人ならともかく、その後に民間人として生まれた者は皇籍「復帰」ではなく皇籍の「新規取得」となる。

(女系明治以前に「女系継承は皇統断絶」とする史料は一つも存在しないが、臣籍降下してから世数が離れた者が皇位を狙う事は「叛逆」、「万世一系終焉」とする史料は数多くある。孝元天皇の男系子孫である蘇我入鹿は「皇族を滅ぼして皇位を奪おうとした」罪で殺されている。神皇正統記では「(臣籍降下した)源氏は新しい臣下であり、高官にのぼることは天照大神の怒りに触れる」と断じている。近世土肥も「平将門のように世数を隔てていないものでさえ簒奪者の謗りを受けるのに、清和天皇の子孫を称すとはいえ世代を隔てて本当に皇胤かも怪しい徳氏が天皇に成り代わって世を治めることは神統への大変重い罪」と述べている。現在の皇位継承法を作った明治井上毅でさえ、内王と臣籍降下した男系男子結婚させ皇統を繋ぐ案に対して「全クニシノ御人」としはっきりと「万世一系の断絶」と言っている。東久邇の者が天皇になったら東久邇王の始まりであり、竹田の子孫が天皇になったら竹田の創始であることは歴史的根拠があり、「民世論での旧宮家子孫の支持率の低さは皇族となれば民の理解と共感が徐々に形成されていく(令和3年有識者会議)」はずという皇室の伝統に反する希望的観測に過ぎない。

(復帰旧宮家が皇籍を離脱する時に加藤宮内次官は「万が一にも皇位を継ぐべき時が来るかもしれないとのご自覚の下で身をお慎みになっていただきたい」と述べており、離脱した時から旧宮家の復帰は想定されていた。

(女系加藤は、鈴木貫太郎首相から「皇統が絶えることになったらどうであろうか」と聞かれ「かつての皇族の中に社会的に尊敬される人がおり、それを民が認めるならその人が皇位についてはどうでしょう」と答えている。つまり無条件の皇籍復帰を考えていたのでなく民の認知が前提とされている。しかし旧宮家復帰の話がでてから既に20年経っているが具体的な補者がの場にでたことは一度もない。旧宮家の復帰を議論するならまず本人を民の前に出すことが第一歩であり、それすら20年間できていないのは問題である。

(復帰)臣籍降下した後に天皇になった宇多天皇や、非皇族として生まれたが登極に至った醍醐天皇のような例も過去に存在する。多、醍醐天皇の治世は寛、延喜の治と呼ばれ後世の天皇統治の鑑とされるほどであり、元臣籍であることは天皇の権威を何ら損なわない。

(女系宇多天皇醍醐天皇共に臣籍であったのはわずか2年であったが、それでも陽成上皇は「今の天皇は私の来ではないか」と嫌悪感を示し、嵯峨源氏も同様に不満を表している[1]。その経緯というのも多の父親光孝天皇は正統の陽成上皇男子がいたので、即位する予定のない自分たちの子供を臣籍降下させた。しかし関白藤原基経が理を曲げて自分に都合の良い多を登極させた。嫡流に男子がいるのに傍系に正統が移るのは稀有の事態である。つまり多は権力者の恣意によって捻じ曲げられた即位であり、実際にその後多は(あこう)の紛議を経て基経に実権を奪われてしまう。このような悪例を先例とするべきではない(醍醐多の息子なので同件)。

(復帰古墳時代の顕宗、仁賢天皇兄弟は即位前は丹波小子(たにはのわらわ)名乗り、人に仕えて牛馬の世話をしていた。これも臣籍降下してから皇籍復帰して天皇になった例に数えることができる[2]

(女系古墳時代には皇族(皇)という概念はない上に、顕宗・仁賢兄弟は雄略天皇に殺されそうになったから身を隠していたにすぎず、それを「臣籍降下していた」と読むのは恣意的な解釈である。藤原基経は多即位の前に「一度賜姓されてから天皇になった前例はない」とし、顕宗・仁賢を臣籍降下してから即位した前例と見なしていない。

(復帰)臣籍身分から天皇になったのは2人だが臣籍から皇籍復帰した例はもっと数が多い。10世紀の兼明なぞは臣籍降下して50年以上経ってから皇籍に復帰している。また鎌倉時代忠房は臣下のから生まれ臣下として20数年を過ごした後に皇族になっている。(参照『4章 十一宮皇籍離脱の経緯』「4節 古代の臣籍降下と宇多天皇の即位」「皇籍復帰の諸例」)

(女系兼明の皇籍復帰もまた藤原氏の政略であり、忠房と共に皇籍は一代限りであった。また左大臣であった兼明をはじめ皇籍復帰した先例達はいずれも最上貴族であるのに対して現在旧宮家子孫は民である。民から婚姻を経ずに皇族になった者、ましてや天皇になった者は天皇歴史上存在しない。先例がないという点では女系天皇と旧宮家子孫の登極は同等である。

(復帰)かつて男系男子が途絶えた時、皇室女子がいたにもかかわらず、傍系で臣籍身分であった継体天皇が即位している。今回の場合も同じようにすべきである。

(女系旧宮家こと伏見約600年前の崇天皇を起とする血統である。継体は5世遡っての即位となったが、旧宮家からの即位となれば20世以上遡ることになる。継体とすら較にならないほどに旧宮家天皇の男系の血の繋がりは薄い。女系天皇には前例がないというが、ここまで遡っての即位は日本史どころか人類史にも例を見ない。継体は即位から大和(磐余玉穂宮)に入るまでに20年を費やしているが、当時継体の即位に対する強い反発があったと見られている[3]。ましてや継体よりはるか皇室から縁遠い旧宮家を正統な天皇の血統と見なすことへの違和感は計り知れない。

また継体天皇の皇統を継いだ天皇は仁賢天皇であり、継体は入婿による即位であった。日本書紀でも継体が入婿であることは強調されている。皇室歴史において、継体のように等が離れた傍系男子ex,仁賢天皇天皇天皇)が即位する場合、嫡流の女子を立后して入婿するのが原則となっている。だが先述したように旧皇室典範作成時に「皇統の男系男子であろうと一度臣籍に降下して姓を持つ者が皇女を娶って即位することは万世一系の断絶である」と既に結論づけられており、旧宮家子孫と愛子王の婚姻不可能である(参照『2章 新旧皇室典範作成の経緯』「1節 旧皇室典範」)。

(復帰)600年などと大昔に戻る必要はなく、旧宮家に皇位継承権があった80年前に遡れば良いだけの話である。また600年離れているからダメだというのもおかしく、現在天皇神武天皇から2000年以上も離れているがしっかり継承権は持っている[4]。(復帰旧皇族には明治天皇の内王がいでいる竹田宮、北白川宮、香宮。昭和天皇の内王がいでいる東久邇宮があり、血統的に天皇に近い。最も近の東久邇宮の現当にいたっては篠宮の従兄弟であり、その子は悠仁親王の又従兄弟に当たる。

    朝鳩彦
      |─孚─誠彦─明彦……男子
    ┌允子
明治天皇大正天皇昭和天皇上皇明仁┬今上徳仁愛子
    |         └成子  └篠宮文仁─
    |           |────┬彦─……男子
    |        東久邇宮盛厚 秀彦─……男子
    |                └眞彦─……男子
    └
      |
    竹田宮常久─恒徳恆正……男子

(女系)いずれも女系の血であり、女系の血を持ち出してくるのなら今上天皇の孫(愛子王の子)や天皇の孫(の子)など直近の女系天皇を優先すべきである。確かにこれは上述した直系女子と傍系男子の血統による継承になるが、東久邇宮子孫が最短(天皇の次に)で即位したとしても5世孫か6世孫になり、やはり縁遠いと言わざるを得ない。歴史上、5世孫以上で即位した天皇は継体しか存在しないのだから。また令和三年の有識者会議では、皇籍復帰した人物に皇位継承権はなくその子から継承権が生まれることになったので、世数はさらに離れる。

(復帰旧宮家戦後GHQが半強制的に止したであり、権を取り戻した今は遠慮なく皇籍復帰して、天皇の男系継承を護るという本来の役を果たすべきである(参照『4章 十一宮皇籍離脱の経緯』「2節 GHQと皇籍離脱」)。

(女系帝国政府は増えすぎた皇族を減らし嫡流継承を確実にするために大正九年(1920年)に「皇族の降下に関する施行準則」を内規として裁定し「長子孫の系統4世以内」を除く全ての王は族に降下させることとなった。これにより旧宮家11伏見宮邦王を基点としては5世子孫から皇族から離脱する予定となっていた。つまりGHQがいなくてもまもなく旧宮家皇室を離脱していたのである。

(復帰)準則はあくまで協議の末に臣籍降下されるものであり、強制的に皇籍離脱する訳ではない。皇族に男子が少なくなっている状態で宮男子が準則により臣籍になる可性は低く、GHQが離脱させていなかったらやはり旧宮家は皇族のままだった。

(女系現在、皇族には少なくない税金が投入されている。2009年データでは皇族費だけで篠宮(5人)5490万円、常陸三笠(それぞれ2人)4575万円、寛仁(4人)5856万円など[5]。その他、警備費や結婚一時金(2021年眞子内親王の皇籍離脱の際には1.4億と言われた)等も含めると膨大な金額になる。女系継承を認めることで皇族の数を減らし皇室費を抑えることが可になる。2009年には篠宮も「国費負担という点から見ますと,皇族の数が少ないというのは,私は決して悪いことではないというふうに思いますexit」とも発言している。金銭の問題ではないとの反論があるかもしれないが、皇族が減るということは確率的に皇室を貶めるスキャンダルの数も減らす意味もある。例えば、東久邇宮稔王は大正時代に渡留学した際に皇太子昭和天皇)の帰にも従わず現地で女性との醜聞を引き起こしている[6]。久邇宮邦王は宮中某重大事件に際してヤクザ者とトラブルを引き起こしているし[7]北白川宮や香宮も「然るべきではない女性」との関係でを皇室を悩ませている[8]いずれにせよ皇族の数は少ない方が良いのである。

(復帰女性を許すと皇室から出ていく人がいなくなり、むしろ皇族の数が増えてしまう。皇族の数が少ない方が良いのなら女性を認めるべきではない。

(女系女性を認めても皇族増加の問題は永世皇族制を止し、皇族に含まれる世数を制限すれば解決が可である。一方で男系にこだわった場合、男子出産するため夫妻は多くなければならず、かつ皇位継承に関して女子が丸々余分になってしまうので皇族の数は必然的に増えてしまう。

(女系旧皇族現在民間人であり、憲法の例外と認められている皇族と異なり、厳密に憲法14条の等原則が適用される。ある民間人を「門地」を根拠にして特別な地位にが置こうとするのは憲法に抵触する疑惑がある[9]

(復帰内閣法制局の木村陽一部長は「一般論として皇族という14条の例外として認められた特殊の地位を取得するもので、14条の問題は生じない」と述べている。皇族が法の下の等の飛地であることは共通認識であり、旧宮家子孫は現在でも皇室に参加し皇居に出入り出来る存在である。現皇族とも交が深く決してただの民ではない。言ってみれば準皇族であり、法の下の等の例外の範囲内である。

(女系現在日本は立君主制をとっている。立君主制とは憲法が君の活動を制限する政治システムであり、今上天皇直々に旧宮家子孫を特別扱いしようが、天皇の意向によって憲法の規定を無視することはできない。憲法九十九条にも「天皇(中略)は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」とある。

(女系)皇族は中から監視され、経済政治活動に制約が設けられ、一部人権まで制限される過酷な身分である。既に断絶も多々あり、ただでさえ多くはない旧宮家男子に将来のキャリアを捨てて皇族に戻りたがる若者が複数人(安定した男系継承のためには3、4人は男子が必要)いるのか疑問である。彼らは民間人であり職業選択の自由を持っている。また、今後仁夫妻が男子を複数授かるなど直系男系子孫が増えれば彼らの存在意義はほぼくなる。その時にはまた彼らの子孫を臣籍降下させるというのはあまりに節操がない。旧宮家から養子をとるにしてもの都合で他人の子どもを奪うような真似倫理的に避けるべきことである。旧宮家は宮と違って皇室を存続させるための具ではないのだから。

(復帰上皇従兄弟である故・寛仁王は男系の伝統を堅持する意向であり「(旧宮家復帰は)我々には全く違和感などありません」「(女性天皇と女系天皇の違いなど)情報が全くゼロの中でマルかバツかをやられたら堪りません」exitと述べている。

(女系上皇や今上が皇位継承問題に関して頑なに口を閉ざし、決定を民の意思(国会)に委ねているのに、現皇族がそのようなセンシティブな発言をすること自体が問題である。

旧宮家についての補足

  • 旧11宮のうち伏見宮、山階宮(やましなのみや)、閑院宮、東伏見宮は既に断絶しており、梨本宮、北白川宮は断絶が確定している。残るは賀陽宮(かやのみや)、久邇宮、香宮、東久邇宮、竹田宮の五宮である[10]
  • 旧宮家子孫が皇位継承するために①旧宮家子孫が直接皇籍に戻る、②旧宮家子孫の新生男児を養子として皇族に迎え入れるの2パターンが存在する。①案は減少している皇族の数自体を増やせる一方で現在旧宮家子孫は民間に染まり過ぎているという懸念もあるため、②案で民間にいた期間がない男児を皇籍に入れるべきだという理屈もある。
  • 旧宮家1654年に素性の怪しい長九郎という男子が継承しており旧宮家の血統そのものに疑義が残る」という意見があるが、皇族男子伏見宮を継承させるという選択肢があったにもかかわらず、宮を厳しく監督し血統の正当性には厳格な天皇や徳まで長九郎こと伏見宮貞致の継承を認めていることから疑いの余地はないと言える。
  • 昭和天皇実録』によれば現皇族と旧皇族の交流の場である菊栄親睦会は当初は一度の例会と、に大会が開かれていた。近年は開催頻度も少なくなり、伏見博明氏の自伝では2020年に5年ぶりに開催が予定されていたと書かれている。全ての旧宮家子孫が参加できる訳ではなく、臣籍降下した旧皇族本人と、祭を受け継いだ当、受け継ぐ予定の嫡男、そしてそれぞれの配偶者のみが会員とされる。旧十一宮のうち将来的に存続できるのは五のため、菊栄親睦会に参加できる若い男系男子は最大5人ということになる。

  1. 『皇位継承のあり方』所功、P54
  2. 『皇統断絶 女性天皇は、皇室終焉中川八洋
  3. 日本の歴史 神話から歴史へ』井上貞、P487
  4. 『なぜ女系天皇で日本が滅ぶのか』、門田隆将竹田恒泰
  5. 『皇族』小田部雄次、P317
  6. 前掲、小田部、P121
  7. 前掲、小田部、P158
  8. 前掲、小田部、P178
  9. 『安定的な皇位継承を確保するための方策について』大石眞exit
  10. 『なぜ女系天皇で日本が滅ぶのか』、門田隆将竹田恒泰P43
  11. 皇別摂家exit衆議院議員 河野太郎公式サイト

6節 女性・女系天皇に関する世論調査

各社が独自の世論調査を実施しているがいずれも女性天皇・女系天皇共に賛成多数を占めている。一方で反対論者は「女系天皇」の意味の認知度の低さを問題視している。(以下、数字%

過去の世論調査

昭和の世論では女賛成は少なく、それが新皇室典範に男系男子の原則が引き継がれた一因となっている。その後は女賛成は微増傾向であったが平成13年2001年)に皇太子夫妻が第一子の愛子王を出産して以来(特に女性から)急な高まりを見せた。(『岩波 天皇皇室辞典』編集 原武史、吉田裕)

共同通信社と主要加盟社で組織する「日本世論調査会」が実施した面接世論調査exit
調 1975年12月 1984年12月 1998年4月 2003年6月 2005年10月
天皇女子がなってもよい 31.9 26.8 49.7 76.0 83.5
天皇男子に限るべきだ 54.7 52.2 30.6 9.6 6.2
特に関心がない 8.1 18.0 17.5 12.7 9.3
その他 0.2 0.2 0.4 0.4 0.2
わからない・回答 5.1 2.8 1.8 1.3 0.8
時事通信世論調査「皇位継承方法に関する世論調査結果(2005年6月9日~12日)exit

「女性天皇は歴史的に例がありますが、その子どもが皇位を継承した例はありません。天皇の有史以来の伝統である男系の継承を今後維持すべきかどうか、あなたはどのように考えますか?」

男系の伝統を守るべきだ 4.4
できれば男系の血筋継承が望ましい 18.3
男系にこだわる必要はない 74.0
わからない 3.4
時事通信社(1999年11月実施)

Q.女性天皇になることに賛成ですか、反対ですか

賛成 反対 どちらともいえない
32.3 16.2 39.7
時事通信社(2001年11月実施)

Q.女性天皇になることに賛成ですか、反対ですか

賛成 反対
55.2 7.9
時事通信社(2002年11月実施)

Q.女性天皇になることに賛成ですか、反対ですか

賛成 反対
68.8 3.7

上3つの世論調査は『岩波 天皇皇室辞典』編集 原武史、吉田裕を参照した

朝日新聞(2019年4月実施)exit

Q1,今の皇室に関する法律の「皇室典範」により、天皇の位につくのは、男性に限られています。あなたは、天皇男性に限った方がよいと思いますか。それとも皇室典範を改正して、女性天皇になれるようにしたほうが良いと思いますか。

男性に限った方がよい 女性もなれるようにした方がよい その他・答えない
19 76 5

Q2,皇室典範により、天皇は、方に天皇の血を引く、いわゆる「男系」に限られています。もし、女性天皇の子ども天皇になるとしたら、歴史上初めて、方だけに天皇の血を引く「女系」の天皇を認めることになります。あなたは、これまでの「男系」を維持する方が良いと思いますか。それとも「女系」を認めても良いと思いますか。

男系を維持するほうがよい 女系を認めてもよい その他・答えない
21 74 5

Q3,今の皇室典範では、女性皇族は民間人と結婚すると、皇室を離れます。今後、結婚後も女性皇族が皇室にとどまる「女性」を創設できるようにするべきだ、という意見があります。あなたは、この考えに賛成ですか。反対ですか。

賛成 反対 その他・答えない
50 37 13

(朝日新聞デジタル 2019年4月18日 世論調査-質問と回答<皇室>)exit

NNNと読売新聞社の全国世論調査(2019年5月実施)exit

Q.天皇陛下の即位により、皇位を継承できる男性の皇族は3人となりました。あなたは、皇位を安定的に継承させるため、制度の見直しが必要だと思いますか、そうは思いませんか。

見直しが必要だ そうは思わない 答えない
67 23 10

Q.歴代の天皇の多くは男性ですが、女性天皇もいました。あなたは、天皇の皇位継承などを定めている皇室典範を改正して、女性天皇を認めることに、賛成ですか、反対ですか。

賛成 反対 答えない
79 13 10

Q.皇位継承は、これまで、方が天皇につながる「男系」の天皇に限られています。あなたは、方が天皇につながる「女系」の天皇を認めることに、賛成ですか、反対ですか。

賛成 反対 答えない
62 22 15

NHKによる皇室に関する意識調査(2019年9月実施)exit

Q 女性天皇になるのを認めることに賛成か?

賛成 反対 わからない・回答
74 12 14

Q 「女系」天皇の意味を知っているか?

よく知っている ある程度知っている あまり知らない 全く知らない わからない・回答
6 35 37 15 6

Q 「女系」天皇を認めることに賛成か?

賛成 反対 わからない・回答
71 13 16

共同通信社(2020年4月実施)exit

女性天皇の賛否

賛成 どちらかといえば賛成 どちらかといえば反対 反対 回答
49 36 9 4 2

女系天皇の賛否

賛成 どちらかといえば賛成 どちらかといえば反対 反対 回答
38 41 13 6 2

(東京新聞TOKYO WEB 2020年4月26日 女性・女系天皇 「支持」が高く 天皇に「親しみ」58%)exit

7節 旧宮家子孫に関する世論調査

少なくとも平成初、中期から世論調査の項に入っていた女性・女系天皇の是非にべ、大手メディア旧宮家の是非を問う世論調査平成が終わる頃に初めて追加されたため実施数はまだ少ない。(以下、数字%

共同通信社 皇室世論調査(2018年12月実施)

問11.一方で、戦後皇室を離れた旧皇族皇室に復帰させて「男系・男子」の天皇を維持するのに備えるべきだという考え方もありますが、あなたはどう思いますか?

賛成 どちらかといえば賛成 どちらかといえば反対 反対 分からない・回答
8.5 25.5 43.0 16.5 6.5

問12.(問11で「賛成」「どちらかといえば賛成」と答えた人に聞く)賛成するもっとも大きな理由はなんですか?

「男系・男子」の皇族が皇位を継ぐという伝統を守る必要があるから 25.3
皇族が増えることで皇位継承の対者が増え、皇室の安定につながるから 46.8
皇族が増えることで皇室の活動範囲が広がったり、務の分担がしやすくなったりするから 25.5
連合軍総部(GHQ)の事実上の示で皇室から離脱させられたから 1.1
その他 0.4
分からない 0.9

問13.(問11で「反対」「どちらかといえば反対」と答えた人に聞く)反対するもっとも大きな理由はなんですか?

一般国民となって70年以上経過して世代交代もしており、皇室に入るのには違和感があるから 37.0
女性皇族が天皇に即位できるようにすればよいから 47.3
皇族が増えると財政の負担が重くなるから 10.4
さまざまな制約がある皇室に入るのは気の毒だから 4.0
その他 0.5
分からない 0.8

2019年1月3日東京新聞刊24

共同通信社 憲法世論調査の詳報(2021年4月実施)

問22.戦後皇室を離れた旧宮家を皇族に復帰させて「男系・男子」の天皇を維持する考えについて、あなたはどう思いますか?

賛成 どちらかといえば賛成 どちらかといえば反対 反対 分からない・回答
9 23 44 22 1

2021年5月1日東京新聞刊4

産経・FNN(令和元年5月13日)exit

旧宮家の皇籍復帰

賛成 反対
42.3 39.6

産経・FNN(令和元年11月19日)exit

旧宮家の皇籍復帰

賛成 反対
43.3 34.9

8節 世論調査に用いられる統計的手法

行政や大手メディアが行う世論調査は、SNS投票サイトで行われるアンケートと異なり、統計学に基づいて実施されている。日本人の世論を調する際、もっとも分かりやすいのは日本人全員に意見を聞くことであるが、1億3000万人にアンケートを行うのは事実不可能である。そこで世論調査では全人口の中から一部を作為に抽出し、その結果を日本人全体の世論として扱う。これを標本調という。統計用語の詳細な解説や式の導入過程は省くが、厳密な統計的手法にしたがうならば日本人全体の意見を調するのに2000人程度のサンプル数があれば十分である。逆に統計的手法に基づかない調、例えばSNSでのアンケートなどはそのポストを見た人しか参加できないため偏向が強く、いくらサンプル数が多くても集団を代表する標本にはなり得ない。

n=λp(1-p)/d2

n:標本数
p:比
d:標本誤差
λ:信用

p:率とは事前に同様な調結果がある場合に用いられるもので、参考となる結果がない場合は率の標準偏差がもっとも大きくなる0.5を代入する。d:標本誤差には調結果で容認できる誤差を代入する。例えば調結果の誤差を3ポイント程度に抑えたいという場合であれば、0.03を入れる。λ:信頼準は標準正規分布表を確認して代入する。信頼準95であれば、集団(日本人全体)の世論の均値が95確率で「標本均(調から得られる結果)―標本誤差×1.96~標本均+標本誤差×1.96」の範囲に入る可性を意味している。

世論調査では上記の式にしたがって約2000人のアンケート日本人1億3000万人の代表として扱う。その2000人も特定の地域、性、年齢職業に偏らず、日本に住む人々の縮図となるように統計的手法に基づいて抽出される。NHK世論調査の場合、調は層化作為二段抽出法という手法で行われる。まず第一段階で全を「北海道」から「沖縄」までの13ブロックに分け、13ブロックそれぞれで市区町村都市規模と産業別就業人口構成によって並び替える(層化)。その後に各ブロックの人口数の大きさに例して300地点を系統抽出する。実際の調では1調地点を一人が担当する。

関東地区15万世帯の中から600世帯を調として抽出するときの例

  1. 15万世帯に1から150,000までの番号をつける
  2. 150,000÷600=25,000なので25,000世帯の中から1世帯が調となる
  3. 1から25,000までのうち整数xを作為に選ぶ
  4. x+25,000n(n=0,599)によって600個の数値を出し(例えばxが2304ならば2304+25,000×0=2304、2304+25,000×1=27304、2304+25,000×2=52304……2304+25,000×599=14977304と等間隔に600個の数字が定まる)、1で決めた世帯番号にしたがって調する世帯を決定する。

第二段階では、該当する調地点の市区町村の住民基本代表から、1地点につき12人の調相手を等間隔で抽出する。このような手続きで調相手を抽出した場合、回答結果と誤差範囲を数学的に推定することができる。NHK3600人を調した際の、集団との誤差はおよそ次のようになる。

回答 5/95% 10/90% 20/80% 30/70% 40/60% 50/50%
誤差 ±0.7% ±1.0% ±1.3% ±1.5% ±1.6% ±1.7%

またアンケートによる意識調は、質問文の言い方によって回答を誘導することが可である。例えば同じように女系天皇の賛否を問うにしても、質問文が以下の2種類では結果が大きく異なると予想される。

日本は初代の神武天皇以来、男系子孫だけが天皇になるという伝統があります。この伝統を改めて女系子孫にも皇位継承権を与えるべきだと思いますか?」

現在皇室典範では皇位継承権は男性皇族とその子孫に限定されており、女性皇族は天皇になることができません。女性皇族とその子孫にも男性と同じ権利を与えるべきだと思いますか?」

調実施者が誘導的な質問をすれば調結果もんだものになってしまう。そのため世論調査では質問の言葉遣いを可な限り中立的、非誘導的に整える。これをワーディングという。

結論を繰り返すと統計理論に基づき調人数を決定し、作為抽出によって選び出された相手にワーディングした質問を行う世論調査は、サンプル数が2000人であっても日本人1億2000万人の意見を代表することが可であり、そうでない(作為抽出していない、質問が偏向的である)調とは一線を画すものである。


2章 新旧皇室典範作成の経緯


明治22年、男系男子の継承法を成文化した旧皇室典範は明治憲法と共に完成した。皇室典範作成において大きな働きを果たしたのが熊本出身の政治家井上(こわし)である。井上は典範だけでなく明治憲法教育勅語も起しており、明治国家形成のグランドデザイナー的人物である。

「1節 旧皇室典範」。スペイン王位継承法を参考にした皇位継承法の案では女性・女系天皇共に容認されていた。しかし女系(当時は女統といった)継承に関しては「国体や人情にいささか注意を払ったものではない」「女統を立てれば皇統は直ちに他系に移り皇統の断絶となる」「女統は卑しいから皇位は男統であるべきだ」など批判を受けて削除された。

女性天皇は前例が多かったことから賛同の意見が強かった。伊藤博文も女性天皇を容認しており、男性皇族が絶えたときには女を立て、その皇婿には臣籍にいる源氏などの男系子孫を想定していた。しかし井上毅は「過去の女性天皇は全て中継ぎであり正統な天皇ではなかった」、「臣籍降下した人物は皇統ではなく、源氏であろうとそれは『全クニシノ御人』であって、その子孫は姓の人物である」と反対した。伊藤井上抗議を聞き入れ、女性天皇および皇婿を臣籍の男系子孫に限定した女系天皇も文面から消えた。

典範作成の相談役であった西洋人ロエスレルやシュタイナーは女性・女系天皇を推奨していたが、井上は「女には政治力はない」としてこれを退けた。こうして完成した皇室典範では皇位継承権は皇族の男系男子に限られ、女性天皇は「歴代の女は全て中継ぎであった」と過去でも未来でも存在を否定された。またそれまで臣民結婚した女性皇族も皇籍に留まる慣例であったが、明治以降は男性皇族以外と結婚した女性皇族は例外なく皇籍離脱することに定められた。これには公家グループが「結婚した女性皇族を伝統に従って皇籍に留めよ」と反対したが井上に却下された。

「2節『女ヲ立ツルノ可否』」。政府皇室典範を作成している間、民間でも皇位継承に関する論争が盛んであった。その中で最も典範作成にを与えたのが、新憲法で女性天皇を容認すべきか否かを新聞討論した、嚶鳴社(おうめいしゃ)の「女ヲ立ツルノ可否」である。井上毅はその女否認論を高く評価して、伊藤の女性天皇容認案に対し全文を引用している。議論の内容は現在の女性天皇賛否の議論と大きく異なっており、反対の根拠の中心は「男尊女卑(この言葉は原文にも使われている)」にあった。例えば参加者の一人、島田三郎は「日本では実態として男の方が尊く、男は女の上に立っている。女婿を取れば天皇の上に男が立つことになり、天皇の尊厳を損ずる」という理由で女性天皇に反対している。またこの議論の中では、政府議会では却下された女系天皇がほとんど問題にされておらず、女性天皇と女系天皇はセットで扱われている。一人、沼田守一は「私は『女系継承で皇統断絶』などという妄念を持っていないが、世の中は頭のいい人ばかりではない。もし皆無識な人々が『女系天皇で皇統断絶した』と考えたらどうするのか?」と女に反対している。

「3節 井上毅の思想」。井上の思想基盤は、伝統的儒教近代的に合理化した近代儒教義である。たとえば儒教道徳の「男女の別(男には男の役割があり、女には女の役割がある)」を自然科学と結びつけ、「男と女には生物的な違いがある。その『自然の理』に沿うと、男は剛勇なので外(政治)のことをやり、女は温和なので内(庭内)のことをやるのがそれぞれの性別に見合ったものである」と述べている。井上儒教を「国家や時代や人の区別をえて普遍的に妥当するもの」と高く評価しており、明治日本道徳の基礎に儒教を置き、儒教倫理に基づいた『教育勅語』を作成した。その一方で井上キリスト教を「過思想」と危険視していた。キリスト教に「感染」した人々が「孝」や「教」など伝統的道徳儒教)を忘れ、やがて「国体を失う」ことを危惧した井上は努めてキリスト教を排斥した。また井上は独自解釈によって天皇の起点となる「皇祖」も天照大神でなく神武天皇に定めた。井上には皇祖を神ではなく初代の天皇にすることで、天皇の正統性の根拠を神話ではなく史実に置く意図があった。

「4節私擬憲法」。当時、民間でも皇位継承案が大量に作られており、それらの大半が女性・女系天皇容認であった。しかし伊藤博文はそれらの私擬憲法を「書生の上の理屈」と軽視していっさい参考にしなかった。

「5節 」。近世までの日本は大名婿養子という形で女系継承を少なからず行っていたが、明治以降は「男系に依る皇位継承の本義に」反するという理由でで禁じられた。制定の中心人物は井上毅、伊藤博文岩倉具視であるが、この三人はいずれも男系継承を行なっておらず、井上子供しかいなかったので婿養子をとって女系で相続している。

「6節 明治十四年の政変」。明治憲法プロイセンを元に作られているが、その作成過程で(男が治める)プロイセンと(ヴィクトリア女王が治める)英国閥闘争があった。プロイセンの中心人物は伊藤博文岩倉具視。そしてブレーンには井上毅がついていた。英国大隈重信が中心となりバックには福沢諭吉がついていた。大福沢も当時としては男女平等義者であり、また儒教批判的なところがあった。極まった両の対立は井上の暗躍によってプロイセン完全勝利という形で決着する。大犯罪者同然に罷免され、福沢門下の官吏もことごとく政府から追い出された。これを明治十四年の政変という。井上民の多数が福沢諭吉のような「過論者」に感化されることを恐れ、「安ノ」のおそれがあるとして教科書から締め出した。

「7節 明治社会の在り方」。「明治天皇女性観」明治皇室改革の中でそれまでに閉じこもっていた皇后も社交界に出ることが強いられたが、明治天皇は「貴族女性は表に出るべきではない」という認識が強かった。天皇にはの場で皇后が自分と対等に扱われるのが耐え難く、担当官に反抗したエピソードがいくつも伝わっている。例えば自らの玉座が皇后と同じ高さであることに不満に思った天皇は、イスの下に敷物を敷いて高さを上げていた。

女性神職者の排除」明治政府は各地の神社国家統制し神官を的な存在と位置付け、その過程で古代から江戸時代まで朝廷地方神祭で活動していた女性神職者はその存在を否定されていった。そこには「女性穢れ」といった宗教上の問題ではなく、「婦人が的な職を得る事は社会儀を乱す」という当時の女性観、家族制度が反映されていた。その結果、明治7年には登録された神官は男性が9772名に対して、女性は8名(内7人が琉球の所属)となり、神職はほとんどが男性が占め、古代以来の女性神職者は排除された。

「8節 新皇室典範」。戦後、新しく皇室典範が作成されるにあたり再び女性天皇の是非が問われることになる。平和主義を標榜する戦後民主主義では天皇が軍隊を率いる必要もなくなり、女への賛同意見は少なくなかったが、就任した場合の婚姻の在り方や、皇婿の立場が不明であり、なにより女性天皇が女系継承に繋がり男系原則が崩れる恐れがあるとして却下された。また当時の世論が必ずしもを支持していなかったこともあった。国会でも女性議員などから女容認をめられたが、「男系男子の皇統は日本の持つ根本の原理であり、日本国民の確信である」「過去の女は全て中継ぎであって、日本に女制度は存在しない」という理由で見送られた。

「9節 日本国憲法と皇位継承」。現在日本国憲法は「民主権」を基本原理の一つに掲げており、天皇の位は「権の存する日本国民の総意」に基づくものとされる。現行憲法の皇位継承は2条に「世襲」とあるだけで性別の限定は普通法である皇室典範に譲っている。よって皇位継承の順序変更や女性天皇容認も民の意志に基づいて皇室典範の改正によって行うことができる。また憲法学的に戦後天皇制は、歴史的な天皇の連続性に重点を置く「連続説」と、歴史的存在としての天皇を否定し戦後に新たに天皇という存在が新設されたとする「断絶説」に分かれている。断絶説に拠った場合、初代天皇昭和天皇となり、従って憲法二条の皇位の「世襲」もまた昭和天皇を基点とした血統を意味することになる。

日本の男系男子に限定された皇位継承法は、日本が批准する国連女性差別条約に基づき女性差別委員会から何度か是正勧告を受けている。憲法98条には国際法規実に遵守することがめられているが、日本政府はこの勧告に抗議し、2025年には日本の支出する任意拠出金の使途から国連女性差別委員会を外すようにめている。皇位継承の男系男子限定は憲法14条の「法の下の等」に反しているが、戦後から現在まで皇族は憲法の例外・飛び地であり、男子に限定された皇室典範は違ではないという説が支配的である。しかし近年では天皇の地位は男性でなければいけない合理的理由はなく、よって男女等な皇室典範は法の下の等に反するという違論も増え始めている。

1節 旧皇室典範

1876年、案を起するよう勅命が下り、第一次案と別冊『日本国準拠書』が作成された。ここでは女・女統(女系)の即位が想定され、皇婿政治参加を禁止している。当時の日本社会近代化が喫緊の課題であった。近代化とはすなわちヨーロッパ化することであり、この案もスペイン憲法王位継承法をほぼ直訳したものであった。

第二章 位継承

二条 継承ノ順序ハ嫡長入嗣ノ正序ニ循フ可シ。尊系ハ卑系ニ先チ同系ニテハハ疎ニ先チ同族ニテハ男ハ女ニ先チ同類にテハ長ハ少ニ先ツ

四条 女入テ嗣クトキハ其夫ハ決シテ帝国政治(かんよ)ルコカル可シ

その直後に出された修正案(第二案)では、元老院権少書記官の島田三郎の反対意見の[1]二条が「太子男統ノ裔欠クル時ハ太子ノ兄弟若クハ兄弟ノ男統ノ裔ニ伝フ」と皇統は男系に限られ、代わりに一次案で省かれていた庶出子に継承権が与えられた。1880年に元老院が作った第三案では女系の継承権が復活し、男系の直系、傍系が絶え、さらに全皇族に男統の継承者がいない場合に限るものの女系天皇を容認している。

若シ止ムコトヲ得サルトキハ女統入テ嗣クコトヲ得

案作成に関して各所にヒヤリングが行われ、女系継承に関してさまざまな意見が出ている。河田(かげとも)は「皇女が他姓の夫を得て子どもけたときはその子は当然異姓であり、これは第一章第一条万世一系に抵触する。男統全て尽きてやむを得ない事態だとしても後年に弊を生む」と述べており、これに賛同する意見は多かった。

伊地知正治宮内省一等出仕も「皇系は男系一系であるがゆえに万世窮に連綿している。女統を立てれば皇統は直ちに他系に移り、皇統の断絶となる」としている。伊藤博文岩倉具視は「各憲法を集めて焼き直したものにすぎず、国体や人情にいささか注意を払ったものではない」と述べている。太政官書記官の尾崎三良は「女統は卑しいから皇位は男統であるべきだ」とした。

1881年、憲法作成を担当していた井上毅がプロイセン憲法に倣った憲法私案を作成する。ここでは皇位継承は別の章典で決めることとされ、明治憲法皇室典範が分離することとなった。井上は皇位継承者は男系男子であることを絶対不可侵のルールと定め、女系のみならず女を皇位継承から排除する姿勢を見せた。

当時、民間でも女性・女系天皇の可否について議論がもたれており、自由民権植木枝盛の作成した私擬憲法東洋大日本国』や千葉三郎の『五日市憲法』をはじめ男子優先ながらも女性・女系天皇は広く容認されていた。政府内にも元老院少書記官の横山由清のように女性・女系天皇の即位を認める者もいた。横山の場合はヨーロッパの模倣ではなく、研究の上に女系天皇を認めていることに特徴があった[2]

「継嗣ハ男統ヲ以先テニシテ女統ヲ後ニス……若シ男統ノ継嗣タルヘキ者絶エテキ時ハ女子ヲ以テ大統ヲ継嗣セシメサルヲ得ス然ル時ハ其女ノ配偶者ヲ設ケテ以テ其血統ヲ保続セシムヘシ」『継嗣考』

男系男子固守を望む世論の中では、島田三郎が発議した嚶鳴社(おうめいしゃ)の『女ヲ立ツルノ可否』が井上に強い感銘を与え、典範制作に大きなを与えた。

島田の女は全て中継ぎであり、また独身が多数である。だが皇女独身を強いるのは今日潮に合わない。しかし皇女結婚すれば女と皇婿の関係は男尊女卑潮によって皇帝の尊厳を汚し、また皇婿政治関与が生ずる」

『女ヲ立ツルノ可否』は新聞面上で女の賛否を議論したもので、女賛成の意見として肥塚(こいづかりゅう)「男系途絶えた時に憲法が女系がダメだといって皇統外に天子めるのか?」というものもあった。(詳しくは次節で述べる)。

1884年、ヨーロッパ留学から帰した伊藤宮内省制度取調局の局長に就任し、典範稿の第一稿にあたる『皇室制規』を作成した。近代憲法作成を伊藤らが最も師事したのはウィーンの法学者ローレンツ・シュタインであり彼が女性・女系継承を容認していた[3]こともあり、『皇室制規』では皇婿を臣籍降下した皇統の男系子孫に限った上で女性・女系天皇が再び復活している。

皇位継承ノ事

第一 皇位ハ男系ヲ以テ継承スルモノトス 若シ皇族中男系絶ユルトキハ皇族中女系ヲ以テ継承ス

十三 女ノ夫ハ皇胤ニシテ臣籍ニ入リタル者ノ内皇統ニ近キ者ヲ迎フヘシ

自らの男系男子を否定された井上伊藤に対して『謹具意見』を提出して抗議した。この際、井上は先述した『女ヲ立ツルノ可否』で女反対論を全文引用している。井上をまとめると以下のようになる。

伊藤が作成した「皇室制規」では皇婿は男系子孫に限られているので厳密には女系天皇容認ではないが、井上は臣籍降下した者は皇統ではないと伊藤に反論している。臣籍降下した者はたとえ天皇の男系子孫であっても皇統ではないというのは井上のみの意見ではなく、上記の元老院案の検討において、幕末に仁孝天皇皇女、和宮が14代将徳川家茂に降下した例を挙げて、その子が天皇になったら万世一系とは言えないという発言があった。

(たと)ヘバ仁孝天皇皇女将軍茂ニ降スルガ如キ若シ其所在アレニシテ王氏ニアラズ王族ニアザルナリ・・・異姓ノ子ニシ位継承スルコトヲ得バ之ヲ万世一系ノ皇統ト可ラズ

徳川家茂は系譜上は清和天皇の末裔であり皇統の男系子孫であるが、王氏でなくあくまで徳氏であるとされている。井上の意見は容れられ、第二稿の『室典則』では女性・女系天皇の規定は削除され、後の『法則綱要』で「皇位ヲ継承スルハ男統ノ男子ニ限ル」の表現が入ることで男系男子継承の方針が固まっていく。

皇室典範で皇位継承を男系男子に限るとしても、過去に女性天皇がいたのは歴史事実であるため「祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子」という記載は矛盾である。そこで副種臣から「万世一系ナル皇統ハ今後男系ノ男子ニ之ヲ継承ス」にすべしという修正案が出たが、井上は皇統の則は男系であり男子であることを強調してこれを退けた。

以後、皇室典範の作成を進める井上は、外務省法律顧問ドイツ人ロエスレルと質疑応答を行っている。井上は「皇位継承は文武の両権を統攬(うらん)し施行する力を必要とするから、女性および重患の不能力者(障がい者)は皇位継承権から除外するのは疑いをいれない」と述べたが、ロエスレルは「歴史的に見て女王不能ではないし、女系による継承は王断絶のリスクを減らす」と反論した。女・女系を容認するロエスレルに対して井上は「女は統治不能である」と念を押している。ロエスレルは井上の意向を受けて男系重視のドイツ『王室』を意識した憲法案『日本帝国皇室典範』を提示した。

日本帝国皇室ては先ず現に登臨する君の男統位を継承す、の男統竭滅(けつめつ)すれば位は有栖川の男統に、有栖川の男統尽死すれば伏見の男統に、次は閑院の男統に、最後にの男統に襲がしむ、女統は総て之を継承すること得ず

この案では女系は禁じられている一方で女性天皇が容認されており、女は「政治に任ずることを得ず、男子位を継がしむるのみ」の中継ぎであると規定されている[4][5]

エスレルの提議も踏まえつつ、井上は皇族男子の臣籍降下条項のある「皇室典範案」と、臣籍降下条項のない「枢密院御諮詢皇室典範」の両案を作成した。井上の本命は後者であり、1889年、男子の永世皇族制度を取り入れた旧皇室典範が裁定される。こうして「皇統は男系男子に限る」という近代成文法が生まれ、戦後現在に至るまで守られている。

第一章 皇位継承

第一 大日本皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス

以上から分かるように皇位継承からの女排除は井上毅の働きが大きく寄与している。井上が起伊藤博文名前で出版された明治憲法と旧皇室典範の逐条解説書『帝国憲法皇室典範義解』では次のように述べられている。

の歳長するを待ちて位を伝えたまはむとするの権宜(一時的な臨時)に外ならず、之を要するに祖宗の常に非ず。して終に後世の模範と為すへからさるなり。(一条


神武より舒明に至る三十四代、て譲位の事あらず。譲位の例の皇極天皇に始まりしは蓋し女仮摂より来る者なり。(十条)

ここでは「女性天皇とは幼い男子皇族が成長を待つために一時的に即位した例外にすぎず、これは皇室の伝統ではなく後世の模範にならない」「神武天皇から舒明天皇までは譲位がなかった。女である皇極天皇から譲位が始まったが、それはあくまで『仮摂』、つまり中継ぎ摂政であった」と解釈されている。すなわち義解では今後の女のみならず過去の女も正統な天皇とは認めていない[6][7]。義解作成時に重野安繹(しげのやすつぐ)東大文科教授、元老院議員、室制度取調局委員)はこの「女は皆、幼の成長を待つための存在だった」という説明に対して、女性皇太子から即位した孝謙天皇の反例を出して「皆(中継ぎであった)」を「率子(オオムネ)」に変更することを提案した[8]が却下されている。

また典範義解の第一条では、皇統とは男系であることを念を押している。

皇統は男系に限り女系の所出の及ばざるは皇の成法なり。上代(ひとり)り女系を取らざるのみならず(中略)。清寧天皇崩じて皇子なし。の皇族男なし。して皇春日(かすがのおほいらつめ)あり。然るに皇位に即かずして群臣履中天皇の孫顕宗天皇を推挙す。是れ以て上代既に不文の常典ありて易ふべからざるの法を成したることを見るべし

「清寧天皇が死んだ後に直系に皇がいたにもかかわらず傍系の顕宗天皇が即位したことから、古代から既に男系男子継承の不文皇室にあり、これは変えてはならない」ということである。

「皇位継承が"男系"でなければならない」と文章で法律に明記されたのは明治皇室典範が初めてのことである。しかし江戸時代には皇統の男系継承規定を示唆する法があった。近世禁中并公家中諸法度(んちゅうならびにくげちゅうしょはっと)の第六条に「養子者連綿。但、可被用同姓女縁督相、古今一切之事」とあり、「同姓」とは男系一族をすことから養子は男系に限られている。ただしここにある「女縁」とは女系族ではなく妻の縁類を[9]現在でいえば皇后子の実家の小和田から次期天皇を選ぶことを禁ずるものである。また同法度は公家にも適用されるものであるが、制定される30年前に公家となった豊臣秀吉が女系族(息子)の豊臣秀次豊臣姓の相続者にしており女系継承は「古今一切之事」ではない。また法度が出て以後も摂の一つ、鷹司が異姓継承を行っており法度は厳密には守られていなかった。


  1. 皇室典範』笠原P18
  2. 近代学の研究藤田
  3. 明治憲法の制定史話』P38
  4. 『皇族』小田部雄次
  5. 『「世一系」の研究皇室典範的なるもの」への視座』P270
  6. 平成終焉』原武史、P19
  7. 古代日本の女キサキ遠山美都男、P7
  8. 近代天皇制と国家早川紀代、P150
  9. 江戸幕府と朝廷』高

女性皇族の降嫁による臣籍降下

江戸時代までの女性皇族は、臣下と結婚しても皇族身分を保つのが伝統であった。。朝廷の諸行事を中務省(なかつかさしょう)ガイドライン『中務式』にも四世以内の皇族女子は臣下と結婚しても夫の品位(身分)に合わせないとある[1]

諸王以上娶臣下者。不得准夫品位。其内王及女王不得准夫品位。但五世王者得准夫位『中務式』


「およそ諸王以上、臣下の女性を娶っても(妻は)夫の身分に合わせない。内王もまた(臣下の)夫の身分に合わせない。ただし(皇でない)五世以上の王・女王は夫に合わせる」

  • 女性皇族が皇族男性結婚することで身分が上下することはあった

孝明天皇和宮(かずのみやちかこ)将軍(いえもち)いだ際にも和宮は皇であり茂は臣下であることが重ねて確認されている[2]

しかし旧皇室典範の案では臣籍の男性結婚した皇族女性は夫の身分に従うものとして強制的に臣籍降下することになっていた。これに対し三条実美(さねとみ)京都出身グループが先例と異なると反発した[3]井上毅と共に典範案を作成していた柳原(さきみつ)結婚した女性皇族の号を保つ慣例を保持しようと考え、イギリスの例を調べて次の条文を加えよと井上に反論した[4]

「皇族女子ノ臣籍ニタル者ハ各其夫ノ分限ニ従フ。但シ()ホ内王女王ノ号ヲ有ス。其所生ノ子ハ皇族ノ限ニ在ラス

かしこれらの反対論は却下され、以後現在に至るまで結婚した皇族女性は自動的に皇籍を外れる定めとなった。


  1. 『註標 義解校本 P47
  2. 『和宮』ミチ子
  3. 天皇歴史明治天皇大日本帝国西川P191
  4. 近代皇室制度の形成』善高、P56

2節 『女帝ヲ立ツルノ可否』

『女ヲ立ツルノ可否』は1882年(明治15年)に嚶鳴社(おうめいしゃ)の中心メンバーによって行われた女の是非を問う論争である。本編は『東京横浜毎日新聞』に九回にわたって掲載された。嚶鳴社は民権知識人が集まった結社であり、1880年頃には社員1000人を擁して憲法案を起し、その幹部は後に立改進党の結成に参画している。井上毅はこの論争を「深く精緻を究めたるの論」と評価し、女不可論の全文を引用して女賛成伊藤博文を説きせた。そのためこの論争は皇室典範の女・女系否定規定に大きな役割を果たしている。

現在の皇位継承の議論較した時の嚶鳴社の議論の特徴は、まず明治男尊女卑潮が前面に出ていること。また論者は皆一様に女性天皇と女系天皇を合わせて考えており「女は許すが女系継承は万世一系の断絶なので認められない」という意見はほとんど存在しない。沼間守一のみは女系継承によって万世一系に疑義が生じることを恐れているものの「自分は女系継承で皇統断絶というような妄念は持っていないが、世の中の多く占めている皆無識の者が女系継承によって万世一系に疑いを持つ危険がある」というスタンスである。

以下は要意見の現代訳の要約。は女否定赤字は女賛成の意見。


論争の発議者の島田三郎「女賛成の「日本に古来より女を立てる慣習がある」、「維新によって社会の気が開き、男女の権利を等にすべきである」という意見に対して反論を試みると、確かに過去には女は存在していたが、その全員未亡人独身であり配偶者を得ることはなかった。そしてまた彼女たちは全員中継ぎの摂位(仮の即位)であった。推古は厩戸皇子聖徳太子)、皇極(斉明)は中大兄皇子智)。持統は皇子、元明は首皇子(武)、孝謙は(ふなど)王や大炊王、江戸時代の後町は王(後桃園)とそれぞれ然るべき男子がいた。よって日本の女ヨーロッパ女王達とべることはできない。

また今、女を立てれば古代のように独身を貫く訳にもいかない。とすれば皇婿をどこから得るのかが問題になる。ヨーロッパは外の皇族を婿にしているが、日本清王朝男性皇族を女婿に迎えることは出来まい。日本国民を婿にするとしても、臣民を至尊に配することあれば、女の尊厳をすることになる。ある人は「男女に尊卑の差はない」というが、の実態として男の方が尊く、男は女の上に位している。女に皇婿を立てれば、最尊であるはずの天皇の上に夫が立つことになり、やはり尊厳を損ずる。また皇婿が裏で女を動かして間接的に政治に干渉することもありえる。これを防ぐために古来の女独身を貫いたが、これは現在理人情に適していない。故に日本ではたとえ血が離れていても男統に限るべきであり、いたずらに女を立てるべきではない」

肥塚「外の皇族を皇婿に迎えられる法律を作れば、例えば清王朝なりから女婿を迎えることは十分可である。「していないこと」と「出来ないこと」を区別せず、不可と断定してはならない。また大英帝国ヴィクトリア女王が好みの政党をひいきをしようとした時、皇婿アルベルトの忠告によって妨げられた。皇孫の弊にのみを当てて利益の方を見落としてはならない。また内閣大臣があり、仮に皇婿政治介入しようとしても内閣の意見を左右するものではない」

島田ヴィクトリア女王の例はむしろ女の夫がいかに政治を動かしうるかを示すものである。また女結婚した場合、一番問題になるのは宗教である。ヨーロッパでも異教徒同士の結婚で生まれた子供宗教が問題になっているが、皇室でそんなことが起きれば大変である。更にロシアイギリスなど大の王族と女結婚した場合、それらのの人によって日本皇室がいいようにされてしまう恐れがある」

草間時福(きよし)「古来より天皇藤原氏皇后になってきたが、それで男の尊厳を損じた先例は存在しない。配偶者が男ならば女の尊厳を汚し、女ならば汚さないというのは理に合わない。更に皇婿政治に介入することのみを恐れて、不徳の天皇が人民の自由権利をすることを憂いないのはおかしい。いずれも今後制定される憲法が禁じることであり、皇婿政治介入を不安視するのは、憲法ありて憲法なきの憂いである」

丸山名政(なまさ)3000年の歴史において、皇帝陛下といえど明の人ばかりではなかった。仮に女事に耐えられなくても、ただ皇統を保持することだけに専念してもらえばよく、女を排除する理由にはならない」

沼間(ぬま)守一「の慣習では第一子が女で第二子が男である場合、長幼の順序にかかわらず男子相続する。王といえどそれは変わらない。つまり男女に区別はあり、男女には階級が存在する。この簡単な事実を見逃して「女を可」とするのは謬見である。男を尊び、女を卑むの慣習が人々の髄を支配するにおいて、女と立てて皇婿を置くのが不可能なことには多弁を要しない」

青木(ただす)「反対は「過去の女が全て未亡人独身であり、しかもその即位は皇子に代わって摂政していただけにすぎない」というが、それでも女が実際に即位していたことは動かず、女の禁止は古来の典例を破るのみだけでなく、人心を損なう恐れがある。日本の現状は確かに男を以て尊しとなし、男を女の上に位するが、それでも男子がいない時には女子相続することはの慣習である。「皇室の継承と一般人の継承は違う」という反論があるかもしれないが、過去に「皇位を継ぐ人」と「皇を継ぐ人」を区別した例はない。皇女をして皇位を継ぐと同時に皇を継承することに何の問題があろうか。「皇婿が女を唆す恐れがある」というが、男とて女寵に溺れて政事に弊を及ぼした過去に例はいくらである。暴政の原因は帝王を立てたことでなく、その人物が悪いことにある」

波多野伝三「確かにには女より男を尊ぶ慣習が存在するが、皇帝上人とみなし普通一般の格外に置くことは女批判論者でも否とは言えないはずだ。推古天皇ら八代の女が人民から卑しいとされた前例はなく、要するに女子を賤むる慣習は人民の間では盛んであるが、この慣習を女に及ぼすことは出来ないとする」

沼間守一「女が卑しめられなかったのは配偶者を持たなかったからである。現今の日本社会において、夫婦のどちらを尊いとするか?夫に柔順なるを妻の美徳とするのは何のためか?それは夫を第一流とし、妻を第二流に置くがゆえである。上下尊卑の別がここにあり、人情は既にそのようになっている。女に皇婿を置いた場合、陛下にして第二流にあるような感情を全人民が抱いたならば実に勿体無いことである。といって女に終身独身を強制することも畏れ多いことである。

また日本の多数の民は、子供は夫妻どちらの血統に属すると認めるだろうか?ある俚言では「女のは一時の借り物」と言われている。女に皇婿を配偶させた時、その皇太子を皇統一系の子と見てくれるだろうか?皇婿を通じて、人民の血統が皇統に混じってしまうことを私は恐れている。私は元よりそのような妄念を抱いてはいないが、世の中というものは俊秀な人物ばかりでなく、むしろ民の多数を占めるのは皆無識の者である。このような人たちのを一軒一軒回って諭すことはできない」

議論は最後に島田が立って女肯定論に逐一反論して締められた。

島田三郎男女のあいだに尊卑なしというのは政治の原理を知らないものの言うことである。政治は人の治めるものであるから、人情の機微をわきまえて時宜を制することが必要だ。理からいえば男女に尊卑がないことくらいのことは、言われるまでもなく輩も知っておる。しかし一般人民は男尊女卑であり、これはヨーロッパにおいても女子には参政権を与えていないのだからだけのことではない。

の現状を見たまえ、男子を蓄えても社会は非難しないが、女子が複数の男と関係すれば、世間はどんなで見るか。相続法を見たまえ、長女が次男に譲っているではないか。民間夫婦関係を見たまえ、女が戸の場合も、いったん結婚すれば内外の権限は夫に帰して、妻はその命に従うではないか。こうした現状があるのに、男女差別せずというのは、政治を知らない奇怪な意見である。

また女の夫が政治を左右するのと男政治に関与するのは大違いである。男憲法政治的権限を有しているが、女の夫はそうではない。にもかかわらず、妻の力を借りて政治を与えるとすればその弊ははかり知れない。権力欲は人間のつねであるが、女よりも男の方が強いから、女性が男を動かすよりは、夫が女を動かす可性が高い。憲法で禁止すれば然とはできなくなるが、陰然とこれをやる恐れがある。とくにのように、女子男子に従う慣習のあるにおいてはその可性は高いと思う」

議論を終えて議長の高橋衛門が多数決を取ると女賛成が16人中8人で同数であった。そこで議長の裁定により女否定説が採用された[1]


  1. 日本近代思想大系2 天皇族』P299

3節 井上毅の思想

宗教観

井上毅の近代国家形成の思想的方針は近代儒教義である。井上儒教を「国家や時代や人の区別をえて普遍的に妥当するもの」と高く評価し、儒教の普遍化・世俗化をした。普遍化・世俗化とは、宗旨のための文献研究ではなく、儒学を「御の有らゆる人を支配する区域のもの」とすることである。

井上ヨーロッパ立憲主義近代法体系を尊重した一方、儒教倫理観に基づく伝統的な「孝」や「教(徳によって教化すること)」が失われることを危惧して、その護持を強く訴えた。井上は「道徳の壊敗」を招いた原因は明治維新以後の「旧慣の打破」にあるとし、その改善のためにキリスト教教とすることは、かえって「美俗、即ち孝悌の教に傷を及ほす」と反対している。

井上から見た儒教キリスト教の相違は対立と呼べるほど大きなものであり、『儒教ヲ存ス』の中でキリスト教を「神怪(怪しいもの)」と批判している。

天神を仮託し、自ら神子と称し、密法術を行い、未来の賞罰を転して、更に現世の神通をしめす、一生の言行、一の神怪ならさるはなし

「浅近にして、取るに足らさる」

逆に儒教については「神怪性」を有さない高尚なものとしている。

「孔に至て、始め神を遠けて民義を務して、生を知て死を知らす、其言、布帛菽(ふはくしゅうぞく)(人が生きる上で欠かすことのできないもの)、一毫の神怪なく、一点の禍胎なし

井上は「人心」が「西洋」となることにより「習」を変化させ「国体」を失い、最終的にキリスト教に「伝染」することを恐れていた。しかし近代化のためにヨーロッパ文化の導入は避けられない。そこで井上は「東洋道徳、西洋芸術」を説く。ここでいう「芸術」とは「技術」の意である。「治具、民法、農工、般」のことは西洋から摂取し、「倫理名教の事」は「儒教を以て師」とするのが井上理念であった。このような儒教義とキリスト教嫌悪は井上一人のものではなく、明治社会に広く存在した時流であった。


皇祖観

天皇の起点という意味の「皇祖」とは歴史的にアマテラス天照大神)をす。本居宣長も著作『直毘霊(なおびのみたま)』の中で、皇統とはアマテラスの心を受け継ぐことであり、日本は「神御祖(かむみお)」である天照大神の子孫が代々日本を治めると言っている[1]

「皇統を日継というのは、日の神天照大御神の心を心として、その業を継ぐからである」『直毘霊』

これに対し井上毅は「皇祖」とはアマテラスではなく神武天皇であると考えていた。井上毅が起した「教育勅語」は以下の文章から始まる。

朕󠄁惟フニ皇祖皇宗ヲ肇󠄁ムルコト〜

教育勅語の発布後、文部省は東大教授井上次郎解説書の執筆を依頼した。井上次郎は「天皇神の子孫である」という天皇神孫論に立って「皇祖=アマテラス、皇宗=神武天皇」と説明した。しかしこれに関して井上毅が異論を唱えた。

(ちょうこく)の始め)ノ基礎ヲ(のぶ)ルニハ、皇祖トハ神武天皇(とな)ヘ、皇宗トハ歴代ノ帝王ヲ称ヘ奉ルモノトシテ解セザルベカラズ

井上毅の認識では「皇祖=神武天皇、皇宗=歴代の天皇」であった。後に井上毅が原案を作成し伊藤博文の名で上された明治憲法と旧皇室典範の解説書『大日本帝国憲法義解・皇室典範義解』では、天皇の祖先を表す言葉として「祖=アマテラス、神祖=神武天皇、祖宗=歴代天皇」が使い分けられた。これに対し内大臣の三条実美は枢密院会議において旧皇室典範の「大日本皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系之ヲ敬称ス」という記述に「本条ニ祖宗トアル祖(アマテラス)ト改メタシ」と抗議している[2]

井上毅には天皇統治の根拠を形上学的な神話でなく、神武天皇以降の実際の歴史に置く意図があった。これに基づき、明治二十四年に文部省が定めた「小学校教則大綱」(現在の「学習導要領」)では日本の歴史神話時代でなく、神武天皇の「建ノ体制」から教えるよう定められた。この大綱に従って編集された『帝国小歴』や『日本歴史』といった教科書では日本神話への言及はなく、神武天皇から記述をはじめ「神武天皇陛下の御祖先だ」と説明している。

井上毅が死去した後は教科書に「天照大神」「三種の神器」「孫降臨」などの項が追加され、その中で「天照大神天皇陛下の遠い御祖先で、神武天皇は人皇第一代である」との説明がされるようになった。


  1. 『建神話社会史』古川久、P20
  2. 三条実美』刑部芳則、P236

男女観

井上毅が起した「教育勅語」には「夫婦相和シ」と書かれている。この文章の出典は四書五経の一つ『礼記』の「夫婦和スルハノ肥ル也」である。一方で井上は『倫理生理トノ係』という論文の中で、倫理とは「儒教義の占有物」ではなく「元来人身生機(じんしんせいき)の構造より生したる造化自然の妙用に起るもの」であり「古今東西を問わず人間に普遍的である」と論じた。つまり夫と妻の倫理の差は、儒教の経典にそう記されてるからではなく生物学的な違いから生まれるものであり、それゆえ普遍性を持っているということである。井上にとって男の倫理と女の倫理が違うのは「学の口吻(儒教)」ではなくあくまで「自然の理」であった。

「男は剛勇にして潤大高尚の徳を具え女は温和にして機敏精緻の質を具ふるは一つは外を治め一つは内を治むるに適当なる固有の性質と謂はさむや。故に西のにても女子に政権を与えへさるは各の同じ所なり。彼の男女同権の説は私権に就てのみ其傾きあるも」


「男は剛勇なので外のことをやり、女は温和なので内のことをやるのがそれぞれの性別に見合った最適なものである。ヨーロッパも女には選挙権を与えておらず、男女平等は私的な範囲だけだ」

山住正己はこの井上男女観に対して「男女同権を排する根拠ともなるのだが、しかし人身の自然に着することによって子や君臣の関係に先立って夫婦をあげているところに、普遍性へのを、ともかく開こうとしていた面のあったことに注する必要がある」と摘している。

八木生は、井上の勅語案の全体を見ても夫婦関係において「和」は動いていないことから、「夫婦相和シ」は、あくまで「自然の理」としての男女の差異を踏まえつつも、夫婦がお互いに労わりながら過ごす仲まじさに力点が置かれていると解すべきであるとする。「夫婦相和シ」には「女は男に従うべきである」とする儒教的な「男女の別」や「夫唱婦髄(男の方が唱えてくれるなら、私はそれについて和す)」の意はく、区別・差別・序列などに連なるものは持ち込まれない。(儒経典の「男女の別」については『19章 海外との較』「6節 男女の別」を参照)

なお「教育勅語」が布された翌年、文部省から検定を受けた教育勅語公式解説書として井上次郎の『勅語(えんぎ)』が師範学校中学校教科用書として刊行されている。その中で「夫婦相和」は以下のように解説されている[1]

「妻タルモノハ、夫ニ柔順ニシテ、(みだり)ニ其意志ニ(もと)ザルコトヲ務ムベシ」

「夫ガ理非ヲ言ハザル限リハ、成ルベク之レニ従シテ()ク貞節ヲ守リ、(みだり)ニ逆フ所ナク〜」

「夫ハ外ニアリテ業務ヲ営ミ、婦ハ内ニ居テ事ヲ(つかさ)リ〜」

ここでは「妻は夫の意思に反することなく従し、夫は外で仕事をして妻は事をする」という長制と良妻賢像が示されている。


  1. 東京学芸大学教育コンテンツアーカイブ『勅語衍義』exit

4節 私擬憲法

私擬憲法とは明治22年の明治憲法の発布以前に民間団体や個人によって作成された憲法私案の総称である。明治10年代日本国会開設をめる自由民権活動が盛んで、民権の団体はこぞって民権憲法案を起していた。政府作成のものと合わせ、野で起された憲法案の数は100近い。民権案のうち皇位継承規定が含まれるものの多くは、共存同衆の「私擬憲法意見」、筑前会の「大日本国憲法大略見込書」など、男性優先ながらもいずれも女を認めており、逆に皇位を男系男子に限ったものは立志社の「日本憲法見込書」など少数であった[1]

明治憲法および皇室典範がごく限られたメンバーによって密室で作成されたのに対し、民権の私擬憲法は広義論のもとに起されていた。しかし伊藤博文憲法制定にあたって民間の私擬憲法をいっさい参考にせず、所詮は「書生の上の理屈」であると断じた[2]

伊藤青年書生が(ようや)く洋書のかじり読みにてひねり出したる書上の理屈をもって、万古不易の定論なりしと、これを実地に施行せんとするが如き浅薄皮相の考にて、却て自国体歴史は度外に置き、人のに新政府を創立すると一般の陋見(浅はかな考え)に過ぎざるべし」

民権派作成の憲法草案

嚶鳴社憲法草案(女帝・女系容認)[3]

第一篇 皇帝

第一款 位継承

一条 日本国位ハ、神武天皇ノ正統(嫡流)タル今上天皇陛下ノ皇裔ニ世伝ス。(後略)

第六条 皇族中男キ時ハ、皇族中当世ノ皇帝ニ最近ノ女ヲシテ位ヲ襲受セシム。但、女ノ配偶ハ権ニ干与スルコトヲ得ズ。

明治12~13年に植木枝盛らによって起。女・女系共に容認されている。

憲法草稿評林(女帝・女系容認)[3]

第二章 位継承

三条 上ニ定ムル所ニヨリシテ猶未ダ位ヲ継承スルモノヲ得ザルトキハ、皇族疎ノ序ニ依リテ大位ヲ嗣グ。若シ止ムコトヲ得ザルトキハ、女統入リテ嗣グコトヲ得。

明治13~14年に小田為綱らによって起。女・女系共に容認されている。

大日本国憲法(女帝・女系容認)[3]

第一篇 第十一条 (前略)但シ男子全ク欠クルトキハ、血統最モ近キ女子位ヲ嗣グヲ得。然レドモ女ノ配偶者ハ政ニ与ル可カラズ

明治13年以前に義塾の社長であった沢辺正修によって起。女・女系共に容認されている。

五日市憲法(女帝・女系容認、永世皇族制否定)[3]

第一篇

6 皇族中男ナキトキハ皇族中当世ノニ最近ノ女ヲシテ位ヲ襲受セシム但シ女ノ配偶ハ権ニ干与スルコトヲ得ス

10 皇族ハ三世ニシテ止ム四世以下ハ姓ヲ賜フテ人臣ニ列ス

明治14年に千葉三郎や学芸講談会員が共同で構想。女・女系共に容認され、皇族は3世で臣籍降下すると定められている。

日本憲法見込案(女帝・女系否定)[3]

第一章

四条 (前略)其継承ハ皇帝ノ正統タル男系ヲ以テ政ヲドル、之ヲノ大典トス。

明治14年、内藤魯一が「岐日報」面上に発表。皇統は男系に限っている。

日本国国憲案(女帝・女系容認)[3]

第五変皇帝及皇族摂政

第一章 皇帝ノ特権

第九七条 第四 以上統ナキトキハ皇女及其統ニ世伝ス。

第九八条 位継承ノ順序ハ、男ハ女ニ(さきだ)チ、長ハ幼ニ先チ、嫡ハ庶ニ先ツ。

第四章 皇帝ノ即位

二条ノ夫婿ハ王権ニ干渉スルヲ得ズ。

明治14年、植木枝盛によって起。女・女系共に容認されている。

政府官僚作成の憲法草案

帝号大日本国政典exit(天皇は男子に限る)[4]

第四十六章

日本皇帝の祚階は神武皇統に止り、往〃男性特に 至尊の長男たる者、世に旧業を襲く事を得べし。但し皇帝崩御して(をじきみや)を世に遺さざるときは、各省卿及議官会議して新を四の皇族より奉撰すべし。

明治5年に青木周蔵が木戸孝允の委託によって起。皇統は男子に限っている。

憲法大綱領[3]

綱領

一、室之継嗣法ハ祖宗以来ノ模範ニ依リ、新タニ憲法ニ記載スルヲ要セザル事。

明治14年、岩倉具視が提出した憲法制定の意見書。皇位継承は祖法に従うと述べられている。

知識人作成の憲法草案

憲法草案exit(女帝容認・女系禁止)[5]

第二篇

第一章 大統

第ヽヽ条 如何ナル場合ニテモ大統ノ承継皇女(大)ノ外女統ノニ移ル事ヲ得ス

第ヽヽ条 皇太女統ヲ受クル時ハ其夫同異姓ノ別ク尊礼ヲ受クルト雖ヘトモ政ニ与ル事ヲ許サス其子孫ハ大統ヲ継ク事ヲ得ス。

第ヽヽ条 皇女既ニスル時ハ如何ナル場合ニイテモ入リテ大統ヲ承クル権

明治15年、西周(にしあまね)が起。女の即位は認めるが女系は禁じている。また既婚者の皇女は即位できないとする一方、女婿を迎えることを容認している。


  1. 日本近代思想大系2 天皇族』P525
  2. 五日市憲法新井勝紘、P88
  3. 日本近代思想大系9 憲法構想』
  4. 国立国会図書館デジタルコレクション帝号大日本政典(草案)exit
  5. 軍人勅諭の成立と西周の憲法草案exit渓昇

5節 華族令

明治17年、族を統制する布された。起者は井上毅であり、伊藤博文岩倉具視と共に推し進めた。中世までの武女性督を継ぐこともあり、近世でも婿養子(女系継承)が常的に行われていた。しかしによって女戸婿養子がいずれも禁じられる。

三条

爵ハ男子嫡長ノ順序ニ依リ之ヲ襲カシム女子ハ爵ヲ襲クコトヲ得ス現在族ハ男子ヲ定ムルトキニ戚中同族ノノ連ヲ以テ宮卿ヲ由シ授爵ヲ請願スヘシ

女性爵位世襲することができず、相続人に女子しかいない場合は宮内大臣の認許のもと、男系の六等以内に限定して婿養子を取ることを許すというものである。これにより女性は一時的に政を担う中継ぎ扱いになったため、錦小路子爵、旧播磨姫路酒井伯爵などは女性を置いたことが原因で授爵が遅れている。その中継ぎ的な女戸明治40年改定で許されなくなる。

政府は女戸を排除した理由に、女では皇室を守ることができず、女系継承は「男系男子の皇統」の理念に反するためと述べている。

「女戸皇室屏翰(へいかん)(王室を守る役割)たるの実を挙げしむるに不適当なること」

「女戸を認むれば男系に依る皇位継承の本義に則る根本の観念を邈視(ばくし)(軽視)すること」

「入夫(婿養子)、養子襲爵を請願せしむとふのは言辞を弄ぶものであって、結局情実を以つて誤魔化さうとするものであること」

「女戸を認むるとせば爵の族あることを許すこととなること」

それまで容認されていた養子・婿養子が禁じられたことで、族たちは督継承に困難ときたすようになっていく。1884年のの制定から1947年族制度が止されるまでの約60年間で、17の族が女戸を理由に消滅している。戦後になっても旧族は男系継承を続けていたが、平成8年の段階で全体の17.6%相続すべき男子がいないため絶している。その中には紀州徳侯爵阿波蜂須賀侯爵などの名族も含まれており、2023年には徳川慶喜公爵5代目山岸美喜が「じまい」を行うと宣言している。

皇統を男系男子に限ったことに合わせて禁じられた族の婿養子、異姓養子継承だが、皇室典範作成会議参加者の大半は代々男系継承を行なっていない。島田三郎は本人が養子であり島田とは血縁関係がない。「女統(女系)を立てればただちに他系に移り皇統は断絶する」と述べた伊地知正治地知の女系子孫であり、伊藤博文父親が養子で、博文自身も養子に爵位継承している。岩倉具視は本人が養子で、具視の後は婿爵位を受け継いだ。「女統は卑しい」と発言した尾崎三良婿養子をとって女系で督を継がせ、井上毅も同様に爵位を女系継承している。特に井上毅と伊藤博文制定後に入夫(婿養子)、養子襲爵を行なっている。

女系継承を否定する皇室典範とを起した井上毅には子供が女しかいなかったため、三人の冨士トキ、イトに婿養子を迎える必要があった。甥系の飯田野が後を継ぐ意向があったものの、毅は決断に至らぬまま晩年を迎えていた。見舞にきた尾崎三良が病床にいる毅に対し強く婿取りを勧めたことで、長女の冨士熊本籍の儒四郎(ただしろう)を迎えることとなる。四郎は毅の死後に井上四郎として爵位を継承する[1]

井上の継承

飯田権五兵衛飯田多久(毅)
        ↓養子
井上三郎1=井上毅2トキ
               ├イト
               └富士
                |────井上4
        井上四郎3
          ↑婿養子
   岡松匡四郎

  • 毅には子供しかいなかったので婿養子をとっている

伊藤の継承

                     林十蔵─利助(伊藤博文)
                      ↓養子
             水兵衛=水井蔵─水井利助
                          ↓養子
伊藤弥右衛門1=伊藤直右衛門2=伊藤十蔵3伊藤博文4貞子
                                ├生子
                                ├朝子
                                └伊藤博邦5
                                 ↑養子
                           井上光遠─井上勇吉

  • 博文には嫡子がしかいなかったため養子をとっている

岩倉の継承

河康河周丸
      ↓養子  
岩倉具慶1=岩倉具視2岩倉具定4岩倉5
               └岩倉増子
              |
   富小路政直─岩倉具綱(婿養子)3

  • 岩倉具視の死後は婿養子の具綱が爵位継承し、その後は具視実子の具定が繋いだ
  • 系図には関連人物のみを載せた。実際には具視は子沢山である                 

日本社会東アジアべて男系的な族体系が強くなかったため、以上のような非男系継承は歴史的に広く行われていた。(参照『11章 古代日本社会構造』特に「8節 イエ制度と婿養子」)そのため血統を男系に限るに対して、元肥前鹿島にして貴族院議員の鍋島直彬(なおよし)帝国議会で「男系でも女系でも血統には変わりないではないか。なぜ男系に限るのか?何か根拠はあるのか?」と質問している。

鍋島三条の二項に血統ある分の戸ふの血統とふのは男統の血統に限るとふ様なことに承りましたと思ひますが血統あるとふと女系でも血統に違ひない、血統あるとへば男統も女統も同じく血統に違ひませぬが、何か確に男統の血統に限るとふのは根拠があって答へられたのでありますか」

この質問を受けた太郎(せんたろう)は「血統とはどこまでも男系男子す。女系ではそのの男の血統ではなくなってしまい、先祖からの言葉を立てられなくなってしまう」と反論している[2]。なお太郎に養子で入っており男系の繋がりはない。


  1. 『評伝 井上毅』義教、P327
  2. 第13回帝国議会 貴族院 華族令中改正に関し貴族院令第八条に依り御諮詢の件特別委員会 第2号 明治31年12月21日exit

6節 明治十四年の政変

明治22年に布された明治憲法は、井上毅がドイツ憲法モデルにして起したものであるが、その方針が当初から決まっていた訳ではない。明治14年、ドイツ国家伊藤博文-岩倉具視と、イギリス国家大隈重信の間で対立があった。伊藤-岩倉らのブレーンとなったのが井上毅であり、大には矢野文雄と、矢野師匠福沢諭吉がついていた。井上矢野は共に太政官権大書記官の要職にあり、二人はライバルであった(この政変には北海道開拓使官有物払い下げ事件も関連するが、井上毅に焦点を当てるため省略する)。

伊藤と大憲法制定のみならず思想面でも大きな隔絶が見られる。福沢諭吉男女平等論者であり「男と女の違いは生殖器のみで出来る仕事に違いはない」という。これは儒教の男には男の、女には女の役割があるとする「男女の別」とは正反対の価値観である。


(そもそも)世に生れたる者は、男も人なり女も人なり」『学問のすゝめ


男女の差は生殖の器官のみであり、それもただ仕組みが違うだけで、どちらが重い軽いということはなく、また、生殖の機関以外は、臓器、血の巡りなど違いはないのだから男子の為す業」で女子に出来ないものはない」日本婦人論後編』

学者に生まれた福沢は、籍に精通しながらも儒教を強く批判する開明論者であった。福沢が最も嫌ったのは、儒教を利用して人の内面を支配しようとする儒教義である。また福沢は私擬憲法制作しており、ヴィクトリア女王が統治するイギリス流の『交詢社憲法案』を上していた。

その子の矢野文雄も後年の著作で儒教批判し、キリスト教の中では「神怪惑迷」が少ないユニテリアンを日本道徳構築のために採用すべしとしている。後の矢野は、儒教義に則った文部省の徳育教育に異議を唱え続けることになる。

世間の進歩に連れて著るしく改良せるものは欧西の耶教(キリスト教)にて、東洋の仏教は之に()ぐものといふべし。三教の中にて最も改良なきものは蓋し儒教なるかな。『周遊雑記』

大隈重信はより直接的に女性を抑圧する儒教の弊と、国家における女性の権利の大切さを説いている。やや長いが該当箇所を引用する。

日本亜細亜アジア中婦人の地位が一番進んでおる。総じて亜細亜アジアでは婦人が全く一家の内に閉塞せられて、あわれむべき遇に陥っておるにもかかわらず、日本だけは常に婦人が相当の地位をもっておるのである。ところが亜細亜アジアの他のては、宗教の上、あるいは儒教意の上から、婦人が相当の地位をもっておらぬ。ことに儒教の上からは女子と小人とは養い難しという如き教義が社会の上にあった。それ故に女子がその中に打罩うちこめられて、社会と縁を切ってしまった。これが亜細亜アジアの堕落して勢の振わないゆえんである。日本ても支那の教義は古くから伝わって、次いで千三百年以来仏教が入り儒教が入って来たに拘わらず、日本の婦人が支那の婦人と同一の運命に陥らなかったというのは、大陸の文明が日本に入って来ても、その文明の利益だけを収めて、そうして文明から起るところの弊の大部分を、日本が幸いにこれを防いだからである。ごくひらたい言葉でいえば、いわゆるかれの長を採って われの短を補うたという訳で、文学なり美術なり、あるいは種々のものの長を採ったが、仏教の教義から起り、もしくは儒教の意味から起るところの女を苦しめるというへいを盛んに防いだ。これがために日本が一世界の文明に触れて、ただちに彼の長を採るというあかつきに至っても、日本風俗・慣習・道徳の上にはなはだしい衝突が起らずして、世界の文明と日本の文明とうまく調和することが出来たのである。これをごくつづめて断言すれば、婦人を苦しめたは衰え、婦人に相当の地位を与えたは進む畢竟ひっきょう女を苦しめたはいわゆる因果応報で、そういうの衰えるのは決して偶然でないということになる。これが輩の持論である。『女子教育的』

大隈重信矢野を取り入れた急進的な意見書を岩倉に提出し、岩倉と、たまたまそれを閲覧した伊藤を困惑させていた。伊藤は大意見書の裏には福沢がいる考え福沢を恨んだ。その一方で岩倉井上毅と憲法問題について議論し、その中で井上イギリス流の福沢憲法は用いるべきではないと建策してした。

営が対立が深まった結果、明治14年10月9日岩倉井上の計画に基づいて、行幸から帰ってきた明治天皇大隈重信の罷免を裁断させ、井上が起した「立政体に関する奏議」を提出して新憲法ドイツ流にすることを強引に認めさせた。天皇の「勅旨」により大隈重信矢野文雄は犯罪者同然の扱いで免職され、犬養毅や尾崎行雄政府に入り込んでいた福沢門下の官吏もことごとく罷免された。これを明治十四年の政変と呼ぶ。

その後、井上民の多数が福沢諭吉のような「過論者」の手に落ちることを恐れ、大臣に向けて緊急の対策を進言している。

今日の謀を為すは、政に在らずして動にあり。福沢諭吉の著作一たび出でて、下の少年然として之に従ふ。其漿に感じ腑に浸すに当て、その子を制することはず、そのを禁ずることはず

福沢諭吉の本を読んだ少年たちはそれに従ってしまい、父親子供を制することができなくなる」と井上は危惧している。また福沢の「皇室政府は別である」という皇室観も井上を刺し、このような「説(理に反した考え)」は「宮府一体之制(皇室政府は一体であるという日本固有の伝統)」を破壊する。福沢によって君臨すれども統治しないイギリス流立君主制政府内に流布してしまうと恐れた[1]

その後、福沢諭吉の本は「安ノ」のおそれがあるとして教科書から次々締め出された。これにより近代日本儒教を思想的柱とすることが決定的となる。

文部卿の福岡(たかちか)教育には碩学醇儒(優れた儒学者)にして徳望あるものを選用し,生徒をして益々恭敬整粛ならしむべく,修身を教授するには必ず皇固有の道徳に基きて儒教義に依らんことを要す

井上明治23年には儒教義が濃厚な『教育勅語』を発布し、これを道徳の基礎としている。

井上毅は開明福沢を強く意識しており、現在でも福沢諭吉は先駆的男女平等論者として位置付けられることが多い。しかし実態として福沢女性観は、育児を「女性職」とするなど多くの面で現代的男女平等とはかけ離れたものであった[2]


  1. 皇室典範』笠原、P8
  2. 福沢諭吉教育論と女性論』安寿之

7節 明治社会の在り方

明治天皇の女性観

明治天皇会議に臨席していただけで直接典範作成に関わっていないが、当時の日本潮を見るためにその頂点に立っていた明治天皇女性観を記述する。

明治20年、政府は宮中を際化するためにドイツからオットマール・フォン・モールを招聘した。モール南で宮中儀礼はヨーロッパに整備されていったが、その中で困難だったことの一つが皇后の問題であった。儀礼を欧州化するためには皇后をはじめ女性の出席を考慮し、ある種の男女平等性を示す必要があった。しかし明治天皇は自分と皇后等ということが受け入れがたかった。行幸で皇后と同じに乗ることは譲歩して受け入れたものの、皇后と並んで歩くという要請は聞き入れず、菊観会の催しでは天皇の出御が遅れている。明治天皇は自分の玉座と皇后の座が同じ高さであることも承せず、こっそり玉座の下に厚いの敷物を置いて皇后の座より高くしていた。これを発見した井上が敷物を引き摺り出して放り投げたために大騒ぎになったという。明治天皇海外から外賓を迎える餐・晩餐でも皇后に腕を貸す行為を厭った[1]

明治18年、出来上がったばかりの族女学校教科書規則をにした明治天皇は、「化学及び理学」を見つけ「皇室付属として新設する所の女学校の本旨」ではないとし、理化学などは特に才があって自ら好む者があれば選んで学ばせるくらいのことで事足りると述べた。そして女子運動は必ずしも西洋的な方法を採用しなくてもよい、「女子教育(もと)より男子と同じからず、ゆえに校長は活発の人よりも、(むし)ろ沈重の(落ち着いた)人を選ぶべし。従来女子教育の弊は活発に過ぐるに()ること多し」と重ねた。また明治22年に、有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)王が洋行に際して慰子(やすこ)妃の同行を願い出た時、明治天皇は「婦女の洋行は(いたず)らに西洋の物質文化惑せられ、娯楽又は奢侈の悪を助長するに過ぎず」と応じて許さなかった。この背景には以前、小松(こまつのみやあきひと)王妃ヨーロッパ宝石衣服類をここぞとばかりに購入していたことが伏線にあった[2]

原武史はこのような明治天皇の考え方は、元田(ながざね)からの儒教があったと摘している[3]。元田は『論語』などの進講(人への授業)を通じて天皇の人格・政治理念を形成し、天皇から父親のように慕われた儒学者であった[4]


  1. 天皇歴史7 明治天皇大日本帝国西川P218
  2. 皇后近代』片野佐子、P56
  3. 皇后考』原武史、92P
  4. 『若き日の明治天皇 人君の学としての論語坂本一登

女性神職者の排除

卑弥呼に代表されるように日本古代女性、あるいは男女のペアが行うものであった。それが奈良時代以降、外来思想の流入によって女性穢れ思想が広まり、仏教でも神道でも男性優位の状態が続いていく。(参照『13章 女性皇族の婚姻』「3節 女性皇族と穢れ」)それでも伊勢神宮の「物忌(子良(こら))」、鹿島社の「物忌」、加茂者の「忌子」など近代に入るまで女性神職者は朝廷地方神社では重要な役割を果たていたが、明治元年以降にそのような女性の職が次々と止されていく。明治5年の太政官布告で神山神社寺院の女人禁制を解く命が出されたものの、明治の世にはいまだ「女性神様に近づくべきではない」という観念が息づいていた。しかし女性神職者の退は、このような祭上の禁忌だけに基づくものではなかった[1][2]

明治政府神社を「国家の宗」と位置付け、明治3年に内の神社に共通の規則を作るため調に関する布告を出した。この調には「社中男女人員」の設問があり、当時は女性の祭者が一般的であったことを示す。発端は山梨県から明治7年に「婦人神官」登用伺いが出された事だった。ここでは「(しかん)神社の祭礼に関わる神官)」にふさわしい人物が足りないため、婦人でもこれに堪える人物であれば「人民進歩の一端」を切り開くとしてその登用の許可めるものであった。これに対して宮中儀礼をる式部寮は、女性神職は「もとより差し支えない筋」として了承した。しかしこれに左院法制課が「祭典であるが故に官は住職と異なり国家官吏であり、その権利を女性に与えることによって後日必ず弊が生じる」と異議申し立てする。式部寮は法制課と協議するが、結局、以下を根拠に女性神職者は「断然御禁止相成り然るべく存じ」と決裁された。

  • 婦人へ独立の職を任ずることは、事理不相当である
  • 郷社「官」は官人である
  • 官」は元々男子が務めるべきもので、女子が必ず務めるべきものではない
  • 婦人の「官」が認められた場合、女子が戸となり夫が配偶者となるような事態も起こるもとになり儀を乱す
  • 女子国家官吏の権利を有することになる

この決定は「女性穢れを忌む」といった祭上の問題ではなく、当時の女性観、家族制度などを反映した結果であり、それは新しい明治国家像のなかで必要不可欠なものであった。ここでは近世までの神職観は否定され、「斎宮」という古来からの女性神宮は後世にそぐわないものとし、古代の「御巫(みかんなぎ)」や「(とじ)」に由来する「内典(いずれも宮中祭る女官)」も女性神職とは異なるという見解を出している。小平美香は「神職国家官吏であるが故に女性登用はできないという論理には、士族たちの『』という儒教思想が貫かれている」と摘している。

明治7年には登録された神官は男性が9772名に対して、女性は8名。その8人中7人が琉球の所属であった。近世まで各地の神社朝廷で働いていた神社巫女女性神職者たちは姿を消し、的な神職はほぼ男性のみに占められた[3]


  1. 女性神職近代儀礼・行政における祭者の研究小平美香、P5
  2. 『女人禁制』木譲、P5
  3. 前掲、小平P221,249

8節 新皇室典範

制定の過程

1945年8月アジア・太平洋戦争の敗戦により日本GHQに占領された。旧皇室典範は皇室法として国会からを受けない位置にあったが、GHQ民主権の原則から皇室典範を国会制定法にするよう示する。日本は「皇室典範は皇室の自立権である」と抗議したが受け入れてもらえなかった。

1946年3月から始まった新典範作成のための臨時法制調会では、憲法で規定された男女平等との関係から皇族女性を皇位継承範囲に含めるかどうかが議論された。女性天皇容認には宮沢俊義、杉村太郎鈴木義男などの名前が挙げられ、その中でも宮沢は「女を認める以上、一般国民男子が女婚姻して皇族身分を取得する場合も認めないわけには行くまい」として女系天皇まで容認している。方や杉村三郎は「結婚していない」内王にのみ皇位継承権を認めている[1][2]

これに対し女性天皇排除からは、論憲法二条で謳われた皇位の「世襲」が既に法の下の等の例外とされていること、また女系は「皇位の世襲」という観念には染まないこと、また「世襲」は男系男子による皇統の継承を意味するので憲法違反ではないという見解が述べられた。さらに女性天皇が就任した場合の婚姻の在り方や、皇婿の立場、そして何より一度女性天皇を認めると将来的に皇位継承権が女系に広がる可性があり、男系原則が崩れるという強い反対意見があった。また当時は民世論で女に賛同する者が少数で「女性天皇を民感情が受け入れるだろうか?」との意見があった[3][4]

日本政府GHQとも折衝を進め、多岐にわたる質問を交わした。アメリカ側は男女平等の観点から女容認をめていたが、日本が「女を認めても女系が認められないので意味がない」「歴史上、女には弊があった」と説明するとあっさり引き下がり、特にGHQ民政局のサイラスピーク博士日本の歴史上、女性天皇はいても女系天皇がいなかったことに理解を示している。皇室典範を憲法の下位に置き国会審議の対法にすることは日本側が強く拒んでも譲らなかったGHQであるが、内容については(当時、皇室関連法に関わっていた高尾く)「寛大」で、ほぼ無修正で了解を得ている[5]

政府内では男系・男子案が流を占めていたが、その後も女性・女系天皇案が全消滅したわけではなく、同年10月の文書「皇室典範試案時字句修正の理由」の中では女性・女系天皇が再提起されている。ここでは両性の等をうたうと同時に「日本では妻は夫に大きくされるという現実」を根拠に男子優先になっている[6]

一⑴女系も補充的に認めるべきであり、又、女天皇も認めるべきである。(主た理由⑴両性の本質的平等。皇に実権なく、象徴にすぎぬめ女天皇でも不都合なし。⑶皇統の希薄又は断絶を避ける。⑷各王朝の通例。)(但し、が国の現実においては夫に対する影響が大なると普通とため、その順序は補充的とするを妥当とし、又、配偶者あるも可とする。)(但し、本件は慎重なる審議の上否決した点であるから、原案[男系男子案]でも已むなし。)


  1. 皇室典範』笠原P131
  2. 『「世一系」の研究皇室典範的なるもの」への視座』P114
  3. 天皇高橋紘、P67
  4. 前掲、笠原P131
  5. 前掲、笠原
  6. 前掲、P117

帝国議会での女帝論争

問題は11月からの帝国議会で再度上に乗る。「将来にわたって男系の皇統は大丈夫なのか」「新しい時代に民の意識に合致するのか」など天皇制護持のための質問が続いたが、憲法担当の金森次郎務大臣は「日本のもっておる根本の原理を探して決めなければなりません」と述べ、古代からの天皇制の歴史的流れと、「このことは日本国民の確信というべきものである」という2点を強調して女論に消極的な見解を答弁している。金森には過去の女は全て男系男子を得ることが難しかった時の非常手段であり、女制度が存在していたわけではないという見解があった。さらに幣原喜重郎務大臣(副総理)も「現状では女論を々する状況にない」と答えている。

史上初の女性議員の一人である新妻イトは、イエ制度が持っていた男尊女卑価値観皇室典範改正案の男系男子義の中に見て取り、これに対して以下のように批判を浴びせた。

「今度の新憲法によりまして、女もどうやら人間並みになつたのでございますから、この男系の男子ということをどうかしてとつていただくことができないかしら」

「これ(男系男子原則)がありますと、新憲法によりまして、今までの世界に類例のなかつた家族制度というものをいくら破りましても、実際の上におきましてやはり男系の男子が幅をきかして女性というものが奴隷化されて来るということを恐れているのでございます」

これに対して金森は、イエ制度の止は利関係者だけの問題であるが、皇室日本民全体の結合体であり全く別問題であるとする。

の大きなものの中の中心的存在であります所の徴という地位が順次承け継がれて行くという関係であります故に、一般の財産相続というものとは全然違つております。(中略)これは天皇御一家のことではなくして、全体の一つの中心たる考がいかにして充たされて行くかということであります故に法律的に申しますと、実は家族制度とは別のことでありまして、何んらの関係はない、こういうことになろうと思います」

終戦直後の皇族には11宮が皇籍離脱してもまだ多くの若い男子がおり、女問題は当時の政治家にとって急いで議論するべき問題ではないという理解があった。これらの女消極論に対し「新憲法のもとでは天皇は陸海軍を統率するわけではないから女性天皇でも構わないのではないか」「平和国家す以上、女性天皇の方がふさわしい」という質問もあったため、金森は「(女問題は)将来の検討課題といて残しておいても良い」と返答している。金森はその後も男系男子案は結論的なものではなく、現時点での暫定的な処置であることを強調し「将来的な研究によって男系に限る必要はないと結論された場合それに従う」とも述べている[1][2]

金森「この(女)問題に関しましては考うべき幾多の点が存在しておりまするので、それらのすべての度から考えまして、最も妥当なる結論を得ることを努めておるのでありますけれども、現段階、すなわちこの典範を議会に提出いたしまするその段階におきましては、原案(男系男子案)のごとき程度の他に適当なるものを見出さなかつた。こういう趣旨でございますから、事柄に対して、まだ結論的なものをもつているわけではございません」昭和21年12月6日衆議院議事録


松岡七郎委員「今後この(女)問題を検討した結果、男系に限る必要がないということがはつきりした場合に、それから改正してもいいというようなお考えがおありでございますか

金森もとより十分なる研究をいたしまして、正しい結論が出ますれば、それにうべきことは言うまでもないと考えております昭和21年12月11日 衆・皇室典範案委員会

憲法学者にして当時の貴族院議員として新憲法改正審議に参加した佐々木惣一は、新憲法の下での皇位継承は「所謂従来の感情とか伝統とかふやうなことは問題にならない」ものであり「日本国憲法其のものの精神」に即すべきであるという立場に立脚した上で、「女子だから直ちに皇位就任不適格という理屈は成り立たない」としつつも「女子であるということに伴う他の事情、例えば配偶者問題がある」と述べて「男子が優先されることは憲法の精神に合致する」としていた。これに対して現代の憲法学者は配偶者は男女共に伴うものであり、女性の場合にだけ問題になるというのはおかしいと批判している[3]


  1. 第91回帝国議会 衆議院 皇室典範案委員会 第4号 昭和21年12月11日exit
  2. 『「世一系」の研究皇室典範的なるもの」への視座』P156
  3. 前掲、P164

三笠宮崇仁の女性天皇容認論

昭和天皇三笠崇仁(かひ)終戦後、女性天皇に積極的な態度を示していた。1946年に新憲法・新典範が布された際、三笠宮は「新憲法皇室典範改正法案要綱(案)」という意見書を提出し、女性天皇についても踏み込んだ提言をしている。それによれば新典範は戦後民主憲法の精神に合致する必要があり「法の下の等」から女性天皇は認めるべきであるが、現在女性皇族は男性皇族に従うように躾けられており、また政治家も皆男子であるから現状は政府案(男子継承)で良いが、将来的に女性政治家が増えてきた時には女の問題も再検討すべきである[1]

(1)女について

()づ問題になるのは女を認めないことと「法の下の等」との関係であらう。純に「法の下の等」を解釈すればどうしても女を認めねばならぬ。しかし之については私は現在としては政府案で結構と考へる。その理由として法律論でない実際論から一つだけ述べておく。今の女子皇族は自独立的でなく男子皇族の後に追随する様にしつけられてゐる。之は決して御本人の罪ではなく周囲が悪いのであるが之では(たとえ)徴でも今急に全民の矢表に立たれるのは不可能でもあり全くお気の毒でもある。其の上天皇を補佐すべき各大臣が皆男子である。従つて当分女理と思はれるが何と考へても「法の下の等」は全世界に共通の傾向であり今や婦人代議士も出るし将来女の大臣が出るのは必定であつて内閣総理大臣にも女子がたまにはなる様な時代になり、一方今後男女共学の教育を受けた女子皇族がとなつて教育された女子皇族の時代になれば女子皇族の個性も男子皇族とだんだん接近して来るであらうからその時代になれば今一応女の問題も再研討せられて然るべきかと考へられる。

女性天皇は時期尚とした三笠宮であるが、翌年に新憲法が施行された直後に「皇室民主化の方策」と題する意見書をまとめている。この中では女性天皇が容認されている[2]

皇室民主化の方策

⑴皇室典範の改正

方針 まったく白紙にかえり、新憲法の精神に基づいて新しくつくる

イ.名称は皇室法とする。

ロ.女を認めること。

ハ.天皇皇室会議が承認すれば譲位出来ること。

ニ.立后及び皇族男子婚姻皇室会議に附さないこと。

ホ.皇族は(すべて)その意志に基き皇室会議の承認を経れば皇族の身分を離れ得ること。

ヘ.(内)王(女)王の称号止すること。

備考 以上はまったくの私見であって陛下または他の皇族とは少しの関係がない。


  1. 「三笠宮さまの意見書全文」日本経済新聞2016/11/3exit
  2. 三笠宮崇仁親王三笠宮崇仁親王伝記刊行委員会編、P456

永世皇族制度の踏襲

皇室典範作成にあたり、旧典範からの永世皇族制度を踏襲するかが議論になった。

1946年の臨時法制調会では、永世皇族制度を採らず皇族の範囲を「天皇の四世以内の直系卑属(直系子孫)」とする案、「現在天皇を中心として先後五世位(五世祖父から五世孫まで)」とする案が挙げられた。永世皇族制度を採る案にしても、6世以下の皇族は(皇族会議にて特別に除外された者を除き)原則臣籍降下することが提唱された。調会では最終的に、永世皇族制度を採用しつつ、増えすぎた皇族は内規によって皇籍身分を離れるという立案された。皇族が皇籍離脱する規定は現行典範の11条において定められるが、1947年の11宮離脱後から令和7年現在に至るまでこの規定で皇籍離脱した皇族はいない。

第十一条 年齢十五年以上の内王、王及び女王は、その意思に基き、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。
 親王(皇太子及び皇太孫を除く。)内親王、王及び女王は、前項の場合の外、やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。

帝国議会では金森次郎世皇族(永世皇族制度)の考え方は「物の理に合わない」として皇族の基本的意義である皇位継承及び摂政設置の観点から皇族の範囲を考えるべきであると述べつつも、「皇族の範囲を限定するような考えはないのか」という質問を受けた時には「皇族が多すぎることに対する懸念はあるものの、皇位継承の範囲の確保等を考慮し、また範囲を限定することの複雑さ、困難性から形式的に明文の規定で限定することは避け、永世皇族の制度を採り、調整は制度(典範11条)の運用によることとした」「範囲を形式的に決めると、逆に皇族の数が増えすぎた際にその調整が困難になる」という旨の答弁している。女論と異なり、新典範制定以後から現在に至るまでに永世皇族制度が大きな議論になることはなかった。


  • 皇室法概論』園部逸夫、P498

その後の女性天皇に関する議論

皇室典範に施行されて以降も、国会で女性天皇に関する議論は断続的に行われた。昭和30年代中頃〜40年代初めには受田新吉(民社党所属)などから憲法14条「法の下の等」との関係などについて質疑がなされた。昭和41年衆議院内閣委員会では、関内閣法制局第一部長が「絶対的に女子天皇に立たれることを憲法が禁じているわけでもありません」としたうえで「民感情の推移」により女性も皇位継承資格を持つことも不可能ではないとの見解を示している[1]

時を開けて昭和54年には元号法議論女子の皇位継承資格が論じられ、昭和60年代前後には国連女性差別条約(次節で解説する)との関係で、また昭和から平成にかけては即位儀礼の在り方が議論された際などに女性天皇が議論の対となり、平成2年および4年には三石久江(社会党所属)が皇位継承制度につき多的な視点から質疑した。園部逸夫は戦後の女性天皇に関する議論の論点を以下の六種類に分類している。

  1. 皇位継承を男系男子に限定しているのはなぜか
  2. 皇室典範は男女平等を定めた憲法14条や国連女性差別条約に違反しないのか
  3. 皇位継承者数を確保するために女性天皇を認めるべきではないのか
  4. 諸外女性王位継承資格を認めており、も女性天皇を認めるべきではないのか
  5. 女性天皇を認めるためには皇室典範のみならず憲法改正が必要か
  6. 政府は女性天皇についてどのような研究を行なっているのか。またどのような状況になったら検討を行うのか

例えば1の皇位継承を男系男子に限る理由については、それを支持する立場からは「皇室歴史・伝統」と「女性天皇は合わないとする民意識」の二つが論拠が挙げられている。その中には昭和54年三原総理府総務長官のように民意識の推移により皇位継承制度も変わり得るという説明がされる時もある。これらのへの反論として、民意識は必ずしも男系男子を支持していないことや、歴史上存在した女性天皇。および女神アマテラスの前例が挙げられた。

男系論の一例

生順良宮内庁次官「男子の方が適当な方がある場合においては常に男子の方が皇位につかれた、そういう歴史的な伝統というものを基礎にしてそういうにきめられたものと私は思います」昭四三・四・三衆・内閣

雄法制局第一部長日本民感情として、天皇男子の方が立たれるということが徴ということの感情的な一つの背景歴史的なと申しますか、一つの歴史によってつちかわれた感情が背景をなしておる、そういう考え方に立っておるのではないかというふうに考えます」昭和四一・三・一八衆・内閣

加藤紘一内閣官房長官「私は伝統に基づいて、そして歴史的にこれだけ長く続いた皇室制度というものは、日本国内だけではなくて、外からも非常に畏敬の念を持って見ていただけるものであろうと思っております」四・四・七参・内閣


女系論の一例

三石久江議員「血統とか遺伝質が男性のみによって伝わるということを信ずる人は恐らく現代では皆無であろうと思います。血統はからそれぞれ等しく子に伝わるもので、系、系いずれであってもその子孫に差はないのです」四・四・七参・内閣

星川議員(社会党所属)「男系の男子日本古来の伝統であるようなお話なわけでございますけれども、アマテラスオオミカミ様は女神様でございまして、それで卑弥呼、これもやはり女子でございまして、その後はずっと平安時代は女系家族なんというものもあったのございまして、男系の男子でなければならないというのは日本古来の伝統ということは言えないんじゃないか」二・五・二四参・内委

受田新吉議員「世界の大きな流れというものを見たときに、昔の古い伝統を今頃持ち出されて、男系相続日本の伝統などというこの議論は、どうも法制局長官としてまずい議論じゃないか」昭三四・二・六衆・内閣


  • 皇室法概論』園部逸夫、P340
  1. 皇室典範』笠原P133

9節 日本国憲法と皇位継承

戦後皇室典範が施行されてから数十年経ち、憲法学上の皇位継承解釈にも変化が現れている。

憲法第二条「世襲」

日本国憲法

二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。


皇室典範

一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。

戦前の皇位継承の資格は『大日本帝国憲法』に「皇男子孫」と明記され、皇室典範を待つまでもなく男系男子に限定されていたが、戦後憲法二条に「世襲」を定めるだけでそれ以上のなんら限定もない。横田耕一は「『世襲』なる言葉に『世一系』を読み込むならば、伝統的天皇の伝統なるものが読み込まれ、『男系男子』といった要請が生じることになる余地があるが、そのような読み込みを行うことには何の根拠もない」と述べている[1]

すなわち憲法二条世襲」は男系・男子、女系・女子いずれをも含むものであり、現在の男系男子継承の法的根拠は普通法である皇室典範にのみに存在する。よって法学の多数説は憲法改正せずとも皇室典範の改正で女性天皇や女系への皇位継承可になると認めており、また政府もそれを認している。

内閣法制局第一部長「必ず男系でなければならないということを、前の憲法と違いまして、いまの憲法はいっておるわけではございません」昭和41年3月18日 衆・内閣

こうした解釈に対し反対論もあり、小島は第二条世襲は皇位継承の伝統を背景とした規定であり、そこで定める「世襲」は女系を含まず、憲法は皇位継承資格を男系男子に限っているとしている。また渋谷秀樹も同様に日本国憲法における天皇の地位が伝統的に継承されてきたものであることを強調して、女性・女系天皇を認めるには憲法改正または投票が必要であるとの見解を示した[2][3]

いずれにせよ民主権を是とする現行憲法下では、皇位継承の順序は民が決めるものである。戦前の皇位継承は「臣民ノ干渉ヲ容レサル」ものであり、国会が審議の対外に置いたのに対し、新憲法は皇位継承の順序を皇室典範に譲っている。これは天皇の地位が「権の存する日本国民の総意に基く」ものであるという民主権の原則が必然的に要請するところであった[4]


  1. 『新版 体系憲法事典』P784
  2. 『新・コンメンタール 憲法 第2版』P36
  3. 皇室法概論』園部逸夫、P317
  4. 『註解日本憲法 上巻(1)』法、P77

天皇制の連続説・断絶説

憲法学では日本国憲法天皇条項と天皇歴史について二つの考え方がある。

①「宣言的規定説」(連続説):明治憲法的な天皇制を排斥しつつ、長い歴史的存在としての「天皇」を存続させるものと捉える見解。

日本国憲法は,民主権という,人類普遍の原理を採用しながら,同時に,
皇の存在を認めた。天皇の制度は,普遍的な原理という立場からではなく,日本
固有の歴史,伝統あるいは民感情を考慮し,尊重するという立場から,必要が
認められ存置されたものである。」『憲法Ⅰ〔第 3 版〕』清宮四郎

日本国憲法民主義を採用したが,天皇制そのものは,連合軍総
の意向もあり(略象徴天皇制という形で存置された。しかし,明治の天
皇制と日本国憲法天皇制とでは,原理的に大きな違いがある。『憲法(第 6 版)』部信喜

②「創設的規定説」(断絶説):歴史的存在としての天皇全に拒否したうえで、から新たに「天皇」と称する存在を創設したと捉える見解。

(略)天皇制に関する基本的なことが,ことごとく,根本的に変化しているこ
とがわかる。天皇の地位についても,その基礎についても,その権についても,
すべてそうである。これらのことは,どれも天皇制に関する基本的なことで,そ
本質を構成するものである。そうしてみると,天皇制の本質根本的に変化し
たことになる。天皇制が変質したわけである。言葉の上では,同じように天皇
いい,天皇制といっても,いままでの天や天皇制と,新しいそれとは,実質の上で,
決して同じものではない。根本的にかわっている。『天皇制』横田三郎

現行憲法は,天皇の地位を民の総意にかからしめ(1 条),天皇国家機関
しての地位を占める場合,国政に関する能』(略)の一切を奪いながら(4 条),
天皇制という制度の役割を『徴』と宣言した。『憲法理論Ⅰ』阪本

連続説、断絶説と言いつつ内実として二つの説に大きな相違が有るわけではない。連続説でも新旧の天皇制の原理的な相違は認めており、断絶説でも天皇制の過去からの存続自体は認めている。両者の違いは新旧の天皇制の共通点と相違点のいずれに重点を置いているかに過ぎない[1]

両者が問題となるのは憲法第2条の皇位の「世襲」に関するものである。連続説、断絶説どちらでも日本国憲法下での初代天皇昭和天皇になるのは共通だが、断絶説では昭和天皇124天皇であることが否定される。断絶説によって昭和天皇初代天皇と確定した以上、憲法での「世襲」、皇室典範の「皇統に属する」とは昭和天皇の血統に属する者の世襲すことになる[2]


  1. 『皇位継承の憲法政治学的考察渡邊(わたる)
  2. 『新版 体系憲法事典』P784

女性差別撤廃条約

国連女性差別委員会(以下、CEDAW)は、2016年に引き続き2024年にも「『皇室典範の規定は委員会の権限の範囲内ではない』という締約日本)の立場に留意する」と前置きした上で「長的な固定観念が背景にある」皇室典範の是正を勧告している。これに対し林芳正官房長官は、日本の皇位継承のありかたは「国家の基本に関わる事項であり」、「皇位に就く資格は基本的人権に含まれていない」ことから委員会に対して削除の申し入れを行い、翌年に対抗措置として CEDAW事務を担う国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)に対して、日本が支払っている任意拠出金の使途からCEDAWを外すようめている。

CEDAWの活動は「女性差別条約女子に対するあらゆる形態の差別の撤に関する条約)」に基づいている。これは国家間の合意である国際法であり、「あらゆる形態」という通り締結は「すべての経済的、社会的、文化的、市民的及び政治的権利の享有について男女等の権利を確保する義務」を負う。その範囲に例外はなく、対国家民間企業、個人のいずれをも問わない。窓口も広く開かれており、一個人が直接CEDAW通報することも可である(ただし日本は個人通報制度に批准していない)。

条約1979年国連総会で成立し、日本は批准を渋る政府に対して市川房枝議員がをまとめて交渉したことで、1985年に批准した。これに伴い、系優先義をとり、日本人である場合のみに子供日本国籍所得を認めていた籍法が両系に改められている。また同様に男女雇用機会均等法が同条約内法の受け皿として制定された。

 日本国憲法 第九八条 

日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを実に遵守することを必要とする。

条約は批准されれば自動的に内的効力が生まれる(「条約の自動的受容」)。日本国憲法でも国際法の遵守が義務付けられており、政府が批准した国際法内法と矛盾した場合にはそれを是正する必要がある。しかしそれをどういう形で是正するのか最終的に判断するのは締結であり、日本の場合は政府、及び違権を持つ裁判所である。ただし国際法である以上、締結が勝手に解釈できるものではなく、国際機関であるCEDAWの了解と是認を得られるだけの合理性、衡妥当性を備えている必要がある。

女性差別条約の締結CEDAW条約の実施状況を報告する義務があり、CEDAWはそれに審し締結に勧告を発する。しかし政府報告書審での最終見解および選択議定書下での見解はいずれも法的拘束力はなく、その勧告を内でどのように実施するかは締結である日本政府の裁量に委ねられている。日本は皇位継承問題の他に、男女賃金格差についてCEDAWから度重なる改善勧告を受けているが、労働基準法を改正するのか、それとも新法を立法するのかは日本政府自由である。

女性差別条約には留保事項があり、条件付きで同条約を締結している国家は多い。日本と同様に王位の男系継承を行っている他は「王位継承法と矛盾しない場合に限る」などと留保をつけており、例えばサウジアラビアは「イスラム法と矛盾があった場合、王は条項を遵守する義務はない」としている。

Saudi Arabia      

  “1. In case of contradiction between any term of the Convention and the norms of islamic law, the Kingdom is not under obligation to observe the contradictory terms of the Convention.

日本留保で締結しているため、留保をつけている他の王室とべることは不可能である。またバチカン市国チベットは同条約に締結していないため、ローマ教皇やダライラマと較することもやはり不適当である。なお同条約には留保を撤回する条項はあるが、留保の追加・修正を規定する条項はない。


憲法十四条「法の下の平等」

第14条 すべて民は、法の下に等であって、人種、信条、性別社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

戦後憲法の14条では「法の下の等」が定められており、1946年国会でも新皇室典範で女性・女系天皇を禁じるのは憲法違反になるのではないか?という問題が広く審議された。法学上の解釈では「そもそも皇統の世襲原理が『法の下の等』の例外であり、皇族は憲法規定の『飛び地』である。よって男女平等に関しても同じく『法の下の等』の例外であり、女性・女系天皇禁止は違には当たらない」という「飛び地」論が当時から現代に至るまで支配的であった。近年の憲法解釈では天皇・皇族が世襲制であることに対する違論は依然としてほとんどない[1]一方で、皇室典範の性差の違説が徐々に増えつつある[2]

大津浩は「天皇制自体が生まれつきの身分又は門地による差別を前提として成り立っているところから、伝統に基づくこれらの差別をすべて合ないし憲法外に置く考え方が根強いが、世襲制以外のいかなる等原則違反もその合理性はないと考えるべきである。性差による継承順は憲法14条に違反し、厳格審基準ないし中間審基準(いずれも違の一種)で審されなければいけない。この点で、伝統の維持や皇位継承に混乱が生ずるおそれなどの理由は差別の合理性の根拠たり得ない」としている[3]

松井茂記は「明治憲法下で男子直系義を定めたのが、天皇は統帥権を持つ軍の最高指揮官であったためであるから、非連続説の立場では女の禁止は現行憲法一条天皇は、日本国徴であり日本国民統合の徴であつて、この地位は、権の存する日本国民の総意に基く』違反というべきである」と述べている[4]

辻村みよ子も皇室典範の形式的不等規定を合理化することはできないとする立場である。世襲原則が憲法14条の例外だとしても世襲原則が当然に性差別を内包するものでない以上、性差別を合理化する積極的根拠が見出せない。女性天皇問題は「女性天皇になる権利」ではないため権利侵の問題ではない。しかし徴としての天皇の地位(形式的・儀礼的な行為だけを行う職)に就くのに性別要件が必然的なものでない以上、このような性別に基づく異なる取り扱いが日本の法制度と慣習上の性差別を助長・温存する機を果たしていることなどからすると、合理的理由のない差別的取り扱いと認めることができる。またあらゆる法制上や慣習上で性別に基づく不合理な差別を排除する国際法女性差別条約に明に抵触すると解される[5]

横田耕一も女性・女系天皇の排除を違する。天皇世襲が皇族という民の中の一部の人々に限定されていることが14条の例外だとしても、その一部の人々の中で不等がある場合、それは等原則に違反することになる。そのため女否定を合とするためにはそれが「合理的な差別」であることが示されなければならず、またそこでは伝統は決定的な理由にはならない。というのは「伝統だから」という理由で差別が許されるとするならばほとんどの差別は容認されることになるからである。新皇室典範作成時に伝統以外で女排除に用いられた論理を挙げると以下のようになる。

  1. 女系が許されないため女は一代限りとなり皇位が不安定となる
  2. の配偶者の選考や取り扱いをめぐって複雑な問題が生じる
  3. 女子事担当力は女子に劣る
  4. 皇族が増えて庫負担が増大する
  5. 君臣の別が混淆する

1については等原則から女系天皇を認めれば問題がなく、2についてはなぜ女の配偶者だけ問題になるのかが説明できない。3については偏見ないし固定観念であり問題外である。4は確かに庫負担の増加は望ましくはないが、男女差別を容認して負担の軽減を図ることは許されないので別の形での解決を考えるべきである。5は封建思想以外のなにものでもない。よって女否定には合理的理由はなく、従って女の排除は違と結論できる[6]

以上のような違論に対しは、天皇制自体がすでに近代立憲主義の例外的な制度であるなかで、性差別という点だけに焦点を絞って議論するのはおかしい。皇室典範は男性差別しているのであり、性差別といっても皇族女子という特殊な身分の者だけに関わる事であり、女性差別条約 第1条「人権及び基本的自由」とは縁である。このような形での天皇制の「民主化」「等化」をめるのは意味がないだけでなく、天皇政治利用を強化する危険な面を持っていると反論している[7]


  1. 『新版 体系憲法事典P458
  2. 憲法 第5版』辻村みよ子、P167
  3. 『新版 体系憲法事典P417
  4. 日本国憲法 第3版』松井茂記、P267
  5. 前掲、辻村P167
  6. 天皇制の構造 憲法学者による解説』「『皇室典範』私注』横田耕一、P112
  7. ファンメンタル憲法』「天皇制と男女平等原則」野中P20

3章 世数と皇位継承


3章では世数と皇位継承の関わりと、世襲誕生の経緯を詳説する。原則として皇位継承者は1世子孫、つまり天皇子供であることが条件であり、2世3世子孫は皇位継承からはかけ離れた存在であった。3世子孫から即位した皇極(重祚して斉明)は敏達の曾孫としてでなく、舒明の皇后という経歴が重視して推戴されたものであり、そので同じく3世子孫の孝徳天皇キョウダイ継承の原則に従ったものであった。大正時代まで天皇の一人に数えられた神功皇后は継体と同じく開化天皇の5世子孫であるが、こちらも仲哀の皇后であったことが重視されたと見られる。また後園と格は嫡流の天皇の養子に入ることで擬制的に1世として扱われている。

過去126天皇の世数

1世(天皇の子) 112
2世天皇の孫) 8代
3世(天皇曾孫 4人5代 皇極、孝徳、斉明、後園、
4世(天皇の玄孫) 0代
5世(天皇の来孫) 1代 継体

「1節 継嗣王宣下」では体制下における皇位継承法を解説する。の継嗣では天皇の5世子孫以下は皇(皇族)にあらずとされていたが、この法文はほとんど最初から有名実化していた。またでは天皇の子女ならば皇位継承権を持つことを意味する「王」号を無条件で得ることになっていたが、嵯峨天皇の時代に「王」になれるのは王宣下を受けた者だけと定められ、その他大勢の子供は姓を賜って臣籍降下していった。王宣下は天皇の子でもなかなか受けられず、まして2世、3世で王になるのはかなり難しかった。しかし鎌倉時代以降、政治的な要因から天皇猶子(ゆうし)(養子)となることで1世子孫を擬制し、世数をえて皇籍に残った皇族が多く生まれていく。やがてその中から領を代々相続する世襲が誕生した。それらのは「皇統御(ひかえ)ノ御」として世数が離れても皇位継承権を持っていた。

「2節 擬制子継承」。世数の離れた「王」は正確には世数を無視しているのではなく、天皇結婚婿養子となるか、天皇の猶子(養子)となるか、あるいはその両方を行なって擬制子関係を結び1世子孫を擬態することで皇位継承権を得ている。この慣習はかなり古くから存在し、古墳時代、それまでの王統と異なる出自であった仁賢天皇は雄略天皇の女を配偶者にしている。また同じく遠戚から即位した継体天皇も仁賢の女と結婚することで婿養子的に前代の皇統を継承している。等が離れたところから即位した中世の後花園天皇近世格はいずれも天皇の養子となることで疑似的に1世子孫として登極しており、天皇の場合は嫡流の内王を娶って婿養子の形にもなっている。

3節 中世世襲」。当初は1世子にのみに限られていた王宣下だが、まず2世以降の内王に、次に出した2世以降の法王に(当時は出した皇族は還俗しても皇位継承権はなかった)、そして鎌倉へ皇族将軍を送るために惟康王が2世孫から王宣下を受けた。そのような流れはどんどん拡され、王宣下は政治的かつ恣意的に濫用されるようになっていき、やがて世襲が生まれていく。世襲誕生の背景には中世に幾重にも分裂した皇統と、門跡(有力寺院の住職)の存在があった。鎌倉時代後期から皇統は2本、3本、4本と次々と分かれていったが、天皇にはそれを1本に収斂させる意向がなかったく、むしろ王宣下によって嫡流でない皇統の保存に努めた。また中世世界では宗教界の権威は無視できない存在である。朝廷は有力寺社を皇室の管理下に置くために皇族を法王にして門跡(住職)に就かせていたのだが、建前上は法王は子供を作れないため、寺社に送る皇族の数を常に一定確保する必要があった。しかし嫡流だけではその数は補えず、皇族の供給として傍系宮が需要された。以上のような時代背景を負って鎌倉時代には四岩倉など小さな宮が生まれ、室町時代には木寺宮常磐井宮など永世的に当王宣下を受ける世襲が誕生していく。

院流と後光厳院流の系譜

天皇栄仁(よしひと)貞成(さだふさ)王┬貞常……伏見……近代11宮
|              └仁親王)
|                   ↓養子
後光厳天皇後円融天皇小松天皇=花園天皇土御門天皇……今上天皇
                    └称光天皇

「4節 伏見の誕生」。旧宮家の先祖であり、21世紀の皇位継承問題で最重要視される伏見もその潮流に乗って生まれた中世世襲の一つである。伏見誕生の背景には、南北朝の動乱の中から発生した崇院流と後光厳院流が互いに正統(嫡流)を奪い合う政争があった。当時、天皇後光厳流に独占されていたが、自らを嫡流と自負する崇院流も正統を奪還する隙をうかがっていた。そんな中で後光厳系が断絶し、崇院流から後花園天皇が即位する。議論となったのは「後園の父親なのか?」である。つまり「後園の父親血縁上の貞成王である(=正統は崇院流に移る)」か「後園のは義の後小松天皇である(=正流は後光厳院流のままである)」かが政治問題となったのである。幕府まで巻き込んだこの論争は最終的に「後園の父親は後小松」と定められ、後光厳院流が正統として続くことになった。そのため今の天皇伏見も血統上は崇院流の末裔であるが、系譜的には今上天皇後光厳流である。その後、後花園天皇実家に対し永世にわたって伏見殿御所を称する許可を与えたことで世襲伏見が誕生する。他の世襲が次々と断絶する中、伏見のみは近代に至るまで存続することとなる。

「5節 近世四親王家」。江戸時代には伏見に加え、有栖川閑院宮(かんいんのみや)が皇統の控えとして存在していた。そのうちの一つ、閑院宮近衛基熈(もとひろ)新井白石の進言によって1710年に誕生した較的新しいであり、血統も近かったこともあり、嫡流が断絶した際には天皇を輩出している。等が離れた身から即位した格は貴族から軽んじられることがあり、本人も傍系であるコンプレックスを抱いていた。

「6世 永世皇族制度」。現在皇室典範では男性皇族は世数をえて永世に皇位継承権を持つと定められている。しかしでは5世以下は皇ではないと記され、永世皇族制度はその慣例に反するものであった。明治初期には伏見を含めた四親王家止が検討されていたが、典範作成会議井上毅が永世皇族制度の導入を提案する。公家グループを中心とした反対は「永世皇族制によって皇族が増えれば皇室財政を圧迫するし、また皇室の体面を汚す皇族が出てくる恐れがある。さらに伏見の血統は既に20世を数え、血統が隔たっている」とし、井上は「は5世から皇でなくなると言っているだけで皇族でなくなるとは書いていない。また五世から即位した継体天皇の前例がある」と述べて対抗した。結局、永世皇族制度は賛成多数(14対10)で可決される。その背景には当時、明治天皇男子が一人しかおらず傍系宮が不可欠であったことあった。しかしその後、大正天皇が四人の男子けたことで再び伏見宮系皇族の臣籍降下が再び議論されていくことになる。

1節 継嗣令と親王宣下

養老の継嗣の皇兄弟子条には以下の条文がある。

 天皇兄弟、皇子は、みな王とすること{女の子もまた同じ}。それ以外は、いずれも諸王とすること。王より五世は、王の名を得ているとしても皇の範囲には含まない。

すなわち天皇の子を1世として5世子孫までを皇(皇族)として認め、6世以降は王を名乗っていても皇ではないとするものである。この「5世」の規定は、応神天皇の5世子孫である継体天皇を意識しているものと思われる。中国の継承法では「五世則遷」といい4世までが同族扱いである。それに従って養老に先んじる大宝継嗣では4世までが皇扱いであり5世孫の継体には皇位継承権はなかった。しかし706年、文武天皇の詔で5世までを皇とするよう改訂がなされる。文武日本書紀の編纂が進行していた時期であり、継体天皇を皇に含めるための改訂だった可性は高い[1]。この際、嫡子ならば6世以降も王名が得られるとしている。729年には嫡子以外の6世王でも2世王(天皇の孫)を娶って生まれた子は、系7世だが系を辿って皇の範囲に入れることになった。徐々に拡大された皇の範囲だが、798年の勅で4世王までを皇とする継嗣の規定に復された[2]

明治維新を迎えるまで合法であったため、これに基づけば法的には世数の離れた宮には継承権がないことになる。ただしこの条文は最初から有名実化していた。体制下でも5世以降の皇が強制的に皇籍を奪われた訳ではなく平安時代に入っても天皇の6世、7世子孫が王を称しており、朝廷が再三にわたって臣籍降下を奨励しても効果は薄かった[2]。それと同時進行で安初期に嵯峨天皇によって「王」号を持てるのは血の遠近にかかわらず王宣下を受けた者に限られるようになり、大多数の皇は臣籍に入るか出を強いられた。

中世には(よつつじのみや)、木寺宮常磐井宮(ときわいのみや)旧宮家の先祖である伏見などが5世の括りをえて王宣下されている。これらの世襲は厳密には世数を無視しているのでなく、天皇の猶子となることで1世子孫を擬制して王となっている。また伏見以外は血統が疎遠になるにつれてフェードアウトしていった。中世世襲が成立した事情は様々だが、その祖は皇位継承有力補でありながら戦乱、政変のために即位できなかったという共通点を持つ。王宣下は王の範囲を減らすためのものであり、天皇の子でも王になれるのはごく一部であってほとんどは出する運命にあった。まして2世、3世子孫で王宣下を受けるのはかなり難しかった。

さていま天子の皇子にてもなくて二代三代の御末にて王宣下るは、一向理にはぬ事也、されどもいづれも天子御猶子の号にて宣下也、しからざるはなき也(『官職難儀』吉田兼右)

二世、三世子孫に王宣下するのは理に合わぬ。天皇の猶子でなかったらありえない」という意味である。伏見宮二代貞成(さだふさ)王(崇天皇の孫)に至っては王宣下を受けたことで皇位をったとの嫌疑をかけられ出を強要されていた[3]

江戸時代伏見宮、宮、有栖川宮、閑院宮(かんいんのみや)四親王家と称され「皇統御(ひかえ)ノ御」として天皇に然るべき皇位継承者がいない場合は、このの中から適当な人物を選び出すこととされていた[4]幕末では有栖川幟仁(かひ)(霊元4世子孫)、有栖川熾仁(たるひと)(霊元5世子孫)と共に、伏見宮貞教(崇15世子孫)が王宣下を受けている。孝明天皇が日修好通商条約の締結に憤り譲位を表明した際、嫡子の宮(明治天皇)にもしものことがあった時は宮の者に頼むとして伏見宮貞教の名前を挙げており、血の遠近は度外視されている。

「幼年之者(宮)ニ譲リ事本意ナキ事、依之(これにより)伏見有栖川中へ譲リ度存(たくぞんじそうろう)」『孝明天皇紀』[5]


  1. 継体天皇と王統譜』前田人、P55
  2. 『皇と賜姓皇』吉住恭子
  3. 『看聞日記中世文化松岡
  4. 近代皇室制度の形成』善高、P1
  5. 天皇歴史07明治天皇大日本帝国西川P42
  6. 天皇はいかに受け継がれたか』歴史学研究会 編、P155

2節 擬制父子継承

天皇は世数・等が離れた者が即位する場合、今上天皇の猶子(養子)となるか、今上天皇に血の近い皇女皇后にして入婿する。あるいはその両方を行なって擬似的に子継承するのが古代からの伝統になっている。中国では同姓不婚(同一系一族間の結婚の禁止)の則があるため、嫡流へ入婿する習は日本の王独特のものである。朝鮮社会中世まではそこまで同姓婚に厳しくなかったが、統一王の王で嫡流への入婿は一度もない。

その先駆者となったのは、雄略天皇春日皇女皇后にした仁賢天皇である。仁賢にとって雄略は父親を殺したであったが、自らの継承を確固たるものにするため嫡流のを配偶者にしたと推察されている。続く継体天皇も相当に遠縁からの即位であったため、仁賢のの手皇女皇后にしている。日本書紀にも「手白髪命を娶せ、下をお授けしました」とある通り、入婿政治的に強い意味を持っていた[1]。継体は自分の三人の息子、宣化、安閑、天皇全員に仁賢のがせ、より嫡流の血の濃度を高めようと図っている。飛鳥時代、3世子孫から天皇になった皇極(斉明)の配偶者は舒明天皇であり、同じく3世子孫の孝徳天皇皇后は舒明天皇の間人皇女である。ただし、この頃は近親婚が基本であったため孝徳に入婿意識があったのかは不明である。

奈良時代天皇は先代の称徳から8等離れた遠縁からの即位となった。仁の父親の施基皇子はの時代に既に吉野の盟約で天皇と擬制子関係を結んでいた。天皇は即位以前に聖武天皇井上皇后を娶っており入婿の形にもなっている。それは彼が皇位継承者に選ばれた理由でもあったが、井上皇后は後の政変でされてしまったため血統を後に繋げることは出来なかった。

江戸時代桃園天皇が嗣子を残さぬまま急逝したので、血統が近いという理由で閑院宮から天皇が即位した。この時も、皇統が閑院宮に移ったとするのでなく、格が後桃園の養子となって嫡流を継いだという扱いであった。格は同時に後桃園欣子(よしこ)王を皇后にすることで入婿も行なっている。ここまで擬制子継承を演出しても等の疎遠さから苦労したことは上述した通りである。欣子の息子たちは皆折してしまったので格の後を襲った仁孝天皇は別の妃が産んだ子であるが、近世桜町天皇以来、皇嗣はから生まれようが正配の「実子」として扱われる習わしとなっていた[2]。つまり仁孝の「実」は社会的には欣子であった。

町  ┌
 |──┴桃園─後桃園欣子
二条舎子        |─仁孝─……今上天皇
           光格

  • 桃園と仁孝の母親は別人であるが、系譜上の「実」は父親の正配とされ、またそれは摂女性皇族に限定されていた。

天皇父親は実際に即位していなくても子が天皇であることを受けて「太上天皇」や「〜天皇」等の尊号が追贈されることがある。例えば守貞王や王は息子がそれぞれ後河、後陽成天皇として即位したので太上天皇の尊号を与えられている。擬制子関係の場合、養との繋がりを重視すれば実に「〜天皇」の尊号は与えられず、実との繋がりも意識した場合は尊号が与えられる。前者の例として後花園天皇の実の貞成王は太上天皇の尊号は貰っていない。後者の例として天皇武系血統に入婿したが、父親の施基皇子に春日宮御天皇の尊号を送って智系血統意識を保持した。


  1. 『継体大王とその時代』「継体天皇の出自とその即位事情」水谷千秋P192
  2. 日本史研究 618号』「近世朝廷における意思決定の構造と展開」石田俊、P128

3節 中世の世襲親王家

宮家成立の時代背景とその役割

平安時代初期に始まった王宣下の制における「王」号は皇位継承者のであり、本来は天皇兄弟と子(1世子孫)にしか与えられないものであった。それが鎌倉時代後半から「王」号の機が変化していく[1]。それ以前から孫女王に対して王宣下はあったが、1274年には後鳥羽の孫の澄覚が法王(出した王)に任じられ男性孫王への初例となった[2]。当時は一度出した法王は還俗しても皇位継承権はなかったため、澄覚は皇位継承とは縁であった。

鎌倉の皇族将軍になった惟康王、守邦王らもまた孫王(2世孫)の王であり、しかも惟康は一度臣籍降下してから皇籍復帰して将軍になるという変わった経歴の持ちであった。異例の王宣下は「王」号が将軍職の権威に必要であったためである。二人に皇位継承がなかったとは言い切れないが、中世的なイエが発達する社会の中で「王」、さらにその中で各皇統によって「」が形成されていくと、「」内で皇嗣の選別が行われるようになり、王号があっても皇位への距離は前代にべてかに距離が開いていた[3]。以上のように当初の孫王への王宣下は内王や法王、鎌倉将軍など皇位継承から離れた人物へのものであった。しかしこうしたことが前例となり王の範囲はどんどんと広げられ、室町時代の中期には世代をえて王宣下される世襲が産まれていく。

中世は、近世四親王家や徳御三家のように「嫡流にもしもの時があった時の備え」という意味合いは薄かった。備えとしての皇族としての役割は孫、曾孫と血が薄くなるにつれその資格を失っていく。鎌倉時代以降に成立していく中世「イエ」社会の中で、天皇も「王」という組みが生まれた。その「王」を構成する天皇上皇、三后(皇后、皇太后、太皇太后)、女院(権威を与えられた内王や藤原女)、斎宮、法王などの門跡(寺院住職)という「王」を補う存在として「宮」が産まれていく[4]

具体的に中世世襲められた役割は門跡(有名寺院の住職)の排出であった。中世には出した法王が寺に入室するようになったが、権威のある門跡寺院の場合、法王は的には子孫を作れないために皇統から新たな皇族を供給してもらわなければならない。中世で門跡寺院の数が増えると必要な皇子の数も増加し、天皇の実子だけでは不足するようになる。天皇としては宗教行事を担当するだけでなく、多くの所領と人員を抱える門跡の地位を他に渡すことは避けたかった。また寺院側としても、寺の権威を保持するために皇族をめた。こうして門跡の供給として宮が必要とされるようになっていく[5]

また嫡流が傍系の血の存続させる意向があったことも宮成立の要因となった。鎌倉時代後半から皇統は幾重にも分裂し、持明院統と大覚寺統が争った。持明院統の中でもまた崇院統と後光厳統に分裂し、互いに嫡流の地位を争っていた。しかし皇族たちは相手の皇統を根絶やしにしようとは考えておらず、むしろ種性を重視し、皇統から外れた皇統も保護・管理下に置くというのが原則であった[6]。初期のである四岩倉も、嫡流の大覚寺統がその保全に努めたものであった。

初期の宮家

岩倉と四

         ┌宮善統─尊王─善成王(→義成)
鳥羽82┬順徳84┼岩倉宮忠成王仁王(→仁)─忠房(→忠房王)良王
    |       └仲恭85
    |
    └土御門83─後嵯峨88┬(持明院統)深草89─伏見92……
               └(大覚寺統)亀山─91……南

大覚寺統の後宇多天皇は、消滅しかかっていた順徳の子孫を護し、その存続を図った。その動機はいくつか考えられ、明と讃えられた後鳥羽上皇の正嫡とされた順徳子孫の種性を自らの王内に取り込もうとしたのかもしれないし、平安時代のように王が参加する議の復を構想していた可性もある[7]。こうした流れの中で中世、四岩倉が産まれてくる。

岩倉宮の祖の忠成王は、元々は関白によって四条天皇の後継に定められた身であった。しかし鎌倉幕府がそれに反対したため、忠成は王号も与えられないまま死んでいった。忠成の息子仁王は大した事績も伝わらず、臣籍降下してから息子忠房をけたのだが、この忠房が当時の貴族日記に「不審」と書かれるほど摂関に厚遇された。忠房は出世を重ねるだけでなく、後宇多天皇によって突如皇籍に戻され王宣下まで行われた。天皇曾孫(三世孫)が立太子する事例は極めてしく忠房は「三世孫王立王例」として後代に伝えられた。忠房は臣籍のから生まれ、生年が分からないため具体的な年間は不明だが、少なくとも20数年も臣籍として暮らした後に王になったことになる[8]。だが忠房の息子王号を受けることはなく臣籍降下し、出世もそこそこに出した[9]

宮の祖、善統は本来は順徳統の嫡流扱いだったのだが、後宇多天皇は上記の岩倉宮忠房が正統だと認識していた。そのため善統の息子は事績もほとんど伝わらず、王宣下もされなかった。しかし尊王の子の善成王は臣籍降下し善成となったものの、当時の貴族から「四宮」と呼ばれ源氏でありながら「宮」として認識されていた。善成は晩年に皇籍復帰と王宣下を望んだが、幕府に「益之由」と却下され、その後出した[10]。順徳の血を残すために存続を許された岩倉宮も四宮も世襲にはなれなかったことになる。

世襲宮家の成立

常盤井宮と木寺宮

亀山┬後多┬後二条─邦良王─木寺宮康仁王─邦恒王─世王─邦康─……断絶
  |   └後醍醐─……
  └常盤井宮恒明─仁親王─満仁─直明王─全明王─恒直王─……断絶

後光厳の時代(在位1352~71)には孫王への王宣下が禁止されたが、その死後すぐに亀山曾孫常盤井宮(ときわいのみや)満仁が王宣下されており、王宣下の基準は極めて恣意的かつ政治的であった[11]。15世紀中頃までには常盤井宮だけでなく木寺宮の邦康王(後二条5世孫)、伏見宮の貞常王(崇3世孫)と代を重ねた俗体(出しておらず皇位継承権を持った)皇王宣下することが制度化され、世襲が誕生していく[12]

常盤井宮の祖、恒明王は皇位継承有力補として単なる王をえた権威を有しており、その子らは孫王でありながらいずれも王宣下されていた。曾孫王の満仁は「孫王の立王、近禁制しおわんぬ」と後光厳に王宣下を止められるも幕府も恒明の子孫には一置いており、後光厳の死後に幕府の圧力で満仁に王宣下がなされる。『後愚昧記』によれば満仁は王宣下してもらうために足利義満を上納したという噂が当時あったという[13]

木寺宮の祖、邦良王は本来は大覚寺統の嫡流であり、叔父の後醍醐の後を継ぐ皇太子であった。しかし南北朝の動乱の中で皇統は後醍醐の血統に移り、邦良の息子で、世後に皇太子になった康仁王は嫡された。だがその後、門跡補不足のために木寺宮邦康がと共に王宣下され、木寺宮王宣下が世襲化された。足利義持ブレーンであった三宝院満済は「邦康は孫王でもないので門跡となる資格がかなり不足しているが、後小松の猶子(養子)として入室することができた。近年この形での入室が多いのは種が不足しているためである」と日記に記している。当時、門跡に入室する皇の不足は、武政権において体制を揺るがしかねない問題となりつつあった[14]

戦国時代常盤井宮と木寺宮は断絶してしまったが、そうでなければ伏見宮と同様に門跡の供給として存続したと見られる[15]


  1. 中世の王と宮斉、P112
  2. 前掲、P131
  3. 前掲、P111
  4. 前掲、P108
  5. 前掲、P110
  6. 前掲、P112
  7. 前掲、P139
  8. 前掲、P125
  9. 前掲、P137
  10. 前掲、P133~134
  11. 前掲、P202
  12. 前掲、P205
  13. 前掲、P169~171
  14. 前掲、P202~203
  15. 前掲、P205

4節 伏見宮家の誕生

後花園天皇の即位

天皇栄仁(よしひと)貞成(さだふさ)貞常……伏見……近代11宮
              
                   ↓養子
後光厳天皇後円融天皇小松天皇=後花園天皇土御門天皇……今上天皇
                    称光天皇

伏見の祖である崇上皇は、南北朝の動乱の最中に南方に拉致されるという憂きに遭った。後に帰が許されるも、その条件として「以後、崇院流からは皇位に就かない」という旨の誓約書を書かされている。しかし崇とその子孫は崇院流こそ「天照大神以来の正統」と自負し続けた。崇息子で強い嫡流意識を持つ栄仁は、後円融、後小松後光厳院流の継承が続く中でも天皇即位を見続けていたが、皇統安定のために直系継承を望んでいた足利義満の意向によって出を強いられている。栄仁の子の貞成も同様に王宣下によって皇位をうかがったという嫌疑をかけられ出を強制された。

そんな中、後光厳院流の称光天皇が後嗣をけないまま崩御した。これにより貞成の息子王が後花園天皇として即位した。貞成はが子の践祚によって崇院流の「皇統再」が念願が成ったと歓喜したが、事は容易に運ばなかった。後園は遠戚からの即位になったため、慣例に従って称の後小松天皇の養子に入ったのだが、後小松崩御後に後園の「父親」は、実の貞成かそれとも養の後小松なのかが政治問題となった。つまり後園は崇院流なのか後光厳院流なのかで解釈が分かれたのである。

室町幕府でも議論は紛糾した。将軍足利義教は「後光厳院流が永続すべきものなら、そもそも子孫が絶えるはずがない」とし後園は崇院流とした。一方で三宝院満済は先述した「以後崇院流からは皇位に就かない」という御告文を取り上げ、後園を崇院流とすることの不可を説き、後光厳院流による継承を取り計らうことが後光厳以来の「武御契約」であると述べた。幕府の結論は「後園は養である後小松息子」。つまり後光厳院流の継続である。これにより貞成と後園の子は社会的には他人になってしまう。

「且つは院(後小松)の御子にならせましまして、いまはら(貞成と後園)を他人におほしめされ、人もさ様に申しければ」『椿葉記』

貞成王は天皇を意味する「太上天皇」の尊号も与えられず、崇院系の復活も果たせず念な結末となった。『皇年代略記』や『本皇胤紹運録』などの系図類は後花園天皇を「後小松院第二皇子」と実子として扱っており、一方で伏見宮が作成した後園を貞成の子とする系図に対して万里小路時房は「ニ然ルベカラザル事也」と批判している。後に貞成は義教の意向で伏見宮から東洞院への移転、及び仙洞御所(上皇の住居)へ近臣の配分もい、武から上皇扱いを受けるようになっていった。さらに後園は養の後小松が隠れた後に、臣の反対を押し切って晩年の実に太上天皇の尊号を送っている。しかしそれで後園の系譜上の位置付けは変わることはなかった。後花園天皇後光厳院流として現在令和天皇まで皇統を繋ぎ、方や崇院系は以後一度も天皇を排出できなかった。

伏見宮家の成立

21世紀の皇位継承問題で出てくる伏見、及び生の旧10宮とはこの崇院系の末裔である。貞成の息子の貞常が、の後花園天皇から永世にわたって伏見殿御所を称する許可を得て以降、代々伏見の者は王宣下を受ける事が常例となる。これによって1947年まで約550年続く世襲伏見宮が誕生する。伏見が正統のである持明院統累世の記典籍類[1]を多く伝えていたことも、継承の客体としてのの核を与えたと考えられる。伏見は独自の所領とそれを預かる臣団を抱え、血統が皇統から疎遠になろうと衰えないステイタスを保持し続けた。

江戸時代伏見の継承

15貞建┬18邦頼19貞敬
   16邦忠

桃園天皇┬17貞行
    桃園天皇   

伏見は以後も嫡流から独立した血統意識を持ち続けた。1759年に伏見は一度断絶し、桃園天皇の子である貞行王が伏見宮を継いだ。桃園の子(1世孫)が当となったことで宮の男系血統は大きく皇室嫡流に近づいたのだが、貞行王が亡くなると宮伏見宮直系継承を頑として譲らず、皇室嫡流の者が宮を継ぐことを強く拒否している。結局、出していた邦頼王(崇12世子孫)が還俗して宮を継承し、伏見の男系血統は再び嫡流と大きく引き離された[2]

明治維新前の伏見は「伏見宮」ではなく「伏見殿」と称し、「(天皇のいる)御所も(伏見がいる)当御殿も同様である」として四親王家でも別格を自負していた[3]


  1. 中世の王と宮斉、P58
  2. 伏見宮』浅見
  3. 天皇右翼左翼』駄場裕P121

宮家の宮中席次

世襲が生まれて問題となったのは宮中席次である。傍系宮将軍や摂関のどちらが席次(身分)が上か、中世では定期的議論となった。

1270年の後嵯峨天皇の代では天皇上皇女院王・法王の順であった。1382年、准后(じゅごう)天皇の勅によって与えられる特別な待遇)足利義満もこれに倣い、人臣にして王の先に立った。しかし准后は立ち位置は必ずしも定まっておらず、後世史料ではあるが『親長卿記』にこの時も議論があったと書かれている。足利義政の時代には准后の義政と伏見宮貞常王(後園の)のどちらを先にするかが問題になり、「義満の先例で既に決まっており准后が上で次が王」と確認された。しかし時の有識者の一条兼良は「確かに三宮(准后)は王より上であるが、現在伏見殿は特別な存在であるので、たとえ准后であっても実際の場では遠慮すべきである」と述べ、この意見は天皇に奏上された[1]

16世紀末徳川家康への惣礼する際に、伏見(くによし)王と准后二条昭実の礼の前後について「申分」があった。家康は「王が先」と裁定したがこの処置はこの場限りのものであった。その後、昭実は記録と『職原鈔(官職の沿革を記述した書)』を提示し「准后の席次が上」とした。だが家康はそれでも「究め難い」として判断を保留し、最終的な決着は禁中并公家中諸法度(んちゅうならびにくげちゅうしょはっと)まで引き伸ばされる[2]

同法には以下のようにあり、その席次は三(太政大臣,左大臣,右大臣)→王(天皇兄弟や子、孫)→前官の大臣(摂)→諸王→前官の大臣(摂に次ぐ格の清)と明確に定められた。伏見は諸王に該当する[3]

二条 三の座次。王の位次は三の下にあり。摂の位次は,三王,前官大臣,諸王。

三条 清の大臣辞任後の座次 辞任後の三の席次は、王より下である。

十三条 摂関門跡の座次。摂門跡は王門跡の次座,摂は,三の時には王の上座たりと(いえど)も、前官大臣は王の次座と定められたるによりこれに准ずる。

後世、傍系から即位した天皇典仁(すけひと)王が天皇の実でありながらただの王であるため摂政や三より席次が下であることを嘆き、に太上天皇号を送ろうとして幕府との間に一悶着を巻き起こしている(尊号事件)[4]

明治以降は皇族には隔絶した地位が与えられ、傍系皇族も全ての族より席次が上となった[5]


  1. 中世の王と宮斉、P192
  2. 天皇歴史5 天皇下人藤井譲治、P284
  3. 江戸幕府と朝廷』高P11
  4. 天皇歴史6 江戸時代天皇藤田覚、P238
  5. 皇后近代』片野佐子、P127

5節 近世の四親王家

江戸時代には伏見宮にくわえて有栖川閑院宮(かんいんのみや)四親王家として皇統を守る役を担った。四親王家は代々当天皇の猶子(養子)となって王宣下を受け、血は離れていても皇位継承権を有していた[1]近世中期以降に何度か伏見の者が皇位継承者補になったこともあり、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟が新政府側の明治天皇に対抗するために東武天皇北白川王)を擁立したという説もある。明治天皇には男子が少なく、仮に嘉仁王(大正天皇)が折していた場合、皇統は伏見宮系に移っていたものと思われる。

豊臣秀吉後陽成天皇の皇子、王を猶子にしていたが、秀吉に実子が生まれたため宮として独立したものである。有栖川は同じく後陽成天皇の皇子、好仁王を祖とし成立した。有栖川はしばしば直系が断絶し、そのたびに嫡流から皇子を迎えて幕末まで存続していた。

閑院宮家の成立

東山113中御門114115桃園116─後桃園118─欣子
    |            └117                       |
     └閑院宮直仁─典仁───────────天皇119─仁孝120─孝明121─明治122

一番最後に成立した閑院宮は、新井白石と前関白太政大臣の近衛基熈(もとひろ)の進言によって生まれた。白石は『折たくの記』で新宮創設の理念と経緯を記している。それによれば徳は神祖(家康)の功徳にもかかわらず、綱と綱吉の二代にわたって世継ぎが得られていない。こうした事態を防ぐためには家康の徳を受け継ぐ他はない。その手段として皇室に新しい宮を作るべきである。現在皇室皇太子以外の男女はみな出してしまっている。一般人ですらもがを持ちたいと思い、息子には財産を、にはぎ先を与えている。まして以上の身分のものでそう思わない者はいない。たとえ皇室の方から申し出がなくても、皇子女が全員門跡に入っている状態を改善しないようで朝廷に仕える義務を果たしているとは言えない。

このを開かれた天照大神の子孫が衰微していては、徳川家康の子孫がとこしえに繁栄できるわけがない。皇子の数が増えても国家財産に大したがある訳でもない。「皇子の子孫が多くなると幕府の不利になる」という意見もあるかもしれない。確かにかつて以仁王旨によって平氏政権は倒れたが、これは平清盛に非が多くて平家が滅亡する時期にきていたのためである。また鎌倉幕府滅亡の折にも後醍醐息子護良親王が活躍したが、彼は一度出した身であり、現在のように出した皇族でも武に不利なことはある。

時の将軍、徳宣は白石の進言を「国家の大計」と受理し、その意見は近衛基熈を通じて中御門天皇に嘉納された[2]。基熈もまた宣に謁見した際に、東山天皇が長年新宮創立を願ったことを将軍に伝えていた。一方で東山の霊元上皇は基熈と反しており、また実子の富宮を祖に新宮を創立しようとして失敗していため閑院宮の創設には反対していた。だが結局、1710年に東山天皇の第七皇子の秀宮直仁に王宣下があり、閑院宮が創立された(宮号が付けられるのは後年)。なお閑院宮の創設は、以後の新宮創設の先例にしてはならないという条件がつけられている[3]

『折たくの記』には白石が皇統断絶を危惧して新宮を創立したとは書かれていない。後年、後桃園天皇が嗣子なく死んだ時、有栖川宮と伏見宮に若い皇族男子が複数存在しており閑院宮が皇統断絶の危機を救った訳ではない。


  1. 天皇歴史明治天皇大日本帝国西川P38
  2. 新井白石宮崎道P183
  3. 『武人儒学者新井白石藤田覚、P141

光格天皇の苦悩

江戸時代に後桃園天皇女児(後の皇后欣子(よしこ)王)だけを残して急死してしまったため、急遽傍系宮から天皇を立てなければならなくなった。四親王家のうちは当がおらず、有栖川宮は当が26歳と若く適当な男児がいない。残された補の伏見宮と閑院宮のうち相対的に血筋が近く、男子が多かった閑院宮(さちのみや)天皇として即位する[1]。傍系にして東山天皇3世子孫という立場から践祚した格は、嫡流との血の縁遠さからかなり苦労をしたことが伝わっている。

「よって御血縁も遠く相なりし故に、諸人軽しめ奉るには非ずといえども、何やらん御実子の様には存じ奉らず、一段軽きようにも存知奉る族もこれありけり」『小夜聞書』

天皇の血脈としては遠くなったことから、公家や延臣たちに実子が跡を継いだ時よりも格を軽視するところがあった。天皇自身も自らの傍流コンプレックスから宣命や宸翰(しんかん)天皇自筆の文書)に自己卑下的な事を書いている。

「兼仁(格)眇眇たる傍支の身にして、辱く日嗣を受伝える事」

「従傍支して皇統を続奉るは」

「愚は宗室の末葉にして」


  1. 天皇はいかに受け継がれたか』歴史学研究会 編、P124

6節 永世皇族制度

現在皇室典範では世数を重ねても皇籍離脱を強制されない永世皇族制度を採用しており、世子孫も皇族の範疇とされている。しかし旧皇室典範作成時には「永世皇族制度は祖宗以来の伝統に反する」と公家出身グループを中心に強い反対運動があった。

近世の宮四親王家伏見宮、宮、有栖川宮、閑院宮(かんいんのみや))のみであったが、幕末になって出していた王方が復飾してきて宮の数は膨れ上がった。そこで新政府は、世数によって皇族の範囲を定めることで皇族の削減を図った。明治3年、四親王家以外の宮は本人のみ皇族で二代より姓を賜って族に列すると定められた。この時点では四親王家には手は付けられず、新宮である北白川宮が次世代に継承するなど改革は底されていなかった。

その後、皇室典範の作成が進む中で四親王家解体案が提起されていく。明治15年、岩倉具視導した内規取調局の「皇族」や三条実美(さねとみ)案では「王より5世に至れば族になる」と記載されており、いずれも四親王家止が提言されている。三条は「皇族の世数を限定することは疎の秩序を正し、尊卑の分を明らかにする。私情で皇を優遇するのは正理をして国体に益するところはない」として永世皇族制度の反対を唱えた。井上毅はこれらの意見に対し「継嗣を広め皇基を固くする」ために5世以下を族に列することは不可とした[1]

明治19年頃の天皇の内論では「新しく王になった四親王家扱いせず」として四親王家以外は原則一代限りの慣例を踏襲した。翌年の会議で「世襲王制止するが、皇族全員は臣籍降下しない」と決まるものの、更に次の年の「枢密院諮詢案」ではその決定が翻され、全ての皇族を永世皇族にする永世皇族制度が記されていた[2]。これに対し三条を筆頭に東久世(ひがしくぜみちとみ)柳原(さきみつ)尾崎三良(さぶろう)京都出身者グループが永世皇族制度について批判を行った。その旨は「永世皇族制度で世の後に至るも皇族となれば、皇室費が増加する恐れがあり、また皇族としての品位を保てないような皇族も現れる虞があり、ひいては皇室の威信も落としかねない。すでに伏見宮の血統は皇位を隔てるに20世を数える。よってゆえに桓武天皇以来の前例に従って臣籍降下条を加えよ」というものである。永世皇族制度が伝統に反することは宮内省の共通見解であり、枢密院議長の伊藤博文宮内大臣土方久元(ひじかたひさもと)法相山田顕義(きよし)、枢密院副議長寺島宗則らも三条らに同調して永世皇族制反対に回った[3]。これに対し井上毅は以下のように反駁した。

  • 過去に五世子孫から即位した継体天皇の例があり、今後同じように嫡流が途絶えた場合は五世、六世といっていられず世の子孫も皇族とすべきである。
  • は「五世から皇でない」といっているだけで「五世から皇族ではない」と書かれておらず、賜姓するともしていない。
  • がいれば皇族の婚姻時にも有用である。
  • ヨーロッパの王でも皇族が臣籍降下で皇族でなくなるということはない。プロイセンホーエンツォレルンホーエンツォレルン・へヒンゲンホーエンツォレルン・ジグマリンゲンなどの傍系が存在する[4]
  • 臣籍から皇位継承した宇多天皇歴史が不都合に思うところである。姓を賜って臣籍に列するならば臣下なのに皇位継承権を持つという矛盾が生じてしまう。
  • 以上のことから多少の支障はあっても皇族の範囲を拡することは皇室の利益となる[5]

井上は女系天皇を典範から除くため、その対案となる永世皇族制の導入は必須だと考えていた[6]。最終的に多数決で永世皇族制の賛成が14、反対が10で永世皇族制度は可決された。

明治天皇はすべての典範作成会議に臨席して一言も発さず始終黙聴していた。しかし数日の後に永世皇族制度を批判していた土方久元を召して「前日の議は等の論ずる所正鵠を得たり」と告げ、永世皇族制度反対を暗に示した[7]。その後も柳原は「皇族遠系ヨリ漸次(しだいに)賜姓」することは「祖宗以来ノ慣例」であり、仮に永世皇族制度を制定すれば源氏平氏をはじめ皇族の数は数万人に昇ることになる。理やり永世皇族制を決めても十年も経たずに必ず典範を改正することになるだろうと警告した[8]

実際にその後、大正天皇夫妻が多く男子けたことで今度は伏見宮系皇族を皇籍離脱させる方策が模索される。


  1. 近代皇室制度の形成』善高、P1
  2. 天皇はいかに受け継がれたか」歴史学研究会 編、P164
  3. 天皇右翼左翼』駄場裕P120
  4. 井上 史料篇第一』「皇室意見」P514
  5. 前掲、、P78、P92
  6. 前掲、歴史学研究会、P165
  7. 『「天皇」永続の研究』東郷茂P172
  8. 前掲、、P92

4章 十一宮家皇籍離脱の経緯

  • 1節 皇族の降下に関する施行準則
    • 臣籍降下の開始
    • 準則の起
    • 波乱の皇族会議
    • 準則の運用
  • 2節 GHQと皇籍離脱
    • GHQ皇室改革
    • 東久邇宮稔の皇籍離脱論
    • 皇族会から皇籍離脱へ
  • 3節 昭和天皇の宮皇籍離脱への態度
  • 4節 古代の臣籍降下と宇多天皇の即位
    • 臣籍降下の始まり
    • 宇多天皇の即位
    • 皇位継承補となった文屋浄三(ふんやのきよみ)(おおち)兄弟
    • 即位後の宇多天皇
    • 皇籍復帰の諸例

「1節 皇族の降下に関する施行準則」。前章でも述べたように皇室典範では世数にかかわらず全ての男系子孫を皇族として認める永世皇族制を定めている。その成立背景には明治天皇男子が一人しかいない状況があったが、大正天皇が4人の子供を産んだことで、血縁の遠い伏見宮系皇族に皇位が回ってくる可性は減少した。そこで宮内省は伏見宮系皇族を臣籍降下させる方針を立て、特に大正時代には「皇族の降下に関する施行準則」を発議する。この準則は世数の離れた伏見宮系皇族に臣籍降下を強制することが可にするものであったため、子孫が皇籍身分を失うことを恐れた皇族たちはその成立に強く反対した。宮内省・元老と皇族の論争は紛糾し、準則は半ば強引に可決されることとなる。この法規により将来的に伏見宮系皇族は全員皇籍離脱することになった。しかしその離脱は機械的に行われるものでなく、伏見宮系皇族でも例外的に皇籍に残る可性が存在したことが摘されている。

「2節 GHQと皇籍離脱」。しかし準則が効力を発揮する前に日本1945年終戦を迎える。戦後日本に上陸したGHQ的は日本民主権のにするため皇室改革に乗り出した。戦前皇室三井三菱などの財閥をはるかえる資産を所有していたが、GHQによって皇室財産凍結収された。伏見宮系皇族は生活するのもやっととなり、十一宮の皇籍離脱が議論されていく。皇族会議では東久邇宮は離脱に賛成し、竹田宮は反対するなど賛否両論であった。内世論でも皇籍離脱を支持するものがあり、最終的に宮皇族は全員皇籍を離れることに決定する。その際、宮内省の加藤進次官は皇族達に対し「万が一にも皇位を継ぐべきときがくるかもしれないとの御自覚の下で身をお慎みになっていただきたい」と告げていたことを戦後インタビューで述懐している。

「3節 昭和天皇の宮皇籍離脱への態度」。昭和天皇は皇族会議の中で、宮の離脱に対し賛成でも反対でもなく中立を貫いていた。天皇高松宮は日記の中で「天皇が皇族と共にやっていくと言うならそうするし、民主主義でやっていくなら皇族には離れてもらう」と言って、態度をはっきりさせない天皇に不満を募らせていた。しかし昭和天皇は皇籍を離れる宮には最後まで深い同情の念を示していた。天皇は「菊栄親睦会」という交流会を催し、その会を通じた旧宮家子孫と皇室の交わりは現在に至るまで途切れていない。その他、大正天皇皇后の貞明皇后は、皇籍離脱のニュースを聞いて「これでいいのです。明治維新この方、政策的に宮さまには少し良すぎました」と述べて「一つお動かしにならなかった」と伝えられる。

嵯峨52┬仁明54┬文徳55清和56┬陽成57
   |    |        ├貞保親王
   |    |        
   |    5859醍醐60……
   

「4節 古代の臣籍降下と宇多天皇の即位」。現在の皇位継承問題で、臣籍身分から天皇に即位した先例として多、醍醐子が注されている。多即位の背景には陽成天皇摂政藤原基経の確執が存在した。基経によって陽成が位させられた後、陽成の子供達が幼少であったため光孝天皇中継ぎとして即位した。この際に臣籍にあった(とおる)が自ら皇位に名乗りを挙げたが、基経は「賜姓されて臣下となった者が天皇になることは前例がない」といって断ったと歴史物語『大』に記されている。中継ぎ天皇となった孝は子孫に皇位継承しないとして子女のほとんどを皇籍離脱させたが、基経は陽成の子に皇位継承させることを嫌い、臣籍にいた源定省多として即位させた。定省の後嗣決定、定省の皇籍復帰、立太子、孝の崩御、多の即位がわずか二日の間に行われたスピード即位劇であった。臣下が登極するという前例のない新儀は基経が権力にものを言わせた結果であるが、過去には天皇の孫で臣籍にいた文室浄三(ふんやのきよみ)(おおち)兄弟に即位がめられた先例もあった。また天皇にはなっていないものの、57年間臣籍を過ごしてから皇籍復帰した兼明(かねあきら)(兼明王)や、臣籍のから生まれて20数年を過ごしたあとに皇籍復帰した忠房(忠房王)なども存在する。

1節 皇族の降下に関する施行準則

臣籍降下の開始

伏見宮系皇族を順次皇籍離脱させる方針は明治に決定していた。井上死後の1907年伊藤博文は「(傍系)皇族が不相応な望みを持つかもしれないし、財政上の問題からも皇族の数を限ることは急務である」「皇室の根幹を強固にするために遠系の皇族を臣籍に降すことは止むを得ざる措置である」と認識し[1][2]室制度調局総裁として臣籍降下の規定を中心にした皇室典範補案を明治天皇に提出した。補案は内閣に審議され、山縣有朋元帥を議長とする枢密院で可決した。永世皇族制度を定めた旧皇室典範は改訂が難しかったため、増補という形で臣籍降下を定めた典範増補が行われた。

一条 王は勅旨又は情願に依り名を賜い族に列せしむることあるべし

第六条 皇族の臣籍に入りたる者は皇族に復することを得ず

増補項義解では、一度臣籍に入った者の皇籍復帰を禁じるのは、一度定まった上下の名分は覆し難いというのが「日本以来の伝統」のためだとしている[3]

上下ノ名分一タヒ定リテ復易スヘカサルカ肇(建)以来ノ通義トス

この増補による臣籍降下は各皇族の「情願」、つまり自由意志に任されており、本人にその意志がない場合には降下を免れていた。だが「世襲財産を賜ふ」などの好条件をつけられても、この増補により臣籍降下した男性皇族は北白川輝久の1名しかいなかった。幕末まで宮中席次が藤原より下位だった宮明治維新以降は隔絶した地位を与えられており[4]、各種特権を授けられた文字通りの王侯貴族の身分をわざわざ捨てようとする者は少なかった。


  1. 近代皇室制度の形成』善高、P135
  2. 天皇はいかに受け継がれたか』歴史学研究会 編、P168
  3. 天皇の掟』鈴木邦夫、佐藤、P84
  4. 皇后近代』片野佐子、P127

準則の起草

1918年大正7年)、波多野直宮内大臣は皇室の尊厳を守り、皇室財政の安定化の上から「現在の(伏見宮系)皇族は、いずれも皇室血縁遠きに付き」「(皇族が多すぎることは)喜ぶべきに非ず」と考え、室制度審議会に皇籍離脱の基準作成をめた。当初は永世皇族制度の止も唱えられたが、後に首相にもなる平沼一郎らが反対して伏見宮系皇族の世数を限る案をした。その理由として平沼は、永世皇族制を止しのように嫡流以外の王族は5世で臣籍降下することにすると大正天皇の5世子孫は嫡流を除いて皇籍離脱してしまうのに、一部とはいえ大正天皇と28等以上も離れた伏見宮系皇族は皇籍に残り続けるという不均衡が発生してしまうことを挙げた。

平沼一郎現在の(伏見宮系)宮皇室血縁遠きに拘はわらす、之を存し置きて、将来は較的血縁の近き方(大正天皇の子孫)を臣籍に降すは不均衡」

施行準則の起者の一人である倉富勇三郎は、伏見宮系皇族を世数で臣籍に下すことは現実的に「到底実行し難」く、仮に実行すれば宮内省は「非常の窮に陥る」と警告していた。そこで皇族の反対を回避するために当初は臣籍降下の対伏見宮系皇族に限っていた案を、大正天皇の子孫にも適用するよう修正した。倉富はこれによって皇族の不満をいくらか緩和できると考えていた。

室制度審議委員会が作成した「皇族の降下に関する内規」報告書は枢密院議長の山縣有朋への提出を経て、枢密院で修正可決される。宮内当局からすれば、皇族の臣籍降下は典範増補ですでに決定済みの事案であり、準則はその運用のための細則にすぎないと考えていたがこれが大きな問題となる[1][2]


  1. 天皇はいかに受け継がれたか』歴史学研究会 編、P200
  2. 波多野直宮内大臣辞職末』永井

波乱の皇族会議

皇族を強制的に臣籍降下させる準則のことを聞かされた皇族たちは強い抵抗の意志を示した。宮内省から準則制定のための皇族会議出席をめられた久邇宮邦(くにのみやくによし)は、東伏見依仁(りひと)閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)伏見博恭(ひろやす)らと共に会議を中止に追い込んで「痛快之至り」と口にしている。皇族会議天皇が下付するものであり、異論なく承認されるのが慣例であった。そのためこの事態を予期していなかった宮内省は各皇族の説得に走らなければならなかった。山も「皇族は時勢を達観して意見を定める必要があり、皇族が自らの利益のために(陛下の意志に)反対したことが世間に漏れれば、皇族の不徳になるだけではなく皇室の不徳にもなる」と訴えかけたが久邇宮の意見を変えることはできなかった。

伏見宮系皇族達はそれ以前から自分達が軽視されていると感じており、宮内省や大正天皇へ不満を抱えていた。久邇宮は、宮内省は「社会主義等論」を採用し皇族を「所謂ありてもよし、なくてもよしと用の長物」として扱い続けているため、今後はどれだけ憎まれようと宮内省と対立していくと断言した。また久邇宮は、宮内省を任命した天皇に対しても「日本天子様の余り神様の如くして、数人に足らぬ余等(皇族)の世話をも御自身御覧にならぬ」と不を覚えていた。他にも「皇族」と自嘲して天皇への反発を強めた東久邇宮稔や、「宮内省が何事も先ず決めて押し付ける」「皇族の自性、個性、人権というものを無視している」とする閑院宮仁が宮内省や天皇への不快感を示していた。当時の大正天皇の病は深刻であり、皇室を率いる家長としての権威は残っていなかった[1][2]

ようやく開かれた皇族会議では子孫が皇籍身分を失うことを危惧した北白川宮成久、香宮(やすひこ)伏見宮博恭が異論を述べ、久邇宮も「(伏見宮系)皇族がおらずとも皇位継承には問題なし」とする山に対し「ここ4,500年を見ても直系が断絶したことが(称、後桃園の)2回もある(故に傍系皇族は必要である)」と皇統の控えとなる傍系宮の役割をした。

「皇嗣に関し憂慮するが如きは杞人、地の崩壊を憂うに等しい」

久邇宮「近世四五年間の御継続を拝するも、直系にして御断絶ありたること二回あり」[3]

  • の発言は「心配し過ぎ」を意味する「杞憂」の語

の発言の背景には、大正天皇昭和天皇も含めて四人の息子がおり、直系が断絶した場合の備えとなっていたこともあった。

大正九年(1920年)時点の三直宮

大正天皇昭和天皇(19)
    ├秩父宮雍仁(18)
    ├高松宮宣仁(15)
    └三笠宮崇仁(5)

会議は不穏な雰囲気となり、評決も採られることなく終了した。当時内閣総理大臣だった原敬の日記には、当日会議が紛糾したこと、また準則が制定されるまでに甚だしい面倒ごとがあったかことが書かれている。

「皇族議を宮中に開かれ余(原)法大臣として出席したり。宮内大臣説明、山も枢密院議長として決議の次第を演説したり。皇族方質問など(しき)に出、形勢穏和ならざりしが、閑院宮は皇族の身上に(かん)する問題故可否の決議なさずして其旨奏上ありたしと議せられ、一人の賛成ありたるのみにて議長は採決せずして其事に取計(とりはから)ふべき旨宣告せられ其れにて終結したり。皇太子殿下昭和天皇)もご出席あり、伏見宮議長の職を執らる。是れにて(はなは)だ面倒なりし皇族降下準則決定せられたり」『原敬日記大正九年五月十五日[4]

会議の後、山階宮(やましなのみや)香宮以外の皇族は、裕仁皇太子も出席した大正天皇の賜餐をボイコットして山激怒させた[5]

皇族達が自分のの利益を念頭に臣籍降下に反対していると考えていた元老たちは種々の場所で憤慨し、西園寺望はその態度を「町人根性」、山は「婦人の愚痴」と評していた。

西園寺の如き(皇族が臣籍降下に反対する)意見は、露えば町人根性なり。の如き事になりたる病根は何処に在るべきや」

波多野「結局自愛着の考えに過ぎない」[6]

日本国民と皇室の関係を密接にし、民同祖挙一姓(天皇民の先祖は同じである)の観念を養い、以て民団結の中心を皇室に置くの美を助長する役割を本来は皇族が担うべきはずなのに、このような態度になっていない」[7]

「(久邇宮に対し)結局グツグツにて要領を得す。全く婦人の愚痴に類することにて致し方なし[8]

結局、波多野は皇族会議で議決していないにもかかわらず「会議でも質問はあったが異見はなかった」と押し通し、大正天皇に施行を奏請した。こうして1920年に「皇族の降下に関する施行準則」が内規として裁定される。その後、波多野宮内大臣を辞職しているが、当時の新聞にはこの皇族会議での失態が辞職の原因であったと書かれている[9]

準則制定の経緯について、邦の私的顧問であった牧野次は、有耶耶のうちに陛下(おぼ)し召しをに強行した点を「実に横暴不遜」と批判し、今後は「暴の擬勅命」が下るに違いないと述べ、そしてこの「悪案」を撤回させるために皇室典範を根本的に改正することを久邇宮に承諾させている[10]。閑院宮仁も戦後回想で当時の宮内省の措置は「下克上」であり「全く言語断」だと述べ、皇族は宮内省に支配される必要なく自性を持つべきだったとしている[11]

仁王宮内大臣なり、宗秩寮(宮内省の皇族に関する部局)総裁なり、はその下僚が、自己の見解を以て、皇族の意志を掣肘するが如きは、全く言語断」


  1. 『久邇宮関係書簡集』P246
  2. 『私の自叙伝』閑院純仁、P116
  3. 天皇はいかに受け継がれたか』歴史学研究会 編、P202
  4. 『原敬日記』第五巻
  5. 天皇右翼左翼』駄場裕P121
  6. 前掲、歴史学研究会 編、P203
  7. 前掲、歴史学研究会 編、P
  8. 波多野直宮内大臣辞職末』永井
  9. 前掲、永井
  10. 『久邇宮関係書簡集』P254
  11. 前掲、歴史学研究会 編、P203

準則の運用

一条 皇玄孫の子孫たる王、明治四十年二月十一日勅定の皇室典範増補第一条、及皇族身位第二十五条の規定に依り、情願を為さざるときは、長子孫の系統四世以内を除くの他、勅旨に依り名を賜い族に列す。

の準則は、現在の宣下王の子孫、現に宮号を有する王の子孫(ならび)兄弟及其の子孫に之を準用す。但し第一条に定めたる世数は、故邦王の子を一世とし実系により之を算す。

「皇族の降下に関する施行準則」は江戸時代末期伏見伏見宮邦を起点として、嫡男以外の兄弟は一代のみの皇族でありその子は族に列する。直系でも5世からは満15歳[1]で原則皇籍身分を失うことを定めている。施行期間の短さゆえに5世規定で皇籍を離脱する者はなかったが、準則に規定された天皇の「勅旨」を受ける前に、次男以下の皇族(伏見宮博信、同宮博、山階宮芳麿、同宮藤麿、同宮萩麿、同宮茂麿、久邇宮邦久、同宮邦、同宮香宮正、東久邇宮師正、同宮常)達は「情願」、すなわち自的に臣籍降下していった[2]

伏見宮邦伏見宮貞博恭王博義王博明王
       ├山階宮麿
       ├久邇宮朝彦親王賀陽宮邦
       |       ├久邇宮邦融王
       |       ├元宮守正王
       |       ├香宮
       |       └東久邇宮稔盛厚王─信
       |
       |
       ├北白川竹田宮恒久王恒徳王恒正王
       |        └北白川宮成久王永久久王
       ├閑院宮載仁仁王
       └伏見宮依仁王

  • 伏見宮邦は崇天皇16世子孫であるが、これを特例として0世とする。
  • 太字は1947年に皇籍離脱した時の宮
  • 第3世代の孫の5世世代は満15歳をもって皇籍を離脱していく。

ただしこの準則に基づく臣籍降下は機械的に行われるわけではなく、皇族会議及び枢密院の議を経て勅裁する必要があり、5世世代でも皇室の状況によっては皇籍離脱しない可性は存在した。準則制定時の枢密院会議でも、準則が単なる「内規」であり「特殊の事情ある場合に対し固より終始一を以てし難きは止むを得さる所」のものなのか、それとも典範に基づいた「皇室」に準ずるなのものなのかで議論があった。結局、準則は実質的に皇室と同等に扱われ、可な限り準則に則ることがめられたものの、例外については柔軟に対応する含みを残していた。5世規定に関するものではないが、実際に頂宮博信や東伏見宮邦に関して例外をめる動きも存在した。準則はあくまで「常例として準拠すへき大体の準則」であり、絶対的なものではなかった。

またこの準則を以て永世皇族制度が止されたわけではなく、1946年宮内大臣説明においても「皇子孫が累世皇族たることを失はざらしむるの義を採っている」と永世皇族制度が再確認されている。東宮御進講(皇太子教育)の教材である『皇室典範増補』においても同じく「世皇族ノの義」と述べられている[3]

準則が成立してから1947年に11宮が離脱するまではわずか27年しかなかったため、結局、5世世代が生まれる前に日本終戦を迎え、この内規の5世規定によって皇籍離脱した者は一人も出なかった。また準則は戦後止されている。11宮が皇籍離脱していなかった場合に準則がどう運用されたかは不明であるが、参考として確認されている最後の5世世代が生まれた1970年代皇室には皇太子徳仁篠宮文仁、三笠宮寬仁、宮宜仁、高円宮仁の若い男性皇族が5人在籍していた。皇族数確保のために6世以降も残るとしたら宮筆頭の伏見が想定されるが、伏見現在男系子孫は断絶している。


  1. 『久邇宮関係書簡集』P253
  2. 波多野直宮内大臣辞職末』永井
  3. 『「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」について』阿部寛

『皇族の降下に関する施行準則』全体の参考文献

2節 GHQと皇籍離脱

GHQの皇室改革

ミズーリ号での調印を受けて日本に上陸したGHQの統治方針は、日本天皇権から民主権の改造することであった。マッカーサー神道政教分離底させ、教育現場からも天皇の神格化教育を排除し、然る後に天皇や皇族が政治経済に関わらない制度作りを進めていく。宮内省の職員も約1/4に減らされ[1]皇室は活動を大きく制限された。一方でGHQアメリカ政府は占領統治の安定化のために天皇制の維持を決定していた。戦後アメリカ以外の連合政府および際世論は、昭和天皇の処刑も視野にいれた処罰、及び天皇制の止をめていたがGHQはそれらの圧力を封殺し、天皇のみならず他の連合から戦犯定されていた皇族たちも一人も起訴しなかった。

知日アメリカジョセフグルー「わがアメリカ)には、神道日本諸悪の根源であると信じている人々がいます。私はそれには賛成しかねます。軍国主義日本跳梁跋扈するかぎり(中略)民の感動性と迷信性に訴えるという方法で神道を利用するでしょう。軍国主義が滅びたとき、そのような力説もまた聴かれなくなるでしょう。神道は必然的に天皇への尊崇を意味するものであり、したがって、ひとたび日本が軍部に支配されない、平和志向の統治者のに守られるならば、神道のもつそういった側面は、再建後の日本において資産となることはあっても、負債となるはずがありません」

GHQしたのは国家神道から国体神道を除いた神社神道への回帰であり[3]天皇政治権力を周到に奪う一方で政に関わらない部分の皇室制度は保全に務めた。戦前の宮中祭は全て持続され、靖国神社や護神社など軍的な大社も、国家距離を置くことと「護」の名称変更を強いられたが、取り壊されることはなかった。男女平等から女性天皇の許容をめながらも日本政府が拒否したらあっさり翻すところにもその姿勢が見える。GHQは「皇族の代数を限ってはどうか」と永世皇族制度の止も提言しているが、これも見送られた[4]君が代に対しても「日本国歌天皇より民衆政府を称賛する国歌に書き換えられるべきである」とするフィリピンや「民主主義の観念や諸国家友愛の観念を具体化した新しい国歌が必要だ」というソ連の意見を退け、君が代の存続を黙認している。「GHQ君が代を禁止した」という説が多く流布しているが、実際禁止はしていない[5][6][7]

GHQ皇室政治力だけでなく経済力も念入りに奪い取った。戦前天皇政治宗教界の頂点であるのみならず経済界でも日本一の資本家であった。有価券も含めた終戦時の皇室財産は15億円、別の調では37億円であり、三井三菱などの財閥とべても桁違いの資産を有していた。当時の実質GNP(民総生産)は200億円であったので皇室財産だけでGNPの7.5~19%を占め、令和5年GDP内総生産)約600兆円から大雑把現在の価値に換算すると天皇は45~114兆円の資産を持っていたことになる[8]。15億と37億で評価額に大きな差があるのは「御料」の評価方法に違いがあったためである[9]。御料とは皇室財産の基礎として皇室が所有していた森林で、その面積132ヘクタールに上る(較として長野県面積が約135ヘクタール)。また以上の資産は全て非課税である。

天皇政治力を削ぎ、日本民主権のにするためには皇室財産を減らすことはGHQの必須案件であった。それは宮も同様で、GHQ1945年10月昭和天皇3宮も含めた14宮財産を調し、1946年5月に彼らの免税特権を剥奪した。これにより大な財産税が宮資産にかかり、宗に及ばずとも多額の財産を有していた宮は多くの不動産や貯蓄を失った。襲で邸宅を焼き払われていた彼らにとっては大打撃である。皇室から各官に贈賜されていた歳費などの支出も打ち切られ、皇族は生活にも困窮した。現在でもGHQによる皇族の財産収が11宮の皇籍離脱の最大の要因であり、それがGHQによる半強制であったという見解は強い。

その後GHQは「今上天皇及び男子兄弟三方の皇族としての存権を確認す」との意見書を日本側に提出する。昭和天皇達3宮の皇族身分は保するが他の11宮についてはその限りではないということである。GHQは11宮の臣籍降下について正式に命を下すことはなかったため、後の判断を委ねられた昭和天皇宮内省は11宮の処遇について会議を始めた。


  1. 『立 昭和天皇 下巻』川瀬至、P271
  2. 皇室典範』笠原、P70
  3. 天皇歴史天皇宗教小倉山口
  4. 天皇高橋紘、P67
  5. 昭和天皇』ハーバート・ビック
  6. 日の丸君が代戦後史』田中伸尚
  7. 日の丸君が代50問50問』歴史教育者協議会
  8. 天皇財閥』吉田裕二P40

東久邇宮稔彦の皇籍離脱論

戦後に傍系皇族が皇籍離脱する流れはGHQの改革が始まる前から一部で始まっていた。最初で最後の皇族内閣となった東久邇宮稔(ひがしくにのみやなるひこ)は、皇族は「封建的遺」であり戦後民主主義には合致しないという思想の持ちであった[1]。東久邇宮は首相辞任後に木戸幸一内大臣に対し、戦争責任を理由に臣籍降下を申し出る。しかし昭和天皇戦争責任問題を間近に控える中、皇族が自らの戦争責任を言い出すことは到底受け入れられないことであった。

木戸幸一「今日如斯(かくのごとき)行動に出らるる時は、混乱に陥るるの算も(せんしょう)ならず」

しかし敗戦の責任を痛感していた東久邇宮は木戸の心配をよそに、新聞記者を招いて自らの臣籍降下の決意を表明した。当初は石渡太郎宮内大臣が記事を差し止めるも、その一週間後、東久邇宮はまたも同様の答弁を繰り返し「(東久邇宮が)他の皇族にも皇籍離脱を期待している」と報じられたことで、宮内省は慌てて火消しに動くこととなる。天皇である三笠宮崇仁秩父宮雍仁、および石渡宗秩寮総裁も東久邇宮に注意を加えた[2][3]

三笠宮「王が戦争責任を感じて臣籍降下を願った結果、天皇にまで戦争責任が及びそうになっている。また臣籍降下をいうことで、他の皇族にも迷惑がかかる」

秩父宮「王の臣籍降下についての言動は軽率で皇族間の結束を乱すものだ」

石渡天皇は全皇族と行動を共にする決意であり、皇族の臣籍降下はよほどの理由があればともかく、そうでなければ許さない意向である」

厳重注意を受けての場で臣籍降下を言うことはなくなった東久邇宮だが、皇族会では同様のを繰り返し「11宮は臣籍降下すべきである」とした。これに対して竹田宮恒徳は「降下は易いが、国歌存亡の際、われわれ皇族には皇族としての何かご奉すべき途があるのではないか」と反論している[4]


  1. 『東久邇日記』東久邇稔P244
  2. 皇室典範』笠原P115
  3. 不思議な宮さま 東久邇宮王の昭和史』浅見雄、P452
  4. 『皇族』小田部雄次

皇族会から皇籍離脱へ

皇族会での議論を元に宮内省でも研究が進められた。論点となったのは「血の遠さ」「皇室強化」「経済上の問題」「政治的理由」の四点であった。特に重視されたのは11宮の血統の縁遠さである。

今上天皇からさかのぼれば一八代も前の貞成王の第二子貞常王がというのだから、現皇室とのつづきからは相当離れたものといわざるをえない」

また皇室強化は「枝葉」を伐採することで皇室の根幹をより強固にするという狙いがあった。11宮の臣籍降下は当時は皇室弱体化ではなく皇室の強化と考えられていた。経済上の理由では、先の免税特権剥奪で皇室として品位を保つだけの支出が難しいこと。政治上の理由として、一民として民の中に飛び込んでいくことこそが皇族としての大きな仕事だとされた。

結局、皇室の意思統一ができないまま1946年11月29日昭和天皇は3直宮を除く伏見宮系11宮の皇籍離脱を申し渡すことになった。この背景には1945年当時、昭和天皇に2人の男児がいる他、天皇3人が控えているため皇位継承が盤石であったこと。

昭和二十二年(1947年)時点の嫡流と三直宮

大正天皇昭和天皇(46)────┬皇太子明仁(14)
    ├秩父宮雍仁(45)      └常陸宮正仁(12)
    ├高松宮宣仁(42)
    └三笠宮崇仁(32)─寛仁(1)

また先述した「皇族の降下に関する施行準則」により敗戦がなくとも伏見宮系皇族がいずれ皇籍離脱する流れであったことが考えられる。内の世論にも「(伏見宮系皇族は)皇位継承者として必ずしも適当ではない。天皇には直宮が御三方も在らせられる。(中略)これだけっていれば皇位の継承にまごつくことはないであろうし、このさい、皇族の範囲を狭める意味から、遠縁の皇族は臣籍に降下させたほうがいい」というのがあった[1]

更に、GHQと折衝に当たっていた宮内省の加藤進次官はGHQ晩皇族止問題を提起すると考え、従長の大金益次郎と共に先手を打って「直宮以外の『血筋からいっても大変遠い御存在で』ある皇族の臣籍降下を申し出ることで、天皇直宮をお守りする」という案を昭和天皇と香皇后に諒解させたこともあった[2]。重臣会議鈴木貫太郎首相に「皇族を減らして大丈夫なのか?」と聞かれた加藤は以下の答弁を行っている[3]

鈴木今日、皇族の方々が臣籍に下られることがやむを得ないことはわかったが、しかし、皇統が絶えることになったらどうであろうか」

加藤皇太子殿下明仁)もいずれ御結婚をあそばされるでしょうし、三笠殿下にも御子息がいらっしゃるのでなんとかなるとは思います」

加藤「離脱なさる宮様方につきましても、これまでの皇室典範からいって皇位継承権を持っておられるのでございますから、皇族を下られるにつきましても、宮内省として全力をつくして十分な生活費をお与えし、品位を保つだけの費用は用意いたすつもりです」

加藤「『万が一にも皇位を継ぐべきときがくるかもしれないとの御自覚の下で身をお慎みになっていただきたい』と(離脱する皇族に)申しあげました」

鈴木は「それでも皇統が絶えたら?」

加藤「万が一にもそのようなことはいと存じますが、それでも絶えたなら、そのときは日本を滅ぼすのですから仕方のないことではありませんか」

鈴木「そこまで考えているのならばよろしい」

宮内省は皇籍離脱する皇族の生活が将来的に困窮しないように一時金の支給をGHQに提案したが「臣籍降下を希望する者、当人の勝手である」と却下される。しかし日本側はり強く交渉を続け、それが原因で臣籍降下が遅れることとなった。最終的に軍籍にあった皇族を除き、合計で474万円(戦後インフレしく較は難しいがおおよそ現在の71億円相当)が離脱する皇族に下賜されることとなった[4][5][6]

1947年10月13日皇室会議では議長の宣仁(のぶひと)王、雍仁(やすひと)王妃子に加え総理大臣、衆参両議長、副議長、宮内府長官、最高裁判所長官らが集まり、11宮の臣籍降下について審議が行われ、全会一致をもって可決される。続けて行われた皇室経済会議では臣籍に降る宮に一時賜金を支出する旨が裁可される。翌日14日、宮内府より告示があり11宮は各宮号を姓として正式に皇籍を離脱した。


  1. 皇室典範』笠原P119
  2. 『香皇后工藤美代子
  3. 祖国青年昭和59年8月号、P22
  4. 前掲、笠原P115
  5. 戦後日本 第二巻 線量と戦後改革』「旧資産階級の落」広田四哉
  6. 『東久邇宮の太平洋戦争戦後伊藤之雄、P330

3節 昭和天皇の宮家皇籍離脱への態度

昭和天皇は11宮の臣籍降下に関して自分の意見を何も出さず、黙認状態であった。自身の命や皇室そのものの存続が不確かな状況でGHQ意が読めないままうかつな発言を慎んだと推測されるが、昭和天皇のあやふやな態度は宮の者を苛立たせた。高松宮は1946年5月日記に以下のように書き連ねている。

陛下がほんとに皇族と一緒にやっていうとう御決心がこの際はっきりせねば臣籍降下のほかなかるべし。即ち物質的にも精神的にも皇族としてなりたちゆかぬ」5/24

「本当に皇室が一つになってやっていくという陛下の御考えならそこから決心してやればよし。また民主主義でいくと決心して皇族を陛下から離すことが天皇の御地位、国体を守るに良いというならそれに底するようにしたがよい(ママ)。要するに長いものに巻かれるに違いないけれど、それをどううまくやるか事務上にあくせくする以上、も少し先に見通しをつけてやるべし」5/31[1]

1946年7月2日の皇族討論会では各皇族が今後の職業や取るべき態度について語り合ったが、香宮王の質問に対し天皇は「徳を磨き徳を以て仁慈の態度に備えるべき」との抽論を述べ、高松宮には「皇族の特権剥奪に対する批評の如き言辞は慎むよう」と諭して討論になったと『昭和天皇実録』は書いている。

昭和天皇は戦中には宮とは疎遠状態であり、特に皇族というだけで政治的な話を持ち込まれることをひどく嫌っていた。高松宮は「万世一系の一つのつながりとして、それでは余りに個人的すぎると思う」「陛下は皇族を何と思って居られるのだ」と不満を書き連ねている。昭和天皇もこれに対して「宮がなにするのか」と反駁している。高松宮は終戦間際に近衛文麿と共謀して、国体護持のために昭和天皇に退位を迫り落飾させるという計画を練っていた。閑院宮載仁や伏見宮博恭は軍部の中枢に座り、強行姿勢で昭和天皇の方針に異議を唱え続けた[2]1946年には東久邇宮成の「皇族たちは天皇の退位に賛成している。退位の場合、高松宮が摂政になるだろう」という発言が報道され、天皇は「東久邇宮の今度の軽挙を特に残念に思召さ」れた[3]

ただし天皇戦後、皇族親睦会を頻繁に開催しており不仲のみが強調されるものではない。実際に、昭和天皇は11宮の臣籍降下へ拒否を明示しなかったものの、最後まで同情的な姿勢を続けていた。1946年11月29日の『昭和天皇実録』には「臣籍降下のやむを得ざる事態につき御説明になる」と記され、正式に宮が皇籍を離脱した後の1947年10月18日昭和天皇皇后と共に表拝謁の間に出御され、元皇族へ勅語を賜った。

永く皇族として衷を尽くされたこと満足に思います。

今後困難なことも多いと思われますが、いよいよ自重せらることを望みます。

その後の食事会ではこう述べている。

の際一言御挨拶を申述べたい。

皇族として皆さんと食事を共にするのは今夕が最後でありますしかしながら従来の縁故とうものは今後にても何等変るところはないのであつて将来(いよいよ)お互いにしくご交際を致し度いとうのが私の念願であります。皆さんもよく私の気持ちを御了解になつて機会ある毎に遠慮なくしい気持ちで御話にお出なさるように希望致します。

茲に盃を挙げて皆さんの御健康と御幸福を祝います。

その後、天皇は菊栄親睦会を正式に命名し、天皇皇后、皇太后を名誉会員として成年以上の皇族、及び皇籍離脱した元皇族、そしてその直系の子一名とその配偶者を会員とした。会員同士の、知識の増進、人格の修養、また必要に応じ相互扶助が会の的とされた。毎一度の例会、ならびに大会が開かれることも決定され、皇籍離脱した当、及び嫡男の席次は皇族の次、諸員の上とされた。


  1. 高松日記 第八巻』
  2. 『皇族』小田部雄次
  3. 終戦後史 1945-1955』井上寿一

貞明皇太后の反応

その他、有力皇族の反応として、大正天皇皇后にして昭和天皇母親貞明(ていめい)皇太后は11宮臣籍降下のニュースを「然として聴きおいでにな」り「これでいいのです。明治維新この方、政策的に宮さまには少し良すぎました」と述べて「一つお動かしにならなかった」と、元皇太后宮職事務管の筧素は伝えている[1]。貞明皇太后は大正天皇が崩じた後も表の政治によく干渉し、昭和天皇と対立することも多い人物であった[2]

しかし貞明皇太后は11宮に冷淡だったわけではなく、宮が皇籍離脱する前年、皇太后は加藤進次官に「臣籍降下なされた場合、皇族様方はどのようになるでしょうか?」と尋ねている。加藤が「今まで通りのお暮らしは実に難しいと思います」と返答すると、皇太后は以下のように続けて11宮のことを慮った[3]

加藤さん、私は言葉のまま従います。私は九条に生まれ、九つの時、中野に里子に行きました。そこでいろいろと農家の暮しを知っております。どんな苦労でも引き受けます。どうぞご心配なさらないでください。しかし、皇族様方はなかなかそうはいきませんよ。びっくりもするでしょうし、いろいろなことも仰しゃるでしょうし、なかなかお分りにならないと思います。どうかじっくり時間をかけ御納得いただけるまであなたがたの方が落ちついて気を長くしてやらねばなりませんよ。私については御一新(占領下の事態)のこと、何も心配はいりません」


  1. 天皇右翼左翼』駄場裕P200
  2. 皇后近代』片野佐子、P196
  3. 祖国青年昭和59年8月号、P23

現在の菊栄親睦会

菊栄親睦会はその後、現在に至るまで継続して開催されている。令和に改元された時に内規が改正され、会員の条件は以下のようになった。

名誉会員 天皇皇后上皇上皇
会員 名誉会員以外の皇族 ex.敬宮愛子篠宮文仁
昭和22年に王皇族身分を離れた者とその配偶者。および将来当の祭を継承する者とその配偶者 ex.伏見博明(博明氏は昭和22年の皇籍離脱時に在命だった)
昭和22年以後に皇籍離脱した者とその配偶者 ex.黒田清子(さやこ)とその夫の黒田小室眞子とその夫の小室圭

②の条件により会員は嫡流の嫡男しか会員として認められず、傍系や、嫡流でも次男やには参加資格がない。ただし数年に一度大会が開かれ、その時は会員以外のも出席している。2022年時点での直近の開催は2020年6月令和天皇の即位をお祝いする趣旨で行われた。これは5年ぶりの開催であり、伏見博明氏は自伝の中で「昭和の頃は定期的に行われていましたが、時代も変わって、今の上皇陛下はお忙しくしておられましたからね」と述懐している[1]


  1. 旧皇族の宗伏見に生まれて』伏見博明、P156

4節 古代の臣籍降下と宇多天皇の即位

臣籍降下の始まり

皇族に姓を与えて臣籍降下させる慣習は奈良時代には生まれており、(もろえ)在原業平(ありわらのなりひら)がその代表例である。初期の臣籍降下は、いずれ時が経てば埋もれてしまう王の名を新しい姓を与えることで残そうとしたものであったが[1]、やがてそこに経済的なインセンティブが加わり、皇族の増加による財政負担を減らすための臣籍降下が増加していった。

男女稍衆(ややおお)し、しく府庫を費やす」『日本後紀

平安時代初期に女御、更衣つまり後宮制度が始まったことで天皇子供の数は肥大化した。嵯峨天皇にいたっては50人にもおよぶ皇子女が生まれたため、814年に卑姓のから生まれた子32人に一斉に姓を与えて臣籍降下させた。これが賜姓源氏の始まりである[2]。「」という氏の由来は、中国の北の太武帝が南王の子に対して北室の拓跋氏と「が同じ」という意味で「源氏」を与えた故事に依る[3]


  1. 三姉妹遠山美都男、P62
  2. 日本の歴史安建都』貞子P197
  3. 公家源氏倉本

宇多天皇の即位

嵯峨52┬仁明54┬文徳55清和56┬陽成57元良王(陽成譲位後に生まれた子)
   |    |        ├貞保親王
   |    |        
   |    孝58多59醍醐60……
   

9世紀後半、陽成天皇摂政藤原基経の関係は冷え切っていた。884年に陽成は病気を理由に退位するが、実施的には基経による位である。正統後継者補には陽成の貞保(さだやす)王や(さだとき)王がいたがいずれも10歳前後であったため、中継ぎとして当時55歳と高齢であった光孝天皇が立てられた。この際に嵯峨天皇の皇子で臣籍降下していた(みなもとのとおる)が「近き皇胤をたずねば、融らもるは」といって自ら皇位に名乗りを挙げたが、基経は「皇胤なれど、姓賜ひてただ人に仕へて、位につきたるためしやある(皇統であっても、賜姓され他人に仕えるようになってから天皇になるのは前例がないことである)」と言って退けたというエピソード歴史物語『大』で紹介されている[1]孝の即位は貴族からの強い反対があり、九条兼実日記『玉葉』には藤原諸葛の柄に手をかけて「反対するものは殺すぞ」と脅したと記録されている[2]儒教では世代から子世代への継承を重視し、世代を遡って地位を継承する逆相続は避けられる。ところが陽成から孝への譲位は二世代も戻った皇位継承であった[3]

光孝天皇が子に皇位継承しないとして「今有るところの男女は皆薄時に居りし時の者なり」と勅して皇子皇女を(斎院であった二人のを除き)全て臣籍降下させた[4]。だが基経の意向により皇統の移動が決まる。正史日本三代実録』によると、臣籍にいる息子源定省皇太子にする案を聞いた孝は「朕の子供は皆、臣の姓を与えた。これは費を節約し民労を安んずるためである。今、閣僚らの理に適った言葉に驚いている」としつつも「自分は孝行息子の定省を可がっている」と言って了承した。『奉昭宣書』によれば多の即位には最後まで根強い公家の異議があった。だが基経は反対意見を押さえ込み、「息子を頼む」という孝の「顧託」に応えたとされている[5]。元経は必ずしも定省を気に入ってはいなかったが、元経ので当時後宮に大きな勢力を持っていた藤原淑子が熱心に定省を推したのでこれに従ったと言われる。源定省の後嗣決定、皇籍復帰、立太子、孝の崩御、多の即位はわずか2日の間の出来事であった[6]

孝の息子の中からを差し置いて多が選ばれた具体的な理由については、孝と女御の班子女王の間に生まれ臣籍降下した息子の中で、多のみが一度も官を持たず経歴を汚していなかったことが要因だと見られる[7]。また鎌倉時代に成立した、王宮貴族の説話集『世継物語』には多の優れた資質を示すエピソード紹介されている。光孝天皇が「わたしが皇位についたらお前たちは何を望むか?」と3人の息子に尋ねた。是忠王は「大弐(太宰府の次官)になって西のを十賜りましょう」といい、是貞王は「東を十五頂きましょう」と答えた。是忠と是貞は多の同であり血統は同格である。孝は二人の志の低さに失望したが、定省王(多)は「立坊(立太子)してお後を継ぎましょう」と言ったという[8]。『大』には「この多)が源氏になっておられたことは世間ではよく知られていなかったのか『王従』と申し上げていたそうです」と書かれており、多がかつて臣籍にいたことは余り有名でなかったことが示唆されている。


  1. 日本の歴史安建都』貞子P266
  2. 天皇歴史 上』ねずまさし、P201
  3. 六国史遠藤慶太、P152
  4. 『綜合日本史大系 史 上一』川上多助、P154
  5. 古代政治史における天皇制の論理河内P258
  6. 日本の歴史05 律令国の転換と「日本」』坂上康俊、P235
  7. 安王』保立久、P50
  8. 『歴代天皇紀』肥後和男、福地重孝、水戸部正男、赤城

皇位継承候補となった文屋浄三、大市兄弟

天皇─長王┬文屋浄三
|        └文大市
天智天皇─施基皇子─王(天皇

臣籍の者を天皇にするという前例のない新儀は基経が権力に物を言わせた結果ではあるが、全く突飛な発想であったわけではなく、称徳天皇死後に天智天皇の孫で臣籍降下していた文室浄三(ふんやのきよみ)(おおち)兄弟が吉備備の推挙を受けて皇位継承者補に上がったこともある。この時の動きはかなり進んでいたらしく『日本紀略』によれば備はまず浄三に申し込んだが固辞され、次にに大を立てようとしたがこれも断られたという。藤原氏から反対意見もあったがその理由は臣籍身分だからではなく、浄三には子供が13人もいてその後継が問題になるというものであった[1]

史実性は怪しいが歴史物語』(12世紀末頃成立)では更に兄弟の皇位継承の話が進展している。それによれば、当時王(仁)を皇位につけようとする勢力もあったが、浄三を推すの方が大きかった。浄三が固く辞退したのでの大に頼んだ所、大はこれを承諾する。そこで藤原(ももか)、永手、良継らは王を東宮(皇太子)にする宣命を作り上げ、当日の宣命使を呼び寄せて大を推挙する宣命を隠し、代わりに王を推挙する宣命を読ませてしまった。大の人々は呆れ果てて言葉もなかったが異論も出せず、はさっさと王を即位させてしまった[2]

その他、藤原麻呂の乱では、仲麻呂は臣籍降下していた氷上焼を「今」として擁立している[3]


  1. 古代の人物③ の落日』「吉備備」大日方己、P128
  2. 全評解』河北騰、P284
  3. 藤原麻呂』仁史、P237

即位後の宇多天皇

即位してからの多には苦労が絶えなかった。『大』によると、陽成上皇はかつて臣籍時代の多に命して舞を踊らせたこともあったため「当代は人にはあらずや。あしくも通るかな(今の天皇は私の来ではないか。おそれ多くも仰々しく通るものであるわ)」と嫌悪感を露わにしている。多も陽成上皇への対抗心があり、日記『寛御記』に「この人(陽成)のわざわいは世間に満ちている」「悪い君にとって益である」と批判を残している[1]多の皇統もまだ不安定で、多がめに息子醍醐に譲位したのは、皇位が陽成の子孫(元良王)に再移動する危険性を排除したものと見られる[2]

執政においても多は即位々に(あこう)の争議によって実権のほとんどを基経に奪われ、基経が生きている間は内裏に入ることすらできなかった。多の日記には勃起不全に陥るほど追い詰められた苦悩が生々しく描かれている[3]

「朕は遂に志を得ず、()げて大臣(基経)の要請に(したが)った。濁世の事はこのようなものである。(ちょうたんそく)すべきである」

「万機を念う毎に寝が安らかでない。以来、玉茎は発らず、ただ老人のようである。精神の疲極によって、この事にあたっている」

基経が薨去した後は一時的に天皇政が再開され、多とその息子醍醐天皇の治世は「寛・延喜の治」と理想化され、後代の模範となった。しかしやがて藤原氏の権勢は天皇古代天皇政は終焉を迎える。


  1. 六国史遠藤慶太、P160
  2. 天皇歴史03 天皇摂政関白佐々木恵介、P68
  3. 藤原氏倉本P179

皇籍復帰の諸例

皇族が臣籍降下した後に皇籍復帰した前例は以下のようになっている。

皇族時代の名前 皇族時代の身位 臣籍降下の年 臣籍降下後の姓名 皇籍復帰の年 皇籍復帰後の身位
和気王 天皇の皇祖孫 755 真人和気 759年 不明
天皇の子孫 764年 山辺真人 774 不明
不破 聖武天皇皇女 769年 真人 772
定省王 光孝天皇の皇子 884年 臣定省 891年 王→皇太子→即位
是貞王 光孝天皇の皇子 870年 臣是貞 891年
是忠王 光孝天皇の皇子 870年 臣是忠 891年
兼明王 醍醐天皇の皇子 920年 臣兼明 977年
盛明王 醍醐天皇の皇子 不明 臣盛明 967年 不明
村上天皇の皇子 961年 臣昭 977年
惟康王 嵯峨天皇の孫 1270年 臣惟康 1287年 王→鎌倉将軍
久良 後深天皇の孫 1326年 臣久良 1330年
教王 伏見宮邦息子 1866年 藤原 1888年 二度の臣籍降下

歴代で臣籍降下してから皇籍を取り戻した年が最も長いのは10世紀に57年間臣籍にいた兼明(かねあきら)(兼明王)である。これは時の権力者の藤原兼通が、政敵の藤原兼家牽制するために、従兄弟藤原頼忠を左大臣にするべく、現職の兼明を皇籍に戻して左大臣の席を開けさせたと言われる。また出世街道に乗っていた兼明を排除する藤原氏の他氏排斥の意味合いもあり、兼明の高明も謀反の罪を着せられて失脚している(安和の変)。なお皇籍復帰する際、兼明王の息子は臣籍に止まっている。

元々は重職にあった兼明だが皇籍復帰後は二品中務卿(にほんなかつかさきょう)の閑職に追われ、政治から切り離された。兼明は『菟裘賦(ときゅうふ)』』の中に「君(くら)くして臣(へつら)ふ(君は暗君、臣下はへつらい)」と当代の円融天皇や兼通への憤懣を書き連ねた後に嵯峨山荘に隠棲し、やがて官職を辞した。

また本人は臣籍降下していないので表にはないが鎌倉時代忠房(忠房王)も注に値する。忠房は順徳天皇曾孫で、臣籍降下していた仁から生まれた人物である。生年が分からないため具体的な年間は不明だが、忠房は臣民として生まれ、少なくとも20数年も臣籍として暮らした後に王宣下を受けて皇族に復帰している。その後、忠房の息子王号を受けることはなく臣籍降下し、出世もそこそこに出した[1]


  1. 中世の王と宮

5章 女帝中継ぎ論(持統〜称徳)


序説 正統(しょうとう)正統(せいとう)

過去の女政治事故が起きた時に臨時に即位する存在であり、然るべき男性天皇が即位するまでの中継ぎ天皇であった」というのが現在の定説であり、批判を受けながらも現代まで有力学説として支持されている。現在では女を「中継ぎ」の一言でまとめることはなく、それぞれの時代の政治事情の中で多様な中継ぎの形があったとされている。女性天皇「中継ぎ」論は近世には既に生まれており、女性天皇が法的に禁止された明治から現在に至るまでことあるごとに世論を沸かせている。

しかし女中継ぎであったというだけでは現在なぜ女性天皇の即位を禁じているかの説明がつかない。過去の女中継ぎなら今後も中継ぎとして即位させれば良いということになる。また過去男性中継ぎ天皇も数多く存在するのに女性のみ中継ぎ性を強調する理由もない。すなわち問題となるのは「女中継ぎであり、男較して力・資質において一段劣り、正統(いとう)ではない二流の存在である[1]」というニュアンスの女中継ぎ論である。換言すれば、女性中継ぎ論とは女正統(いとう)性に関する議論であり、男性天皇を皇統の本質とするか否かの問題である。

歴史用語には「正統(しょうとう)」と「正統(いとう)」と二つの語が存在する。正統(しょうとう)とはいわゆる嫡流のことで、皇統を次世代に伝える天皇す。正統(しょうとう)天皇の子が次の天皇となり、正統(しょうとう)でない天皇はいわゆる「中継ぎ」であり、傍統や(じゅんとう)と呼ばれる。皇統譜を見ると分かる通り、男性天皇でも半数以上が正統(しょうとう)ではない。だが彼らもまた正統(いとう)天皇である。正統(いとう)でない天皇とは東武天皇熊沢天皇のような僭称者であったり、神功皇后のように摂位(暫定的に政務をとる職)である。ただし正統(いとう)天皇は時代によって変わり、神功皇后中世の神皇正統記では正統(いとう)天皇として扱われている。

よって女中継ぎ論は「女は次世代の男子に皇位を繋げる、系譜上の中継ぎか否か(=正統(しょうとう)かどうか)」と「女は形式的に即位しただけの中継ぎであり、男に劣る例外的存在であるか否か(=正統(いとう)かどうか)」は分けて議論されなければいけない。明治以来の皇室典範では「女は仮に即位した中継ぎゆえに正統(いとう)でなくあくまで例外的な存在で、日本に女性天皇制度は存在しない」とされたが、現在の女研究ではそれは否定されている。でも女即位は想定されており、江戸時代までは実際に女が誕生している。明治の女禁止法は「全く新しい法が古き法の名の下に作り出された[2]」ものである。女性天皇は特殊例外的な存在ではなく大王天皇としてめられた力や役割は基本的に男性天皇と同じであった。この仮説を「性差を前提としてない女論」と呼ぶ[3]。一方で女男性天皇男性天皇を繋ぐ、系譜上の中継ぎであることは上述したように現在でも有力学説となっている。


  1. 『女の世紀』仁史、P72
  2. 井上毅と女止論』小林宏
  3. 古代日本の女キサキ遠山美都男、P273

以下では持統、元明、元正、孝謙、そして孝謙が再び皇位に就いた称徳天皇の5代4人の女が、どのように即位して、どのように次の世代に皇位を繋いでいったのかを述べていく。奈良時代は『日本書紀』、『古事記』の編纂時期にあたり、推古、皇極・斉明の歴史記述とも深く関わるため、時間を前後させて解説する。


40天天皇
  |────皇子
41持統天皇    |───44元正天皇
      43元明天皇  42文武天皇45聖武天皇46孝謙天皇

「1節 持統、元明、元正天皇中継ぎ」、「2節 持統、元明、元正天皇正統(いとう)性」。古代日本王位継承の原則はからからなどキョウダイ大王位を繋ぐ同世代継承である。しかし唐王朝のような律令国朝廷は伝統的な同世代継承から中国的な子相承(嫡子直系継承)への転換を図る。特に武の皇后鸕野讃良(ののさらら)(持統)は息子皇子の直系継承に強くこだわっていた。武の後継とされた存在であったが武崩御時にまだ若かったため持統がしばし称制していたのだが、不幸にもはその間に世してしまう。慣例に則れば死後の正統後継者は高市(たけち)皇子など他の武の息子達であったが、持統は直系継承を守るため自ら女性天皇として即位し、息子の軽皇子を皇太子に定めた。これが後の文武天皇である。持統の意志を継ぎ、同じく元明、元正女の孫である(おびと)皇子(武)が「年幼稚」であったため、その成長を待つまでに中継ぎとして玉座に登った。当時の皇統意識を示唆するものに正倉院に収められた作懸侃(くろつくりのかけはきのたち)がある。正統(しょうとう)を示すレガリアであるこのは最初、皇子から藤原不比等に送られ、死後は不等の元から文武天皇に授けられた。文武が崩御するとは再び不等に戻り、首皇子(武)へと受け渡されている。つまり皇室正統(しょうとう)は持統、元明、元正女を飛ばして男子のみに受け継がれていることを示している。

持統から元明の時代は『日本書紀』の編纂が進んでいた時期であり、その中では武-血統を正当化するために様々な虚飾が施されている。例えば書紀では皇子は「皇太子」と呼ばれ次に天皇になることが確定していたように書かれているが、天皇高市皇子を太政大臣に定めが突出した存在になっていないという矛盾が見られる。そのためが本当に臣から後継者と認められていたか不明瞭である。の子、孫の軽皇子や首皇子の皇位継承も保されたものではなく、群臣の中には他の補者を推すも存在した。特に武の母親は皇族ではなく、共に皇族である男子べて血統で劣るという憾みもあった。幼年の子を成長を待つために女中継ぎ即位するという事態はそれまで先例がないものである。古代の皇位継承は常に戦乱を伴い、天皇ですら実力がなければ崇峻や文のように殺されることもあった。そのような状況の中、女性天皇は「仮に即位」した非正統(いとう)天皇ではあってはいけなかった。そのために女達が用いたのは践祚大(せんそだいじょうさい)不改常典(あらたむましじきつねののり)である。大祭は古代から続く大王の神事であり、現在でも宮中祭の中で最上位に置かれている儀式である。持統天皇はこれを天皇の即位(践祚)に結びつけ一世一代の大規模儀式にした。にも定められた践祚大祭により元明、元正らの女性天皇も自らの正統(いとう)性をアピールした。「不改常典」は「天智天皇が決めた」という触れ込みの法文で、詳細は不明であるが天皇が即位の際に用いられることから皇位継承法に関わるものと見られる。元明は天皇になる際にこの常典を引き合いに出すことで、自らが法に則って即位した揺るぎない存在であることを世に示した

「3節 孝謙(称徳)天皇中継ぎ道鏡事件」。孝謙(称徳)天皇古代最後の女である。奈良時代藤原氏の権力が伸長した時期であった。藤原不比等は持統と昵懇となることで皇権力に介入し、不等の子女の藤原兄弟明子(皇后)の時代には藤原氏の権勢は天皇を上回るまでになっていた。聖武天皇藤原氏を持ち、その配偶者にも同じく藤原氏皇后を得た。皇后制度が成立して以来、皇后は皇族女性しか就けない定めであり、臣民皇后は前代未聞のことであった。そのため皇族から反対のが上がったが、藤原兄弟はその筆頭であった長屋王を謀殺して明子を皇后に据えた。藤原氏は次に武と皇后の子を後継者にすることを論んだが健康な男児が生まれてこない。このままでは他の氏族の妃が産んだ男子天皇になってしまうことを危惧した藤原氏は、武と皇后の子だが女子である倍内王を中継ぎにすることで皇位を独占しようとした。倍内王(孝謙女)は後にも先にも例のない女性皇太子であり、一部にその即位を認めない動きも存在した。そのため倍(孝謙)は君臣秩序を示す五節舞(ごせちのまい)を踊ったり、仏教を利用して男女の垣根を越した(変成男子(へんじょうなんし))「祟天皇」になるなどして自らの正統(いとう)性を強調した。

皇后談志を生むまでの中継ぎであった孝謙天皇はお飾りの感が強く、実権は皇后が握っていた。しかし結局皇后男子を産むことができず、武-血統は行き詰まりを見せる。孝謙は、武の孫の天皇に譲位するが、仁も傀儡天皇であり明皇太后とその甥の藤原麻呂が代わって執政していた。仲麻呂天皇権力を蚕食し自らをほとんど皇族として扱うことで、易姓革命の一歩手前まで来ていた。それでも一応はバランスが取れていた政権も皇太后が死ぬと孝謙上皇の挙兵によって仲麻呂は誅殺、仁は位させられた。称徳天皇として二度の玉座に登った女は自らは藤原の血を受け継いでいるという正統(しょうとう)意識が強く、それ以外の者を後継者に認めなかった。孝謙時代と異なり大権を握した称徳の手によって次から次へと後継者補が粛清され皇位継承問題は深刻化した。女から仏教政治を受け継いでおり、その流れで僧の道鏡を寵愛していた。道鏡は皇族のように扱われ、ついには非皇族の身でありながら皇位をうかがうに至る。しかし貴族層の道鏡への反発は強く論見は頓挫した。道鏡事件の要因には、系でない者に皇位継承するくらいならば己が師と仰ぐ道鏡に譲位した方が良いと考える称徳の強い嫡流意識と仏教への強い帰依。そしてその背景には藤原氏が皇族化し、朝廷の中で君臣の区別が曖昧になっていたことがあった。

称徳の代に武系の皇族は大半が粛清されており、女の死後は智の子孫の天皇が即位する。仁が選ばれた理由には仁の妃が武の井上王であったことがあった。井上を通じて女系での血を残そうという論みであったのだが、井上とその息子皇太子も陰謀によって追放され、武-血統は男系でも女系でも後世に繋げられることはなかった。

                新笠
                             |桓武天皇50─……
──────智38施基───49
|                          |他戸王(嫡)
武40文武42武45┬井上后)
                └孝謙46(称徳48)

「4節 智血統への回帰と「新王」意識」。仁の息子桓武天皇智系への回帰を「革命」と捉え、

自らの即位を「新王」の成立とみなした。唐に憧れを持っていた桓武は、中国儀式である郊によって新王の成立をに報告しているが、ここで王の始祖とされたのはアマテラスでも神武天皇でもなく、自らの天皇であった。このような「新王」意識は桓武一人のものではなく、桓武の孫の文徳天皇も郊を行い、仁を天帝に準えている。また桓武の玄孫の清和天皇は十陵四墓制というやはり中国の祖先崇拝を輸入し、天智天皇を皇祖に定め、武から称徳の天皇を全て飛ばして、智系の天皇のみを先祖としてっている。

「5節 道鏡皇胤説」。皇族でないにもかかわらず天皇になろうとしたことで下の反逆者とされた道鏡であるが、『七大寺年表』と「僧綱補任』などの安初期の史料には「道鏡天智天皇の孫」と書かれており、古くから道鏡が皇胤である説が唱えられていた。現代史学ではそれは史実ではないとされるが、道鏡の系譜を遡っていくとニギハヤヒというニニギの兄弟に突き当たり、その祖母は皇祖アマテラスである。つまり神話上は道鏡皇室の男系族ということになる。

1節 持統、元明、元正天皇の中継ぎ

草壁皇子の血統、嫡子直系継承の導入

尼子
  ├────高市皇子長屋
  
   大田皇女

  |  |────大津皇子
40天天皇
  |────皇子
41持統天皇    |───44元正天皇
      43元明天皇  42文武天皇45聖武天皇46孝謙天皇(48称徳天皇として重祚)

持統天皇、元明、元正天皇の3人の女たちは、然るべき幼年男児の成長を待つための中継ぎ天皇であった。元明天皇から元正天皇に譲位するとき、元正は「年幼稚」の(おびと)皇子(聖武天皇)のために即位したと史書にある。だがこれを「神武天皇の男系男子を守るための中継ぎ」と理解するのは不正確である。然るべき嫡流の天皇とは「の血が尊く(当初は皇族の。後に藤原氏を重視)」、何より「皇子の血を受け継いでいる」という2条件を満たす天皇す。皇子とは天皇持統天皇世した息子である。持統はの子孫に皇位継承することを念願としており、持統から称徳天皇までの王権継承は常に皇子の血統を中心に回っていた。同時期に成立した『日本書紀』では血統の正当性を明するため歴史神話の造作が行われており、奈良時代のみならず古代日本の重要人物である。

武以前の皇位継承は同世代継承(キョウダイ継承)と成人継承が原則であり、また皇太子制度、皇后制度が共に未熟なため後継者はほぼ横並び状態であった。だが武-持統天皇の治世に皇位継承法の大転換が行われる。から息子への子直系継承が原則となり、「皇后から生まれた子が立太子を経て次の天皇になる」という嫡流継承、および皇太子制度が整備される。それを補助するために幼男児の成長を待つ中継ぎの女が誕生した。

当時の皇室江の敗北を受けて、内の近代化が喫緊の課題であった。明治近代化がヨーロッパ化をすように、古代近代化とは中国化のことをいう。中国ではの時代に既に「子相承(直系継承)」が確立していたが、嗣が年少などの場合に王のらによって血を伴う継承争いが多発したため、殷王では兄弟中継ぎとして即位する「及」が一時行われた。だがそれは「乱嗣」と呼ばれ王の衰退期あるいは非常時の現れとして『史記』でもはっきりと批判されている。そこで、殷を滅ぼしてった周王では王位継承争いを避けるため「嫡長男の身分を持つものは一人しかおらず、またその身分は生来のもので人為的に変えることはできない」という考えを元に嫡長男継承が確立し、以後の古代中国では皇帝の嫡長男の即位こそ正統と認められた[1][2]日本もこれに倣って直系嫡子継承を導入したのである。

朝廷民間においても嫡子直系継承を定着させようと図り、以下にあるように戸の嫡子が幼年の時はが後見人になることを記している[3](ただし民間では天皇のように女性家長が誕生することはほどんとなく、依然として兄弟継承を続けていた)。

「問、有嫡子幼君、若為処分。答、嫡子幼弱者猶為以」『集解』戸条「古記」

武-持統日本書紀の編纂が始められ、その中で子直系継承が「伝統」化された。最初期いわゆる欠史八代天皇子継承の一本の直線で結ばれた。そして持統が子継承原則以上に執着したのが血統の継承であった。持統、元明、元正の三女系男系男子の嫡流継承を安定化させるための即位である。持統は皇子血統を存続させるために多岐にわたる手段を使い、元明、元正天皇の即位は皇后未経験の女息子からへ、からへの継承など異例づくめであった。


  1. 日本古代社会における王位継承と血縁集団の構造』官文娜
  2. 日本書紀研究 第三十冊』「記紀の成立過程について」神崎勝、P34
  3. 奈良時代政治と制度』亀田之、P269

草壁皇子は皇太子だったのか

日本書紀』には天皇は自らの息子智の息子6人を吉野宮に集めて皇子の皇位継承を約束させ(吉野の盟約)、その数年後、皇太子に立てたとある。かつては皇子が皇太子であったことは疑う余地のない史実だと思われていたが、荒木敏夫がの立太子を疑問視したことで議論が起こった。またを次期後継者に推したのは武か、それとも武の死後に政争を勝ち抜いた持統かでも説が分かれている[1][2][3]

天皇皇太子であるに「万機を(ふさねをさ)めしめたまふ」とあるが、同時に大津皇子にも「政を聴こしめす」と命じており、後継者名に混乱を生じさせている。大津皇子の母親智の大田皇女であり、血統の尊さではと同等であった。奈良時代に成立した『懐藻』によれば大津は身体・貌が逞しく、自由奔放な性格で規則にとらわれず、幼いころから文武両に秀でたという。武死後、大津謀反の罪で殺されてれしまう。これは息のを即位させるための持統の陰謀だったというのが現在の定説である[4]。または皇族でないものの高市皇子は申の乱で功績があり、戦後の臨時軍事政権ではほぼ皇太子として扱われていたため大津に次ぐ皇位継承の有力補であった[5]高市は持統では後皇子尊(のちのみこのみこ)と呼ばれ、太政大臣に任命されている。「皇子尊」は皇子の尊称であり、また当時の太政大臣の前例は皇太子時代の大友皇子弘文天皇)のみであった。以上のことを踏まえると、において隔絶した後継者補ではなかったと結論できる。

荒木敏夫は「立太子」や「皇太子」という言葉は、持統期に成立した飛鳥浄御原以降のものであるとし、皇子が他を圧倒する後継者補でありえたのか?(が立太子した)武十年時点で持統の専権が想定できるのか?皇太子ならなぜ大津皇子の「聴政」体制が許されたのか?と疑問を呈した。皇太子でなかった傍に、武時代の皇冠位明浄位十二階制がある。ここで「皇太子」のは「浄広」を授けられている。天皇越的な位であり、後にで法的に皇太子と定められた軽皇子や首皇子が冠位の対外になっていることを考えるとその間には大きな一線がある。ただし大津皇子の冠位はより低い「浄大貮」であり二人に格差が付けられていることは、皇太子制度の前を思わせるものがある[6]

荒木を受けて、大平聡はの立太子は「日本書紀撰上の最終段階での論理的必然性から加筆修訂、もしくは創作された結論」であると摘した[7]。義江明子も荒木に賛同して、(元明)が皇太妃になったのは彼女が「皇太子」のの妃であったからでなくその逆で、を皇太妃にすることによって「皇太子であり天皇に準じる存在であった」ことが、後追い的に"史実"として示されたとする[8]本間満の「万機を摂めしめたまふ」と大津の「政を聴こしめす」の矛盾がどこまでいっても付きい、どちらか一方を虚構とするならばの方であるとする。の立太子は①など法的根拠の裏付け、②東宮-宮坊という東宮(皇太子)官人機構、③都制による居所としての東宮という制度史的な3つの要素が欠落しており、「皇子尊(このみこと)」や「日並知皇子尊(ひなみのみこのみこ)」という不自然な後世的名称の存在や、次項で述べる作懸侃(くろつくりのかけはきのたち)の内容についての虚構性を見ても史実とは考え難い[9]

一方で藤原宮出土木簡して「皇太妃」と書かれているものがある。これに対して木本好信は「皇太妃の尊称は皇太子であったの在世中からあり、それが通称化して持統、文武になっても称され続けたのではないか」と摘した。本間満はこれに反論し、木簡には「慶元年」(文武と元明の時代)とあり、『続日本紀』の大宝元年(文武の時代)の条にも「皇大妃」とあるが、これ以外に「皇太妃」の称が在世中まで遡る史料がないので認められないとした[10]

遠山美都男は持統中継ぎ説を否定する観点から、『日本書紀』でが「立太子」されたのは将来の皇位継承に向けて執政経験を積ませようとした試みを表現したもので、執政の実績年齢的な成熟を重視された当時の皇位継承理念からし武死後の正統後継者は持統天皇であり、病気になろうがなるまいが武の次に即位していたのは持統であったとしている[11]


  1. 吉野盟約の意味』大平
  2. 持統天皇藤原不比等土橋寛、P3
  3. 持統天皇貞子P161
  4. 北山茂夫
  5. 奈良時代木本好信
  6. 日本古代皇太子荒木敏夫、P167
  7. 日本古代皇太子制度の研究本間満P200
  8. 古代王権論』義江明子、P198、207
  9. 前掲、本間
  10. 前掲、本間P211
  11. 古代日本の女キサキ遠山美都男、P124

黒作懸侃刀

当時の皇統意識を明示するものの一つが皇子が持っていた作懸侃(くろつくりのかけはきのたち)である。このは最初はから藤原不比等に賜られ、皇子の息子の文武天皇が即位すると彼に献上された。このは代々嫡流に送られるとされるのだが、文武の後は再び不等を経て、今上天皇の元正を飛ばして皇太子の首王(聖武天皇)に授けられた。

勝宝八歳六月二十一日

右()、日並皇子(ひなみのみこ))、常に佩持(ばいじ)せられ、太政大臣(不等)に賜ふ。大行(たいかう)天皇(文武)、即位の時、すなわち献ず。大行天皇、崩ずる時、また大臣に賜ふ。大臣、薨ずるの日、さらに(のちの)太上(だしやう)天皇武)に献ず。

文武首(武)と受け継がれていることから、皇位は女を飛ばして文武天皇から聖武天皇への継承されたという認識だったのである。

これに対して仁史は、作懸侃の伝世が記載された奈良時代の『東大寺献物帳』は、不等の孫の仲麻呂の権力が確立した時期であり、そこには不等の事績顕のための潤色が入っていると摘する。皇子薨去直後は足の子孫でない中臣大嶋や意美麻呂などが中臣氏(藤原氏)の氏上的地位にあり、不等は決して立つ存在ではなかった。そのため「不等は皇子に皇位継承について語事を託された」とするこの文書を文字通りに信用することはわれるとする[1]

本間満は「日並皇子」や「太政大臣」の名称がが死んだ持統三年当時のものとは思われず、と不等の接点を具体的に示す史料はこの伝承の内容以外に存在しないことから、このの伝承は皇后、孝謙天皇、仲麻呂が「皇子と不等はしっかり結びつけられていた」と世間に示すための造作であるとした。奈良時代中期は仲麻呂が権力を握り始め、不等が撰上した養老が施行され、皇子に対して「宮御天皇」と追号していた時期であった。の伝承は当時の天皇にとっても甚だ好都合の内容であり、仲麻呂がこれを利用して「皇統意識」を創設したと考えられる[2]

また同じく正倉院宝物で皇位継承に関わる可性が摘されるものに漆文欟木御厨(せきしつぶんかんぼくのおんずし)像などを収める棚)がある。これは武→持統→文武→元正→武→孝謙と元明を除いて女性天皇にも受け継がれている。元明が飛ばされているのは彼女だけは武-持統の直系ではなかったからというのが定説である。さらに孝謙天皇は自らの代で武系が断絶することが自明であったためこの子を東大寺に献上したとも推測されている。米田雄介は「本子が持統・元正・孝謙の各女に伝えられていることに着して系制や双系制の観点からの摘もある。ただ筆者はそのような視点からの理解に至っていないので、問題があるということだけを摘しておきたい」と述べている[3]


  1. 藤原麻呂』仁史、P171
  2. 日本古代皇太子制度の研究本間満P210、217
  3. 『正倉院宝物と東大寺献物帳』米田雄介P111

即位可能年齢

「幼年の男子が育つまでの中継ぎ」の幼年とは具体的に何歳をすのか。天皇に即位できる年齢には諸説があるが、孝徳天皇息子の有間皇子が謀反を勧められた時、配下の者がこう諌めていることが参考になる。

「方に今皇子、年始めて一九、未だ成人に及らず。成人に至りて其の(いきおい)を得べし」

19歳は成人と認められず、推古即位時の厩戸皇子聖徳太子)やの変の時の中大兄皇子は共に19歳であり即位は難しかったことが分かる。

また即位前の天皇が「私は年齢が足りないから女が即位してください」と安閑天皇皇后である春日山田皇女に登極を勧めている。

(おのれ)幼年(としわか)識浅(さとりすくな)くして、未だ政事に(なら)はず。山田皇后、明かに(もものまつりごと)に閑ひたまへり」

当時の明は日本書紀では30歳だったがそれでもまだ熟年の年齢ではないという認識があった(この出来事が明の謙虚さを示すための潤色の可性もあるが)。古事記では21歳となり若年と言える年齢である[1]

史は継体から持統までの古代天皇の即位年齢を後世史料も含めて以下のように推定した[2]

継体:58歳
安閑:69歳
宣化:69歳
明:39歳
敏達:35歳
用明:46歳
崇峻:36歳
推古:39歳
舒明:37歳
皇極:49歳
孝徳:50歳
斉明:62歳
智:43歳
武:43歳
持統:46歳

持統以降の天皇の即位年齢は以下になる。

文武:15歳
元明:47歳
元正:36歳
武:24歳
孝謙:32歳
仁:26歳
称徳:47歳

仁:62歳
桓武:45歳
:33歳
嵯峨:24歳
和:38歳

持統、元明、元正、孝謙らが中継いだ相手の男性天皇が飛び抜けて若いことがに付く。嵯峨天皇が若年なのは平城天皇の病によるもの。平安時代中期になると皇位も安定し、やがて幼年の天皇も産まれていく。


  1. 日本の歴史古代王権の展開』吉村、P94
  2. 古代王権論』義江明子、P186

中国の「臨朝称制」との比較

野讃良(ののさらら)(持統)は武の死後に数年間即位せずに「称制」という形で執政していた。また史書には明言されていないが、元明女も文武の死後の短い期間に称制を行なっていたと摘されている。古くは幼い息(応神)に代わって政務を執った神功皇后や、たちが皇位を譲り合っていた間に天皇業を代行していた飯豊皇女も称制に該当するとされる。称制とは中国皇帝が幼い場合に皇太后(先の妃)が皇帝の代わりに詔を出したり政治を担う行為をし、「(皇太后)臨称制」とも呼ぶ。理念的に女性政治参加が嫌われた中国であるが、幼を後見する皇太后の例は広い時代で数多く見られる。その先駆けとなったのは前漢の初代皇帝劉邦の妃、呂后(呂太后)であり、これを先例として続く王後漢、北、唐でもその存在が確認できる。

中国日本の称制のあり方は2つの点で大きく異なっている。一つは中国では皇太后が称制する間も皇帝が存在しているのに対し、日本では称制中は天皇は不在であった。河内人はこの違いを「すでに制度的に完成の域に達している中国皇帝システムと、この段階ではいまだ形成途上にある古代天皇制の質的差異」と述べている[1]。また中国では称制する皇太后が女性皇帝になることはないが、日本では女性天皇になるが存在したことである。中国では女性に皇位継承権がない上に同姓不婚(同族間での結婚禁止)の原則があったため皇太后は必ず非皇族である。ゆえに称制する皇太后がどれだけ権力を持っていようが女性皇帝になる可性はなかった(一の例外である女性皇帝武則天は唐の姓「」とは異姓であったため、彼女が即位した際に唐は一時的に滅びることになる)。


  1. 『王権と信仰の古代史』「智「称制」考」河内人、P106

2節 持統、元明、元正天皇の正統性

軽皇子(文武)と首皇子(聖武)の立場

中継ぎ論では「持統、元明、元正天皇とは仮摂であり、然るべき男系男子の軽皇子(文武天皇)や首皇子(聖武天皇)が育つまでの中継ぎ」とされているが、皇太子制度が未熟だった当時にあっては軽皇子も首皇子も「然るべき男子」と確定していたわけではなかった。高市皇子のように政治力のある他の武の息子もおり、天智天皇の子孫もいる。当時の伝統的皇位継承法(同世代継承と成人継承)に従えば、彼らの方がよほど「然るべき男子」であった。

当時の王権はまだ不安定で、天皇といえど孝徳のように臣から見捨てられたり、最悪の場合は崇峻天皇のように殺されることもあった。なにより武本人が一皇族の身分から今上天皇を弑逆して皇位についた人物である。天智天皇の後を受け継ぐ「然るべき男子」は当時の兄弟継承の慣行に則れば武であった。だが智は伝統に背き、子継承で子の弘文天皇に皇位を譲ってしまったため申の乱が発生した。

この時期に「女が皇位に昇り、幼年の男子の成長を待つ」というという過去に一度も前例のない継承を保してくれるものはなく[1]、まして元明、元正天皇皇后(大后)未経験というこちらも前例にない女となっている。武と持統は吉野の盟約で他の皇子に血統の継承を約束させたが、それもどこまで信用できるか分からない。『懐野王小伝』によれば皇子の薨去後に後嗣を決める会議で、削皇子が異議を唱えようとして野王(かどのおう)から叱責されている[2]

時に群臣各私好を(さしはさ)みて、衆議紛紜(ふんうん)


野王「の法では神代以来、位は子孫が相承していて、兄弟におよべば乱がることになる」

  • この野王の発言は上述した中国の皇位継承法、「子相承」と兄弟「乱嗣」が念頭に置かれている。

削は同の長皇子を皇位に推そうとしたと見られ[3]、軽皇子(文武)が後継者であることはけして自明のことではなかった。

また元明、元正が中継いだと言われる首皇子(聖武天皇)の即位も臣の賛同を得ているものではなかった。当時の皇位継承法では嫡流の天皇共に皇族であることがめられており、非皇族のを持つ天皇中継ぎにしかなれなれず、藤原宮子から生まれた首皇子の血統は卑しいと見られていた。天皇も正当な皇位継承者は母親が皇族でならねばならないとし、非皇族のであっても敬う必要はないと詔して違反者には処罰まで行っている。

諸王は、(いえど)も、王の姓に非ずは拝むこと(なか)

更に藤原氏の伸長を快く思わない皇族・族もいる。そこで藤原不比等は文武天皇(ひん)(妻の位の一つ)であり、名家出身であった紀竈門(きのかまどのいらつめ)石川(いしかわのとねのいらつめ)の号を落とし、首のライバルになりうる彼女息子の広成皇子、広世皇子(同一人物説あり)を臣籍降下させた。また不等は実際に軍事衝突が起きる可性も予期し、元明天皇の即位の四日後に舎人寮(たちはきのとねりりょう)天皇衛軍)を創設して首皇子反対の動向に備えている[4][5][6]

異例の即位となった元明は心穏やかでなく、即位の際に御名部(みなべ)皇女が女に向けて詠んだ万葉歌にその不安がはっきりと現れている。

わが大王(おおきみ)物な思ほし皇神(すめがみ)のつぎて賜へるけなくに(わが大君よ、何もご心配はいりません。皇祖の神が大王についでお与えになった私がおりますものを)

松尾は元明は大王督を相続していない皇子の皇太子妃であり、「前例のない皇太子妃を即位させるよりも、武の別の皇子や皇孫に譲るべきである」という元明登極への強い反対が背景にあったと分析している[7]


  1. 古代の時代』小林敏夫、P139
  2. 北山茂夫、P268
  3. 持統天皇』直木孝次郎
  4. 持統天皇貞子P165
  5. 奈良時代木本良信、P11,16
  6. 藤原不比等上田正昭、P163
  7. 奈良県立万葉文化研究者コラム『万葉歌の魅力をさぐる⑧』松尾

践祚大嘗祭と不改常典

このような状況にあって持統達は女であろうと「絶対に揺るぎない正統な天皇」であることを広く認めさせなければいけなかった。そこで利用したのが践祚大(せんそだいじょうさい)である。令和天皇が即位する時にニュースで頻繁に報道されていたように、大祭は天皇の正統性を明する、宮中祭の中でも最上位に置かれる儀式である。儀式自体は古代から行われていたが、これを天皇の即位に結びつけたのが持統天皇である。から大祭の大規模化が図られ、持統天皇の代で史上初めて大祭が一世一代の儀式として行われた。これを古代の大祭と区別して践祚大祭 という。

文武天皇の代で大宝が制定され、践祚大祭は成文法となった。以後、践祚大祭は即位式と並んで正統な天皇には必要不可欠なものとされた。中世には一時断絶期があったものの、江戸時代復活現在に至るまで厳かに営まれている。

天皇即位したまわん時は惣べて天神を祭れ。散斎一月、致斎三日。其れ大弊(おおみてぐら)三月の内に修理し、訖えしめよ」

そ大は、世毎に一年、国司事を行え。以外は年毎に所事を行え」

元明天皇は史上初めてに則って即位した初代天皇であった。この儀式を経て持統、元明、元正天皇は自らの正統性をアピールした[1]

不改常典(あらたむましじきつねののり)元明天皇の正統性をみる説もある。不改常典は元明から桓武天皇の即位の時などに引用される宣命であり、その内容についてはが多く、大きく分けて近江説と皇位継承法説がある。皇位継承法説にも嫡子継承法説や、天皇藤原の共同統治説などがある。また現天皇の後継者決定権を規定するものであった可性もある。それまでの天皇は群臣から推戴されるのが慣例であったが、現天皇の後継者の決定に強い権威を持たせることで、文武から名された元明の正当性を強調する狙いがあった。8世紀前半には即位の宣命は長々と即位の経緯を説明していたが、桓武天皇は「天智天皇の不改常典に従い、(先代の)天皇から皇位を受けた」と簡潔に自らの正統性をしたこと[1]もそれを傍している。

不改常典は天智天皇が定めたとされるが、元明以前の天皇においては何らふれられていない。もし智が本当にこの皇位継承法を定めたのならば、武力で皇権を握した武の行動は常典の原則を踏みったことになる。武を例外に置くとしても、不改常典で皇位継承法が明文化されていたら吉野の盟約で皇子の皇太子擁立を他の皇子に確認させる必要はない。また死後に後継者を巡って「衆議紛紜」するはずもない。結論として、実際には不改常典は元明が智に仮託して創作したものとするのが妥当である[2]


  1. 日本通史 古代4』吉田孝、大清陽、佐々木恵介、P6
  2. 藤原不比等上田正昭、P101

女帝の執政

飛鳥時代後半から奈良時代前期は日本体制を形成していく過程にあった。その中で持統、元明、元正は政治に深く携わり、譲位後も太上天皇として新天皇の後見役として大きな役割を担った[1]。とりわけ持統はでは夫と共治体制を取り、夫の死後は天皇大権を握し称制し、死後は実際に女性天皇となり、譲位後は太上天皇として文武を後見するなど生涯を通じて政の中心にあった。武は政治パートナーとしての持統を重用し、申の乱の折には共に軍隊を差配し、死の際には下のことは全て任せるようにと言い残している。

申の乱の記述:「鸕野は6726月に、大海人皇子(武)に従って東に危難を避け、軍衆を集結させ、共に謀計を定められた。そして勇敢な兵士数万人に諸々の要の地に配置するように命じられた」

持統立后時の記述:「鸕野が皇后になられた。皇后は最初から(武)天皇を補佐して下を治めてこられた。天皇の執務のさいにはつねに助言され、天皇政治助けてこられた

天皇の遺詔:「下のことは大小となく、ことごとく皇后および皇太子に申せ」

文武が成長すると持統は孫に譲位するが、文武の即位年齢15歳とこの時代にあってかなりの若年であったため、持統太上天皇が強力なリーダーシップを発揮し、持統と文句が並んで下を治めていたことが『続日本紀』に書かれている。においても太上天皇の地位は天皇と同格にあり、譲位後の持統や元正の地位は法的にも保されていた[2]

(かけま)くも(かしこ)藤原宮に倭根子天皇(あめのしたしらしめすめらみこと)(持統)、(ひのととり八月(おすくに)下の業を、日並知皇太子(ひなめしのみこのみこ)皇子)の嫡子、今御しつる天皇(文武)に授け賜ひて、並び坐して下を治め賜ひ(ととの)へ賜ひき」『続日本紀』慶四年七月

元明・元正らも先代の事業を継承し、遷都和同開(わどうかいちん)の発行、記紀完成養老の編纂といった国家事業が行われた[3]渡部育子は、文武には皇后がおらずそれに相当する藤原宮子出産後に心身ともに不調で政治に関わることはできなかったため、持統死後の文武がもっとも頼りにしたのは(あへ)王(元明)であったと摘している。元明は推古、皇極、持統らと違って史上初めての皇后(大后)出身ではない女性天皇である。皇女時代の彼女政治関与を直接示す史料はないが、690年にが持統に付き従って紀伊巡幸をしていることから、元明は10年以上もの持統の元で「王」としてのトレーニングを果たしていたと考えられる[4]病弱の文武がに譲位を試みた事実からも、文武のへの強い信頼が見てとれる[5]

「豊祖父(文武)天皇は病に陥って、始めて(の元明に)位を譲る志を持った。(しかし)元明天皇は謙譲で、固辞して受けなかった」『続日本紀』第四 元明即位前紀

元明はの元正に譲位した後も太上天皇として政治力を持ち続けた。その根拠として彼女が崩御した史上初めて「固関」が行われている。固関とは東海道鈴鹿関、東山不破関、北陸道発関を閉鎖することで、後世には天皇崩御時の儀礼的なものとなるが元明崩御時のものは政治混乱地方へ波及するのを防いだり、畿内で内乱を起こしたものが東に逃れて現地勢力と結託するのを防ぐという現実的な意味合いを持っていた。元明の死はそれほど朝廷政治的動揺を与えるものであった[6]

皇后(大后)には私部(さいち)と呼ばれる土地が与えられ、それが推古、斉明、持統らの実力を経済的に裏付けるものになっていた。皇后出身ではない元明、元正は私部は持たなかったが、即位以前から独自の特権が与えられていたことが藤原宮出土木簡によって判明している。元明に関しては「皇太妃宮職解 卿等給付廿端」と書かれた木簡が見つかっている。皇太妃宮職は皇太子)妃である元明のために設けられた機関であり、そこに布が届けられたことを示している。元正は生涯未婚であり皇后でも皇太子妃でもなかったが、「氷高王宮舂税五斗」と即位以前の元正(氷高王)に宛てたの荷札木簡が見つかっており、固有の経済基盤を持っていたことが判明している[7]

以上のように元明、元正は男となんら異なることがないことから、単なる中継ぎではないとの見解も多い。渡部育子は元正に対し、藤原氏との駆け引きや陰謀にもうまく立ち回りながら揺れ動くの時代を支えるなどの為政者だったと評価している。これに対し佐藤長門は、元明・元正は武・持統両天皇の嫡系継承を維持することを的として、年齢が幼い皇太子が成長するまで皇位に在位することであったからやはり中継ぎと考えるのが適当であろうとしている。桜田真理恵は、元正は即位すれば天皇権力を発揮することになり男と違いがないからといっても、将来の男即位を予定して未婚を続けた上で中継ぎめられたと摘している。木本好信は、元正が結婚して子をけることが避けられていたのは傍系に皇統が移ることを防ぐためである。つまり基本的には自らの皇嗣を持つことが許されていない天皇中継ぎと理解するのが妥当だと思うとしている[8]


  1. 京都府埋蔵文化財論集 第5集』「古代の女とその背景上田正昭、P249
  2. 元明天皇元正天皇渡部育子、P50
  3. シリーズ日本古代史④ の時代』坂上康俊、P102
  4. 前掲、渡部P56
  5. 前掲、渡部P58
  6. 前掲、渡部P174
  7. 前掲、渡部、P66
  8. 奈良時代木本好信、P18

3節 孝謙(称徳)天皇の中継ぎと道鏡事件

唯一無二の女性皇太子

藤原武智麻呂麻呂
        ├房前
        ├宇合
        ├麻呂
        明子
          ├#
        聖武天皇 孝謙天皇称徳天皇

聖武天皇明子(藤原不比等)の間には基王という男子があった。彼は藤原を持つ男子だったので皇位継承者として申し分なく、慣例を無視して生後一ヶ皇太子に立てられた。しかし彼が折してしまったことで藤原を持つ男子がいなくなり皇位継承問題が勃発した。

王が世した後の朝廷には有力皇位継承者が三人いた。

安積王は聖武天皇息子系男系男子だが、母親は皇族でも藤原氏でもない犬養(がたいぬかいのひろとじ)であり、倍内王にべて血統で劣る。だが逆に氏や大伴氏のような反藤原氏にとっては希望の存在であった。長屋王は高市皇子の子で系ではないが、と元明のの吉備内王を娶っているためその子は系女系子孫である。「長屋王と吉備内王の子は皇孫扱いにせよ」と勅を得ており、長屋王の子は女系血統として的に認められていた。また聖武天皇藤原宮子)は非皇族だが、長屋王のは皇族なので、血統の純性は武よりも上であった[1]


天皇高市皇子長屋王   
    └草壁子       ├夫王や葛城王など#系3世だが系で皇孫(2世)とされる。
      ├吉備内
    元明天皇

729年に長屋王が謀反の罪に問われ、吉備内王の子らと共に粛清された。謀反冤罪であり、長屋王と藤原長娥子(ながこ)との間の子は一人として罪に問われていないことから、系女系の血を狙った藤原氏の陰謀であることは疑いがない。744年にはもう一人の皇位継承補である安積王が脚気で急死した。これに関しても、藤原氏とする倍内王を即位させるために藤原麻呂が対抗安積を暗殺したという説が古くから唱えられている[2]

史は、藤原氏が暗殺した直接的な拠はない上に、藤原氏が積極的に皇統を断絶させようとするはずもなく、安積王は自然死であったとする。暗殺説の裏には「男は女に優先されるはずである」という暗黙の観念があるが、聖武天皇明らか藤原氏を持たない息子より藤原明子から生まれた倍内王の即位を優先しており、権勢を誇った藤原兄弟(仲麻呂叔父たち)が病死した後もそれは変わっていない。仁は「この頃の日本貴族層で女性族長を容認していたのはもはや天皇だけになっており、女を容認する王権と男性優先の貴族層の間には齬があり、その皇統意識の違いが政争を引き起こしていく」と述べている。

安積が亡くなる前の738年に、藤原明子をに持ち、女子倍内王が皇太子に立てられている。後の孝謙天皇であり、日本の歴史上、一立太子を経て即位した女であった。皇太子という地位は将来「天津日嗣」という神の長たる天皇を継承する地位である。先例のない女性皇太子に対して一部から反対運動が起こる。元正上皇倍の立太子には反対であったし、奈良麻呂皇太子倍を無視して「皇嗣は不在である」とし、彼女して文王(きぶみお)皇太子に立てる計画を練っていた。奈良麻呂は孝謙天皇が即位した際の大祭でも再び謀反を企てて、即位後もなお諦めず彼女位を狙うが最期は捕らえられ自殺した。


  1. 日本古代史④の時代』坂上康俊
  2. 日本の時代史4律令国文化佐藤信、P40

孝謙天皇の正統性

明子が次の男子を産むための中継ぎ」という両藤原氏の意向によって即位した倍内王だが、男性皇太子と同等の東宮教育皇太子が受ける帝王学)を学び、やがて藤原氏の思惑をえた君へと成長する。

孝謙は女でありながら正統な天皇となるために様々な工夫がなされた。例えば皇太子時代の内王は内裏において自ら五節舞(ごせちのまい)を踊っている。この五節舞は、天皇が君臣秩序を維持するために創始したという触れ込みで、聖武天皇と元正太上天皇はこの舞によって倍内王が「君臣祖子(みおみおやこ)(ことわり)」を下に示したと述べている。

孝謙の正統性を高めるために重要な役割を果たしたのは仏教である。正倉院の文書の中に護経典として信仰されて明最勝王経(こんこうみょうさんしょうおうきょう)(最勝王経)の書写事業が何例か見えるが、これは内王即位に向けての地位強化の意味があると摘されている。さらに『法隆寺東院縁起』「皇太子御斎会奏文(ごさいえそうもん)」によると、内王の施入(寄付)により聖徳太子武のために法華経講読の法会が挙行されている。前例のない女性皇太子が立太子するまでには周到な計画があったことがえる[1]

即位後も重要視されたのは仏教であった。孝謙は大仏開眼会では男性天皇と同等の天子冠である冕冠(べんかん)を被り、男装天皇となっている。孝謙は出したまま天皇になることで男女の垣根を越した「祟天皇」をした。これらを仏教用語で変成男子(へんじょうなんし)という。ただし『続日本史』の中に「皇后)は『宮御天皇皇子)の皇統が絶えようとしている。女子の継ではあるが継がせよう』と私(孝謙)に言った」とあり、孝謙天皇が女であることにやはり一言留保を置いている。( 宝字 6年 (762) 6月 (3日)条)。


  1. 古代の人物③ の落日』「孝謙・称徳天皇御」古市P15

草壁系皇統の行き詰まり

   天皇舎人天皇
           ├
              ├池田
           三原和気王
       
       ├高市皇子長屋文王
               ├安宿王
               夫王
               桑田
               木王
       
       ├新田祖王
            焼王志計志麻#とは別件
                上川
       大津皇子
   
   天智天皇─施基皇子─天皇桓武天皇─…

  • は孝謙(称徳)で敗死、獄死、追放された皇族
  • はその他の時期の政変で殺、追放された皇族

孝謙時代の女は、母親明上太后の意に沿うまま動いていた。天皇大権を徴する御璽と明が握しており、奈良麻呂の乱に際して上太后は「詔」を煥発している。通常、「詔」は天皇が出すものであり、では明のような上太后が出すのは「旨」である。以上のように孝謙天皇男性天皇への中継ぎとして権力移譲が不十分な状態にあった。しかし孝謙はの意向に反して系嫡流を強く自負していた。

孝謙天皇の後は天皇が即位する。仁は天皇新田皇女(にいたべひめみこ)の間に生まれた舎人(とねり)王の息子であり、藤原系でも系でもない。仁は自らを「聖武天皇皇太子」と名乗り孝謙を無視し、天皇権力のである御璽とは、孝謙を飛ばし明から仁へと受け継がれた。一方で仁は嫡流ではないという弱みがあり、即位の詔では当時の権力者の藤原麻呂護を示唆するなど、文武以来の宣命で他に見出せない気弱なものになっている。

(すめら)()して下治め賜ふ君は、賢人(かしこきひと)(よきおみ)藤原麻呂)を得てし、下をばらけく、安く治むるものにあるらしとなも聞こしめす」

道鏡をめぐる諍いもあり孝謙と仁の関係は悪く、調停役であった明の死後に天皇権力は分裂し、最終的に孝謙のクーデタによって仁は位に追い込まれた。藤原麻呂は反逆者として討伐された。孝謙は御璽と仁から奪取した上で称徳天皇として重祚する。仁を位する際、彼女聖武天皇の遺詔を宣し、自分には皇位後継者を自由に決める権利があるとした。

下を孝謙に授けた以上、王を(やっこ)奴隷)にしようとも、(やっこ)を王と言うとも、思い通りにせよ、たとえ(いまし)(孝謙)の後に皇位に即いても、礼であるような者を皇位においてはいけない」

孝謙(称徳)天皇の治世には皇位継承が問題となったが、これは孝謙が男系血統への継承に強い執着を見せたことにより原因がある。奈良麻呂の乱では文王(きぶみお)祖王(ふなどおう)武系の有力な王が多く命を失い、仁の位と同時に王や池田王ら皇族の粛清が進んだ。文王は母親が、祖王は祖母藤原氏であったが、系でない以上は孝謙が彼らを正統後継者に置くことはなかった。史書には当時の皇族の減と皇位継承の不安がられているが、彼女臣から皇太子を決めるよう促されても積極的な対策をとらなかった。

天皇)が退けられてから、天皇の身内で人望のある人々の多くは、実の罪をかぶせられ、天皇の位はついに絶えそうになった」

称徳天皇卿らが自分の欲や功績をめて皇太子を立てようとしているが、このようなことを誘うことなく、また誘われることもないように明るく清い心で仕えるように」

道鏡事件

(ゆげ)道鏡への譲位未遂事件はこのような流れの中で発生している。簡単に末を述べておくと、称徳天皇の治世の末期太宰府神から「道鏡天皇にすれば下は太になる」という八幡神の神託が朝廷に奏上された。称徳天皇偽を確かめるべく和気清麻呂佐に派遣したが「の人を排除せよ、つ日嗣は皇緒を以てせよ」との神託を持ち帰り道天皇即位が阻止された、というものである。

事件の体が称徳天皇道鏡かで説は分かれているものの、称徳がそれを容認したことは動かない。女が皇族でない道鏡に譲位を試みた動機は不明瞭である。後世に揶揄されたように、二人の間に男女の情関係があったことを直接示す同時代史料は存在せず、二人が出会った時の年齢が女は44歳、道鏡は推定60歳近くであることに鑑みれば男女関係をあまりに重視することには疑問が残るが[1]万葉集の相聞歌(男女慕の和歌)で高齢カップルが見え、また称徳の井上王が45歳子供出産している[2]ことを踏まえると女欲が衰えていたとは断言できない。

一方で、称徳即位の80年前に現れた中国史一の女武則天は怪僧、薛懐義(せつかいぎ)を情夫にしていたことで有名であった。奈良時代にのみ見られる「勝宝」などの四字元号武則天を模範としたものであり[3]女性中華皇帝の治世は日本にもよく知られていた。また道鏡事件を記している『続日本紀』の編纂を命じた桓武天皇は唐文化に傾倒し、中国史に精通した君であった。よって武則天と薛懐義のスキャンラスイメージが称徳と道鏡投影された可性もある。

事件の要因としてより有力視されるのが仏教である。称徳の統治理念の軸は両武、皇后)から受け継いだ仏教にあった。史上初めて出した天皇武であるが、それは譲位した後のことである。称徳は入者のままで神道の最高祭者である天皇になったため神の習合が不可避となる。女は重祚時の大会の詔で、冒頭からその問題について述べている。

「このたびの常より(こと)ある故は、朕はの御子として、菩薩(ぼさつ)を受け賜ひて」

「これに依りて、上つ方は三法(みほとけ)(つか)へ奉り、次には(あまやしろくにやしろ)の神たちをも(いや)まつり〜」

ここでは称徳は神道上の神々よりの方を上に置き、王法より仏法を優先して尊ぶべきとしている。最優先事項であった系男系の血統の断絶が決定的となった時、称徳天皇には天照の血統より、彼女が「朕を導き護る仏法の師」と崇める道鏡の方が皇位継承者に相応しいものと映ったと思われる。八重樫古の研究によると、称徳の皇位継承思想には仏教典のが見られる。称徳は「皇位継承には『』と『諸』の承認が必要である」と訴えたが、それは中国的な「命思想」に加え、称徳が皇太子時代に写経し、宣命にも引用した経典『明最勝王経(こんこうみょうさんしょうおうきょう)』「王法正論品」に見える王位授思想にも深淵がめられる[4]。王経では界の最高神、梵天前世の積善と諸加護があるために人間界では王として君臨し「天子」と称されると説かれている[5]

まとめると道鏡事件の背景には「称徳の武-直系嫡流意識」と「武以来の称徳の仏教政治」と「藤原氏の皇族化(次項で解説する)」が存在し、史料にはないが「称徳と道鏡男女の関係」がもしかしたらあったかもしれない。先述の聖武天皇の「を王というともの思い通りにせよ」という遺詔も称徳を後押しした。だがそれも貴族層の強い反対によって頓挫する。女を呪って志計志麻呂を擁立しようとする陰謀も発覚するなど、称徳・道鏡体制に対する反発は強かった。


  1. 古代の人物③ の落日』「孝謙・称徳天皇御」古市P23
  2. 古代の人物③ の落日』「井王・不破王・他戸王」野和己、P167
  3. 古代の人物③ の落日』「天皇土橋P44
  4. 古代の人物③ の落日』「孝謙・称徳天皇御」古市P27
  5. 国家宗教』「宣命における「」と「諸」」八重樫古、P48

藤原仲麻呂の皇族化と道鏡の対抗意識

道鏡事件の背景には藤原氏の皇族化があった。以下に羅列するように奈良時代には皇族と藤原氏はあいまいになり、藤原麻呂の権力は天皇傀儡にするほどであった。

  • 初の非皇統の皇族の誕生:聖武天皇は実藤原宮子に臣籍として史上初めて「太夫人」の称号を贈り、皇族扱いにした(記紀で「皇」を後世に追号されている臣民妃はいる)。
  • 初の非皇族の皇后の誕生:古来より皇后は皇族にのみ許された地位であり、もそれを前提にしていた。しかし藤原不比等息子らはその慣習を覆し、明子を立后させようとした。当時の皇后は単に正妻というだけでなく皇太子に準ずる執政権を持ち、将来的に女に即位する可性もある重要な地位であり、そこに天皇以外の者が立つのは考えられないことであった。当時の有力皇族の長屋王は明子の立后に反対するが、藤原氏長屋王を殺し強引に皇后を誕生させた[1]。実際に藤原氏皇后を女にしようとしていたとも想像され[2]、そうでなくとも上述したように引退後の明上太后は孝謙を上回る権威と権力と有していた。

土田は、藤原麻呂は実際に天皇になろうとしたと推測している。唐帝国憧憬していた仲麻呂はその治世下で中国式の政策を数多く実施していた。具体例としては、武則天皇后に準えた四字元号の改元、唐を真似問民苦使(もみくし)(困窮する民間人を救済するための臨時職)の派遣、常倉・準署(物価安定を的とした官)の設置などが挙げられる。万年通宝(まんねんつうほう)鋳造し、旧銭との交換率を10:1に決めたのも唐の施策と同じものある。ここまで中国に精通している仲麻呂が易姓革命を考えなかったとは想定しづらい。

それを裏付けるように、中国では譲を受けて前王を滅びすまでに以下のステップを辿るが、仲麻呂はそのほとんどを満たしている[7]

新王の創始者 藤原麻呂
丞相大相(だいしょうこ)などの称号を得て政界の最高実力者になる 麻呂は臣下としてはもなったことのない大師(太政大臣)になった。
都督内外諸軍事となり、軍事権力の全てを握する 麻呂微内相となり「内外の諸の兵事を(つかさ)らし」んでいる。
祖先を顕する 麻呂祖父の不等が作った養老を施行し、さらに「斉の大公の故事に依りて」不等を近江に封爵している。「」は中国的な名称であり後漢を継いだ「」や北周を継いだ「」など譲の前提となるものである。また仲麻呂藤原氏の事績を編集して「氏家伝」を作成している。
(きゅうしゃく)之礼に加えられる とは衣服などをし、皇帝と同等の待遇を受ける栄典である。仲麻呂には九的な特徴はなかった。しかし仲麻呂は避諱の使用や、藤原宮子)や皇后の墓を山と称し、忌の例とするなど藤原氏を皇族と同待遇にしている。
皇族と同権力を得る 麻呂貨幣鋳造する鋳銭権と、出挙(稲や銭の貸付)する挙稲権を得ており、国家経済権を握していた。
妻や妻子たちに爵位を与える 麻呂息子を「皇子」としている。

和気清麻呂が諫言した「君臣の別」は一人道鏡のみに向けられたものではなかった。

一方で仲麻呂の死後に道鏡が行った施策はことごとく仲麻呂の模倣であった[8]

藤原麻呂の政策 道鏡の政策
東大寺の建立に尽力した 西大寺の創健に尽力した
一位太師(太政大臣)になった 太政大臣師になった
太政官から独立し、その優位にたつ微中台(後の微内相)を設立した 政と政務を行う法王官職を設立した
本拠地の近江に保良宮を造営し北京と称した 出身地の河内削に由義宮を作り西と称した
開基勝宝・大宝元宝・万年通宝の三銭を新鋳した 神功開宝を新鋳した

俊男と吉田孝は「仲麻呂には、自ら天皇の位に即こうとする意志はなかったようだが、その一歩手前まで来ていた。仲麻呂に強い対抗意識を持っていた道鏡はそこからもう一歩進もうとしたにすぎない、とも言える」「仲麻呂が自分の一族を皇族に近づけようとしていたこと、また道鏡が仲麻呂を越えようとしていたことを考えると、道鏡の皇位簒奪未遂事件は歴史の流れの中である種の蓋然性があった」と分析している[9][10]


  1. 日本通史第4巻古代3』吉田孝、P47
  2. 明立后の史的意義』俊男
  3. 日本古代史④の時代』坂上康俊、P202
  4. 『続 律令国古代社会吉田孝、P84
  5. 『続 律令国古代社会吉田孝、P89
  6. 『皇女子と臣下の婚姻史』栗原
  7. 古代の人物③ の落日』「天皇土田P55
  8. 日本古代7 まつりごとの展開』「天皇と出俊男、P502
  9. 『続 律令国古代社会吉田孝、P89
  10. 藤原麻呂俊男、P423

光仁天皇の即位と天武-草壁血統の断絶

      百済の武寧王─……─高野
                             |桓武天皇50─……
──────智38施基───49
|                          |他戸王(嫡)
武40文武42武45┬井上后)
                └孝謙46(称徳48)

結局、は後継者を決めないまま世を去り、天皇が後を襲う。彼は天智天皇の孫で非系である。しかし武の井上王を娶わせることにより、その子の他戸王(系の女系男子)が次の天皇となる論みであった。つまり仁は他戸王の即位までの中継ぎ天皇である[1][2]。『続日本紀』には以下の童謡紹介されている。

桜井しづくや。好きしづくや。おしとど、としとど

桜井の「井」は井上王で、「」は王(天皇)をし、仁は井上王のおかげで即位できたと風刺している。また他戸が立太子する際の宣命には「法に従って、井上皇后の子の他戸を立て」るとある[3]。以上のことから仁が入婿であり、武-壁の女系の血が重視されての即位であると当時から認識されていたことが分かる[4]

だが井上皇后は政変により他戸と共に粛清され、皇位は皇子と血の繋がりのない桓武天皇が受け継いだ。政変は武-血統を狙い撃ちした陰謀であった。

高野
    |──桓武天皇平城天皇
 |       |             |──子供なし
 |                       |─原内
天皇  ┌人内
 |────┴他廃太子
井上

井上人と、さらにその原内王もそれぞれ桓武、平城天皇の妃となりわずかにの血を繋いだがいずれも男児は産めなかった。結局、持統天皇や称徳天皇が執念を燃やしたの血は男系でも女系でも後世に継ぐことは出来なかった。


  1. 古代政治史における天皇制の論理河内P130
  2. 日本古代史⑤平安京遷都川尻生、P4
  3. 安前期』榎寛之、P39
  4. 日本歴史 2018年2月号』「女終焉」仁智子、P3

「3節 孝謙(称徳)天皇中継ぎ道鏡事件」全体の参考文献

4節 天智血統への回帰と「新王朝」意識

以上の皇位継承を智血統と武-血統の対立と見るのは誤りであり、持統や称徳らに智系と別した「武系」という血統意識はなかった。天皇智のを3人娶り、皇子たちもそれぞれ智のにして積極的に智の血を取り込もうとしている。近親婚が多い古代ではあるが、兄弟間でのの入内はほとんど例がなく、それだけに智がいかにとの連携を重視していたかが分かる。文武天皇智陵の修造を命じ、智の忌日(命日)を忌に制定するなど、系を通じての智血統の自負が見られる[1][2][3]

古代日本系で氏姓を受け継ぎつつ、族への所属意識および系血統の重要度が強かった。女系子孫の他戸王を即位させようとした点からもそれがうかがえる。

推古天皇「朕は(方の)何(蘇我氏)より出たり」『日本書紀

称徳天皇「人は必ず方・方の族があって生まれ出るものである。そうして方の王たちと方の藤原臣たちとは、朕の族であるのだから〜」『続日本紀、神護元年十一月二十四日』

智系と異なる武-血統の存在が意識され始めたのは称徳の崩御後である。桓武天皇智系への回帰を革命と捉えて長岡京への遷都を敢行し、翌年の785年に日本で初めて郊を行う。これは宇宙二の皇帝の存在を国家的に示す中国儀式であり、ここで桓武は天照大神でも神武でもなく、自らの仁を始祖とする新王の成立をに報告している。また天皇の陵は元々は聖武天皇陵の付近にあったが喪明けと共に改葬され、施基皇子の陵に近接する場所に移動している。桓武は武に入婿していた父親武-仁という関係を断ち切り、智-施基-仁という血統を称揚したのである[4]。ただし桓武天皇は同時に、血の繋がりはなくとも自分が武-血統、特に聖武天皇の後継者であることを強く自認してたと見られる[5]

桓武の「新王」意識は彼一人のものではなく、桓武の孫の文徳天皇も69年ぶりに郊を開催し、天皇天帝に等しいものとしている[6]。また桓武の玄孫の清和天皇は十陵四墓制を規定し天智天皇天皇の皇祖にしている。十陵四墓とは中国天子を模倣して始められた祖先崇拝儀礼である。十陵四墓制では皇祖と彼らにわる四人の臣下の陵墓を定し、天智天皇を皇祖として起点にし、武〜称徳を飛ばして①智、②智の息子の施基皇子、③施基の息子天皇が皇統とされている[7]。また中世般舟三昧院(はんじゅうさんまいいん)安置され明治には涌寺(せんにゅうじ)霊明伝に移された歴代天皇の位は。智と仁以下の天皇に限られており、やはり神武武〜称徳天皇は含まれていない[8]

中西康裕は、系嫡流意識が強い称徳天皇が皇統でない道鏡を皇位につけようとしたとは到底考えられず、道鏡事件は「前王」の失態と「新王」の正統性を演じさせるための『続日本紀』編者の創作であるという説を唱えた。道鏡が即位をうかがったことを記すのは『続日本紀』の説明文の部分のみであり、一次史料に近い称徳の宣命のなかでまったく触れられていないのも不審である。八幡宮神託事件は実際は道鏡とは関係であり、法均(和気清麻呂)が八幡の言葉と称して皇位継承に関することを述べ、それが称徳の意図から大きく外れたため処罰されたという事件が称徳の死後に道鏡と結び付けられたと思われる。後世では忠臣の鑑と賞賛された和気清麻呂で不遇であったのも、道鏡阻止した事実はなく、単に皇位をめぐる皇太子擁立運動に関わっただけであったためと考えられる[9]


  1. 持統天皇貞子P57
  2. 日本古代史④の時代』坂上康俊、P102
  3. 古代天皇神宮藤森、P82
  4. 天皇歴史聖武天皇吉川P238
  5. 桓武天皇貞子
  6. 安前期』榎寛之、P186
  7. 天皇儒教思想』小島毅、P148
  8. 神武天皇論』監修 清水潔、P196
  9. 『続日本紀と奈良の政変』中西康裕

5節 道鏡皇胤説

天智天皇の孫説

道鏡が施基皇子の息子、すなわち天智天皇の孫だという説がある。同時代史料に道鏡が皇胤とするものはなく、道鏡が皇統だとすると褄が合わなくなる事柄が多いので現在史学では史実とは認められていないが、前近代にはかなり信じられていた学説であった。

道鏡皇位覬覦(きゆ)事件にはいまだが多い。道鏡は非皇統の身で皇位を狙った大罪人として近世から現代にかけて非常に嫌われたが、当時にあっては護者の称徳天皇を失った後の道鏡は都から追放されたものの、罪人扱いではなく造下野薬師寺別当に任じるという名であり以後は念仏三昧の余生を送っている。称徳女の意をんで「道鏡を皇位につけよ」と上奏した麻呂も多褹守に左遷されたが、道鏡死後には大隅国司に任命されている。社稷を揺るがした大事件にもかかわらず当事者の処罰が随分穏当である。こうした矛盾から実は道鏡は皇胤だったのではという発想が出てきたものと考えられる。

最も古くに道鏡皇胤説を唱えた史料はの初期に編纂された『七大寺年表』と「僧綱補任』であり、ここには「道鏡天智天皇の孫で施基皇子の第6子である」と書かれている。卿補任頭書が引用する『帝王系譜図』でもやはり道鏡は施基皇子の第6子になっている。室町時代の『皇胤紹運録』にも施基皇子の息子天皇として「道鏡師」の名前が見える。こちらでは道鏡は施基王の第8子とされている。足利義満が薨去した折に義満に太上法皇の尊号を追号すべきか否かで議論が起こった。本来、法皇は皇族でなければ名乗れない身分だが道鏡は非皇族にして法皇であった。その議論の中で大外記の中原師胤が「道鏡の孫なり」と前例にはならないとしている。道鏡天智天皇の皇胤であったことは当時の知識人の間で広く認められていた。江戸時代中期の歴史土肥道鏡皇胤説をとっており、その上で道鏡を臣籍身分で皇位を狙った簒奪者、逆臣と罵っている。

ニギハヤヒ

道鏡を排出した削氏は、古代名族の物部氏の傍系氏族であり、物部氏の始祖は神武天皇と相争ったニギハヤヒである。ニギハヤヒは記紀神話では皇統とは縁の神であるが、神道書『先代旧辞本紀(せんだいぐじほんぎ)』ではアマテラスの子孫とされている。よって道鏡は系譜上は天皇と同一系一族である。

先代旧辞本紀

アマテラス
アメノオシホミミ┬ニニギホオリ神武天皇……称徳天皇
              アカリ(ニギハヤヒ)……┬物部
                             削氏……道鏡


  1. 『先代旧事本紀』には記紀には見られない物部氏の系譜・逸話が多くあり、これは物部氏の伝に基づいた信頼できる情報と考えられる。例えば松前健『日本の神々』や田中卓『日本史と邪馬台国』の中で旧事本紀が援用されている。

6章 女帝中継ぎ論(推古と皇極・斉明)


推古と皇極(斉明)天皇の事績は後世史料の『日本書紀』に多くを頼ることになるが、そこには多くの歴史の造作と加筆が含まれている。「天皇」と呼ばれていたかも定かでない彼女たちの朝廷皇室制度の全てが未成熟であり、大王天皇)といえど連合の長に過ぎず即位には族からの推戴がめられた。推古と皇極の2人の女大王は、幼年の系皇子の成長を待つために即位した持統、元明、元正女と異なり、登極時に他に即位すべき有力男性皇族が存在し、かつ子世代への生前譲位を行っていない。そのためその中継ぎ性にはいろいろな議論がある。

この時代は古代女王制の名残か、二人の他にも女性天皇のが色濃い。安閑天皇皇后である春日山田皇女は一度即位を薦められており、孝徳天皇死後にその皇后間人皇女(はしひとのひめみこ)が一時的に即位した可性がある。他には天智天皇皇后(やまとひめのみこ)も一時即位を勧められているが断っている(実際に即位したという説もある)。

「1節 推古天皇」。推古天皇現在代数に含まれている最初の女性天皇である。当時の朝廷蘇我馬子が権力を握っており、その勢いは崇峻天皇を殺してしまうほどであった。崇峻を継ぐ形で即位した推古天皇だが『日本書紀』にはその経緯は詳細には書かれていない。そのため状況論から推古の即位事情を考察する必要がある。当時の朝廷には男性皇族が数多く存在し、中でも穂部皇子、人大厩戸皇子聖徳太子)、竹田皇子(推古の息子)などが有力であったと推定される。女中継ぎ論では「推古天皇は紛糾する皇位継承争いを緩和するため、将来的に若い男性皇族に繋ぐことを想定して即位した中継ぎだった」と説明される。しかし推古が皇位継承争いを緩和するための存在ならば即位後に厩戸を「皇太子」に定め政権を委ねたことは矛盾であること。また中継ぎと生前譲位は不可分であるにもかかわらず、推古は譲位することなく終身天皇であり「皇太子」の厩戸は即位することなく死んでいる。そのため推古を中継ぎと認めることはできないという反論も存在している。

「2節 女推古の執政と「摂政厩戸皇子の執政」。書紀によれば推古は厩戸を「摂政」にして「万機(よろずのまつりごと)を以って悉くに委ぬ」、つまり政治の全てを委ねたとある。この箇所は旧皇室典範作成時には「女性の推古に政治力がないため代わりに男性皇族の厩戸が執政していた」と女禁止の論理に援用された。しかし現在は推古が政治力のないお飾り天皇であった可性は認められていない。書紀には推古が即位前から政治に携わり、天皇になってからも軍事仏教経済政策など幅広く政治に関わっていたことが書かれている。子の姪である推古には蘇我氏の後ろがあり、さらに大后に与えられる私部(さいち)という私有地によって高い経済力を有していた。推古と子が密接な関係であった事のは疑いないものの、子が王領の拝領を申し出た時は推古はそれを断っており傀儡的な存在ではなかった。

書紀では厩戸は「摂政」「皇太子」と書かれているが、それらの制度が成立するのは体制以後のことである。壬生(みぶべ)(太子の私有地)と斑鳩(いかるがのみや)という大邸宅を有し、書では「ワカタフリ(太子)」と呼ばれる厩戸が皇族の中で突出した存在であったことは事実だが、女即位時に推古39歳、厩戸19歳、子42歳と年齢的にも隔絶している中で、実際の厩戸の政治関与がどれほどのものであったか議論がある。書紀の「万機を以て悉く委ぬ」という表現も中国朝鮮史書の皇太子の文章を引用したものであり厩戸が文字通り全ての政治を担っていたとは考えられず、厩戸の単独の仕事とされる十七条憲法も後世に加筆された跡が存在する。書紀で厩戸が顕されているのは書紀編纂時に持統天皇皇子と厩戸を重ねあわせたという説もあり、書紀の中では史実ではない太子の創建伝説や、仏陀の逸話を流用した生誕伝説など数々の聖人エピソードが挿入されている。

現在では厩戸皇子は推古、子、太子の三頭体制の一であり、基本的には推古の詔・勅を受け、子の補助として働く存在であったと考えられている。厩戸は推古を支える重要な政治家の一人ではあったものの、推古や子を上回る権威を持つことは最後までなかった。「政治のできない女の代わりに政治していた聖徳太子(厩戸)」というイメージは11世紀の史書『扶桑略記』の中にも見られるが、旧皇室典範で女性天皇が禁じられた後に世の中に普及したものである。明治初期の歴史教科書推古天皇の執政を中心に記述しているのに対し、典範制定後の教科書では当時は太子が執政していたことになっており、推古は「女であったので太子に政治させた」と書かれている。

             蘇我法提郎女
                 |───古人大 
敏達
─押坂人大┬────1舒明

         |     ├───5中大智)
         └茅渟王┬2皇極(4斉明)      
                └3孝徳

  • 数字は舒明を1とした継承順

「3節 皇極(斉明)天皇中大兄皇子」。推古の後は上の系譜の順に皇位継承されていった。皇極の治世では蘇我馬子の子孫の夷と入鹿が専横していたが、の変(いわゆる大化の改新)によって蘇我氏宗は滅びた。変の後に皇極は孝徳に譲位し中大兄皇子が「皇太子」に定められるが、やがて孝徳は臣から見捨てられ皇極が斉明の名で復位した。斉明は終身皇位にありその治世は息子中大政治導したとされる。斉明の死後も中大はなかなか天皇にならず7年という長期にわたる称制を経てから天智天皇として即位した。以上の皇位継承には不可解なところが多く、数多くの学説が提唱されている。

まず皇極が即位した経緯に関して、こちらも書紀には詳しいことが書かれていなので推古と同じように状況論から女の即位事情を考察する必要がある。舒明天皇の死後の朝廷では聖徳太子息子の山背大王と舒明の息子の古人大皇子が有力後継者であった(中大は当時16歳で若すぎる)。女中継ぎ論では「山背大と古人大の皇位継承争いをひとまず回避するため、中継ぎとして女性天皇が擁立された」と解説される。「皇位継承緩和のための中継ぎ」という論理は推古中継ぎ論と同じものであり、背景にはやはり推古と同様に蘇我氏があったことが想定される。『日本書紀』では皇極の治世は「古来のに基づいて政治を行なわれた」とされている。なお山背大と古人大は共に皇位継承争いの中で殺された。

蘇我氏宗の変によって倒されたのち、皇極はの孝徳に公式では史上初めての生前譲位を行うのだが、その理由が不明である。息子中大を将来的に天皇にしたいのであれば皇極がそのまま天皇でいればよく、孝徳に譲ったせいで皇位継承争いが拡大している(孝徳の息子の有間皇子は後に中大に殺された)。これを合理的に解釈するために、の変の首謀者は中大ではなく孝徳天皇であったという説や、緊迫する際関係の中で中国が嫌う女王位させた説、皇極と蘇我氏は不可分で蘇我氏宗の滅亡と共に皇極も強制位させられた説、当時女中継ぎでその子供が即位できないという暗黙のルールが存在していたため、中大天皇にする的で皇極は退位した説などが唱えられている。

孝徳が崩御すると斉明が重祚するがこれも不可解である。当時の中大は30歳で、やや若いとも言えるが十分に即位可年齢である。こちらも様々な説があり、皇極は孝徳によって強制退位させられたのだから孝徳がいなくなれば彼女が復位するのが当然であった説、中大軍事に関わりすぎて血の穢れが忌避された説などがある。遠山美都男は定説のように皇極が蘇我氏の傀儡であったならば斉明が復位するのは褄が合わないとし、皇極・斉明天皇の登極は当時の同世代継承法に則ったものであり、女には中継ぎとは言えない力と権威を持っていたと唱えている。

斉明の時代から約100年後に書かれた『氏家伝』には斉明は「悉々く庶務を以って皇太子中大)に委ぬ」と書かれており、女-摂政体制の存在が見てとれる。子的存在がいなかった中大の事績は厩戸よりはっきりしており実際に多くの政治導していたことは疑いがないが、斉明が全くお飾りであったわけではない。『日本書紀』によれば女は土木工事を好み、数々の巨大建造物用水路工事を始めている。その規模は大層なものであったらしく、斉明の失政を理由に反乱計画まで起こっていた。さらには唐との決戦が間近に迫ると斉明は67歳の老体を押して九州の地まで天皇征を果たしている。「悉々く庶務を以って皇太子に委ぬ」と書かれた『氏家伝』の編纂責任者の藤原麻呂女性を認めない儒教思想に深く傾倒し、また当時女上皇孝謙との関係が悪化していた人物であるため、「氏家伝』の女斉明の評価にも一歩留保が必要とされる。斉明が九州すると中大は7年にわたる称制を行ってから天智天皇として即位した。7年という異様に長い称制の理由は全く不明で、同との近親相姦説など数多くの仮説が提唱されているがいずれも決め手を欠き、定説が存在しない状態である。

「4節 大と大后制度」。古墳時代には一人も存在しなかった正位の女性天皇が飛鳥時代以降誕生した原因は、この頃から「大后」制度が成立したことが大きい。記紀では神武天皇の時代から「皇太子」や「皇后」が存在していることになっているが、史実で皇后皇太子が登場するのは以後の体制以後であり、飛鳥時代にはその前身となる「(おおえ)」「大后(おおきさき)」と呼ばれる身分が存在した。大后は私部(さいち)と言われる私有地によって独立した経済力を持ち、大王が崩御した直後は大権を代行するなど「地位は天皇に等しい」存在であった。最初に大后となった人物は諸説あり、安閑妃の春日山田皇女、敏達妃の豊御食炊屋(とよみけかしきやひめ)(推古)が補に挙げられる。前者は明に女性天皇即位を要請されており、後者は実際に即位している。また皇位継承に際して「大」と呼ばれる皇族が有力補であった。ただし大皇太子と違い複数人存在し、その起大王継承ではなく族の族長権の継承にあったとも考えられている。

「5節 仲天皇と中皇命」。女中継ぎ論に関連して、古文書に「仲天皇」「中皇命」という女性天皇をす言葉が見える。これは従来「ナカツメラミコト」と読み中継ぎ天皇」という意味だと解釈されてきた。近年では、皇后を中宮と呼ぶことから中宮天皇=皇后天皇説や、天皇と神を"中継ぐ"女性という巫女説や、ナカツメラミコトは天智天皇間人皇女(はしひとのひめみこ)し、その語義は女として即位した間人皇女す固有名詞だという説も有力視されている。孝徳天皇の大后でもあった間人は孝徳の死後に女性天皇となった可性は多くの専門摘するところであり、当時造られた弥勒像の銘文もそれを示唆している。

「6節 ヒメ-ヒコ俗二重体制」。邪馬台国で男卑弥呼を補佐したように、弥生古墳時代の日本兄妹姉弟がそれぞれ宗教)と政治(俗)を担い、男女共同で統治する体制が広く見られた。例えば『山城国土記』には玉依(タマヨリビコ)依姫(タマヨリビメ)兄妹があり、記紀でも(アソツヒコ)都媛(アソツヒメ)のような「ヒコ」と「ヒメ」の一対の存在が多く確認できる。これをヒメ-ヒコ制と呼び、先史時代の日本の典政治体制であった。天皇陵である西殿古墳にも大王に匹敵する人物が埋葬されていることが想定され、天皇とそれに並ぶ女性男女合葬されている可性が摘されている。古墳時代では夫婦合葬の例は少なく、その女性天皇の同族女性であったと考えられる。


  1. 『可性としての女荒木敏夫
  2. 長屋木簡研究東野治之、P2,101

1節 推古天皇の即位

飛鳥時代に初めての正式な女推古天皇が立った。当時の朝廷蘇我馬子が権力を握っており、その権勢は崇峻を殺するにまでに至る。崇峻の死後に後継者補が立し、争いを緩和するために推古天皇に皇位に登った。推古では「皇太子」である厩戸皇子聖徳太子)が「摂政」として政治を担い女弼(補佐)したとされる。

後継者争い緩和のための女帝

     ┌33推古天皇
     |   ├──竹田皇子
29欽天皇┼30敏達天皇人大34舒明天皇
     ├31用明天皇厩戸皇子聖徳太子山背大
     ├32崇峻天皇
     穂部皇子

日本書紀』には推古天皇の即位は「皇位が位になったので群臣は額田部(ぬかたべ)皇女(推古)を推戴した。彼女は2度辞退した後に即位した」と記すのみである。最初の女であるが、書紀の記述にはそれらしい特別な斟酌はなく、男と全く同じ形で記事を連ねている。これは書紀撰集が行われたのが女の相次いだ時代で、女が特別のものとは考えられなかった通念によるものと考えられる[1]。推古が2度辞退したのも中国皇帝の例に倣ったもので特に政治的意味はなく、状況論から推古の即位事情を推察する必要がある。

推古即位当時の朝廷には男性皇族が数多く存在していた[2]

  ┌推古  ┌張皇子
  | |──┴竹田皇子
明┼敏達┬大穴皇子
  |  ├難波皇子
  |  ├春日皇子
  |  └大派皇子
  |
  ├用命┬厩戸皇子
  |  ├来目皇子
  |  ├殖栗皇子
  |  ├茨田皇子
  |  └麻呂子皇子
  |
  ├崇峻蜂子皇子
  └穂部皇子

この中で有力補とされたのは太字で示した四人である。

備考 予想される後援勢力
穂部皇子 587年 物部氏と近しく、推古即位前に子に殺された。 物部
竹田皇子 不明 推古と敏達の息子であり、推古は遺詔で竹田皇子の陵への合葬を望むなど息子への強い愛着を持っていた。587年に物部守屋討伐に参加して以来史書から姿を消している。 の推古
人大皇子 不明 「大」の称号を持ち、生き残った3人の中では最も皇位に近かったと考えられるが、蘇我氏と血縁関係が薄かった。物部戦争に加わっていないことからそれ以前に死んでいた可性もあるが、中世の『本皇胤紹運録』にれば人の息子の舒明天皇が593年に産まれており、舒明には二人のがいるので600年ごろまでは生きていたと推察される[3] 後援はないが最年長の優位性があったか?
厩戸皇子 622年 いわゆる聖徳太子祖母、生共に蘇我氏の出であり、蘇我馬子との間には強い血縁関係があった。 蘇我

これを踏まえて推古天皇中継ぎ論にはいくつかの説がある。

鈴木靖民 推古天皇は、蘇我氏のの強い厩戸皇子の即位を防ぎ、当時は若年だったであろう息の竹田皇子への将来的な践祚のために中継ぎとして即位した[4]
熊谷 蘇我馬子が当時最有力補であった人大を外すために推古天皇中継ぎにして厩戸への即位を狙った[5]
吉村 崇峻が子に暗殺され明の息子にもはや妥当な人材がいなくなった。そのため明の孫世代の人大竹田皇子、厩戸皇子が有力補にあがったがこの三人の年齢はいずれも20歳前後と見られ即位年齢に達していなかった。そこで天皇暗殺という政治危機のなか、蘇我導のもとで子の姪の額田部皇女(推古)が選出された。額田部は既に一定の政治的経験を積んでおり、その実績評価されたのであろう[6]
河内 6世紀初頭から子嫡流継承が皇位継承のルールになっていた。この時代でいう嫡流とは天皇も皇族、つまり男系かつ女系天皇でなければならず、蘇我氏をに持つ天皇などは傍系でありその子供天皇になれなかった。最初は継体-明-敏達の嫡流ラインを継ぐために若年の竹田皇子の中継ぎとして用明天皇が即位したが、竹田折してしまったのでルールを曲げて、母親蘇我氏の厩戸を次世代の大王補とし、若い皇子(推古即位時は19歳)の成長を待つ中継ぎとして推古が即位した[7]

河内説は近年有力視されているが、倉本は「河内説のような大王位継承原理が存在していたとしてもそれはあくまで理念上の産物であり、実際には傍系として中継ぎ扱いされる天皇の方が圧倒的に多いのであるからもはやそれを原理と称して良いかせざるを得ない。竹田皇子が直系の大王位を伝える王統であったのならば竹田死亡した時点で同の尾皇子が補に上がってもよいものであるがそのような形跡はない」と反論している[8]

有力皇位継承候補への呪詛事件

推古即位の皇位継承関係に関して、推古天皇即位の5年前に中臣(なかとみのかつみのむらじ)穂部皇子を天皇にするために対抗人大竹田皇子を呪殺しようとした事件が参考になる。このことから当時、皇位に最も近かったのは厩戸皇子よりこの二人であることが分かる。

中臣連、に衆を集め大連(物部守屋)を随助(たす)く。遂に太子人皇子の像と竹田皇子の像とを作りて(まじな)ふ」

結局この時に即位したのは穂部でも人でも竹田でもなく、同世代継承の原則によって用明のの泊瀬部皇子(崇峻)であった。俊男は「大王の妻である大后もまた王位継承資格者であった」と摘しているが、それではこの事件のような王位継承争いで推古の名前が上がっていないことが説明できない[9]。しかしこの呪詛事件の史実性には疑問も残る。額田部皇女(推古)が敏達と結婚したのは571年で、竹田はその額田部の第二子である。よって事件が起きた587年の段階では竹田年齢はどれだけ上振れしても15,6歳であり、到底皇位継承に関わるような年齢ではない。また人皇子が「太子」と冠しているのも不審である。これは後に人の子孫が皇位を独占し、人が「皇祖」と称えられたことに伴う潤色と考えられる[10]

推古の経済力を支えた額田部

は、推古が最初の女になった理由の一つに、推古が皇族の中で抜きん出た財産であったことが考えられると述べている。古代皇族には私有地として住民に課役を負わせる「部」が設定されており(部民制)、部を多く持つ皇族は高い経済力を保持することを意味していた。この部を皇族間で較すると、蘇我氏系の皇族は非蘇我氏系とべて広く部を所有しており、さらにその中でも推古(額田部皇女)の所有する額田部(ぬかたべ)の範囲は日本25カに分布し抜きん出ていた。額田部によって元々強固な経済基盤を所有していた推古が皇后に与えられる私有地の私部(さいち)も追贈されたことで、当時の皇族の中で群を抜いた財産になったことが想定される[11]。これに対し告井幸男や水谷千秋は、額田部を継承したから推古は額田部皇女と名付けられたのでなく、推古が古代族の額田部臣に養育されたことで額田部皇女とされたとしている。つまり額田部は推古の私有地ではなかった。古代皇族は倍内王(称徳天皇)の諱が倍臣から取られるなど、養育氏族やにちなんだ名付けをされることが多く、推古もその一人と考えることができる[12][13]

譲位しなかった女帝

当時の天皇男女性差なく終身制であり「然るべく男子に生前譲位する」という考え方自体がなかった。推古天皇の治世は36年の長きにり、先に竹田皇子も厩戸皇子も薨去してしまう。ただし『扶桑略記』などで推古に先んじる女として扱われている飯豊皇女中継ぎ「即位」した後に男に生前譲位しており、継体天皇も死の直前ではあるが安閑天皇に生前譲位を行っている。

継体天皇
安閑天皇を即位させられた。その日に、天皇は崩御された」『日本書紀』「継体紀」

また初めて皇極天皇公式に生前譲位を行ったのが645年で、推古の崩御から17年しか離れていない上にの変からわずか二日での譲位劇となっているので、終身天皇制がどこまで厳密に守られるべきルールとされていたのかは不明である。


  1. 六国史坂本太郎P114
  2. 古代の人物①日出づるの誕生』「推古天皇倉本P193
  3. 日本の歴史03大王から天皇へ』熊谷男、P215
  4. 岩波講座 日本通史 第3巻 古代2』P15
  5. 前掲、熊谷P215
  6. 蘇我氏の古代吉村P115
  7. 日本古代史③飛鳥の都』吉川P16
  8. 前掲、倉本P192~193
  9. 日本古代王権の研究荒木敏夫、P151
  10. 推古天皇』義江明子、P63
  11. 物部蘇我氏と古代王権』P10~12
  12. 『名代について』告井幸男
  13. 日本古代100水谷千秋P255

推古中継ぎ論への反論

以上の推古中継即位論に対しての反論も存在する。

官文娜は、殷や周王など古代中国及(兄弟継承)が嫡子への生前譲位とセットだったことと較し、太子である厩戸皇子に生前譲位しなかった推古の中継ぎ性を否定した。「紛糾する王位継承問題を緩和するために女性中継ぎで即位させた」という一般的な見解も、推古後に山背大田村皇子の争いなどが起こり、女の即位は王位継承問題の複雑化を防ぐ役割は果たしていない。新大王族に推戴される慣習があり、皇太子制度も未成立な当時の皇位継承で重要視されたのは性差ではなく「即位年齢」と、中大が述べるように「恭遜の心」と「民望」であり、古代日本皇女には正統な皇位継承権があった[1]

大平聡は「男即位が困難な状況において当面の危機を回避するために推古が即位したのならば、女男性である聖徳太子皇太子にして政権を委ねたのは大きな矛盾である」と問題提起する。「大后は皇后の前身制度であり、敏達の大后であった推古は王権の分者であった」、つまり推古は大后の身分から即位したという定説に関しても、国家形成に向けて権力の中央集権をしていた時期に、その権力の中枢において、権力を分割して複数人格がその行使にあたるという事態を想定するのは理がある。大后は一つの尊称に過ぎず、皇后のような制度的呼称とは認め難い。よって推古の即位は敏達の妃であったことでなく、明の子供であったことにその本的理由をめるべきである。当時の皇位継承には男子優先原則はあったが、それでも推古は明の孫世代の厩戸や竹田よりも政治力が評価されていた[2]

遠山美都男は「崇峻暗殺後に前大后であった推古が即位することになったのは彼女政治的な経験と実績が高く評価された結果と考えるべきであり、推古を中継ぎと捉えるのはどう考えてもおかしい。推古=中継ぎ論の根拠には厩戸皇子聖徳太子)の存在があり、女の統治に不安や不足があったと考えられていたためであるが、それは事実ではない」としている[3]。以下2節以降で、遠山の学説も交えながら推古天皇の執政力と厩戸の政治参加の実態について解説していく。


  1. 日本古代社会における王位継承と血縁集団の構造』官文娜
  2. 聖徳太子大平聡、P26
  3. 古代日本の女キサキ遠山美都男、P42

2節 女帝推古の執政と「摂政」厩戸皇子の執政

女帝-摂政体制

「推古」という名前奈良時代の後期に付けられた諡号(しごう)であり、「推」の字は引用元の『逸周書』には「息政外交推(自ら政治を執らず、外交に恃む)」と定義されている[1]。また推古天皇の治世について『日本書紀』には以下のよう厩戸皇子に「万機」を委ねたと記されている。

「厩戸豊聡皇子(とよとみみのみこ)立てて、皇太子とす。()りて摂政(まつりごとふさねつかさ)らしむ。万機(よろずのまつりごと)を以って悉くに委ぬ」「推古紀」

豊御食炊屋(とよみけかしきやひめ)天皇(推古)の(みよ)にして、(厩戸皇子が)東宮(このみ)位居(ましま)す。万機(よろずのまつりごと)総摂(ふさねかわ)りて、天皇(みかどわざ)したまう」「用命紀」

さらに11世紀の歴史書『扶桑略記』や12世紀の歴史物語』では推古天皇が「朕は女人なり。性、物を解へず。宜しく下の政は、皆太子(厩戸皇子)に附くべし」と詔したと記されている。

「勅。朕女人也。性不解物。冝政治皆付太子。寮万民聞悦之。厩戸皇子皇太子。万機之政悉委太子」『扶桑略記』[2]

現代史学では田村(えんちょう)が、推古は崇峻暗殺の悲劇を繰り返さないため、新しい権威を持つ執政官として厩戸を立て、自らは不執政の立場を貫いた。すなわち天皇宗教的権威の体現者の地位に留まると同時に政務を委ねられた執行者(厩戸)が天皇に代わって政治の衝に当たったと考察している[3]


  1. 『諡』野村、P70
  2. 史大系12 扶桑略記 帝王編年記』P38
  3. 聖徳太子田村

推古の執政

「男には摂政は置かれないが、女の推古は統治力がない故に摂政を置かれている」という論理で、女中継ぎ論の根拠の一つになっている女性-摂政体制であるが、厩戸皇子聖徳太子)が文字通り「万機(全て)」の政治を行っていた説は古くから否定されている。厩戸の伝記である『上宮徳法王説』には以下のように書かれており、当時の政体が推古の下に厩戸と蘇我馬子が控える三頭体制であったことが分かる[1]

少治田宮御天皇(おはりたのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)(推古)ノ世に、上宮厩戸豊聡(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこ)島大(しまのおおおみ)蘇我馬子)と共に下ノ政をヶて、三宝を(さかり)にす」『上宮徳法王説』


蘇我の血が濃い推古と厩戸

蘇我
    ├─
    |  |───────┬推古
    | 欽明       └用命
    |  |──┬崇峻    |───厩戸
    └  └─────穂部

現在では推古は天皇として積極的に政治参加していたと見る向きが強い。推古は即位以前から穂部誅殺の詔を出し、泊瀬部皇子(崇峻)を天皇を推挙するなど軍事や皇位継承に携わっている。また『日本書紀』では当時の推古を「炊屋(かしきやひめのみこ)」と、天皇と同様に「尊」号で記し、彼女天皇不在の際には「詔(君の命)」を出す立場であったことを示している[2]。敏達の大后であった推古は、中国漢王朝皇后の官を私官と書いたことにちなむ私部(さいち)という私有地(部)を与えられており経済力も盤石であった。 即位してからもの大事を決める際は「以万機悉委」ているはずの推古が導権を取り「皇太子・大臣および諸王・諸臣に詔して」いる。推古十一年に「天皇事」を委任されている厩戸が自らの意向でろうとした際もいちいち推古の裁可を必要としており、軍事面でも推古の意向で新羅への出兵が行われている[3][4][5][6][7][8]

「この皇太子(厩戸)は推古天皇に申し上げてりのための大楯おたゆき(矢を入れる武具)を作り、旗幟はた(合戦用の旗)を描いた」

新羅らぎ任那みまなが戦った。推古天皇は任那を助けようと思われた。この年、部臣さかいべのおみ大将軍を命ぜられ、穂積ほづみのおみを副将軍とされた。一万あまりの兵を率いて、任那のために新羅を討つことになった」

以上のような推古を執政を助けたのが蘇我馬子である。子は崇峻天皇を暗殺するほどの人物であったが、叔父-姪の関係にある子と推古は生涯通じて良好な関係を築いていた。それを示すものとして推古二十年、子は推古を讃える歌を詠み、推古もまた返歌で叔父子への賛辞を示している[9]

子「わが大君の入られる広大な御殿、出で立たれる御殿を見ると、まことに立である。千代、万代にこういう有様であってほしい。そうすればその御殿に畏み拝みながらお仕えしよう。今私は慶祝の歌を献上します」

推古「蘇我の人よ、蘇我の人よ。お前ならばあの有名な日向太刀ならばあの有名なである。そんなにすぐれた人物だから蘇我の人を大君がお使いになるのももっともなことだ」

皇女時代から政治的に一心同体であった二人だが、女子の傀儡という訳ではない。一度、子が王権の直轄領である葛城(あがた)を欲し、推古に賜りたいと述べた。これに対し推古はである子の言葉を尊重したいとしながらもそれを拒否している[10]子が大王に匹敵する権力者といえど、推古はその意のままになる人物ではなかった。

「朕の世にしてこの県を失えば、のちの君は『愚に(かたくな)しき婦人、下に臨みて頓に其の県を亡せり』と非難するであろう。あに独り朕の不賢のみならんや、大臣も不忠とならん。これ後の()の悪しき名ならん」『日本書紀

義江明子は推古天皇和風諡号とされている豊御食炊屋(とよみけかしきやひめ)は実際には(おくり)(死後に送られた名)ではなく、生前に彼女の業績を顕した讃え名だと推察した。大安寺の由来を記した『大安寺縁起』(8世紀成立)には「仲天皇」と呼ばれる女性が「炊女として(寺を)造り奉らむ」と記載されている。また平安時代において平野祭りや園神祭では巫女の一種として「炊女」の称が見え、に対する御食奉献の働きが「炊女」の語で示されたものと考えられる。よって推古の炊屋(カシキヒメ)とは推古が寺院造営に関わったことを示しており、雄略天皇ワカタケルのような讃え名であると見られる[11]

またその陵墓からも推古の強い権威が看取できる。推古の陵は『日本書紀』では「今は飢饉で民が飢えているから私のために陵を建てて厚く葬ってはならない」という遺詔に従って息子竹田皇子の陵に合葬したことが記されるのみだが、『古事記』では「御陵は大野上に在り。後に科長(しなが)大陵(おおみささぎ)に遷す」とあり推古が後代「大陵」に遷されたことが分かる。平安時代天皇陵の祭について書かれた『延喜式』には推古の陵には「陵戸一(えん)・守戸四烟」の合計五烟が当てられている。陵戸、守戸とは陵を管理する官吏・人民であり、持統天皇の詔では「先皇(さきのすめらみこと)の陵戸は五戸以上置け(中略)もし陵戸足らずは百姓(おおみたから)(もっ)て(守戸に)()てよ」とある。参考に神武陵と、推古前後の天皇陵の陵戸・守戸の数を一覧にすると以下のようになる[12]

備考
神武 守戸五烟 5
継体 守戸五烟 5
安閑 陵戸一烟・守戸二烟 3
宣化 守戸五烟 5
陵戸五烟 5
敏達 守戸五烟 5 推古の夫
用命 守戸三烟 3
崇峻 0 しは歴代で崇峻のみ
推古 陵戸一烟・守戸四烟 5
舒明 陵戸三烟 3
孝徳 守戸三烟 3
皇極(斉明) 陵戸五烟 5
陵戸六烟 6 安の皇統の始祖として扱われ格が高い
  • その他、開化天皇陵が十烟と極端に多い。理由は不明。

推古陵のランクは前後の男より高く、陵墓制度形成期(7世紀末~8世紀前半)の推古への評価の高さを物語る。また推古の前任の崇峻が陵戸・守戸共にゼロである点も注される。蘇我氏の専横の代表とされる崇峻暗殺であるが、その陵の扱われ方は臣民が崇峻の治世を低く評価し「先」と見なしていなかったと見ることができる[13]

遠山美都男は「当時の皇位継承が年齢を重視していたことは、大王には何よりも政治的な経験や実績められていたことを物語っている。崇峻が子に殺されても政治混乱が起きなかったのは、崇峻が人格・資質の基準を満たしておらず、臣がそれを承認していたためと考えられる。それ故にこの事件の後に即位する大王には高い基準が問われたに違いない。それを踏まえて推古が登極した事実から、大后として政治的な経験も実績も豊かな彼女こそがこの時点でもっとも大王に相応しいと判断されて王位継承することになったとみなして良い。推古は敏達の大后時代から大王在位の50年以上にもわたって実績を積み重ね、次期大王名するにまで至っている」と述べている[14]

上田正昭は「6世紀末中国を統一し朝鮮半島情勢も不穏であり、それを受けて日本北九州に大軍を集めるなど際緊感が強い時代であった。そんな折に権力集中のシンボルとして宮中祭の最高祭者として登極したのが推古である」と述べている[15]

安井良三は「蘇我氏のを持つ推古は、子の後援によって即位した」とする従来説に反対し、炊屋媛(推古)の明の子という血筋と大后としての執政経験を評価すべきであり、その即位は推古本人が導したものであったとしている。一般に蘇我馬子は崇峻を暗殺するなど大王に背き、専横を極めたとされる。しかし実際に子が敵意を向けたのは大王ではなく、反炊屋媛の皇族たちとその背後にいた物部氏であり、むしろ炊屋媛の権力は子を上回るほど絶大であったことがうかがわれる。子が穂部を誅殺する際も、用命・崇峻を擁立する際も炊屋媛の合意が必要されていることもそれを傍している。また史書では明記されていないが、子の崇峻暗殺も炊屋媛の命があったことが推察される。その根拠として、子に崇峻暗殺を命じられた実行犯の直駒(やまとあやのこま)は、事件の後に子に殺されている。しかし書記では彼が処刑されたのは天皇暗殺の罪ではなく、子のを奪ったことが原因とされている。この事実大王弑逆という大事件には子以上の権力者、つまり炊屋媛が介在していたと考えられる。炊屋媛が自ら皇位を踏んだ理由は息の竹田皇子を即位させるためであったと考えられる。竹田は上で述べたように中臣連に呪詛されていることからも皇位に近く、また物部戦争で参戦した皇族の中で「泊瀬部(崇峻)、竹田、厩戸、難波春日……」と崇峻の下、厩戸の上の二番名前が書かれており王族の中でも序列が高かったことが分かる[16]


  1. 蘇我氏』倉本P58
  2. 推古天皇』義江明子、P60
  3. 聖徳太子坂本太郎P40
  4. 日本の時代史③ 倭から日本へ』章、P16
  5. 天智天皇と大化改新』森田悌、P13
  6. 飛鳥朝廷と王統譜』篠
  7. 物部蘇我氏と古代王権』P12
  8. 日本書記研究 第十冊』「推古女仏教安井良三、P234
  9. 蘇我氏の古代吉村P122
  10. 日本古代史』長谷P42
  11. 推古天皇の讃え名"トヨミケシキヒメ"をめぐる一考察』義江明子
  12. 『訳注 日本史料 延喜式 中』P721
  13. 推古天皇』義江明子、P69、157
  14. 古代日本の女キサキ遠山美都男、P37、40、49
  15. 古代日本の女上田正昭、P118
  16. 日本書紀研究 第十冊』「推古女仏教安井良三、P216

厩戸皇子の「万機」の執政

推古政治の第一人者は蘇我馬子であった可性が高い。しかし子の子孫(夷・入鹿)が(いっし)の変で討たれ蘇我氏が反逆者の一族となったことは『日本書紀』の推古の記述にもを与えた。書紀は子を悪人として描くようなことはしていないが、子が導した事績や、太子が子と共同で進めた事績を太子に重点を置いて描く傾向が認められる。ただしやろうと思えば子の業績を全て太子のものに捏造することも可だったはずだが、子は晩年に至っても賞賛されておりそうはなっていない。その理由としての変で蘇我氏宗が滅んでも記紀編纂時期には子の子孫がまだ活動しており、彼らに配慮したとも考えられる[1]。なお記紀編纂期に即位していた文武、元明、元正天皇らはいずれも子の直系子孫でもある。

厩戸皇子の事績の考

事績
皇太子であった 当時は「皇太子」という位は存在しなかったが、斑鳩宮という巨大宮に住み、『書』では「ワカタフリ=太子」と呼ばれていることからも皇位継承の有力補であったことは事実と考えられる。
摂政であった 当時は「摂政」という職は存在しなかったが、政治に深く参画していたことは史実と思われる。しかし19歳という年齢を考えると推古即位直後から政権の中枢にあったかは不明。また書紀では推古の治世後半に「皇太子(厩戸)」の名前がほとんど現れなくなっている。
万機を総覧し、女推古の代理であった 書紀の「万機を以て悉く委ぬ」は海外史書の表現を引いたもので、厩戸が政治の第一人者であった可性は低く、推古も積極的に政治参加し、その一番の弼者は蘇我馬子というのが定説である。
使を派遣した 書紀に太子の名前はなく、使節の派遣に関与していたか説は分かれている[2]。太子が住む斑鳩飛鳥から難波に出るルートの要所にあるため外交は太子が導した?
十七条憲法を制定した 書紀では厩戸単独の仕事とされている。憲法の文章に後世的な語句があり記紀編纂時に作文されたことは確実であるが、それが全くゼロから作った創作物なのか、厩戸の書いた原が存在したのかは不明である。
冠位十二階を定めた 書紀に太子の名前はない。朝鮮の制度に酷似しているため、渡来人と関連が深い蘇我馬子体となった?
仏教した 三経義というお経の注釈書を著すなど太子が熱な崇者であったことは事実と考えられるが、子の仏教事業が一部太子のものになっている可性がある。
多数の寺を創建した 確実なものは推古と共に建立した斑鳩寺(法隆寺)のみで、四天王寺は説が分かれ、残りは全て厩戸は関係、あるいは導者ではなかったとされる。

厩戸皇子の時代には「皇太子」や「摂政」という職位は存在せず、厩戸が実際にどれだけ体的に政治に関与していたかは議論が分かれている[3]。たとえば『日本書紀』には「皇太子十七条憲法を作った」とあるものの、この憲法に使われる用語に後世的要素が見受けられるとして、推古の文章とは認めない学説も根強い。ただし用語は書紀撰述に際して加筆や潤色が加えられた可性もあり、太子が作った憲法日本書紀加筆されたのか、奈良時代創作された全くの仮構なのか、説は分かれている(次項で解説する)[4]

日本書紀に現れる「万機を以って悉くに委ぬ」という徳「太子」の「摂政」に関する表現は、中国朝鮮の史書を模倣したものであると考えられる。

「其皇太子副理万機総統皇太子をして万機を副理し、総統せしむ)」『書』「世祖紀」

「立王子恤為太子委以軍之事」『三国史記』「高句麗本紀」

  • 三国史記』自体の成立は『日本書紀』より後だがその原史料となる済三書はそれ以前から渡来していた。

書紀では他に、皇子がで「万機を(ふさねおさ)めしたまう」とある。また奈良時代に成立した『懐藻』では、大友皇子(後の弘文天皇)が天智天皇の治世で「()べて」「万機を(みずか)らにする」とされている。その役割は天皇にかわって全政治権力を行使したのでなく、全権を握する天皇のもとで、その執政のために政権中枢の一員となって補佐するものであった[5][6]。なお「万機(全て)」の政務に携わり、武から「大小のことは全て皇后(持統)と皇太子)に言うように」と遺言されただが、書紀にはの具体的な政治参加の記述はほとんどなく、武死後の葬送儀礼が一の例である。

「万機」という語は後世の文書でも定語として用いられている。

「なんぞ疾を抱くの残体にして、久しく端(職責)を辱しめ、数職を兼帯して、万機を(たす)くること()くべきむ」『乞骸表』770年成立。吉備備が称徳天皇に向けて出した辞職届[7]

景行天皇五十一年八月稚足(わかたらしひこのみこと)を立てて皇太子となす。この武内宿(たけのうちのすくね)を以て棟梁の臣となすなり。万機を摂行せしむ」『革命勘文』901年成立[8]

坂本太郎は「40歳の心身(すこや)かな推古天皇が、万機をわずか20歳の太子に任せて世捨て人のような生活に隠遁するはずはない。その意味では摂政などは必要がなかったが、子だけによる(ほひつ)の偏向性を是正し、太子と子とを両輪とする天皇政の万歳をしたのではないか」と述べている[9]

遠山美都男は「当時は男性大王でも政治的な補佐を必要としており、敏達の時代に大后制度が整備されたことで敏達の大后の推古が大王大権を分していた。その推古が即位すると彼女も同様に執政を補佐する皇族を必要とし、厩戸がその役を果たした[10]」。しかし「厩戸が大王補として政に参画する場合でも、年齢がまったく問題にならなかったとは思われない。厩戸は推古が即位した当時まだ20歳であり、大王としての即位はもちろん、有力な皇子として政に参画することもなお遠い将来のことだったに違いない」[9]として、実際に厩戸が政に参加したのは皇子が斑鳩宮という巨大宮殿を造営し、朝廷内部での立場の上昇が見られる30歳以降であると考察している[12]。書紀でも「皇太子」が命じたとされる制度改革などの記事が急に増えるのは推古九年の斑鳩宮建設の時期からである。その頃には他の補者たちが亡くなり厩戸が皇位継承する可性が上がったということも想定される[13]

なお厩戸皇子は推古二十九年に薨逝しているが、その半分に当たる推古十五年の神祭拝記事を最後に書紀からほとんど名前が見えなくなっていく。「皇太子」が臨席して然るべきシーン、たとえばの使者が書を奉呈する場面でも「皇子・諸王」とあるだけで「皇太子」の名前は見えない。次に「皇太子」が登場するのは6年後の推古二十一年であるが、これも片岡山飢人という伝説話であって政治に関わりがない。その次の登場はさらに7年後(推古二十八年)に厩戸と子が史書編纂を行なっているもので、それが最期の政治参加記事になる。つまり厩戸は推古の半分は活動がほとんど記されていないことになる。その原因には子と疎遠になった、高齢で斑鳩飛鳥の往復が億劫になった(斑鳩飛鳥はかなり距離が離れている)などが想像しうるが、実際のところは不明である[14]


  1. 聖徳太子 実像と伝説の間』石井成、P99
  2. 日本書紀の成立と伝来』「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建」榊原史子、P317
  3. 『詳説 日本史
  4. 日本古代史③飛鳥の都』吉川P27
  5. 聖徳太子吉村P42
  6. 聖徳太子大平
  7. 日本思想大系8 古代政治思想』P40
  8. 日本思想大系8 古代政治思想』P53
  9. 聖徳太子坂本太郎P41
  10. 古代日本の女キサキ遠山美都男、P43
  11. 天皇日本の起遠山美都男、P60
  12. 蘇我氏四代』遠山美都男、P150
  13. 前掲、石井P105
  14. 前掲、石井P192

冠位十二階と遣隋使の検討

厩戸皇子の事績として有名なものに冠位十二階の制定、遣使の派遣十七条憲法の執筆があるが、『日本書紀』で「皇太子(厩戸)」が行ったと明記されているのは十七条憲法のみである。

冠位十二階は『書』にも日本の冠位制度のことが書かれており推古で実際に実施されたことが分かる[1]が、『書紀では「始めて冠位をおこなう」とあるだけでその主語は書かれていない。しかし聖徳太子の伝記『上宮正徳法王説』には厩戸と蘇我馬子が冠位制度を定めたように書かれている。冠位十二階では蘇我氏は氏族制度に基づいた「大臣(おおおみ)」という古い冠位の下に「冠」という新しい冠位を頂いている。このようなやりかたは済の位階制度によく似ている。また等級を十二に分けている点は高句麗の制度と同じである。さらに高句麗、新羅、済の冠位制はいずれも冠・帯また衣服の色や冠に付帯する飾りによってその位階を示していること[2]も合わせて考えると、日本の冠位十二階朝鮮、特に済の制度を参照して作られたものと考えられる[3]。直木孝次郎は「済人の帰化人との関係の深さを踏まえると子が中心になって制度を作り、厩戸はそれに協力した程度だろう」と考察している。吉村は「『法王説』は伝記的性格を有するので厩戸の活動に関しては少し差し引いて評価したほうがいいだろう」と述べている[4]

書紀や『史』に記録される遣使は一般に聖徳太子の業績とされるが、書紀には太子の名前は見えずそれを導したのはか不明である。直木孝次郎は「第一回遣使(これは書紀に記述がない)が行われた年に、蘇我氏一族の(さかいべ)臣を大将軍にして新羅へ大規模の出兵していることから第一回は子が導したと考えられる。第二回、三回に関しては、使者となった小野妹子蘇我氏と関係が薄いこと、この頃の太子が大陸へ続く難波に近い斑鳩に居住地を移していること、同時期の新羅出兵の将軍に太子の同の来皇子、異の当麻皇子が任命されていることから太子が関与した可性は高い。ただし部臣の軍が戦果をあげたのに対して両皇子の軍事行動は途中で頓挫しており、子の実力は太子より上だったことを思わせる。子の通辞(通訳)を務めた作福利も、仏教の信仰と像の彫刻を通じて蘇我氏と関係を持っていたことから、二回、三回の遣使は子の助言・協力によって成功したのだろう」と述べている[5]

近年では推古がいた「飛鳥」、厩戸がいた「斑鳩」、二人によって建立された四天王寺が位置する「難波」の三所は、朝鮮半島へ繋がる交通網として外交と連動して計画的に整備されことが摘されている[6]斑鳩宮は陸路では竜田から渋川路を経て大阪湾に出ることができるし、路ではノ瀬の難所があるものの大和川運を利用して摂津の港に出ることができる。塚口義信は、以上のことから厩戸の斑鳩への遷宮は対外交渉の拠点作りにその最大の的があり、したがって推古外交政策の中心人物は女でも子でもなく聖徳太子であったと考えるのが自然だろうと考察している[7]


  1. 日本の歴史2 古代国家の成立』直木孝次郎、P91,92
  2. 聖徳太子田村清、P113
  3. 聖徳太子坂本太郎、P82
  4. 蘇我氏の古代吉村P117
  5. 『直木孝次郎 古代を語る8 飛鳥の都』直木孝次郎、P87
  6. 日本書紀の成立と伝来』「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建 「厩戸皇子」像の検討」榊原史子、P317
  7. 日本書紀研究 第三十四冊』「聖徳太子と推古外交政策」塚口義信、P24

十七条憲法の信憑性

十七条憲法に関しては書紀に「皇太子(みずか)(はじ)めてこれを作る」とあり、厩戸単独の仕事であることが強調されている。だが憲法には不自然なところが多く、江戸時代からすでに本当に太子の作なのか疑われていた。簡単なところでは憲法制定の年がやや不可解である。厩戸が憲法を制定したのは推古十二年に当たるが、これは干支では甲子に該当する。干支十干(甲丁…)と十二支(子卯…)を組み合わせたものであり、甲は十干の1番、子は十二支の1番ということで非常に縁起がいい年である。だがこれは太子が縁起のいい年を選んだか、年が不明だったので日本書紀編纂者が縁起のいい年を選んだ可性もある。『法王説』では憲法制定の年が推古十三年で書紀と一年ズレており、伝承が一つではなかったことが分かる。

また十七条憲法は7世紀初頭の文章としては漢文として美しすぎるということもある。憲法儒教仏教、法などの説を盛り込み、文章も『経』『尚書』『孝経』『論語』『左伝』『礼記』『管子』『孟子』「子』『荘子』『非子』『史記』『書』『文選』など幅広い籍から引用されている。例えば有名な一条「以和爲(和を以てしと為す)」は『論語』「里仁偏」の「礼之用和為」や『礼紀』「儒行篇」の「礼之以和為」に基づくものである。しかしこれも「だからこそ聖徳太子天才なのだ」とも言えるし、直接引用したのでなく美辞名句集のような書物から孫引きした可性も存在する。

より根本的なところでは戦前津田左右吉が摘した、十二条国司くにのみこともちくにのみやつこ百姓おおみたからから税を貪ってはならぬ」にある「国司」の語句が推古の時代にはそぐわないことである。国司が生まれるのは後世に庁が設置され「国司」が中央から派遣されるようになってからのことなので、「国司」の語句を含む条文は推古の文章そのままではないことが確実になる。

直木孝次郎は、二条天皇の詔を受けたら、必ず謹んで従え。君をとすれば、臣は地である」や十二条に二人の君はなく、民に二人のはない」という天皇を絶対視するような文章は、大王に匹敵する権力を持った蘇我氏が存在し、また諸族が多数の私有部民を有している時期に、天皇族の差は「地の隔たり」と表現できるほど大きなものであったか疑問を呈している。このような天皇の神格化は、申の乱を経て天皇の地位が上昇したや、公民制が実現し族の私有部民が消失した持統、つまり『日本書紀』の編纂時期の社会背景が最も似つかわしい。

また近年では『日本書紀』の音韻研究から、書紀は正格漢文で書かれたα群と倭習に満ちたβ群に分かれていることが判明している(参照『12章 記紀歴史叙述』「1節 記紀中国思想」「日本書紀α群執筆説中国人」)。これによればまず渡来人一世(すなわち在日中国人)が正しい漢文法でα群を執筆し、その後、倭人漢文法に誤りが多いβ群を書いたと想定される。書紀の推古の記述はβ群に属し、その術作は書紀編纂が開始された以降、書紀完成間近に潤色・加筆された可性がある。このことから推古の原史料が書紀成立期まで現存し、書紀の編集にそのままの形で利用されたということにはならなくなった。

しかし「国司」のように後世的な職や、条文に倭習があることが事実だとしても、その全てが後世の作品とは必ずしもいいきれない。一条「和を以てしとなす」といって族の融和を図ったり、二条(あつく)く三宝(、法、僧)を敬え」と仏教を尊重しているのもいかにも太子らしさがあり、また天皇のことを「天皇」でなく「君」で通している点にも古さが見える。よって十七条憲法は、後世に文章が修飾されていることは明確であるが、全文が後世にゼロから生まれた創作物であるかどうかは不明ということになる。熊谷男は「憲法七条が太子ひとりの作かどうかはともかくとして推古当時のものとする論者も多く、現在に至るまでこちらの方が多数意見といってよい」と評している[1]


  1. 日本の歴史03 大王から天皇へ』熊谷男、P234

厩戸建立寺院の信憑性

当時の仏教は個人の内面的信仰の問題に止まるものではない。中華皇帝が造寺・造や出写経によって皇帝長寿と繁栄を願わせることで王権強化を図ったように、古代大王仏教にも政治的な意味合いがあり[1]、推古の仏教政策も女政治参加の一つに数えることできる。以前は推古仏教政策は子と厩戸に依るものであって、「不執政」大王の推古の関与は薄かったとされていた。子と厩戸が深く仏教に傾倒し閣造営や経典の普及に努めたたことは疑いがないが、現在では『日本書紀』で推古が皇太子(厩戸)と大臣(子)に詔して仏教を命じたり、自ら寺造営を導していることが評価され、女もまた積極的に仏教策を講じていたと考えられている[2]。一方で厩戸のした仏教策の中には史実性が疑わしかったり、史書では推古や子との共同事業とされているものが「聖徳太子」一人のものとされていることが多い。

馬子や推古と共に創建された仏寺

聖徳太子建立七大寺と飛鳥

名称 伝承での創建者
四天王 太子(紀)、子と太子(説)、推古と太子(帳) 太子説、渡来人系の難波吉士説、倍氏説、蘇我氏説で分かれる
寺(丘寺) 太子→氏(紀)、太子(説)、推古と太子(帳)
中宮寺 太子(説)、推古と太子(帳)
木寺 太子(説)、推古と太子(帳) 木氏の氏寺で、木氏が建立に尽力したと考えられる
斑鳩寺(法隆寺 太子(説)、推古と太子(帳) 事実と考えられる
太子(説)、推古と太子(帳)
法起寺(池後寺) 太子(説)、推古と太子(帳)
飛鳥寺(元寺) 子(書紀)、子と太子(説)、推古が太子と子に命(元) 書紀で子の造寺の詳細に過程が記されており、創建を導したのは子と考えられる
紀=『日本書紀』、説=『上宮徳法王説』、帳=『法隆寺縁起并流記資財帳』、元=『元寺縁起』「丈六銘」

日本書紀』には推古天皇は「皇太子(厩戸)と大臣おおおみ子)に詔して三宝(、法、僧)のを図った」とあるように、仏教は推古是であった。厩戸も少年の頃から熱心な崇者として知られ、済の渡来僧から仏教を学び、そこで得た知識を講経を通じて推古にも伝えていた。現代でも「聖徳太子が建立した」という謂れの寺院奈良の各地に数多く存在し、その中でも有名なものを聖徳太子建立七大寺と呼ぶ。しかし747年に成立した『法隆寺縁起并流記資財帳』には(厩戸のの)用命天皇ならびに過去の歴代の天皇ため、推古天皇聖徳太子が「法隆寺学問寺、并四天王寺、中宮尼寺、尼寺、岳寺(寺)、池後尼寺(法起寺)、木尼寺」を造立したと記され[3]、7つの寺院を建てたのは女と厩戸の二人の事績になっている。また寺院の建立には渡来人技術者が関わっていることから済人を統括していた蘇我氏も参画していたことは確実と見られ、考古学研究成果も併せて考えると実際に太子が推古で建立・創建した可性のある寺院はほとんどなく、学説的に支持され得るのは異説も多い四天王寺と、推古と共に創建した法隆寺斑鳩(いかるが)寺)のみである[4][5]

たとえば『上宮徳法王説』では厩戸は「元・四天皇等の寺を起つ」と、元寺(飛鳥寺)と四天王寺のことが書かれているが、『日本書紀』では子が済から仏舎利(ぶっしゃり)ブッダ)・僧侶、寺工、露盤博士パーツの専門)、瓦博士、画工などの工人を得て飛鳥神原で造営が始まったとあり、元寺造営の体が子であることに疑いはない。その後の工事の記述も詳細で、現存する元寺の木材の年代調によっても586年伐採と確認され、書紀の記述が正しかったことが裏付けられた[6]。後世、孝徳天皇仏教に功のあったものとして厩戸の名を挙げず、蘇我子の名を挙げている[7]ことからも、子とその、稲日本仏法の基礎を築いた外護者であったことが分かる。しかしの変(いわゆる大化改新)で蘇我が滅び、檀越(檀)を失った元寺は、経営の便宜上「推古と子の共同の発願であった」とか「推古が太子と子に命じて建立せしめた」などと天皇との結びつきが強調されるようになったと見られる[8]

厩戸の四天王寺創建伝説

日本書紀』には推古即位の年に「四天王寺を難波の荒陵に造り始めた」とあるが、その主語は書かれていない。しかし物部戦争の際に、厩戸が戦勝を祈って四天王を奉る寺を建てることを約束したという有名な逸話と併せて四天王寺は厩戸が創建したというのが一般的な理解である。だがこのエピソード物語性が強くかつ不自然で、これまでの研究においても史実ではないという見解が繰り返されてきた[9]

書紀によれば、物部守屋戦闘中の厩戸は「(ぬりで)」を切り取ってあっという間に四天王像を作ってに置き「もし勝利したら『護世四王(四天王)』のために寺を建てましょう」と祈願した。それを見て子も「諸大神王のために寺を建てましょう」と誓願した。しかし切迫した戦場の中で、木を切り取って素く像を掘るというのは事実とは考えられない。また当時の厩戸は14歳であり、参戦した皇族の中でも名前は3番に記述され序列が低く、戦闘自体も厩戸は「(いくさ)の後に(そな)えり」とあり最前線から離れた所にいた。戦闘にあたってまず頼るべきは武神である四天王であるが、「ひさごの」の形にを結っている(つまり子供の)厩戸が、軍の総大将にして大臣の子に先んじて四天王に祈願するのもかなり不自然である。よって厩戸と子の誓願は、本来一つの誓願を二つに分けて記された可性がある[10]

また厩戸は四天王を「護世四王」と呼んでいるが、この語は義浄訳「金明最勝王経』に見える言葉である。さらに厩戸が四天王僧を彫った「」もやはり「王経」の中で特別な力を持つ香木の一つとして記載されている。この「王経」が日本に伝来したのは703年であるから、厩戸の四天王建立伝説が生まれたのは703年から日本書紀が成立した720年の間に限定することができる。なお別訳の王経はもう少し古くから存在していたが、この訳には「護世四王」は語はあるが「」の語がないので引用元とは考えられない[11]

出土瓦から見た四天王寺の創建者

考古学的には四天王寺の瓦は斑鳩寺(の若(がらん)という建物)に使用された素弁八葉蓮華文軒丸瓦(そべんはちようれんげもんのきまるがわら)同笵(どうはん)(同じ)のものが使われていることが判明している。四天王寺の瓦は若よりも笵傷(瓦のに生じた傷)が進行していることから、四天王寺の建立は若よりも後ということが分かる。

佐藤によれば、四天王寺の瓦を制作していた平野山瓦窯では瓦と共に須恵器(すえき)も焼かれていた。この須恵器は7世紀の前葉でも新しい段階から7世紀中葉にかけて位置付けられるとし、さらに法隆寺の造営に伴って埋め立てられた溝から7世紀前葉の土器が出土している。以上のことから四天王寺の造営は620年代~630年代に始まったと考えられる(厩戸皇子死去は622年)。

佐藤説に対し網伸也は、この瓦製作所は四天王寺の瓦を焼くことが的であり、それが完成した後に須恵器も並行して作るようになったので、須恵器の年代から瓦の年代を推測することはできないと反論した。加藤謙吉は佐藤説を支持し、造営が開始された時期は620~30年代であり、四天王寺のある難波の地はさまざまな氏族が集まった組織である難波吉士(なにわのきし)の勢力圏であることから、四天王寺を創建したのは難波吉士とした。元々の四天王寺は海外使節に応対する施設とタイアップする形の宗教施設として准官寺的な寺院的も用いられる私寺)であったが、645年のの変の後に王権が関与することで寺の性格が変わり、官寺的な要素が強くなった。すなわち本来の四天王寺と厩戸皇子の関わりは本質的に認め難い[12]

これに対して三舟之は、四天王寺は620年代には造営されていて、後世に舒明天皇によって創建された吉備池寺(済大寺)と同笵の瓦が使用されているところから、難波吉氏のような一氏族の寺院ではないと反駁した。蘇我氏の持つ造寺集団を使役することが可である地位、また多くの寺を作る経済力、そして篤い仏教信仰を兼ね備えた人物として、四天王寺の創建者はやはり厩戸皇子と考えられる[13]。推古二十年代(610年代)には法隆寺の若完成していることから四天王寺の創建年代も推古二十年代で、推古三十一年(623年)の「新羅からきた像と金、舎利を四天王寺に収めた」という記事からこのときには四天王寺の金堂は完成していたと考えられる[14]


  1. 聖徳太子 実像と伝説の間』石井成、P49 
  2. 日本書紀研究 第十冊』「推古女仏教安井良三
  3. 前掲、石井P157
  4. 日本書紀の成立と伝来』「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建 「厩戸皇子」像の検討」榊原史子、P301
  5. 聖徳太子吉村、P93
  6. 推古天皇』義江明子、P90
  7. 『直木孝次郎 古代を語る8 飛鳥の都」直木孝次郎、P89
  8. 聖徳太子田村澄、P74
  9. 前掲、榊原P311
  10. 前掲、石井、P86
  11. 前掲、榊原P312
  12. 前掲、榊原P307
  13. 日本書紀の成立と伝来』「片岡山飢者説話の形成 『日本書紀』『日本霊異記』万葉集』から」三舟之、P263 
  14. 前掲、榊原306

「聖」化される厩戸皇子

聖徳太子」には古い時代からさまざまな聖人伝説がある。ここではそのうち太子生誕伝説片岡山飢人伝説について検討する。聖徳太子が厩で生まれたという有名な伝承は仏陀の逸話が元となったと見られ、片岡山飢人伝説中国道教思想に由来する創作話である。

太子生誕伝説

「厩戸」皇子の名前の由来は皇子が厩で生まれたことに因んでいる。『日本書紀』によれば穂部間人(あなほべのはしひと)皇女が「禁中を巡行して諸を監察」しているときの役所に「至った」時に痛が始まり「厩の所で」太子を「労せず」産んだとある。臨妊婦、しかも皇后になる以前の穂部が禁中を監察しているのはかなり不自然であり、これは厩戸を聖人化するために創作された逸話と考えられる。

馬小屋で生まれた聖人というとイエス・キリストが有名であるが、聖書にはそのようなイエス誕生譚は存在せず、イエス馬小屋で生まれたという伝承は後世のものである。唐代のネストリウスキリスト教文献でも、少なくとも現存する写本にはそのような逸話は書かれていない。厩戸皇子のこの説話はイエスではなく仏陀の誕生を参照したものと見られる。闍那崛多(じゃなくった)が訳した伝『本行集経』「下誕生品」では仏陀が生まれる様子を、「王の夫人である」摩耶(マヤ)が「臨の身」で、あちこちのを「観看し」て周り、あるの下に「至り」そのの「ところで」枝を握ると「苦しむことなく子を産んだ」。その子は「産まれるとすぐ話した」とある。そして王の子である釈尊は当然「太子」と呼ばれている。以上のように仏陀と厩戸の生誕の状況はかなり酷似しており、この話が厩戸の生前から存在したか、書紀編纂期に生まれたものかは不明だが太子の生誕が潤色された物語であることがえる。仏陀の誕生には見えない「厩」に関しては何らかの史実を繁栄している説が強く、現存史料には見えないが厩戸の何らかのを飼う氏族に関わりがあったと考えられる。なおここでいう「厩」は粗末な畜小屋ではなく、当時にあってはを飼うと同時に高等教育現場でもあった[1]

片岡山飢人伝承

片岡山飢人伝承とは『日本書紀』、『日本霊異記』、『万葉集』に載っている不可思議な物語である。書紀のあらすじは以下のようになっている。

聖徳太子片岡山に遊行した際に、で飢人に出会った。太子は飢人に飲食と自らが着ていた衣服を与え、歌を詠んだ。翌日、使者が太子に飢人の死を報告し、太子は墓を作って埋葬させた。数日後、太子があの飢人はただの人でなく「真人」であろうと告げその場所を見に行かせたところ、墓には屍はなく衣服のみがんで置かれていた。太子がその衣服いつものように着たところ、時の人は「を知ること、それ実かな」と感嘆した。

万葉集』や『日本霊異記』にも大筋同じ話が掲載されているが、細かいところで数多くの異動が見える。例えば太子が出会った人物は書紀では「飢人」だが、霊異記では「病人の物乞い」で万葉集では「死人」あり、太子が出向く場所も異なっている。

この説話は道教の神仙思想の解仙(しかいせん)思想(人が死んだ後に生き返り仙人となること)をモチーフにしており、戦前から津田左右吉や久米によって聖徳太子信仰に基づく虚構の説話と評価されていた。田村(えんちょう)は、この逸話は「『隠身の』を見抜いた聖徳太子こそ『』であるという題を見ることができる」とし、高壮至は「この逸話は太子の伝記『上宮聖徳太子伝補闕記』の史料になった『調使臣等二記』から採取され、太子の片岡遊行に付随して解仙や高僧伝が二次的に付加されたものである」と摘した。飯田瑞穂も「調使記」を逸話の原資料と認め、調使氏が渡来系氏族であることから大陸由来の神仙思想の解仙説も調使氏によって太子伝に盛り込まれたとする。

三舟之は書紀、霊異記、万葉集の伝承はそれぞれモチーフは酷似するものの細部において異なる点があることから、ある元となった説話をベースにそれぞれ別々に形成されていったものと考察した。明日香村の遺跡から「性」という僧侶が「飢者」や「女人」へ食料を支給していたことを示す木簡が出土しており、当時は飢饉の際には僧侶が救恤活動を行なっていたと分かる。「片岡山飢者説話」の飢者や病人についてもその救済に仏教者が関わり、その活動に仏教信仰が篤い厩戸や法隆寺僧侶が携わっていた可性がある。その仮定に沿うと、この説話はまず斑鳩片岡で飢者や病人に対する悲傷歌が生まれ、それがやがて仏教信仰に篤い「聖徳太子」を顕する原説話となっていったことが想定できる[2]


  1. 聖徳太子 実像と伝説の間』石井成、P57
  2. 日本書紀の成立と伝来』「片岡山飢者説話の形成 『日本書紀』『日本霊異記』万葉集』から」三舟之、P261

三経義疏撰述の信憑性

聖徳太子の撰述書に三経義(さんぎょうぎしょ)」と呼ばれる注釈書がある。これは太子が経典の講義を行う中で作成した勝鬘経義(しょうまんきょうぎそ)』『法華経(ほっけ)』『維摩経(ゆいまきょう)』の三つの総称であり(義とは「解説」の意)、特に現存する法は太子が直筆したものとされる。学術的には「三をすべて太子の作と見る」説、あるいは「全て後世の偽作と見る」説、「太子は監督しただけであって朝鮮からの渡来僧が書いた」説などで分かれている。

日本書紀』では太子が勝鬘経と法華経の講経(経典の授業)を行ったと記されているが、講経と注釈書撰述は質的に異なる作業なのでこれだけでは何とも言えない。また維摩経についての記述もない。一方で『上宮徳法王説』には法隆寺の史料に基づいた各義の記述があり「上宮御製」と太子が作ったことが明記されており、さらに8世紀半ばの『法隆寺縁起并流記資財帳』にも「上宮徳法王御製造」と書かれ法隆寺系の史料には三が太子撰述であると伝わっていたことが分かる。また745年以前に東大寺写経所が法隆寺から『勝鬘経義』と『法華経』を、院寺から『勝鬘経義』を借りており、しかもその書には「上宮王撰(聖徳太子が書いた)」の文字が記述されていた。つまり遅くとも8世紀半ばには「徳が撰述した」と伝わる義実在したことになる[1]

井上貞は「法王説の記述に、義の作成に高句麗の僧・慈が師匠として加わっていることが注され、慈以外にも朝鮮系外来僧が義の執筆に積極的に加わっていたと推測される。つまり『上宮王撰』とは厩戸がたった一人で述作したという意味ではなく、厩戸を導者として外来僧の協力による学問的活動の成果であった。それが後世の聖徳太子信仰の発展によって厩戸一人の制作であるとする偉人観が拡まっていったと考えられる」としている[2]

のうち勝鬘経義に関して学会に大きな衝撃を与えたのが、太子の勝鬘経義と7割ほど内容が一致している煌写本の発見である。は「勝鬘経義煌写本(B)の元になった注釈(A)を略抄した中国北地の二流の文献(C)であり、遣使が日本に持ち帰ったものを購経の際に太子が読み上げたにすぎず、それがやがて太子の作になった」とした[3]

勝鬘義(本義)の原本(A)┬勝鬘義 煌本(B)
                └伝来の勝経義疏(C)─改修された勝鬘義疏 宝治刊本(D)

現存する最古の勝鬘経義鎌倉時代の宝治刊本(D)であり、これはCを中国で改修されたものと考えられる。勝鬘経義が元の文献を単に写しただけのものならば、それを厩戸皇子の著作とすることはできない[4]

これに対して東野治之は「中国の学問は儒教仏教共に先行研究をほとんどそのまま踏襲した上でわずかにオリジナルな見解を加えるのが普通であり、酷似した別の著作が存在すること自体なんら不思議ではない。このような学問の方法が古代日本にも摂取されたことは『集解』に集められた各種の注釈を見ても明らかである。つまり勝鬘経義に酷似する煌写本があるからといって太子の勝鬘経義古代日本の著作でないとはいえず、また内容に独創性が低くても安易にその価値を低く観るべきではない」と反論している[5]

また東野は太子直筆の『法』に関してもそれは史実であると唱える。その根拠として法 第一巻巻頭にある文字には「大委」の時が見える。倭を「委」と表記する用法は有名な「国王」の金印や済の文献を引用した日本書紀の記述、そして藤原宮跡から見つかった「委之」など、要するに非常に古いものである。つまりこの『法は遅くとも8世紀初頭までに書かれたものと推察できる。更にこの書は表ボロボロになっていて題名が読めず、それをめくると短冊状のが貼られており、そこに表題と上宮王について書かれている。太子の著作であると示すだけなら表を取り替えるのがすっきりするが、それを敢えて避けて内側に別の貼りをするという手段がとられたのは「義の原をそのまま残したい」という強い意向の現れと見える。すなわちこの『法は太子の生原稿である可性が高いと言える[6]


  1. 聖徳太子吉村P107
  2. 聖徳太子吉村P107
  3. 聖徳太子 実像と伝説の間』石井成、P168
  4. 聖徳太子吉村P107
  5. 大和古寺の研究』「『勝鬘経義』の「文」と「語」」東野治之、P145
  6. 大和古寺の研究』「ほんとうの聖徳太子東野治之、P116

厩戸の地位とワカミタフリ

厩戸皇子は「皇太子」ではなかったものの単なる一皇族ではなく、皇位継承有力補として朝廷内での地位は高かった。たとえば大后に私部が置かれたように推古十五年には皇子の名代(直属の支配地、支配民)も改められ、厩戸の財政基盤として壬生(みぶべ)(みぶ))が国家秩序に組み込まれている[1]。さらに厩戸は30歳の時に斑鳩宮を造営しているが、このような宮は全ての皇族が持てるものではなく、同兄弟の最年長の皇子だけに認められるものであった。群群斑鳩町にある法隆寺東院地下遺構がそれに当たると考えられており、近年の発掘調では斑鳩宮は最小でも一町(約109m)四方という大規模なものであったことが判明している。このような大きな宮殿を新たに営むことができたことは厩戸の大王内部における身分の高さを明している[2]。また厩戸の長男の山背大父親が即位していないにもかかわらず次世代の最有力天皇補になっており、厩戸が天皇に準じる位置にあったことを示している[3]

厩戸の呼び方に関しても『古事記』で兄弟たちは単に「久米王」「植王」と表記されるだけなのに対し、厩戸のみ「厩戸豊聡命(ウマヤトノトヨトミミノミコト)」と「命」号がついており、『古事記』編纂段階で既に大王に準じる特別な扱いになっている。聡明さを讃える「トヨトミミ」も元寺縁起の露盤銘に「有麻移弥ゝ乃弥己等(うまやととよとみみのみこ)」とあり生前の称と考えられる。さらに法隆寺釈迦三尊像背は厩戸が死んだ翌年に造立されたとみられ、そこには「上宮法皇」の語が刻まれており、こちらに関しても生前から成立していた可性が高い。すなわち厩戸皇子は生前から「仏法に優れた王」と称えられる存在であった[4]

また『書』には「太子を名付けて利歌彌多(わかみたふり)と為す」、『(かんえん)』には「王の長子を利哥彌多(わかみたふり)と号す、言の(中国でいう)太子なり」と述べて厩戸を「太子」としている[5]。ただし「わかみたふり」=「(皇)太子」というのは中国側の認識であって、その実態は不明である。平安時代の『源氏物語』や『物語』には「わかむどほ(を)り」という語があり、これは「皇太子」ではなく皇族の若者一般を意味する。また奈良時代木簡の中に、長屋王の子女に「若翁」という二字が付されている事例が数多く確認される。東野治之は、漢字の古訓を豊富に載せる鎌倉時代の『字抄』で「翁」を「タフレヌ」としていることから「若翁」を「ワカタフリ」と訓読した。ワカタフリがもともとは皇族一般をす言葉であったならば、厩戸が太子であったとは言えなくなる。

これに対して平安時代後期の辞書『類聚名義抄』の「翳」の訓に「タフレキ」があることから「翳」と「翁」が混合された可性もあり、また木簡に「智 努若翁…智努若王」との習書が見えることから「若翁」は「若王」と同じとする説も呈されている。一方で鎌倉時代以前に成立した『音訓篇立』にも「翁」の訓の一つに「タフレヌ」があり、また「王」をあえて字画の多い「翁」と書く理由が不明である[6][7][8]

門脇二によれば「ワカタフリ」は田村皇子(舒明天皇)をしている。「」という漢字を「ムラ」と読むのは奈良時代中頃以後のことで、飛鳥時代には「フレ」、「フリ」と読んでいた。その語古代朝鮮語で「落」を意味するPörであり、神武天皇の諱の「イワレヒコ」も「イワ(岩)」+「(フレ)」。神武が即位した「橿原(カシハラ)」も「クシ(古代朝鮮語で「大」)」+「フル)」となる。「ワカミ」は「高み」や「深み」と同じく「若い状態」をす語なので、ワカミ/タ/フリとは若い+田+。つまり「若君の田村」で当時若年であった田村皇子を意味する[9][10]


  1. 天皇歴史神話から歴史へ』大津透、P233
  2. 蘇我氏四代』遠山美都男、P150
  3. 聖徳太子 実像と伝説の間』石井成、P102
  4. 推古天皇』義江明子、P88
  5. 前掲、大津
  6. 聖徳太子大平聡、P62
  7. 長屋木簡研究東野治之、P24
  8. 長屋木簡の基礎的研究章、P24
  9. 日韓古地名の研究金沢三郎P21、266
  10. 日本古代内乱』「推古成立のころ」山尾幸久、P125

厩戸が「聖」化された理由

以上に見てきたように厩戸皇子が有力後継者補として政治に深く関わり生前から高い評価を受けていたことは史実だが、同時に『日本書紀』で美化が行われていることもまた事実と考えられる。その理由についても様々な考察が存在する。

大平聡は、日本書紀の中で厩戸が「皇太子」にされたのは皇子に擬せることで、「が生きていれば必ず即位が約束されていた」ということを歴史事実として定着させるためであるとした。書紀が編纂されていたのは、推古から約100年離れた奈良時代初期である。その頃の権力者であった持統や藤原不比等は皇位の系嫡流継承の確立しており、書紀もその正統性を補強するものでなければならなかった。

皇子は、史書上の厩戸皇子遇が酷似している。天皇が崩じた後、天皇位は位のまま持統天皇が称制を行った。皇子を成長を待つための持統の中継ぎであったというのが定説であるが、天皇崩御時には24歳である。若いとも言えるが文武天皇15歳で即位していることを考えると中継ぎを置くほどでもない。そして女持統が4年も称制している間には薨去し結局即位することはできなかった。これは推古天皇王座にある間に薨じてしまった厩戸のシチュエーションと共通している。また史書の二人の政治参加の描写も酷似している。

厩戸豊聡耳神子(とよとみみのみこ)聖徳太子立てて、皇太子とす()りて摂政(まつりごとふさねつかねど)らしむ万機(よろずのまつりごと)を以って悉くに委ぬ」

「是の日に皇子尊を立てて、皇太子とす。因りて万機を(ふさねおさ)めしたまう

持統天皇が即位を熱望していた皇子は当時にあって決して次の天皇約束された存在ではなかった。持統は24歳のを即位させなかったのではなく、何かの要因で出来なかったと推察される。当時、天皇息子である高市皇子というの対抗がいた。死後、高市は皇位継承最有力補であったが、持統は彼の即位を防ぎ、の遺児の軽皇子(文武天皇)の即位をすために女として中継ぎ即位した。持統は従来の兄弟継承から子継承へと皇位継承のルールを変更するために皇子の血統が正統性を高める必要があった。そこで史書で厩戸皇子皇子に類させることで「生きていれば必ず天皇なるはずだった皇太子」としてのイメージに付けたのである[1]

直木孝次郎は「推古渡来人の力を統合し、政治仏教導した人物は聖徳太子ではなく蘇我馬子であった。しかし蘇我氏宗を滅ぼし、天皇を中心とする中央集権律令国形成をす7世紀後半の朝廷はそれを認めることができなかった。大族の蘇我氏が推古新政の功労者となってしまうと、その子孫を滅ぼした中大兄皇子天智天皇)が悪者になりかねない。そのため子の功績を小さく評価する必要があり、代わりに取り上げられたのが厩戸皇子であった。こうして書紀編纂者は子の功績の多くを太子のものにすり替えて太子の地位を高めた。「徳」という名称もその過程で作られたものだろう(「徳」の確実な初出は707年の金石文、書紀完成720年)」と推察している[2]

男は「較的信頼度の高い古史料は厩戸を『皇太子』と呼んでおらず、厩戸=皇太子は書紀独自の理解と表現であったと見て良い。厩戸は推古の即位と同時に20歳で皇太子になっているが、書紀で他に20歳で皇太子になった人物には中大兄皇子智)と皇子がいる(前章で述べたように書紀はこの両者の血統を非常に重視している)。特に天皇の即位と同時の立太子は、書紀の中でも中大と厩戸の二人に限られ例外的な記述である。厩戸と中大はそれぞれ当時の推古、孝徳と子関係も兄弟関係もなく、何らかの作意が考えられる。こうした『皇太子』へのこだわりは書紀全体を貫く課題であり、厩戸の立太子は皇位継承の不透明な時期に皇太子の制度の理想を書紀が創作してみせたものであった」としている[3][4]

大山一は「書紀編纂の最終段階において皇太子だったのは(おびと)皇子(武)だった。首の立場を強固なものとし、天皇位への即位を円滑なものとするために、持統確立した皇太子の地位を厩戸皇子に当てはめ『日本書紀』は厩戸を皇太子にしたのだろう」と考察している。榊原史子によれば、聖武天皇国分寺に金字の『金明最勝王経』を安置することを命じている。国分寺の正式名称は「金明最勝王経四天王之寺」であり、では『金明最勝王経』「四天王品」に基づいた寺院が各地に建立されることとなった。「厩戸の四天王寺創建伝説」で上述したように書紀の厩戸の説話には金明最勝王経と四天王に関わる創作話があり、「皇太子」厩戸の像は聖武天皇の姿と重なっている[5]


  1. 聖徳太子大平
  2. 『直木孝次郎 古代を語る8 飛鳥の都」直木孝次郎、P89
  3. 聖徳太子歴史学』新男、P12
  4. 日本書紀の成立と伝来』「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建」榊原史子、P314
  5. 前掲、榊原P314

明治時代の推古天皇と聖徳太子のイメージの変化

現在の「政治ができない女性天皇を(ほひつ)する男子皇太子」の女-摂政イメージ戦前教科書している。明治20年代に旧皇室典範が定められ、天皇男性でなければならず、過去の女性天皇は全員仮摂(中継ぎ)とされた。これにより過去の女たちの事績は小化されていった。明治5年の歴史教科書『史略』では聖徳太子は「厩戸皇子を太子として摂政にせしむ。冠位十二階を定む。小野妹子へ遣はす」とあり、日本書紀の記述に則って諸々の事績の体は女推古になっている。しかし旧皇室典範で女が禁じられる前後から「皆、厩戸皇子ノ立案ナリ」と推古の業績は聖徳太子のものに変更されていった。それらは『日本書紀』と矛盾し、後世史料である江戸時代の『日本政記』や『大日本史』を参考にしたものであった。

明治26年には旧皇室典範の案者にして女否定の筆頭であった井上(こわし)が文部大臣に就任する。その翌年に出版された『小学校用 日本歴史』では「推古天皇が女であるから、そのお世嗣・皇太子である聖徳太子摂政に就いて女の御名代として政治を行った」、「太子の世によって皇位につくことがなかった」とされている。これ以降「聖徳太子天皇にならなかったのは彼が推古よりく死んだためである」、「推古が女であったから聖徳太子摂政になった」という教科書記述が定着した。明治32年の『新撰 帝国史談』でも「是等は、太子の摂政中にありし事共にて、皆、其御計らいなり」と推古の政策が聖徳太子導であることが強調されている。天皇男子でなければならないとする旧皇室典範では摂政が置かれるのは天皇が「幼年」か「故障者」であったので、女である推古は「故障者」と見做されていた[1]

皇室典範で女性天皇が禁止されるまでの歴史教科書の例

『内史略,8巻 元』、『小史,12巻. 之2』1874年(明治7年)、『日本史.上』1879年(明治12年)、『小日本略史』、『小日本史

いずれも「推古天皇」で項が立てられ、聖徳太子厩戸皇子)を皇太子にして摂政させたことを記した後、教科書によって多寡があるが、推古の業績として仏教朝鮮半島にある任那への軍事行動、遣使の派遣、冠位十二階屯倉(みやけ)日本各地にあるヤマト王権の直轄地)の設置と幅広く記述してある。さらに『小史』では、摂政であった神功皇后と異なり推古は「正位に即」いたとして推古天皇が正統な大王であることが書かれている。一方の聖徳太子は『日本書紀』で太子の仕事と明記される憲法七条の制定や寺の建立、歴史書の編纂の他は、推古の「勅」や「詔」を受けて執政していたとされている。


女性天皇が禁止されて以後の歴史教科書の例

『尋常小日本歴史 童用 巻一』1909年明治42年)、『小史 尋常科用 上巻』1940年昭和15年)、『初等科史.上』1943年昭和18年

聖徳太子」あるいは「法隆寺」で項が立てられ、解説聖徳太子になっている。推古の政治参加の記述はほぼゼロで、『尋常小日本歴史』では「推古天皇は女にてましませしかば、政治皇太子にまかせ給ひき」と、推古は女性であるゆえに太子に政治を任せたと書かれている。

現行の高校教科書山川出版、学校図書、実教出版)では古代研究の成果が取り入れられ、聖徳太子にかける重は次第に少なくなっていき、政治改革も蘇我馬子の存在を重視する見解が増えている[2]

なお典範とは関係に、聖徳太子人気明治中期から大正時代にかけて急上昇していた。生前から中世まで神視され続けた太子であるが、江戸時代に入ると羅山や熊沢蕃山などの一部の儒学者から批判を受けるようになる。太子は「子と結んで崇峻天皇を暗殺した」と糾弾され、日本が堕落したのは「皆な上宮太子(聖徳太子)よりおこれり」と説かれた。水戸学においても、太子は清らかだった日本に外の野蛮な教え(仏教)を導入し、憲法七条では一言も「神」の名が見えておらず敬神の心がないと痛罵された。幕末から明治初めに行われた毀釈運動も拍をかけ、明治元年には法隆寺は寂れ、僧侶は数人しかおらず、伽(寺の建物)も漏りする有様であった。

それが明治十年代半ばから太子の再評価が始まる。西洋人のフェノロサが法隆寺像を絶賛し、寺院の宝物は日本が誇る文化物と見直されるようになる。当時の日本は列強との不条約改正や近代憲法制定をしており、大と「対等外交」し憲法の元祖を定めた太子はナショナリズムの観点から高評価された。大正時代にはその流れはさらに進み、上宮教会聖徳太子奉讃会などの団体により「太子こそ日本文化の祖だ」と世間に喧伝された[3]


  1. 聖徳太子歴史学』新
  2. 『直木孝次郎 古代を語る8 飛鳥の都』直木孝次郎、P86
  3. 聖徳太子 実像と伝説の間』石井成、P19

『扶桑略記』と『水鏡』の聖徳太子評

先述したように後世資料の『扶桑略記』(11世紀末成立)と『』(12世紀末成立)には、推古が「私は女性であるので物が分からない」と述べて聖徳太子政治を任せたという記述がある。

推古天皇は即位された翌年に『私は女の身である。全てのことに考えが至らない。だから国家の世事は聖徳太子が摂行してください』と仰せられたので、民はみな喜び合いました。厩戸皇子はこの時に皇太子に立たれまして、正式に政治を執り行われましたのです」『

これまで述べてきたように、推古が政治の全てを太子に任せて自らは政務に一切関わらなかったというのは史実と認められない。この記述に関して、両書の記述全体に聖徳太子礼賛が顕著に見られる点が留意される。

扶桑略記』は神武から天皇にかけての事柄を仏教の発展史の観点から記した歴史書であり、『』は漢文で書かれた扶桑略記を翻訳した歴史物語である。両書共に仏教価値観に基づいて書かれており、特に『』は太子が仏法日本に広め定着させた功績から、全体を通して最も詳細に取り上げられている。では敏達から推古にかけて太子の誕生からその死までの逸話を逐一に追っており、薨去に際しては以下のように高い評価を与えている[1][2]

推古天皇二十九年二月二十二日、聖徳太子が亡くなってしまわれた。お年は四十九歳でした。天皇をはじめ万民一同は、まるで自分らのに死別したかのようにたいへん悲嘆にくれたのでしたよ。

右にはだいたい、太子の事についてその一端だけを申しました。又もここに、改めて猶、申し続けるべきでないかも知れませんが、太子の素晴らしい事はご承知でしょうけれども、どうしても繰り返し申さずには居られないのですよ。

聖徳太子がこの世に出現なさらなかったら、「到底、この明長から抜け出せない」という訳で、私らは仏法の名も理法も知らない哀れな身であったでしょう。仏法の教えはから唐土に伝わって三百年という時、済に伝わって、更に年経ってこの日本へと渡来されたのでありました。

その時、もし太子のお力や識見がなかったなら、このの人々は皆、あの物部守屋の悪い考えにわせられて、まるで明の闇に迷っていたことでありましょうよ」『


』の現代語訳は『全評釈』河上騰に拠った。

  1. 歴史物語講座 第五巻 歴史物語講座刊行委員会、P43
  2. 史大系史書解題下巻』

3節 皇極(斉明)天皇と中大兄皇子

2人の女である皇極天皇は史上初めて公式に生前譲位した天皇であり、また初めて重祚した天皇である。皇極天皇即位当時の朝廷子の子孫である蘇我夷、入鹿子が専横を奮って大王圧迫しており、その中で即位した皇極(斉明)女の治世は通説の中継ぎ論に基づくと以下のように説明できる。

  1. 641年、皇極は後継者争いを防ぐために緊急避難的に中継ぎ即位する
  2. 645年には中大兄皇子天智天皇)が中臣足と手を組んで蘇我氏宗を滅ぼした((いっし)の変)
  3. 皇極は息子中大に譲位を申し入れるが辞退され、代わりに皇極の同の孝徳天皇が即位し、中大皇太子となった
  4. 中大は孝徳を傀儡としていたがやがて二人の関係は悪化し、中大は皇極や臣を連れて旧都に戻り、孝徳を見捨てた。
  5. 孝徳の死後に皇極が斉明天皇として重祚した。
  6. 明朝では中大が称制し、政治の万機を担った(女-摂政体制)。
  7. 斉明の死後、中大はすぐに即位せず6年間称制してから天智天皇として践祚した。

以上を踏まえ皇極(斉明)に関する皇位継承には以上の5つの論点がある。

  1. 皇極が即位した経緯
  2. 皇極が孝徳天皇が譲位した経緯
  3. 孝徳天皇が崩御後、中大ではなく斉明天皇が重祚した経緯
  4. 明朝における摂政中大)の役割
  5. 斉明天皇が生前譲位しなかった理由

①皇極の即位

               蘇子┬蝦─入鹿     
                └蘇我法提郎女
                            |古人大
1欽明┬2敏達押坂人大───5舒明
    |                      |10中大智) 
               茅渟王7皇極 (9斉明)  
                      └8孝徳
        
    ├3用明厩戸山背大
    ├5推古
    6崇峻    

  • 数字明を1とした継承順
  • 先述したように、当時の皇位継承は直系(嫡流)継承でなく、同世代(キョウダイ)継承が基本であり、世代数が重要であった。
  • 上の系譜は世代ごとに色分けしている。天皇の子世代孫世代曾孫世代玄孫世代
  • 皇極と孝徳天皇は実際には明の玄孫だが、皇極は舒明天皇キサキとして、孝徳は皇極のとして曾孫世代として扱われる。
  • 後に定められたでは、天皇兄弟息子王としている。の注釈書では継嗣にある「女の子もまた同じ(く王である)」を拡大解釈し、女兄弟もまた王としている[1]。よって皇極のの孝徳は三世王でありながら王(一世王)的な存在であった。

蘇我氏系譜

蘇我子─夷─入鹿
    └堺部摩理勢

皇極天皇の即位に関して、日本書紀にはただ「皇后天皇として即位した」とあるだけで経緯は書かれていない。よって今回も状況論から皇極即位の経緯を推察する必要がある。

書紀では皇極即位の記述は簡潔だが、その前代の舒明が即位する様子は詳細に描かれている(舒明紀の半分は即位事情に費やされている)。推古天皇はその死に際して人大息子田村皇子(舒明)と厩戸の息子の山背大を呼んで以下のように諭した。

田村皇子に向けて「天皇となって人々を養うことについては簡単に発言すべきことではない。いつも重んじてきたところだ。だからは謹んで察するがよい。軽々しく発言してはならない」

山背大王に向けて「は未熟である。心に望むところがあっても騒がしく言ってはならない。必ず群臣たちの言葉を待ってそれに従いなさい」

推古が死に際に敢えて呼び出したことからもこの二人が次世代天皇補がであることは分かるが、その遺詔は曖昧でどうとでも受け取れるものであった。そのため蘇我氏内部で田村を推す夷(子の息子)と山背大を推す部摩理勢(さかいべのまりせ)子の)の間で争いが起き、夷が摩理勢を殺す形で田村皇子が選ばれた[2]

13年後、舒明するとその妃の皇極が即位する。祖父天皇でない3世王の皇極はもともと皇位継承とは縁がない存在だったが、舒明の大后となることで皇位継承資格を獲得していた。しかし先述の通りその経緯は全くの不詳である。当時の朝廷には3人の有力男性皇族がいた。

備考
中大兄皇子 舒明と皇極の息子で後の天智天皇も妃も蘇我氏ではない非蘇我系皇族。皇極即位当時は十代半ばだった。舒明の次世代。
山背大(ましろのおおえのおう) 厩戸皇子息子蘇我氏だが蘇我氏の妃は持たない。本人には蘇我貴族意識があったが、皇極が即位した翌年に蘇我入鹿によって殺される。舒明と同世代。622年に49歳で死んだ厩戸の長子なので皇極即位時(642年)には40代半ばであったと推測される[3]
古人大皇子 舒明と法提郎女(子の)の子で中大の異子を外祖父に持つ蘇我系皇族になる。の変の後に中大に殺される。舒明の次世代。

皇極の即位の解釈として有力視されているのは(それを「中継ぎ」と呼称するかは別として)推古と同じように皇位継承争い回避としての緊急避難的女である。すなわち蘇我夷は若い世代の古人大を推していたが舒明と同世代の山背大の勢力も侮れず、駄な諍いを避けるために同世代継承の論理に則り舒明の皇后であった宝皇女が担ぎ出されたという論理である。旨は同じでも各論者ニュアンスが異なるため一覧にして掲載する。

鎌田元一 夷の意中は子の孫である古人大であったが山背を推す勢力も強かったと予想され、加えて中大16歳と若いとはいえ(もがり)(しのびごと)(哀悼の意)を奉るほどの成長もあり油断ならなかった。このような状態で王位継承の争いをひとまず回避するため、先代大王の妃である皇極が擁立されたものと見られる」[4]
大樹 「舒明天皇死後の皇位継承は、舒明の同世代継承か、一つ下の世代(古人大中大)に皇位を移すか紛糾したと考えられる。夷は古人大を推していたが当時の王位継承は世代内継承であったため山背大無視できない。皇極の即位はいわばその妥協の産物として舒明と同世代の皇極が選出されたのであろう」[5]
大津 「山背大、古人大中大のいずれとも決め難い状態で皇極が中継ぎとして即位した」[6]
熊谷 蘇我氏が皇極を担ぎ出したのは山背大の即位を阻止して古人大の即位の芽をつまれないようにすることが的であった」[7]

蘇我氏は古人大の即位をしたが明玄孫世代である古人大の即位のためには曾孫世代の山背大が邪魔だった。そこで曾孫世代かつ大后としての権威を有する皇極女を即位させ、その後に山背大を討滅した」[8]

「皇極は敏達系王族と蘇我系王族を結節する位置にあり、前皇后としての経歴が『古のに順考へて政をしたまふ』と評価されて即位にいたったのだろう。推古が王族の代表の厩戸、群臣の代表の蘇我馬子という権力核の下に40年近く安定した統治を続けたので、舒明朝さざなみに鑑みて女の下で有力皇族・族が協業して権力集中を実現するという女王分権)に期待するところがあったのかもしれない」[9]

倉本 「有力補が複数存在する中で玄孫世代の古人大中大大王位を継承させるとなると世代交代を伴う。曾孫世代の山背大が残っている中での世代交代は紛争を招きやすく、しかも古人大中大のいずれに継承させればいいのか明になっていない情勢での前大王の大后の即位というのはぎりぎりの選択であった」[10]
森田 「宝皇女(皇極)がスムーズに即位したようであるが、有力補として山背大、軽皇子(孝徳)、古人大らがいて群臣も一人に決定できない状況があり、おそらく大臣夷の導下で協議を行い、宝皇女擁立で意思統一が図られたとみてよい。夷が山背大の即位を嫌い、古人大の擁立を狙う状況下では宝皇女による襲位以外に延臣の間に選択の余地はかったと思われる」[11]
吉川 「書紀は宝皇女を「皇女(1世王)」と表記するが実際には押坂王に属する「孫王(3世王)」に過ぎなかった。したがって血統的には天皇位からかなり遠い人物であったが、有力な皇位継承補者として山背大中大・古人大という三人の「大」がおり、上宮王・押坂王蘇我本宗それぞれの思惑から紛擾が予想されたため、事態を先送りすべく(皇極としては長子中大の成人を待つべく)大后という立場から皇位についたものと考えられる」[12]

おおよそ共通するのは「蘇我氏が導になり、皇位継承争いを回避するため」に皇極は即位したことである。しかし皇極が即位した翌年、蘇我氏によって皇位継承争いが勃発している。上宮王事件とも呼ばれるこの政変で、蘇我入鹿は「上宮王ら(山背大)をし、古人大天皇にする」とし、斑鳩宮にいた山背大を討滅している。書紀ではこの行動が入鹿の独断専行であることが強調され、夷は入鹿軽率行動に嘆き悲しんだとある。だが平安時代に成立した『聖徳太子伝補闕』ではこの軍勢に夷、そして軽王(孝徳天皇)や巨勢徳太・大伴養など後に左大臣・右大臣になった有力氏族も加わっている。補闕は上宮王聖徳太子)と深い関係にあった調使(つきのおみ)氏と氏の記録を参考にして撰述されたもので、それなりに信頼できる史書である[13]。また奈良時代藤原足の曾孫が編纂した『氏家伝』では入鹿は「諸皇子と謀って行動を起こした」とあり、こちらにしても独断専行にはなっていない[14]

蘇我入鹿の専横の一つに数えられる山背大王の殺だが、夷だけでなく有力皇族・氏族も斑鳩宮攻撃に参加している「補闕」「伝」の記述を信じるならば、山背大排除は蘇我と非蘇我氏勢力の共通利であったことになる[15]倉本は「父親天皇でない二世王にすぎない山背大斑鳩という交通の要衝に蟠踞して独自の政治力と巨大な経済力を擁しているというのは支配者層全体にとってもけっして望ましいことではなかっただろう」と考察している[16]。また不自然なことに「古人大天皇にするため」に山背大を倒したにもかかわらず、事件後に肝心の古人大については何の記事もなく、天皇位に就いたことも確認できない[17]

平林章仁は、通説に反して皇極の即位は女自身の導であったと摘している。皇極即位時には表立った闘争があったようには思われないにもかかわらず、史上二人の女が誕生しているが、この背景には皇極の自身の属する皇統への強い執着が存在したと考えられる。たとえば皇極は同の孝徳に譲位し、孝徳には自らのの間人皇女がせている。蘇我氏の意中は夷の甥の古人大であり、王内の序列に従えば舒明死後に古人が即位するのが順当であったが、古人との血の繋がりのない皇極は舒明の大后としてそれを阻止し、自らの王統継承をして自ら即位したのではないかと推察される。その代わりに皇極は蘇我氏に(子が推古に割譲を要して断られた王領の)木県を除く、(5世紀の大族の)葛城氏の旧権益の継承を認めたものと思われる。皇極即位年に夷は高宮への祖と今来への双墓の造営を行なっているが、これらは蘇我氏が葛城遺産を継承した徴的営為であった[18]


  1. 『注標 義解校本 P42
  2. 聖徳太子 実像と伝説の間』石井成、P225
  3. 『直木孝次郎 古代を語る8 飛鳥の都」直木孝次郎P127
  4. 岩波講座日本通史第三巻古代2、七世紀の日本列島鎌田元一、P24
  5. 岩波講座日本歴史第2巻 古代2、大化改心と改革の実像』大樹P258
  6. 天皇歴史01 神話から歴史へ』大津透、P273
  7. 日本の歴史03 大王から天皇へ』熊谷男、P246 
  8. 日本の時代史3 倭から日本へ』P40
  9. 天智天皇章、P30
  10. 蘇我氏』倉本P113
  11. 天智天皇と大化改新』森田悌、P36
  12. シリーズ日本古代史③飛鳥の都』吉川P50
  13. 前掲、吉川P54
  14. 蘇我氏の古代吉村P141
  15. 日本の時代史3 倭から日本へ』P40
  16. 蘇我氏』倉本P114
  17. 前掲、吉川P55
  18. 日本古代史足研究書⑤蘇我氏の研究平林章仁、P54
皇極中継ぎ論への反証

男子の皇位継承者が一人に絞れない際に、政治力のない女中継ぎで立てた」とする皇極天皇中継ぎ説に対する反論も存在する。

遠山美都男は「当時の王位継承は執政力が重視されており、舒明の大后であった皇極は山背大、古人大、軽皇子(孝徳)、中大を上回る政治実績を持っていた。したがって皇極は蘇我氏の傀儡ではなく中継ぎ天皇とは言えない。推古が構想していた皇位継承は敏達統と用明統の両統迭立であり、崩御の直前に敏達の孫の田村皇子(舒明)と用命の孫の山背大を呼び出し、それぞれの血統から順番に大王を排出することを約束させた。そのため舒明の死後は、用明統の山背大の即位が順当であったはずだが、舒明は敏達統の正統(嫡流)化を狙って妻の皇極を次代大王名したと考えられる。推古が次代の大王名したように、舒明にもまた次代の大王名権が与えられていた。皇極は本来は玄孫世代だが叔父の舒明と婚姻を結ぶことで曾孫世代となって世代条件をクリアし、また大后に与えられる私部に加えて財部と呼ばれる属集団も支配下に置いていた点が大臣や群臣らからも評価されていたと見られる。

皇極は蘇我の玄孫であることから、皇極の産経営には蘇我氏が深く関与していたとみなして間違いない。入鹿の山背大討滅も皇極の命を受けてのことと考えられる。書紀には入鹿が「独り謀りて」とあるがこれは「独断で」という意味ではない。書紀の別箇所で同様の表現として舒明が即位する際に蘇我夷は「大臣(おおまえつきみ)()独り嗣位(ひつぎのくらい)をを定めむと(おも)へり」とある。この「独り」は夷の独断ということではなく、本来は重要な決定は群臣が合議で決めるところを「独り大王から命を受けて実行したという意味になる。よって入鹿の「独り謀りて」も同様に皇極の命独りで受けたという意味に解釈される。すなわち上宮王討滅事件とは皇統の安定化を狙った皇極による山背大排除であり、同様にの変での入鹿夷が粛清されたのも、皇極がの軽皇子と共謀して古人大を排除することに的があった」としている[1][2]

蘇我氏と皇極の関係

      欽明─敏─彦大兄─茅渟王
       |──┐        |───┬皇極
 蘇目┬桜井皇子──吉備  └孝徳
     └馬子

義江明子は「皇極(宝皇女)の諡号は『重日足(あめとよたからいかしひたらし)』で、同の孝徳『万豊日(あめよろずとよひ)』とべて「タカラ」の字が立ち、それが彼女の資質に関わる重要な要素であったことが了承される。姉弟の吉備王は「吉備祖母(きびのしまのすめみおのみこ)」と称され蘇我曾孫にあたる人物である。孝徳では「官直営田ちょくえいでん吉備祖母きびのしまのすめみおの各地の貸稲いらしのいね(稲を貸して利息をとるもの)を止し〜」と、わざわざ官営の田と並べて彼女名前が語られていることから、吉備が富裕な皇族であったことがわかる。当時の財は男女で等しく継承される双系的なものだったため、皇極はからは人大の、からは蘇我氏の財・領地・領民を受け継いでいた。さらに皇極は孝徳の皇后として十余年にも及ぶ統治実績があり、智、間人(孝徳の皇后)、武からなる同子集団の女の長=ミオヤとして族たちとの広範な人格的関係を築き上げていたと推定される。安易な中継ぎ論に流れることなく、有力王族の一員にしてキサキという皇極の立脚点から皇極即位の背景を理解すべきだろう」と述べている[3]


  1. 『新版 大化改新』遠山美都男、P82
  2. 古代日本の女キサキ遠山美都男、P54
  3. 古代王権論』義江明子、P190

②皇極の譲位

の変の後、皇極は同の孝徳に史上初めて公式に生前譲位を行った。即位した孝徳は50歳であり、慣例に従った同世代継承であった。『日本書紀』によれば、皇極は当初は息子中大兄皇子に譲位しようとしたが、皇子と足は「(異の古人大が健在なのに即位するのは良くない」として叔父の孝徳に皇位を譲った。孝徳もまた古人大に譲ったが、最終的に孝徳が即位した。当時の中大は19歳であり、年齢的に即位は難しかった。

なぜ皇極が皇室史上初の生前譲位を行ったのかは諸説存在する。一つには若年であった中大の成長を待ち、古人大を抑えるための譲位だったという。だがそうであるならば皇極が玉座に座ったまま中大が成長した後に譲位すれば良く、わざわざ譲位する必要がない。孝徳は後に皇極・中大と反しており傀儡にできるような人物ではなく、また『書紀』に孝徳が傀儡であったという記述もない。孝徳に皇位を譲ることで古人大を抑えられても、今度は孝徳天皇息子の有間皇子が皇位継承の有力補に上がってしまう。有間皇子は年こそ若かったが彼の族の倍氏は軍隊の要職についておりその勢力は侮れないものがあった。当時の著名な将軍羅夫も倍一族に連なる人物である。実際に有間皇子は中大の脅威として見られ、後に絞首刑になっている[1][2]

その矛盾点を解消するのに近年注されているのは遠山美都男や篠賢などが提唱している、の変の首謀者は書紀が示す中大中臣足ではなく軽皇子(孝徳)だったという説である。以下に挙げるの変の要参加者および孝徳の重臣は中大を除き、全員和泉和泉とその周辺、摂津河内一帯に本拠や権益の所在地を有している。そしてその地は即位前の孝徳の本拠があった場所である。

このうち石川麻呂麻呂は孝徳に妃を入れて婚姻関係を結んでいる。すなわちの変は孝徳を中核として地縁や姻戚関係によって結集していた族たちのグループ導していたもので、足や中大はその一構成員でしかなかったと考えられる。この説に則れば皇位を狙った孝徳が中大を手駒として蘇我氏宗を倒し、皇極から皇位を譲り渡された。だが結局は皇極に皇位を取り返されたと褄が合う[3][4][5]

遠山の説では皇極と孝徳は共犯だったとしているが、仁史は同じくの変の中心人物を孝徳としながらも、皇極はこれに参加しておらず政変によって孝徳が女を強制位させたと考察している。書紀では古人大の変の原因を「政」の対立だと語っている。当時の日本江の戦いを間近に控え、唐との間に緊感が走っていた。その大唐帝国は女君を酷く嫌っており、643年には善徳女王が統治していた新羅に対して援軍の条件に「婦人王」の止をめている。これを受けた新羅は647年(つまりの変の後ではあるが)に反女王毗曇(ひどん)が善徳女王打倒をした内乱を起こしており、女を擁する日本も対火事ではなかった。すなわち古人大のいう「政」の対立とは、大の唐や新羅に接近すると、従来通り唐と距離を置き済と密な関係を維持する対唐独立の対立である。グループの中心であった孝徳は緊迫した際情勢を背景に唐が嫌う女性位させ、男として即位したと考えられる。そして独立であった斉明の重祚は強制退位させられた女中大の反撃であった[6][7]

女性政治不安の関連を暗示するものとして、斉明朝から100年の後、760年に成立した藤原氏伝『氏家伝』で蘇我入鹿が山背大王を討つ呼びかけで以下のように「皇后皇極天皇)が臨(即位せずに皇后政治)していると、山背大が反乱を起こすに違いない」と述べている[8]

(まさ)に今、天子(すめらみことかむあが)りたまひて、皇后(おほきさきでう)に臨みたまふ。心必ずしも安くあらず。(なに)ぞ乱けむ。外甥のびず、以て国家(はかりごと)を成さむ


「今、舒明天皇が亡くなって大后宝皇女皇極天皇)が大王として政治を行っているが、それでは心に不安なものがある。このままでは内乱が起きるに相違ない。山背大がわが蘇我氏のミウチだからという理由で遠慮することなく、除くべきものは断固として除き、国家の安泰をこそはかりたいと願っている」

大樹は、の変以前から皇極は譲位する意向を持っていた(あるい譲位を要請されていた)可性があったと考察している。書紀には蘇我氏の山背大討滅の直前に、群臣・伴造に対する饗応があり「叙位」が議せられたという記事がある。この「叙位」とは譲位を意味しており、女を嫌う唐の際的伸長を背景に皇極の退位が議論されていたという。しかし話し合いは古人大の即位を論んでいた蘇我氏にとって不本意な結果に終わり、蘇我勢力は山背大襲撃という実力行使に出たと見られる[9]。別の見解では、皇極天皇蘇我氏の傀儡であったため、蘇我氏宗の滅亡と共に皇位を追われたという説も有力視されている。つまり皇極天皇は「譲位」したのでなく強制位であったと見る考え方である[10][11]

皇極が強引に位させられたという見識を傍するものとして、佐竹昭は「孝徳に立てられた日本初の元号『大化』は、従来の改元が翌年の正月をもって改めるのに対し大化は孝徳の即位と同時に始まりを置いている。これは中国では譲位(簒奪)の場合の称元法であり、その内実において孝徳の新政権の出発の宣言と見ることが可である」と摘している[12]

貞子は以上の説とは異なり、皇極が退位したのは将来的な中大の即位のためだったとしている。初期の女の即位は立太子と不可分であり、女の実子の継承権は失われることになっていた。推古は厩戸皇子聖徳太子)の立太子と共に即位し、推古の子の竹田皇子は継承権を消失した。皇極もこのルールに基づき古人大の立太子と共に即位したため、中大天皇になるためには母親を退位させなければならなかった。斉明崩御後に智が6年間も即位できなかったのもこの女の子は即位できないという皇位継承法のためである[13]


  1. 天智天皇遠山美都男、P166
  2. 日本古代の王権と王統』篠
  3. 『大化改新』遠山美都男
  4. 『偽りの大化改新』中村修
  5. 古代日本の女キサキ遠山美都男、P70
  6. 『女の世紀』仁史、P99
  7. 東アジアからみた「大化改新」』仁史、P10
  8. 天智天皇遠山美都男
  9. 岩波講座日本歴史第2巻 古代2、大化改心と改革の実像』大樹
  10. 日本古代史③飛鳥の都』吉川P57
  11. 古代日本の女上田正昭
  12. 古代の人物①日出づるの誕生』「斉明(皇極)天皇佐竹昭、P266
  13. 持統天皇貞子

③斉明の重祚

孝徳が崩御した後に皇極は斉明天皇として重祚する。この時の詳細も『日本書紀』には書かれておらず、今回も中大兄皇子の即位は見送られている。この頃の中大は30歳になっており、やや若いとも言えるが即位してもおかしくない年齢に達している。孝徳の息子の有間皇子との後継者争いを防ぐためだったとも言われており、上述したように有間は後継者争いに敗れて中大に殺されている。

または「皇極は孝徳勢力によって強引に位させられたのだから、孝徳の死後は皇極が復位するのは当然だ」と認識されていた可性もある。その根拠として、重祚した斉明天皇は皇極時代の王宮であった飛鳥蓋宮(いたぶきのみ)を即位の場所に選んでいる。当時の大王は即位のたびに遷都するのが基本だったので、斉明の即位は皇極の延長だと考えられていた。ただし火事が原因で斉明が飛鳥蓋宮にいたのは短期間で結局彼女遷都している[1]

貞子は「孝徳天皇を見殺しにした中大兄皇子に非難が集中するのは当然で、孝徳死後にすぐさま即位したのでは皇位の簒奪者、亡者とみられ、人望を失うことは明らかであったため即位を見送った。この際、中大は孝徳の皇后の間人皇女中継ぎとして即位させようとしたが拒否されたため、仕方なく母親を重祚させた」とする[2]

中村修也は「当時、血の穢れを受けた皇子は神なる大王にはなりにくい不文があった。例えば蘇我入鹿が山背大王を討伐する際に、古人大が入鹿行動を止めており、ここに権力者と血の穢れとの関わりが描かれている。また用明朝で皇位継承有力補であった穂部皇子が三輪君逆を殺しようとした際に、蘇我馬子が『王たる者は刑人に近づけず』と諫言している。ここでは罪人に近づくことでの穢れしか述べられていないが、実際は罪人を自ら殺する、あるいは殺の場にいることによる血の穢れの方が忌むべきことだった。血の穢れ観念が生まれた時期は不明だが、日本書紀編纂時にはそのイメージ確立していたことは確かだろう」としている[3]

中村の血の穢れ説に対し、遠山美都男は「中村氏がいうような『血の穢れ』に対する極端な忌避があったとは考え難い」と述べる[4]。書紀成立以前にその手で殺人を犯した天皇は、智の他に2代の綏靖天皇、21代の雄略天皇、25代の武天皇がいる。綏靖天皇のタギシミミノミコトを射殺した勇敢さを讃えられて、もう一人ののカムヤイミミノミコトから大王の座を譲ってもらっている。

(カムヌナカワミミノミコト)(綏靖)は、(カムヤイミミノミコト)の持っていた矢を引きとって、手研タギシミミノミコトを射られた。一発で胸に命中させ、二つめを背中に当てついに殺した。そこで神八井カムヤイミミノミコトは、恥じて自分からに従った。神尊に譲って言われた。「私はお前だが、気が弱くてとてもうまくはできない。ところがお前は武勇にすぐれ、自ら人を倒した。お前位について、皇祖の業を受けつぐのが当然である。私はお前の助けとなって、神々のおりを受け持とう」

また軍を率いて自ら戦場に出た天皇神武天皇を筆頭に、志毘臣を攻め滅ぼした仁賢天皇申の乱の勝者となった天皇など数多く存在する。

遠山美都男は「女中継ぎ傀儡天皇という定説は誤りであり『の変で皇極が強制退位させられた』というは後に斉明が重祚した件とも褄が合わない。中大を差し置いての斉明の重祚は、彼女が属する明の曾孫世代を支持する群臣層が背景にあり、玄孫世代の中大を支持するは少数であったのだろう。斉明は大の「ミオヤ」として、史上初めて血縁(世代内)継承でなく、正嫡という血統によって大王推戴されることになる「ミコ」の中大のために相応しいプロセスを荘厳に準備する必要があった。その例が中大(やまとみやこ)の中心である後飛鳥岡本宮の造営や、狂心渠(たぶれごころのみぞ)と揶揄された運河の掘削であった。また斉明女は、東北北海道遠征や済救援戦争導していた。これらの軍事行動的は、敏達統の権威と正当性をが見てもわかるように示すことであった」としている[5]


  1. 岩波講座日本歴史第2巻 古代2、大化改心と改革の実像』大樹
  2. 持統天皇貞子
  3. 『偽りの大化改新』中村修也、P99
  4. 智と持統』遠山美都男、P28
  5. 『新版 大化改新』遠山美都男、P86

④女帝-摂政体制

日本書紀』には皇極時代の女は「古来のに基づいて政治を行なわれた」とあり、同時に蘇我入鹿が「自ら政を執り、勢いは夷)よりも強かった」とされている。また即位元年に日照りが続いたので夷が乞いを行ったが効果がなかった。そこで今度は皇極が祈祷するとが降り始め、潤った百姓は女を「この上もない徳をお持ちの天皇である」と礼賛している。「氏家伝」では皇極の評価は辛く、「皇極には政治的な心力がなく、皇室の権力は衰退して政治蘇我夷やその子、入鹿を中心に行われるようになった」とある。斉明として復位してからは書紀には「皇太子中大)」に関する特別な記述はないが、「伝」で斉明天皇は「悉々く庶務を以って皇太子に委ぬ(政治は全て皇太子中大兄皇子にお任せになった)」とあり、女-摂政制度の存在が示唆されている。実際に斉明女は即位時62歳という高齢(これは年代不確かな初期大王を除くと最年長タイ)ということもあり、政治の多くを息子に任せていたというのが定説である。

しかし斉明は政治力のないお飾りという訳ではなかった。先述したように斉明女は宮殿や渠の設営など大工事をいくつも導しており、書紀にも「時好事(天皇工事を好まれた)」と記されている。女が始めた工事に駆り出された人の数は凄まじく、それを原因として有間皇子(孝徳の息子)の反乱計画まで発生している。書紀には斉明天皇主語として「大きな蔵を立てて人民の財を集め積んだこと」「長い用水路を掘って七万人以上の人夫に食糧を費やしたこと」「二隻の舟に石を積んで運び、を築くというようなことをしたこと」が女の3つの失政として糾弾されている。

考古学的には明日香村大字石のある丘陵の中から、岩の切石を四段に積んだ石垣が数十メートルにわたって発掘されている。年代を特定する遺物は発見されなかったが、石垣の場所が斉明の宮と推定される遺跡の東約300mに所在し書紀の記述と合致することから斉明の築いた石垣ではないかという推測が強い[1]。これらの大工事を中大導した可性もゼロではないが、女中大が十代半ばだった皇極の時代から数多くの大規模工事を発起していることは留意される[2]。これらの大工事は女の個人的な好みだけの問題ではなく、極度に緊する東アジア際関係の中、来する高句麗済・新羅の使者に日本威を示す示威行為でもあった[3]

皇極天皇は大臣(夷)にみことのりして『大寺を造りたいと思う。近江と越の、用の人夫を集めるように』と言われた。また諸に命じて船舶を建造させた」

皇極天皇は大臣に『今から十二月までの間に宮殿を造りたいと思う。々に用材を採らせるように。また東は遠江とおとうみまで、西は安芸あきまでの々から、造営の人夫を集めるように』と言われた」

他に斉明天皇の事績に挙げられるのは天皇征である。朝鮮半島情勢がいよいよ不安定になった時期、斉明は難波宮を行幸し、九州まで自ら出している(御西征)。飛鳥時代での天皇征はしいことである。中大が67歳で晩年を迎えていた九州遠征を命じるとは考えづらく、彼女自身が望んで前線に向かった可性が高い。万葉集に残る、額田王が女に代わって詠んだ「熟田乗りせむまてば 潮もかなひぬ今はこぎいでな」という征西軍を鼓舞する歌からは斉明の積極的な士気がえる[4]。結局、斉明女揮をとりながら九州の地でし、中大はその死を深く嘆いている。

熊谷男は「斉明は息子政治の全てを任せたお飾りではなく、高い政治力を有する女であった」と述べている。皇極は譲位後も祖母(すめみおのみこ)として朝廷で重きをなして発言力は高く、孝徳との決別や斉明の重祚は中大でなく彼女の意志が大きかった。皇祖母尊とは天皇号が成立する以前の尊称で、皇室女性尊長を意味する[5]千田稔は「通説のように斉明朝政治を本当に中大兄皇子導していたのか疑っても良い」と述べて、中華帝国日本国家事業を推進した斉明の天皇権力を積極的に認めている[6]

「斉明は政治を悉く皇太子に委ねた」と記す『氏家伝』を編纂した藤原麻呂は、中国文化に傾倒し、朝廷の唐風化を進めると共に儒教的徳治政治を行い、また女上皇の孝謙と政治的対立を深めつつあった人物である。皇極女への「政治心力がないため王室衰微し、君による政治ができなかった」という否定的な評価は、仲麻呂の孝謙へのネガティヴなイメージ投影されていた可性がある[7]

更に、上述した『藤氏家伝』の蘇我入鹿の檄文では、皇極天皇天皇(すめらみこと)でなく皇后(おほきさき)と呼び、その執政を「臨皇后が即位せずに政治すること)」と表現し、女を正式な天皇として見なしていない。ただし伝の他の箇所では女を「後崗本天皇」と呼んでいることから、その扱いには一貫性がない。これは伝が編纂された当時、皇后・皇太后として天皇大権を行使していた皇后皇極天皇モデルになった故と考えられる[8][9]

遠山美都男は「斉明天皇が在位しているのだから中大の『称制』は厳密な意味での『称制』とは言えず、正式即位前の中大の執政を『称制』と名付けたのはあくまで日本書紀であった。日本書紀では天智天皇王政復古を成し遂げた英雄的人物と捉えていたので、即位前の智の権力執行を『称制』という中国的な概念を用いて表現したのは自然なことである。智の執政を『称制』と命名したのは、同じく正式に即位する前に天皇権力を夫から受け継いだ鸕野讃良(ののさらら)持統天皇)と考えられる。彼女が自らの執政を正当化するために日本書紀天智天皇関係記事に手を加えた可性は極めて高く、中大の『称制』はその一つである[10]」「東北遠征と済救援という二大軍事作戦企画しただけでなく、後者では自ら揮を実行したことから見ても斉明を単なる中継ぎとすることは当たらない[11]」としている。

河内人は「書記では中大は孝徳や斉明朝皇太子の立場で政治の実権を握していたとするが、近年では孝徳の再評価が進められ、必ずしも中大のみが政治の中心であったわけではないことが摘されている。皇太子制度が成立していない段階ではいかに大であろうと独自にミコトノリ天皇の命)を発布する体になりえず、仮に中大の実権を認めるとしてもそれは治下王のミコトノリを通じて具現化したからであり、中大政治的立場は孝徳や斉明の存在があってこそであった。『中大皇太子として自ら政治を推し進めた』というのは天皇権力を代行しう皇太子イメージに引きずられたものであり、たとえば『聖徳太子摂政』が史実として認められていた時代の産物である」と述べている[12]

斉明中大
└孝徳─有間

中村修也は、上で述べた有間皇子の謀反は、従来は中大が皇位継承のライバルを追い落とすために有間に謀反を唆して殺したという中大導説が有力であるが、実際にはこれを導したのは斉明であるとしている。の変の首謀者を孝徳と見た場合、斉明にとって有間は簒奪者の息子であった。孝徳が崩御した時点で斉明が重祚するのに最も邪魔なのは有間であり、彼の15歳という若年につけ込んで彼女が即位した後も孝徳の重臣たちが有間を中心として反女勢力として集まっており障りな存在であった。斉明をに持つ中大は順当に行けば次の大王は自分であるため有間を特別に危険視する必要はないが、斉明は本来は孝徳死後に有間が即位するべきところを自らが大王に就いたため負いがあった。すなわち有間皇子謀反事件とは息子の邪魔を取り除き反斉明の息の根を止めるべく女が起こしたものと考えることができる[13]


  1. 『直木孝次郎 古代を語る8 飛鳥の都」直木孝次郎P138
  2. 前掲、直木、P141
  3. 前掲、直木、P148
  4. 天皇歴史01神話から歴史へ』大津透、P310
  5. 日本の歴史03大王から天皇へ』熊谷男、P278
  6. 遷都P129,137
  7. 藤原麻呂』仁史、P176
  8. 智と持統』遠山美都男、P92
  9. 『現代語訳 氏家伝』ちくま学芸文庫版、卓也・佐藤信・矢 訳、P22
  10. 智と持統』遠山美都男、P52
  11. 古代日本の女キサキ遠山美都男、P100
  12. 『王権と信仰の古代史』「智「称制」考」河内人、P116
  13. 『王権と信仰の古代史』「蘇我の再評価中村修
『藤氏家伝』の史料批判

藤原足┬不等─武智麻呂─仲麻呂
    └

氏家伝』は奈良時代足の曾孫藤原麻呂が編纂した書物である。上下2巻からなり、上巻には「足伝(大織(たいしょっかん)冠伝)」に足長子の「(じょうえ)伝」が含まれ、下巻は仲麻呂の「武智麻呂伝」である。皇極・斉明の評価に関わる「足伝」は『日本書紀』と同文の箇所がある一方で独自の記載もあり、その関係の濃淡学会議論されてきた。矢は「足伝」は独自の伝記史料は存在せず、書紀を参照しつつ仲麻呂独自のアレンジを大幅に加えた作品であると摘し、仁史もこれに賛同している。よって上述したように『氏家伝』での女の執政の評定は、仲麻呂主観が混じっている可性がある。

また『氏家伝』には足と軽王子の関係性について矛盾が見られる。たとえば入鹿打倒を論む足は最初は軽王子(孝徳天皇)と共に行動を起こそうとするが、軽は器量不足であると判断して中大替えしている。しかしの変の後、足は軽の即位が「民望に答る」と進言し、これが「大臣の本意」であったとする。また足は入鹿は「長幼の序」を失っていると批判しておきながら、自らは若い中大を選んでいるのは言行不一致である。足は孝徳で側近として「内臣」に任命されており、中大が孝徳と離別して飛鳥に戻った直後にも足は冠と封戸が与えられるなど、孝徳の在命中は足と孝徳は良好な関係が維持されている。よって足が孝徳から中大に支持を変えたのは、孝徳の後半以降とするのが妥当である。


⑤中大兄皇子の称制

斉明崩御の際、皇位継承補は中大智)、間人皇女(はしひとのひめみこ)(孝徳の皇后)、大海人(武)の3人が存在していた。最年長の中大は37歳と年齢的には申し分なかったはずだがの死後も7年も称制という形で即位を避けていた。天皇位が長年位になる前例は、継体と安閑の間に2年、持統が夫の殯宮儀礼との成長を待つため3年けた例がある程度で、智のように7年の位は異例中の異例である。

中大が長きにわたって称制していたという事実は、その理由がなんであれ孝徳・斉明朝での「皇太子中大兄皇子政治体性に再考を迫るものである。中村修也は「従来研究で孝徳・斉明の二人の政策そのものに論及されることがほとんどない。しかしそれは中大の孝徳・斉明朝での『皇太子』としての地位を史実として信用した上に立脚した論である。斉明朝には中大が『皇太子』であった可性は高いが女死後の称制期間のが解かれていないため確実ではない。孝徳に至ってはその必然性が全くなく中大の立太子は可性すらありえない。よって孝徳・斉明天皇の独自の政治評価しなおす必要が生じてくる」と述べている[1]

なぜ中大の死後もなかなか即位しなかったのかに関して多くの学説が提唱されているが、いずれも問題点があり依然詳細不明のままである。以下の議論章の解説に依る。

1.「天皇として即位するより皇太子として自由な立場で政治を行うため」説

皇太子でいる方が自由政治ができるから中大はなかなか天皇にならなかった」という説は現在では否定されている[2]。「皇太子」制度が成立するのは武後裔の皇子、あるいは軽皇子(文武)の時代であり、当時の中大兄皇子が皇位継承最有力補といっても天皇と同じ政治的権限を持つことはない。むしろ困難な時期に政治を領導するには天皇の座こそがめられるものであったはずである。

2.「の変や古人大など、中大の血塗られた足跡天皇即位を遠ざけた」説

これに関しては「斉明の重祚」の項で既に述べた。また中大の即位時にそのような過去を払拭できたとは考えられない。

3.「二段階即位説。つまり中大は称制していたのではなく、斉明崩御時に「大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」として即位し内外の問題をする強力な政治体制・王権構築の課題を果たした上で、7年に「天皇(あめのしたしろしめすすめらみこと)」として即位した」説。

この説の根拠として『万葉集』一巻の17,18番が称制6年近江遷都の歌になっているにもかかわらず、それより数字が下の16番の歌の題詞に「天皇」の文字が使われている。つまり称制時代に既に「天皇」と呼ばれ、中大が即位したように扱われている。しかし『日本書紀』では称制時代を含めて「智紀」に仕立てており『万葉集』はそれと論理を同じくするものでしかなく確実な拠とはみなしがたい。また『万葉集』は斉明天皇の歌も時系列順に配列されておらず、智の歌が年次順である保もない。

4.「中大大友皇子弘文天皇)を後継者に考えており、その成長を待つために称制していた」説。

これに関しても大海人がいるという状況があり、後継者決定のためにはむしろ中大く即位した方が有利である。

智の称制に関連してキーパーソンになるのが、孝徳天皇皇后にして智の同の間人皇女である。

┬───皇極
|    |───天武
|   舒明   ├天智
|        └間人皇女
|          |─有間皇子
└─────────孝徳

5.「中大と同の間人皇女との近親相姦」説

孝徳天皇が詠んだ歌に「が飼う駒を人見つらむか」の語句がある。「が飼う駒」とは夫を見捨てて中大と共に飛鳥に去っていった間人皇女し、「見る」には男女相会の意が存在する。近親相姦が多い古代天皇だが、同所生児同士の婚姻は「奸」として忌避されていた。中大と間人が夫婦であったならば、中大が即位しても同皇后に立てられない。それゆえ間人皇女が死ぬまで中大天皇になれなかったと考えられる。だがこの説の論拠は上記の歌謡の字句のみであり明が難しい。

6.「間人が孝徳崩御後に女性天皇となり難波朝廷を営んでいた」説

この説の根拠になるのは『新唐書』「日本伝」の「永徽(えいき)初年、其の王孝徳即位し元(元号)を改めて(はくち)ふ」という記述である。「永徽(
)
初年」とは650年であり『日本書紀』で皇極が孝徳に譲位した645年と食い違う。さらに『氏家伝』には「雉」の元号は「」と呼ばれ、16年続いたと書かれている。650年から16年の616年は間人皇女死亡した年である。つまり孝徳死後も間人が女性天皇となり、斉明や中大がいる飛鳥とは別に難波朝廷を維持していたが、その死によって智が即位可になったという状況が想定しうる。だが『新唐書』「日本伝」にはいくつかの誤りがあり、外史料だあからといって全面的に信頼することはできない。また『氏家伝』の「白鵬」のような書紀にない私年号の存在には疑問があり、遅くとも孝徳と間人の息子の有間皇子が中大に殺された頃には孝徳支持勢力は壊滅していたはずで、その後も間人が難波朝廷を担い続けたとする拠は見出し難い。

7.「智称制4年に間人皇女が死に、6年に間人が斉明と合葬され、その翌年に中大が即位するため、斉明死後、中大は殯宮儀礼を継続し、その後は間人の存在が障害になっていた」説。

この説も、朝鮮情勢が逼迫する中で中大が、後の持統の殯宮儀礼3年を大幅にえて儀礼を継続した理由が不明である。天皇位は何より政情不安を惹起するので回避すべきことであったはずである。また間人の存在を重視するにしても間人死後も称制が続いている点に疑問が呈される(間人皇女については「5節 仲天皇と中皇命」も参照)。

遠山美都男は斉明中継ぎ説を否定する立場から、中大の正式な即位が遅れたのは斉明が導した北方への対夷遠征や済救援戦争という巨大な成果を引き継ぎ、の後継者となったことを周囲に認めさせるために多大な時間を要したためと推断している。中大大津宮に遷都したのも大津琵琶湖を介して北陸に続く敦賀(現福井県)に連絡しており、夷支配を強化するのに至便な場所であったためである。斉明は大津の北のに行幸しており、この時すでに大津という場所に着していた可性は高い。中大近江大津宮に祖国が滅亡して亡命してきた貴族を大量に登用したのも、江の敗戦で果たせなかった済救援の課題を貴族を起用することで済を属させている様を演出したものと思われる[3]


  1. 『王権と信仰の古代史』「蘇我の再評価中村修也、P92
  2. 日本の歴史03大王から天皇へ』熊谷
  3. 古代日本の女キサキ遠山美都男、P103

4節 大兄と大妃制度

大后制度の成立とその役割

(おおえ)大后(おおきさき)皇太子皇后の前身となる身分である。記紀には古い時代から「皇太子」と「皇后」が現れているが、実際にそれらの制度が成立したのは武、持統以降であり、それ以前は大、大后と呼ばれていた。推古登場以前に大王王位継承争いは何度も起きているのに紛擾緩和を的とした女が誕生しなかったのは、6世紀に大后(オキサキ)制度が確立してきたことが要因とされる[1]

日本書紀』に以下にあるように、古代の大后・皇后の存在は天皇に並ぶものであった[2]

皇后は身分は天皇に等しいが、後宮にあるため外部には知らぬ者も多い」「安閑紀」

ただし大皇太子、大后と皇后全にイコールの地位でなく、大と大后がいつ成立し、どのような政治的意味を持ったのかには議論がある。

史書で最初に大后とされるのは敏達天皇の「皇后」の広であるが、彼女には政治参加の所伝が一切なく史実上の初代大后であるかは疑わしい。俊男は大后の成立について「それまで個々の后妃に住んでいる宮号を付して与えられていた名代(宮の経営に必要な世襲奉仕集団の伴と、物資を貢納する部民)を、ある時期から后妃の私有物(私部(さいち))として定立化し、宮廷組織の整備が進む中で特定の一人を大后とするようになった」と摘している。この私部が初めて置かれたのはやはり敏達天皇の妃である豊御食炊屋(とよみけかしきやひめ)、すなわち後の推古天皇であるため、初代大后は推古であったと考えられる。

吉田晶は「大后は大王の死後に殯宮(もがりのみや)に籠って大王霊を奉斎し、次世代の大王の即位にあたって前王の霊を新王に付与する役割を持っていた。よって大后は宮の期間中は大王に準ずる地位を占めたと想定され、そのため大后は嫡流に近い王族の出身であることが必要であった。宮儀礼が始まったのは安閑であり、安閑天皇の妃の春日山田皇女が初代大后である」と推測した。小林敏夫は先述したような推古の積極的な政治参画を念頭に、妃が大王と共治・政という立場に立てるようになったことが大后制の成立の本質だとしている。遠山美都男もやはり推古の積極的な政治参加と、歴代大后が産んだ皇子がほとんど大王になっていないことから、大后に期待されたのは後の皇后のように嫡子を産むことではなく大王の補佐役となり、大王権力の一部を代わりに執行することであったと考察している[3]

大后・大兄と皇位継承

荒木敏夫は「初期のヤマトで皇位継承権があったのは皇子と大后のみで、皇女には皇位継承権がなかった」と摘している。皇女が皇位継承争いに加わった例はなく、政に積極的に参加した皇女の存在も見出すことはできない。また皇太子の前身制度である「日嗣のみこ」は男を想定しており「日嗣のひめみこ」と呼ぶべき存在は想定し難い[4]。ただし古代皇女は「ヒメミコ」と呼び分ける場合があるだけで、皇女が「ミコ」と呼ばれることも多かった。たとえば武の大来皇女(おおくのひめみこ)を「大伯皇子(おおくのみこ)」、長屋王の山形女王を「山形王子」と表記している木簡が見つかっている。『日本書紀』では最初期から皇子=男、と皇女=女を区別しているが、皇極の記事に「男女(いおのこごめのこご)を呼びて王子(みこ)()う」とあるように本来、天皇は王族の男女を区別せず、性別も世数も関係なく全員「御子(ミコ)」と呼んでいた。それが武-持統天皇の子を特別に「皇子」と呼ぶようになり、男女別の出仕法や法が定められ、それに対応して王/内王、王/王女の書き分けが始まったと考えられる。内王を「ミコ」と呼ぶ用例は以後も広く見られ、平安時代の『古今和歌集』には桓武皇女たかつのみこ」、文徳皇女「あきらけいこのみこ」の名が記載されている[5][6]

井上貞は押坂人大中大などの名に見られる「大」は嫡長子をしていると考え、王位継承者の有力補とした。6、7世紀は大王の地位はキョウダイ継承が基本であり、それが尽きた後に次世代の大王位が戻るとした。大皇太子と違い同時に複数の大が存在することもあったが、井出美子門脇二などは一人の大王には一人の大が存在し、大皇太子の前身的称号であったと断定した。一方で、史書に現れる7人の大のうち実際に大王になったのは3人に過ぎず、一般の族においても7世紀半ば以降に「大」の称号が使用された事例があることから、大と王権継承は直接関わる地位ではなく、大王も含めた族の「宗権(族長権)」の継承に関わる呼称であったという学説も存在する。また小林敏男は初代大を継体勾大(まがりのおおえ)皇子(後の安閑天皇)とし、大の地位は大王が自らの政の地位に長子を据えたところから始まり、王位継承者となったのはその結果であるとしている。

遠山美都男は大と大妃は後世の皇太子皇后とは同一視できない地位であり、王権の安定化のための制度であったとする。飛鳥時代の権力構造は、大王と諸族との間に個別に築かれた人格的隷属関係の集積によって成り立っていた。従って結集核である大王の死がそのまま大王の権力構造の崩壊に直結する危険性があり、それゆえに同世代継承によって複数の熟年した王位継承者をプールしなければならなかった。しかしその構造では大王死後の継承紛争が不可避となり、各皇子がそれぞれ関係を結んだ首長たちを巻き込んだ皇位継承争いを起こす危険性があった。それを防ぐための安全装置として考えられたのが大と大后および女の即位である。大は皇子の中から皇位継承者を絞ることで皇位争いの化を防いだ。また推古、皇極(斉明)らは女ゆえに王位継承とは関係な「第三の立場」であったため、皇位継承争いを調停する的で即位したとする(ただし遠山は近年「女は第三の立場から中継ぎ即位した」という説を撤回し「女中継ぎではなかった」としている)。

荒木敏夫は「大」は同兄弟の代表(多くは長子)をし、王位継承争いに絡むものであったと摘している。古代家族では子供の宮で過ごすため同兄弟姉妹は強く、逆に他の妃が産んだ異母兄弟は住まいを異にし、日常的な繋がりは乏しかった[7]

大后制度を以てしても後継者争いで血が流れることは避けられなかった。これは結果的に偶然そうなったのではなく、女が中継いだところで、その次の天皇にするのかという話になり、問題は何も解決しないからである。女即位で後継者が自然減少する訳ではないし、後継者が自然死したとしても今度は若い後継者が育ってくるので結局争いは緩和できない[8]。推古の場合は女崩御後に後継者を田村皇子(舒明天皇)にするか山背大王にするかで蘇我夷と部臣摩理勢との間で議論が紛糾し、最終的に夷が摩理勢を殺すことで決着がついている(山背大王も後に殺される)。皇極(斉明)女も重祚時も含めて後継者争いが勃発し、多数の皇族が死んでいる。

即位、大制度でも緩和できない皇位継承争いを緩和し、大王位の安定化に益するため考案されたのが後世の皇太子制度である。皇太子制度の成立によって、大王位を巡る争いは皇太子を巡る争いに転化し、天皇位そのものは安定することとなる[9]


  1. 『女推古と聖徳太子中村修也、P100
  2. 古代人の一生』吉村吉川川尻生 編
  3. 古代日本の女キサキ遠山美都男、P32
  4. 『可性としての女荒木敏夫
  5. 長屋木簡研究東野治之、P2,101
  6. 推古天皇』義江明子、P6
  7. 前掲、義江、P10、44
  8. 前掲、中村
  9. 日本古代王権の研究荒木敏夫、P151

5節 仲天皇と中皇命

飛鳥時代の女中継ぎ論に関連して『大安寺伽縁起并流記資財帳(だいあんじがらんえんぎならびにるきしざいちよう)』に見える「仲天皇」、『万葉集』巻一に見える「中皇命」の語句がある。用例が少なく様々な解釈が取られており、定説はない。

大正時代の喜田貞吉『中天皇考』は、称徳天皇の詔の中にある「中都天皇」が元明天皇であることに注し、「中皇命」は「ナカツメラミコト」と読み中天皇」と同じ意味で、『大安寺伽縁起并流記資財帳』の「仲天皇」は天智天皇の妃である倭皇后であり、『万葉集』の「中皇命」は皇極天皇しているとした。

その議論を受けた土屋文明は「仲天皇」と「中皇命」は共に孝徳天皇の妃の間人皇女(はしひとのひめみこ)であるとし、中天皇は中宮天皇(中宮は皇后の意)か中間天皇の略であるとした。つまり当時にあっても女は男と男を繋ぐ中継ぎ天子と考えられていたという説である。間人皇女を「中宮太皇后」と呼んでいる史料もあり、中宮天皇と呼称されていたことは確実であったと見られる。田中卓は土屋説の「仲天皇」と「中皇命」が間人皇女すことは支持しつつも、その語義は中間天皇中継ぎ天皇)ではなく、中大に類する間人皇女だけをす固有名詞であるとした。

折口伸夫はこれらの見解とは全く異なり、中皇命は皇極(斉明)天皇しているとし、スメラは「最高、最」の義の語ミコトは「御言執ち」であると解釈した。したがってナカツメラミコトとは神と天皇との間に立つ仲介者的な語伝達者、高であり、それが男子天皇不在の際に統治の表面に現れたものが女であるという女巫女説を唱えている。こちらにしても政統治者が男性であることを前提としており、女を例外として見ている[1]

中天皇が神意を承け、其告げによつて、人間なるすめらみことが、其を実現するのが、宮廷政治の原則であった。さうして、其両様して備するのが、正常な姿であつたのだが、時としては、さうした形が行はれずに、片方のなかつすめらみこと制だけが行はれることがあつた。さうして、其が表面に出て来ることが、稀にはあつた。がわが元来の女の御姿であつた。だから、なかつすめらみこと単式の制で、別にかゞ実際の政務を執れば、は整うて行つたのである[2]

最初の女推古には巫女王としての側面は見られないが、皇極天皇には微かにその面がある。皇極元年、日照りで悩んでいたので皇極は南淵河上で跪いて四方を拝しを仰いで祈ったところ立ち所に雷鳴して大雨が降ったという[3]

中村生雄は女巫女とする折口説を分析し「政務を執行する人間天皇よりも、天皇と神を取り次ぐ中皇命の方が格段に重要な意味があると折口は見なした。そもそも中皇命が単独でいるのが本来の形であり、実務執行者である天皇二次的、副次的な存在に過ぎなかった。折口説を敷して宮中祭の原則に従うかぎり、天皇は断じて宮廷の役ではなく、中皇命の補助役に過ぎない」と述べている[4]

伊藤博も中皇命は間人皇女であるとしたが、その語義は中間天皇中継ぎ天皇)でなく、原始的シャーマン女性から離れつつあった時代に皇后天皇の中に立って祭を行い、人の世の幸を予言する神的・聖女的存在であると論じた。この場合、中皇命は固有名詞でなく職名である。

東野治之は「皇命」をスメラミコトと読む用例は他になく、長屋家出木簡の中で長屋王が「長屋王子」「長屋皇子」「長屋皇」と尊称がさまざまに表記され、いずれも「ミコ」と呼ぶことから、「中皇命」は間人皇女してナカツミコミコトと読むとした。「中」とは中大兄皇子対偶する固有名詞として理解できる。後世にミコノミコトと呼ばれた人物には武の息子皇子、高市皇子、武の息子安積王がおりいずれも皇位継承有力補であったことから、彼女ミコノミコトと呼ばれていたことは間人皇女智死後に称制していた説を補強する[5]

森田悌は『大安寺伽縁起并流記資財帳』の「仲天皇」は持統天皇していると述べる。このテキストでは斉明天皇の死が迫った病床で大安寺の造営の責任者を決める時、中大兄皇子がまず申し出て、その次に「仲天皇」が「自分も夫と共に奉仕します」と名乗りでている。中大を「夫」と呼んでいることから中大兄皇子の妃の倭女王と、愛人関係が噂される間人皇女は有力補であるのだが、実際に寺を造営しているのは武-持統の夫妻である。ここでは持統は中継ぎ天皇の語義で「仲天皇」と呼ばれた。

また森田万葉集の「中皇命」はナカツメラミコトではなくナカツオホキミミコト読み、間人皇女であるとする。葛城皇子(天智天皇)が「古人大皇子に次ぐ」という意味で「中大」と呼ばれたように、間人皇女も3人兄弟ん中の子であるので「中皇命」と呼ばれたと考えられる。

読み 中皇命 天皇 意味
喜田貞吉 カツメラミコト 皇極天皇 皇后 中宮(皇后天皇
土屋文明 カツメラミコト 間人皇女 間人皇女 中宮天皇か中間(中継ぎ天皇
田中 カツメラミコト 間人皇女 間人皇女 中大に対応した固有名詞
折口伸夫 カツメラミコト 皇極天皇 神と天皇との中に立つ巫女
中村生雄 カツメラミコト 神と天皇との中に立つ巫女
伊藤 カツメラミコト 間人皇女 皇后天皇の中に立つ巫女
東野治之 カツミコミコト 間人皇女 中大に対応した固有名詞
森田 カツオホキミミコト 間人皇女 持統天皇 間人は中大に対応した名、持統は中継ぎ天皇

  1. 天皇と王権を考える7 ジェンダーと差別』義江明子、P23
  2. 『折口信夫全集20』、P12,14,15
  3. 日本古代まつりごとの展開』俊男、P46
  4. 神話歴史叙述』三浦之、P175
  5. 長屋木簡研究東野治之、P100

間人皇女は女性天皇だったか

古代皇后私部(さいち)(私有地)を与えられ、時に自ら即位するするほどの経済力と政治力を有しており、孝徳皇后間人皇女(はしひとのひめみこ)にも同様の権が期待されていたと考えられる。間人が死去した際には330人が得度(出)を打っているが、これは天皇が病になった際に癒を祈った100人よりはるかに多く、間人が敬意を払われるべき存在であったことをうかがわせる。上記の中皇命と仲天皇が間人をすという解釈もあり、間人が実際に女性天皇として即位していたという説は根強い。

間人即位説の傍になりえるものとして、野中弥勒蔵台座銘がある。この古代像には以下のような文章が刻まれている。

の年四月大朔八日(かい)に記する、(かやでら)の智識の(ともがら)中宮(いた)り、天皇大御身(おほみみ)(いたづ)()しし時(後略)」

の年」とは中大兄皇子の称制5年(つまり智の即位前)にあたるが、この銘文では「中宮(皇后の御所)にいる天皇病気になっている」とある。この「中宮にいる天皇」は斉明天皇す説もあるが斉明が病気になってからだいぶ年が経っているため、称制4年に間人皇女が崩じていることを考慮して「中宮にいる天皇」は間人皇女すという解釈も存在する。病気治癒を祈った像が完成する前に間人が死去したという時系列ならば銘文の記述は矛盾なく理解可である。

一方でなぜ『日本書紀』は間人の即位に触れないのかという大きな問題がある。神功皇后や飯豊皇女のように大昔の「女性天皇」と違い、間人皇女記紀編纂と50年も離れていない人物であり、人々の記憶は明だったはずである。章はこの疑問に関して「間人は正式に即位しなかったとしても、天皇位を代行するような役割を果たし、その記憶が『仲天皇』の呼称に反映されているのではないか」と提唱している。


6節 ヒメ-ヒコ聖俗二重体制

邪馬台国女王卑弥呼には統治を「(たす)ける」男が存在した。を操る卑弥呼を担い、男が実務を執って俗を担う。このように--)による俗二重体制をヒメ-ヒコ制と呼び、邪馬台国のみならず日本列島に広く見られた。『山城国土記』には玉依(タマヨリビコ)依姫(タマヨリビメ)兄妹がおり、記紀でも(アソツヒコ)都媛(アソツヒメ)のような「ヒコ」と「ヒメ」の一対の存在が多く確認できる。その原始的伝統は地方族ではかなり後代まで残存し続けた。

大王もまたヒメ-ヒコ制が見られ、崇神紀の系譜に記されるヤマトヒコとチチツクヤマトヒメヤマトタケル物語ヤマトタケルヤマトヒメの組み合わせなどがある。しかし大王ではかなりい時期から高い宗教的権威を保有するヒメを原始的二重統治の場から分離してたようで、垂仁にはヤマトヒメアマテラスに付けて伊勢の地に至り、ヤマトヒメは初代斎宮となったとする伊勢神宮と斎宮の起譚が記されている[1][2]。こうしてかつては中央でを担っていた未婚の皇族女性は、伊勢神宮の斎宮や京都加茂神社の斎院などに名残を留めるだけになった[3]

西郷信綱は「の強弱は社会によって違うけれど、族組織の網のが横にひろがってゆく上で、かなめの役をなすのであることは、いうまでもない。このは、系的社会より系的社会の方が相対的に一そう強いであろう。もっとも、の強弱を一般的に系・系という範疇にかかわらせて説くには理があるらしい。古代日本にかんしていえば、社会であるにもかかわらず、そこではこのがとりわけ強かったし、また独特の形となってそれがあらわれたとみてよさそうである」「壱与卑弥呼の姪にあたる女であっただろう。これを系制ということはできない、まして権制と呼ぶべきでない。であろうとであろうと、女に霊的職がわりつけられたことじたい、すでに系制のしわざであった」と述べている[4]

倭王権の初期大王墳墓

箸墓古墳西殿古墳外山臼山古墳メスリ山古墳─行燈山古墳渋谷向山古墳

3世紀後半に築かれた初期大王墳、西殿古墳は立ち入り調は許されていないものの、後円部の頂上に大きな方壇が営まれており、ここに大王が眠る式石室が存在することが想定されている。その一方で前方部先端の頂上にもほぼ同同大の方壇が見られ、ここにも埋葬施設が営まれている可性が大きい。すなわち西殿古墳には大王と共に、それと同格の存在が合葬されていることになる。4世紀後半に奈良地の建造されたの山古墳には男女が合葬されていることを踏まえると、西殿古墳にも大王に匹敵する権力を持った女性がいたことが考えられる。倭人伝によれば女の卑弥呼導的にを治め男はそれを補佐していたが、後世のの山古墳では女性埋葬者の方が男性埋葬者よりも簡易になっており男性の権力が強くなったことを示している。両者が同同大の埋葬施設を持つ西殿古墳は、その間を繋ぐ存在だといえる[5]


  1. 古事記 古代王権の語りの仕組み』都倉義孝、P72
  2. 弥生の王三郎P36
  3. 日本の歴史神話から歴史へ』井上貞、P227
  4. 古事記研究西郷信綱、P75
  5. 古墳ヤマト政権』白石一郎、P86

7章 以後の女帝と女帝中継ぎ論


古代は称徳天皇を以て終焉を迎える。しかしその後もところどころに女性天皇誕生の気運があり、女性天皇は必ずしも忌避されるものではなかった。「1節 称徳以後の女」で可性として存在した女性天皇の例を見ていく。「2節 女終焉」では女性天皇が誕生しなくなった経緯を解説する。その理由は様々な原因が考えられ一つに絞れるものではないが、時代背景として藤原氏の台頭と朝廷中国化があった。初の臣民皇后となった皇后以後、藤原氏皇后を独占することによって皇族女性皇后の立場から女性天皇に昇るが閉ざされた。また安初期に朝廷の諸制度は次々と唐風化され、女性政治の表舞台から消えていった。「3節 明正天皇の即位」「4節 後桜町天皇の即位」では数年ぶりに誕生した明正天皇と後桜町天皇について説明する。性別だけが理由ではないが、二人の女即位はそれぞれ大きな問題となり一部で反対運動も存在していた。

「5節 近世の女中継ぎ論」「6節 戦前の女中継ぎ論」「7節 戦後の女中継ぎ論」は江戸時代から現代史学における女中継ぎ論を検討していく。近世では一部の学者から既に女性天皇は中継ぎであるという認識が生まれていた。明治以降は学術的にもそれが補強され、現在女性天皇は中継ぎであることは定説となっている。「8節 男性中継ぎ天皇とされる人物」では126代の天皇のうち中継ぎとして即位した男性天皇の実例を見ていく。中継ぎとして天皇になった男の数は少なくないものの、男の場合は女と異なり婚姻制限をされていなかったので、中継ぎの立場を脱するため政治的・軍事的に働きかけ嫡流の地位を獲得していく者も多かった。

1節 称徳以後の女帝

称徳天皇以後、数世紀にわたって女は出てこなくなるが、時折女が生まれる兆は存在した。後世の話なので史実とは信じ難いものの鎌倉時代歴史物語』には、天皇が「人内王を皇太子にしたい」と発言した話が伝えられている[1]人内王のは、称徳天皇井上皇后である。

聖武天皇称徳天皇
    └井上皇后
       |───人内
     光仁天皇

貞子は、井上皇后位されたのは天皇を呪詛したからと史書にはあるももの高齢の仁をわざわざ呪う理由が曖昧であるため、呪詛事件は仁の位を願ったものではなく「井上皇后が女になり、息子の他戸皇子が成長するまでの中継ぎになるつもりですよ」という誣告を仁が信じてしまったという説を唱えている[2]

12世紀には鳥羽天皇皇女である暲子内親王彼女も未婚)が2度に渡って女に即位する可性があった(次項で詳しく述べる)。14世紀には女ではないものの、治の君(天皇家長)に西園寺寧子が君臨する事態が起きている。後伏見天皇の女御であった寧子は、姓があることか分かるように非皇族である。皇族ならざる女性皇室の頂点に立つというのも南北朝時代の皇統の混乱をよく徴している。


  1. 桓武天皇西本P14
  2. 桓武天皇貞子

女性天皇候補となった暲子内親王

鳥羽74┬崇徳75─重仁
   ├白河仁)77二条(守仁)78
   ├近衛76     
   └

中世の史書『愚管抄』によれば、近衛天皇が崩御した後の皇位継承補は以下の四人であった。

当時の治の君であった鳥羽上皇は、仁を「即位の器量ではない」と嫌っておりっ先に外したが、残りの3人からは絞りきれなかった。そこで摂関に相談したところ「(守仁王を即位させるにしても)雅仁親王がいる以上は先に即位させなければいけない」との返答を得た。上皇は仕方なく仁を後白河として中継ぎ即位させた。

暲子内親王が皇位継承補になったという記事は愚管抄の他に『今』(1170年頃成立)や『古事談』(1212~15年頃成立)にも記載されている。『今』では鳥羽上皇は「女院子の母親の得子)の御事のいたはしさにや、姫宮子)を女にやあるべきなどさへ計らせ給ふ」とあり、得子への思いやりから子即位を思い立ったことになっている。そのため『保元物語』では「(メンドリがオンドリより先に鳴くのは不吉。「転じて女性政治に口を出してはいけない」という中国)を引用して、得子は鳥羽院政を混乱させた女として弾されている。しかし当時の子は19歳であったが、が10代半ばで結婚しているにもかかわらず子には婚姻の動きが見られず「未婚の内王」に留め置かれている。このことから子は鳥羽の得子への一時の情念で皇位継承者に挙げられたのでなく、近衛天皇病弱さに鑑みて女補としてストックされていたものと考えられる。

その後の子は出して女院号を賜り、から八条院荘園という大な財産を受け継いでいる。『たまきはる』という日記には子が皇位継承について後鳥羽推薦し、後鳥羽子を表敬訪問したという記事がある。この際には子も再び皇位継承補として挙げられており、子の存在意義が軽くなかったことを示唆している。結局、子が即位することはなかったが即位式用の女性の礼も用意されており登極の可性は皆無ではなかった[1][2]子が女補になったということは、古代以降も女性天皇が忌避されていなかったことを意味し、女が例外的な存在ではないことを示している[3]


  1. 『可性としての女荒木敏夫、P243
  2. 中世前期女性院宮の研究山田起子、P282
  3. 日本古代王権の構造と展開』佐藤長門P276

2節 女帝の終焉

古代に頻出した女が以降、数世紀姿を見せなくなったのは様々な原因が考えられる。一つに安初期に「王の終身性」が否定されたことにある。それまで退位した天皇とその皇后は自動的に「太上天皇」、「皇太后」になっていたが、嵯峨以降それらの尊号は新天皇から宣下されるようになった。これにより皇太后から女に昇る可性がなくなった。


藤原氏の台頭と皇族女性の地位の低下

奈良時代末期からの藤原氏の台頭は女消滅の大きな要因となった。飛鳥時代では皇族しか皇后(大后)になれなかったため、元妃が政治権力を握り女に即位するというルートが存在した。しかし藤原氏が史上初めて非皇族の明子を立后させ、皇位継承法に転換が起こった。9世紀になると嵯峨天皇皇后嘉智子(たちばなのかちこ)のように、皇族でも藤原氏でもない皇后も誕生してきた。天皇皇后の正子以降は皇后自体がいなくなる。このような状況では朝廷女性権力者は天皇である藤原となり、彼女藤原氏なので女にはなれない。すなわち摂関政治期には政治権力を持った皇族女性が生まれる余地が少なく、ひいては女性天皇が誕生する可性は低くなった。また9世紀半ばに藤原良房が臣民として初めて摂政になって以後は幼を後見するのは藤原氏になり、ますます女の需要は下がった。

安初期は宮廷の女性全体の社会的地位が下がっていた時期であった。皇后までの皇后宮は宮城外に設けられ、その経済基盤も天皇とは別に独立していた。しかし奈良時代末から皇后宮は宮城内に取り込まれ、内裏のうちに置かれるようになった。唐文化と共に儒教男尊女卑の思想が広がり、奈良時代までは天皇と並んで男女の官人を治めていた皇后が、キサキたちを含む女官の頂点と位置付けられるようになり、結果として政治世界における皇后の地位は低下していった[1]

皇后だけでなく女官もまた平安時代以降に社会的位置づけが大きく変わっていく。奈良時代までの日本女性職に就いて政治に深く関与していたことが文献や考古学の成果から判明している。俊雄再現した推古天皇小墾田(おはりだ)宮は、宮門を入ると(ちょうてい)があり、その(こうもん)を隔てて大王の居所がある。門に入ることができるのは原則として女性のみであり、女蘇我馬子聖徳太子らの意思交換は、特別な場合を除いて大王側近の皇族女性女性宮人らを通じて行われた。吉川はこの仕組みは推古宮だけでなく、男も含め、制が成立する以前の普遍的な姿であるとする。

日本正史六国史の中で第二の『続日本紀』から第五の『日本文徳天皇実録』までの四冊では女官への叙位が頻繁に記載されている。たとえば陸奥金山が発見された時、喜びを分かち合うために官人への叙位が広く行われ、女性官吏への叙位も積極的であった。

「男のみがの名を負い、女は何らかかわりのないものであろうか。双方とも、ともにお仕えすることが理であると思し召される」

奈良時代には聖武天皇取り立てられた女官が、出身地の(くにのみやつこ)に就任することもあった。奈良時代造は6世紀のそれと異なり行政権でなく祭るものであったが、それでも内における権威は卓越していた。その後の藤原麻呂の乱でも孝謙上皇に仕える女官たちがその覚ましい働きを讃えられ、軍事的功績に与えられる勲位を得ている。

しかし六国史の第六『日本三代実録』(858~887年の史)では女性への叙位がほぼ記録されなくなる。この時期「女官の名前は明記すべきものではない」という認識が強くなっていったのである。女性は官人登用試験受験資格が与えられず、文人官僚になる選択肢もなかった。奈良時代では和気広や吉備由利などの女官が男性と等しく考課(政務の実績による人事評価)されていたのだが、この時代はそのようなこともなくなった。女性が着る装も、美ではあるが機性が悪く動きづらい十二単になっていく。

六国史の第三『日本後紀』では上皇が寵する藤原(くすこ)と共に起こした謀反子の変)に対して『書経』を出典とする儒教(けいひんあした)す(メンドリがオンドリより先に鳴くのは不吉。転じて女性政治参加するとが滅びるという意味)」を引用し、古代王にも劣らないと言われた上皇の破滅は女性政治に介入させたせいであると記されている。『日本後紀』が成立した840年には「女性政治に携わるべきではない」という儒教倫理朝廷に定着しつつあった。

「(天皇は心を内寵(子)に傾け、政治を婦人に委ねた。『雌が時を告げるようになればは滅びる』という。ああ惜しいことである」『日本後紀』逸文 長元年七月

10世紀になると女性の「名前」すら分からなくなっていく。紫式部清少納言のような一般知名度の高い女性であっても本名は不明である。名を呼ばれるときも一部の例外を除いて「々の(むすめ)」と、本名で呼ばれることはなくなった。やがて皇族女性であっても名前どころか存在したかどうかすら不明瞭になっていく。

朝廷公文書は全て漢字を用いるため、政治に携わるためには漢文の素養が必要不可欠であったが、安初期から女性籍離れが進んでいく。9世紀までには籍に通じる女性男性と同じように国家の中枢で政治に関わるが存在した。例えば飯高臣諸高(いいたかのあそんもろたか)地方伊勢)出身ながらも漢語の知識を活かして女官見習いの采女(うねめ)として奈良天皇に代々に仕え、最終的に称徳天皇の下で大臣に匹敵する従三位まで昇進して国家機密を扱っている。称徳天皇本人も皇太子時代から籍の詰め込み教育を受けており、桓武天皇に熱心な漢文教育を施している。

しかし9世紀中頃から「女に漢文は不要。漢文を読める女は恥ずかしい」という潮が広まっていく。「女手」と呼ばれた平仮名の発明は女性漢文離れに拍をかけ、10世紀後半には漢文学者に生まれ漢文に精通している紫式部が「一」という漢字も読めないフリをし、漢文の知識をひけらかす清少納言に「ことさらに賢ぶって漢字なんか書き散らしている」と批判するほどの社会の雰囲気が醸造されていた。

ただし平安時代以降、女性が全く政治から排斥されていた訳ではない。例えば一条天皇の中宮として、後一条天皇と後朱雀天皇后となった藤原彰子は「旨」によって重要案件を裁断するなどしていた。彼女に仕える紫式部らの女房も、奈良時代のように職には就かなかったものの、藤原実資との取次に勤しむなど後期摂関政治を支える存在であった。また一条以降、女性皇族や上級貴族の中に「女院」という称号を授けられ、権威付けられた者もいた。上記の藤原彰子や、女補となった暲子内親王女院を宣下された女性の一人である。だがその女院鎌倉時代以降形骸化し、以後の日本女性権力者は皆無ではないものの、よりしい存在となった。


  1. シリーズ日本古代史6 摂関政治古瀬奈子、P4

朝廷の中国化

また一つに、安初期は皇室が大きく中国化した時代だった事が挙げられる。天皇は古来から中華皇帝標にしていた。それは日本中国との同化をしたものではなく逆に脱中国を図った結果である。中国から「遅れた蛮夷の」と見下されないために日本は文明化をし、当時の最先進国であった中国文化を取り入れたのである。これは明治時代に西洋列強の植民地にならないために日本国家のありとあらゆるものをヨーロッパ化したのとを一にしている。

中国南北朝期からにかけての中国仏教は個人の内面的な信仰である以上に、造寺造や出写経によって皇帝長寿と繁栄を願わせることで王権強化を図る政治的な意味合いがあった。推古天皇聖徳太子仏教に熱心に取り組んだのも、倭の伝統的な大王中国風皇帝に近づける改革の一環である[1]飛鳥時代後期からは唐のの導入、道教思想に基づいた「天皇」の称号、長安をモデルにした都の建造、『史記』や『書』を真似正史の編纂が推し進められる。奈良時代には諸国郡郷名著好字令日本の地名は唐の2字に改名された。儒教政治を敷いたでは官職の唐改名が行われ、「イワレヒコ」や「ヲホド」ら初期の大王に、籍から引用された「神武」や「継体」といった諡号が送られた。さらに朝廷日本儒教を普及するために儒経典『孝経』を下のごとに一部ずつ所蔵するよう命じた[2]。その皇室中国化の流れが安初期にますます進展する。とりわけ桓武、嵯峨子は中国文化憧憬しており、嵯峨では皇室関連の事物は次々と唐に改められ、中国儀式・儀礼が導入された。

桓武天皇方が済系であり「済王は朕が外戚なり」と言うほど済の血統を重視していた。桓武では渡来人系氏族が重用され、初の渡来人系の卿や渡来人系の妃が誕生している。夷討伐で名を上げた坂上田村麻呂渡来人系氏族である。桓武天皇が積極的に征夷を行った理由は、の対夷政策の継承という面も持つが、自身を中国皇帝に準え、「中華が夷狄を支配する」との理念上の思いが強かったからと推測される。桓武は天帝中国儀式である郊日本で初めて行い、また身分の高い人物の実名を避ける「避諱」を唐から取り入れ、仁の諱である「」の地を「部」に、自分の諱の「山部」の地を「山」に変更させた。

奈良時代までの天皇儒教や「礼」のイデオロギーよりは、神話的・氏族制的なイデオロギーの中心にあり、中国の礼制で定められていた喪(近者が亡くなった後、一定期間喪にす儀礼)を、「死の穢れから隔離されるため」という理由でに実施していなかった[3]。しかし桓武天皇は『文章経思想(儒教的な文化が発達するとの秩序が定まるという思想)」にされ、仁が崩御した後、「孝行のために三年は喪にし政務を見ず天皇も放棄する」と宣言して臣下を慌てさせている。

桓武の息子嵯峨天皇は更に皇室中国化を進めた。ヤマト朝廷での日本人に対する礼法は「匍匐礼(両手を地に着け、四つん這いで進む礼)」と「跪礼(両手を地について跪き人を拝する礼)」であったが、推古中国を模範とした「文明化」が図られ「宮門を出入りするときは匍匐礼を取るが、朝廷内では中国式に立礼をすること」とし、大化改新後は匍匐礼も跪礼も止して立ち礼のみにされた。しかし中国式の礼法はなかなか定着せず、以後何度も匍匐礼と跪礼の禁止が出された。 その流れで嵯峨で改めて礼法を中国式にせよと法令下された。

卑、いて跪く等、男女を論ぜず、改めて唐法によれ

更に嵯峨では朝廷儀式貴族装、五位以上の位記が唐に改められた。また宮殿や門の名も唐の二字に変えられ、新しい額が掲げられた。大内裏の十二門は大化改新以前の遠い昔にこれらの門を警備していた氏族の名に因んだ由緒ある名前が付けられていた。しかし伝統が捨てられ玉手門は談天門伊福部門は殷富門、大伴門は応天門佐伯門は藻門などと改名された。寝殿天皇のプライベート間)、南殿(内裏の正殿)と呼ばれていた建物も、それぞれ仁寿殿殿中国長安にある建物の名称に変更された。これらの呼び方は現在京都御所でも使われている。

天皇、皇族の装も同様に中国式に「文明化」された。即位式や元旦に臣下から賀を受けるときには袞冕(こんべん)十二章((べんぷく))、その他の儀式では櫨染(こうろぜん)中国皇帝衣服を着るよう定められ、それに準じて皇太子皇后衣服も唐にされた。「桓武天皇」で画像検索するとヒットする「延暦寺所蔵桓武天皇画像」が袞冕()十二章である(ただし装規程が出来たのは桓武の息子嵯峨であり、この画も中世後期に作られたもので実際桓武はこの中国皇帝衣装は着ていない)。この時期の中国志向は安中期以降はなりを潜めるものの、皇室装規程は明治初期まで約1000年間維持された。日本民俗学の祖、柳田男は明治の世にしたことに対し「新しい時代の要に順応して改革された新儀」といって復古義者を批判している[4]

また清和天皇中国天子真似十陵四墓制を始めている。規模で及ばないが、日本でも科挙真似血縁に依らず学識に基づいた官人登用試験が8世紀から行われていた。明治維新以前の日本における「学識」とは常に中国思想と仏教思想に精通していることである。その試験では中国の有職故実を引用して政治を語ることがめられた。例えば「儒の思想を踏まえて地の始終を論じなさい」や「宗の祭中国系祖先祭)について答えなさい」といった具合である。

しかし嵯峨天皇らは何もかもを中国風にしたわけではなく、神事の際には日本の伝統的な帛衣(はくのきぬ)を着衣している。この事から当時の天皇は対外的には中国皇帝しつつも、神事の際にはヤマト王権の「オオキミ」であり続けたと考えられる。外装は外にしながらも本質的なところは保守的であり、和才の精神に法っている。


  1. 聖徳太子 実像と伝説の間』石井成、P49
  2. 研究入門大津透 編、P93
  3. 前掲、大津、P92
  4. 柳田男の皇室観』山下一郎P171

3節 明正天皇の即位

近世には明正天皇と後桜町天皇の二人の女性天皇が誕生している。古代の女較して、近世の女性天皇即位の経緯は詳細に記録されている。二人の即位にはいずれも一部に強い反対があったが、その原因を女の性差のみに原因をめるのは誤りである。特に明正の場合は女性天皇であることよりも、当時の幕関係の緊焦点が当てられる。

1629年、約800年ぶりの女である明正天皇の誕生は内外を驚かす事件となった。その理由は後尾が幕府どころかほとんど臣にも知らせず、(にわか)に7歳のに譲位したことにあった。承久の乱から武の世になって以降、皇位継承は幕府が統括する習わしになっており、後尾の行動はそれを無視したものであった。

江戸幕府と後水尾天皇の対立

17世紀初頭、長い戦乱の時代を終わらせた徳幕府は、禁中並公家中諸法度を定めるなど朝廷との新たな関係の構築を模索していた。しかしそれは天皇にとっては武による権益の侵に他ならなかった。特に明正即位と関連づけられるのは衣事件という叙任権闘争である。これは明正のの後尾が幕府に断で高僧に衣の着用を許した事が問題視されたものである。幕府は皇室宗教界へのを減らすことを的に関係者を流罪に配して後尾を怒らせた。この事件により幕府が朝廷より優位に立つことがはっきり示された。しかし幕府としては徳統治の正統性の皇室に置いていたため、武力による脅しで天皇を支配していると世間には思われたくなかった。この後に起きる「女騒動」とは皇位継承を幕府の管轄に置きたい徳と、皇位継承を握しておきたい天皇との均衡の中で発生した事件であった。

       ┌  高仁王(折)
徳川家康秀忠和子  融院(折)
         |──┴明正(女一宮子内王)109
      108後光110
            ├後西111
            └霊元112─……

1608年、すでに下人になっていた徳川家康は孫和子(まさこ)政仁(ことひと)王(後尾)に入内させる計画を練っていた。徳の女を入内させ、生まれた子供天皇にすることで皇室の外戚になろうとしたのである。しかしこの政略結婚大坂の陣家康の死などで延期され続け、1618年に再び縁談の話が進むものの後尾が和子入内の前に他の官女との間に子をけていたことが事件化した。幕府は禁裏に「紀紊乱」ありとして公家粛清を行う。徳から潔められた後尾は将軍秀忠を恨み、以後頻繁に譲位をめかすようになる。

ようやく後尾に入内した和子はまず女一宮(明正)を産み、続けて1626年に高仁(すけひと)王を得た。翌年、後尾は生まれたての男児に譲位の意向を示し幕府もこれを了承するも、即位の準備を進めていた矢先、高仁は病死してしまう。気を落とした後尾はの女一宮への譲位を図ったが、幕府は「女性天皇は過去にも先例が多く吉例である」と女即位を認めながらも、(妊娠中の)和子がまもなく子供を産むので時期尚であると諫止した。

「(前略)ひめ宮(女一宮)の御かたへ御くらい(皇位)をゆつり(譲り)まいらせられたきとおほしめしよし、むかしもめてたきためしおほく(昔もめでたき例多く)まゝ(後略)」徳川秀忠から大納言への手紙

明正即位後に朝廷と幕府の仲介役に立った細川三斎(忠)の記録によれば、この頃和子以外のから生まれた後尾の子供は間引きされていたという聞があったという。しかし直後に和子は男児(融院)を産むが、この幼児は八条に養子に出され皇位継承から外されている。徳が外戚となるためには待望だったはずの男児が養子に出されていることから、当時の幕府は外戚政治を行うよりも後尾との関係改善をしていたものと推察される。そして、その児童も生後数ヶで死んでしまった。

病にも苦しんでいた後尾は、灸治療を受けるためにも(在位中は「玉体」に傷がつくため灸が使えない)いよいよ女一宮へ譲位する意志を固め、摂・大臣クラス公家10余人に、女一宮中継ぎ天皇に立てる是非を諮った。

尾「の儀は苦しかるまじき左様にもわば女一宮(明正)に御位あづけられ、若宮御誕生のうえ、御譲位あるべき事」

鷹司信房が「上御養生の為に、女一宮へ御譲位あるべきかとの事。先例度々の様に承り間、子細これなく存じ」と述べているように、先例の多い女性天皇には公家の大方は消極的賛成していたが、烏丸広は「女の儀、(せんしょう)(前例)これきにあらずと(いえど)も、頑愚にして覚悟なきに」と前例を認めつつやんわり反対の立場をとっている。

治療的の後尾の譲位の是非 一宮(明正)への譲位の是非 備考
鷹司信房
九条忠栄
二条 せひ(是非)をしらす ひろく御沙汰
山院定煕
西園寺実益
日野資勝 ご養生の儀ごもっとも
三条西実条 いづれもごもっとも
烏丸 ×(頑愚にして覚悟なきに
出川宣季
中院
◯=賛成、=どちらとも言えない、×=反対

しかし幕府は後尾の決意を軽く見て今度は諫止すらせず、代わりに春日局を派遣して天皇に対面させた。地下(ぢげ)冠)の女が徳の武威を背景に参内したとあって卿らは「、民の塗炭に落ち事に」と憤慨し、天皇自らも幕府への憤懣を溜め込んだ。後尾は春日局の参内とほぼ同時に、幕府に関与させず女一宮子)に内王宣下して女即位の舞台を整えていく。

()の御譲位」事件勃発

春日局との対面から1ヶ後、後尾は幕府どころか、明正のの和子も含めてほとんどの臣に知らせないまま子内王に揖譲(ゆうじょう)してしまった。これを知っていたのは武家伝奏(幕府とのパイプ役)の中院一人だけであり[1]、他の公家たちは恐慌状態に陥った。

関白 近衛信尋(のぶひろ)にわかの儀、驚き入るほかなき也」『本自性院記』

土御門泰重「下官(泰重)始め諸卿ども、(きょうてん)の気色あい見えなり」[2]

幕府側の担当者である京都代の板倉重宗も「不慮(にわ)かの御譲位なかなか言語(ごんごどうだん)の御事也」と不快感を顕にしている。さらに幕府お抱え儒羅山の「女、上代より程久しき事、その上、然るべき例これなし(女性天皇の前例ははるか大昔のことである上に、特に女の世が太だったということがない)」という答申も伝え、女を即位させた朝廷プレッシャーをかけた。

羅山の息子(がほう)は編年史『玉露』の中で「本神国」っであって、姫神である「天照大神」をり「天津日嗣を世まで伝え」てきたが、女性天皇は「久く稀なる御事」なので、後の世で「御外戚の御勢(徳の圧力)」で明正女が即位したと言われると大変であると心配している。

一時は幕関係の悪化が懸念され、後尾の復位まで提案される。実際に秀忠の怒りは並々のものではなかったが、最終的に幕府は「(えいり)(後尾の意志)に任せらるべし」「姫宮への御位御譲り、是非なし」と穏当に事態を落着させ、幼い明正に代わってしっかり政を行うことを摂関めている。幕府から承認を得た朝廷は、明正の即位の儀を着々と進めていった。満5歳の幼子だった明正は儀式の最中も片手に人形を持っていたとされる[3]

「御幼と申し、女の御事のあいだ(中略)御まつりごとただしく御沙汰あるべき旨」

尾の譲位の意は分からないが、幕府側はこれを衣事件などを巡って武皇室に圧力をかけすぎたせいだと認識していた。しかも後尾には男児がおらず、明正を「おろし参ら」せて代わりに男を即位させることもできなかった。また後尾を復位させるとなると広域の関係者の処罰が要請され、幕関係はさらにこじれることになる。それを避けるため幕府は明正の即位を認めざるをえなかった。鎌倉時代以降、武が統括するはずの皇位継承が断で行われたことで徳の権威に傷がつき、幕府はこれを教訓に明正の後光明への譲位からはより力を入れて皇位継承を管理・統括している。

幕府による明正政務の否定

こうして成立した明正女だが、幕府は彼女を生涯にわたって抑圧した。明正即位後の幕府は、後尾の権を極力否定するそれまでの方針を転換し、後尾に院政を認めて滞っていた官位叙任を正常化させた。明正が15歳で成人すると、後尾上皇は摂九条房と摂政二条に、明正は「天子御作法(政務)」が可であるかを諮問している。ここで言う政務は毎御拝事や四方拝事などの朝廷儀式催する仕事し、九条の回答は明らかでないが、二条は女の政務は可であると回答している[4]

それに伴って朝廷は明正の成人で摂政関白に変えること(復辟(ふくへき)という)を幕府に打診したが、幕府側はの体調不良を理由これを延期している。九条房はこの際に「本来、復辟は11〜15歳で行われるのが習わしであり、15歳というのはおかしい。万事、幕府の承認を得てからでなければ事が決定できない」と不満を漏らしている。その後、朝廷側が取り下げたのか幕府側が承認しなかったのかは不明であるが、結局復辟は行われなかった。幕府がこの問題に正面から向き合わなかった理由の一つに京都代の板倉重宗が、朝廷が復辟という大事なことを事前に幕府に相談もせずに進めようとしたことに不快感を示したことにあった。歴史学者の久保貴子は「史料上で明正が天皇に必須な学問を修めている様子が伝わらないことから後尾も明正はあくまで中継ぎと考えており、明正が本来の形で天皇の政務を機させることはなかったであろう。ただ皇位にいる以上、四方拝・節会などの儀式は行った方が良いとの考えがあったのではないだろうか」と推察している[5][6]

幕府は譲位後の女行動も厳しく制限し、上皇となった明正は新院御所での遊覧も許されず、兄弟姉妹との対面も年始のみ、それ以外は摂関であってもあってはならないなど禁欲的な生活を強いられた[7]

「新院御所での遊覧は用とする。例外として禁裏や仙洞御所、女院御所での遊覧に一同でご覧になるのは良い。兄弟姉妹との対面は歳首(年始)のみとし、それ以外では摂などであっても対面してはならない。御幸(天子の外出)は仙洞御所や女院御所へは構わず、禁裏やの女二宮邸へは、(後尾)上皇女院が一緒ならばよい。しかし、たびたびの御幸は控え、御幸の際には院参の卿二人が供奉すること」

ともあれ明正女が生まれたことで、以後の皇位継承で女性皇族が補に入ってくることになり、明正の甥の東山天皇は明正の即位を「吉例」として5歳子内王を後継者に名している。これに対して幕府は東山が長く在位することを希望し、また東山がまだ壮年であることを理由に譲位を承認しなかった[8]


  1. シリーズ 日本人宗教 近世から近代へ1 将軍天皇』「江戸幕府と朝廷P7
  2. 前掲、今P5
  3. 日本歴史 840号』「江戸時代の皇位継承」高P30
  4. 前掲、野村P279
  5. 前掲、野村P130
  6. 後水尾天皇久保貴子P128
  7. 前掲、久保P130
  8. 天皇歴史江戸時代天皇藤田覚、P1253

4節 後桜町天皇の即位

115町(智子内王)117
     └桃園116─後桃親王)118

弟から姉への「譲位」

明正の即位から約100年後、近世二人の女である後桜町天皇が誕生する。事の発端は緋宮智子(あけのみやとしこ)王(後町)の桃園天皇が病で急死したことにあった。突如天皇が不在になるという緊急事態に対処すべく関白近衛内前(うちさき)を筆頭とする摂関桃園の死を秘匿したまま協議し、幼年(5歳)であった仁(後桃園)が「十歳」になるまで、智子(
)
を「暫く御在位」させることを決めた。

近衛内前「未だ(後桃園が)御幼稚にゆえ、(叔母の)緋宮御方御(後町として)践祚、王御方十歳ばかりにならせられまで、御在位あらせられように、意御治定のよし」『御湯殿日記

関白らは桃園の遺詔として明正天皇という女性天皇の前例と、後光天皇が亡くなった際に後西天皇中継ぎとして即位した前例を持ち出している。その他、智子即位を正当化するために偽造された可性もあるあるが「(桃園と後町のの)桜町天皇は本来は(の)桃園ではなく(の)智子に譲位する考えだった」という記事が正親町公明日記に載っている。

桃園町は生前から息子健康状態を心配しており、「皇統之事」で「子細」が生じた場合についての遺言を残していた。当時の武家伝奏であった久我(みちえ)日記『通記』によれば、町は桃園が「幼年」のうちに問題が生じた場合、閑院宮直仁(かんいんのみやなおひと)に皇位を譲るように言っていたとある。久我と共に武家伝奏を務めていた柳原綱の『柳原綱卿日記』にもほぼ同様のことが記されており、こちらではもしもの時は「一品宮」に皇位を渡すように言っている。当時、一品の王は閑院宮の他に有栖川宮職仁(ありすがわのみやたるひと)がいたので、そのどちらかということになる。すると関白はこの町の遺言を無視して女性天皇を立てたことになる。

霊元┬東山中御門町┬
  |      |    └桃園┬英仁(後桃園)
  |      |     └二宮(伏見宮貞行)
  |      └閑院宮直仁─典仁─格─……今上天皇
  └有栖川宮職仁─織仁

  • 町即位時は閑院宮は典仁の代、有栖川は職仁の晩年であった。

後桜町即位の史学的論点

以上のことから後町女即位には研究史上の二つの問題がある。

  1. には前例多数であるにもかかわらず、なぜ仁を即位させず中継ぎを立てたのか?
  2. なぜ町の遺詔通りから男性天皇を立てず、女性天皇を即位させたのか?

藤田覚は「女即位の裏には仁の健康不安があった。仁は幼いころから左の視力がなく、部にも出血があった。関白はこのような健康不安を抱えた5歳君がちゃんと成長するのかどうか不安で10歳まで様子を見ようとして中継ぎ天皇を即位させた」と推察している。

野村玄は「後町が中継ぎだとしても、あえて不安の多い女を立てる必要がない。世襲から男中継ぎに立てればよく、事実関白中継ぎの先例として持ち出した後西天皇世襲高松の人物であった。摂衆があえて後町を即位させたのは、血統的にかけ離れた傍系よりも直系へのこだわりがあったと考えられる。

後水尾天皇高松宮良仁(後西天皇として中継ぎ即位)
     └霊元天皇─……

傍系宮といえど後水尾天皇の皇子であった後西と違い、他の世襲等が隔たっている上に、将来的に仁への譲が円滑に行われる保がなく、事実上の皇統変更になってしまう恐れがあった」。また仁を直接即位させなかった理由に関しては、関白が将来的な皇位継承者の不在に備えて上皇を確保しておきたかった考えられる。摂関は皇位継承に際して補者の絞り込み・人選はできても、最終決定権を持っていない。そのため高次の発言権を持った上皇手元に置いておくために後町を仁の前に即位させたと見られる。この懸念は的中し、後桃園が崩御した後の天皇の即位には後上皇が最終的な決定を下している[1]

石田俊は、当時の儀礼では仁が即位してしまうと母親仁の養育に関与できなくなるため即位を引き伸ばしたと考察している。桃園直後、智子(後町)と綺門院(桜町天皇の正配、桃園と後町の)が、仁の母親である一条富子について、立后宣下を受けた上で(ちはつ)(出)させたいと考え、関白にそのことを相談した。しかし関白は他の摂関とも話し合って富子は幼い仁と同居して養育する立場であるので立后宣下も薙も延期してほしいと要望した。ここからは富子が仁が同居して養育することが摂にとって大きな意味を持っていた点が確認できる。仁が即位しなかった理由は、ここにめられる。女即位に際して摂関綺門院に対し、仁でなく後町女が即位することは「(仁)王之御為ニも宜」と述べているが、これはとの同居が可であるという意味と解釈できる。

仁がに養育されることの重要性は当時の朝廷構造の変化にあった。近世皇室では、皇嗣の養育は生実家、いわゆる外戚が担うことになっていた。しかし桜町天皇の代から皇嗣の「実」は、皇嗣がから生まれようが父親の正配偶者であると定められた。これにより外戚による政治関与がなくなったものの、幼の養育責任者が不在になる問題があった。父親がいれば良いのだが、仁の町は既に死去している。その歪みが宝事件(尊王思想が弾圧された事件。朝廷内の導権争いでもあった)という政争を引き起こしていく。そこで摂はそのひずみを抑えようと仁と母親を同居させるべく、後町を中継ぎ即位させるという選択をしたと考えられる[2]

「衆議々」する公家たち

桃園の死が隠蔽されていたことで公家たちの間にはさまざまな聞が飛び交い(「就大変雑説区々」)、女即位には様々な意見(「衆議嗷々(ごうごう)」)があったと言われる。とりわけ幼いとはいえ現に後継者となる仁や、二宮仁の)がいるのに後町を立てたことへの批判が多かった(明正即位時には後尾の子供女児しかいなかった)。関白から先例を探せと命じられた広兼胤は「『幼稚』の王が受した先例は多い。『幼稚』の王が践祚した事例は上皇がいた。女性天皇の皇位継承は稀にあるが、今回のような事情であったのだろうか?」と書き連ね、ついにその事例を見つけられなかった。

卿の野宮(定和)は後町の即位に「希代の事、古今未曾有の事」「古今類なし、ひとえにこれ新儀」「ああ末代王道衰弊の時」「に譲る御事、また未だ聞かず」「心神裂けるがごとく」と最大限に怒りを表している。野宮の怒りは止まらず「現在だけではなく万代の後まで批判は消えない。臣下としてこのことを嘆かないのならば禽ケダモノ)と同じだ。この裏には何か秘密の謀計があるのではないか?」とまで訴えた。

後桜町の政務

このような批判もあったものの、関白京都代を通じて幕府に女即位の了解をめる文書を提出した。その文書には明正の前例に従って、女性天皇の場合は関白摂政になることを記す別が付随していた。幕府は「天皇慮に任せる」と問題なく女践祚を承認する。桃園天皇の死から幕府の容認までわずか5日のことであった。こうして即位した後町は23歳の成人女性であったが、事前の取り決め通りに関白ではなく摂政が補任された。

その後、仁が成長すると後桃園として受するものの皇子なく崩御し、皇統の嫡流は途絶えた。その後、摂関は閑院宮から師仁王(格)を推挙し、後上皇宸翰(しんかん)天子の文書)によって最終的な決定が下された[3]。後町は格の後見人として上皇政治を行い[4]、傍系から即位した天皇は後町から何事かについて天皇としてあるべき心構えの教訓を受け取っていた。その他、後町は格を宮廷の重要な社交の場である「御内会」に参加させるために古今伝授を授けたり、公家たちにも学問奨励示を出している記録が見られる[5]


  1. 日本歴史 2006年10月号』「女桜町天皇の践祚とその的」野村
  2. 日本史研究 618号』「近世朝廷における意思決定の構造と展開」石田俊、P135
  3. 前掲、野村、P80
  4. 京都府埋蔵文化財論集 第5集』「古代の女とその背景上田正昭、P249 
  5. 天皇藤田覚、P48,192,194

近世の女帝への眼差し

明正と後町は女性天皇という点でいくつか男性天皇と異なる特徴がある。

  1. 成人しても関白でなく摂政が置かれたこと
  2. 神事に際して月経が障りとなったこと

既に述べてきたように、男の場合は未成年時には摂政が置かれ、天皇が成人すると関白に変わる。しかし明正は幕府の意向によって成人年齢に達しても摂政のまま据え置かれていた。後町は即位時に23歳の成人女性であったが、明正の前例に則って関白ではなく摂政が設置された。

天皇の最も重要な務めは「神事」である。神事は権力者の幕府でも取って代わることができず、神事を行う事が天皇朝廷の存在意義であった。しかし近世では女性生理は「穢れ」と見なされ、女性天皇はその大事な神事を安定的に行えなかった。たとえば中世絶した儀が多くある中、江戸時代まで続けられていた四方拝という儀式がある。明正が未成年の間は四方拝は開催されず、女が成人に達した時に摂関の間で明正が儀式とどう関わるかが議論された。内大臣九条房は、古代の先例を元に明正がその場に出るべきだとした上で「御故障」がある際は代理が務めても構わない。節会も「御障り」で出御しないことはあっても、3回に1回は出るべきだとしている。ここでいう「御故障」「御障り」とは単なる体調不良などかもしれないが、月経している可性が高い。

町の頃には朝廷神事の中でも最上位に置かれる(だいじょうさい)復活していたが、後町が女故にその日取りの決定が難しかった。大祭の日付は11月の「中の卯の日(2回の卯の日)」か「下の卯の日(3回の卯の日)」に行なわれる慣例になっていたが後町の「の御障り」を考慮し、初めの卯の日に設定し、その日が「御障り」になったら後の卯の日に変更するという二段構えの計画が立てられた。即位後も四方拝の場は設けるものの後町が出御することはなかった。また毎年の新嘗祭も後町は一貫して出御することはなかった。

ただし、このように月経の血を「穢れ」と見なす思想は9~10世紀から顕著になったもので、近世の女に特有のものであった。(参照『13章 女性皇族の婚姻』「3節 女性皇族と穢れ」)

また京都真言宗涌寺(せんにゅうじ)は「御寺(みてら)」と称し、天皇菩薩寺であった。ここには江戸時代の14人中12人の男性天皇の肖像画が所蔵されており、女二人は排除されている。二人とも男児が育った時点で譲位しており、共に中継ぎの役割が明確な天皇であった。

尾「女一宮(明正)に御位あづけられ、若宮御誕生のうえ、御譲位あるべき事」『資勝卿記』

関白近衛内前「未だ(後桃園が)御幼稚にゆえ、(叔母の)緋宮御方御(後町として)践祚、王御方十歳ばかりにならせられまで、御在位あらせられように、意御治定のよし」『御湯殿日記

ただし女性天皇の性差が必ずしも問題視された訳ではない。後町の譲位の宣命では位を譲る理由として自らの「庸質(庸な才)」「薄徳の身」を挙げており、「女性の身でありながら」という表現はなかった[1]


  1. 天皇近代』「後桜町天皇天皇の譲位」磯田史、P32

5節 近世の女帝中継ぎ論

近世では朱子学(儒教)が広まったことから女、女摂政の否定的も多くなる。その中でも注すべきは水戸が編纂した『大日本史』である。本著は中世では天皇の一人に数えられた神功皇后摂政へ格下げしている点に特徴があった。大日本史幕末の尊王運動を与え、やがてそれは日本政府公式見解となった。現在でも宮内庁は神功を代数に含んでいない。

水戸安積澹泊(あさかたんぱく)栗山潜鋒といった学者たちに神功皇后論の執筆を命じ、神功皇后を「皇太子を立てたにもかかわらず権力を私した僭位」と結論づけている。

栗山潜鋒「皇后が既に皇太子ましますにも(かかわ)らず、七十年にも(わた)って南面(政治)してゐたのは、僭位といわざるを得ない」「日本書紀皇后を『摂政』と書したのは卓見であつたが、一紀として建てたことは惜しむべきである」『神功皇后論』[1]

ただしこの決定は神功皇后女性であることとは関係であり、澹泊は元明天皇元正天皇を「君徳を備えた天皇」と高く評価している。推古天皇にも以下のように賞賛を惜しまない。女性を認めない儒教に依拠する議論ながらも、必ずしも女性天皇を否定的に評価しない思想が当時あった。

推古天皇・舒明天皇紀の賛

「これ(推古)、女登極の始なり。既に則(女の守るべき)を往時に正し、符(天子しるし)を当(謁見の場)に握る。に宜しく政を修挙して、以て祖法のに遵うべし」

(推古)(すこぶ)(がぎょ)(人使い)のを知る。子、葛城県を賜らんことを請うに、、詔してこれを拒む。辞直にして理正しく、悪まずして厳なり」

この議論を受けて、儒者で垂加神道遊佐木斎は『読神功皇后問答』や『女立否論』を著し、女そのものの是非について議論を深めた。木斎は皇位は神孫のみに継承されるがゆえに女が即位しても問題ないが、女の役割は先男子孫が成長するまでの「中継ぎ」であると捉えていた。だが「女中継ぎ故に即位すべきではない」と女を否定した明治論者と異なり、木斎は女を積極的に否定する色が薄い。

「女は決して神道の本意にあらざるなり」というに対して、木斎は天照大神や神功皇后などの統治の功績を引用して反論していく。木斎の議論は錯綜しており「女には問題がない」としつつも「恣意的な女即位で天皇への敬意が失われる」と言っている。「女をあえて立てるべきではない」と言う一方で将来的な女の即位の可性を認めている。このような矛盾したは、儒者の立場から女を否定したいが、現実政治の中で江戸時代に女は存在する。そんなジレンマの中から生まれたものだろうと推察される。


  1. 『尚仁王と栗山潜鋒』松本丘、P200

6節 戦前の女帝中継ぎ論

明治23年(1890年)に小中村清矩(きよの)は『女論』を著し、その中で女を三種類に分類した。この分類は現在の女論でもよく使われている。

政治事情によって即位した女 推古天皇皇極天皇
父親の意志に基づいて即位した女 孝謙天皇、明正天皇
皇太子の成長を待つための中継ぎの女 持統天皇元明天皇、後桜町天皇

皇室典範の製作責任者である井上毅も小中村清矩の女論自体には強くを受けているが、井上は女は「皆」③の幼男児の成長を待つための中継ぎであるとした。これに対し、当時の元老院議員にして歴史学者であった重野安繹(しげのやすつぐ)は、武・明の女性皇太子の立場から皇位を継いだ孝謙天皇の反例を出し、「皆」を「率子(オオムネ)」に変更するよう提案している[1]

喜田貞吉は女事故がある時にやむを得ない状態の時に誕生するものであるとしつつも、それにしては古代には女が大量に出現していることから「男の次にはほとんど毎代必ず女の立つべき習慣ありて、女普通のこととして、少しも怪しまざりしを見る」と結論している。喜田は男と女が交互に即位する皇位継承法に則れば天智天皇の次に大友皇子弘文天皇)が即位したのは不自然であるとして、智の皇后の倭中天皇(ナカツメラミコト)として即位したとした(参照『6章 女中継ぎ論(推古と皇極・斉明)』「5節 仲天皇と中皇命」)。


  1. 近代天皇制と国家早川紀代、P150

7節 戦後の女帝中継ぎ論

学術的に女中継ぎ論に強いを与えたのは、1964年に上された井上貞の『古代の女』である。井上は女を「古代の本来の女」と「制の導入によって変質した女」の二種類に分類した。古代には皇位継承上の困難な事情がある時に便宜上の処置として皇后が即位する慣行があり、それが本来の女である。推古、皇極(斉明)、持統がこれに該当する。これに対して元明、元正、孝謙(称徳)は皇后経験者でない。これは制によって子直系継承が導入され、幼少の直系男児の成長を待つための女であった。

井上の女中継ぎ論は学会で広い支持を得ると同時に多くの批判が寄せられた。

上田正昭は『女論』の中で女史を三段階に分類した。

巫女王の段階 卑弥呼、飯豊皇女
巫女王から女の過渡期の段階 推古、皇極(斉明)、持統
の段階 元明、元正、孝謙(称徳)

上田は「巫女王から女への転移自体が古代天皇制の変転と密接に関わっており、女の即位は偶発的ではなく必然性を持って現れる」とする。

小林敏男は女全員中継ぎではなく、推古と皇極(斉明)は中継ぎとは関係であるとする。また斉明以後の女でも皇太子制度が未成熟で、天皇に個人の資質がめられた7世紀には幼や統治力がない者は皇位から排除される論理が働いており、女もまた男と同様に正統な天皇であってその本質・性格が変更されることはないと述べる。中継ぎ天皇であることが明確な元明天皇の時代にも遷都が行われ、古事記が撰上され、土記が編纂されるなど国家の重大事業が進行している[1]

荒木敏夫は男性でも孝徳天皇など中継ぎ天皇は多数存在し、女だけ中継ぎ性を強調するのは性差を前提とした理解があると言う。また荒木は推古の例を取り上げて皇位継承争いを緩和するために必要なのは「女」の天皇ではなく、皇位継承に関わらない「第三の立場」の天皇であったと言う。敏達天皇の妃であった推古が即位しても新しい後継者補が生まれないため、将来的な皇位継承争いの拡大を抑止できる。それゆえ推古は群臣から推戴されたのである[2]

近年流の学説は、女が頻出した飛鳥時代から奈良時代キョウダイ継承から直系継承への過渡期とみなし、血統を繋ぐ直系(嫡流)以外を中継ぎの傍系とするものである。既に紹介したものと重複するものもあるが、以下要学説を並べる。

継体┬明(嫡子)─┬敏達(嫡子)─押坂仁大┬舒明(嫡子)─智(嫡子)
  ├安閑(中継) ├用命(中継)       茅渟王皇極・斉明(中継)
  宣化(中継) ├推古(中継)           孝徳(中継)
          崇峻(中継)

河内は「王女キサキ)をとする王こそが王位継承の資格に優れ、ヒメとする王の継承資格よりも勝るものとされていたのである。王位継承の直系と傍系の区別の根拠をこの婚姻形態のもたらす血統性の差異にめたい」と考えた。つまり母親の血の賤によって嫡子が決定されたという。また王位継承における姉妹を含むキョウダイ継承については直系継承の形成に付随する補助的存在であり、直系の者が年少などすぐに王位につけないとき、その条件の成熟を待つまでの空白を埋めるための役割であるとした。

貞子は、女が即位する第一条件は「所生皇子排除」を原則とする立太子の実現に同意することであったという。つまり女はその即位と同時に自分の子の皇位継承権を失い、別の皇族を立太子する必要があった。ゆえに男の場合は中継ぎ即位であっても途中で嫡流に取って代わる可性は残るが、女の場合は中継ぎ運命づけられていた。

佐藤長門は、中継ぎ男性天皇は女と違い結婚と産児に制限がない点に区別があるとする。女中継ぎ否定論は「男性にも中継ぎ天皇は存在した」と述べるが、その例に挙げられている孝徳、仁、孝、後白河はいずれも女性天皇とは異なった特徴を持っている。まず孝徳天皇中継ぎであるとする史料的根拠は乏しく、他戸王への中継ぎとして即位した天皇も結局、他戸への継承は行われていない。自らの子女に賜姓して実子の即位の可性を絶った光孝天皇の場合も、その死後に実子である宇多天皇が皇籍復帰して即位したことによって計画は成就しなかった。一、後白河天皇のみは二条天皇への継承がなされたため中継ぎとして成功したと言えなくもないが、国家天皇制そのものが変容している院政期の事例を7、8世紀のそれと単純に較してはならず、またその即位は仁の場合と同じく、子よりが先に即位する優先の原則に則ったもので、女と同列に論じることはできない[3]

成清和は、古代日本族形態との関連において王位継承の規則性をめた。日本に支配者層(天皇含む)の族形態が双系的族集団と規定されているならば、それは取りも直さず日本独自の族形態の残存と評価できる。そして女が頻出した時期の王位継承を規定しているのは、智が制定し、武が改変した直系継承を旨とした『不改常典』であり、そこには中継ぎとしての女も存在しえた。その中には中継ぎというより緊急的避難的な女の即位も見られるが、同時に双系的族集団に則った入婿による王位の継承といった事も確認できる。南部昇も同じく女の継承を「直系皇位」継承の中の「中継ぎ」の役割を果たしていると考えた。

これらの中継ぎ論に対して官文娜は、中国、殷、周王の「子相承(直系継承)」と「及(同世代継承)」を較して、古代日本王位継承に直系継承は存在せず女にも中継ぎの役割はなかったとする。古代中国では嫡子が年少の時に王が摂代として立つことはあったが、それは嫡子が成長した際に譲位することとセットであった。翻って日本飛鳥時代には生前譲位の慣行がなく推古と斉明はそれぞれ聖徳太子中大兄皇子が成人しても終身天皇の座に居続けた(皇極は孝徳に譲位しているが、即位時の孝徳は50歳であり次世代への中継ではない)。ゆえに女は直系継承における中継ぎの意義を持っていない。「皇位継承争い緩和としての女中継ぎ」という一般的理解も、推古崩御後に皇位継承争いは起きており、争いの複雑化を防ぐ役割を果たしていない。


  1. 古代の時代』小林敏男
  2. 日本古代王権の研究荒木敏夫、P152
  3. 日本古代王権の構造と展開』佐藤長門P283

8節 男性中継ぎ天皇とされる人物

長い歴史の中で中継ぎとして即位した男性天皇の数は少なくない。しかし女性天皇と違い婚姻制限をされていない男性天皇中継ぎの身を脱しようと政治的・軍事的に働きかけ、その結果子孫に皇位を繋いでいることも多い。

以下に示した例の他に、篠賢は31代、32代の用命、崇峻天皇は「仮に即位した中継ぎであった」と見ており[1]遠山美都男は大海人皇子(武)は智と同兄弟のため本来は即位できず、母親の出自が低い39代弘文天皇は、武系と智系の両方の血を受け継いでいる皇子や大津皇子が成長するまでの中継ぎであったとしている[2]。また鎌倉後期から始まった両統迭立時代は正統(嫡流)と中継ぎまぐるしく入れ替わり中継ぎ天皇定義を「即位時に、その子孫には皇位継承しない予定だった」とするならば、89代の後深から南北朝が合一するまでの天皇の大半が中継ぎということになる。

27代 安閑天皇、28代 宣化天皇のケース

仁賢天皇白髪皇女
       |────────明29
     継体26         |────敏達天
       |───宣化27─皇女
香─子媛  └安閑28

遠縁から即位した継体天皇は嫡流の仁賢の手白髪皇女を嫡妻とし、手白髪との間に生まれた天皇を「嫡子」に定めた。『日本書紀』によれば明は幼かったためまず二人が天皇となり、その後は明が下を治めたとある。

「この方(明)が嫡妻の子であるが、まだ幼かったので二人の(安閑、宣化)が政を執られた後に、下を治められた」『日本書紀

ただし安閑も「太子」とされており「嫡子」明と矛盾していることから、その史実性を疑う向きもある。(参照『10章 継体天皇の即位』「6節 継体即位の前後」「天皇は「嫡子」だったか」)

36代 孝徳天皇のケース

茅渟王┬皇極35(斉明37)智(中大)38─……
   └孝徳36有間皇子(刑死)

の変で蘇我が滅んだ後、皇極は19歳だった息子中大に譲位を申し入れたが断られたので、皇極のの孝徳が受した。その即位年齢は50歳であった。孝徳の死後は孝徳の息子の有間皇子でなく斉明が重祚し、次の代には中大智として即位した。孝徳の有間は謀反を唆されて中大に殺されている。

49代 光仁天皇のケース

                新笠
                             |桓武天皇50─……
──────智38施基───49
|                          |他戸王(嫡)
武40文武42武45┬井上后)
                └孝謙46(称徳48)

奈良時代武-の血統が重要視されており、称徳の代で男系の血が途絶えたため女系での血を繋ぐよう仁は井上結婚し、他戸(おさべ)王が即位するまでの中継ぎとして即位した。しかし他戸は陰謀により母親と共にされ、後には桓武が登極した(参照『5章 女中継ぎ論(持統〜称徳)』「3節 孝謙(称徳)天皇中継ぎ道鏡事件」「天皇の即位と武-系皇統の断絶」)。

58代 光孝天皇のケース

文徳55清和56陽成57
|        ├保親王
|       
58多(源定省)59醍醐60─……

陽成天皇摂政藤原基経によって退位させられた後、幼年だった貞保や貞の成長を待つまでの中継ぎとして光孝天皇が55歳の高齢で即位した。孝は実子に皇位継承させないために子女をほぼ全員臣籍降下させた。しかしその後、基経の意向によって源定省が皇籍復帰し、多として即位した(参照『4章 十一宮皇籍離脱の経緯』「4節 古代の臣籍降下と宇多天皇の即位」)。

64代 円融天皇のケース

村上62冷泉63山65
     |     └三条67
    └円融64─一条66─後朱雀69……

村上天皇が嫡流と見込んでいたのは冷泉の統であった。しかし冷泉には奇行が立ち、しかも病がちであったので幼児だった冷泉の子(山)が育つまで、一代限りの中継ぎとして11歳の円融天皇を即位させた。当時は外戚政治が盛んであったが藤原氏中継ぎの円融にを入内させることはなく、円融が成人しても藤原の女が副(元した男子に、妃補の女性添い寝する習)することはなかった。

       冷泉天
         |─花山天皇
藤原尹─懐子
    ├家───詮子
    | ⇅対立   |
    └兼通─媓子  |─一条天皇……
         |     |
         円融天

しかしその後、朝廷の実力者の藤原(これただ)が死んだことで村上冷泉力が薄れ、皇位継承の方針に翳りが生じ始める。円融は一代限りの身から脱却しようと、藤原兼家より出世が遅れて焦っていた兼通と手を組み、兼通のの媓子を中宮(皇后)にすることで新たな皇統創設を画策した。それは半ば上手くいくが、媓子との間に後継者の皇子が生まれることはなかった。兼通の死後、兼も遅ればせながら円融にを入れて一条天皇けた[3][4]

72代 白河天皇のケース

藤原茂子
  |───白河72─河73……
三条71
  |───┬実親王
基子  親王

11世紀後半に即位した後三条天皇は、藤原氏ではないため外戚から解放された存在であった。後三条藤原氏に介入されない皇位継承をし、息子白河に譲位した際に非藤原氏から生まれた2歳の実仁王を皇太に立てた。後世史料ではあるが14世紀頃成立の『盛衰記』には実仁に何かあった時には同王が後を継ぐという遺詔もあった。

しかしその後、実仁が15歳死にすると、一年の空白を開けて白河皇太子にしたのは遺詔にあった仁でなく自分の息子善仁(たるひと)であった。さらに白河は即日譲位して善仁を天皇として即位させた[5]

77代 後白河天皇のケース

藤原  ┌崇徳75 ┌高倉80……
  |白河77┴二条78六条79
鳥羽74         |
  |─┬──────姝子
藤原得子  ├(女補)
      └近衛76

院政期、鳥羽上皇が正統(嫡流)と考えていたのは近衛天皇であった。近衛が重病になった時には、近衛息子が生まれるまで二条中継ぎさせる計画もあったが、結局、近衛は子亡くして17歳で崩御してしまう。そこで鳥羽は次善の正統として二条を選び、近衛から二条へ皇位を継承させようとした。いずれにせよ鳥羽は後白河の存在を無視しており、「後白河天皇の器ではない」と言うほど毛嫌いしていた。

近衛の死後、暲子内親王を女にするという案もあったが、関白藤原忠通の「現存するからまず即位させるのが順当である(優先の原則)」という献策によって後白河中継ぎ天皇として即位した。後白河中継ぎで、二条こそが近衛から皇位を受け継いだ正統天皇であるとして、二条近衛の同姝子(しゅし)王を皇后にした[6]

95代 花園天皇のケース

嵯峨88┬後深89伏見92┬後伏見93┬厳①─┬③─……
     |        95    ② └後光厳④─……
     └亀山90多91┬後二条94邦良
           
    醍醐96村上97┬長慶98
                          └後亀山99

  • 丸数字は北の代数
  • 後深系は後に持明院統、亀山系は大覚寺統と呼ばれる

鎌倉時代末期、皇統は後深系(持明院統)と亀山系(大覚寺統)が交互に天皇になる両統迭立(ていりつ)状態にあった。二つの皇統はそれぞれ自らが正統であると自負し、皇位の独占を狙っていた。互いにく自分の統に皇位を戻したいがために相手に譲位を迫ることを繰り返したため、この頃の天皇は幼くして即位し若くして譲位することが多かった。自分の統に後継者が用意できないと相手に皇位を独占されてしまうため、ワンポイントリリーフとして中継ぎを頻繁に出さなければいけなかった[7]

花園天皇の後伏見が譲位したのはわずか14歳で、元も済んだばかりで子供はまだいなかった。皇位は大覚寺統の後二条に移されるが、その後の持明院統には正統後継者がいないため園が中継ぎとして皇太子となった。その後、後伏見に嫡子の量仁王(光厳天皇)が生まれると、園は甥の量仁に熱心な教育を施した。譲位に関する日記も皇位への未練は見られず、淡々としている[8]

96代 後醍醐天皇のケース

大覚寺統も状況は同様であった。大覚寺統の正統後継者補とされたのは後二条息子の邦良王であったが、邦良は病弱であったため中継ぎとして後醍醐に急遽玉座が回ってきた。後多は息子の後醍醐を「一代の」として即位させるため立太子にいくつか条件を付けた[9]

  • 一期(後醍醐の代)の後は、(ことごと)く邦良王に譲与すべし
  • 醍醐の子孫はたとえ賢明の器で済世の才があっても(邦良)に仕え、君をけること
  • 僭乱(せんらん)の私曲があってはならず、邦良を実子のように扱うこと

一方で後多は後醍醐の子の継承権を全には否定せず、場合によっては即位することもありえると書いている。河内は「大覚寺統が皇位を独占するために後継者補が欠けることはあってはならず、邦良系だけでなく後醍醐系にも皇位継承の可性を認めておかなければならなかった」と分析している[10]

醍醐が期待された役割はあくまで邦良のリザーバーであったが、後醍醐はこれを拡大解釈して自らが正統になるために討幕の兵を挙げ、以後長きにわたる南北朝時代の動乱が始まる。

北朝2~3代 光明、崇光天皇と4代 後光厳天皇のケース

西園寺寧子   
          |───┬光厳①─③─……
   |     ② └後光④─後円融⑤
伏見93
園95─直仁

の君であった光厳天皇の構想していた皇位継承順は明→息子の崇従兄弟の直仁王であり、元々は明と崇は一代限りの中継ぎであった[11][12]明は院政を敷くの意向に従って政治に深く関わることもなく、粛々と崇に譲位した[11]。崇厳から「皇位や所領について自分の子孫が継承するのは崇までで、崇の死後は園の嫡子の直仁に皇位を継承させ、皇統を園の系統に戻しなさい」と命じられ、崇もそれに従って即位後に直仁を皇太子に定めた。

園は厳の学師ではあったものの、それだけで園に皇統を移すのは異常である。なぜ厳が自分の子孫でなく直仁を選んだのかは明確には不明で、板倉武は「直仁は園の子でなく厳の隠し子であった」と推察し、家長嗣は「直仁の生正親町実子が足利尊氏の遠い戚だったためその関係を重視した」との説を唱えている。

花園天皇
  |─直仁
正親町実子
正親町
   |
 北条種子
 └登子
   |
 足利尊

しかし政変によって厳、明、崇三上皇および直仁は南拉致され、予定されていた皇位継承は破綻する。後に残された北には正統な継承者もなく、即位を命じる上皇もおらず、即位に必須とされた三種の神器もなかった。そこで北の群臣たちは西園寺寧子(厳と明の)を治の君に定め、約850年前の継体天皇を前例にして「群臣推戴」という形で後光厳天皇を即位させた。非皇族の女性に命じられ三種の神器もないまま登極した後光厳天皇は、長い天皇歴史の中でも最も権威のない即位となった。

その後、軟禁から解放され京都に戻ってきた光厳上皇は所領および(嫡流のとされた)と文書を崇の系統に留め置き、後光厳をあくまで緊急避難中継ぎ天皇として扱った。だが後光厳は父親の決定に反発し皇位を自らの息子(後円融)へ継承させた。厳の死後も互いに自らが嫡流と自負する後光厳系と崇系の間で皇位継承争いが長く続けられていくことになる[13]。(参照『3章 世数と皇位継承』「4節 伏見の誕生」「後花園天皇の即位」)

111代 後西天皇のケース

108明正109
       ├後光110
       ├後西111
       └霊元112東山113……

嫡流とされていた後光明は子供がいないまま22歳で病死してしまった。生前、後光明は霊元を養子にする意向を持っていたため後継は霊元に定まったが、当時の霊元はまだ生後4ヶ児であったので後尾上皇が「後西を中継ぎに立てて、霊元が14,15歳になったら譲位させてはどうか」と提案した。幕府との相談の上でこの案が通り、後西天皇が誕生した。

後西天皇は後尾の八男であり、が全て出していたため消去法的に高松宮(後の近世四親王家の一つ、有栖川宮)を継承していた。そのため天皇になる訓育は受けておらず、幕府も後西が「御作法よろしからざれば」いつでも霊元に譲位させよと釘を刺している[14]


  1. 物部氏』篠賢、P207
  2. 古代日本の女キサキ遠山美都男、P128
  3. 『王時代の実像1 王再読』「冷泉・円融初期政治史の一考察沢田和久
  4. 女性政治文化』「兼通政権の前提」栗山
  5. 『王時代の実像15 中世の王の宮斉、P15
  6. 天皇歴史04 天皇中世の武河内新田一郎P32
  7. 中世の王と宮斉、P58
  8. 『歴代天皇紀』
  9. 後醍醐天皇』兵裕己、P18
  10. 天皇歴史04 天皇中世の武河内新田一郎P172
  11. 天皇に関する基礎的考察石原ロ、P115
  12. 前掲、P121
  13. 『北天皇石原呂、P62
  14. 天皇歴史06 江戸時代天皇藤田覚、P88

8章 崇神〜仁徳天皇の継承


「1節 崇神天皇実在性」では10代天皇、崇神の物語実在性について検討する。現在歴史学では神武から9代 開化までの初期天皇実在せず、御肇天皇ハクニクシラスメラミコト)、すなわち「初めてを治めた天皇」という意味の異名を持つ崇神天皇こそが実在した可性がある実質的な皇室の始祖というのが現在の定説である。前代の大王たちとべて輪がはっきりしている崇神であるがその事績は多分に神話的であり、それがそのまま事実であったとは考え難い。よって崇神伝承はヤマト王権が奈良地の祭権を握していった行程を物語したものと考えられている。また崇神は四人の皇族将軍を四方に派遣して逆らうものを討伐させた「四将軍伝説を持つが、こちらに関してもヤマト王権が地方勢力を征討していった数世紀にわたる長い期間の戦いを物語化したものとされる。

15代 応神天皇は伝承の上でも考古学的にも画期が見られる人物であった。そのため戦後には、大陸から来た騎民族が畿内に入り天皇になったという騎民族説や、九州勢力が東漸してそれまでの崇神王を倒して新しい王を打ちたてたとする三王交替説が唱えられた。現在史学では騎民族説や王交替説はほぼ支持されていないが、物語上、応神は始祖王として描写され、またの仲哀よりの神功皇后との結びつきが強いこともあり、現在も応神に関連する系譜には疑いが投げかけられている。「2節 三王交替説」「3節 応神天皇実在性」ではそれらの論点に関する議論解説する。

神功皇后は応神を妊娠したままを渡って新羅を従させたという「三征伐」伝説を持ち、近代まで日本初の女として扱われた人物である。その物語もやはり極めて神話的である上に朝鮮史料との矛盾が多いため、数世紀にわたる倭朝鮮攻略の史実を伝説化したものと考えられている。神功は応神の系ではあるが神功を除いて応神天皇を語ることはできない。「4節 神功皇后伝承の考」では皇后の史実性を詳細に見ていく。

       ┌───────(間4代)─────神功皇后
    |                   |──応神15
開化9┴崇神10─垂仁11─行┬ヤマトタケル─仲哀14
                        └成務13

逐次、記紀伝承を紹介していくが全文を掲載すると煩雑になるので、適宜こちらのサイト「古代日本まとめ」exit)を参照してもらいたい。

1節 崇神天皇の実在性

歴史人物は「実在した」と「実在しない」の二分論では論じられないこ。例えば「崇神天皇実在した」とは「ミマキイリヒコイ(崇神の和風諡号)と呼ばれる人物が存在した」のか「(記紀の崇神伝承にあるように)神制度を確立し、四将軍を各地へ派遣した王が存在した」のか「記紀の年代観に検討を加えた時期に、日本列島を支配した王が存在した」のか、いずれの意味か不明である[1]。よって実在したか、実在しなかったかでなく、個々の伝承を考察し、その史実性や伝承の由来を検証することが肝心である。


  1. 天皇誕生』遠山美都男、P244

崇神以前と以後

記紀の記述で、崇神天皇までの天皇と崇神以後の天皇には以下のような大きな違いが見られる。


崇神伝承の検討

日本書紀』の崇神伝承は神託を通じて神々と対話する神話物語が展開される。その中で崇神は天照大神(かさぬいのむら)に祭し、大和の地霊(土着)神である倭大(ヤマトノオオクニタマノカミ)り、疫病の流行を引き起こしていた大物(オオモノヌシノカミ)三輪山に崇めた。

遠山美都男は「崇神紀」の記述は創作性が高く崇神天皇実在の人物ではないという。崇神が天照大神、大神。大物神をったという伝説は史実ではなく「大王ヤマト地方の祭権を握し、宗教定をした」という理想の歴史である。

また崇神の和名「ミマキイリヒコイ」は「ミマキ」、「イリヒコ」、「イニ」と3つに分解できる。「ミマ」は「人の末裔」の意味で、「キ」は墳墓をす「()」である。よって「ミマキ」は崇神紀に出てくる(はしはか)のことと思われる。「イリ」は「()り付く」の意で「イリヒコ」はシャーマン男性す。「イニ」は不明瞭だが「(にえ)(神々への献上品)」と語感が近い。すなわちミマキイリヒコイという名は墓の物語シャーマンとしての神々への託宣物語、神々への奉献物語と3種の神話から構成されており、造作された疑いが濃厚となる。


稲荷山鉄剣銘の意冨比垝(オオヒコ)と『日本書紀』の大彦命(オオヒコノミコト)

崇神の実在性と関連するものに、稲荷山古墳出土鉄剣銘(参照『11章 古代日本の社会構造』「稲荷山古墳出土鉄剣銘文」)がある。銘に見える「獲加多支ワカタケル大王」は雄略天皇(オオハツセノワカタケ)をし、また「(オオヒコ)」は、崇神天皇派遣した四将軍の一人「大命」と名前が一致している。系譜では大命は孝元天皇息子で、崇神天皇叔父である。

孝元天皇開化天皇崇神天皇
    

稲荷山古墳出土鉄剣銘に記されたオワケの系譜

垝(オオヒコ)多加利足尼(タカリノスクネ)─弖加利獲居(テヨカリワケ)─多加披次獲居(タカハシワケ)─多沙獲居(タサキワケ)─半弖(ハタヒ)─加差披余(カサハヨ)─乎獲居(オワケ)


日本書紀』の将軍伝承

「(崇神は)(オオヒコミコト)北陸に遣わした。武渟(タケヌナカハワケ)東海に遣わした。吉備(キビツヒコ)を西に遣わした。丹波主命(タニハノチヌシノミコト)を丹波に遣わした。そして、(崇神)天皇は「もし、が命を受け入れない者がいたら、武器を用いて討ち取れ」と詔した。四人に印綬を授けて将軍に任命した」『日本書紀

もし銘にある意垝が書紀の大命と同一人物であるならば、大命とその血縁者である崇神の実在性が確できることになる。

「意垝」と「大命」が同じ人物かは議論が分かれている。「オオヒコ」は「オオ」+「ヒコ」という普通名詞的な名前であり、偶然名前が一致した可性も十分考えられる。例えば『皇太神宮儀式帳』には俣造らの遠祖として「大古」の名が見えるが、これもまた「オオヒコ」である。これに対して圧倒的多数の研究者銘の「意垝」を「大命」に定している。その根拠として名前が一致することに加えて、両者の活動していた年代がほぼ同じであることと、大命の後裔氏族(倍氏や氏など)は東武蔵)と深い関係を有することが挙げられる。下の表にあるように世代的にも近似し、年代的にも仮に一世代を30年とすると(「世」という漢字の語は「三十」である)意垝の活動時期は西暦230~260年である。一方の『古事記』によると崇神の崩年干支258年であり一致する。

1 2 3 4 5 6 7 8 9
ワカタケル(雄略) 允恭 仁徳 応神 仲哀 ヤマトタケル 垂仁 崇神
オワケ カサハヨ ハタヒ サキワケ タカハシワケ テヨカリワケ タカリノスクネ オオヒコ

しかし記紀の年代が史実と認められるか疑問が残る。4世紀代の日本が使われていたどうかも不明である上に『日本書紀』と『古事記』の二書で崩年干支が一致する天皇は安閑、用命、崇峻、推古の四人にすぎずその四人も日付は一致しないことから崩年干支が史実に基づくものとは必ずしも言えない。さらに『古事記』で天皇が崩御した日付は古事記に登場する13人全員が3日~15日の中に含まれている。これが偶然である確率は約0.00002%に過ぎず、動機は不明であるが造作されたものと考えられる[1]

さらに大命の子孫や末裔の氏族には銘にある名前と近しいものが確認できる。たとえば大の孫に田心命(タゴリミコト)という人物がいるが、銘にある「タカリノスクネ」と、それぞれ尊称を除いた「タゴリ」と「タカリ」で名前が似ているとも言える。また倍氏の豊別(トヨカラワケ)も銘の「テヨカリワケ」に定でき、両者ともオオヒコの孫という点でも一致する。銘のタカハシワケは個人名ではないが、倍氏傍系の氏が改名して高橋(あそん)を名乗っていることと一致する。タサキワケもやはり氏族名であるが佐々山君(ササキマギミ)に近しい。「ハタヒ」に関しては『日本書紀明紀に『提便』という名前がある。大の子孫である「提便」は「ハテビ」と読めるはずだが、書紀の古訓は「ハスヒ」である。完全に一致しないものの近いものがある[2][3]

銘の8代 定される人物・氏族 備考
オオヒコ
タカノスクネ 田心命(ゴリミコト 命の孫
テヨカリワケ 別(トヨカラワケ 命の末裔の倍氏の人物。大命の孫。
タカハシワケ 高橋臣(タカハシアソン)(
)
命の末裔の氏が本拠地の名前から改姓した氏族名
サキワケ 佐々山君(ササキマギミ) 命の末裔の氏族名
ハタヒ 提便(ハテビ? 氏出身の人物。書紀では「ハスヒ」と読まれる
カサハヨ
オワケ

また系譜では人物の尊称が「ヒコ」→「スクネ」→「ワケ」と変遷しているが、これは記紀の系譜に見られる敬称の変遷と一致している。「ヒコ」、「スクネ」、「ワケ」号を持つ人物は記紀に頻出するが、そこ分布には偏りがある。「ヒコ()」は10代崇神〜21代雄略まで、「スクネ(宿)」は10代崇神〜15代応神に多く23代顕宗で見えなくなる。「別(ワケ)」は12代行〜38代智に見られ、それぞれ銘の敬称と時代的に矛盾がない[4]


  1. 「初期大和政権とオオビコの伝承」塚口義信、p174
  2. 古代入門P258
  3. 日本古代史族研究書⑦倍氏の研究大橋信弥、P130
  4. 前掲、P258

意冨比垝(オオヒコ)の実在性

しかし大命と意垝がそれぞれ実在の人物とは限らず、よって崇神の実在性は明できないという反論も存在する。

古代では複数の氏族が架の先祖(多くは神武から応神の間の初期大王の皇子)を共有することで同祖系譜を作成し、血縁に依らない擬制族集団を構成していたことが判明している。溝口子は、記紀。9世紀の『新撰姓氏録』・『先代旧事本紀』に掲載された族系譜と銘の系譜を較し、両者は以下のようにその構造や特色が極めて似ていることを摘した[1]

  1. 系譜は、神話伝説的部分と現実的・歴史的部分という異質な二つの部分からなっている。
  2. 族の始祖は、四将軍の一である大命のように、日本伝説上の著名な人物である。
  3. 神話伝説部分は複数の氏が先祖を共有する「同祖構造」を持っている。
  4. 氏族の職の起が、大王への「奉仕」の形式で語られることが多い。
  5. 二つの異質な部分の接点あたりをにして、人名の表記に変化が見られる。

3に関して大命は『日本書紀』では7氏族の始祖となっており、9世紀の『新撰姓氏録』ではさらに増えて38氏に上っている。その中には吉志や難波忌寸など渡来人系の氏族も含まれている[2][3](参照『12章 記紀歴史叙述』「6節 同族系譜の思想』)。5に関して銘の8人はタサキワケとハタヒの間に名前の変化が見られ、系譜の接続の跡が確認できる(参照『10章 継体天皇の即位』「1節 『上宮記』の史料批判」「上宮記系譜の分解と意富々等」)。よって古代族系譜で史実として信頼できるものは本人の祖父などの下部分のみになる。

オオヒコ─タカリノスクネ─テヨカリワケ─タカハシワケ─タサキワケ↙︎

─ハタヒ─カサハヨ─オワケ

  • 上段が他の族との共通祖先に設定された神話的造作部分、下段実在の系譜

銘文でいえば「オオヒコ-タカリノスクネ」と「テヨカリワケ-タカハシワケ-タサキワケ」が実在しない共同祖先系譜にあたり「ハテヒ-カサハ-オワケ」が実在する人物だと考えられる。「オオヒコ」という名前男性を意味する尊称「ヒコ」に美称の「オオ」を冠しただけのシンプルなものであって、一族の始祖としては一般的なものである。

仮にオオヒコが孝元天皇子供であれば「オオヒコノミコト」「オオヒコノ君」「オオヒコノ王」などという表記になるはずである[4]。またオオヒコが孝元天皇息子なのは記紀を確認して初めて分かることである。オワケがワカタケル(雄略天皇)と同族であるならば、血統の正統性を示す大事な系譜なのに銘文に孝元の名前が現れていないのは不自然である[5]

よってオオヒコは史実上の人物でなく、崇神天皇実在性を保するものではない。


  1. 日本古代史族研究書⑦倍氏の研究大橋信弥、P127
  2. 前掲、大橋P1263
  3. 古事記研究西郷信綱、P100
  4. 稲荷山古墳を見直す』「一一五文字の銘文が語る古代ヤマト王権」小林敏男、P101
  5. 『直木孝次郎古代を語る3神話古事記日本書紀』直木孝次郎P206

大彦命(オオヒコノミコト)の実在性

先述したように崇神天皇は大命ら四人の皇族将軍を四派遣したという伝承を持つ。しかし記紀ともに戦闘など具体的叙述が見られず、特定歴史的事件の反映を見るのは困難である。

戦前津田左右吉は、四将軍伝承は「四方経略(東西南北を攻め取り、下を統治する)」という概念によって作られた物語であるとした。『古事記』には崇神に派遣された武渟別が大と「往き遭った」ことからその地が「相会津)」と名付けられた書かれているが、これも7世紀中盤のヤマト王権のエミシ経略の反映であると考えられる。井上貞は津田説を受けて崇峻天皇(6世紀末)が近江臣満や人臣雁、倍の臣を東海道北陸道派遣して夷や越などのを視察させた史実が崇神の四方将軍派遣伝承成立の背景になったと論じた。

上田正昭は、崇峻が臣下を派遣した地域は崇峻期以前から倭国家権力が強く浸透した地域であることから、この伝承は段階的に形成されてきあたと見るべきであったとする。米沢康は、伝説そのものが史実でなく6世紀以降の史実の反映があることを認めた上で、伝承の核となる古代伝承があることを摘し、それは元々は個別的であり大伝説もその一つであり、それが崇峻のような史実を踏まえ、さらに崇神を内外定の世とする記紀構想によって四将軍伝説がまとめられたと考えた[1]塚口義信は、大和朝廷の先兵となって各地を転戦した3世紀後半から4世紀代の武将をモデルに、5世紀後半にオオヒコ伝承の原が作られ、後に潤色・改変されて8世紀の日本書紀の四将軍の伝承に定着していったと推察している。

大橋信弥は、会津の地名起譚はヤマトタケル物語と同工異曲であり、四将軍伝承は王権史の構成の要請から「ハツクニシラスメラミコト(初めてを治めた天皇)と呼ばれた崇神が「四方」定し土統一したという事績を語ったものとした。『古事記』では語られていない西の逸話を『日本書紀』で付加して「四」にしているのはそういう意図を明確に語るものである[2]

ただし四将軍物語は全くの上から生まれたものでなく、別個に成立していた古い所伝を増補・合成して生まれたものというのが定説である。記紀成立は8世紀初頭であるが、四将軍伝説の原はかなりくから見られ、470年代に倭王武が中国貢した際の上奏文は以下のようにある。

昔より(そでい)(先祖)が(みずか)甲冑を(つらぬ)き(着て)山川(さんせん)跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)(いとま)あらず。東は毛人を征すること五十。西は衆夷をすること六十六。北のを渡りてぐること九十五」『書』倭

ここでは皇室の「(そでい)(先祖)」が東と西と北を定したことが語られており、皇族将軍が四方を攻め取った四将軍伝説と同じ構造である。朝鮮の史書にも3世紀以降頻繁に倭の攻撃を受けたことが書かれており大和朝廷による征戦争制成立の時点まで断続してあったことは歴史事実と認められ、その史実を元にした四将軍伝承の祖となった物語が5世紀の宮廷で語られていたことが分かる[2][3][4]


  1. 日本書紀研究 第十四冊』「初期大和政権とオオビコの伝承」塚口義信、P167
  2. 『f日本古代史族研究書⑦倍氏の研究大橋信弥、P253
  3. 日本国誕生の風景文雄、P126 
  4. 記紀神話伝承の研究康夫、P153
  5. 「初期大和政権とオオビコの伝承」塚口義信、P173

2節 三王朝交替説

1代 神武〜9代 開化 実在しない
10代 崇神〜14代 仲哀 崇神王三輪古王、イリ王
15代 応神〜25代 武 応神王河内、中王、ワケ王
26代 継体〜今上天皇 継体王越前、新王

戦後皇室タブーが解禁され「万世一系」に対する史学研究が始まった。その一つとして大きなインパクト学会に与えたのが水野の三王交替説である。ここでは神武から開化を実在の人物ではないとした上で、仲哀天皇と応神天皇、武天皇継体天皇の間に系譜的断絶があるとして、崇神〜仲哀を古王(イリ王三輪)、中王(ワケ王河内)、新王越前)の三つの王古代に存在したと論じられた。

王墓築造場所の移動現象

交替論で重要な論点とされてきたのは、王墓群の築造地域の移動現象である。初期の大王墓は大和地東南部に集中するが、やがて大和地北部へ移動する。古墳時代中期には奈良を離れて大阪平野河内和泉古市古墳群、百舌鳥古墳群が形成される。大王墓は大王の本拠地か本貫地(氏の発祥の地)であり、大王墓の移動は王位継承集団が変わったものと考えられる。更に墓に埋葬される威信財(や甲冑)の内容が変化することも王交替説を説明している[1]

初期ヤマト王墓の移動

奈良地の東南部大和古墳群、古墳群など)→奈良地の北部(佐紀古墳群)→大阪河内古市古墳群)と和泉百舌鳥古墳群)

ただし「墓は本貫地(本拠地)に営まれる」という原則が当時存在したかは明確でなく、考古学者の間でも議論が分かれている[2]。また奈良地東南部古墳群(大和古墳群、古墳群)と大阪平野古墳群(古市古墳群、百舌鳥古墳群)は大和川で結ばれており「大和川流域」という括りで見れば一体と呼ぶことも可である[3]


  1. 埋葬からみた古墳時代』清家
  2. 古墳時代の国家形成』下垣仁志P237
  3. 古墳ヤマト政権』白石一郎P110

皇族の名前の変化

古代皇族の和名も応神天皇の代で何らかの画期があったことを示している。応神の和風諡号はホムダワケであり、それ以前で実在した可性があり、イリヒコの名を持つ崇神天皇(ミマキイリヒコ)や垂仁天皇(イクメイリヒコ)とは名前の構造が異なる。一方で「ホムダワケ」は、応神以後の仁徳天皇(オオサザキ)、履中天皇(イザホワケ)、反正天皇(タジヒノミズハワケ)と名前の構造が等しい。崇神の血統に「イリ」の名を持つものが多く、応神の王統に「ワケ」の名を持つものが多いことから、古王をイリ王、中王をワケ王と呼ぶ。更に歴代天皇諡号に「神」を持っているのは神武天皇崇神天皇と応神天皇の三人だけで、それら全員が新王の始祖とされる人物である[1]

崇神のミマキイリヒコや垂仁のイクメイリコイサチには「イリ」の名前が入っている。日本書紀古事記では「イリ」の名を持つものは27名登場するが、そのうちの24人(崇神の直系子孫が20人、崇神の兄弟の直系子孫が4人)が崇神から、崇神の孫のの間に出てくる。例外の3人中2人は神話時代の人物であり、実質的に「イリ」の名を持つものはこの時期に限定されているため「イリ」が後世の造作とは考えづらい。よって先述した応神入婿説では「イリ」は崇神の系統を示すものであり、イリが見えなくなる応神の代で崇神系統から応神系統に変わったと考えられる。

イリ系譜

マキイリヒコ(崇神)イクメイリヒコ(垂仁)ニシキイリヒコ
              ├トヨキイリヒコ       ├─────────────フタヂノイリヒメ
            ├トヨスキイリヒメ      ├ワカキニイリヒコ          |──┬シノイリヒメ
            ├ヌナキイリヒメ    └オホタラシヒコオシロワケ(行)─倭武  └仲哀─応神
               ├ヲチイリヒメ            |──────┬イホキイリヒメ
               ├ヤサカイリヒコ──ヤサカイリヒメ       イナイリヒコ
               └オホイリ                ├タカイリヒメ
                                     ├ワカイリヒコ
                                   ├イサキイリヒコ
                                 └オホキイリヒコ
                                   |─ホムダノマワカタカキノイリヒメ(応神妃)
                                 シリツキマワカ      └カツヒメ(応神妃、仁徳)  
 

  • 右下タカキノイリヒメが最後に登場するイリである。
  • 上系図にはイリの名を持つ人物を中心に列挙しておりイリがつかない皇子女も多い。

崇神の直系でないイリ系譜

開化┬崇神
  └ヒコイマス┬ヤツリノイリヒコ
        ├イリ
        └タニハノチヌシ┬ヌハタニイリヒメ(垂仁妃)
                └アザミイリヒメ(垂仁妃)

「イリ」の意味ついては郎女(イラツメ)や郎子(イラツコ)と同じだと言う説(本居宣長説)や、皇子・皇女の中で特に天皇が宮中に入れて自ら養ったものがイリヒコ・イリヒメだという説がある[2][3]


  1. 大和朝廷上田正昭、P141
  2. 古代入門P124,130
  3. 『直木孝次郎古代を語る5大和王権と河内王権』直木孝次郎、P70

始祖王 応神天皇

応神天皇皇室の第二の宗と言われる八幡宮の祭神として古くから敬われていた。宗とは祖先崇拝の施設であり、応神は伊勢神宮アマテラスと並んで「皇室の始祖」として信仰されてきたことになる。

現在、全には約四万の八幡宮が存在し、その本家大分県八幡宮である。八幡の史料での初出は奈良時代の『続日本紀』と古く、道鏡事件で「つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ」と神託したことでも知られる。八幡宮は祭神に誉田別尊(ほんだわけのみこ)(応神)、息長帯(おきながたらしひこ)(応神のの神功皇后)、大神(ひめおおかみ)っているが、このうち大神は他の八幡神社で異同があり、応神のの仲哀や、応神の息子仁徳天皇、あるいは神功伝承に現れる宗像三女神や、神武天皇の玉依姫に代わっているのに対し、応神と神功はどの八幡宮でも必ず奉賽されている。これは八幡信仰の原佐の地に古くから存在した「神が御子神を産むと」いう地方子信仰にあり、それが皇統の神功-応神と結びつき、二柱を祭神とした信仰形態へと代わっていったことに起因する[1]

記紀の記述でも応神天皇が「始まりの王」として描写されていることは複数の専門摘している。

伝承によれば神功皇后は応神を妊娠したまま新羅を定し、九州で応神を出産した。しかし二人が畿内に戻る最中、応神の異母兄弟の香坂王と王が反乱を起こしたため、皇后はこれを鎮圧しなければならなかった。菅野雄は、九州で生まれたばかりの応神がの神功に抱かれて都のある畿内へ向かう様子は、アマテラスが生まれたばかり孫ニニギを日向九州)へ降臨させる孫降臨神話に類似してると摘している。また九州から倭へ向かう途中に香坂王と王の反乱を鎮圧しつつ入する姿は、九州から敵対勢力を討ちながら為政の地をめて東征した神武東遷伝説と同じ話の構造である[2]

西郷信綱は、神が妊娠中の皇后の子(応神)をして「すべてこの皇后お腹においでになる御子の治むべきである」と言った神託と、アマテラスがニニギを孫降臨させた際に授けた「原の中心のが御子の治むべきである」の神託と類似性を摘している。ただし西郷はニニギの孫降臨が大祭における王の模擬的な誕生であるのに対し、応神は現に仲哀の妃が妊むところの子をいっており安易に両者を重ね合わすのはまずいと結論している[3]

また神功皇后の項で詳述するが、応神天皇神と神皇后の間に生まれた「神の子」であった。神によって母親処女懐胎して英雄が生まれるという始祖王生誕伝説は洋の東西を問わず存在する。


  1. 古事記 神話天皇読み解く』編著 菅野雄、P192
  2. 前掲、菅野P195
  3. 古事記注釈 第三巻』西郷信綱、P408

応神天皇入婿説

記紀の系譜

          神功皇后
            |───応神15─仁徳16
行12┬ヤマトタケル─仲哀14
   └成務13

交替説の生として井上貞は応神の大叔父成務天皇、応神の仲哀天皇、神功皇后実在性は認められないとした上で、応神天皇婿説を唱えた。この3代の和風諡号は成務は「ワカタラヒコ」、仲哀は「タラカツヒコ」、神功は「オキナガタラヒメ」であるが、この「タラシ」という名称は、舒明天皇の「オキナガタラヒロヌカ」、皇極天皇の「アメトヨタライカシヒタラヒメ」などタラシの名を持つ天皇が多く存在する7世紀以降の造作だと考えられる。『書』に日本天皇について「その王は多利思(タリシヒコ)」とあるように「タラシ」は飛鳥時代天皇の一般的な称号であった。

塚口義信は「タラシ」の称号は日神信仰、日の御子思想に関係があることを突き止め、「タラシ」の敬称が生まれたのは日神伝説の全体がってきた推古以降とした。直木孝次郎仲哀天皇の名「タラシナカツヒコ」は普遍的な敬称の「タラシ」と「ヒコ」を取ると「ナカツ」が残る。つまり仲哀天皇は崇神血統と応神血統を中つために創作された「中継ぎ天皇」であると解釈した[1]

成務、仲哀天皇に関する事績は極めて少なく、仲哀の伝説上の人物であるヤマトタケルであることも二人の実在性を低くしている。よって井上は実際の系譜を以下のように再現し、応神天皇がナカツヒメを娶って入婿したとした。

井上の応神入婿

崇神天皇垂仁天皇景行天皇木之入日子命(イホキノイリヒコ)(ホムダノマワカ)中日
(カツヒメ

                               ├オオサザキ(仁徳)

                            ホムダワケ(応神)

  • 応神のホムダワケという名前は義の品若(ホムダノマワカ)から名付けられたと推測される
  • 「ホムダ」は大阪の地名であり、義理のから所領を受け継いだことを示すと考えられる[2]

中日売(ナカツヒメ)もまた崇神血統と応神血統をナカツ(中継ぐ)存在であった。このように二つの異なる血統を女系継承によって結ぶことをナカツヒメ婚といい、他に継体系譜などに見られる[3]。この説に則ると、仁徳天皇は実際は女系天皇であるが、後世に系譜を系で繋げるためにヤマトタケル伝説や神功皇后伝説が生まれた。そのためヤマトタケル周囲の系譜には混乱が多く、『古事記』では景行天皇ヤマトタケル曾孫(つまり自分の4世子孫)を妻にしたり、ヤマトタケル母親が5世代も前の孝霊天皇の孫だったりと事実とは考え難い族関係が形成されている。

古事記』の非現実的な系譜

景行天皇ヤマトタケル─若建王─須売呂大中日子王─具漏売命
                             |
                           景行天皇


孝霊天皇孝元天皇開化天皇崇神天皇垂仁天皇景行天皇
    |                      |───ヤマトタケ
    └若健吉津日子┬────────────那毘大郎女
            └吉備健日子(ヤマトタケルの従者)

  • 吉備健日子の系譜は平安時代の『新撰姓氏録』に依る
  • 若健吉備日子と吉備健日子の名前が似通っているところから、若健吉備日子と<那毘大郎女の間に他に「吉備日子」がいく人も存在した可性もある[4]

また『播磨土記』では「成務天皇の時代に、景行天皇印南別嬢を娶った」とあるが、成務の時代にはその行はすでに死んでいる[5]。さらに神功皇后朝鮮遠征に行く際に子供が生まれないように鎮懐石をぶら下げて15ヶ妊娠した末に応神天皇出産したという到底現実的ではない逸話を持つ(神功皇后実在性については後述する)。

吉井は、崇神、垂仁の血統にイリヒコ・イリヒメの名称をもつ人物が多く、しかもその称をもつ人物は応神以後に現れないことに着してイリを持つ人物の実在性は高いと考えた。よって実際の系譜は以下のようになり、応神天皇タカキイリヒメを娶って入婿したとする。こちらにしても仁徳天皇は女系天皇となる。

吉井の応神入婿 

           応神天皇

             ──仁徳天皇

崇神天皇八尺入日子(ヤサカノイリヒコ)八尺之入日売(タカキイリヒメ)
            ├木之入日子(イホキノイリヒコ)
            木之入日売(イホキノイリヒメ)

    
      垂仁天皇五十瓊敷入(ニシキイリヒコ)


  1. 大和国家神話伝承』松前健、P156
  2. 古代入門P121
  3. 『巨大古墳と倭の五王』原島礼二
  4. 日本武尊上田正昭、P10
  5. 前掲、上田P15
「タラシ」号

天皇名前で「タラシ」が見えるのは飛鳥時代以降だが、「タラシ」という称号自体は古くから日本で使われていた跡がある。応神の曽祖父景行天皇は、遠征中に「」と「」という「妄りに名号を仮り」た敵対勢力と出会っている。この二人の名にある「垂」とは、天皇名前に用いられる「タラシ」と同じものと考えられる。坂元義種は「統一国家が成立する前の日本では、クマタケルやイヅモタケルのような「タケル」が各地方にいたように、垂や足垂のような「タラシ」もまた存在していた。しかし行の伝承が示す通り、その頃にはヤマト朝廷はその存在を認めない歴史的状況になっていた」と述べている。

タラシ」は古事記では「帯」、日本書紀では「足」の字で統一されている。平安時代神道書『古語拾遺』では「帯」について「小治田(推古)に至るも太玉の胤、絶えざること帯の如し」と記述され「帯(オビ)」とは連なり、垂れ下がっているもの。すなわち皇位が連綿として継続している意味と解釈している。これに対し坂元は「帯」には孫降臨神話背景にあるとし、「から垂れてきた尊の血筋」と解釈した。日本書紀の「足」は「満足」、「充足」などの熟語から理解できるように「十分に満ち足りている」という意であり、天皇に備わる徳性を称えたものとも考えられる。

タラシ」号については「神功皇后実在性」の項でも触れる。


河内王権論

応神新王説(河内新王説)をさらに発展させたのが直木孝次郎である。直木は以下の根拠から応神から新王が始まったとした。

まず応神-仁徳と武の史書での描写のされ方がある。『日本書紀』では武天皇は「妊婦を裂いた」など、籍から引用された数々の暴虐エピソードが挿入されているが、これは「王の終わりには暴悪な君が現れる」という中国儒教義的・徳治義的歴史思想に基づいて創作された物語と解釈できる。『古事記』には武の悪虐が載っていないこともそれを傍している。一方で河内王権の創始者である応神-仁徳は王の創始者にふさわしく「聖帝」として描写されている。仁徳には有名な「民の竈」のエピソードをはじめ多くの聖帝逸話があり、応神は具体的な物語こそないものの書紀に「立居振る舞いに不思議にも聖帝の兆しがあった」とやはり聖帝として扱われている。このように聖帝として扱われる天皇は応神-仁徳の前後には見えない。つまりなる天子の応神-仁徳によって新王が始まり、暴虐の武によって王が終わるという思想がはっきりと現れている。

また記紀で各族の始祖が出てくるのは、ほとんど全員といって良いほど神代・神武〜応神の間である。以下の表[1]は『古事記』と『日本書紀』で各氏の始祖が現れる時期を示しているが、古事記では172/176氏族が、書紀では73/80氏族が神武から応神の間に自らの始祖を置いている。神代も含めるとその割合はさらに増え、記では200/204氏族、紀では93/111氏族となる。これは「応神以前は氏族の始祖が現れる時代にふさわしい神話世界だ」という思想が当時あったことが理由だと考えられる。

族の始祖の登場時期一覧

古事記 日本書紀
皇系氏族 非皇系氏族 合計 皇系氏族 非皇系氏族 合計
神武 21 8 29 0 10 10
綏靖 0 1 1 1 1
安寧 3 0 3 0 0 1
懿徳 3 0 3 0 0 0
孝昭 16 0 16 1 0 1
孝霊 0 0 0 0 0 0
孝元 30 2 32 7 0 7
開化 23 0 23 0 0 0
崇神 3 2 5 2 2 4
垂仁 18 0 18 2 2 4
21 1 22 13 4 17
成務 0 0 0 0 0 0
仲哀 0 2 2 0 2 2
神功 0 7 7
応神 7 2 9 4 14 18
仁徳以降〜 3 1 4 3 4 7
合計 156 20 176 35 45 80

また古代天皇の即位儀礼として難波河口でミソギをする八十祭が行われていたが、その慣例は難波が新しい政権の起こった地であることを示唆する。イザナギイザナミ産みは最初に淡路島、次に四国を作ったことから分かるように大阪湾で行われており、応神王の本拠地と合致する。さらに万葉集大伴持は以下のように、難波河内)の都が神代の昔から創始せられたことを感慨に耽っている。

天皇の 遠き御代にも 押照る 難波に の下 知らしめしきと 今の世に 絶えず言ひつつ……(後略)」

くわえて仁徳の五世紀以降に有力になった大伴物部中臣などの族は河内に関連のあるものが多い。たとえば大伴連の本拠地は摂津住吉から和泉にかけての地域、物部連は河内渋川一帯の地、中臣連は河内河内郡のあたりというように難波周辺ばかりである。彼らは最初に大和に生まれ河内に進出したのでなく、逆に河内に本拠地があったのが大和に入ったものと考えられる。


  1. 『直木孝次郎古代を語る5 大和王権と河内王権』直木孝次郎P185

王朝交替説への反論

現在水野の王交替説をそのまま評価する学者はほとんどいない。王交替が起きたとされる仲哀天皇と応神天皇、武天皇継体天皇の間に大きな軍事的衝突が起きた形跡はなく、新大王の治世下で前代の政治体制がほぼ保存されている点も新王成立といった大きな政治的変動が起きていなかったことを示す。ただし王交替がなかったことは、古代大王で男系継承が続いていたことを必ずしもしない。

交替説は大王にそれ以前から男系世襲制度が存在することを前提とした学説であり、その前提が崩れた場合、男系血統の断絶と政治的断絶は別の問題となる。応神天皇継体天皇が簒奪者でなく、前王大王を娶って正統に大王位を継承した人物であったとすると、政治的変動の跡が残ることはない。現在の有力学説は大別して以下の2つに分かれ、中国の易姓革命のような大きな政治変革が起きたという可性はほぼ認められていない。また後者の説でも連続説と新盟説で分かれる。

  • 初期のヤマト王権には世襲原理が存在せず、諸族の中で実力を認められた者が入婿、あるいは擬制族関係を通じて王位を受け継いでいた。
  • 初期のヤマト王権には既に系血統原理が根付いており一貫して系継承が行われていた。
    • 応神と前代の大王記紀系譜のように連続する系統であった(大和連続説)
    • 応神は前代の大王とは同一系一族だが別流であり盟権の移動があった(河内新盟[1]

前者の説をとる場合、応神の子仁徳天皇継体天皇の子の天皇などが女系天皇ということになる。

門脇二は、王墓が奈良地から大阪河内に移動したのは、大和の勢力が河内地方に進出し、河内平野の大開拓事業を導したことが原因であると考えた。平野邦雄も王の画期の意味を対外的契機による王権の質的変化にめても十分説明がつくとして王交替説を否定する。河内と呼ばれる応神王統の場合も、史書に「河内に宮を定めた」とあるのは河内(応神〜武天皇)12代のうちわずか3人のみで、始祖の応神の皇居は『古事記』では「河内大隅宮」ではなく奈良の「大和明宮」であり、ヤマトとカワチは一体的に扱われている。平野は「古代には系-男系による万世一系の系譜は成立していないはずであり、それを否定しようとする新王説は、逆に万世一系を前提としていて承引できない」と結論する[2][3]

白石一郎は「初期倭王権の王墓は大和古墳群、古墳群、中古墳群、見山古墳群と呼ばれる4つの古墳群に分かれて営まれていた。古墳群はそれぞれ別個の血縁集団が営んだものと想定されるので、初期大王記紀に見られる男系世襲制とはおよそかけ離れたものであった。初期大和王権の本貫地(本拠地)は河内大和奈良南部)を結ぶ大和川領域であり、大和から河内への王墓の移動は盟権の移動であり、王の交代といった性格ではない」「古墳時代末期から中期にかけて王墓が築かれた奈良地北にある佐紀古墳群は大和川領域ではない。王墓が移動する以前の佐紀には大古墳が存在せず、傍系の王統に盟権が移ったとも考えづらい。よってこれは男系継承が未成熟な段階で王墓の築造地が方の外戚の本貫地に移った可性がある」と述べる[4][5]

岡田は「三輪系王統(崇神系統)はその権力機構や統治機構の実態が不明確であり、またその権力が未成熟であるため王と呼べるか疑問である。河内大王(応神系統)と近江大王(継体系統)への継受についても、継体天皇は前の政権における大連(おおむらじ)などの執政官や、伴造(とものやつこ)などの官僚機構もすべて前政権の宮廷組織・人民支配機構をそっくりそのまま継承しており、血統においても前の大王王女を妻とすることによって入婿の形で継承者となっている。よって河内大王近江大王を『王』として区別しうるものなのか疑問が残る」としている[6]


  1. 古墳時代の国家形成』下垣仁志P237
  2. 日本の歴史倭人争乱』田中
  3. 日本古代史と応神天皇』直木孝次郎、P62
  4. 古墳ヤマト政権』白石一郎P110
  5. 古墳から見た倭の形成と展開』白石一郎P185
  6. 古代地方史3 畿内編』P66

3節 応神天皇の実在性

伊藤博は『古事記』(上中下の三巻構成)が応神天皇条を以って中巻が終わり、仁徳を以て下巻が始まる理由を「応神を遠つ世の殿天子、仁徳を近つ世の初頭の天子とする時代区分」と考え、応神を虚構の存在としている。

吉井は応神天皇不在論を深め、以下の根拠を挙げる。

  1. 記紀において通常の天皇は(皇位継承に特殊な事情のある者以外は)祖の天皇の条下に出生記事が記されている。しかし応神天皇の出生記事はの仲哀条に存在しない。
  2. 応神の神功皇后伝説が生まれたのはかそれ以後と考えられるが、応神即位以前の物語に応神独自の伝承はなく、神功の物語と共に語られている。つまり応神の伝承も以後に神功伝説の創出と共に付加されたものと考えられる。
  3. 古事記』では神功皇后子供は「ホムヤワケ、オホトモワケ、またの名をホムダワケ(応神)」と、オホトモワケ=ホムダワケ(応神)となっている。このことから元々は応神と神皇后関係で、後世にオホトモワケの別名としてホムダワケ(応神)が結び付けられた可性がある。
  4. 応神天皇の即位以後の物語は、応神の後継者が本拠地にしていた河内摂津大阪平野)のものが少なく、応神以前の天皇が本拠地にしていた大和地方奈良地)に関するものが多い。

吉井は応神天皇の存在を「難波に本拠を持つ新しい王初代天皇としてすでに仁徳天皇があり、応神はさらにその上に重ねられた天皇である」と結論づける。応神の伝承を生み出したのは継体天皇であり、仁徳王を受け継いだ継体が、自らが仁徳王と同格の血統であることを誇示するために仁徳の先代に応神を創り出した。応神が冠したホムダワケの名は大(オオサザキ、仁徳天皇)の別称か、仁徳王の支配者たちを呼ぶ代々の通称であると考えられる。

応神仁徳同一人物説

吉井説を受けた直木孝次郎は、応神天皇を単純に架の人物とするのでなく、応神、仁徳の子は元々1人の天皇であり後世に二人に分かれたと考えた。その根拠として以下のように述べる。

(ほむだ)の 日の御子 (おおさざき) 大 ()かせる大 元つるぎ 末ふゆ ()す からが下のさやさや

(ホムダ)は応神であり、大(オオサザキ)は仁徳である。この歌の冒頭「品の日の御子である大」は本居宣長が考えたように「応神の皇太子である仁徳」と解釈するのが通例である。しかし応神と仁徳が子であるという先入観から離れて歌を読めば「品の日の御子(大王)」は応神そのものを解すことができる。つまり歌では品と大は同一人物として扱われている[1]

  • 新撰姓氏録』にあるの伝承に「仁徳の時代に曽々保利(えそそほり)(おと)曽々保利の兄弟朝鮮半島からやってきた」とある。一方で『古事記』の応神天皇の段に「須須許理(すすこり)という人物が朝鮮からやってきた」とある。曽々保利(ソソホリ)=須須許理(ススコリ)は同一人物とすると、応神と仁徳の時代が一体に扱われている[2]
  • 日本書紀』の応神紀にある「枯野の物語」と『古事記』の仁徳の段にある物語は、全体として同じ話である[3]
  • 応神以後の大和朝廷では、皇族の名前や宮の名前を由来として名代(なしろ)子代(こしろ)という()(直轄地)が設定されていく。たとえばオオサザキ(仁徳)のためにはサザキ部、磐余稚(いわれわかざくらのみや)にいた履中のためにはイワレ部、タジヒノミツハワケ(反正)にはタジヒ部などである。しかし応神にはその名に因む部は存在しない[4]
  • 仁徳天皇黒日(ろひ)と、応神天皇(ひめ)物語など二人の叙述には類似点が見られる。
  • 日本書紀』では痴情の絡れによる悲劇が頻繁に起きている。しかし応神と仁徳が一人の女性(かみながひめ))を争ったエピソードしく穏当に決着している。これは二人が元は同一人物であったと考えると褄が合う。
  • 応神系統の天皇はホムダワケ(応神)をはじめ、イザホワケ(履中)、ミツハワケ(反正)とワケがついている。しかしオオサザキ(仁徳)にはワケがついていない。これはオオサザキがホムダワケの別名だと考えると自然である[5]
  • 日本書紀』は実在が不確かな初期天皇も含めほぼ全ての大王の陵の場所を語っているが、一応神の陵は場所を記さず不審である。『古事記』には応神陵の場所は「河内(かふち)恵賀()(もふし)」とあり、それに従って現在は誉田陵が応神陵に定されているが、複数存在する『古事記』の写本のうち卜部(うらべ)の系統のものには「御陵在河内恵賀之[百舌鳥陵也]也」という分注が加えられている。現在の誉田陵が大阪府羽曳野市にあるのに対して百舌鳥古墳群は堺市にある。そしてこの百舌鳥古墳群には仁徳天皇陵こと大山古墳が存在する。本居宣長は「このような注は後世の人のいたずらであり、問題になることではない」としている[6]

古代史の権威である直木孝次郎の唱える応神仁徳同一人物説は一時有力学説となったが、直木は後にこれを翻し、応神は崇神王に入婿して即位したが、その仁徳の母親中日売)は崇神王と血統的に繋がっておらず、仁徳は崇神と男系でも女系でも関係であるとした。『日本古代史と応神天皇』直木孝次郎


  1. 古代入門P151
  2. 前掲、P152
  3. 前掲、P154
  4. 前掲、P163
  5. 前掲、P164
  6. 前掲、P164

4節 神功皇后伝承の考証

応神は物語の観点ではの仲哀よりの神功の方が繋がりが強い。神功皇后の伝承は神託によって夫を失い、応神を妊娠したままをわたって新羅、済、高句麗を屈させ(三征伐)るなど神秘的な描写にられている。朝鮮側の史料を突き合わせて神功伝説を検討すると、その大部分は疎であり史実性に欠けるものである。一方で日本は神功が実在したら生きたであろう4世紀の何年も前から朝鮮半島軍事的進出しており、神功伝説歴史背景があったことは確実視されている。

三韓征伐の史実性

日本書紀』では神功紀の中に邪馬台国女王卑弥呼の描写がある。書紀編纂者は皇后卑弥呼定したため、4世紀の人物である皇后卑弥呼の時代に合わせるため干支を2周(120年)ないし3周(180年)古く記述している。皇后の三征伐伝承は朝鮮側の史料を踏まえて検討すると非常に矛盾が多く、また記紀の中でも多くの齬が見られる。

書紀の中で神功皇后は神がかりし「彼方の新羅を討て」と仲哀に託宣した。しかし仲哀は海外に人が住んでいる土地があることを信じなかったため祟り殺されてしまった。しかし倭は仲哀以前の崇神、仁賢の時代から新羅と外交関係を結んでおり、仲哀がそれを知らないのは不可解である。神話時代まで遡ればスサノヲが新羅の(しも)にいたという伝説も存在する。中国の史書にも倭弥生時代から外交していたことが記されている。これは時間軸とは逆に仲哀紀が先に生まれ、その後に崇神や垂仁の伝承が生まれたためと考えられる[1][2]

さらに伝承では神功が新羅を降したことで、済と高句麗は勝つ見込みがないことを知り、以後貢を絶やさないことを誓った。しかし神功が即位(称制)して46年に「東の方に日本という尊いがあることを聞いた」済王が使節を出し、降から45年以上経った47年にようやく貢して日本の群臣を感させたとある。これは神功の征説話と47年の貢記事は元々独立した物語として成立したことを示している[3]。また皇后に降参した新羅王は「利那礼(アリナレ)河が逆流しない限り日本貢を絶やさない々」と神功に誓っている。利那礼(アリナレ)現在漢江と見られるが、これは4世紀には新羅でなく済の領土である。漢江が新羅の領土になったのは6世紀のことであり、後世的な地理知識で物語が構成されている[4]

神功が属させた新羅王の名は『日本書紀』では「波沙寝錦(サムキン)」、書記の一書(異伝)では「流助富利智干(ウルホリチカ)」となっている。しかしいずれにせよ該当する新羅王は新羅史書『三国史記』に登場しない。寝錦は新羅の古代王号「尼師今(ニシギン)」と同音の異訳であることから、ハサムキンを新羅五代王の「波婆尼師今(ハサニシギン)」に定する説もあるが、この波婆尼師今は伝説時代の人物であり実在性はなく、在位も西暦80~111年と神功のいた4世紀とは200年以上もかけ離れている。よって神功が屈させた新羅王が実在したとは考えられない[5]。一書の流助富利智干に関しては『三国史記』には249年に、倭人が新羅の大臣の「舒」を殺したとある。名前前半の舒は官職名であり、「老」と流助富利智干の「智干」は同語であり同一人物と考えられる。舒老は3世紀の人物である上に大臣であって新羅王ではないという食い違いがある[6]

以上に述べたように古い情報や新しい情報が錯綜する三征伐伝承であるが、日本が4世紀以前から朝鮮半島に圧力を加えていたことは事実である。その根拠の一つに好太王碑(こうたいおうひ)がある。好太王は391~412年に在位した高句麗王であり、碑によれば好太王が即位した年に倭がを渡ってきて済・新羅などを「臣民」にしたという。碑には「倭人そのに満ち、池を潰壊し、新羅を民と為し」とあることからも日本圧迫が強力であったことがえる。碑によれば高句麗は新羅のめに応じて倭を攻撃して一進一退のせめぎ合いをしていた。これは書紀で皇后が新羅を倒し、その皇威に敬した高句麗が自ら属してきたという記述と矛盾するものである[7]

好太王碑に記される朝鮮半島での倭軍の動き

年次 出来事
391年以降 倭が朝鮮半島軍事活動
399年以前 倭が済と同盟を結ぶ
399年 倭が新羅を攻める
400年 高句麗が新羅を救援し、倭兵を追撃する
404 倭が半島西北上し、帯方界に侵入して大敗する
  • 400年時点で半島南部に「仁那加羅」や「安羅」など倭兵の出撃拠点が存在したことが刻まれている
  • 内容は『三国史記』と矛盾しないことから概ね史実だと認められる[8]

また日本史料と朝鮮史料で一致するところもある。『日本書紀』には人質としては新羅からハサムキン王の息子ミシコチハトリカンキがやってきたが、謀をして逃げ帰ったという。三国史記にこれと似た記事があり、ナフツ王の子で倭への人質となっていたミシギン王子が新羅の忠臣によって倭を騙して帰したとされる。ミシコチハトリカンキのうちハトカンキは爵位のことなので、それを除いたミシコチとミシギンは音が通じ、これは実際の事件を根拠にしている可性がある。しかし『三国史記』でミシギンが逃亡したのは5世紀初頭の418年のことであり、皇后の時代を合わず、仮に史実であっても皇后の新羅遠征とは関係のことであったと見られる[9]

皇后朝鮮派遣された将軍葛城(かつらぎそつひこ)大陸から桑原佐糜(さび)高宮(おしぬみ)らの工人を連れ帰ったとある。これに関して7世紀後半の工房跡である飛鳥池遺跡より出土した木簡に渡来系工人の「佐備(さび)」の名前が見え、神功紀の一部が史実であることが考古学的に確認される。また伝承で済王が神功に献じた七枝刀(ななさやのたち)は、石上(いそのかみ)神宮に伝わる七支刀(しちひとう)であることが確実である。

記紀が成立した奈良時代には神功皇后伝説が畿内だけでなく広く伝承されていたことが知られている。現在福岡県の説話を集めた『筑前土記』にも気長足尊(神功皇后)が大三輪の神を祭り新羅を定されたとあり、の大三輪社の鎮座由来を語っている。奈良時代には新羅との関係で摩擦が多く、新羅定伝承を持つ神功皇后の信仰的存在感が強かった。たとえば737年には新羅が礼儀を欠いていることを告げるため、伊勢神宮大神社に並んで神功皇后の住吉、八幡神社香椎宮に進物がられた。これは神功が大三輪の神の加護を願って新羅定したことに倣ったものである[10]

実際に皇后伝承が成立した時期は不明だが継体天皇の時代、物部大連鹿(もののべのおおむらじあらかい)の妻が神功皇后名前を出してることから、神功の三征伐伝承は記紀立から200年前の6世紀初頭にはすでに完成していたことになる[11]


  1. 『倭岡田P157 
  2. 『神功皇后岡本堅次、P29
  3. 前掲、岡本P32
  4. 前掲、岡本P35
  5. 前掲、岡本P36
  6. 『神功皇后』肥後和男、P53
  7. 前掲、岡本、P62
  8. 『加耶/任那」仁史、P91、111
  9. 前掲、岡本P40
  10. 六国史遠藤慶太、P40
  11. 前掲、岡本、P70

神の子 応神天皇

応神のの神功皇后は、夫の仲哀死後に石を抱いて15ヶ妊娠を経て応神を出産したと史書にある。医学的にいえば応神のは仲哀ではありえない。ただし古代には偉大な人物は長く胎内にいるという信仰があり、藤原足や空海も12ヶの中にいたと伝承されている。本居宣長も応神が長く胎内にいたことを讃えている[1]

皇統譜での応神の出自

仲哀天皇タラシナカツヒコ
  ├──────────────応神天皇(ホムダワケ)
神功皇后オキガタラヒメ

記紀では神功皇后は夫の仲哀天皇との交合ではなく神の神託によってんでおり、応神天皇父親は仲哀でなく神であることが示唆されている。

神「今し、(神功)皇后(きさき)始めて(応神を)有胎(はらみ)みませり。其の(みこ)(新羅を)獲たまふこと有らむ」『日本書紀

神功に仕える武内宿「わが大神よ。その神のに坐す御子はいずれの子でありましょうや?」『古事記

武内宿の「の子はいずれの子か?(坐其神之御子、何子歟)」という問いに対して神は「男子である」と不自然な回答をしている[2]。「神の」という表現も「神が憑り移って宿した巫女の子」という意味に解釈できる[3]

そこで後世の伝承や思想の中には応神の系血統に疑問を抱く者もあり、現在史学でも仲哀-応神間で系血統の断絶が起きたとする論拠となっている。

「是に(神功)皇后、(住吉)大神密事(むつびごと)不倫)あり」『八幡愚童訓』

新井白石仲哀天皇死去のもようもはっきりしないし、また応神天皇誕生についても出産を遅らせたことなど疑わしく思えたからであろうか仲哀天皇の二王子が挙兵したが勝つ事ができずに二人とも殺されてしまった」『読史余論』

江戸中期の学者貞幹(とうていかん)神武御裔、仲哀に尽くとふ。応神(いず)くより出させ玉ふや。胎中天皇(応神)、いろいろ疑わしく思はるる也」『衝口発』

中世に書写された『佐託宣集』は『住吉縁起』を引用して、神功皇后と住吉大明神夫婦となり、妊んで八幡神(応神)が生まれたことが記されている。また「一にう」(異伝)として、オホタラヒメ(神功皇后)が異調を神々に祈っていた時、ヒコナギサ(神武天皇)が来て「わが婦とならば祈りをえよう」と言ったので、ヒメはこれを承諾して新羅遠征後に夫婦の契りを結んだという。更に孝謙八幡宮の神託には「大帯(オホタラヒメ)(神功皇后)はなり。すなわち娑竭羅(しゅかつら)竜王の夫人なり。(中略)これ八幡(応神)は竜王となす」と、応神天皇父親竜王になっている。住吉大神海神としての面が強く、応神の父親竜王とする伝承は九州中心に数多く残っている。

神なるによって処女受胎して異形の子が生まれるという英雄伝説は洋の東西を問わず見られるもので、アレキサンダー大王リンピアの寝所にゼウス大神が訪れた結果生まれたという神婚伝承を持っている[4]アジアの例では高句麗の始祖王、朱(東明王)の父親天帝の子の解慕漱では河神のである。


  1. 古代入門P144
  2. 口語古事記』訳・注釈 三浦之、P221
  3. 前掲、松前P182
  4. 前掲、松前P182

母子神信仰

神功-応神のように、神と結ばれて処女懐胎したとその子を崇拝する子神信仰は古代に広く行われていたことが柳田男、石田一郎、三品などから摘されており、記紀の神功伝説の原になったと考えられている。また北九州子神信仰は大陸由来と見られ、それが神功皇后が新羅王の末裔である事実とと関連して論じられる。

上賀茂(かみがも)、下神社古代子神信仰の一例であり、他にも『佐託宣集』『惟賢丘筆記(いけんびくにっき)』などに震旦(中国)王の留女(おおひるめ)日光を浴びて7歳で処女懐妊し、子共にられたという伝説が見える。この大留女がられている香椎宮は、仲哀と神功を香椎宮の東に位置しており、香椎の地一体に古くから信仰が存在し、先祖霊とも考えられていた神崇拝がやがて神功皇后のこととされるに至ったと推測できる。

中世でも(しょうも)(じんも)人聞(にんもん)仁聞(にんもん)などと呼ばれる神崇拝が諸にあり、往々にしてその神は御子神を伴っている。特に北九州では八幡信仰に関連して出てくることが多く、出口吉はこれが古い神崇拝に基づくものであると論じている。その他、日本朝鮮の中央に位置する対馬では、日光によって処女受胎した童法師伝説が存在する。三島童法師信仰の所である童地はの中に石を積んだ累石壇が朝鮮で往々にして子神をる石壇に酷似しており、それが大陸由来であることを明らかにしている。北九州神崇拝も大陸系の名残が多く見られ、香椎の南に存在する多々良多々良は古朝鮮の地名であったタタラを由来としている。八幡の信仰に関しても「(からくに)韓国)の()」に初めて降ったといい、官に(からしまのすぐり)(勝は渡来人の姓)という人物もおり、大陸的な(ふげき)男女の神官)・文化と繋がりがあることが広く認められている。松前健は、このような渡来文化色彩の多い神・御子神の伝承が次第に史実化し、応神の出自伝承として皇統のなかに織り込まれていったのだろうと述べている。

神功皇后もその血統は朝鮮由来であり、神功皇后母親は、新羅の王子アメノヒボコの子孫である。『古事記』の応神記にもアメノヒボコの説話があり、皇后の出自が外蕃(外の神)であることが示唆される。このアメノヒボコの妻の一人にアカヒメという、神功と同じく処女懐胎したから生まれた女性がいる。アカヒメは『日本書紀』ではツヌガアラシトという名前で、難波と豊前に存在するヒメコ神社の神になっている。このヒメコ神社は『延喜神名式』では豊前息長大姫(からくにおきながおおひめおおめのみこ)神社」と記載されている。カラクニ・オキナガ・オオヒメとは「韓国(からくに)(新羅)から渡ってきた息長氏の」を意味し、神功の名前オキナガ・タラシ・ヒメ」「オオ・タラシ・ヒメ」と酷似していることから神功皇后像の一つであったと考えられる。辛息長大姫と神功皇后が同一人物である説は古く江戸時代から存在しており、学者伊藤常足はこの説を紹介した上で全く理に合わないことであると言っている[1]

「御名の似たるに因りて、息長足姬の御事なりと説は、いみしきひがことなりかし」


  1. 太宰管内志 下巻』1910年再販版、P52

神功皇后の実在性

戦後歴史学では神功皇后実在性を疑う意見が強く、6世紀以降の女の存在を反映させたと伝説上の人物というのが定説である[1]皇后に関して、それまでの皇統(崇神系)と新しい皇統(応神系)を結びつけるための渡し役としての役割があるとする皇統交替論(王交替論)。あるいは神功物語の中にある地名や習俗の由来話や霊言譚などの神話的側面を皇后本質的内面と見て、辺にられる子神崇拝が神功-応神という形で皇統の中に組み込まれたとする像論が唱えられた[2]

戦後の神功研究に大きなを与えた直木孝次郎皇后不在説を定説化した人物である。その説によれば女性天皇というのは推古以降の産物であり、それ以前に女が存在したことは考えづらい。また神功皇后実在したとしたら4世紀のことになるが、その頃は神功が征した新羅はまだ大きな勢力でなく、好太王碑文に見られるように当時の強力な相手は高句麗であった。すなわち皇后伝説の形成は、後進勢力であった新羅が勢力を増し日本との関係が緊迫した5世紀末以降のものである。神功を香椎宮は奈良時代まで史料に見えないため、神功の新羅征伝承は7世紀以降に香椎宮縁起談として形成されたと見られる。女皇后が自ら外征軍の揮をとるのは斉明天皇北九州に出征したのが一の例であることから斉明が神功のモデルの一人であった[3][4]

さらに皇后和風諡号「オキガタラヒメ」のタラシ号も「応神天皇実在性」で述べたように後世的な名前であり、「オキガタラヒメ」という名前それ自体も7世紀の舒明「オキガタラヒロヌカ」とその妻の皇極「アメトヨタライカシヒタラヒメ」を足し算した名前になっている[5]。夫の仲哀天皇実在したとは考えられない。仲哀の和風諡号はタラシナカツヒコという。タラシは古代天皇称号であり、ヒコは男性への敬称にすぎない。すなわちタラシナカツヒコを「中継ぎ天皇」すなわち、崇徳王と応神王の媒介とする天皇の意味と解釈しできる[6]

以上の神功皇后実在不在論に対して、田中卓は先史時代にも卑弥呼など女的存在があることを摘し、神功皇后という人間実在していたとする。タラシ号に関しても雄略天皇ワカタラヒメがおり、古くからタラシ号は讃え名として存在していたとみる。以下の表に並べたようにタラシ号は古代族の中にも多く発見できる[7]

タラシ号を持つ古代 備考
ヨソタラヒメ 氏出身。5代孝昭天皇皇后
アメタラヒコクニオヒト 孝昭とヨソタラヒメの子、大族のワニ氏の祖
タラワケ 11代垂仁天皇息子
イカタラヒメ 山背ノカリハタトベの子
タラヒコオオエ王 12代景行天皇の子孫

  1. 六国史遠藤慶太、P45
  2. 大和国家神話伝承』松前健、P150
  3. 天皇歴史01 神話から歴史へ』大津透、P120
  4. 『続 田中卓著作集2 古代住吉大社P42、66
  5. 『続 田中卓著作集2 古代住吉大社P42、66
  6. 前掲、松前P156
  7. 『続 田中卓著作集2 古代住吉大社P42、66

神功皇后は女性天皇だったか

神功皇后近代に至るまでは代数に含められることが多い「女性天皇」であった。記紀でのオキガタラヒメ(神功)は「天皇」と称されておらず、その治世は「摂政」と表記されている。一方で神功は書紀では他の天皇と同じように「本紀」を立てられており、常陸、播磨、摂津の『土記』では「息長帯(おきながたらしひめ)天皇」と表記されている。『土記』は政府の命で作成された公文書であるため、当時の政府は神功を天皇扱いすることを問題視していなかったことが分かる[1]。なおヤマトタケルや飯豊皇女など、神功と同じように『土記』で「天皇」と呼ばれたり、皇帝にしか使われない「陵」や「詔」などの語句が使われ、天皇に準ずる人物は他にも数多く存在する(参照『12章 記紀歴史叙述』「5節 代数に含まれない天皇」)。しかしその中でも本紀を立てられているのは神功のみである。

神功が埋葬されている池上陵は他の天皇と同じように「陵」とされている。の注釈で「即位の天皇を除く以外、皆悉く墓と称す」とあるように「陵」の語は本来は天皇にしか使われないものである。実際には聖徳太子皇后など天皇以外の墓も「陵」とされているが、記紀より古くに伝えられていた山陵群には歴代天皇と神代三代(神武の曽祖父祖父)に加えて神功陵が記されていた可性が高い。神功陵は他の非天皇陵よりも良い扱いを受けおり、陵を監守する守戸の数も他の天皇と同じ数が充てられ、その陵霊の御威平安時代初期には祟りを恐れて特別に弊物(神への贈り物)がげられていた。これらの点に鑑みても体制下において神功は他の天皇と同格として考えられていたことが分かる[2]

中世歴史書『愚管抄』や『神皇正統記』では神功は「十五代」と扱われ、『愚管抄』では「」、『扶桑略記』では「神功天皇」と記されている。また日本から大陸に渡った奝然(ちょうねん)中華皇帝に献上した「王年代記」に依拠して書かれたと見られる[3]『新唐書』や『史』などの中国史書では「神功皇后は仲哀の死後に王と為る」「神功天皇」と書かれている。さらに15世紀に李氏朝鮮の申叔舟が撰進した『東諸紀』でもやはり「神功天皇」と呼ばれており、対外的に神功皇后は女性天皇として扱われていたことが分かる。

「次は仲哀。仲哀死して、開化の曾孫の神功を以って王と為す」『新唐書』「日本伝」

「次は神功天皇開化天皇曾孫女にして、又、之を息長足天皇(おきながたらしひめてんのう)と謂う」『史』「日本国[4]

「神功天皇。開化五世の孫にして、息長宿の女なり。仲哀納いれて后と為す」『東諸紀』[5]

書記で神功皇后紀が立てられた理由は、書記の見本となった『史記』『書』で皇帝ではないが専制政治を敷いた呂后皇祖の劉邦婦人)が呂后本紀を立てていること。また書記編纂者が神功を卑弥呼定し、その年代に対応させて「69年」の治世を設けてこれを基準として歴代天皇の年紀を配分するためなどが考えられるが、その背景には記紀成立期の朝廷が神功を歴代天皇と同列に扱っていたことがあった[6]

その後、江戸時代水戸が編纂した『大日本史』では神功は本紀から后妃に移され、大正時代に正式に皇統譜から外され神功は天皇でないことになった。(参照『17章 近代天皇制と伝統』「4節 神功皇后イメージの変遷」)


  1. 土記から見る日本列島古代史』之、P69,77
  2. 飛鳥奈良時代の基礎的研究』「第四 神功皇后紀の成立の事情」時野滋、P119
  3. 天智天皇章、P195
  4. 講談社学術文庫版『倭伝』P263、280
  5. 記紀考古学浩一、P228
  6. 前掲、時野P195、148

9章 倭の五王と王統分裂説

  • 1節 王統分裂説を支持する諸学説
  • 2節 「倭」姓
  • 3節 『梁書』の史料批判
  • 4節 倭
  • 5節 済王の事例

古墳時代中期(4世紀〜5世紀)の大王系出自観念があったのかどうかの参考になるのが『書』倭伝などの中国史書に現れる倭の五王(讃、、済、、武)である。五王と記紀天皇との定は古くから行われており、現在ではおおよそ次のように推定されている[1]

讃(応神天皇or仁徳天皇or履中天皇
仁徳天皇or反正天皇
(允恭天皇)
(安康天皇
武(雄略天皇)

中国の史書には、倭の五王が中国貢したことが記されている。注すべきはそのうち『書』にはと済の間の続柄(血縁関係)が書かれていないことである。修貢する王の出自というのは中国にとっても重要な情報であり、例えばの即位に関しては「讃死して立つ」としっかり前王との血縁関係が記されているためと済の繋がりが書いてないのは異質である。中国は続柄が分からない他の王は、史書の上では便宜的に子関係で結ぶ傾向がある。にもかかわらず続柄がかかれていないのは何らかの根拠が存在したと考えられる。

間生太は、と済の血縁関係が書かれていないのは『書』編者のミスでなく、二人の間に実際に血縁関係がなかったか、あっても済はそれを言わず自らが初代であると名乗ったためであるとした。これを受けて原島礼二は、と済の間に男系上の繋がりはなかったとした。これを考古学的に裏付けるように、当時河内に建造された大王墳は古市古墳群と百舌鳥(もず)古墳群の二つに分かれている。百舌鳥古墳群に属する16代 仁徳陵と17代 履中陵は前方後円墳面計画において極めて類似し、後円部の直径に対して全長がもっとも長い面形を持っている。一方で古市古墳群に属する15代 応神陵と19代 允恭陵は全長がもっとも短い面形を持っている。要するに2つの古墳群は古墳の形状が異なっており、陵墓造営技術者が別系統であった可性が存在する[2]

この時期の大王は男系的に繋がらない仁徳系と允恭系の二つが存在したという説(二つの大王説)は、現在でも初期大王に男系世襲制がなかったことを明する有力根拠となっている。

書』

讃(

済(
    武(


『梁書』



    

  • 『梁書』では五人は男系で繋がっているものの、『梁書』は『書』の成立か100年以上後の文献のため『書』の方が信頼度が高いとされる。
  • 『梁書』では「讃」は「賛」と、「」は「弥」と表記されている。
  • 」と「弥」は別人で、六人の倭王が存在したという説もある。

仁徳系の仁賢天皇は、允恭系の雄略天皇との間に生まれた武天皇に皇位継承しているが、この場合どちらかが嫡流というわけではないので女系天皇とは呼べない。

仁徳系王統?辺押磐(いちのへおしは)皇子┬顕宗天皇
             仁賢天皇
               ├───天皇
 允恭系王統?雄略天皇春日皇女
            清寧天皇

以下ではこの王統断絶説に関する議論を検討する。「1節 王統分説を支持する諸学説」では「実際には倭の五王は異なる系集団にあった」と考える専門の意見を取り上げる。それによれば当時の王権は男系血統に拠るものではなく、有力族の中から政治力や軍事力が卓越した人物が推戴されて選ばれるものであった。断絶説への反論として「2節 「倭」姓」で、倭の五王がいずれも「倭」という姓を名乗っていることを議論する。姓とは中国語で男系集団を表すものであり、5人がって倭姓を名乗っているのならば5人は同一男系集団であると考えられる。

倭の五王は『梁書』ではきちんと系で繋がっているが、現代史学では『梁書』は史料価値が低く信用に値しないと評価されている。「3節 『梁書』の史料批判』でその評価が正しいのか一考する。また「倭」姓は五王だけでなく「倭」という人物名乗っている。もし倭が皇族の一員であるならば、やはり「倭」性は同一系集団を意味するものであり、倭の五王は男系継承していたとみなすことができる。そこで「4節 倭」で彼の正体について考察する。倭は「西将軍」という称号中国から得ていることから、ヤマトから見て西に関わる人物であることが可性が濃厚である。

中国には日本だけでなく朝鮮貢していたが、その中にも王同士の続柄が記載されていないことがある。それが朝鮮の王統断絶を意味するのであれば、倭の五王の続柄が書かれていないのは血統に断絶があると考えることができる。「5節 済王の事例」で続柄が書かれていない済王について詳説する。済の王統譜もさまざまな矛盾が存在し、初期王の系譜は信用できず、ところどころで血統的断絶が存在したと見られている。


  1. 『詳説 日本史
  2. 日本書紀研究 第二冊』「倭の五王の時代」小林行雄、P132

1節 王統断絶説を支持する諸学説

古市は当時のヤマトは、大王とは系血統で繋がらずとも大王を輩出できる周縁王族が存在していたとする。倭の五王の時代には王統は複数に分かれており、『書』が示すとおり反正天皇(倭王)と允恭天皇(倭王済)に血縁関係はなかった。また清寧天皇を以て允恭系の系血統は断絶し婚姻で仁徳系に統合されたが、その仁徳系も武天皇の代で系は断絶し、地方族の継体天皇が入婿大王になり、以後は世襲制が根付いたとしている。記紀に記される大王への叛逆伝承は実際は大王と周縁王族の間の争いであり、その「叛逆」を支援したのは朝鮮半島との路を支配する海人集団であった。海人集団は大和葛城や吉備、和歌山紀伊といった大族たちの下に統合されており、その族たちが大王婚姻を通じて周縁王族の中心として成長していった可性がある[1]

鈴木靖民は、倭の五王以前の王権は執政力、とりわけ朝鮮半島からの輸入を中心とする外交力を持つと首長たちから認められたヤマト地方の有力首長に継承されるもので、王権の継承には系血統原理はなかったと述べる。大分県小迫(おざこつじばる)遺跡などでは、3~4世紀の日本の首長館は一代限りで完結し、継続性がなかったことが暗示されている。5世紀の応神天皇以降の宮居も天皇ごとに宮が移動している状況が見えるが、これはヤマト王権成立以前の首長一代性の名残と考えることができる[2]

賢は「と済、応神と継体に血縁関係はなく、当時の大王世襲性でなく有力族の長の中から『共立』される存在であった。これに関して大王世襲化が始まった天皇から天皇近親婚が始まっている点は注に値する」と述べる。

明朝以後の天皇近親婚

     推古天皇(異
天皇    |
  |────敏達天皇
皇女(姪) |───人大          王(異
            |────────舒明天皇    |
               糠手皇女(異   |────天智天皇
                      斉明天皇(姪) |──弘文天皇
                            賀宅子                 


舒明天皇
  |────天皇
斉明天皇(姪)   |────皇子
        持統天皇(姪) |──────文武天皇
              元明天皇叔母   |──聖武天皇
                       藤原宮子          

  • 括弧内は配偶者との続柄
  • 近親婚によって近の子を次の天皇にするという理念はあくまで理想であり、例外も見られる。王権の発達段階からして当時の大王に何よりめられたのは執政者としての力量と人格であった
  • 例外である人大である広は、皇氏族(応神天皇子孫)の息長(おきなが)氏出身である
  • もう一人の例外の弘文天皇賀宅子地方出身であり当時としては極端に身分が低い

以上の図に見えるように、奈良時代藤原氏が台頭するまでは、正統(血筋を後世に伝える嫡流)の天皇全員が2等以内の近親婚を行なっている。倭の五王が活動した5世紀を通じて王を支える組織が形成されていき、王統が一般の族長位の継承とは区別される原理を持つことが望ましいとされたとき、皇位世襲原理と共に「嫡流の天皇皇女に持つ」という理念から近親婚が始まった考えられる。

なお継体以前の5世紀の天皇にも近親婚を行なっているが、それは事実とはみなせない。古代天皇はそれぞれ異なる系集団から『共立』されていたが、後世にそれを一つの血統に結びつけるための作意を行なっていた。その際に女性を介して二つの血統を中つというナカツヒメ婚が行われた。応神天皇(なかつひめ)、允恭と坂大中(おしさかおおなかひめ)、仁賢と春日太郎皇女の例がそれに相当する。またこの3例は近親婚といってもそれぞれ6等、4等、6等離れているので、たとえ事実であったとしても明以後の近親婚とは区別される。いま一つの近親婚タイプは、仁徳と八田皇女、履中と(はたび)皇女、安康と(なかしひめ)、雄略と(はくはたひめ)皇女、顕宗と小野王などの5例である。これらの例は履中と皇女の間に中が生まれた以外はいずれも子供がなく、王統譜の中では付加的な意味しか持たない。また日本書紀古事記の間で所伝が異なっている例が多いことからも、このタイプ近親婚記紀編纂の最終段階で付加された可性が高く、『日本書紀』にそれらの妻をいずれも後世的な地位である「皇后」としていることからすると、皇族皇后の知識によって造作された近親婚と考えられる[3]

川口勝康は、記紀に見える系で繋がった王統譜は継体天皇が自らの継承を正当化するために、自らの系譜と二つに分かれていたヤマト大王系譜とを統合し、大王系譜の一系化を企てた結果であるとした。「讃、、済、、武の一字名は大王の実名の意訳である」という一貫した定法により、讃はホムタワケかホムツワケ、はミツハワケ(反正)、武はワカタケル(雄略)であり、済と記紀には存在しない人物(大王X1大王X2)と推定される。ホムタワケとホムツワケは史書ではそれぞれ応神天皇と、垂仁天皇の皇子として現れるが、ここではただ「倭王」という人物として見る。

A系譜

                       ヲホド(継体)
                          |────天皇
┬ホムツワケ(讃)オシハワケ┬オホケ(仁賢)┬タシラカ
ミツハワケ(、反正)   ヲケ     シラカ(清寧)


B系譜

X1(済)┬X2(
     ワカタケル(武、雄略)ワカサザキ(武

この再現系譜ではシラカ(清寧)とタシラカ(継体の妃)、ワカタケル(雄略)とワカサザキ(武)の名前の類似性から、雄略(清寧(子)と仁賢((子)という記紀系譜とは入れ替わった子関係になっている。継体は入婿でホムツワケの擬制三世子孫になるが、後に二世代追加され「ホムタワケ(応神)の五世子孫」という記紀の系譜が完成した。応神天皇皇后の仲命のように、系譜と系譜を女系で繋ぐ女性はナカツヒメと呼ばれたと考えられる。継体系譜の造作された二世代の中に践坂大中彌王(オシサカノオオナカツヒメ)田宮中彌王(タミヤノナカツヒメ)という二人のナカツヒメがおり、践坂大中彌王を允恭天皇に娶らせることで継体の系譜と他の王統の結びつきを強調する効果を担った[4]


  1. 『倭古市
  2. 日本の時代史2倭東アジア鈴木靖民
  3. 日本古代の王権と王統』篠
  4. 『巨大古墳と倭の五王』原島礼二

2節 「倭」姓

この断絶説に対して広く支持を集める有力な反論に「倭」姓に着するものがある[1][2]。当時の大和王権が中国貢することで正統性を確保していたことは疑いがないが、大王たちは中国貢する際に、中国の姓秩序に入り中国風の一字の姓を名乗った(当時、日本で姓を持っていたのは渡来人系氏族だけであった)。姓を中国風に一字にするのは他のも同様で、高句麗王は「高」姓、済王は「」姓を用いている。倭の五王のうち讃、済、武の三人は「倭」姓を名乗っており、よっても倭姓を名乗っている可性は高く、五人全員が姓を等しくしている。五王が「倭」姓を用いている以上、二つの王統は同じ系一族であると考えられる、続柄が書かれていないのは側の表記ミスとする[3]

水谷千秋は倭国王武の「昔より(そでい)みずから甲冑をつらぬき」という上奏文に焦点を当てる。もしと済の間に血縁関係がなかったとすると、武の祖(先祖)の中にや讃は含まれないはずである。よって武にとってや讃もやはり系の祖であったと考えられる。もし当時の王権が血統より政治力や軍事力で決まるのであれば、当時権勢を振るった葛城氏や吉備氏から大王が排出されていなければおかしい。と済の間の続柄が記載されていないのはこの間の皇位継承がスムーズにいかなかったことを示唆している可性がある[4]

だが大王にとって前王との続柄は自らの正統性を明する重要な情報であり、記載忘れはありえないという見方からいくつかの異論も存在する。

河内人は五王が「倭」姓を用いていることから、二つの王統は共に応神天皇を始祖とする同一一族ではあるが断絶性を重視すべきとしている。倭済は外交を円滑にするためにあえて断絶を中国に伝えず、前代と同系統であると名乗ったと考えられる。その類似例として歴史は下るが15世紀に中山の武寧王を滅ぼした思紹は、明に武寧王の世子を名乗り、存在しない血統的繋がりをしている。中国視点ではは安定していた方が望ましく、7世紀の高句麗文が国王を殺した時、唐は「秩序を乱した」と兵計画を練っていた。讃グループと済グループはそれぞれ大阪平野古市古墳群と百舌鳥古墳群を代表する王族グループだったと考えられる[5]日本貢時に中国に体面の悪い情報を隠す例があり、遣使では推古天皇は男王を名乗り使が来日した時も男の代理を出して君が女であることを隠蔽し続けた。なお、この推古の性的配慮説に関して反論もあり、吉村は「皇帝が外使節に直接謁見する中華式儀礼に対し、倭倭人伝に「(王は)見るある者少なく」とあるように王が直に外交使節に接見することはなかった。そこで使は女推古の代わりに折衝した男子聖徳太子?)を倭国王と見做しただけで、日本が自女性なのを隠したと言うわけではない。中国の史書には卑弥呼に関する記述があるが、そこに女だからという政治的配慮は見られない」と述べている[6]

義江明子は「倭」姓は、中国の君臣秩序内に包摂されて官爵を得るに当たって中国皇帝が命名した「冊封用」の名であり、系血統集団を意味する姓ではないとする。後に遣使の小野妹子吉士雄成(きしおなり)中国の官職を得る際に「子臣を号して因高とう」と、それぞれ因高、乎那利(ナリ)と乎が姓)という名前中華皇帝から賜っている一方で、推古天皇はもはや除正(皇帝が近隣諸の君称号認定すること)を必要とせず冊封をめなかったため、名をアメタリシヒコ(世界で満ち足りた立男子)とし、中国風の姓である「倭」は用いていない(中国朝廷は、天皇に姓と名があると想定していたので史書にはアメタリシヒコを分解して「姓は(アメ)。字は多利思(タリシヒコ)」と記されている)。多利思孤は男王を自称しており推古でない可性もあるが、倭王が倭姓を名乗っていない事実は動かない。中国南北朝の動乱によって大陸との交通が途絶えた時期、大王中国皇帝真似て氏姓制度を始め、臣下に氏姓を賜る側に回っている[7][8]


  1. 天皇歴史神話から歴史へ』大津
  2. 古代天皇の誕生』吉村
  3. 『倭の五王』河内人、P175
  4. 大王 継体天皇水谷千秋
  5. 前掲、河内
  6. 聖徳太子吉村
  7. 古代王権論』義江明子
  8. 聖徳太子吉村

3節 『梁書』の史料批判

『梁書』は唐初期に姚思廉(ようしれん)によって編纂された正史の一つで、その「倭人伝」は『書』「倭人伝」の文章を多く引用しながらも『書』にない独自の記述も一部持っている。追加されたと斉の続柄もその一つであるが、王統断絶説は『梁書』でと斉が子関係で繋がっていることを無視している。古くは明治時代政友が『梁書』を「誤り」と断じて以来、『梁書』は2等史料として信用に足らないというのが定説となっている。

間生大は「『梁書』は『倭人伝』と『書』の内容を一緒にして簡略にしたもの」と評価し、「『書』の記事を引き写しながらと斉の関係だけは何も書いていないから、唐代の長子相続常識に従って一言入れたという程度のものではないか」と述べている。原島礼二もまた「 『梁書』独自の記述には信憑性が少ない」としている。梁の時代に描かれた『職貢図』では済の使者は威厳ある礼な一方、倭の使者は土足で、布を身にっただけの粗野な格好をしている。これは卑弥呼の時代の装であり、梁人の倭人への関心の薄さがえる。倭武の貢を最後に大陸との交流が途絶えて以来、中国人が倭のことを知るには太古の文献や人伝いに頼る他なく、倭人認識は貧弱であった。

これに対し坂元義種は『梁書』の系譜記事に積極的な評価を与えている。後述するように『書』では、倭国王だけでなく済王の映と毗の間の続柄も書かれていない。と斉が『梁書』で続柄が追加される一方で、映と毗は『梁書』でも続柄が書かれていない。また『梁書』では同じく済の東城王と武寧王の血縁関係も書かれていない。よって『梁書』には『書』の不明とする系譜を同様に不明とする厳密さがあり、と斉の子関係は十分に信頼できると考えられる(参照『16章 神武天皇の考』「5節 朝鮮系譜との較」「済王の系図」)。

の歴代王

(東)

  • それぞれの歴史書『書』は646年、『書』は513年、『梁書』は636年に完成した。

一方で『梁書』が日本に関する独自の情報を持っていた跡も存在する。梁より100年前に存在した東歴史を描いた『書』によれば、倭王讃は東にも使節を送って貢していた。しかし『梁書』の賛に関する記事は「の安の時、倭王賛有り」と記述があるのみで、賛が東に修貢したかどうかまでは語っていない。貢・冊封は中華皇帝が周辺諸と君臣関係を結ぶ重要な外交であり、書き漏らすことは考え難い。実際に『梁書』は他のの東への貢はしっかりと記載している。「高句驪伝」には高句麗王の貢が、「済伝」には済王の映が貢していたことがはっきり書いてある。しかも双方とも和賛と同じく安の時代のことである。同じ時代の貢でも高句麗済のものは伝えられ、倭賛のものは記されていないのは、そうした事実が存在しなかった可性を示唆する。

書』が編纂されたのは『梁書』の完成後なので姚思廉が『書』を参照できないのは当然であるが、『梁書』より先に上されていた『書』には倭賛が東貢していたことは書かれていないので、それを参照して『梁書』に「の安の時、倭王賛有り」とは書けない。この『梁書』の倭賛記事に関して井上貞は「『梁書』の編者の造作」とし、鈴木俊は「『書』以外の新資料を拠ったもの」と評価している。後者の説に拠った場合、姚思廉が『梁書』を編纂する際に『書』編者が参照していない日本に関する資料を閲覧しており、そこにと斉の続柄に関するものがあった可性が出てくる。


4節 倭隋

史書には倭の五王以外にもう一人、倭という倭姓を名乗っている人物が現れる。この倭が倭の五王と同一系一族であるならば、「倭」は系一族を表す「姓」であると明できる。逆に倭が五王と血縁関係のない地方族であったならば、「倭」姓を共有しているからといって系的繋がりがあるとは言えなくなる。

438年、倭王麾下(きか)族たちにも将軍号を授けるように申請していた。この時、は倭を安東将軍に任じると同時に、倭ら13人に西、征虜、冠軍、などの将軍号を認めている。これらは全て三品であり、序列上は倭王と同格であった。中でも倭が与えられた西将軍は特別に高い格があり、の貰った安東将軍とはほとんど差がない。

倭済もまた23人の族の将軍号と太守号の除正を得ており、合計36人の日本人中国から除正を受けたことになる。倭王からすれば内で突出した権力を確立するために、それ以下の者とは隔絶した地位を中国から貰いたかったはずであり、実際に倭は第二品官の安東大将軍を要望しているが通らなかった。大勢の族に除正を認めざるをえず、また王でない倭西将軍推薦しなければならかったところに当時のヤマト王権の未成熟さがわれる。それは除正を受けた人数は10人程度で、王の階位とそれ以外の王族・臣僚の将軍号の較差が大きかった済王権とべるとより顕著になる。

における将軍号の序列

一品 大将
二品 驃騎、騎、東大将軍など
三品 征東、征南、鎮東、安東西、征虜、冠軍、など
四品 左衛、左軍、建威など
  • 同品の中でも更に細かく序列がある。
  • 一品の「大将軍」と、二品の「安東大将軍」のような諸大将軍は別物である。

の正体については「倭」姓を踏まえて大王と同一グループの人物であるという説と、血統的繋がりのない地方族であったという説で分かれている。仮に同一グループだとしても、倭王の系統とは敵対的だった可性があり、当時の畿内の古墳群が百舌鳥古市で二ヶ所に分裂していることもそれを示唆している。

が別系統であるとする説は、倭将軍号に着する。倭王が賜った安将軍の「東」は中国から見て「東夷を治めている」という意味で、高句麗王の征済王の鎮も同じ理屈である。しかし倭西将軍と「西」を治める将軍になっている。つまり倭日本の西を本拠地とする人物であったと想定できる。倭の五王が畿内を治めていたのと同時期の吉備では、大王墳に匹敵する大古墳が築かれていた。新庄下造山古墳(墳丘長350m。これは日本4位の大きさ)や三須作山古墳270m)などは規模が卓越しているだけでなく、高さ2mに達する埴輪をはじめ埴輪備し、大の長持形石を持つなど内実も充実している。

吉備氏の系図は『古事記』と『日本書紀』「孝霊二年条」では孝霊天皇を始祖にしているが、『日本書紀』「応神二十二年条」の系図では大王とは縁になっており、これが最も古く正確なものだと考えられる[1]。よって倭は吉備(現在岡山県。畿内から見て西)を本拠地とする大首長であり、大王と同一グループではない。ひいては倭姓を名乗る者が必ずしも同一系一族でないと言える。吉備は弥生時代から続く一大勢力であったが、雄略天皇に攻撃され勢力を削がれ、以後は大王に従属的となった。

佐伯有清や間生大らも、倭地方の首長であったとする。間は「『書』の『倭』という表現は『倭讃』や『倭済』と同格のものである。これに対して、讃に遣わされた『司馬曹達』や、古く女王卑弥呼派遣された『大夫難』、『次使都市利』などは人直下の臣下であることを示している。倭讃や倭済が畿内地方の首長であるように、倭らも、当時多元的国家であった日本地方出雲、吉備、北九州、尾など)を治めていた首長であった。書の表現は、一地方の首長として倭と倭王が対等な立場にある人間であることを示している」と論じる。

武田幸男も倭の「西将軍」に注したが、その正体は畿内から北九州派遣された王族だとした。中国将軍号における方位性は四夷観(北狄、西南蛮、東夷)に基づいているためかなり厳密で、中国の都から見て東に位置する倭王の将軍号は「安東将軍」「安東大将軍」「鎮東大将軍」「征東将軍」など、倭を除いて全て「東」である。これは他のにも当てはまり、中国から見て西に位置する武都、吐渾、河西、宕将軍号はいずれも「西」であり、南に位置する将軍号は「南」である。そして、その方向性の例外の将軍号を得ているのはいずれも王でない人物や王の僚属である。これはそのの王の将軍号は中国首都を起点にした将軍号で、王の下に着く僚属が持つ将軍号の方位は、各王の所在地(日本なら畿内)を起点として表記されたものだと推察される。例えば南北朝時代った武都中国から見て西なので武都王は「西」の将軍位をもらっていた。一方で武都王、盛の甥の撫は「将軍」であった。撫は中を守っていたが、ここは武都王の本拠地の武都・右・池から地理的に見てである。同様の現象は吐渾への除正でも見られる。これらのことから西将軍たる倭所在は吉備・出雲北九州などの方面が想定される。

が倭王と同族であったかを考える較史料として済の貢は458年では8/11が王族、490年は3/7、495年は0/8であった。確実に「倭地方族であった」と言えるほどは王族の率は低くない。中国の史書は①「初出の人物には姓をつけ、二度はつけない」、②「既に姓をつけた人物との血縁関係がはっきりしている人物には姓をつけない」という2つの法則日本のみならず他でも貫しており、「倭」を男系一族を表す姓として扱っている。よって「倭は種族名や名である」というは受け入れられない。上記に挙げた武都王や吐渾王の例で、異なる方向を持った将軍の大半は王族であったことも併せて考えると、倭北九州派遣された王族だったと思われる。それ自体史実でなくても記紀にはヤマトタケル伝説崇神天皇の四将軍伝説のように皇族を地方派遣する慣習があり、倭もその一人であった[2]


  1. 『直木孝次郎古代を語る3神話古事記日本書紀P207
  2. 前方後円墳古代関係』「西将軍、倭の解釈」武田幸男、P263

5節 百済王の事例

18代腆支王〜21代蓋鹵王

の例を見ると、同じく中国貢していた済王のの間には続柄が書かれていない。はそれぞれ腆支王毗有王定され、『三国史記』の系譜では以下のようになっている。

三国史記』の済の王位継承

腆支王久爾辛王毗有王

腆支王は『日本書紀』では直支(とき)の名で登場する。腆支王は幼い頃から日本で育ち、日本人の妻を得て久爾辛王けたという日本に深い縁のある人物である[1]

腆支王
  |久爾辛王
八須夫人倭人

一応、系譜上は四人とも四世代の子関係で繋がっているのだが、これらの継承には以下のような多くの矛盾が存在する。

  1. 三国史記』本文には「毗有王久爾辛王の長子」とあるにもかかわらず、注釈では「毗有王腆支王の庶子」とある。
  2. 日本書紀』では直支(とき)の死後の久爾辛王の継承が記されるが、何故か死んだはずの直支王が15年後に日本に遣わしたことになっている。
  3. 日本書紀』では久爾辛王の次にの即位が記され、毗有王が存在しなかったような書き振りになっている。
  4. 日本書紀』には「即位した久爾辛王は幼年だったため木満致(もくまんち)政を執った」とあるものの、木満致はに仕えた木磊満致(もくらいまんち)の事だと思われ50年も時代が異なっている。

日本書紀』の済の王位継承

直支王久爾辛王

さらに『三国史記』に並ぶ済の史書『三国遺事』では父親が記載されていない[2]。以上のことから当時、済王権が分裂し王の交代が起きていたと推察される。済王に代わった中国との外交権を握した史実を示すのが『書』であり、旧王久爾辛王はなおも倭との外交を維持していたものと思われる。よって『日本書紀』の毗有王と同一人物と見る。

中国の史書は済24代東城王と25代武寧王の間の続柄も書かれていないが、こちらに関しても武寧王の出自が日中の史書でそれぞれ矛盾している(参照『16章 神武天皇の考』「5節 朝鮮系譜との較」「済王の系図」)。次項で述べるように中国史書は実態を無視して貢にきた王を子関係で結ぶ傾向があるが、にもかかわらず二人の王脈の断絶を記しているのはそれなりの歴史的根拠があったと見なくてはならない[2]。結論として中国史書で続柄が書かれていない腆支王毗有王東城王と武寧王の周辺にはそれぞれ血統の断絶があったと考えられ、同じく続柄が書かれていない倭と倭済の間でもやはり同様のことが起きていたことが想定される。


  1. 『5世紀の韓日関係史』
  2. 古代の日関係と『日本書紀』』笠井倭人、P96
  3. 前掲、笠井P106

中国史書で父子で繋げられる百済王

中国爵位を与えた他の王を、実態とは関係に子関係で結ぶことがある。済25代武寧王から29代法王の系譜は、朝鮮の史書『三国史記』と中国の史書『北史』『書』でそれぞれ異なっている。

三国史記』の済系譜

武寧25─26┬威徳27
       └28─29─30


『北史』の済系譜

武寧威徳

死、子余通使命済。(中略)余死、子余立(武寧が死に子の威徳が北斉に使者を送った。威徳が死んで子の武が立った)」


書』の済系譜

武寧威徳

死、子余宣立、死子余立(威徳が死に子の法が立った。法が死に子の武が立った)」

系の『書』では26代王と28代恵王が、『北史』ではさらに29代法王が系譜から除かれている。は治世32年の長きにおよび、済きってのと高評価を受けている人物であるが名前が出てこないのは不自然である。以上の済王のうち武寧威徳は北系王から授爵されているため、これは中国貢してきた済王を杜撰子関係で結んだと考えられる。中国が実際の系譜と関係なく子継承で結ぶ傾向は武寧王以前の済王や、高句麗系譜にも見られる[1]

三国史記』の高句麗系譜

再思┬太祖大王6
  ├次大王7
  └新大王8……


後漢書』の高句麗系譜

太祖大王6─次大王7─新大王8

日本の場合も『新唐書』では皇統譜と矛盾した多くの子継承が記載されている。たとえば孝徳のであるはずの斉明は唐書では「孝徳の子」となり、書紀で、その、その妃の関係である智、武、持統は唐書では祖父、子の直系継承にされている[2]


  1. 『三史記高句麗本紀の原典批判』三品P44
  2. 『倭伝』講談社学術文庫版、P265

女性・女系天皇(後編)

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女性・女系天皇(前編)

233 ななしのよっしん
2026/02/16(月) 17:41:21 ID: vz2zD0aR2U
>>231

そもそも皇統ていう自体が血統のブランドだよ

天皇、皇族は、絶滅危惧種や血統書付きのペットと同じだよ
仮に「そんな事ないもん!」て反論するとしてだったら天皇、皇族を皇統以外でありがたがる根拠て何?てなるよ
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234 ななしのよっしん
2026/04/13(月) 06:11:51 ID: UOJnPi0YBh
やはりヒトクローンの実現は急務だな。
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235  
2026/04/27(月) 13:04:23 ID: yJSebiubjN
女系論者全員工作とは言わないけど、賢いやり方だよな。今の日本左翼みたいにいつまでも天皇制廃止しろ!とか日本共産党ですら言わなくなった事に拘ってる連中と違って女系論で分断図ってるんだから
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236 ななしのよっしん
2026/05/15(金) 21:37:20 ID: cWKmO+6HdM
将来的に皇室典範改正が不可避となる事態が訪れるとしても
殿下がおられる以上その代までは継承順が変わる変更はしちゃいけないと思う
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237 ななしのよっしん
2026/05/15(金) 21:43:21 ID: UOJnPi0YBh
後50年ほど現状維持を続けて、皇位継承が不可能になったら「不在の天皇」が即位した事にして、次の天皇自然発生するまで何年でもそのままにしとけば良いのではないかな。
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238 ななしのよっしん
2026/05/30(土) 19:34:44 ID: 7dTB0Up1BP
女系天皇を認めなかったとして現れるのは皇位継承者がいなくなるというもっと怖い問題という
なんなら女系を認めたとしても数世代あとに継承者0が現実的にありうるというね...
今のままだと安定した継承はまず理だろうしどうにか落とし所が作れるといいのだが
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239 ななしのよっしん
2026/06/04(木) 12:34:31 ID: OzCBNrgdIh
まあ養子案で何の問題もなく通るだろう。
そもそも今の時代の女性・女系天皇なんてのは皇室を破壊したいらのお題として利用されてきたに過ぎない。
日本国民の天皇陛下への尊崇は未だ高く、皇室を破壊したくとも陛下を直接はけないから、次世代をく。そういうクズ共だ。
かつては愛子様達東宮底的にバッシングして愛子様や子様を体調を崩されるまで追い詰めた。愛子様にがいないのも決して関係ではないだろうし、それこそが論み通りという事だ。
その下劣な意図の通り、愛子様にが生まれる可性が下がれば次は次世代を担う事が確実となった篠宮に標的を移して今に至るまで同じ事をしている。
それまで散々いてきた愛子様を代わりのように持ち上げ、そのお題として出てきたのが女性・女系天皇論だ。
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240 ななしのよっしん
2026/06/06(土) 12:31:16 ID: OzCBNrgdIh
べるのも滸がましいが、今女系・女性天皇を推す勢力の論みはかつて石破茂に対して行った事と絵図は同じ拡大版だ。
選択肢の中で後で最も潰しやすいものに、世論調査への工作等で演出した「民の支持」という虚像で下駄を履かせて選ばせ、
後になって梯子を外し、を返してめていて潰す。
だが、今の自民党石破政権時にそのやり口にのせられて大敗し、高市政権で報道機関からの猛な逆の中で大勝した経験を持っている。
安倍政権との決定的な違いはそこだ。当時はまだ報道に一定の信頼を持ち、世論調査結果を民意と認識して配慮していた。だから養子案は通せなかった。
だが今は、報道機関の出す世論調査結果は下劣な工作の手段であって、実際の民意など現してはいないという認識を、口には出さねど少なくとも自民党では共有している。
だから高市政権下では女系・女性天皇論を一蹴して養子案も通る。報道機関がどれだけ騒ごうがそれは日本国民のではないと、
そんなものに日和る事がむしろ支持を失わせ、政権の危機を招くともう理解しているから。
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241 ななしのよっしん
2026/06/09(火) 23:03:19 ID: Ayp4PN7esT
>>237
まんま12イマームやないかーい
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242 ななしのよっしん
2026/06/14(日) 11:53:50 ID: Nn++QN03i+
民の大半は女性天皇に好意的なのに
の長である連中が根拠だった直系男子の意味がわからず
はいはい男ならでも良いんでしょwはなんだ
そりゃ直系男子から外れてる恒泰も喜ぶわw
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