女系天皇とは、母親が皇統に連なる血筋で、父親が非皇統の天皇のことである。性別は問わない。
上記のように、女性天皇と女系天皇は全く別の概念である。
本記事では女性天皇と女系天皇、及び21世紀の皇位継承問題を解説する。各節末の(書名、資料名)は参考文献を示す。敬称略。
目次
序章 女性天皇
1章 女系天皇
- 1節 女系天皇の定義
- 2節 議論の要点
- 3節 男系継承固守派の意見
- 4節 女系継承容認派の意見
- 5節 女系天皇か旧宮家復帰か
- 旧宮家についての補足
- 6節 女性・女系天皇に関する世論調査
- 7節 旧宮家子孫に関する世論調査
- 8節 世論調査に用いられる統計的手法
2章 新旧皇室典範作成の経緯
3章 世数と皇位継承
4章 十一宮家皇籍離脱の経緯
5章 女帝中継ぎ論(持統〜称徳)
- 序説 正統と正統
- 1節 持統、元明、元正天皇の中継ぎ
- 2節 持統、元明、元正天皇の正統性
- 3節 孝謙(称徳)天皇の中継ぎと道鏡事件
- 4節 天智血統への回帰と「新王朝」意識
- 5節 道鏡皇胤説
- 天智天皇の孫説
- ニギハヤヒ
6章 女帝中継ぎ論(推古と皇極・斉明)
- 1節 推古天皇の即位
- 2節 女帝推古の執政と「摂政」厩戸皇子の執政
- 3節 皇極(斉明)天皇と中大兄皇子
- 4節 大兄と大妃制度
- 大后制度の成立とその役割
- 大后・大兄と皇位継承
- 5節 仲天皇と中皇命
- 間人皇女は女性天皇だったか
- 6節 ヒメ-ヒコ聖俗二重体制
7章 以後の女帝と女帝中継ぎ論
8章 崇神〜仁徳天皇の継承
9章 倭の五王と王統分裂説
10章 継体天皇の即位
- 1節 『上宮記』の史料批判
- 2節 継体の即位と関連豪族
- 3節 継体即位の「革命」性
- 4節 考古学から見た継体天皇の継承
- 継体と周辺人物の墳墓
- 盟主的首長系譜の変動
- 5節 大和入りするまでの継体天皇
- 6節 継体即位の前後
- 7節 他国系譜との比較
11章 古代日本の社会構造
- 1節 縄文、弥生時代の家族構造
- 2節 古墳時代の社会構造
- 一般層の家族構造
- 首長層の構造
- 族外婚
- 3節 古代の女性首長
- 4節 豪族系譜
- 5節 日本語の母系的、双系的特徴
- 6節 律令体制下の継承法
- 7節 戸籍から見た民衆の家族構造
- 8節 イエ制度と婿養子
- 9節 古代日本の祖先崇拝
12章 記紀の歴史叙述
13章 女性皇族の婚姻
14章 皇統観の歴史
- 1節 慈円『愚管抄』
- 2節 慈遍『旧事本紀玄義』
- 3節 花園天皇『誡太子書』
- 4節 北畠親房『神皇正統記』
- 5節 一条兼良『小夜のねざめ』
- 6節 新井白石の「公武交代」史観
- 7節 増穂残口の「神国」論
- 8節 荻生徂徠『擬家大連檄』
- 9節 山片蟠桃『夢の代』
- 10節 佐藤直方『中国論』
- 11節 玉木正英『神代藻草塩』
- 12節 山崎闇斎の崎門学
- 13節 谷川士清『日本書紀通証』
- 14節 頼山陽『日本外史』
- 15節 竹尾正胤『大帝国論』
- 16節 岡倉天心『日本の目覚め』
- 17節 陸羯南『近時政論考』
- 18節 筧克彦の古神道
- 19節 柳田國男『先祖の話』
- 20節 里見岸雄の国体学
- 21節 生長の家
- 22節 葦津珍彦の皇位継承論
- 23節 三島由紀夫は女系天皇を容認したか
15章 天照大神の考証
16章 神武天皇の考証
17章 近代天皇制と伝統
18章 日本共産党と女系天皇
19章 海外諸国との比較
各章の内容
1章 女系天皇
1章では女系天皇の反対論と賛成論。女系天皇に関する世論調査の結果などを紹介する。男系天皇派(女系反対派)の中心にあるのは「男系男子継承が皇統の鉄則である」「女系天皇には先例がないこと」である。男系男子の伝統は先人が大切に守ってきた皇統の大前提である。女系継承は皇統(神武系)から夫の系列に移ることを意味し、それは万世一系の断絶・易姓革命であり、ひいては日本(国体)の崩壊に繋がるものである。これに対して女系賛成派はジェンダー平等の観念に加え、男系継承は中国的な儒教倫理に過ぎず、日本は「婿養子」などの形で古来から双系継承を続けていたこと、また継体天皇以前の大王家には男系世襲制は存在せず実際には女系継承が行われてたことなどを挙げている。
現在、女系天皇の対案として1947年に皇籍離脱した旧宮家子孫の復帰が提案されている。過去には臣籍から天皇になった宇多-醍醐の親子の先例も存在するし、古墳時代に皇統が断絶の危機にあった時に在野にいた継体天皇を即位させた前例もある。しかし「宇多-醍醐が臣籍にいたのは2年なのに対し、現在旧宮家子孫は80年近く民間人として暮らしており比較にならない。また継体天皇が応神天皇の五世子孫なのに対し、旧宮家子孫は崇光天皇の二十数世とこちらも大きな差がある。さらに皇族ではない旧宮家の子孫が門戸を理由に特別扱いされることは憲法14条の法の下の平等に反するのではないか」という指摘もある。近年の世論調査では女系天皇の賛成率は75~85%、旧宮家子孫復帰案の賛同率は35~45%前後となっている。
2章 新旧皇室典範作成の経緯
2章では、男系男子の皇位継承法を成文化した明治の皇室典範(旧典範)の成立過程、典範の起草者である井上毅の思想や当時の社会状況、また戦後の皇室典範(新典範)の作成経緯などを記す。
皇位継承法の初期案では女性-女系天皇も容認されていたが、会議の中で女系天皇は「我が国の人情に注意をいささかも払っていない」「女系継承では血統が他系に移り万世一系が断絶する」「女統(女系)は卑しい」と批判を受けてまず女系が削除された。女性天皇は過去に数多く先例が存在していたため賛成意見が強く、有力者の伊藤博文もそれに同意していたが、井上の働きかけによって女帝も禁じられることとなった。完成した典範では男系男子継承が鉄則化され「過去の女帝はいずれも仮摂(中継ぎ)であった」という論理で歴史上の女性天皇はいずれも正統な存在ではないことになった。当時、自由民権運動に勤しんでいた民権派も私擬憲法を作成し、その多くは女性・女系天皇を容認していたが、伊藤はそれらを「書生の机上の理屈」として無視した。
旧典範作成の思想的背景にあるのは、井上をはじめとする政府首脳陣の近代儒教主義である。「教育勅語」に代表されるように儒教は明治日本の道徳的根幹であった。井上は「男女には生物学的な違いが存在し、男には男の役割があり女には女の役割がある」という、儒教と自然科学を組み合わせた理念を持っており、男女平等的な近代キリスト教を「過激思想」として排斥した。戦後の新皇室典範ではGHQや女性議員から女性天皇容認を求められたが「女系継承は万世一系の断絶である」「過去の女性天皇は全て中継ぎであり、日本に女帝制度は存在しない」と旧典範作成時と同様の論理が繰り返され、男系男子の鉄則は新典範にも踏襲された。
3章 世数と皇位継承
21世紀の皇位継承問題に現れる旧宮家とは、南北朝時代の崇光天皇を祖とし誕生した伏見宮家の末裔である。しかし現在の旧宮家子孫は男系20数世子孫となっており、これほど遠縁から天皇に即位した前例はない。ただし現在の皇室典範は永世皇族制度を採用しており、男性皇族は世数にかかわらず皇位継承権を持っている。3章では皇位継承と世数の関連。伏見宮家をはじめとした中・近世の世襲親王家がどのように誕生したか。そして旧皇室典範で永世皇族制度が定められた経緯を見ていく。
律令では皇親(皇族)の範囲は4世までと定められ、5世以上は皇位継承権がなかった。しかしこの法は平安時代初期には既に空文化しており、以後は皇位継承権を持つのは親王宣下を受けた者だけとなった。1世子孫(つまり天皇の子供)でも親王宣下を受けなければ皇位継承権がなく、世数が離れていても天皇の猶子(養子)となり擬制1世となることで皇位継承権を得ることもあった。
中世社会では門跡(有名寺社)に皇族をいれるために皇族を常に一定数確保する必要があり、また天皇家は複数に分かれた皇統を統一させずに保存する意図を持っていたため、恣意的な親王宣下や皇籍復帰が多発するようになっていく。そのような政治背景の中で世数を超越して代々親王宣下を受ける世襲親王家が生まれていく。その中の一つが旧宮家の先祖となる伏見宮家である。伏見宮もまた崇光院流と後光厳院流の皇位継承争いの中から生まれた傍系宮家であり、唯一近代まで生き残った中世世襲親王家であった。江戸時代には伏見宮家に加えて閑院宮家、桂宮、有栖川宮家が近世四宮家として皇統を支え、実際に嫡流が断絶した際には閑院宮家から光格天皇が即位している。
明治の皇室典範作成会議では永世皇族制度を巡り激しい議論が発生した。公家出身グループは律令の5世規定に基づいて四親王家の廃止を主張し、井上毅らは男系子孫は世数に関係なく皇族であり続ける永世皇族制度を支持した。公家グループは伏見宮系皇族が今の天皇と血統がかけ離れていることや、皇族費の増加の不安、そして永世皇族制度が「祖宗以来ノ慣例」に反することを主張した。これに対し井上は「継嗣を広め皇基を固くする」するために永世皇族制度を支持した。当時、明治天皇には男子が一人しかおらず控えとなる皇族が必須だったこともあり、賛成多数(賛成14、反対10)で皇室典範に永世皇族制度が盛り込まれた。
4章 十一宮家皇籍離脱の経緯
4章では1947年に11宮家が皇籍離脱するまでの過程を、日本政府やGHQとの関わり合いの中から詳述する。また古代の宇多-醍醐天皇の即位事情についても触れる。
旧皇室典範の永世皇族制度によって宮家の男系男子皇族は百世子孫に至るまで皇位継承権を持つようになった。しかし宮内省や元老たちは皇族の数が多過ぎれば皇室財政を圧迫し、また皇室の名誉を汚す皇族が出てくる可能性を危惧していた。その後、大正天皇が4人の男児を儲けたことで傍系宮家がおらずとも皇位継承に差し支えがなくなったため、宮内省は伏見宮系皇族の臣籍降下案を提出し、特に大正9年に皇族を世数で限って強制的に華族に降ろすことを可能にする「皇族の降下に関する施行準則」を提議した。だが皇族はこの法案に真っ向から反対し、宮内省・元老と対立を深めた。皇族会議は紛糾し、準則はなかば無理やり可決されることとなる。
だが準則が効力を発揮する前に日本は敗戦を迎え、GHQによる皇室改革が始まる。GHQの目的は日本を国民主権の国にすることであり、天皇・皇族から政治力と経済力を奪っていった。特にGHQによる皇室財産の凍結と財産税の課税により皇族の暮らしは困窮した。GHQは直接皇籍離脱を命令することはなかったので、皇族会議を経て伏見宮系11宮家の皇籍離脱が決定される。昭和天皇はこれに反対はしなかったものの宮家皇族たちに深い同情の念を示し、菊栄親睦会という皇室と旧皇族の交流会を主催した。親睦会による両者の親交は令和の現在に至るまで続いている。
52嵯峨─54仁明┬55文徳─56清和┬57陽成
| ├貞保親王
| └貞辰親王
└58光孝─59宇多─60醍醐……
- 数字は代数
現在の皇位継承問題で、一度皇籍離脱してから天皇になった先例として平安時代の宇多-醍醐天皇が注目されている。当時、嫡流にいたのは陽成天皇であったが、陽成は時の権力者、藤原基経と不仲であった。陽成は基経によって強制的に退位させられ、光孝天皇が即位する。光孝は陽成の子供(貞保や貞辰親王)が育つまでの中継ぎであったため、自分の子孫に皇位継承しない証として子女の大半を臣籍降下させた。しかし基経の意向で嫡流の移動が行われ、光孝が死ぬ直前に源定省を皇籍復帰させ宇多として即位させた。この例に見るように臣籍降下や皇籍復帰は明確な基準がなくその時々の権力者の恣意によって行われることが多い。過去には57年間臣籍にいてから皇籍復帰した兼明親王や、臣民の父から生まれ20数年を過ごしてから皇族になった忠房親王の例も存在する。
5章 女帝中継ぎ論(持統〜称徳)
現在の皇位継承法では「過去の女性天皇は全員中継ぎであった」という論理で女帝の即位を禁じている。女帝中継ぎ論には学術的にも支持されているが、近年ではその再検討も進み、一部見直しも迫られている。5章から7章にかけて、女性天皇中継ぎ説についての諸学説を検討していく。
40天武天皇
|────草壁皇子
41持統天皇 |───┬44元正天皇
43元明天皇 └42文武天皇─45聖武天皇─46孝謙天皇(48称徳天皇として重祚)
- 数字は代数
天武天皇の妃であった鸕野讃良(後の持統天皇)は愛息の草壁皇子の即位を強く望んでいた。しかし願いは叶わず草壁は天皇になる前に夭折してしまう。そこで彼女は草壁の息子の軽皇子(文武)の成長を待つために持統天皇として自ら即位した。文武の後はその息子の首皇子(聖武)が幼年であったため、やはり元明・元正天皇が成長を待つために玉座に登った。しかし当時の伝統的皇位継承法は兄弟間で継承させる同世代継承であり、草壁死後の本来の正統後継者は他の天武の息子たちであったはずである。持統らが指向した父子直系継承はその慣例に反するものであった。そこで持統、元明、元正は他の兄弟に皇位を移さないため、自ら正統な天皇でなければならず践祚大嘗祭や不改常法不改常法などを持ち出して正統性をアピールした。大嘗祭とは古来から続く大王家の重要祭祀であり、持統はそれを天皇の践祚(即位)に結びつけ一世一代の神事として完成させる。不改常法は「天智天皇が定めた」という触れ込みの法典で、その詳細は不明だが持統や元明らの正統性を保証するものであったと見られている。
その後の朝廷では藤原氏が伸長し、皇権を蚕食していった。聖武朝では初の臣民皇后として光明皇后が誕生し、藤原氏は聖武と光明の間に男児が生まれることを熱望したが、生まれた子はいずれも早世してしまった。そこで聖武と光明の子として、女子である孝謙が男児が生まれるまでの繋ぎとして即位を求められた。しかし結局聖武と皇后の間に男児は生まれず、皇位継承は行き詰まりを見せる。一時は淳仁天皇が即位するも天皇大権を行使していた光明皇后が崩じると、自らこそが嫡流であると自負する孝謙上皇によって廃位させられる。称徳天皇として再び登極した女帝によって候補者が次々と追放される異常事態はやがて、道鏡への譲位未遂事件へと発展する。道鏡事件の背景には称徳の嫡流意識、仏教への崇拝心、また藤原氏の専横・皇族化が存在した。称徳の後は皇統は天武系から天智系へと移る。称徳から二代後の桓武天皇は自らの血統を「新王朝」と捉え、郊祀(中国の祭祀)によって天智を始祖とする新しい王朝の誕生を世の中に知らしめた。
6章 女帝中継ぎ論(推古と皇極・斉明)
時代は戻って飛鳥時代の2人の女大王、推古天皇と皇極(重祚して斉明)天皇は、持統、元明、元正とは状況がかなり異なった存在であった。定説では、紛糾する皇位継承争いを緩和するための政治的妥協として推古、皇極は中継ぎとして即位したとされているが、これには反論も多い。特に推古と斉明は、中継ぎ天皇としては必須要素である次世代の男性皇族に生前譲位を欠いている。後の持統、元明、元正、孝謙はいずれも次世代に生前譲位しておりその中継ぎ性が明確なのと比べて大きな違いを見せる(皇極が譲位した孝徳は即位時50歳であり次世代の皇族ではない)。また推古は他に有力男性皇族が存在する中で群臣に推戴されて即位している点も注目される。
現在の研究では、推古天皇は即位以前から皇位継承や軍事行動などに深く関わり、また私部と呼ばれる私有地を所有していことからその政治力と経済力が高く評価されている。『日本書紀』には厩戸皇子(聖徳太子)が「皇太子」「摂政」に任命され推古から「万機を委ねられた」と書かれている。この箇所は明治に「女性天皇には統治能力がないため男性皇族に政治を委ねていた」として女帝否定の論拠に用いられたが、書紀の文章には推古の執政が多く書かれる一方で厩戸の実態は不明瞭である。当時は「摂政」や「皇太子」という職位は存在せず、厩戸が執筆したとされる十七条憲法も後世の修飾が多く見られ、太子の政治関与は基本的に推古の「詔」「勅」を受けてのものであった。「万機を委ねられた」という表現も中国や朝鮮の史書の表現を引用したものであり、厩戸が文字通り「全てを委ねられていた」訳では無い。厩戸は有力皇族として推古と蘇我馬子との三頭政治の一角を担う存在であった。
皇極・斉明も、推古と同じように皇位継承争いの緩和のための即位し、息子の中大兄(天智天皇)が十分に年齢になるのを待つために復位したという緊急避難的中継ぎ・嫡子の成長待つための中継ぎ即位説が有力視されているが、それでは説明できない不審な点も多々見受けられる。皇極の夫、舒明天皇が崩御したときの朝廷には有力後継者候補に古人大兄皇子と山背大兄王がおり、どちらとも決め難い状況にあった。当時の権力者、蘇我蝦夷は古人大兄を推していたが、山背大兄を支持する声も強かった。大陸との軍事的緊張が高まる中、いらぬ紛争を避けるための妥協の産物として前大王の大后であった宝皇女(皇極)が擁立されたものと見られる。
乙巳の変(いわゆる大化改新)によって蘇我氏宗家が滅ぶと、皇極は同母弟の孝徳に譲位し、中大兄は皇太子となった。当時の中大兄は19歳で天皇になれる年齢でなかったため、孝徳はその成長を待つために中継ぎ即位したと言われるが、中大兄を将来天皇したいならば皇極がそのまま皇位にあれば良く、わざわざ孝徳に史上初めての生前譲位して皇位継承に要らぬ混乱を持ち込むのは不可解である。実際に孝徳の息子の有間皇子は中大兄によって殺されている。これに関して「乙巳の変の首謀者は実は孝徳であった」「蘇我氏の傀儡であった皇極は強制退位させられた」などさまざまな解釈が試みられているが、確実な定説はない状態である。
その後、孝徳が死ぬと中大兄は30歳とやや若いとも言えるが年齢的に成熟していたにもかかわらず女帝が再び天皇に立ち、息子に譲位することもなく終身天皇の座に留まった。しかも斉明の死後も中大兄は7年も即位せず皇太子の座に居続けた。この不自然な皇位継承を説明するために血の穢れ説や近親相姦説、間人皇女が女帝として即位していた説などが唱えられているが、いずれも決め手を欠いておりやはり定説がない状態は。斉明の執政に関してはその多くを中大兄に委ねていたと考えられるが、女帝もまた自ら積極的に土木工事が軍事行動に携わり息子との共治体制を敷いていた。
7章 以後の女帝と女帝中継ぎ論
称徳天皇の崩御後、女性天皇は約900年姿を見せなくなる。その要因はさまざまに考えられるが、特に藤原氏の台頭の影響は大きかった。皇族に限定されていた皇后位に光明子が昇り、やがて皇后そのものが現れなくなると皇族女性が皇后から女帝になる道が閉ざされていく。幼帝を輔弼する役割を藤原氏の摂政が負うようになったことも女帝の需要を低下させた。また古来から続く朝廷の中国化が平安時代初期にさらに進展していく。女性の政治参加を嫌う儒教倫理の普及により、女性は政治の表舞台から遠ざけられ、女性天皇のみならず奈良時代まで存在した女性官僚も表舞台から姿を消していった。しかし女性天皇は禁止されていた訳ではなく、12世紀には暲子内親王が女帝候補となったこともあった。平安時代中期以降は「女院」と呼ばれる女性権力者が生まれ暲子内親王もその一人であったが、それも鎌倉時代以降には見られなくなる。
江戸時代に久方ぶりに誕生した2人の女帝、明正天皇と後桜町天皇はその即位事情が特殊であったことと、称徳からだいぶ年月を経ていたこともあり反対の声もあった。明正はまだ7歳だったにもかかわらず、徳川幕府と不仲であった父の後水尾天皇に電撃的に譲位されたことで、朝野を揺るがす一大事件となる。後桜町は弟の成長を待つために即位したが、これは一部の貴族から強い批判を浴びた。強権を振るった推古や称徳に比べ近世の女帝の地位は格段に低く、男性天皇より明確に下に置かれていた。二人とも然るべき男性皇族が成長すると生前譲位を行っており、はっきりした中継ぎ天皇であった。近世には朱子学(近世儒教)の普及もあり既に「女性天皇は中継ぎである」という思想は生まれていたが、明治と違いそれは女帝即位を否定する意図は薄かった。現在の歴史学では女性天皇が中継ぎであったことは有力学説になっているが、男性の中継ぎ天皇も数多く存在する中で女性にだけ中継ぎ性を強調するのを疑問視する声も存在する。
8章 崇神〜仁徳天皇の継承
8章からの10章にかけて、記紀系譜を分析し、10代 崇神天皇から29代 欽明天皇までの皇位継承が実際に男系継承だったのかを分析する。
継体以前の皇統譜は正確性は古くから疑問視されており、特に15代 応神天皇以前の皇統譜を全て史実と認めている歴史学者は現在ではかなり少数になっている。実在性が低い1代〜9代までの初期天皇については16章で解説するので、まずは実在した可能性がある最初の大王と言われる10代 崇神天皇を取り上げる。崇神から応神までの旧辞(大王の物語)には天上界の神々が登場し、神秘的に彩られている。身長一丈(3m)のヤマトタケル、神の祟りに触れて死んだ仲哀天皇、妊娠したまま朝鮮に親征した神功皇后などいずれも実在性に乏しく、実在したとしてもその伝承は大半が史実とは考え難い。崇神天皇も実在しない可能性も高いが、稲荷山古墳から出土された鉄剣に、崇神の叔父にあたる「オホヒコ」という人物の名前が記載されており、その実在性について議論されている。現在ではオホヒコもまた実在しない神話的人物であるという解釈が強い。
昭和の時代に仲哀と応神、武烈と継体の間に血統的断絶があり、古代には「崇神を始祖とする王朝」と「応神を始祖とする王朝」と「継体から始まった王朝」の三王朝が存在したという三王朝交替説が提唱され、学会に大きな影響を与えた。河内王朝と呼ばれる2つ目の王朝の始祖の応神天皇は父の仲哀、母の神功皇后の実在性が薄く、さらに応神自身は「神の子」として描写されており、新王朝の始祖としての貫禄を伴っている。崇神から仲哀にかけて「イリ」という名前を持つ皇族が頻出するの対し、応神以後は全く姿を見せなくなるのも何らかの画期が存在したことを示唆している。そこで応神はそれまでの崇神王朝に入婿した新系統の人物であるという説も唱えられた。しかし現在では仲哀と応神、武烈と継体の両者とも、文献的にも考古学的にも連続性が評価され、王朝交替説をそのままの形で支持する専門家は少数派になっている。
崇神〜応神の物語はその大部分が脚色されたものであるのはほぼ確かであるが、モデルになった人間や史実が存在してた可能性は存在する。例えば崇神天皇が東西南北に皇族将軍を派遣した「四道将軍」伝説は、ヤマト王権が日本各地の豪族を討伐して列島を統一していった逸話を寓話化したものと考えられるし、崇神が大物主などの神々を鎮めていく物語は史実で大王家が奈良盆地の祭祀権を掌握していった出来事を神話化したものと見られる。神功皇后の三韓征伐に関しても、時代的に異なった人物が登場するなど多くの矛盾を抱えながらも倭国が何度も大陸に侵攻していたことは朝鮮側の史料でも裏付けが取れている。神功皇后の伝承は3~8世紀の長きにわたる大陸間戦争の逸話を、斉明や持統など実在の女性天皇を媒介にして完成したものと考えられる。
9章 倭の五王と王統分裂説
5世紀初頭の大王家は、邪馬台国以来断絶していた中国への朝貢を再開していた。『宋書』や『梁書』など中国の史書には朝貢を求めた倭の五王(讃、珍、済、興、武)のことが記されるが、注目すべきは珍と済の間に続柄(親族関係)が書かれていないことである。新しい王と前代の王の続柄は王朝の正統性を保証する重要な情報であり、詳細が不明な場合はとりあえず父子関係で結ぶのが定石である。にもかかわらず珍と済の続柄が不明ということは、済と前王との間はに血縁関係がなかったか、あっても済が報告しなかった想定される。これを考古学的に裏付けるように当時の大王墳墓は古市古墳群と百舌鳥古墳の二系統に分裂している。これを根拠に、5世紀の大王家は世襲性ではなく2つの血統から大王を排出していたという仮説が唱えられた。これを王統分裂説あるいは二つの大王家説という。
他国の例を見ると百済王の腆支王と毗有王の間も続柄は書かれていない。百済の史書『三国史記』では両者は血縁関係で結ばれているものの、この三国史記の記述は『日本書紀』、『宋書』との間でそれぞれ矛盾が存在し、その系譜の信憑性は低いと見なければならない。続柄が書かれていないことが百済王の血統的断絶を意味するのであれば、日本の珍と済の間にもやはり血統的断絶が存在したと見なすことができる。
王統分裂説への反論として、倭の五王が「倭」姓を名乗っているということがある。姓は同一父系出自集団を示すものであり、大王達が倭姓を共通させているということは倭の五王がいずれも同一の父系集団であったことを示すものである。また倭姓は五王以外にも倭隋という人物も冠しているが、倭隋も同様に皇族であったと考えられる。
10章 継体天皇の即位
応神五世孫という歴代でも飛び抜けて遠縁から、嫡流の皇女を配偶者にする婿入りの形で即位した継体天皇は史上最も女系継承が疑われている天皇である。かつては継体にはそれまでの王権と血縁関係はなく継体から新王朝が始まったという説が有力視されていたが、上述したようにように武烈から継体の間のヤマト朝廷は政権を担っていた大連・大臣がそのままに据え置かれるなど連続性がはっきりしており、王朝交替といった大きな社会変動は存在しなかったと評価されている。血統的に応神と継体が男系で繋がっていたかは不明であるが、少なくとも継体は皇族として認められて即位した人物であった可能性が高い。
記紀には応神から継体に繋がる系譜は書かれていないものの『上宮記』という文献にその全貌が掲載されている。上宮記は語彙の古さから記紀成立以前の文献と実証されているものの、短い文章の中で用字法がバラバラであり異なった系譜を組み合わせて作った疑いが高い。例えば天皇の呼び方だけでも垂仁の敬称は「大王」、応神は「王」、継体は「大公王」と一貫しておらず、音仮名(平仮名の音1字に漢字1字を当てる表記)の人物と訓仮名表記の人物が混在している。さらに『水鏡』や『神皇正統記』など後世の史書では『上宮記』と異なる継体の系譜が掲載されているのも不審である。平安時代には数多くの偽書が作成されていたこともあり、上宮記もまた偽書ではないかと唱える専門家も存在する。
また継体の妃の出身氏族である息長氏と和邇氏は、継体の即位以前から皇統譜で重要な役割を果たしており、この二氏に関わる箇所で系譜の仮冒・造作があった可能性が指摘されている。特に息長氏は天武朝以後で皇親氏族として尊重されていたことから、継体の出身氏族ではないかという仮説が唱えられている。考古学的には隅田八幡鏡銘文には、継体が天皇になる前からヤマト朝廷で政治に携わっていたことが記されているものの、その解釈には異論も多く未だ結論を見ない。継体の前後の天皇も存在が曖昧なところがあり、継体に先んじる清寧、顕宗、仁賢、武烈天皇は実在したのかは議論がある。特に武烈は10歳と少しで即位し、妊婦の腹を裂くなど数々の残虐な行為を働くなど事実とは信じ難い経歴を持っており、実在しない天皇というのが定説である。継体の死後も継体の息子達の間で皇位継承争いがあり、二朝併立状態にあった(辛亥の変)と考えられている。
11章 古代日本の社会構造
11章では皇室を離れ、日本の古代家族論・豪族論を広い視点から見ていく。特に豪族系譜は当時の貴族層の継承法を示唆するものであり、天皇家の男系世襲を検証する際には不可欠な分野である。
古代家族論は断片的な出土物・史料から当時を再現する困難さから学説は割れているが、日本の親族体系の原型には徹底した男系継承が存在しなかったことには異論がない。人骨・墳墓の分析や、日本語の言語学的特徴にも双系的・女系的な特徴がうかがえる。時期は諸説あるが3~7世紀にかけて日本社会は男系化の傾向が強くなり、それまで存在していた女性首長・女系継承はその数を減らしていく。7世紀の改新の詔の中で「男女の法」が制定され男系継承は成文化された。唐から輸入した律令はその傾向はさらにはっきりとし男系継承は貴族社会の原則になった。日本社会が男系化した理由は中国の男系イデオロギーの輸入と、戦争の激化により男性の社会的地位が向上したことが考えられる。中世に入るとイエ制度が完成する。日本独特の文化であるイエ制度では血統より家督の継承が重要視され、摂関家や大名家のような貴族層でも男系継承は完徹されなくなった。
また豪族系譜の分析を通じて、飛鳥時代以前の豪族は父から息子への直系継承ではなく、一族内の複数の血統から氏族を排出していたことが判明している。特に物部氏や阿倍氏のような大豪族はその配下に多数の氏族を抱え、巨大な擬似血縁集団を構成していた。そして豪族は血統的には遠い、あるいは繋がらない親族から族長を選出し、前族長と新族長を父子関係で繋いだ首長系譜を形成していた。このような豪族系譜の研究から記紀系譜の実態を模索する試みがある。このような豪族の実態を根拠に、大王家もまた複数の血統が擬制親族集団を形成しており、5世紀の大王家には血統に基づいた世襲制は存在してなかったと主張する研究者も数多く存在する。
12章 記紀の歴史叙述
12章では『古事記』と『日本書紀』がどのように皇室の歴史を記し、系譜を形成していったのかを見る。古代史研究は記紀に大きく依存しているため記紀の史料批判は古代史研究にとって欠かせないものであり、天皇系譜の史実性を検討する際にも避けては通れない分野である。
日本神話の聖典である古事記と日本書紀は、編纂過程も文章もその多くを中国思想、特に儒教に依存している。記紀神話とは、個別に存在していた日本の伝承を儒教倫理によって一つの神話体系に再構築したものであり、そこに用いられる文章もかなりの部分が漢籍から引用したものである。皇室制度も中華の制を踏襲しており、「天皇」の称号や「日本」という国号も隋唐帝国を強く意識して名付けられたものであった。近年では『日本書紀』の音韻研究が進み、書紀の記述はα群とβ群に分けられ、α群は渡来人一世、すなわち中国人によって執筆されたと考えられている。
2節では古代日本の国家の血統的構造を見る。11章で述べたように、古代の豪族は元々は血統的に繋がらない氏族が、神話上の人物を共通祖先にすることで同祖系譜を形成していた。それは大王家も同様で、ヤマト王権の勢力が伸長するにつれ、豪族の同祖系譜の先祖を初期天皇の皇子に設定することで地方豪族を血縁的に皇統譜の中に組み込んでいく。そうして完成した律令国家では国そのものが一つの擬制血縁集団となっていた。具体的には『古事記』に現れる201氏族のうち、88%に当たる177氏族が系譜上は天皇と同じ男系一族に設定されている。天皇と国民が同じ祖先をもっているという「君臣同祖」の観念は明治日本の中で強化され、やがてそれは「万世一系」の前提となっていった。
13章 女性皇族の婚姻
女系天皇は女性天皇を含む女性皇族が臣籍の男性と結婚することで誕生する。そこで13章では過去の女性皇族の立ち位置、そしてその結婚がどう扱われたのかを詳述する。
21世紀の皇位継承問題で頻繁に引き合いに出されるのは、律令の継嗣令(皇位継承法)に記載される「女帝の子もまた同じ」という語句である。「女性天皇の子供もまた男性天皇と同じく親王にする」という意味の法文であり、女系天皇を容認しているようにも解釈できる。ただし継嗣令では女性皇族の婚姻相手は男性皇族に限定されており、当初は女系天皇が生まれる余地はなかった。しかし桓武天皇の時代にこれが撤廃され、女性皇族と藤原氏の結婚が行われることで法的には女系天皇が生まれる余地が生まれた。そのため律令の注釈書には、女系子孫の扱いについて「女性皇族が、配偶者を四世王(男性皇族)までに限定している継嗣令王娶親王条に違反して凡人(臣民)と結婚した場合、その(女系の)子供は凡人(臣籍)となるのか?」と問題提起が加筆されている。
また過去の女性天皇はその全員が夫を亡くした寡婦か未婚の皇族である。これが偶然ではないことは確かだが、その理由は必ずしも明確ではない。古代の女性皇族は男性皇族と結婚するのが普通であったのだから、男系継承を墨守するためとは考えられない。これの問題に関して、子供を産んで皇位継承問題を拡大させないため、儒教倫理で再婚は不義とされたため、女性天皇は巫女として処女性が要求されたため、次世代の男子天皇と擬制夫婦になるためなど数々の仮説が提示されている。
神道では女性の月経や出産を「穢れ」として忌避する教えがある。近世の女性天皇は月のものを迎えると祭祀が行えず、神事を第一とする天皇としては大きな障害となっていた。しかし記紀や風土記ではそのようなタブーは見られず、女性の穢れは日本本来の観念でなかったことが分かっている。女性の穢れ思想が生まれた要因は複数想定しうるが、道教やインドのマヌ経典などの外来思想を主な由来であると見られる。9~10世紀にかけて女性の穢れ観は朝廷に定着し、妊娠や月経に触れた女性は祭祀のみならず日常空間からも排除されていった。
14章 皇統観の歴史
この章では中世から近現代にかけての知識人たちの、主に「女性天皇」と「臣籍降下した元皇族」に関する思想を紹介していく。
全体的な傾向として前例が多かった女帝は肯定的な意見が強いが、江戸時代の儒家は女性君主を否定する儒教倫理から女性天皇の存在を嫌っている。例えば中世の『愚管抄』では「男女の性別よりも天性の才能を第一に考えるべきという道理」が存在するとされ、『小夜のねざめ』では「日本は女の治めるべき国である。アマテラスも女性であった」と語られている。逆に近世儒者の佐藤直方は「女子にて天子の位にのぼること、聖人の道にはなきこと也」と女性天皇を批判している。
臣籍降下した人物については、宇多-醍醐の前例がありながらも、中世、近世、近代のいずれの時代も皇統であると認められておらず、臣民から皇位をうかがうことを厳しく戒めている。中世の『神皇正統記』では「天皇の子孫は確かに一般の人とは違うが、我が国は神代からの約束事として天皇の子孫が皇位を継ぐことになっている。源氏は新しく生じた人臣であり、驕り高ぶることがあればアマテラスの怒りに触れる」と説かれており、近世の竹尾正胤は『大帝国論』の中で「親王であっても一度姓を賜って臣籍になったら二度とは皇族に戻れない。このように君臣の名分が厳然としているからこそ日本は世界で唯一"帝国"と呼ぶにふさわしい」と述べている。明治の皇室典範製作会議においても源氏出身で神武天皇の男系子孫の人があっても、その人物は「全ク源姓ニシテ源家ノ御人」であり、その子孫が天皇になれば万世一系の断絶であるとされていた。
15章 天照大神の考証
タカミムスヒ─タクハタチヂヒメ
|─ニニギ─ホオリノミコト─ウガヤフキアエズ─イワレヒコ(神武天皇)
アマテラス─アメノオシホミミ
女系天皇賛成派の主張の一つに「皇祖アマテラスは女性であり、これを女系継承と認めることができる」というものがある。そこで15章では、神話的に天皇の正統性を保証する皇祖神アマテラスとタカミムスヒについて解説する。
天皇家の「皇祖」というと「女神」のアマテラスが一般的であるが、『日本書紀』本文ではタカミムスヒという神が「皇祖」になっている。タカミムスヒはニニギの母方の祖父に当たる人物であり、中近世の神道でもタカミムスヒはアマテラスに匹敵するかそれ以上に重要な神とされた。現在の神話学ではタカミムスヒが本来の大王家の最高神であることはほぼ異見がない状態になっている。天皇が行う宮中祭祀もアマテラスを対象とするものは全て平安時代から始まったものであり、天皇家の最も重要な神事である大嘗祭が祀っていた神も元はタカミムスヒであった。
また日本書紀で「女神」とされるアマテラスだが、その元型は男神あるいは無性神であった。『源平盛衰記』や「三十番神図」など中世の伝承やアマテラスの彫像は男神の外見をしているものが多く、近世の思想家たちも本来のアマテラスは男神であったと考察している。神話学的にもそれは支持されており、大王家が男神の太陽神に巫女(ヒルメ)を派遣しているうちにその女性性が太陽神に投影された。あるいは記紀編纂期に持統天皇が自らを女神の皇祖神に準えることで愛息の草壁皇子の正統性を保証しようとしたと考えられている。
16章 神武天皇の考証
16章では初代神武および欠史八代の9代の天皇の実在性に関する諸説、そして神武が歴史的にいかに信仰されてきたのかを一望していく。
実在しないと言われる神武と欠史八代であるが、その論拠は必ずしも十分ではない。神武126歳など異常な長寿を現実的に直しても、初期大王が生きた時代は記紀成立から500年以上かけ離れており、ヤマト王権成立(3世紀後半)の遥か以前のことである。考古学的な決め手はゼロに等しく、研究対象になる文献も記紀と「魏志倭人伝」などの不十分な記述のみである状態では「実在した、していない」は水掛論に陥らざるをえない。そのため現況では実在論よりも神武伝承の形成過程に重きを置いた研究が進められている。日向(宮崎県)出身であるはずの神武が「イワレ彦」という奈良の地名を負っていることからも分かるように、神武東征は複数の伝承(その中のいくつか、例えば九州勢力が畿内に漸東してきたなどの史実的背景が存在した可能性はある)を組み合わせたものに、数世紀にわたる加筆と造作が繰り返され、8世紀に記紀神話として成立したものと見られている。
また現在では天皇家の「始祖」として扱われる神武だが、古代中世にかけて神武が天皇家の「起点」として崇拝されたことはほとんどなかった。天皇家の「始祖」とされたのはアマテラスやタカミムスヒの神々や、応神天皇や天智天皇などであり、神武は初代といえど数字の1番目の天皇という立ち位置であった。それが中世末期には神武を始祖として扱う向きが生まれ、江戸期の国学や水戸学の興隆と共に神武は顕彰されていく。そして明治新政府によって皇室のシンボルとして採用されることで、神武の「日本の建国者」「天皇家の始祖」のポジションは確固たるものになる。数々のまつろわぬ者を討伐して国を建てた「軍人」神武天皇は、富国強兵を目指す明治日本のポリシーに合致するものであった。
17章 近代天皇制と伝統
17章では明治維新以降の近代日本の中で「伝統」がどう変遷していったのかを概観する。
明治政府は日本を西洋列強に並ぶ近代国家にするために、皇室も近代化(すなわちヨーロッパ化)していった。皇室改革にあたり、それまで千年以上天皇家と不可分であった仏教は切り離され、各地の由緒ある寺が大量に破壊された(廃仏毀釈)。重大な朝議である元旦節会、白馬節会、踏歌節会などが縮小・廃止される一方で、「万世一系」イデオロギーを強化するために天皇陵や祭祀が新造されていった。このような皇室の近代化改革は「神武創業」の名の下に「肇国(建国)以来の伝統」と喧伝された。近代国家創設のために「伝統」を創出することは日本のみならず世界に普遍的に見られるものである。また政府は皇室のシンボルとして聖なる女神アマテラスと、軍人の神武天皇を二重に使い分けて、皇室の聖俗のバランスをとっていた。
戦後、明仁天皇(平成の天皇)の皇后となった正田美智子は旧華族でも旧皇族でもない民間人である。彼女は飛鳥時代に皇后制度が成立して以来、史上初めて平民出身の皇后であった。皇族や旧華族は平民皇后の誕生を嫌い、特に昭和天皇の配偶者の良子(香淳皇后)は周辺の人物を使って結婚反対運動を起こした。右翼団体もそれに同調し、正田家への脅迫事件も発生している。しかし皇后になった後の美智子妃は国民から人気を博し、「ミッチーブーム」と呼ばれる社会現象を起こした。
18章 日本共産党と女系天皇
現在、最も女性・女系天皇を支持している主要政党は日本共産党である。日本共産党は戦前から天皇制廃止の急先鋒であり、「天皇制」という言葉も元々は共産党が使い始めたものであった。戦前、コミンテルンの支部に過ぎなかった日本共産党はソ連に言われるままに君主制打倒を掲げ、治安維持法で組織は壊滅状態になりながらも戦後に至るまで暴力革命を標榜し「天皇制廃止」を党の綱領に掲げ続けた。しかし1960年代にソ連と手を切り自主独立路線に進んだ日本共産党は、選挙に勝つために天皇制への攻撃を緩めざるをえなかった。平成の天皇に代替わりすると軟化はさらに進み2004年には綱領から「君主制の廃止」規定は削除され、2022年には「(共産党が)与党になったら天皇制は廃止?絶対にしません」というパンフレットを製作している。現在の日本共産党は国民統合の象徴に定める憲法の条項や、ジェンダー平等の観点から女性・女系天皇を推進している。
またフェミニズムと皇室の関連も紹介するが、日本のフェミニズム団体は現在の皇位継承問題についてほとんど無関心である。フェミニズム運動はその成立過程から共産主義と関わりが深く、皇室に言及しているフェミニストは女性・女系天皇以前に天皇制そのものに反対している論者が多い。
19章 海外諸国との比較
19章では海外王朝の継承法との比較や、歴史的に日本と密接だった中国・朝鮮社会の継承法を見る。
世界史レベルで見る王朝の観念は非常に多様であり、古くから女系継承を認める国もあれば養子継承を認める国も存在した。逆に中国で男系で血統が繋がっていても王朝交替することもあった。東アジアでは王朝名の交替がそのまま国家の興亡を意味するのに対し、ヨーロッパでは王朝名(家名)の交替は国家の継続性とは無関係であり、国民が海外の貴族を招聘して自国の王にすることも頻繁にあった。21世紀現在、ヨーロッパ諸王朝はジェンダー平等の理念から、ルクセンブルク王家などの例外を除き、大半が女性・女系継承を容認する法改正を行なっている。その他イスラーム系王家では男系男子を固守し、アジアではタイ王家は女性継承を容認している。
中国は古代から「宗法」と呼ばれる男系継承法を原則としていた。それを理論化したのが朱子学の「父気同気」である。「父気同気」の理念では父と息子は同じ「気」を持ち、それは何世代経ても減ることはないが、母と子の間ではその気は受け継がれない。そのため先祖祭祀を行うのは必ず同宗(男系親族)でなければならないと教えられる。また儒教倫理では「男には男の役割があり、女には女の役割がある」と説く「男女の別」を重視する。男性は女を導いて外のことをやり、女性は男に従って内のことをやる。そうすれば家庭は落ち着き、ひいては社会・国家も安定していく。逆に女が政治に口出しすれば世の中は乱れる。古代中国はこうした「宗法」と「男女の別」に基づいた男権社会を築き、その道徳を知らない周辺諸国を禽獣(ケダモノ)と蔑視していた。朝鮮、ベトナム、日本なども当時の先進国である中国の文化を輸入し、やがて儒教は東アジアの共通規範となっていった。
朝鮮王の継承も男系男子が原則であったが、新羅は女王を3人輩出し、また何度か女系継承も行なっている。その中の一人である善徳女王の時代、新羅は唐に援軍を申し入れたが女性君主を嫌う唐は婦人の主を退位させよと命令している。また新羅の女系継承は日本の婿養子と違い、その子孫は夫の姓を継いでいる。そのため新羅には国姓が朴、昔、金の三種類存在する。朝鮮はその後も双系的な親族意識を持ち続け、近世では両班と呼ばれる男系血統に基づいた貴族が出現したが、それとは別に父と母、息子と娘の親族を辿る双系的な系譜も多く作成されていた。
序章 女性天皇
| 時代 | 女性天皇 | 在位年 | 父系の系統 | 婚姻の有無 | 即位前の身位 | 譲位の有無 |
飛 鳥 ・ 奈 良 時 代 |
33代 推古天皇 | 592~628 | 欽明天皇 | 寡婦 | 皇后 | 終身 |
| 35代 皇極天皇 | 642~645 | 敏達天皇 | 寡婦 | 皇后 | 譲位 | |
| 37代 斉明天皇(皇極の重祚) | 655~661 | 敏達天皇 | 寡婦 | 皇祖母尊 | 終身 | |
| 41代 持統天皇 | 690~697 | 天智天皇 | 寡婦 | 皇后 | 譲位 | |
| 43代 元明天皇 | 707~715 | 天智天皇 | 寡婦 | 皇太妃 | 譲位 | |
| 44代 元正天皇 | 715~724 | 天武天皇 | 未婚 | 内親王 | 譲位 | |
| 46代 孝謙天皇 | 749~758 | 聖武天皇 | 未婚 | 皇太子 | 譲位 | |
| 48代 称徳天皇(孝謙の重祚) | 764~770 | 聖武天皇 | 未婚 | 太上天皇 | 終身 | |
| 江 戸 時 代 |
109代 明正天皇 | 1629~1643 | 後水尾天皇 | 未婚 | 内親王 | 譲位 |
| 117代 後桜町天皇 | 1762~1770 | 桜町天皇 | 未婚 | 内親王 | 譲位 |
※重祚:同じ人物が二度目の即位をすること。
女性天皇の概要
日本の歴史上、女性天皇は以上の8人10代が現在認定されている。近代までは神功皇后と飯豊青皇女が女性天皇の一代に数えられることもあったが大正時代に正式に除外された。女帝の即位以前の身分は元皇后、元皇太子妃、未婚の娘と様々であるが、女帝の中に即位後に結婚(再婚)した例はない。
過去の女性天皇は全て、男子後継者が一人に定まらない時、または若年の時にその成長を待つために臨時で即位した中継ぎ天皇であるというのが定説である。最初の2人の女帝、推古天皇と皇極天皇は蘇我氏の権勢の最中で突発的な皇位継承争いを防ぐために帝位に登った。持統天皇から元正天皇までの女帝は、幼年の嫡流男子が統治者として育つまで皇位を守る存在であったが、奈良時代の末期に嫡流男子は断絶し、孝謙上皇の代には淳仁天皇廃位事件や道鏡への譲位未遂事件など政治的混乱が起きた。積極的に国政に関わった古代女帝達に対して約900年ぶりに即位した江戸期の二人の女性天皇は成人していても摂政が置かれ(通常は成人すると関白になる)、菩提寺に肖像画すら残してもらえないなど影が薄い存在であった。(女帝中継ぎ論については5~7章で詳述する)。
現在の皇室典範では戦前の旧典範を受け継ぎ、女帝の即位が禁じられている。明治中期に旧皇室典範が定められる際に、草案では女性・女系天皇も可であったが女系天皇は反対多数により削除。また典範制作に携わった井上毅が過去の女帝は仮摂(中継ぎ)であり正統な天皇でなかったこと。女性に参政権がないのに君主が女性であるのは矛盾であること。天皇は軍隊の最高統帥者であり女性には務まらないということ等を理由に女性天皇も除外した。ヨーロッパに留学していた井上は欧州王室の男子継承の根拠となるサリカ法を学んでおり、それも男系男子継承を鉄則とする旧皇室典範に影響を与えている(旧皇室典範作成の経緯については2章で詳述する)。
戦前の旧皇室典範は議会の影響を受けない不磨の大典であったため、明治憲法における「世襲」とは明確に男系男子を指し、それが覆ることはありえなかった。しかし戦後の新皇室典範は普通の法律であり改訂は比較的容易である。そのため男系男子継承に拘るのならば硬性である日本国憲法にその旨を明記しておくべきであったが、これは新典範作成の責任者であった国務大臣の金森徳次郎によって意図的に排除された。金森本人は熱烈な男系男子支持者ではあったものの将来的に国会で女性・女系天皇の議論をしやすくするために憲法にあえて世襲の性別を載せなかった[1]。
愛子内親王と悠仁親王
現在の直系皇族
待遇の差
令和の天皇には一人娘の敬宮愛子内親王がおり、皇弟の秋篠宮には小室眞子、佳子内親王の他に皇族唯一の若年男子である悠仁親王がいる。愛子内親王は嫡流(内廷皇族)であり、悠仁親王は傍流(内廷外皇族)である。そして愛子は女性皇族であり、悠仁は男性皇族である。この二つの差異により二人には様々なところで待遇の差がある。
例えば生誕時の命名が挙げられる。天皇や皇太子の子供は、厳密な手順を踏んだ上で今上天皇が名前を決めることになっており、愛子の誕生の折には宮内庁の依頼を受けた勘申者と呼ばれる漢文学者ら識者が集まり男女それぞれ3つずつの候補を選定し、その中から皇太子夫妻(当時)が生まれた「新宮」の名前を決めた(ただし形式上の命名者は祖父の明仁である)。命名には四書五経や万葉集などを出典にするのが通例であり、敬宮愛子の「敬」と「愛」は孟子の離婁章句下の一節「仁者は人を愛し、礼有る者は人を敬す。人を愛する者は人恒に之を愛し、人を敬する者は、人恒に之を敬す」から引用された。一方で傍系の悠仁親王の命名には厳密な決まりがないため、父の秋篠宮が学者の意見を参考に両親や紀子妃と相談して決めた。秋篠宮は、出典よりも「ひさひと」という音の響きと「ゆったりとした」という言葉の意味を大事にしたと語っている。
また愛子誕生に際して宮内庁で一般記帳が行われ、皇居や東宮御所、京都事務所などに合計62,000人が詰めかけた。あまりのフィーバーぶりに宮内庁は記帳場所を倍増したうえ、予定時間を前押しして受付を始めなければいけなかった。片や悠仁誕生の時には宮内庁は一般記帳を行わず、問い合わせがあっても「宮家なのでない」という返事であった。平成19年の皇室予算の分配も愛子が約6400万円なのに対して悠仁は約1500万と1/4以下であり、皇居への入り口も前者は半蔵門を用いるが後者は乾門から入るように厳重に決められていた(令和6年現在は秋篠宮家も半蔵門の使用を許可されており、内廷皇族としての待遇を受けている)。
だが悠仁には次代の天皇としていわゆる帝王学(上皇曰く「象徴学」)が教授されており、愛子には天皇になるための教育は与えられていない。将来、悠仁が天皇に即位し、愛子が婚姻により皇籍離脱していれば逆に悠仁が半蔵門を通り、愛子は乾門から入るようになる。また愛子や二人の姉ら女性皇族の教育費は内廷費、すなわち私的な出費と見做されるのに対して、悠仁の教育費や習い事の費用は宮廷費、公的な支出として扱われる。傍系といえど次期天皇候補の悠仁は然るべき待遇を受けている。
また皇室法の定めでは、女性皇族は結婚すれば皇籍離脱できるし、男性皇族でも離脱の意志を示せば臣籍になれる(ただし戦後、自分の意志で皇籍離脱した男性皇族はいない)。だが皇太子、皇太孫はその例外とされている。父の秋篠宮が皇嗣であり、実質的な皇太孫である悠仁は自らの意志で皇籍から離れられないことになる。
男子優先派と直系派
女性天皇支持派にも2種類ある。「皇族に継承可能な男子が存在しない時のみ女性天皇の誕生を許す」男子優先派と「性別に関わりなく直系の子女を優先して即位させる」直系派である。後者の派ならば、現在のように悠仁親王と愛子内親王が2人存在しても直系の愛子天皇を支持することとなる。
男子優先の方が過去の前例に則っているが、直系優先だと次期天皇が早い段階で確定できるというメリットがある。例えば男子優先かつ女帝が許可されている場合、まず愛子内親王が生まれた時点で次期天皇候補は愛子になり、天皇になるための厳しい教育が施される。しかし悠仁親王が生まれたら男子が優先され次期天皇候補は悠仁になるので、愛子は梯子を外され今度は悠仁に帝王学が授けられる。更にその後、愛子に弟が出来れば直系男子としてその子供が皇太子となり、悠仁は皇位継承候補のランクが下がる。このように男子優先だと皇太子候補が頻繁に動いてしまうことになる。直系優先であるならば愛子が生まれた瞬間に次期天皇を彼女に確定させられる。
一方で、皇室では女性の血の穢れを厭う慣習がある。女性の血の穢れとは要するに月経のことであり、宮中では血のことをアセ(阿世)、生理をマケと呼ぶ。例えば、生理中の女性は宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)に上がれず、生理が始まって8日後にお清めをすることで初めて三殿に上がれるようになる。生理中の女性天皇は祭祀を遂行できないため、延期あるいは代理人の手によって行われることになる。また妊娠ともなればほとんどの公務が滞ることとなる。以上の伝統は皇室の私的領域になるため今後も変更されることは考えづらい。このように女性天皇には障害が多く、男性天皇の方が円滑な祭祀・公務が可能になるため男子を優先すべきであるとも考えられる。ただし以上の宮中における穢れ観は10世紀頃から顕著になるもので古代の女帝とは無縁のものであった(参照『13章 女性皇族の婚姻』「3節 女性皇族と穢れ」)。
1章 女系天皇
- 1節 女系天皇の定義
- 2節 議論の要点
- 3節 男系継承固守派の意見
- 4節 女系継承容認派の意見
- 5節 女系天皇か旧宮家復帰か
- 旧宮家についての補足
- 6節 女性・女系天皇に関する世論調査
- 7節 旧宮家子孫に関する世論調査
- 8節 世論調査に用いられる統計的手法
平民男性
├─────┬女系男子
上皇明仁┬今上徳仁─敬宮愛子 └女系女子
└秋篠宮文仁─秋篠宮悠仁
├───┬男系男子
平民女性 └男系女子
女系天皇とは女性を通じて皇統を継ぐ天皇のことである。伝承の上では神武天皇から令和の今上天皇に至るまで女系天皇は存在せず、126代一貫して男系継承が続いている(その史実性は後述する。参照『8章 崇神〜仁徳天皇の継承』)。記紀系譜を尊重する立場からは女系天皇は先例がないことを理由に保守層から激しい反対がある。
1961年に秋篠宮が生誕して以来40年以上皇室に男児が生まれず(9人連続で女児が誕生)、21世紀初頭には皇室の危機が叫ばれていた。そこで女性・女系天皇を容認するべく2005年に当時の小泉内閣は皇室典範に関する有識者会議を開き、女性・女系天皇の道を開くこととなった。だが会議の報告書が出された3ヶ月後に秋篠宮夫妻が子を授かり、翌年に悠仁親王が誕生したことで議論は一時下火となる。
2025年現在、大学生になった悠仁親王は心身ともに健康であり、次世代の天皇は彼であると目されている。しかし男子継承を安定して続けるためには悠仁夫妻が男子を最低でも一人、できれば複数人儲けなくてはならず皇室が不安定であることに変わりない。そのため女系天皇を巡る議論は今でも続けられている。
「1節 女系天皇の定義」。「女系天皇」は様々に定義できるが、皇位継承問題における女系天皇とは父系出自集団ではない人物が即位することを指す。父系出自集団とはいわゆる「男系」のことであり、父親を辿っていけば必ず始祖(起点となる一人の人物)に突き当たる人物だけで構成される社会集団を意味する。過去には10代の女性天皇が存在したが彼女たちは全員父親をたどっていけば必ず天皇に行き着く男系女子であった。これに対し愛子内親王が平民男性との間に産んだ子は父親をたどっていっても天皇に行きつかない。これが女系天皇となる。
斉明女帝から息子の天智天皇への継承や、元明天皇から娘の元正天皇への継承は、皇位自体は女系で継承されているため女系天皇と定義することも不可能ではないが、それは現在の皇位継承問題とは無関係のものである。天智の父親は舒明天皇であり、元正の父方の祖父は天武天皇なので、両者とも男系親族であり男系継承である。このことから男系固守派は「女系天皇は父親を辿った場合に始祖となる神武天皇に行きつかない」として女系継承に反対している。ただし明治の皇室典範では父系出自集団であっても臣民は皇統とされず、あくまで皇族のみが男系と考えられた。例えば徳川将軍は清和天皇の男系子孫であるが臣籍であるため皇統ではない。よって徳川の男が皇女を娶って産んだ子は女系天皇であり、万世一系は断絶することになる。
「3節 男系継承固守派の意見」と「4節 女系継承容認派の意見」ではそれぞれの主張を詳細に見ていく。男系固守派の主張は「女系天皇には前例がなく伝統に反すること」「女系継承は万世一系の断絶であること」に集約されている。皇統とは男系のことを指し、女系継承が行われれば神武系の血統が皇女の夫の系に移り、2680余年の天皇家の歴史はそこで断絶する。そうならないよう先人たちが守ってきた男系男子の鉄則を今後も守っていくのが現代人の役目である。一方の女系容認派は男女平等の観点に加え、側室がない場合の男系継承の持続可能性の乏しさや男子出産を強制される皇妃の負担軽減。また男系継承は儒教・中国的な思想であり日本本来のものではないこと、古代の大王継承に実質的な女系継承が存在したこと、男系の論理で父親をたどっていけば確かに全員が神武にはいきつくものの皇祖の女神アマテラスには行きつかないことなどさまざまな視点から女系天皇を支持する。
「5節 女系天皇か旧宮家復帰か」。現在の皇室には若い男性皇族が悠仁親王一人しかいないため、1947年に皇籍離脱した十一宮家(旧宮家)の皇籍復帰案が出されている。復帰推進派は旧宮家が臣籍降下したのはGHQの外圧のせいであること、嫡流が断絶した際に在野にいた継体天皇を推戴した前例があること、また臣籍から皇籍復帰して天皇になった先例として宇多-醍醐の親子があることを挙げて復帰に問題なしとする。復帰不可派は11宮家はGHQが来る以前から皇籍離脱の対象になっていること、継体が応神5世子孫であるのに対し旧宮家子孫は約600年前の崇光の20数世子孫と継体と比べても桁違いに血が離れていること、また宇多-醍醐が臣籍にいたのはわずか2年であり80年以上も民間にいた旧宮家子孫とは比べられないことを挙げて反論している。
「6節 女性・女系天皇に関する世論調査」「7節 旧宮家子孫に関する世論調査」では皇位継承問題に関する国民世論を見る。戦後の世論調査では賛同率の低かった女性天皇であるが近年の調査、特2001年に敬宮愛子が誕生して以来、女性・女系天皇共に高い国民支持率を得ており、女性天皇は75〜85%、女系天皇は70〜75%前後で推移している。一方の旧宮家子孫復帰の調査は歴史が浅いが、近年のものでは賛成率はおよそ35~45%となっている。「8節 世論調査に用いられる統計的手法」ではその世論調査に使われている統計学的手法を掲載する。世論調査は専門家による無作為抽出と統計処理が行われており、人口比ではごく一部にすぎない2000人程度を対象にした調査でも日本人1億3000万人の意見を検討することが可能になっている。
1節 女系天皇の定義
記事冒頭で女系天皇の定義を
としたが、女系天皇は多義的な語である。文化人類学における女系(母系)継承とは「母親の血統のみを辿って共通祖先にいきつく継承」を指すため、この定義に基づく女系天皇とは
である。
定義2の女系天皇
すると1の定義の天皇は「双系天皇」あるいは「両系天皇」と呼ばれるべきだろうが、現在はメディアおよび政府の有識者会議等でも1の定義の女系天皇が定着している。女系天皇に反対する論者の中には「女系天皇は架空の概念である」とする者もいるが、1の定義に依れば「女系天皇」、2の定義の依れば「双系天皇」と、要は定義と呼び方の問題である。明治には「女統」という語が官民で使われており、「女系天皇」の概念が遅くとも維新期には既に存在していた。
また女系の漢字の意味だけをとって女系天皇を単に、
とするならば天智天皇のように父方も母方も皇族で、女系かつ男系という天皇も大勢(歴代で27代26人)存在する。
定義3の女系天皇の例
更に、
4.「父親は即位しておらず母親から皇位を受け継いだ、つまり女系で皇位継承した天皇」
定義4の女系天皇の例
皇位継承問題の議論にでてくるのは1の定義の「女系天皇」なので3、4の定義の「女系天皇」と混淆しないように留意されたい。元正は父系で天武天皇に連なり、男系女子に該当する。1と3の定義の女系天皇を混ぜないよう、非男系天皇という呼び方をする論者もいる。
また皇室典範では明治の旧典範以来、女系天皇の即位が禁止されているが、ここでいう女系天皇の定義は定義1と同じではない。詳しくは『2章 新旧皇室典範作成の経緯』「1節 旧皇室典範」で解説するが、典範作成で想定された女系天皇は、
5.「母親が皇族女性で、父親が(先祖が誰であれ)皇族でない男性である天皇」
となっている。つまり臣籍降下した人物は皇統ではなく、その人物が内親王と結婚して産んだ子は女系天皇であり万世一系は断絶するとされる。
定義5の女系天皇
実例として仁孝天皇の息女の和宮と、清和天皇の男系子孫の徳川家茂の間にできた子供は女系子孫として扱われる(実際には二人の間に子供はなかったが)。
2節 議論の要点
男系固守派
- 過去に一度も例のない女系天皇の即位は神武天皇以来2600年以上続く万世一系の皇統の断絶である。女系天皇の即位は日本の根幹である皇室の存在を揺るがすものであり許されることではない。
- 過去の女性天皇は女系天皇を生み出さないために全員が独身か寡婦(未亡人)であった。
- 古代に天皇の娘がいたにもかかわらず伝統を守るために在野に男系の皇統を求めて即位させた継体天皇という前例がある。また一度臣籍降下してから皇籍に復帰して登極した宇多天皇、醍醐天皇という前例も2件ある。
- 皇室は前例主義であり、前例のない女系天皇ではなく前例のある旧宮家の復帰を選ぶべきである。旧宮家子孫は現在も天皇と交流を持っており、準皇族身分と言える。
女系容認派
- 「万世一系の男系男子、女系天皇は皇統の断絶」という思想は明治時代に造られた「伝統」である。旧皇室典範草案では女系継承が容認されており官民共に女系天皇に賛同する者はいた。「皇統は男系でなければならない」という暗黙の共通認識は存在していなかった。
- 神武天皇が神話的存在であることは言うまでもなく、天皇家に父系世襲が確立したのは6世紀初頭であり、それ以前の大王家で女系継承が行われていたことは既に現在の文献史学、考古学では定説になっている。
- 日本社会は古代から伝統的に双系継承社会であり、女系で継承された将軍や女系で継承された関白も存在する。女系継承は男系血統主義が強固な中国社会と一線を画す日本国の個性である。
- 継体天皇は応神天皇の五世子孫であるが、現在の旧宮家子孫は600年前の崇光天皇から二十世代以上離れている。また宇多、醍醐が臣籍に居たのは2年だが旧宮家は既に80年近く民間人として過ごしている。そのような世数の離れた臣籍の者が皇位につくことを先人たちは固く禁じてきたため、前例がない点では旧宮家子孫と女系天皇の立場は変わらない。
現状の皇室構成を踏まえた女系天皇に対する立場は大きく4種に分類できる。
- 悠仁天皇でなく愛子天皇を推す派(直系長子派、積極的女性→女系天皇派)
- 悠仁天皇に息子が生まれなかったら女系天皇を容認する派(男子優先・女系天皇派)
- 女性天皇は認めるが女系天皇は反対派(男系派)
- 女性・女系天皇共に反対派(男系男子派)
- 番外として天皇制廃止派
実際には「女系天皇も容認するが旧宮家を優先すべきである(八木秀次氏など)」とする立場や逆に「旧宮家も容認するが女系天皇を優先すべきである(所功氏など)」のように男系派、女系派も一枚岩でなく多種多様な考え方が存在する。「女系継承は皇統断絶」と考えるラディカルな男系派からすると、旧宮家推進派であっても女系を容認する論者は論敵となりうる。
2021年現在、政治家の大勢を占めているのは「今上陛下から秋篠宮皇嗣殿下、次世代の悠仁親王殿下という皇位継承の流れをゆるがせにしてはならない」という男子優先派であり、宮内庁も男子優先を明言しているため、愛子天皇誕生の目は薄い。公的な女系天皇に関する議論は悠仁天皇に息子が生まれなかった事態を想定して進められている。そしてその場合の選択肢は「女系天皇容認」か「1947年に皇籍離脱した旧宮家子孫の皇籍復帰」の2択にほぼ絞られている。理論上は側室案、再婚案などもあるが、現在の家族観念からして採用されることはまずないと思われる。とはいえ今後の世論の変化によって趨勢が変わり、愛子天皇や側室制度採用という可能性もゼロではない。
「上皇陛下は女系を容認している」という噂や「旧宮家は復帰する覚悟を持っている
」という話もあるがいずれも公的な発言ではなく風聞の域を出ない。上皇、今上、秋篠宮らは公的なインタビューで皇位継承問題の話題になると頑なにノーコメントを貫いており、本心はどうあれ皇族らの皇位継承への立場は白紙と考えて良い。また菊栄親睦会(旧宮家子孫の集まり)も同様に「皇室典範問題で一切意見を述べない」と意思決定し、マスコミ取材にも応じないとしている[1]。しかし後の2022年に旧宮家筆頭格の伏見宮家当主、伏見博明氏は自伝の中で、要請があれば皇室復帰する覚悟があると発言している。氏は皇籍離脱した時にすでに生まれていた生粋の皇族であるものの、氏の子孫に男系男子はいない。
- 『お世継ぎ問題読本』佐藤文明、P64
3節 男系継承固守派の意見
女系天皇反対の本質は女系天皇が即位すれば2680年以上続いてきた皇統が断絶してしまうことにある。
- 長い皇統の歴史の中でも女系天皇には一度として前例がない。過去126代の天皇はその全員が父親を辿っていけば始祖・神武天皇にいきつくが、女系天皇はその皇室の絶対のルールから外れることになる。伝統を遵守することが皇族の存在理由の一つであるのだから、前例がないというのは女系天皇否定の重大な論拠となる。
- 天皇家の根源は男系継承にあり、女系を許せば天皇家の権威が揺らぐ。女系継承によって皇室廃止論が国民の中にはびこるようになり、日本の根幹である皇室を危機に陥れる。
- 女系天皇が即位した場合、国民の中に女系天皇を認める人と認めない人に分かれ、社会の分断が発生する。男系の伝統を守ることで、わずかでも天皇の権威性に疑問を持たせる余地を無くすことができる。
- 日本の伝統的イエ観念からすると、女系継承になった時点でイエは旦那のものとなる。例えば愛子内親王殿下が田中さん(仮名)と結婚し、その子が天皇になった場合は易姓革命となり天皇家は断絶し、新たに田中王朝が始まってしまう。それは2680年以上続いてきた世界最古の王朝の断絶を意味する。
- 女系継承と許すと外戚の簒奪を容易にしてしまう恐れがある。藤原氏や徳川氏など時々の権力者が息子を女性皇族と結婚させ、その女系の子を天皇とすることで皇室を乗っ取ることを防いでいたのは男系の原則があったからである。
- 皇婿が外国人だった場合、皇統に外国の血が混じることとなる。仮に愛子さまが中国人と結婚した場合、中国系の天皇が誕生し、アフリカ人と結婚した場合、アフリカ系の王朝になる。そうなれば王朝は外国系となり、日本が乗っ取られてしまう。
- 女性皇族が品位に欠ける旦那と結婚した場合、天皇の父親が皇族にふさわしくない者になりかねない。
- 男系継承にしないと神武天皇のY染色体が残らない。Y染色体は父系のみを通じて受け継がれるものであり、女系継承では神武天皇のY染色体が損なわれる。無論、古代人がY染色体を知っていたはずもないが、知識として知らずともY染色体を残そうとしてきた先祖たちの知恵と奇跡を大切にすべきである。
- 過去の日本人が大切にした皇室の伝統をたまたま同時代に生まれただけの我々が人気投票じみた議論で破壊して良いわけがない。
- 古代日本から存在した氏姓制では日本の氏族は男系共通祖先を持つ血縁集団であった。その観念からすれば女系継承は氏姓の断絶を意味する。
- 男系、女系を無視して天皇の子孫全てに皇位継承権を認めるのならば、国民の高い割合が皇位継承者になってしまい、天皇・皇族と民間人の血統上の差異がなくなってしまう[1]。
- 女帝・女系の禁止は男尊女卑ではなく、むしろ外部から皇室に男が入ってくることを防いでいるものであり、むしろ女尊男卑の思想である。
- 日本には外国でいう皇配(プリンス・コンソート)族とでもいうような特種の家柄が存在せず、現実に女性天皇に婿を迎えること非常な困難を伴う[2]。
- 竹田恒泰は「男系継承は特定の理論に基づいて成立したのではなく、理屈でそれを説明することはできない。しかし古来より男系で皇位継承されてきたという厳然たる事実を重く捉えなければいけない。なぜ男系継承でなくてはいけないかは、もはや理由などどうでも良い」と主張している[3]。
- 2005年の有識者会議で女性・女系天皇が容認された時、報告書に対して文学研究者の小堀桂一郎ら皇室典範問題研究会はこれを厳しく批判している[4]。当時の有識者会議は恣意的な人選が行われており、皇室の歴史に全く不見識なメンバーが混じっていたため信用が置けない[5]。また00年代に女性・女系天皇反対運動を指導したのは全国の神社の過半数をまとめる神社本庁であった。神道の専門家は女系天皇を強く否定しているのである[6]。
- 『「女系天皇論」の大罪』小堀桂一郎、櫻井よしこ、八木秀次、P83
- 『皇室法概論』園部逸夫、P338
- ブログ『天皇弥栄』
竹田恒泰 - 『皇室典範改定問題に関する提言
』小堀桂一郎 - 『女系天皇論」の大罪』小堀桂一郎、櫻井よしこ、八木秀次
- 『お世継ぎ問題読本』佐藤文明、P53
アマテラスと皇位継承は無関係
皇統譜
「皇祖神が女神のアマテラスなのだから女系継承でも問題がない」という主張があるが、この主張には様々な問題点が存在する。
⑴男系、女系の概念が発生するのは父母がいる時だけであり、アマテラスは夫を持たずして子を産んだのだから男系・女系の括りに当てはまらない。
⑵男系継承が固守されるようになったのはアマテラスの孫のニニギが地上に降り立って以降の話である。竹田恒泰は皇位継承は「皇位」なのだから初代天皇の神武天皇以後のみを指すとしている。
⑶アマテラスは本来は男神であった。古代から江戸時代にかけて男神として祀られるアマテラス伝承が数多く存在し、荻生徂徠や山片蟠桃といった近世思想家も男神説を支持している。アマテラス男神説は現代史学でも定説となっており、元々の太陽神は男神であったがそれに仕える巫女(ヒルメ)のイメージが投影されて女神となった、あるいは記紀編纂時期に女帝・持統天皇が愛息の草壁皇子の血統を正当化するために自らを皇祖になぞらえ、太陽神を女神化したと考えられる。(参照『15章 天照大神の考証』「3節 男神アマテラス」)
⑷アマテラスは誓約(ウケヒ)でスサノオとの間に子を作ったため、神武天皇の先祖であるアメノオシホミミの父親はスサノヲである。スサノヲとアマテラスは兄弟であるため、男系継承は守られている。これは学術的にも定説となっており、ウケヒはアマテラスとスサノヲの性交の暗喩ということは間違いない。(参照『15章 天照大神の考証』「4節 ウケヒ」)
皇位継承は常に男系男子が優先される
歴史を紐解くと、天皇家は嫡流に女子がいたとしても常に傍系の男子を優先させてきた。例えば武烈天皇には数多くの姉妹がいたが、武烈が子亡くして死んだ後に彼女たちの誰も女性天皇とならず、非常に遠戚で地方王族であった継体をわざわざ擁立している。女系が容認されているのであれば、武烈の姉妹が婿をとって皇位継承すれば良いのだがそうはなっていない。このことから古墳時代には既に大王(天皇)は男系男子が即位するものであるという鉄則が存在したことが分かる。
仁賢┬高橋大娘皇女
├朝嬬皇女
├───────手白香女
├樟水皇女 |──欽明
├橘皇女 継体
├武烈
├真稚皇女
└春日山田皇女
同様の例は他にも多数あり、清寧天皇が死んだ時に妹に春日大娘皇女がいたが遠戚で孫王にすぎない顕宗天皇が即位しているし、奈良時代の称徳天皇死後、彼女の姉妹で聖武天皇の娘の井上内親王を差し置いて孫王の白壁王が光仁天皇として登極している。
16仁徳┬17履中─市辺王┬23顕宗
| └24仁賢
| |───25武烈
└19允恭─21雄略┬春日大娘皇女
└22清寧
┬40天武─草壁皇子─42文武─45聖武┬48称徳
| └井上内親王
| |
└38天智─施基王───────────49光仁(白壁王)
過去の女帝に皇配はなく、いずれも男系男子をつなぐ中継ぎだった
古代大王家は女系天皇はもちろん女系皇族も作らないために、女性皇族に厳しい婚姻制限を課しており、記紀には女性皇族と臣下の婚姻は一件も記されていない。特に女性天皇が独り身であることは皇室の不易の家憲であり、それが男性皇族であっても過去の女性天皇に「皇配」がいたことは一度もない。推古や皇極のように皇女時代に夫がいた天皇は存在するが、彼女たちが即位したのは夫が死んで寡婦となってからのことである。江戸時代に6歳で即位した明正天皇は、譲位して天皇を辞めた時まだ20歳であり結婚も出産も可能であったが、彼女は74歳で崩御するまで半世紀にわたって独り身を貫いた。それほど女性天皇の「独り身」の法が重たかったと言える。もし愛子内親王が女性天皇となった場合、その皇室のルールに従って結婚は許されなくなる。これは非人道的であり、望ましいことではない。
そうした婚姻制限の上で即位した女性天皇も、以下の図に見るように8人10代が全て男系男子天皇と男系男子天皇を繋ぐだけの中継ぎ天皇であった。
| 崇峻→(推古)→舒明 |
| 舒明→(皇極)→孝徳 |
| 孝徳→(斉明)→天智 |
| 天武→(持統)→文武 |
| 文武→(元明)→聖武 |
| 文武→(元正)→聖武 |
| 聖武→(孝謙)→淳仁 |
| 淳仁→(称徳)→光仁 |
| 後水尾→(明正)→後光明 |
| 桃園→(後桜町)→後桃園 |
三笠宮寛仁親王の女系反対論
2006年、上皇陛下(明仁)の従兄弟である三笠宮寛仁殿下は櫻井よしことの対談で以下のような発言をしている。
二千六百六十五年の間、神話の時代から延々と男系、父方の血統で続いてきたという稀有な伝統であり、この血の重みには誰も逆らえなかったということだと思います。血統に対する暗黙の了解、尊崇の念を国民が持っていてくださるから、私のように仕事はするけれど毒舌の乱暴者であるとか、弟のような車椅子の重度障碍者であっても、みなさんがきちんと扱ってくださるわけです。
(「日本という国の安定装置、振り子の原点」という発言を受けて)私に言わせると振り子の原点、アメリカ人は担保と考えるくらい、日本の歴史に根ざしているこの天皇制度というものが崩れたら、日本は四分五裂してしまうかもしれません。そう考えると、この女系天皇容認という方向は、日本という国の終わりの始まりではないかと、私は深く心配するのです。
殿下によれば、女系天皇が即位したら日本という国はバラバラになるという。当事者の一人である三笠宮殿下の発言は重く受け止めなければいけない。
4節 女系天皇容認派の意見
以下、女系天皇および女系継承を前提にした女性天皇の賛成意見を記す。
- 「女系天皇は皇統の断絶」というのは明治時代に生まれた新規法であり、先人達が将来に渡って永劫遵守すべきとした伝統ではない。明治以前に「万世一系とは男系継承のことであり、女系継承は皇統の断絶」とする史的根拠も神道的根拠も存在しない。確かに系譜上では天皇家は古くから男系継承を続けているが、それは軍事的要因(古墳時代は皇族間の殺し合い、地方豪族との紛争、朝鮮との対外戦争が頻発しており、戦場に出られない女性が即位して、王家に所属していない婿を外部から取ることは難しかった)と中国王朝の模倣(道教由来の「天皇」号をはじめ、古代天皇制度はほぼ全てが当時の先進国であった中国の模倣である。男系的な系譜もその一つ)から生まれたものが、以後男性中心社会の中で惰性的に保存されていたに過ぎず、要するに祭祀者としての皇統の本質とは何ら関係がないものである。
- 記紀で皇祖アマテラスがニニギに授けた天壌無窮の御神勅は「日本は我が子孫が治めよ」であり男や女を区別していない。歴史学者の田中卓が「皇統譜で血統を旨とする『世系第一』として天照大神が記され、神武天皇は『皇統第一』ではあるが『世系第六』とある。もともと日本国体の誇りはいわゆる一夫多妻による男系の継続などではなく、統治の君主の祖先が遥かに神につながり、その神が、単に観念状の昔の物語ではなく、今に生きる君民一体の信仰の対象として仰がれてゐる点にある」と述べているように[1]、天皇の尊さは根源は男系継承ではなく天ツ神の子孫という事にある。以下に示す文武天皇即位の宣命でも皇統の正統性はやはり「アマテラスの子孫」にあって、「男系」云々とは史書のどこにも書かれていない。
「高天原にはじまり、遠い先祖の天皇の御歴代から中頃・近年に至るまで、天皇の皇子がお生まれになるままに、相次いで大八嶋国(日本)をお治めになる順序ということで、天つ神の御子(アマテラスなどの子孫)として、天においでになる神のお授けになるとおりに、執り行っていたこの天つ日嗣・高御座の業(天皇としての務めと使命)である」『続日本紀』
- 日本は伝統的に双系継承制社会である。上古の倭国では男女が同じ重みを持った双系継承制であったが、5世紀から文明国を目指して当時の先進国である中国王朝から男系血統原理を導入した。大化改新の折に「良男・良女間の子を父親の氏族に属させる」と制定され、以後8世紀にかけて緩やかに上流階級の間で男系継承が定着していく[2]。しかし中世以降は男系優先の原則の上で、婿養子という形式で男系の名目を守りつつ女系を容認する双系継承に回帰している。「女系継承は断絶」と見なすのは中国社会の思想(宗法)であり、日本の伝統にはそぐわない。徳川の将軍すら女系継承者が就任できるのが日本社会である。男系男子の「伝統」が記された旧皇室典範の作成会議参加者で先祖代々男系継承している者はむしろ少数派であり、男系派筆頭の井上毅ですら子供が娘しかいなかったため家督を女系継承させている。「民間人と皇室は全く別」という反論もあるかもしれないが、日本民族の伝統的継承法・家族観に反して、その象徴である皇室のみが漢民族の法に縛られる理由がない。
- 戦後民主主義の中で上皇(平成の天皇)が目指したのは国民の上に立つ天皇でなく、国民に寄り添った天皇である。男性が皇室に入ることを禁じ、女性の登極・女系継承を禁じる現在の男女不均衡な継承方式が国民に寄り添ったものとは思われない。
- 女系天皇容認によって皇室断絶のリスクが軽減・分散されると同時に、皇族女子に押し付けられている男子出産の義務をなくすことができる。現段階では悠仁親王の将来の配偶者に皇室の命運が丸投げされている状態であり、悠仁親王の配偶者へ「男児出産」のプレッシャーを与えないためにも早期に女系天皇を認めることは人道的処置と言える。かつて雅子妃と紀子妃は「男子を産まなければいけない」という圧力に苦しみ、特に雅子妃は心身共に負担の大きい不妊治療を強制された上、一度の流産を経た後に愛子内親王を出産した際、明仁天皇(当時)から「次は男の子をお願いします」と言われたことが宮内庁の定例会見で明らかになっている[3]。その後、雅子妃は「女しか産めなかった」ことで精神を病み、適応障害に陥っている。昭和の香淳皇后も4連続で女児を産み「女腹」と陰口と叩かれていた。仮に今後、宮家が増えたとしても女系を認めない限り男子出産圧力はいつまでも残り続ける。「女児が生まれてガッカリ」というグロテスクな光景は避けるべきことである。
- 明治時代に天皇を男子に限ったのは側室ありきのことであった。歴代天皇も半数近くが側室の子である。その後「人倫に悖る」ということで側室制度が廃れた(戦後は法的にも禁止)ので女性・女系天皇を認めなければ皇族は減っていく一方なのは自然な現象である。よって皇室を存続させるためにも女性・女系天皇容認は必要不可欠といえる。「側室ありきだったのは乳児死亡率が高い時代の話であり、医療が発達した現代では宮家も含めれば側室がなくても男子継承は断絶しない」という反論もあるが、実際問題、戦後の皇室には3宮家があったにもかかわらず悠仁天皇の代で全て断絶してしまっている。
- 「これまで全て男系継承だった」ことは「これからも必ず男系継承でなければならない」ことを意味しない。後醍醐天皇が「今の例は昔の新義なり」と述べたように、「伝統」と言われるものも最初は全て前例のないものであった。天皇家が古代から現代まで存続できたのは伝統を守りながらも時代に合わせて柔軟に変異してきたからである。たとえば天皇はその長い歴史の中で皇族か摂関家のような上級貴族のみを皇后としてきた。上皇が旧華族でもない生粋の平民の正田美智子を皇后としたことはその伝統に背く行為であり、当時は香淳皇后を筆頭として保守派、皇族、旧華族から大きな反対運動があった。「民間人を皇后にしたら伝統が壊れ、歴史ある万世一系が乱される」とまさに女系天皇と同じことが考えられていたのである。しかし結果として美智子妃は国民から広く受け入れられ、新しい皇后像を形成することに成功した(参照『17章 近代天皇制と伝統』「5節 初の平民皇后」)。今回の場合も、時代の要請に応じて女系継承を行うのは理にかなっている。
- 何が「伝統」で何が「伝統」でないかは常にその時々の政治によって決定されるものである。たとえば女性皇族は、臣下と結婚しても皇族であり続けるのが古来からの皇室の伝統であった。そのため明治の旧皇室典範で婚姻した女性皇族は強制的に臣籍降下することになった際には公家から先例と異なると批判されていた。他にも、血統が離れても皇族であり続ける永世皇族制度もまた明治に生まれた伝統破壊法である。しかし現代の「伝統を大切にする人々」は「女性皇族の臣籍降下は伝統に反する」「先例にない永世皇族制度を廃止せよ」とは言わない。また戦前の軍人勅諭では「天皇が軍隊を率いることは子々孫々まで守るべき伝統である」と定められているが、現在の保守派の中に「伝統を守るために」軍人天皇の復活を望む動きは無い。上述した平民皇后もその例の一つであるが、このように「伝統」とは政治状況で簡単に変わるものであり、女系天皇が誕生した時はそれが新しい「建国以来の皇室の伝統」になるだけである。
- 6節で示すように世論調査では女系天皇は国民から広く受け入れられている。憲法に「天皇の地位は主権のある国民の総意に基づく」と明記されている以上国民の賛意は重く受け止められるべきである。女系天皇と女性天皇の違いも分からない人が多く参加しているとの指摘もあるが、皇室に詳しい人しか口出ししてはならないというのは民主主義的ではない。一方で専門家の意見はどうかというと、先述した皇室典範に関する有識者会議において20回に亘る会議の末に女性・女系天皇容認の結論が出ている。同会議には憲法学者の佐藤幸治や日本古代史を専門とする笹山晴生や緒方貞子など各界の重鎮が参加しておりその信頼度は高い。ちなみに同会議では長子優先主義(愛子内親王に弟が生まれても愛子が皇太子になる)を採択している。
- 男子にのみ継承権を認めるのは家父長的思想であり、男女平等を基本とする民主主義国家にはそぐわない。「男女平等という現代的価値観で伝統を破壊してはいけない」という意見も見られるが、天皇家には及ばずとも長い男子継承の歴史を誇る海外諸王室も(男子優先、長子優先などの差はあれど)続々と女子の継承権を認めているデンマークは1953年、タイは1974年、スウェーデンは1979年、ノルウェーは1990年、ベルギーは1991年に女子継承権を認めている[4]。天皇家の歴史の長さが海外から賞賛を受けることはあるが「男系継承だから凄い」と言われることはなく、むしろ女子に継承権を認めないことで後進的なネガティヴなイメージを世界に与えている。実例として2016年に国連は女子差別撤廃委員回の日本に関する最終見解に関し、男系男子による皇位継承を定めた皇室典範の見直しを求めていた(この草案は菅義偉官房長官(当時)が強く抗議したことにより、最終的に削除・修正された)
。また2021/11/20日のインド新聞サンデー・ガーディアンは「日本の皇室は変化を受け入れなければならない」と題した論説を掲載し、女性皇族も皇位継承権を持てるようにすべきだと報じている
。
- 明治初期に旧皇室典範の草案では、女性・女性天皇は容認されていた。元老院の『国憲按
』でも国学者である横山由清の『継嗣考』でも女帝・女統は認められていた。天皇の権威を高めることに熱心な政府高官、専門家たちは必ずしも全員が女系天皇を問題視しているわけではなかった。
- 戦後の新皇室典範作成の折、女系天皇だけでなく男系女子の女性天皇も皇位継承から外す論拠として「歴史上の女帝はいずれも後継者が幼年であったのでその成長を待つ間の一時就任でしかなかった。このように考えると女性天皇の即位はむしろ皇位の不安定を意味するものといえる[5]」と言われたが、これは歴史的事実に反している。推古天皇や斉明天皇は皇太子の聖徳太子や中大兄皇子が成長しても終身天皇でありつづけ、一時就任の存在ではなかった。「女性天皇の即位が皇位を不安定化させる」の箇所も史実に反しており、幼年の皇太子の成長を待つために中継ぎ即位した持統、元明、元正天皇らはむしろ皇位を安定化させるための存在である。
以下、上述の女系天皇反対意見の数字に対応する反論。
1.「女系天皇には前例がない」
現代史学には15代応神天皇は12代景行の曽孫である中日売に婿入りしたという説(応神王朝説)や26代継体天皇の時代に女系継承が行われたという説(継体王朝説)が存在する。これらの女系継承は飛鳥時代に中国の家父長的思想が輸入された際に、女系継承を野蛮と考える中国(参照『19章 海外諸国との比較』「4節 中国の男系継承の理論」)に倣って歴史から抹殺されてしまったと考えられる[6]。当時の日本が双系継承社会であったことは種々の遺跡や史料から確認でき、豪族連合の長に過ぎなかった当時の天皇家だけが男系継承にこだわる理由がない。また幕末まで守られていた養老律令の継嗣令には「女帝ノ子亦同シ」という女系継承を認める文章があり、男系継承はけして絶対的な祖法ではなかった(参照『13章 女性皇族の婚姻』「1節 女帝子亦同の解釈」)。
2.「男系継承こそ皇統の本質である」
天皇家の権威の源泉は神武天皇ではなく女神アマテラスである。「日継(太陽神の子孫)」であるからこそ天皇家は天皇家たりえるのであって、現在の皇統譜に名前すら記載されていないスサノヲやイザナギを(神武の高祖父の)アメノオシホミミの先祖と言うのは皇室の本質を取り違えた主張と言える。男系イデオロギーに基づいて父親をたどっていっても「皇祖」アマテラスにたどり着くことはない。
アマテラス男神説に関しても『日本書紀』ではアマテラスは「姉」と呼ばれ明確に女神であり、『古事記』でもアマテラスはスサノヲに対して「那勢命」と言う、女性が男兄弟を呼ぶ時の呼称を使っておりやはり女神である。儒教思想に基づいた後世史料を引用してアマテラスは男神と言うのは記紀神話の否定である。また「アマテラスは元々は男神だった」という主張も、「元々は」を言い出すならば太陽は元々は男も女もない恒星である。それをあえて女神にした皇室の伝統を尊重すべきである。
3.「女系天皇が即位するとそれを認める人と認めない人の間で分断が起きる」
現在でも天皇制廃止論を唱える国民は数百万人に昇るが目立った社会の分断は起きていない。また世論調査では女系天皇の賛成率は、対抗案の旧宮家子孫の皇籍復帰より格段に高い。女系天皇即位による国民分断を憂慮するならば、民間出身で天皇から血の離れた旧宮家子孫が即位して国民を分断してしまう可能性を考慮しないのは不適当である。
4.「日本のイエ観念ではイエは夫のものであり、女系子孫は夫の姓を受け継ぐことになる。これは易姓革命えある」
日本には中国のような強い男系親族形態は存在せず、女系でイエを相続する伝統が古代から現代にかけて存在していた。中世は婿養子という形での女系継承が日本社会で広く行われており、日本のイエは男系継承は絶対視されていなかった。また易姓革命とは政権を譲り渡す禅譲か、前政権を武力で倒す放伐によって為されるが、婿入りによる女系継承はそのどちらにも当てはまらない。そのため「女系を許すと天皇家は断絶する」論理的根拠は無い。加えて、皇室には姓がないため入婿した時点で皇婿の姓は失われるので易姓革命が起きる余地はない。
5.「女系継承を許すと外戚の簒奪を容易にする」
藤原氏や徳川氏などの権力者が皇位簒奪を企図したことを示す史料はなく「女系継承禁止が簒奪を防いだ」という論は根拠が乏しい。むしろ皇位を狙ったと言われる平群真鳥(孝元天皇男系子孫)や蘇我氏(孝元天皇男系子孫)や足利義満(清和天皇男系子孫)や、新皇を僭称した平将門(桓武天皇男系子孫)は皆天皇の男系子孫であることから、臣籍降下した皇統の末裔による簒奪の危険性の方が高かった。最も皇室の危機であった弓削道鏡騒動は天皇による譲位未遂であり、継承の男系・女系は無関係である。また男系継承下でも藤原摂関家のように娘を男子天皇に嫁がせて天皇家を牛耳る者がでる可能性や、中国の武則天のように皇后自身が簒奪する可能性もあるので、女性天皇の皇婿による簒奪だけを危惧する理由もない。
6.「女性天皇の夫が外国人の場合、皇統に外国の血が混じる」
「古代天皇は大陸から渡ってきた集団ではないか?」の議論を横に置くとしても、外国の血が混じることに男女の区別はなく皇后を通じて混じることもあるうるので皇婿だけを不安視するのはおかしい。これには実例があり、平安京を建てたことで有名な桓武天皇の母親は百済武寧王の子孫とされ、桓武天皇本人も百済由来の祭祀を行っており、「百済王等は朕が外戚なり」と強い親族意識を持っていた。上皇はかつてお言葉
の中で桓武天皇の名を挙げて「韓国とのゆかりを感じる」と述べている。また応神天皇の母方の祖母も新羅王家の血筋である。
さらに「天皇家に外国人の血が混じって何の問題があるのか」という論点もある。現行憲法では象徴天皇は日本の象徴であってヤマト民族の象徴ではない。現在の日本には外国にルーツがありながら日本人としてのアイデンティティを持つ日本人が何百万人といる。彼らのような国民が多く住む日本において「外国の血が混じると日本の象徴に相応しくない」と公言してしまうのは差別的である。もし彼らが「自分には関係ない」と天皇にそっぽを向いてしまえば、その方がよほど皇室の危機である。
現実的には婿入りする皇婿に外国人が選ばれる可能性はゼロであろう。可能性が存在すること自体がダメだというのなら、外国人の旧宮家子孫が天皇になる可能性もある。実際に東伏見宮家男系子孫でブラジル国籍のAlfredo Tarama氏という人物は存在する。
7.「女性天皇の夫が品位に欠ける人物の可能性がある」
品位に欠ける者が結婚を通じて皇族になる可能性は性別に無関係に存在する。また皇室典範十条には「立后及び皇族男子の婚姻は、皇室会議の議を経ることを要する。」とあり結婚で皇籍から出ていく内親王と違って男性皇族の婚姻で皇籍に入ってくる者の選定には皇族や宮内庁、国民の非常に厳しい審査を経る。よって十条の改訂により男女問わず皇籍に民間人が入ってくる場合に皇族会議を経ることにすれば不適格者が皇室に入る可能性は限りなく薄い。
8.「女系継承では神武天皇のY染色体が遺伝されない」
過去の人々が染色体という概念を意識していたはずもなく、男系の結論ありきの「科学」を装った後付け論法である。日本人の天皇信仰とY染色体は全く無関係だ。仮に「神武天皇のY染色体」が大事だというのなら陵を調査して過去の天皇と今上や皇嗣子とY染色体が一致するかDNA鑑定が必須になってしまう。また染色体以外にも父母の形質を伝える遺伝的キャリアは多数存在するのに染色体に拘る理由もない。もし女系で遺伝が途絶えるなら、あなたとあなたの母方の祖父は生物的に赤の他人ということになってしまう。
さらに古代天皇家は征服した地方勢力を皇室系譜に組み込むことを繰り返していたため、大和朝廷を構成する豪族の大半は理論上「神武天皇のY染色体」を持っていた。例えば皇位簒奪を目論んだとされる弓削道鏡も系譜に従えば「神武天皇のY染色体」を持っており、その道鏡の野望を防いだ和気清麻呂も垂仁天皇の男系子孫であり「神武天皇のY染色体」を所持している。また近世国学や皇国史観では全ての日本国民は天皇家の傍系子孫であると考えられたため、理念上は日本人は全員「神武天皇のY染色体」を持っていることになる。(参照『12章 記紀の歴史叙述』「2節 擬制親族国家の形成 」)このことに鑑みても「神武天皇のY染色体」と皇位継承が無関係であることが分かる。
9.「たまたま今に生まれただけの現代人が過去の伝統を簡単に変えていいわけではない」
憲法第1章第1条で「天皇の地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」とある。よって天皇家の今後は国民の議論によって決定されるべきである。上皇も2009年に「皇位継承の制度にかかわることについては、国会の論議にゆだねるべきであると思います
」と述べている。理念上は「国民の総意」とは現在だけでなく過去と未来の日本国民も含むが、現実的に過去や未来の日本人の意見を聞く方法はなく、「伝統からすれば平民出身の天皇も、20世代以上も離れた遠縁の天皇も絶対に許されるものではない」と都合良く何とでも言えてしまう。
10.「古代日本から存在した氏姓制度は男系共通志尊を持つ血縁集団であった」
先述したように先史時代の日本は双系制社会である。また中国、朝鮮社会から輸入された男系血統遵守の氏姓制は中世には日本のイエ制度の発展によって絶対視されなくなった[7]。以来、日本人はイエを残すために婿養子(女系継承)を多々行なっている。武家の頂点である大名家でも婿養子は数多く見られ、男系血統原理が絶対的な氏姓制は日本の伝統的文化ではない。
11.「男系女系を無視した場合、国民の大半が皇位継承者になってしまう」
一般市民と皇族は法的に峻別されており、血統上の繋がりがあるからといって市民と皇族が同一視されることはありえない。
12.「女帝の禁止は男尊女卑ではなく、むしろ皇室に外部の男が入ってくることを防いでいるものであって、女尊男卑の思想である」
「ある性別は民間から皇族になることができるが、別の性別はできない」という状態は性差別的なことに変わりがない。また旧皇室典範作成時に女帝・女系排除の論拠に『女帝ヲ立ツルノ可否』という論争が援用されている。ここでは「我が国の実態として男の方が尊く、男は女の上に位している」などかなり露骨な「男尊女卑」(この言葉はそのまま使われている)が押し出されている。また新皇室典範作成時も同じく「わが国の現実においては夫の妻に対する影響が大なると普通とするため」仮に女性・女系天皇を容認するとしても男系男子の補充的なものにすべしと議論されている。(参照『2章 新旧皇室典範作成の経緯』「2節 『女帝ヲ立ツルノ可否』」「8節 新皇室典範」)女性・女系天皇の禁止は「男(夫)は女(妻)の上に立つもの」という男尊女卑(あるいは家父長制)の観念に基づいていることには疑いがない。
13.「日本には皇配(プリンス・コンソート)になれる家がなく、女性天皇に皇配を迎えることは非常な困難を伴う」
華族制度が廃止されて以後は皇后になるべき家がなくなり、配偶者を迎えることに非常な困難を伴うのは男性天皇も同じである。事実、史上初めて平民皇后として正田美智子を迎える際に宮内庁は強引な手を使って正田家に圧力をかけている。皇族や旧家族が平民皇后反対運動をくり広げる中で、その仕事を完遂しているのだから「女性天皇に配偶者を迎えることは難しいので最初からやらない」という理屈は通らない。
以上をまとめると、男系継承維持はデメリットが数多くある一方で続ける合理的な理由は少ない。日本には今も昔も「女系だと父親の血統になる」という親族観は存在しない。唯一「皇室には女系継承には前例がない」という意見にはある程度の説得力があるかもしれないが、次節で述べるように対抗案である旧宮家子孫復帰案も、血統が非常にかけ離れた、しかも貴族でもない平民を天皇にするという過去に一度も前例のないものである。先例主義に則るならば女系案も復帰案も許されないはずであり「女系は先例がないから厳禁だが、復帰案は伝統だから許される」と言うのは歴史を無視した主張である。
備考
- 2021年までワイドショーを賑わせた眞子内親王結婚騒動であるが、皇室会議を経ていないどころか配偶者である小室氏の選定にはほとんど身元調査が行われていない。皇室に入ってくる者と皇室から出て行く者への対応が大きく異なっていることがうかがえる。
- 美智子妃の選定に際しては華族、皇族、各種大学の推薦の中から候補者リストが作られ、小泉信三など宮内庁上層部が会議に会議を重ね、各種方面に綿密な調査を行なっている[8]。雅子妃の選定時には興信所を用いて200人に及ぶ候補者の普段の生活や人間関係を調査し、近親も4代遡って精査し、5年に亘る熟慮の末に決定されている。
- 『続・田中卓著作集 日本建国史と邪馬台国』P5
- 『皇位継承の中世史』佐伯智広、P21
- 『宮内庁長官』井上亮、P169
- 諸外国における王位継承制度の例(概要)
- 『「萬世一系」の研究 「皇室典範なるもの」への視座』奥平康弘、P112
- 『大嘗祭』工藤隆
- 「日本人の姓・苗字・名前」大藤修、P20
- 『小泉信三』小川原正道、P148
5節 女系天皇か旧宮家復帰か
(復帰派)皇室存続のためには旧宮家を皇籍復帰させるか旧宮家から養子を取れば良い話であり、女性・女系天皇を認めなければ断絶不可避というのは嘘である。旧宮家は菊栄親睦会などを通じて現在も皇室と交流があり、天皇にとって決して「他人のような存在」ではない。
(女系派)近年は開催頻度も減少した菊栄親睦会をはじめ、皇室と旧宮家の交流は国民にとって不透明な活動である。民間人として80年近くも過ごしていた人たちを連れてきて皇族にしても国民の支持は得られないという懸念があり、実際に世論調査の賛成の率は最初に案が出てから20年を経ても低い数値に止まっている。また皇籍離脱時に皇室にいた人ならともかく、その後に民間人として生まれた者は皇籍「復帰」ではなく皇籍の「新規取得」となる。
(女系派)明治以前に「女系継承は皇統断絶」とする史料は一つも存在しないが、臣籍降下してから世数が離れた者が皇位を狙う事は「叛逆」、「万世一系の終焉」とする史料は数多くある。孝元天皇の男系子孫である蘇我入鹿は「皇族を滅ぼして皇位を奪おうとした」罪で殺されている。神皇正統記では「(臣籍降下した)源氏は新しい臣下であり、高官にのぼることは天照大神の怒りに触れる」と断じている。近世の土肥経平も「平将門のように世数を隔てていないものでさえ簒奪者の謗りを受けるのに、清和天皇の子孫を称すとはいえ世代を隔てて本当に皇胤かも怪しい徳川氏が天皇に成り代わって世を治めることは神統への大変重い罪」と述べている。現在の皇位継承法を作った明治の井上毅でさえ、内親王と臣籍降下した男系男子を結婚させ皇統を繋ぐ案に対して「全ク源姓ニシテ源家ノ御人」としはっきりと「万世一系の断絶」と言っている。東久邇家の者が天皇になったら東久邇王朝の始まりであり、竹田家の子孫が天皇になったら竹田王朝の創始であることは歴史的根拠があり、「国民世論での旧宮家子孫の支持率の低さは皇族となれば国民の理解と共感が徐々に形成されていく(令和3年有識者会議)」はずという主張は皇室の伝統に反する希望的観測に過ぎない。
(復帰派)旧宮家が皇籍を離脱する時に加藤進宮内次官は「万が一にも皇位を継ぐべき時が来るかもしれないとのご自覚の下で身をお慎みになっていただきたい」と述べており、離脱した時から旧宮家の復帰は想定されていた。
(女系派)加藤は、鈴木貫太郎元首相から「皇統が絶えることになったらどうであろうか」と聞かれ「かつての皇族の中に社会的に尊敬される人がおり、それを国民が認めるならその人が皇位についてはどうでしょう」と答えている。つまり無条件の皇籍復帰を考えていたのでなく国民の認知が前提とされている。しかし旧宮家復帰の話がでてから既に20年経っているが具体的な候補者が公の場にでたことは一度もない。旧宮家の復帰を議論するならまず本人を国民の前に出すことが第一歩であり、それすら20年間できていないのは問題である。
(復帰派)臣籍降下した後に天皇になった宇多天皇や、非皇族として生まれたが登極に至った醍醐天皇のような例も過去に存在する。宇多、醍醐天皇の治世は寛平、延喜の治と呼ばれ後世の天皇統治の鑑とされるほどであり、元臣籍であることは天皇の権威を何ら損なわない。
(女系派)宇多天皇、醍醐天皇共に臣籍であったのはわずか2年であったが、それでも陽成上皇は「今の天皇は私の家来ではないか」と嫌悪感を示し、嵯峨源氏も同様に不満を表している[1]。その経緯というのも宇多の父親の光孝天皇は正統の陽成上皇に男子がいたので、即位する予定のない自分たちの子供を臣籍降下させた。しかし関白藤原基経が理を曲げて自分に都合の良い宇多を登極させた。嫡流に男子がいるのに傍系に正統が移るのは稀有の事態である。つまり宇多は権力者の恣意によって捻じ曲げられた即位であり、実際にその後宇多は阿衡の紛議を経て基経に実権を奪われてしまう。このような悪例を先例とするべきではない(醍醐は宇多の息子なので同件)。
(復帰派)古墳時代の顕宗、仁賢天皇兄弟は即位前は丹波小子と名乗り、人に仕えて牛馬の世話をしていた。これも臣籍降下してから皇籍復帰して天皇になった例に数えることができる[2]。
(女系派)古墳時代には皇族(皇親)という概念はない上に、顕宗・仁賢兄弟は雄略天皇に殺されそうになったから身を隠していたにすぎず、それを「臣籍降下していた」と読むのは恣意的な解釈である。藤原基経は宇多即位の前に「一度賜姓されてから天皇になった前例はない」とし、顕宗・仁賢を臣籍降下してから即位した前例と見なしていない。
(復帰派)臣籍身分から天皇になったのは2人だが臣籍から皇籍復帰した例はもっと数が多い。10世紀の源兼明なぞは臣籍降下して50年以上経ってから皇籍に復帰している。また鎌倉時代の源忠房は臣下の父から生まれ臣下として20数年を過ごした後に皇族になっている。(参照『4章 十一宮家皇籍離脱の経緯』「4節 古代の臣籍降下と宇多天皇の即位」「皇籍復帰の諸例」)
(女系派)源兼明の皇籍復帰もまた藤原氏の政略であり、忠房と共に皇籍は一代限りであった。また左大臣であった兼明をはじめ皇籍復帰した先例達はいずれも最上級貴族であるのに対して現在の旧宮家子孫は平民である。平民から婚姻を経ずに皇族になった者、ましてや天皇になった者は天皇家の歴史上存在しない。先例がないという点では女系天皇と旧宮家子孫の登極は同等である。
(復帰派)かつて男系男子が途絶えた時、皇室に女子がいたにもかかわらず、傍系で臣籍身分であった継体天皇が即位している。今回の場合も同じようにすべきである。
(女系派)旧宮家こと伏見宮家は約600年前の崇光天皇を起源とする血統である。継体は5世遡っての即位となったが、旧宮家からの即位となれば20世以上遡ることになる。継体とすら比較にならないほどに旧宮家と天皇家の男系の血の繋がりは薄い。女系天皇には前例がないというが、ここまで遡っての即位は日本史どころか人類史にも例を見ない。継体は即位から大和(磐余玉穂宮)に入るまでに20年を費やしているが、当時継体の即位に対する強い反発があったと見られている[3]。ましてや継体よりはるかに皇室から縁遠い旧宮家を正統な天皇家の血統と見なすことへの違和感は計り知れない。
また継体天皇の皇統を継いだ欽明天皇の母は仁賢天皇の娘であり、継体は入婿による即位であった。日本書紀でも継体が入婿であることは強調されている。皇室の歴史において、継体のように親等が離れた傍系男子(ex,仁賢天皇、光仁天皇、光格天皇)が即位する場合、嫡流の女子を立后して入婿するのが原則となっている。だが先述したように旧皇室典範作成時に「皇統の男系男子であろうと一度臣籍に降下して姓を持つ者が皇女を娶って即位することは万世一系の断絶である」と既に結論づけられており、旧宮家子孫と愛子内親王の婚姻は不可能である(参照『2章 新旧皇室典範作成の経緯』「1節 旧皇室典範」)。
(復帰派)600年などと大昔に戻る必要はなく、旧宮家に皇位継承権があった80年前に遡れば良いだけの話である。また600年離れているからダメだというのもおかしく、現在の天皇は神武天皇から2000年以上も離れているがしっかり継承権は持っている[4]。(復帰派)旧皇族には明治天皇の内親王が嫁いでいる竹田宮、北白川宮、朝香宮。昭和天皇の内親王が嫁いでいる東久邇宮家があり、血統的に天皇家に近い。最も近親の東久邇宮家の現当主にいたっては秋篠宮の従兄弟であり、その子は悠仁親王の又従兄弟に当たる。
朝香宮鳩彦
|─孚彦─誠彦─明彦……男子
┌允子
明治天皇┼大正天皇─昭和天皇┬上皇明仁┬今上徳仁─愛子
| └成子 └秋篠宮文仁─悠仁
| |────┬信彦─……男子
| 東久邇宮盛厚 ├秀彦─……男子
| └眞彦─……男子
└昌子
|
竹田宮常久─恒徳─恆正……男子
(女系派)いずれも女系の血であり、女系の血を持ち出してくるのなら今上天皇の孫(愛子内親王の子)や悠仁天皇の孫(娘の子)など直近の女系天皇を優先すべきである。確かにこれは上述した直系女子と傍系男子の血統による継承になるが、東久邇宮家子孫が最短(悠仁天皇の次に)で即位したとしても5世孫か6世孫になり、やはり縁遠いと言わざるを得ない。歴史上、5世孫以上で即位した天皇は継体しか存在しないのだから。また令和三年の有識者会議では、皇籍復帰した人物に皇位継承権はなくその子から継承権が生まれることになったので、世数はさらに離れる。
(復帰派)旧宮家は戦後にGHQが半強制的に廃止した家であり、主権を取り戻した今は遠慮なく皇籍復帰して、天皇家の男系継承を護るという本来の役目を果たすべきである(参照『4章 十一宮家皇籍離脱の経緯』「2節 GHQと皇籍離脱」)。
(女系派)帝国政府は増えすぎた皇族を減らし嫡流継承を確実にするために大正九年(1920年)に「皇族の降下に関する施行準則」を内規として裁定し「長子孫の系統4世以内」を除く全ての王は華族に降下させることとなった。これにより旧宮家11家は伏見宮邦家親王を基点としては5世子孫から皇族から離脱する予定となっていた。つまりGHQがいなくてもまもなく旧宮家は皇室を離脱していたのである。
(復帰派)準則はあくまで協議の末に臣籍降下されるものであり、強制的に皇籍離脱する訳ではない。皇族に男子が少なくなっている状態で宮家の男子が準則により臣籍になる可能性は低く、GHQが離脱させていなかったらやはり旧宮家は皇族のままだった。
(女系派)現在、皇族には少なくない税金が投入されている。2009年のデータでは皇族費だけで秋篠宮家(5人)5490万円、常陸宮家と三笠宮家(それぞれ2人)4575万円、寛仁親王家(4人)5856万円など[5]。その他、警備費や結婚一時金(2021年の眞子内親王の皇籍離脱の際には1.4億と言われた)等も含めると膨大な金額になる。女系継承を認めることで皇族の数を減らし皇室費を抑えることが可能になる。2009年には秋篠宮も「国費負担という点から見ますと,皇族の数が少ないというのは,私は決して悪いことではないというふうに思います
」とも発言している。金銭の問題ではないとの反論があるかもしれないが、皇族が減るということは確率的に皇室を貶めるスキャンダルの数も減らす意味もある。例えば、東久邇宮稔彦王は大正時代に渡仏留学した際に皇太子(昭和天皇)の帰国命令にも従わず現地で女性との醜聞を引き起こしている[6]。久邇宮邦彦王は宮中某重大事件に際してヤクザ者とトラブルを引き起こしているし[7]、北白川宮や朝香宮も「然るべきではない女性」との関係でを皇室を悩ませている[8]いずれにせよ皇族の数は少ない方が良いのである。
(復帰派)女性宮家を許すと皇室から出ていく人がいなくなり、むしろ皇族の数が増えてしまう。皇族の数が少ない方が良いのなら女性宮家を認めるべきではない。
(女系派)女性宮家を認めても皇族増加の問題は永世皇族制を廃止し、皇族に含まれる世数を制限すれば解決が可能である。一方で男系にこだわった場合、男子を出産するため夫妻は多くなければならず、かつ皇位継承に関して女子が丸々余分になってしまうので皇族の数は必然的に増えてしまう。
(女系派)旧皇族は現在民間人であり、憲法の例外と認められている皇族と異なり、厳密に憲法14条の平等原則が適用される。ある民間人を「門地」を根拠にして特別な地位に国が置こうとするのは憲法に抵触する疑惑がある[9]。
(復帰派)内閣法制局の木村陽一部長は「一般論として皇族という14条の例外として認められた特殊の地位を取得するもので、14条の問題は生じない」と述べている。皇族が法の下の平等の飛地であることは共通認識であり、旧宮家子孫は現在でも皇室祭祀に参加し皇居に出入り出来る存在である。現皇族とも親交が深く決してただの平民ではない。言ってみれば準皇族であり、法の下の平等の例外の範囲内である。
(女系派)現在の日本は立憲君主制をとっている。立憲君主制とは憲法が君主の活動を制限する政治システムであり、今上天皇直々に旧宮家子孫を特別扱いしようが、天皇の意向によって憲法の規定を無視することはできない。憲法九十九条にも「天皇(中略)は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」とある。
(女系派)皇族は国中から監視され、経済・政治活動に制約が設けられ、一部人権まで制限される過酷な身分である。既に断絶も多々あり、ただでさえ多くはない旧宮家男子に将来のキャリアを捨てて皇族に戻りたがる若者が複数人(安定した男系継承のためには3、4人は男子が必要)いるのか疑問である。彼らは民間人であり職業選択の自由を持っている。また、今後悠仁夫妻が男子を複数授かるなど直系男系子孫が増えれば彼らの存在意義はほぼ無くなる。その時にはまた彼らの子孫を臣籍降下させるというのはあまりに節操がない。旧宮家から養子をとるにしても国の都合で他人の子どもを奪うような真似は倫理的に避けるべきことである。旧宮家は宮家と違って皇室を存続させるための道具ではないのだから。
(復帰派)上皇の従兄弟である故・寛仁親王は男系の伝統を堅持する意向であり「(旧宮家復帰は)我々には全く違和感などありません」「(女性天皇と女系天皇の違いなど)情報が全くゼロの中でマルかバツかをやられたら堪りません」
と述べている。
(女系派)上皇や今上が皇位継承問題に関して頑なに口を閉ざし、決定を国民の意思(国会)に委ねているのに、現皇族がそのようなセンシティブな発言をすること自体が問題である。
旧宮家についての補足
- 旧宮家子孫が皇位継承するために①旧宮家子孫が直接皇籍に戻る、②旧宮家子孫の新生男児を養子として皇族に迎え入れるの2パターンが存在する。①案は減少している皇族の数自体を増やせる一方で現在の旧宮家子孫は民間に染まり過ぎているという懸念もあるため、②案で民間にいた期間がない男児を皇籍に入れるべきだという理屈もある。
- 「旧宮家は1654年に素性の怪しい長九郎という男子が継承しており旧宮家の血統そのものに疑義が残る」という意見があるが、皇族男子に伏見宮を継承させるという選択肢があったにもかかわらず、宮家を厳しく監督し血統の正当性には厳格な天皇家や徳川家まで長九郎こと伏見宮貞致の継承を認めていることから疑いの余地はないと言える。
- 証明できるかは別だが天皇の男系子孫自体は非常に数が多い。比較例として皇紀100年代(紀元前6世紀)を生きていた孔子の男系子孫は現在200万人を超えている(男系女子含む)。例えば現徳川家当主で作家の徳川家広氏も系譜上は清和天皇の男系子孫になる。真田幸村(信繁)や黒田官兵衛、丹羽長秀など有名な戦国武将も皆天皇の男系子孫である。確実に天皇の男系子孫と証明できるのが後陽成天皇や東山天皇から分かれた近衛家、一条家、鷹司家の末裔である。これを皇別摂家と呼ぶ。例えば日本を太平洋戦争に導いた近衛文麿もこれに当たる。近世に分かれたぶん、旧宮家より皇別摂家の方が男系の血は近いため、河野太郎が皇位継承の選択肢の一つとしてブログで言及したことがある[11]。これに対し竹田恒泰は単に男系男子であるだけでは皇位継承権はなく、皇統に連なる血統、すなわち皇統譜に記された者でなければ継承権はないとしている。
- 『昭和天皇実録』によれば現皇族と旧皇族の交流の場である菊栄親睦会は当初は月一度の例会と、春秋に大会が開かれていた。近年は開催頻度も少なくなり、伏見博明氏の自伝では2020年に5年ぶりに開催が予定されていたと書かれている。全ての旧宮家子孫が参加できる訳ではなく、臣籍降下した旧皇族本人と、祭祀を受け継いだ当主、受け継ぐ予定の嫡男、そしてそれぞれの配偶者のみが会員とされる。旧十一宮家のうち将来的に存続できるのは五家のため、菊栄親睦会に参加できる若い男系男子は最大5人ということになる。
- 『皇位継承のあり方』所功、P54
- 『皇統断絶 女性天皇は、皇室の終焉』中川八洋
- 『日本の歴史 神話から歴史へ』井上光貞、P487
- 『なぜ女系天皇で日本が滅ぶのか』、門田隆将、竹田恒泰
- 『皇族』小田部雄次、P317
- 前掲、小田部、P121
- 前掲、小田部、P158
- 前掲、小田部、P178
- 『安定的な皇位継承を確保するための方策について』大石眞
- 『なぜ女系天皇で日本が滅ぶのか』、門田隆将、竹田恒泰、P43
- 『皇別摂家
』衆議院議員 河野太郎公式サイト
6節 女性・女系天皇に関する世論調査
各社が独自の世論調査を実施しているがいずれも女性天皇・女系天皇共に賛成多数を占めている。一方で反対論者は「女系天皇」の意味の認知度の低さを問題視している。(以下、数字は%)
過去の世論調査
昭和の世論では女帝賛成派は少なく、それが新皇室典範に男系男子の原則が引き継がれた一因となっている。その後は女帝賛成派は微増傾向であったが平成13年(2001年)に皇太子夫妻が第一子の愛子内親王を出産して以来(特に女性から)急激な高まりを見せた。(『岩波 天皇・皇室辞典』編集 原武史、吉田裕)
共同通信社と主要加盟社で組織する「日本世論調査会」が実施した面接世論調査
| 調査年月 | 1975年12月 | 1984年12月 | 1998年4月 | 2003年6月 | 2005年10月 |
| 天皇が女子がなってもよい | 31.9 | 26.8 | 49.7 | 76.0 | 83.5 |
| 天皇は男子に限るべきだ | 54.7 | 52.2 | 30.6 | 9.6 | 6.2 |
| 特に関心がない | 8.1 | 18.0 | 17.5 | 12.7 | 9.3 |
| その他 | 0.2 | 0.2 | 0.4 | 0.4 | 0.2 |
| わからない・無回答 | 5.1 | 2.8 | 1.8 | 1.3 | 0.8 |
時事通信世論調査「皇位継承方法に関する世論調査結果(2005年6月9日~12日)
「女性天皇は歴史的に例がありますが、その子どもが皇位を継承した例はありません。天皇家の有史以来の伝統である男系の継承を今後維持すべきかどうか、あなたはどのように考えますか?」
| 男系の伝統を守るべきだ | 4.4 |
| できれば男系の血筋継承が望ましい | 18.3 |
| 男系にこだわる必要はない | 74.0 |
| わからない | 3.4 |
時事通信社(1999年11月実施)
| 賛成 | 反対 | どちらともいえない |
| 32.3 | 16.2 | 39.7 |
時事通信社(2001年11月実施)
| 賛成 | 反対 |
| 55.2 | 7.9 |
時事通信社(2002年11月実施)
| 賛成 | 反対 |
| 68.8 | 3.7 |
上3つの世論調査は『岩波 天皇・皇室辞典』編集 原武史、吉田裕を参照した
朝日新聞(2019年4月実施)
Q1,今の皇室に関する法律の「皇室典範」により、天皇の位につくのは、男性に限られています。あなたは、天皇は男性に限った方がよいと思いますか。それとも皇室典範を改正して、女性も天皇になれるようにしたほうが良いと思いますか。
| 男性に限った方がよい | 女性もなれるようにした方がよい | その他・答えない |
| 19 | 76 | 5 |
Q2,皇室典範により、天皇は、父方に天皇の血を引く、いわゆる「男系」に限られています。もし、女性天皇の子どもが天皇になるとしたら、歴史上初めて、母方だけに天皇の血を引く「女系」の天皇を認めることになります。あなたは、これまでの「男系」を維持する方が良いと思いますか。それとも「女系」を認めても良いと思いますか。
| 男系を維持するほうがよい | 女系を認めてもよい | その他・答えない |
| 21 | 74 | 5 |
Q3,今の皇室典範では、女性皇族は民間人と結婚すると、皇室を離れます。今後、結婚後も女性皇族が皇室にとどまる「女性宮家」を創設できるようにするべきだ、という意見があります。あなたは、この考えに賛成ですか。反対ですか。
| 賛成 | 反対 | その他・答えない |
| 50 | 37 | 13 |
(朝日新聞デジタル 2019年4月18日 世論調査-質問と回答<皇室>)
NNNと読売新聞社の全国世論調査(2019年5月実施)
Q.天皇陛下の即位により、皇位を継承できる男性の皇族は3人となりました。あなたは、皇位を安定的に継承させるため、制度の見直しが必要だと思いますか、そうは思いませんか。
| 見直しが必要だ | そうは思わない | 答えない |
| 67 | 23 | 10 |
Q.歴代の天皇の多くは男性ですが、女性の天皇もいました。あなたは、天皇の皇位継承などを定めている皇室典範を改正して、女性の天皇を認めることに、賛成ですか、反対ですか。
| 賛成 | 反対 | 答えない |
| 79 | 13 | 10 |
Q.皇位継承は、これまで、父方が天皇につながる「男系」の天皇に限られています。あなたは、母方が天皇につながる「女系」の天皇を認めることに、賛成ですか、反対ですか。
| 賛成 | 反対 | 答えない |
| 62 | 22 | 15 |
NHKによる皇室に関する意識調査(2019年9月実施)
| 賛成 | 反対 | わからない・無回答 |
| 74 | 12 | 14 |
Q 「女系」天皇の意味を知っているか?
| よく知っている | ある程度知っている | あまり知らない | 全く知らない | わからない・無回答 |
| 6 | 35 | 37 | 15 | 6 |
Q 「女系」天皇を認めることに賛成か?
| 賛成 | 反対 | わからない・無回答 |
| 71 | 13 | 16 |
共同通信社(2020年4月実施)
女性天皇の賛否
| 賛成 | どちらかといえば賛成 | どちらかといえば反対 | 反対 | 無回答 |
| 49 | 36 | 9 | 4 | 2 |
女系天皇の賛否
| 賛成 | どちらかといえば賛成 | どちらかといえば反対 | 反対 | 無回答 |
| 38 | 41 | 13 | 6 | 2 |
(東京新聞TOKYO WEB 2020年4月26日 女性・女系天皇 「支持」が高く 天皇に「親しみ」58%)
7節 旧宮家子孫に関する世論調査
少なくとも平成初、中期から世論調査の項目に入っていた女性・女系天皇の是非に比べ、大手メディアの旧宮家の是非を問う世論調査は平成が終わる頃に初めて追加されたため実施数はまだ少ない。(以下、数字は%)
共同通信社 皇室世論調査(2018年12月実施)
問11.一方で、戦後、皇室を離れた旧皇族を皇室に復帰させて「男系・男子」の天皇を維持するのに備えるべきだという考え方もありますが、あなたはどう思いますか?
| 賛成 | どちらかといえば賛成 | どちらかといえば反対 | 反対 | 分からない・無回答 |
| 8.5 | 25.5 | 43.0 | 16.5 | 6.5 |
問12.(問11で「賛成」「どちらかといえば賛成」と答えた人に聞く)賛成するもっとも大きな理由はなんですか?
| 「男系・男子」の皇族が皇位を継ぐという伝統を守る必要があるから | 25.3 |
| 皇族が増えることで皇位継承の対象者が増え、皇室の安定につながるから | 46.8 |
| 皇族が増えることで皇室の活動範囲が広がったり、公務の分担がしやすくなったりするから | 25.5 |
| 連合国軍総司令部(GHQ)の事実上の指示で皇室から離脱させられたから | 1.1 |
| その他 | 0.4 |
| 分からない | 0.9 |
問13.(問11で「反対」「どちらかといえば反対」と答えた人に聞く)反対するもっとも大きな理由はなんですか?
| 一般国民となって70年以上経過して世代交代もしており、皇室に入るのには違和感があるから | 37.0 |
| 女性皇族が天皇に即位できるようにすればよいから | 47.3 |
| 皇族が増えると財政の負担が重くなるから | 10.4 |
| さまざまな制約がある皇室に入るのは気の毒だから | 4.0 |
| その他 | 0.5 |
| 分からない | 0.8 |
共同通信社 憲法世論調査の詳報(2021年4月実施)
問22.戦後、皇室を離れた旧宮家を皇族に復帰させて「男系・男子」の天皇を維持する考えについて、あなたはどう思いますか?
| 賛成 | どちらかといえば賛成 | どちらかといえば反対 | 反対 | 分からない・無回答 |
| 9 | 23 | 44 | 22 | 1 |
産経・FNN(令和元年5月13日)
旧宮家の皇籍復帰
| 賛成 | 反対 |
| 42.3 | 39.6 |
産経・FNN(令和元年11月19日)
旧宮家の皇籍復帰
| 賛成 | 反対 |
| 43.3 | 34.9 |
8節 世論調査に用いられる統計的手法
行政や大手メディアが行う世論調査は、SNSや投票サイトで行われるアンケートと異なり、統計学に基づいて実施されている。日本人の世論を調査する際、もっとも分かりやすいのは日本人全員に意見を聞くことであるが、1億3000万人にアンケートを行うのは事実上不可能である。そこで世論調査では全人口の中から一部を無作為に抽出し、その結果を日本人全体の世論として扱う。これを標本調査という。統計用語の詳細な解説や式の導入過程は省くが、厳密な統計的手法にしたがうならば日本人全体の意見を調査するのに2000人程度のサンプル数があれば十分である。逆に統計的手法に基づかない調査、例えばSNSでのアンケートなどはそのポストを見た人しか参加できないため偏向が強く、いくらサンプル数が多くても母集団を代表する標本にはなり得ない。
n=λ2p(1-p)/d2
p:比率とは事前に同様な調査結果がある場合に用いられるもので、参考となる結果がない場合は比率の標準偏差がもっとも大きくなる0.5を代入する。d:標本誤差には調査結果で容認できる誤差を代入する。例えば調査結果の誤差を3%ポイント程度に抑えたいという場合であれば、0.03を入れる。λ:信頼水準は標準正規分布表を確認して代入する。信頼水準95%であれば、母集団(日本人全体)の世論の平均値が95%の確率で「標本平均(調査から得られる結果)―標本誤差×1.96~標本平均+標本誤差×1.96」の範囲に入る可能性を意味している。
世論調査では上記の式にしたがって約2000人のアンケートを日本人1億3000万人の代表として扱う。その2000人も特定の地域、性、年齢、職業に偏らず、日本に住む人々の縮図となるように統計的手法に基づいて抽出される。NHKの世論調査の場合、調査対象は層化無作為二段抽出法という手法で行われる。まず第一段階で全国を「北海道」から「沖縄」までの13ブロックに分け、13ブロックそれぞれで市区町村を都市規模と産業別就業人口構成比によって並び替える(層化)。その後に各ブロックの人口数の大きさに比例して300地点を系統抽出する。実際の調査では1調査地点を一人が担当する。
第二段階では、該当する調査地点の市区町村の住民基本代表から、1地点につき12人の調査相手を等間隔で抽出する。このような手続きで調査相手を抽出した場合、回答結果と誤差範囲を数学的に推定することができる。NHKで3600人を調査した際の、母集団との誤差はおよそ次のようになる。
| 回答 | 5/95% | 10/90% | 20/80% | 30/70% | 40/60% | 50/50% |
| 誤差 | ±0.7% | ±1.0% | ±1.3% | ±1.5% | ±1.6% | ±1.7% |
またアンケートによる意識調査は、質問文の言い方によって回答を誘導することが可能である。例えば同じように女系天皇の賛否を問うにしても、質問文が以下の2種類では結果が大きく異なると予想される。
「日本は初代の神武天皇以来、男系子孫だけが天皇になるという伝統があります。この伝統を改めて女系子孫にも皇位継承権を与えるべきだと思いますか?」
「現在の皇室典範では皇位継承権は男性皇族とその子孫に限定されており、女性皇族は天皇になることができません。女性皇族とその子孫にも男性と同じ権利を与えるべきだと思いますか?」
調査実施者が誘導的な質問をすれば調査結果も歪んだものになってしまう。そのため世論調査では質問の言葉遣いを可能な限り中立的、非誘導的に整える。これをワーディングという。
結論を繰り返すと統計理論に基づき調査人数を決定し、無作為抽出によって選び出された相手にワーディングした質問を行う世論調査は、サンプル数が2000人であっても日本人1億2000万人の意見を代表することが可能であり、そうでない(無作為抽出していない、質問が偏向的である)調査とは一線を画すものである。
2章 新旧皇室典範作成の経緯
明治22年、男系男子の継承法を成文化した旧皇室典範は明治憲法と共に完成した。皇室典範作成において大きな働きを果たしたのが熊本藩出身の政治家、井上毅である。井上は典範だけでなく明治憲法や教育勅語も起草しており、明治国家形成のグランドデザイナー的人物である。
「1節 旧皇室典範」。スペインの王位継承法を参考にした皇位継承法の草案では女性・女系天皇共に容認されていた。しかし女系(当時は女統といった)継承に関しては「我が国の国体や人情にいささかも注意を払ったものではない」「女統を立てれば皇統は直ちに他系に移り皇統の断絶となる」「女統は卑しいから皇位は男統であるべきだ」など批判を受けて削除された。
女性天皇は前例が多かったことから賛同の意見が強かった。伊藤博文も女性天皇を容認しており、男性皇族が絶えたときには女帝を立て、その皇婿には臣籍にいる源氏などの男系子孫を想定していた。しかし井上毅は「過去の女性天皇は全て中継ぎであり正統な天皇ではなかった」、「臣籍降下した人物は皇統ではなく、源氏であろうとそれは『全ク源姓ニシテ源家ノ御人』であって、その子孫は源姓の人物である」と反対した。伊藤は井上の抗議を聞き入れ、女性天皇および皇婿を臣籍の男系子孫に限定した女系天皇も文面から消えた。
典範作成の相談役であった西洋人ロエスレルやシュタイナーは女性・女系天皇を推奨していたが、井上は「女には政治能力はない」としてこれを退けた。こうして完成した皇室典範では皇位継承権は皇族の男系男子に限られ、女性天皇は「歴代の女帝は全て中継ぎであった」と過去でも未来でも存在を否定された。またそれまで臣民と結婚した女性皇族も皇籍に留まる慣例であったが、明治以降は男性皇族以外と結婚した女性皇族は例外なく皇籍離脱することに定められた。これには公家グループが「結婚した女性皇族を伝統に従って皇籍に留めよ」と反対したが井上に却下された。
「2節『女帝ヲ立ツルノ可否』」。政府が皇室典範を作成している間、民間でも皇位継承に関する論争が盛んであった。その中で最も典範作成に影響を与えたのが、新憲法で女性天皇を容認すべきか否かを新聞で討論した、嚶鳴社の「女帝ヲ立ツルノ可否」である。井上毅はその女帝否認論を高く評価して、伊藤の女性天皇容認案に対し全文を引用している。議論の内容は現在の女性天皇賛否の議論と大きく異なっており、反対派の根拠の中心は「男尊女卑(この言葉は原文にも使われている)」にあった。例えば参加者の一人、島田三郎は「日本では実態として男の方が尊く、男は女の上に立っている。女帝が婿を取れば天皇の上に男が立つことになり、天皇の尊厳を損ずる」という理由で女性天皇に反対している。またこの議論の中では、政府の議会では却下された女系天皇がほとんど問題にされておらず、女性天皇と女系天皇はセットで扱われている。一人、沼田守一は「私は『女系継承で皇統断絶』などという妄念を持っていないが、世の中は頭のいい人ばかりではない。もし皆無智無識な人々が『女系天皇で皇統断絶した』と考えたらどうするのか?」と女帝に反対している。
「3節 井上毅の思想」。井上の思想基盤は、伝統的儒教を近代的に合理化した近代的儒教主義である。たとえば儒教道徳の「男女の別(男には男の役割があり、女には女の役割がある)」を自然科学と結びつけ、「男と女には生物的な違いがある。その『自然の理』に沿うと、男は剛勇なので外(政治)のことをやり、女は温和なので内(家庭内)のことをやるのがそれぞれの性別に見合ったものである」と述べている。井上は儒教を「国家や時代や人の区別を超えて普遍的に妥当するもの」と高く評価しており、明治日本の道徳の基礎に儒教を置き、儒教倫理に基づいた『教育勅語』を作成した。その一方で井上はキリスト教を「過激思想」と危険視していた。キリスト教に「感染」した人々が「孝」や「風教」など伝統的道徳(儒教)を忘れ、やがて「国体を失う」ことを危惧した井上は努めてキリスト教を排斥した。また井上は独自解釈によって天皇家の起点となる「皇祖」も天照大神でなく神武天皇に定めた。井上には皇祖を神ではなく初代の天皇にすることで、天皇家の正統性の根拠を神話ではなく史実に置く意図があった。
「4節私擬憲法」。当時、民間でも皇位継承草案が大量に作られており、それらの大半が女性・女系天皇容認であった。しかし伊藤博文はそれらの私擬憲法を「書生の机上の理屈」と軽視していっさい参考にしなかった。
「5節 華族令」。近世までの日本は大名家も婿養子という形で女系継承を少なからず行っていたが、明治以降は「男系に依る皇位継承の本義に」反するという理由で華族令で禁じられた。華族令制定の中心人物は井上毅、伊藤博文、岩倉具視であるが、この三人はいずれも男系継承を行なっておらず、井上は子供が娘しかいなかったので婿養子をとって女系で家督相続している。
「6節 明治十四年の政変」。明治憲法はプロイセンを元に作られているが、その作成過程で(男帝が治める)プロイセン派と(ヴィクトリア女王が治める)英国派の派閥闘争があった。プロイセン派の中心人物は伊藤博文、岩倉具視。そしてブレーンには井上毅がついていた。英国派は大隈重信が中心となりバックには福沢諭吉がついていた。大隈も福沢も当時としては男女平等主義者であり、また儒教に批判的なところがあった。極まった両派の対立は井上の暗躍によってプロイセン派の完全勝利という形で決着する。大隈は犯罪者同然に罷免され、福沢門下の官吏もことごとく政府から追い出された。これを明治十四年の政変という。井上は国民の多数が福沢諭吉のような「過激論者」に感化されることを恐れ、「国安ノ害」のおそれがあるとして教科書から締め出した。
「7節 明治社会の在り方」。「明治天皇の女性観」明治の皇室改革の中でそれまで奥に閉じこもっていた皇后も社交界に出ることが強いられたが、明治天皇は「貴族女性は表に出るべきではない」という認識が強かった。天皇には公の場で皇后が自分と対等に扱われるのが耐え難く、担当官に反抗したエピソードがいくつも伝わっている。例えば自らの玉座が皇后と同じ高さであることに不満に思った天皇は、イスの下に敷物を敷いて高さを上げていた。
「女性神職者の排除」明治新政府は各地の神社を国家統制し神官を公的な存在と位置付け、その過程で古代から江戸時代まで朝廷祭祀や地方神祭で活動していた女性神職者はその存在を否定されていった。そこには「女性の穢れ」といった宗教上の問題ではなく、「婦人が公的な職掌を得る事は社会の風儀を乱す」という当時の女性観、家族制度が反映されていた。その結果、明治7年には登録された神官は男性が9772名に対して、女性は8名(内7人が琉球の所属)となり、神職はほとんどが男性が占め、古代以来の女性神職者は排除された。
「8節 新皇室典範」。戦後、新しく皇室典範が作成されるにあたり再び女性天皇の是非が問われることになる。平和主義を標榜する戦後民主主義では天皇が軍隊を率いる必要もなくなり、女帝への賛同意見は少なくなかったが、就任した場合の婚姻の在り方や、皇婿の立場が不明であり、なにより女性天皇が女系継承に繋がり男系原則が崩れる恐れがあるとして却下された。また当時の世論が必ずしも女帝を支持していなかったこともあった。国会でも女性議員などから女帝容認を求められたが、「男系男子の皇統は日本の持つ根本の原理であり、日本国民の確信である」「過去の女帝は全て中継ぎであって、日本に女帝制度は存在しない」という理由で見送られた。
「9節 日本国憲法と皇位継承」。現在の日本国憲法は「国民主権」を基本原理の一つに掲げており、天皇の位は「主権の存する日本国民の総意」に基づくものとされる。現行憲法の皇位継承は2条に「世襲」とあるだけで性別の限定は普通法である皇室典範に譲っている。よって皇位継承の順序変更や女性天皇容認も国民の意志に基づいて皇室典範の改正によって行うことができる。また憲法学的に戦後天皇制は、歴史的な天皇の連続性に重点を置く「連続説」と、歴史的存在としての天皇を否定し戦後に新たに天皇という存在が新設されたとする「断絶説」に分かれている。断絶説に拠った場合、初代天皇は昭和天皇となり、従って憲法二条の皇位の「世襲」もまた昭和天皇を基点とした血統を意味することになる。
日本の男系男子に限定された皇位継承法は、日本が批准する国連女性差別撤廃条約に基づき女性差別撤廃委員会から何度か是正勧告を受けている。憲法98条には国際法規を誠実に遵守することが求められているが、日本政府はこの勧告に抗議し、2025年には日本の支出する任意拠出金の使途から国連女性差別撤廃委員会を外すように求めている。皇位継承の男系男子限定は憲法14条の「法の下の平等」に反しているが、戦後から現在まで皇族は憲法の例外・飛び地であり、男子に限定された皇室典範は違憲ではないという説が支配的である。しかし近年では天皇の地位は男性でなければいけない合理的理由はなく、よって男女不平等な皇室典範は法の下の平等に反するという違憲論も増え始めている。
1節 旧皇室典範
1876年、国憲草案を起草するよう勅命が下り、国憲第一次草案と別冊『日本国国憲按準拠書目』が作成された。ここでは女帝・女統(女系)の即位が想定され、皇婿の政治参加を禁止している。当時の日本は社会の近代化が喫緊の課題であった。近代化とはすなわちヨーロッパ化することであり、この草案もスペイン憲法の王位継承法をほぼ直訳したものであった。
第二章 帝位継承
第二条 継承ノ順序ハ嫡長入嗣ノ正序ニ循フ可シ。尊系ハ卑系ニ先チ同系ニ於テハ親ハ疎ニ先チ同族ニ於テハ男ハ女ニ先チ同類に於テハ長ハ少ニ先ツ
その直後に出された修正案(第二草案)では、元老院権少書記官の島田三郎の反対意見の影響で[1]第二条が「太子男統ノ裔欠クル時ハ太子ノ兄弟若クハ兄弟ノ男統ノ裔ニ伝フ」と皇統は男系に限られ、代わりに一次草案で省かれていた庶出子に継承権が与えられた。1880年に元老院が作った第三草案では女系の継承権が復活し、男系の直系、傍系が絶え、さらに全皇族に男統の継承者がいない場合に限るものの女系天皇を容認している。
草案作成に関して各所にヒヤリングが行われ、女系継承に関してさまざまな意見が出ている。河田景與は「皇女が他姓の夫を得て子どもを儲けたときはその子は当然異姓であり、これは第一章第一条の万世一系に抵触する。男統全て尽きてやむを得ない事態だとしても後年に弊害を生む」と述べており、これに賛同する意見は多かった。
伊地知正治宮内省一等出仕も「皇国の帝系は男系一系であるがゆえに万世無窮に連綿している。女統を立てれば皇統は直ちに他系に移り、皇統の断絶となる」と主張している。伊藤博文や岩倉具視は「各国憲法を集めて焼き直したものにすぎず、我が国の国体や人情にいささかも注意を払ったものではない」と述べている。太政官書記官の尾崎三良は「女統は卑しいから皇位は男統であるべきだ」と主張した。
1881年、憲法作成を担当していた井上毅がプロイセン憲法に倣った憲法私案を作成する。ここでは皇位継承は別の章典で決めることとされ、明治憲法と皇室典範が分離することとなった。井上は皇位継承者は男系男子であることを絶対不可侵のルールと定め、女系のみならず女帝を皇位継承から排除する姿勢を見せた。
当時、民間でも女性・女系天皇の可否について議論がもたれており、自由民権派の植木枝盛の作成した私擬憲法『東洋大日本国国憲按』や千葉卓三郎の『五日市憲法』をはじめ男子優先ながらも女性・女系天皇は広く容認されていた。政府内にも元老院少書記官の横山由清のように女性・女系天皇の即位を認める者もいた。横山の場合はヨーロッパの模倣ではなく、律令研究の上に女系天皇を認めていることに特徴があった[2]。
「継嗣ハ男統ヲ以先テニシテ女統ヲ後ニス……若シ男統ノ継嗣タルヘキ者絶エテ無キ時ハ女子ヲ以テ大統ヲ継嗣セシメサルヲ得ス然ル時ハ其女帝ノ配偶者ヲ設ケテ以テ其血統ヲ保続セシムヘシ」『継嗣考』
男系男子固守を望む世論の中では、島田三郎が発議した嚶鳴社の『女帝ヲ立ツルノ可否』が井上に強い感銘を与え、典範制作に大きな影響を与えた。
島田「我が国の女帝は全て中継ぎであり、また独身が多数である。だが皇女に独身を強いるのは今日の風潮に合わない。しかし皇女が結婚すれば女帝と皇婿の関係は男尊女卑の風潮によって皇帝の尊厳を汚し、また皇婿の政治関与が生ずる」
『女帝ヲ立ツルノ可否』は新聞の紙面上で女帝の賛否を議論したもので、女帝賛成派の意見として肥塚龍「男系途絶えた時に憲法が女系がダメだといって皇統外に天子を求めるのか?」というものもあった。(詳しくは次節で述べる)。
1884年、ヨーロッパ留学から帰国した伊藤は宮内省制度取調局の局長に就任し、典範草稿の第一稿にあたる『皇室制規』を作成した。近代憲法作成を目指す伊藤らが最も師事したのはウィーンの法学者ローレンツ・シュタインであり彼が女性・女系継承を容認していた[3]こともあり、『皇室制規』では皇婿を臣籍降下した皇統の男系子孫に限った上で女性・女系天皇が再び復活している。
皇位継承ノ事
自らの男系男子の主張を否定された井上は伊藤に対して『謹具意見』を提出して抗議した。この際、井上は先述した『女帝ヲ立ツルノ可否』で女帝反対論を全文引用している。井上の主張をまとめると以下のようになる。
- 議論は女性天皇と女系天皇を混合している。
- 我が国の過去の女帝は全て中継ぎ(摂位)であった
- 女系天皇の即位は万世一系の破壊である。イギリス王室でも女系継承でプランタジネット朝からスチュアート朝へと王朝名が変わっている
- 皇婿が臣籍降下した男系男子、例えば「源さん」だとしてもその人は「全ク源姓ニシテ源家ノ御人」であり、内親王との間に生まれた子は源姓になってしまう。
- 政治や法律はヨーロッパを模倣するにしても、皇位継承には我が国固有の不文律があり真似するべきではない
- ヨーロッパにもサリカ法という女王の即位を禁じる法がある
- 女系継承は相手の家を乗っ取る手段になりえる
- 女性には参政権がないのに最高の政権を女性に許すのは矛盾である
伊藤が作成した「皇室制規」では皇婿は男系子孫に限られているので厳密には女系天皇容認ではないが、井上は臣籍降下した者は皇統ではないと伊藤に反論している。臣籍降下した者はたとえ天皇の男系子孫であっても皇統ではないというのは井上のみの意見ではなく、上記の元老院草案の検討において、幕末に仁孝天皇の皇女、和宮が14代将軍徳川家茂に降下した例を挙げて、その子が天皇になったら万世一系とは言えないという発言があった。
譬ヘバ仁孝天皇ノ皇女故将軍家茂ニ降嫁スルガ如キ若シ其所在アレバ徳川氏ニシテ王氏ニアラズ王族ニアラザルナリ・・・異姓ノ子ニシテ帝位継承スルコトヲ得バ之ヲ万世一系ノ皇統ト云可ラズ
徳川家茂は系譜上は清和天皇の末裔であり皇統の男系子孫であるが、王氏でなくあくまで徳川氏であるとされている。井上の意見は容れられ、第二草稿の『帝室典則』では女性・女系天皇の規定は削除され、後の『帝室法則綱要』で「皇位ヲ継承スルハ男統ノ男子ニ限ル」の表現が入ることで男系男子継承の方針が固まっていく。
皇室典範で皇位継承を男系男子に限るとしても、過去に女性天皇がいたのは歴史的事実であるため「祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子」という記載は矛盾である。そこで副島種臣から「万世一系ナル皇統ハ今後男系ノ男子ニ之ヲ継承ス」にすべしという修正案が出たが、井上は皇統の鉄則は男系であり男子であることを強調してこれを退けた。
以後、皇室典範の作成を進める井上は、外務省法律顧問ドイツ人ロエスレルと質疑応答を行っている。井上は「皇位継承は文武の両権を統攬し施行する能力を必要とするから、女性および重患の不能力者(障がい者)は皇位継承権から除外するのは疑いをいれない」と述べたが、ロエスレルは「歴史的に見て女王は不能ではないし、女系による継承は王家断絶のリスクを減らす」と反論した。女帝・女系を容認するロエスレルに対して井上は「女帝は統治能力不能である」と念を押している。ロエスレルは井上の意向を受けて男系重視のドイツ『王室家憲』を意識した憲法草案『日本帝国皇室典範』を提示した。
日本帝国の皇室に於ては先ず現に登臨する君主の男統帝位を継承す、此の男統竭滅すれば帝位は有栖川家の男統に、有栖川家の男統尽死すれば伏見家の男統に、次は閑院家の男統に、最後に桂家の男統に襲がしむ、女統は総て之を継承すること得ず
この草案では女系は禁じられている一方で女性天皇が容認されており、女帝は「政治に任ずることを得ず、唯其男子に帝位を継がしむるのみ」の中継ぎであると規定されている[4][5]。
ロエスレルの提議も踏まえつつ、井上は皇族男子の臣籍降下条項のある「皇室典範草案」と、臣籍降下条項のない「枢密院御諮詢案皇室典範」の両案を作成した。井上の本命は後者であり、1889年、男子の永世皇族制度を取り入れた旧皇室典範が裁定される。こうして「皇統は男系男子に限る」という近代成文法が生まれ、戦後の現在に至るまで守られている。
第一章 皇位継承
以上から分かるように皇位継承からの女帝排除は井上毅の働きが大きく寄与している。井上が起草し伊藤博文の名前で出版された明治憲法と旧皇室典範の逐条解説書『帝国憲法皇室典範義解』では次のように述べられている。
幼帝の歳長するを待ちて位を伝えたまはむとするの権宜(一時的な臨時)に外ならず、之を要するに祖宗の常憲に非ず。而して終に後世の模範と為すへからさるなり。(一条)
ここでは「女性天皇とは幼い男子皇族が成長を待つために一時的に即位した例外にすぎず、これは皇室の伝統ではなく後世の模範にならない」「神武天皇から舒明天皇までは譲位がなかった。女帝である皇極天皇から譲位が始まったが、それはあくまで『仮摂』、つまり中継ぎの摂政であった」と解釈されている。すなわち義解では今後の女帝のみならず過去の女帝も正統な天皇とは認めていない[6][7]。義解作成時に重野安繹(東大文科教授、元老院議員、帝室制度取調局委員)はこの「女帝は皆、幼帝の成長を待つための存在だった」という説明に対して、女性皇太子から即位した孝謙天皇の反例を出して「皆(中継ぎであった)」を「率子」に変更することを提案した[8]が却下されている。
また典範義解の第一条では、皇統とは男系であることを念を押している。
皇統は男系に限り女系の所出の及ばざるは皇家の成法なり。上代獨り女系を取らざるのみならず(中略)。清寧天皇崩じて皇子なし。亦近親の皇族男なし。而して皇妹春日大娘あり。然るに皇妹位に即かずして群臣從祖履中天皇の孫顕宗天皇を推挙す。是れ以て上代既に不文の常典ありて易ふべからざるの家法を成したることを見るべし
「清寧天皇が死んだ後に直系に皇妹がいたにもかかわらず傍系の顕宗天皇が即位したことから、古代から既に男系男子継承の不文律が皇室にあり、これは変えてはならない」ということである。
「皇位継承が"男系"でなければならない」と文章で法律に明記されたのは明治の皇室典範が初めてのことである。しかし江戸時代には皇統の男系継承規定を示唆する法があった。近世の禁中并公家中諸法度の第六条に「養子者連綿。但、可被用同姓。女縁其家家督相續、古今一切無之事」とあり、「同姓」とは男系一族を指すことから養子は男系に限られている。ただしここにある「女縁」とは女系親族ではなく妻の縁類を指し[9]、現在でいえば皇后雅子の実家の小和田家から次期天皇を選ぶことを禁ずるものである。また同法度は公家にも適用されるものであるが、制定される30年前に公家となった豊臣秀吉が女系親族(姉の息子)の豊臣秀次を豊臣姓の相続者にしており女系継承は「古今一切無之事」ではない。また法度が出て以後も摂家の一つ、鷹司家が異姓継承を行っており法度は厳密には守られていなかった。
- 『日本における立法と法解釈の史的研究』小林宏
- 『近代天皇制と国民国家』早川紀代
- 『旧皇室典範における男系男子による皇位継承制と永世皇族制の確立』山田敏之
- 『皇位継承資格をめぐる論議』横手逸男
- 『井上毅 傳 史料篇 第二』「皇室制規意見」P695
- 『皇室典範』笠原英彦、P18
- 『近代国学の研究』藤田大誠
- 『明治憲法の制定史話』葦津珍彦、P38
- 『皇族』小田部雄次
- 『「萬世一系」の研究 「皇室典範的なるもの」への視座』奥平康弘、P270
- 『平成の終焉』原武史、P19
- 『古代日本の女帝とキサキ』遠山美都男、P7
- 『近代天皇制と国民国家』早川紀代、P150
- 『江戸幕府と朝廷』高埜利彦
女性皇族の降嫁による臣籍降下
江戸時代までの女性皇族は、臣下と結婚しても皇族身分を保つのが伝統であった。。朝廷の諸行事を司る中務省のガイドライン『中務式』にも四世以内の皇族女子は臣下と結婚しても夫の品位(身分)に合わせないとある[1]。
「凡諸王以上娶臣下者。不得准夫品位。其内親王及女王。亦不得准夫品位。但五世王者得准夫位『中務式』
「およそ諸王以上、臣下の女性を娶っても(妻は)夫の身分に合わせない。内親王もまた(臣下の)夫の身分に合わせない。ただし(皇親でない)五世以上の王・女王は夫に合わせる」
孝明天皇の妹の和宮親子が将軍徳川家茂に嫁いだ際にも和宮は皇親であり家茂は臣下であることが重ねて確認されている[2]。
しかし旧皇室典範の草案では臣籍の男性と結婚した皇族女性は夫の身分に従うものとして強制的に臣籍降下することになっていた。これに対し三条実美ら京都出身グループが先例と異なると反発した[3]。井上毅と共に典範草案を作成していた柳原前光も結婚した女性皇族の貴号を保つ慣例を保持しようと考え、イギリスの例を調べて次の条文を加えよと井上に反論した[4]。
しかしこれらの反対論は却下され、以後現在に至るまで結婚した皇族女性は自動的に皇籍を外れる定めとなった。
2節 『女帝ヲ立ツルノ可否』
『女帝ヲ立ツルノ可否』は1882年(明治15年)に嚶鳴社の中心メンバーによって行われた女帝の是非を問う論争である。本編は『東京横浜毎日新聞』に九回にわたって掲載された。嚶鳴社は民権派知識人が集まった結社であり、1880年頃には社員1000人を擁して憲法草案を起草し、その幹部は後に立憲改進党の結成に参画している。井上毅はこの論争を「深く精緻を究めたるの論」と評価し、女帝不可論の全文を引用して女帝賛成派の伊藤博文を説き伏せた。そのためこの論争は皇室典範の女帝・女系否定規定に大きな役割を果たしている。
現在の皇位継承の議論と比較した時の嚶鳴社の議論の特徴は、まず明治の男尊女卑の風潮が前面に出ていること。また論者は皆一様に女性天皇と女系天皇を合わせて考えており「女帝は許すが女系継承は万世一系の断絶なので認められない」という意見はほとんど存在しない。沼間守一のみは女系継承によって万世一系に疑義が生じることを恐れているものの「自分は女系継承で皇統断絶というような妄念は持っていないが、世の中の多く占めている皆無智無識の者が女系継承によって万世一系に疑いを持つ危険がある」というスタンスである。
以下は主要意見の現代訳の要約。青字は女帝否定派、赤字は女帝賛成派の意見。
論争の発議者の島田三郎「女帝賛成派の「日本に古来より女帝を立てる慣習がある」、「維新によって社会の気風が開き、男女の権利を平等にすべきである」という意見に対して反論を試みると、確かに過去には女帝は存在していたが、その全員が未亡人か独身であり配偶者を得ることはなかった。そしてまた彼女たちは全員が中継ぎの摂位(仮の即位)であった。推古は厩戸皇子(聖徳太子)、皇極(斉明)は中大兄皇子(天智)。持統は草壁皇子、元明は首皇子(聖武)、孝謙は道祖王や大炊王、江戸時代の後桜町は英仁親王(後桃園)とそれぞれ然るべき男子がいた。よって日本の女帝をヨーロッパの女王達と比べることはできない。
また今、女帝を立てれば古代のように独身を貫く訳にもいかない。とすれば皇婿をどこから得るのかが問題になる。ヨーロッパ王家は外国の皇族を婿にしているが、日本で清王朝の男性皇族を女帝の婿に迎えることは出来まい。日本国民を婿にするとしても、臣民を至尊に配侍することあれば、女帝の尊厳をすることになる。ある人は「男女に尊卑の差はない」というが、我が国の実態として男の方が尊く、男は女の上に位している。女帝に皇婿を立てれば、最尊であるはずの天皇の上に夫が立つことになり、やはり尊厳を損ずる。また皇婿が裏で女帝を動かして間接的に政治に干渉することもありえる。これを防ぐために古来の女帝は独身を貫いたが、これは現在の道理人情に適していない。故に日本ではたとえ血が離れていても男統に限るべきであり、いたずらに女帝を立てるべきではない」
肥塚竜「外国の皇族を皇婿に迎えられる法律を作れば、例えば清王朝なりから女帝の婿を迎えることは十分可能である。「していないこと」と「出来ないこと」を区別せず、不可と断定してはならない。また大英帝国のヴィクトリア女王が好みの政党をひいきをしようとした時、皇婿のアルベルトの忠告によって妨げられた。皇孫の弊害にのみ目を当てて利益の方を見落としてはならない。また我が国は内閣大臣があり、仮に皇婿が政治介入しようとしても内閣の意見を左右するものではない」
島田「ヴィクトリア女王の例はむしろ女帝の夫がいかに政治を動かしうるかを示すものである。また女帝が国際結婚した場合、一番問題になるのは宗教である。ヨーロッパでも異教徒同士の結婚で生まれた子供の宗教が問題になっているが、皇室でそんなことが起きれば大変である。更にロシアやイギリスなど大国の王族と女帝が結婚した場合、それらの国の人によって日本の皇室がいいようにされてしまう恐れがある」
草間時福「古来より天皇家は藤原氏の娘が皇后になってきたが、それで男帝の尊厳を損じた先例は存在しない。配偶者が男ならば女帝の尊厳を汚し、女ならば汚さないというのは道理に合わない。更に皇婿が政治に介入することのみを恐れて、不徳の天皇が人民の自由権利を害することを憂いないのはおかしい。いずれも今後制定される憲法が禁じることであり、皇婿の政治介入を不安視するのは、憲法ありて憲法なきの憂いである」
丸山名政「我が国3000年の歴史において、皇帝陛下といえど聖明の人ばかりではなかった。仮に女帝が国事に耐えられなくても、ただ皇統を保持することだけに専念してもらえばよく、女帝を排除する理由にはならない」
沼間守一「我が国の慣習では第一子が女で第二子が男である場合、長幼の順序にかかわらず男子に相続する。王家といえどそれは変わらない。つまり男女に区別はあり、男女には階級が存在する。この簡単な事実を見逃して「女帝を可」とするのは謬見である。男を尊び、女を卑むの慣習が人々の脳髄を支配する我が国において、女帝と立てて皇婿を置くのが不可能なことには多弁を要しない」
青木匡「反対派は「過去の女帝が全て未亡人か独身であり、しかもその即位は皇子に代わって摂政していただけにすぎない」というが、それでも女帝が実際に即位していたことは動かず、女帝の禁止は古来の典例を破るのみだけでなく、人心を損なう恐れがある。日本の現状は確かに男を以て尊しとなし、男を女の上に位するが、それでも男子がいない時には女子が相続することは我が国の慣習である。「皇室の継承と一般人の継承は違う」という反論があるかもしれないが、過去に「皇位を継ぐ人」と「皇家を継ぐ人」を区別した例はない。皇女をして皇位を継ぐと同時に皇家を継承することに何の問題があろうか。「皇婿が女帝を唆す恐れがある」というが、男帝とて女寵に溺れて政事に弊害を及ぼした過去に例はいくらである。暴政の原因は帝王を立てたことでなく、その人物が悪いことにある」
波多野伝三「確かに我が国には女より男を尊ぶ慣習が存在するが、皇帝を雲上人とみなし普通一般の格外に置くことは女帝批判論者でも否とは言えないはずだ。推古天皇ら八代の女帝が人民から卑しいとされた前例はなく、要するに女子を賤むる慣習は人民の間では盛んであるが、この慣習を女帝に及ぼすことは出来ないとする」
沼間守一「女帝が卑しめられなかったのは配偶者を持たなかったからである。現今の日本の社会において、夫婦のどちらを尊いとするか?夫に柔順なるを妻の美徳とするのは何のためか?それは夫を第一流とし、妻を第二流に置くがゆえである。上下尊卑の別がここにあり、人情は既にそのようになっている。女帝に皇婿を置いた場合、陛下にして第二流にあるような感情を全国人民が抱いたならば実に勿体無いことである。といって女帝に終身独身を強制することも畏れ多いことである。
また日本の多数の国民は、子供は夫妻どちらの血統に属すると認めるだろうか?ある俚言では「女の腹は一時の借り物」と言われている。女帝に皇婿を配偶させた時、その皇太子を皇統一系の子と見てくれるだろうか?皇婿を通じて、人民の血統が皇統に混じってしまうことを私は恐れている。私は元よりそのような妄念を抱いてはいないが、世の中というものは俊秀な人物ばかりでなく、むしろ国民の多数を占めるのは皆無智無識の者である。このような人たちの家を一軒一軒回って諭すことはできない」
議論は最後に島田が立って女帝肯定論に逐一反論して締められた。
島田三郎「男女のあいだに尊卑なしというのは政治の原理を知らないものの言うことである。政治は人の治めるものであるから、人情の機微をわきまえて時宜を制することが必要だ。道理からいえば男女に尊卑がないことくらいのことは、言われるまでもなく我輩も知っておる。しかし一般人民は男尊女卑であり、これはヨーロッパにおいても女子には参政権を与えていないのだから我が国だけのことではない。
我が国の現状を見たまえ、男子が愛妾を蓄えても社会は非難しないが、女子が複数の男と関係すれば、世間はどんな目で見るか。相続法を見たまえ、長女が次男に譲っているではないか。民間の夫婦関係を見たまえ、女が戸主の場合も、いったん結婚すれば内外の権限は夫に帰して、妻はその命令に従うではないか。こうした現状があるのに、男女差別せずというのは、政治を知らない奇怪な意見である。
また女帝の夫が政治を左右するのと男帝が政治に関与するのは大違いである。男帝は憲法上政治的権限を有しているが、女帝の夫はそうではない。にもかかわらず、妻の力を借りて政治に影響を与えるとすればその弊害ははかり知れない。権力欲は人間のつねであるが、女よりも男の方が強いから、女性が男帝を動かすよりは、夫が女帝を動かす可能性が高い。憲法で禁止すれば公然とはできなくなるが、陰然とこれをやる恐れがある。とくに我が国のように、女子は男子に従う慣習のある国においてはその可能性は高いと思う」
議論を終えて議長の高橋庄右衛門が多数決を取ると女帝賛成派が16人中8人で同数であった。そこで議長の裁定により女帝否定説が採用された[1]。
3節 井上毅の思想
宗教観
井上毅の近代国家形成の思想的方針は近代的儒教主義である。井上は儒教を「国家や時代や人の区別を超えて普遍的に妥当するもの」と高く評価し、儒教の普遍化・世俗化を目指した。普遍化・世俗化とは、宗旨のための文献研究ではなく、儒学を「御国の有らゆる人を支配する区域のもの」とすることである。
井上はヨーロッパの立憲主義や近代法体系を尊重した一方、儒教の倫理観に基づく伝統的な「孝」や「風教(徳によって教化すること)」が失われることを危惧して、その護持を強く訴えた。井上は「道徳の壊敗」を招いた主原因は明治維新以後の「旧慣の打破」にあるとし、その改善のためにキリスト教を国教とすることは、かえって「我旧風美俗、即ち孝悌の風教に傷害を及ほす」と反対している。
井上から見た儒教とキリスト教の相違は対立と呼べるほど大きなものであり、『儒教ヲ存ス』の中でキリスト教を「神怪(怪しいもの)」と批判している。
「天神を仮託し、自ら神子と称し、密法幻術を行い、未来の賞罰を転して、更に現世の神通をしめす、一生の言行、一の神怪ならさるはなし」
「浅近にして、取るに足らさる」
逆に儒教については「神怪性」を有さない高尚なものとしている。
「孔孟に至て、始め鬼神を遠けて民義を務して、生を知て死を知らす、其言、布帛菽粟(人が生きる上で欠かすことのできないもの)、一毫の神怪なく、一点の禍胎なし」
井上は「人心」が「西洋風」となることにより「風習」を変化させ「国体」を失い、最終的にキリスト教に「伝染」することを恐れていた。しかし近代化のためにヨーロッパ文化の導入は避けられない。そこで井上は「東洋道徳、西洋芸術」を説く。ここでいう「芸術」とは「技術」の意である。「治具、民法、農工、百般」のことは西洋から摂取し、「倫理名教の事」は「儒教を以て師」とするのが井上の理念であった。このような儒教主義とキリスト教嫌悪は井上一人のものではなく、明治社会に広く存在した時流であった。
皇祖観
天皇家の起点という意味の「皇祖」とは歴史的にアマテラス(天照大神)を指す。本居宣長も著作『直毘霊』の中で、皇統とはアマテラスの心を受け継ぐことであり、日本は「神御祖」である天照大神の子孫が代々日本を治める国と言っている[1]。
「皇統を日継というのは、日の神天照大御神の心を心として、その業を継ぐからである」『直毘霊』
これに対し井上毅は「皇祖」とはアマテラスではなく神武天皇であると考えていた。井上毅が起草した「教育勅語」は以下の文章から始まる。
教育勅語の発布後、文部省は東大教授の井上哲次郎に解説書の執筆を依頼した。井上哲次郎は「天皇は神の子孫である」という天皇神孫論に立って「皇祖=アマテラス、皇宗=神武天皇」と説明した。しかしこれに関して井上毅が異論を唱えた。
井上毅の認識では「皇祖=神武天皇、皇宗=歴代の天皇」であった。後に井上毅が原案を作成し伊藤博文の名で上梓された明治憲法と旧皇室典範の解説書『大日本帝国憲法義解・皇室典範義解』では、天皇の祖先を表す言葉として「天祖=アマテラス、神祖=神武天皇、祖宗=歴代天皇」が使い分けられた。これに対し内大臣の三条実美は枢密院会議において旧皇室典範の「大日本皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系之ヲ敬称ス」という記述に「本条ニ祖宗トアルヲ天祖(アマテラス)ト改メタシ」と抗議している[2]。
井上毅には天皇統治の根拠を形而上学的な神話でなく、神武天皇以降の実際の歴史に置く意図があった。これに基づき、明治二十四年に文部省が定めた「小学校教則大綱」(現在の「学習指導要領」)では日本の歴史は神話時代でなく、神武天皇の「建国ノ体制」から教えるよう定められた。この大綱に従って編集された『帝国小歴』や『日本歴史』といった教科書では日本神話への言及はなく、神武天皇から記述をはじめ「神武が天皇陛下の御祖先だ」と説明している。
井上毅が死去した後は教科書に「天照大神」「三種の神器」「天孫降臨」などの項目が追加され、その中で「天照大神が天皇陛下の遠い御祖先で、神武天皇は人皇第一代である」との説明がされるようになった。
男女観
井上毅が起草した「教育勅語」には「夫婦相和シ」と書かれている。この文章の出典は四書五経の一つ『礼記』の「夫婦和スルハ家ノ肥ル也」である。一方で井上は『倫理ト生理學トノ關係』という論文の中で、倫理とは「儒教主義の占有物」ではなく「元来人身生機の構造より生したる造化自然の妙用に起るもの」であり「古今東西を問わず人間に普遍的である」と論じた。つまり夫と妻の倫理の差は、儒教の経典にそう記されてるからではなく生物学的な違いから生まれるものであり、それゆえ普遍性を持っているということである。井上にとって男の倫理と女の倫理が違うのは「漢学の口吻(儒教)」ではなくあくまで「自然の理」であった。
「男は剛勇にして潤大高尚の徳を具え女は温和にして機敏精緻の質を具ふるは一つは外を治め一つは内を治むるに適当なる固有の性質と謂はさむや。故に西の国にても女子に政権を与えへさるは各国の同じ所なり。彼の男女同権の説は唯私権に就てのみ其傾きあるも」
「男は剛勇なので外のことをやり、女は温和なので内のことをやるのがそれぞれの性別に見合った最適なものである。ヨーロッパ諸国も女には選挙権を与えておらず、男女平等は私的な範囲だけだ」
山住正己はこの井上の男女観に対して「男女同権を排する根拠ともなるのだが、しかし人身の自然に着目することによって父子や君臣の関係に先立って夫婦をあげているところに、普遍性への道を、ともかく開こうとしていた面のあったことに注目する必要がある」と指摘している。
八木公生は、井上の勅語草案の全体を見ても夫婦関係において「和」は動いていないことから、「夫婦相和シ」は、あくまで「自然の理」としての男女の差異を踏まえつつも、夫婦がお互いに労わりながら過ごす仲睦まじさに力点が置かれていると解すべきであるとする。「夫婦相和シ」には「女は男に従うべきである」とする儒教的な「男女の別」や「夫唱婦髄(男の貴方が唱えてくれるなら、私はそれについて和す)」の意は無く、区別・差別・序列などに連なるものは持ち込まれない。(儒経典の「男女の別」については『19章 海外諸国との比較』「6節 男女の別」を参照)
なお「教育勅語」が公布された翌年、文部省から検定を受けた教育勅語の公式解説書として井上哲次郎の『勅語衍義』が師範学校中学校教科用書として刊行されている。その中で「夫婦相和」は以下のように解説されている[1]。
「妻タルモノハ、夫ニ柔順ニシテ、妄ニ其意志ニ戻ラザルコトヲ務ムベシ」
ここでは「妻は夫の意思に反することなく服従し、夫は外で仕事をして妻は家事をする」という家父長制と良妻賢母像が示されている。
4節 私擬憲法
私擬憲法とは明治22年の明治憲法の発布以前に民間団体や個人によって作成された憲法私案の総称である。明治10年代の日本は国会開設を求める自由民権活動が盛んで、民権派の団体はこぞって民権派の憲法草案を起草していた。政府作成のものと合わせ、朝野で起草された憲法草案の数は100近い。民権派草案のうち皇位継承規定が含まれるものの多くは、共存同衆の「私擬憲法意見」、筑前共愛会の「大日本国憲法大略見込書」など、男性優先ながらもいずれも女帝を認めており、逆に皇位を男系男子に限ったものは立志社の「日本憲法見込書」など少数であった[1]。
明治憲法および皇室典範がごく限られたメンバーによって密室で作成されたのに対し、民権派の私擬憲法は広義公論のもとに起草されていた。しかし伊藤博文は憲法制定にあたって民間の私擬憲法をいっさい参考にせず、所詮は「書生の机上の理屈」であると断じた[2]。
伊藤「青年書生が漸く洋書のかじり読みにてひねり出したる書上の理屈をもって、万古不易の定論なりしと、これを実地に施行せんとするが如き浅薄皮相の考にて、却て自国の国体歴史は度外に置き、無人の境に新政府を創立すると一般の陋見(浅はかな考え)に過ぎざるべし」
民権派作成の憲法草案
嚶鳴社憲法草案(女帝・女系容認)[3]
第一篇 皇帝
第一款 帝位継承
明治12~13年に植木枝盛らによって起草。女帝・女系共に容認されている。
憲法草稿評林(女帝・女系容認)[3]
第二章 帝位継承
第三条 上ニ定ムル所ニヨリ、而シテ猶未ダ帝位ヲ継承スルモノヲ得ザルトキハ、皇族親疎ノ序ニ依リテ大位ヲ嗣グ。若シ止ムコトヲ得ザルトキハ、女統入リテ嗣グコトヲ得。
明治13~14年に小田為綱らによって起草。女帝・女系共に容認されている。
大日本国憲法(女帝・女系容認)[3]
第一篇 第十一条 (前略)但シ男子全ク欠クルトキハ、血統最モ近キ女子位ヲ嗣グヲ得。然レドモ女帝ノ配偶者ハ国政ニ与ル可カラズ
明治13年以前に天橋義塾の社長であった沢辺正修によって起草。女帝・女系共に容認されている。
五日市憲法(女帝・女系容認、永世皇族制否定)[3]
6 皇族中男ナキトキハ皇族中当世ノ国帝ニ最近ノ女ヲシテ帝位ヲ襲受セシム但シ女帝ノ配偶ハ帝権ニ干与スルコトヲ得ス
10 皇族ハ三世ニシテ止ム四世以下ハ姓ヲ賜フテ人臣ニ列ス
明治14年に千葉卓三郎や学芸講談会員が共同で構想。女帝・女系共に容認され、皇族は3世で臣籍降下すると定められている。
日本憲法見込案(女帝・女系否定)[3]
第一章 国称
明治14年、内藤魯一が「愛岐日報」紙面上に発表。皇統は男系に限っている。
日本国国憲案(女帝・女系容認)[3]
第一章 皇帝ノ特権
第九十八条 帝位継承ノ順序ハ、男ハ女ニ先チ、長ハ幼ニ先チ、嫡ハ庶ニ先ツ。
第四章 皇帝ノ即位
明治14年、植木枝盛によって起草。女帝・女系共に容認されている。
政府官僚作成の憲法草案
帝号大日本国政典
(天皇は男子に限る)[4]
第四十六章
日本皇帝の祚階は唯に神武皇統に止り、往〃男性特に 至尊の長男たる者、世に旧業を襲く事を得べし。但し皇帝崩御して親宮を世に遺さざるときは、各省卿及議官会議して新帝を四家の皇族より奉撰すべし。
明治5年に青木周蔵が木戸孝允の委託によって起草。皇統は男子に限っている。
憲法大綱領[3]
綱領
明治14年、岩倉具視が提出した憲法制定の意見書。皇位継承は祖法に従うと述べられている。
知識人作成の憲法草案
憲法草案
(女帝容認・女系禁止)[5]
第二篇 帝室
第一章 大統
第ヽヽ条 如何ナル場合ニ於テモ大統ノ承継皇女(大)ノ外女統ノ親ニ移ル事ヲ得ス
明治15年、西周が起草。女帝の即位は認めるが女系は禁じている。また既婚者の皇女は即位できないとする一方、女帝に婿を迎えることを容認している。
- 『日本近代思想大系2 天皇と華族』P525
- 『五日市憲法』新井勝紘、P88
- 『日本近代思想大系9 憲法構想』
- 国立国会図書館デジタルコレクション『帝号大日本政典(草案)
』 - 『軍人勅諭の成立と西周の憲法草案
』梅渓昇
5節 華族令
明治17年、華族を統制する華族令が公布された。起草者は井上毅であり、伊藤博文と岩倉具視と共に推し進めた。中世までの武家は女性が家督を継ぐこともあり、近世でも婿養子(女系継承)が平常的に行われていた。しかし華族令によって女戸主、婿養子がいずれも禁じられる。
爵ハ男子嫡長ノ順序ニ依リ之ヲ襲カシム女子ハ爵ヲ襲クコトヲ得ス但現在女戶主ノ華族ハ將來相續ノ男子ヲ定ムルトキニ於テ親戚中同族ノ者ノ連署ヲ以テ宮內卿ヲ經由シ授爵ヲ請願スヘシ
女性は爵位を世襲することができず、相続人に女子しかいない場合は宮内大臣の認許のもと、男系の六親等以内に限定して婿養子を取ることを許すというものである。これにより女性戸主は一時的に家政を担う中継ぎ扱いになったため、錦小路子爵家、旧播磨姫路藩の酒井伯爵家などは女性戸主を置いたことが原因で授爵が遅れている。その中継ぎ的な女戸主も明治40年の華族令改定で許されなくなる。
政府は女戸主を排除した理由に、女では皇室を守ることができず、女系継承は「男系男子の皇統」の理念に反するためと述べている。
「女戸主は皇室の屏翰(王室を守る役割)たるの実を挙げしむるに不適当なること」
「女戸主を認むれば男系に依る皇位継承の本義に則る根本の観念を邈視(軽視)すること」
「入夫(婿養子)、養子襲爵を請願せしむと云ふのは言辞を弄ぶものであって、結局情実を以つて誤魔化さうとするものであること」
それまで容認されていた養子・婿養子が禁じられたことで、華族たちは家督継承に困難ときたすようになっていく。1884年の華族令の制定から1947年に華族制度が廃止されるまでの約60年間で、17の華族が女戸主を理由に消滅している。戦後になっても旧華族は男系継承を続けていたが、平成8年の段階で全体の17.6%の家が相続すべき男子がいないため廃絶している。その中には紀州徳川侯爵家、阿波蜂須賀侯爵家などの名族も含まれており、2023年には徳川慶喜公爵家も5代目当主の山岸美喜が「家じまい」を行うと宣言している。
皇統を男系男子に限ったことに合わせて禁じられた華族の婿養子、異姓養子継承だが、皇室典範作成会議参加者の大半は代々男系継承を行なっていない。島田三郎は本人が養子であり島田家とは血縁関係がない。「女統(女系)を立てればただちに他系に移り皇統は断絶する」と述べた伊地知正治は伊地知家の女系子孫であり、伊藤博文は父親が養子で、博文自身も養子に爵位継承している。岩倉具視は本人が養子で、具視の後は娘婿が爵位を受け継いだ。「女統は卑しい」と発言した尾崎三良は婿養子をとって女系で家督を継がせ、井上毅も同様に爵位を女系継承している。特に井上毅と伊藤博文は華族令制定後に入夫(婿養子)、養子襲爵を行なっている。
女系継承を否定する皇室典範と華族令を起草した井上毅には子供が女しかいなかったため、三人の娘の冨士、トキ、イトに婿養子を迎える必要があった。甥系の飯田、市野が後を継ぐ意向があったものの、毅は決断に至らぬまま晩年を迎えていた。見舞にきた尾崎三良が病床にいる毅に対し強く婿取りを勧めたことで、長女の冨士に熊本藩籍の儒家の岡松匡四郎を迎えることとなる。匡四郎は毅の死後に井上匡四郎として爵位を継承する[1]。
飯田権五兵衛─飯田多久馬(毅)
↓養子
井上茂三郎1=井上毅2┬トキ
├イト
└富士
|────井上匡4
井上匡四郎3
↑婿養子
岡松甕谷─岡松匡四郎
林十蔵─利助(伊藤博文)
↓養子
水井武兵衛=水井十蔵─水井利助
↓養子
伊藤弥右衛門1=伊藤直右衛門2=伊藤十蔵3─伊藤博文4┬貞子
├生子
├朝子
└伊藤博邦5
↑養子
井上光遠─井上勇吉
- 博文には嫡子が娘しかいなかったため養子をとっている
堀河康親→堀河周丸
↓養子
岩倉具慶1=岩倉具視2┬岩倉具定4─岩倉具張5
└岩倉増子
|
富小路政直─岩倉具綱(婿養子)3
日本社会は東アジア諸国に比べて男系的な親族体系が強くなかったため、以上のような非男系継承は歴史的に広く行われていた。(参照『11章 古代日本の社会構造』特に「8節 イエ制度と婿養子」)そのため血統を男系に限る華族令に対して、元肥前国鹿島藩藩主にして貴族院議員の鍋島直彬は帝国議会で「男系でも女系でも血統には変わりないではないか。なぜ男系に限るのか?何か根拠はあるのか?」と質問している。
鍋島「三条の二項に血統ある分家の戸主と云ふの此血統と云ふのは男統の血統に限ると云ふ様なことに承りましたと思ひますが血統あると云ふと女系でも血統に違ひない、血統あると云へば男統も女統も同じく血統に違ひませぬが、何か確に男統の血統に限ると云ふのは根拠があって答へられたのでありますか」
この質問を受けた桂濳太郎は「血統とはどこまでも男系男子を指す。女系ではその家の男の血統ではなくなってしまい、先祖からの言葉を立てられなくなってしまう」と反論している[2]。なお濳太郎は桂家に養子で入っており男系の繋がりはない。
6節 明治十四年の政変
明治22年に公布された明治憲法は、井上毅がドイツ憲法をモデルにして起草したものであるが、その方針が当初から決まっていた訳ではない。明治14年、ドイツ式国家を目指す伊藤博文-岩倉具視と、イギリス式国家を目指す大隈重信の間で対立があった。伊藤-岩倉らのブレーンとなったのが井上毅であり、大隈には矢野文雄と、矢野の師匠の福沢諭吉がついていた。井上と矢野は共に太政官権大書記官の要職にあり、二人はライバルであった(この政変には北海道開拓使官有物払い下げ事件も関連するが、井上毅に焦点を当てるため省略する)。
伊藤派と大隈派は憲法制定のみならず思想面でも大きな隔絶が見られる。福沢諭吉は男女平等論者であり「男と女の違いは生殖器のみで出来る仕事に違いはない」という。これは儒教の男には男の、女には女の役割があるとする「男女の別」とは正反対の価値観である。
「抑世に生れたる者は、男も人なり女も人なり」『学問のすゝめ』
「男女の差は生殖の器官のみであり、それもただ仕組みが違うだけで、どちらが重い軽いということはなく、また、生殖の機関以外は耳、目、鼻、臓器、血の巡りなど違いはないのだから「男子の為す業」で女子に出来ないものはない」『日本婦人論後編』
漢学者の家に生まれた福沢は、漢籍に精通しながらも儒教を強く批判する開明論者であった。福沢が最も嫌ったのは、儒教を利用して人の内面を支配しようとする儒教主義である。また福沢は私擬憲法も制作しており、ヴィクトリア女王が統治するイギリス流の『交詢社憲法案』を上梓していた。
その弟子の矢野文雄も後年の著作で儒教を批判し、キリスト教の中では「神怪惑迷」が少ないユニテリアンを日本の道徳構築のために採用すべしと主張している。後の矢野は、儒教主義に則った文部省の徳育教育に異議を唱え続けることになる。
世間の進歩に連れて著るしく改良せるものは欧西の耶蘇教(キリスト教)にて、東洋の仏教は之に亞ぐものといふべし。三教の中にて最も改良なきものは蓋し儒教なるかな。『周遊雑記』
大隈重信はより直接的に女性を抑圧する儒教の弊害と、国家振興における女性の権利の大切さを説いている。やや長いが該当箇所を引用する。
日本は亜細亜諸国中婦人の地位が一番進んでおる。総じて亜細亜諸国では婦人が全く一家の内に閉塞せられて、憫むべき境遇に陥っておるにも拘わらず、日本だけは常に婦人が相当の地位をもっておるのである。ところが亜細亜の他の国に於ては、宗教の上、あるいは儒教の主意の上から、婦人が相当の地位をもっておらぬ。ことに儒教の上からは女子と小人とは養い難しという如き教義が社会の上にあった。それ故に女子がその中に打罩められて、社会と縁を切ってしまった。これが主に亜細亜諸国の堕落して国勢の振わないゆえんである。日本に於ても支那の教義は古くから伝わって、次いで千三百年以来仏教が入り儒教が入って来たに拘わらず、日本の婦人が支那の婦人と同一の運命に陥らなかったというのは、大陸の文明が日本に入って来ても、その文明の利益だけを収めて、そうして文明から起るところの弊害の大部分を、日本が幸いにこれを防いだからである。ごく平たい言葉でいえば、いわゆる彼の長を採って我 の短を補うたという訳で、文学なり美術なり、あるいは種々のものの長を採ったが、仏教の教義から起り、もしくは儒教の意味から起るところの女を苦しめるという弊を盛んに防いだ。これがために日本が一朝世界の文明に触れて、直ちに彼の長を採るという暁に至っても、日本の風俗・慣習・道徳の上に甚だしい衝突が起らずして、世界の文明と日本の文明と旨く調和することが出来たのである。これをごく約めて断言すれば、婦人を苦しめた国は衰え、婦人に相当の地位を与えた国は進む。畢竟女を苦しめた国はいわゆる因果応報で、そういう国の衰えるのは決して偶然でないということになる。これが我輩の持論である。『女子教育の目的』
大隈重信は矢野の主張を取り入れた急進的な意見書を岩倉に提出し、岩倉と、たまたまそれを閲覧した伊藤を困惑させていた。伊藤は大隈意見書の裏には福沢がいる考え福沢を恨んだ。その一方で岩倉は井上毅と憲法問題について議論し、その中で井上はイギリス流の福沢憲法は用いるべきではないと建策してした。
両陣営が対立が深まった結果、明治14年10月9日、岩倉は井上の計画に基づいて、行幸から帰ってきた明治天皇に大隈重信の罷免を裁断させ、井上が起草した「立憲政体に関する奏議」を提出して新憲法をドイツ流にすることを強引に認めさせた。天皇の「勅旨」により大隈重信と矢野文雄は犯罪者同然の扱いで免職され、犬養毅や尾崎行雄ら政府に入り込んでいた福沢門下の官吏もことごとく罷免された。これを明治十四年の政変と呼ぶ。
その後、井上は国民の多数が福沢諭吉のような「過激論者」の手に落ちることを恐れ、大臣に向けて緊急の対策を進言している。
今日の謀を為すは、政令に在らずして風動にあり。福沢諭吉の著作一たび出でて、天下の少年靡然として之に従ふ。其脳漿に感じ肺腑に浸すに当て、父その子を制すること能はず、兄その弟を禁ずること能はず
「福沢諭吉の本を読んだ少年たちはそれに従ってしまい、父親は子供を制することができなくなる」と井上は危惧している。また福沢の「皇室と政府は別である」という皇室観も井上を刺激し、このような「僻説(道理に反した考え)」は「宮府一体之制(皇室と政府は一体であるという日本固有の伝統)」を破壊する。福沢によって君臨すれども統治しないイギリス流立憲君主制が政府内に流布してしまうと恐れた[1]。
その後、福沢諭吉の本は「国安ノ害」のおそれがあるとして教科書から次々締め出された。これにより近代日本が儒教を思想的主柱とすることが決定的となる。
文部卿の福岡孝弟「教育には碩学醇儒(優れた儒学者)にして徳望あるものを選用し,生徒をして益々恭敬整粛ならしむべく,修身を教授するには必ず皇国固有の道徳に基きて儒教の主義に依らんことを要す」
井上は明治23年には儒教主義が濃厚な『教育勅語』を発布し、これを国民道徳の基礎としている。
井上毅は開明派の福沢を強く意識しており、現在でも福沢諭吉は先駆的男女平等論者として位置付けられることが多い。しかし実態として福沢の女性観は、家事育児を「女性の天職」とするなど多くの面で現代的男女平等とはかけ離れたものであった[2]。
7節 明治社会の在り方
明治天皇の女性観
明治天皇は会議に臨席していただけで直接典範作成に関わっていないが、当時の日本の風潮を見るためにその頂点に立っていた明治天皇の女性観を記述する。
明治20年、政府は宮中を国際化するためにドイツからオットマール・フォン・モールを招聘した。モールの指南で宮中儀礼はヨーロッパ風に整備されていったが、その中で困難だったことの一つが皇后の問題であった。儀礼を欧州化するためには皇后をはじめ女性の出席を考慮し、ある種の男女平等性を示す必要があった。しかし明治天皇は自分と皇后が平等ということが受け入れがたかった。行幸で皇后と同じ馬車に乗ることは譲歩して受け入れたものの、皇后と並んで歩くという要請は聞き入れず、菊観会の催しでは天皇の出御が遅れている。明治天皇は自分の玉座と皇后の座が同じ高さであることも承服せず、こっそり玉座の下に厚い絹の敷物を置いて皇后の座より高くしていた。これを発見した井上馨が敷物を引き摺り出して放り投げたために大騒ぎになったという。明治天皇は海外から外賓を迎える昼餐・晩餐でも皇后に腕を貸す行為を厭った[1]。
明治18年、出来上がったばかりの華族女学校の教科書規則を目にした明治天皇は、「化学及び理学」を見つけ「皇室付属として新設する所の女学校の本旨」ではないとし、理化学などは特に才能があって自ら好む者があれば選んで学ばせるくらいのことで事足りると述べた。そして女子の運動は必ずしも西洋的な方法を採用しなくてもよい、「女子の教育は固より男子と同じからず、ゆえに校長は活発の人よりも、寧ろ沈重の(落ち着いた)人を選ぶべし。従来女子教育の弊は活発に過ぐるに因ること多し」と重ねた。また明治22年に、有栖川宮威仁親王が洋行に際して慰子妃の同行を願い出た時、明治天皇は「婦女の洋行は徒らに西洋の物質文化に眩惑せられ、娯楽又は奢侈の悪風を助長するに過ぎず」と応じて許さなかった。この背景には以前、小松宮彰仁親王妃がヨーロッパで宝石、衣服類をここぞとばかりに購入していたことが伏線にあった[2]。
原武史はこのような明治天皇の考え方は、元田永孚からの儒教の影響があったと指摘している[3]。元田は『論語』などの進講(貴人への授業)を通じて天皇の人格・政治理念を形成し、天皇から父親のように慕われた儒学者であった[4]。
女性神職者の排除
卑弥呼に代表されるように日本の古代祭祀は女性、あるいは男女のペアが行うものであった。それが奈良時代以降、外来思想の流入によって女性の穢れ思想が広まり、仏教でも神道でも男性優位の状態が続いていく。(参照『13章 女性皇族の婚姻』「3節 女性皇族と穢れ」)それでも伊勢神宮の「物忌(子良)」、鹿島社の「物忌」、加茂者の「忌子」など近代に入るまで女性神職者は朝廷祭祀や地方神社では重要な役割を果たていたが、明治元年以降にそのような女性の職掌が次々と廃止されていく。明治5年の太政官布告で神山や神社・寺院の女人禁制を解く命令が出されたものの、明治の世にはいまだ「女性は神様に近づくべきではない」という観念が息づいていた。しかし女性神職者の廃退は、このような祭祀上の禁忌だけに基づくものではなかった[1][2]。
明治新政府は神社を「国家の宗祀」と位置付け、明治3年に国内の神社に共通の規則を作るため調査に関する布告を出した。この調査項目には「社中男女人員」の設問があり、当時は女性の祭祀者が一般的であったことを示す。発端は山梨県から明治7年に「婦人神官」登用伺いが出された事だった。ここでは「祠官(神社の祭礼に関わる神官)」にふさわしい人物が足りないため、婦人でもこれに堪える人物であれば「人民進歩の一端」を切り開くとしてその登用の許可を求めるものであった。これに対して宮中儀礼を司る式部寮は、女性神職は「もとより差し支えない筋」として了承した。しかしこれに左院法制課が「祭祀は国典であるが故に祠官は住職と異なり国家官吏であり、その権利を女性に与えることによって後日必ず弊害が生じる」と異議申し立てする。式部寮は法制課と協議するが、結局、以下を根拠に女性神職者は「断然御禁止相成り然るべく存じ候」と決裁された。
- 婦人へ独立の職掌を任ずることは、事理不相当である
- 郷社「祠官」は官人である
- 「祠官」は元々男子が務めるべきもので、女子が必ず務めるべきものではない
- 婦人の「祠官」が認められた場合、女子が戸主となり夫が配偶者となるような事態も起こるもとになり風儀を乱す
- 女子が国家官吏の権利を有することになる
この決定は「女性の穢れを忌む」といった祭祀上の問題ではなく、当時の女性観、家族制度などを反映した結果であり、それは新しい明治国家像のなかで必要不可欠なものであった。ここでは近世までの神職観は否定され、「斎宮」という古来からの女性の神宮祭祀は後世にそぐわないものとし、古代の「御巫」や「刀自」に由来する「内掌典(いずれも宮中祭祀を司る女官)」も女性神職とは異なるという見解を出している。小平美香は「神職は国家官吏であるが故に女性登用はできないという論理には、士族たちの『公』という儒教思想が貫かれている」と指摘している。
明治7年には登録された神官は男性が9772名に対して、女性は8名。その8人中7人が琉球の所属であった。近世まで各地の神社や朝廷祭祀で働いていた神社巫女ら女性神職者たちは姿を消し、公的な神職はほぼ男性のみに占められた[3]。
8節 新皇室典範
制定の過程
1945年8月、アジア・太平洋戦争の敗戦により日本はGHQに占領された。旧皇室典範は皇室の家法として国会から影響を受けない位置にあったが、GHQは国民主権の原則から皇室典範を国会制定法にするよう指示する。日本は「皇室典範は皇室の自立権である」と抗議したが受け入れてもらえなかった。
1946年3月から始まった新典範作成のための臨時法制調査会では、憲法で規定された男女平等との関係から皇族女性を皇位継承範囲に含めるかどうかが議論された。女性天皇容認派には宮沢俊義、杉村章太郎、鈴木義男などの名前が挙げられ、その中でも宮沢は「女帝を認める以上、一般国民男子が女帝と婚姻して皇族身分を取得する場合も認めないわけには行くまい」として女系天皇まで容認している。方や杉村章三郎は「結婚していない」内親王にのみ皇位継承権を認めている[1][2]。
これに対し女性天皇排除派からは、論憲法第二条で謳われた皇位の「世襲」が既に法の下の平等の例外とされていること、また女系は「皇位の世襲」という観念には馴染まないこと、また「世襲」は男系男子による皇統の継承を意味するので憲法違反ではないという見解が述べられた。さらに女性天皇が就任した場合の婚姻の在り方や、皇婿の立場、そして何より一度女性天皇を認めると将来的に皇位継承権が女系に広がる可能性があり、男系原則が崩れるという強い反対意見があった。また当時は国民世論で女帝に賛同する者が少数派で「女性天皇を国民感情が受け入れるだろうか?」との意見があった[3][4]。
日本政府とGHQとも折衝を進め、多岐にわたる質問を交わした。アメリカ側は男女平等の観点から女帝容認を求めていたが、日本が「女帝を認めても女系が認められないので意味がない」「歴史上、女帝には弊害があった」と説明するとあっさり引き下がり、特にGHQ民政局のサイラス・ピーク博士は日本の歴史上、女性天皇はいても女系天皇がいなかったことに理解を示している。皇室典範を憲法の下位に置き国会審議の対象法にすることは日本側が強く拒んでも譲らなかったGHQであるが、内容については(当時、皇室関連法に関わっていた高尾亮一曰く)「寛大」で、ほぼ無修正で了解を得ている[5]。
政府内では男系・男子案が主流を占めていたが、その後も女性・女系天皇案が完全消滅したわけではなく、同年10月の文書「皇室典範試案時字句修正の理由」の中では女性・女系天皇が再提起されている。ここでは両性の平等をうたうと同時に「日本では妻は夫に大きく影響されるという現実」を根拠に男子優先になっている[6]。
一⑴女系も補充的に認めるべきであり、又、女天皇も認めるべきである。(主たる理由⑴両性の本質的平等。⑵天皇に実権なく、象徴にすぎぬため女天皇でも不都合なし。⑶皇統の希薄又は断絶を避ける。⑷各王朝の通例。)(但し、わが国の現実においては夫の妻に対する影響が大なると普通とするため、その順序は補充的とするを妥当とし、又、配偶者あるも可とする。)(但し、本件は慎重なる審議の上否決した点であるから、原案[男系男子案]でも已むなし。)
帝国議会での女帝論争
女帝問題は11月からの帝国議会で再度俎上に乗る。「将来にわたって男系の皇統は大丈夫なのか」「新しい時代に国民の意識に合致するのか」など天皇制護持のための質問が続いたが、憲法担当の金森徳次郎国務大臣は「日本のもっておる根本の原理を探求して決めなければなりません」と述べ、古代からの天皇制の歴史的流れと、「このことは日本国民の確信というべきものである」という2点を強調して女帝論に消極的な見解を答弁している。金森には過去の女帝は全て男系男子を得ることが難しかった時の非常手段であり、女帝制度が存在していたわけではないという見解があった。さらに幣原喜重郎国務大臣(副総理)も「現状では女帝論を云々する状況にない」と答えている。
史上初の女性議員の一人である新妻イトは、イエ制度が持っていた男尊女卑の価値観を皇室典範改正案の男系男子主義の中に見て取り、これに対して以下のように批判を浴びせた。
「今度の新憲法によりまして、女もどうやら人間並みになつたのでございますから、この男系の男子ということをどうかしてとつていただくことができないかしら」
「これ(男系男子原則)がありますと、新憲法によりまして、今までの世界に類例のなかつた家族制度というものをいくら破りましても、実際の上におきましてやはり男系の男子が幅をきかして女性というものが奴隷化されて来るということを恐れているのでございます」
これに対して金森は、イエ制度の廃止は利害関係者だけの問題であるが、皇室は日本の国民全体の結合体であり全く別問題であるとする。
「国の大きなものの中の中心的存在であります所の象徴という地位が順次承け継がれて行くという関係でありますが故に、一般の財産の相続というものとは全然違つております。(中略)これは天皇御一家のことではなくして、国全体の一つの中心たる考がいかにして充たされて行くかということでありますが故に、法律的に申しますと、実は家族制度とは別のことでありまして、何んらの関係はない、こういうことになろうと思います」
終戦直後の皇族には11宮家が皇籍離脱してもまだ多くの若い男子がおり、女帝問題は当時の政治家にとって急いで議論するべき問題ではないという理解があった。これらの女帝消極論に対し「新憲法のもとでは天皇は陸海軍を統率するわけではないから女性天皇でも構わないのではないか」「平和国家を目指す以上、女性天皇の方がふさわしい」という質問もあったため、金森は「(女帝問題は)将来の検討課題といて残しておいても良い」と返答している。金森はその後も男系男子案は結論的なものではなく、現時点での暫定的な処置であることを強調し「将来的な研究によって男系に限る必要はないと結論された場合それに従う」とも述べている[1][2]。
金森「この(女帝)問題に関しましては考うべき幾多の点が存在しておりまするので、それらのすべての角度から考えまして、最も妥当なる結論を得ることを努めておるのでありますけれども、現段階、すなわちこの典範を議会に提出いたしまするその段階におきましては、原案(男系男子案)のごとき程度の他に適当なるものを見出さなかつた。こういう趣旨でございますから、事柄に対して、まだ結論的なものをもつているわけではございません」昭和21年12月6日衆議院議事録
松岡七郎委員「今後この(女帝)問題を検討した結果、男系に限る必要がないということがはつきりした場合に、それから改正してもいいというようなお考えがおありでございますか」
金森「もとより十分なる研究をいたしまして、正しい結論が出ますれば、それに從うべきことは言うまでもないと考えております」昭和21年12月11日 衆・皇室典範案委員会
憲法学者にして当時の貴族院議員として新憲法改正審議に参加した佐々木惣一は、新憲法の下での皇位継承は「所謂従来の感情とか伝統とか云ふやうなことは兎に角問題にならない」ものであり「日本国憲法其のものの精神」に即すべきであるという立場に立脚した上で、「女子だから直ちに皇位就任不適格という理屈は成り立たない」としつつも「女子であるということに伴う他の事情、例えば配偶者問題がある」と述べて「男子が優先されることは憲法の精神に合致する」と主張していた。これに対して現代の憲法学者の奥平康弘は配偶者は男女共に伴うものであり、女性の場合にだけ問題になるというのはおかしいと批判している[3]。
三笠宮崇仁の女性天皇容認論
昭和天皇の弟の三笠宮崇仁は終戦後、女性天皇に積極的な態度を示していた。1946年に新憲法・新典範が公布された際、三笠宮は「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」という意見書を提出し、女性天皇についても踏み込んだ提言をしている。それによれば新典範は戦後民主憲法の精神に合致する必要があり「法の下の平等」から女性天皇は認めるべきであるが、現在の女性皇族は男性皇族に従うように躾けられており、また政治家も皆男子であるから現状は政府案(男子継承)で良いが、将来的に女性政治家が増えてきた時には女帝の問題も再検討すべきである[1]。
(1)女帝について
先づ問題になるのは女帝を認めないことと「法の下の平等」との関係であらう。純粋に「法の下の平等」を解釈すればどうしても女帝を認めねばならぬ。しかし之については私は現在としては政府案で結構と考へる。その理由として法律論でない実際論から一つだけ述べておく。今の女子皇族は自主独立的でなく男子皇族の後に唯追随する様にしつけられてゐる。之は決して御本人の罪ではなく周囲が悪いのであるが之では仮令象徴でも今急に全国民の矢表に立たれるのは不可能でもあり全くお気の毒でもある。其の上天皇を補佐すべき各大臣が皆男子である。従つて当分女帝は無理と思はれるが何と考へても「法の下の平等」は全世界に共通の傾向であり今や婦人代議士も出るし将来女の大臣が出るのは必定であつて内閣総理大臣にも女子がたまにはなる様な時代になり、一方今後男女共学の教育を受けた女子皇族が母となつて教育された女子皇族の時代になれば女子皇族の個性も男子皇族とだんだん接近して来るであらうからその時代になれば今一応女帝の問題も再研討せられて然るべきかと考へられる。
女性天皇は時期尚早とした三笠宮であるが、翌年に新憲法が施行された直後に「皇室民主化の方策」と題する意見書をまとめている。この中では女性天皇が容認されている[2]。
⑴皇室典範の改正
方針 まったく白紙にかえり、新憲法の精神に基づいて新しくつくる
イ.名称は皇室法とする。
ロ.女帝を認めること。
ホ.皇族は(すべて)その意志に基き皇室会議の承認を経れば皇族の身分を離れ得ること。
備考 以上はまったくの私見であって陛下または他の皇族とは少しの関係がない。
- 「三笠宮さまの意見書全文」日本経済新聞2016/11/3
- 『三笠宮崇仁親王』三笠宮崇仁親王伝記刊行委員会編、P456
永世皇族制度の踏襲
新皇室典範作成にあたり、旧典範からの永世皇族制度を踏襲するかが議論になった。
1946年の臨時法制調査会では、永世皇族制度を採らず皇族の範囲を「天皇の四世以内の直系卑属(直系子孫)」とする案、「現在の天皇を中心として先後五世位(五世祖父から五世孫まで)」とする案が挙げられた。永世皇族制度を採る案にしても、6世以下の皇族は(皇族会議にて特別に除外された者を除き)原則臣籍降下することが提唱された。調査会では最終的に、永世皇族制度を採用しつつ、増えすぎた皇族は内規によって皇籍身分を離れるという立案された。皇族が皇籍離脱する規定は現行典範の11条において定められるが、1947年の11宮家離脱後から令和7年現在に至るまでこの規定で皇籍離脱した皇族はいない。
第十一条 年齢十五年以上の内親王、王及び女王は、その意思に基き、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。
② 親王(皇太子及び皇太孫を除く。)、内親王、王及び女王は、前項の場合の外、やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。
帝国議会では金森徳次郎は百世皇族(永世皇族制度)の考え方は「物の道理に合わない」として皇族の基本的意義である皇位継承及び摂政設置の観点から皇族の範囲を考えるべきであると述べつつも、「皇族の範囲を限定するような考えはないのか」という質問を受けた時には「皇族が多すぎることに対する懸念はあるものの、皇位継承の範囲の確保等を考慮し、また範囲を限定することの複雑さ、困難性から形式的に明文の規定で限定することは避け、永世皇族の制度を採り、調整は制度(典範11条)の運用によることとした」「範囲を形式的に決めると、逆に皇族の数が増えすぎた際にその調整が困難になる」という主旨の答弁している。女帝論と異なり、新典範制定以後から現在に至るまでに永世皇族制度が大きな議論になることはなかった。
その後の女性天皇に関する議論
新皇室典範に施行されて以降も、国会で女性天皇に関する議論は断続的に行われた。昭和30年代中頃〜40年代初めには受田新吉(民社党所属)などから憲法14条「法の下の平等」との関係などについて質疑がなされた。昭和41年の衆議院内閣委員会では、関道雄内閣法制局第一部長が「絶対的に女子が天皇に立たれることを憲法が禁じているわけでもありません」としたうえで「国民感情の推移」により女性も皇位継承資格を持つことも不可能ではないとの見解を示している[1]。
時を開けて昭和54年には元号法の議論で女子の皇位継承資格が論じられ、昭和60年代前後には国連女性差別撤廃条約(次節で解説する)との関係で、また昭和から平成にかけては即位儀礼の在り方が議論された際などに女性天皇が議論の対象となり、平成2年および4年には三石久江(社会党所属)が皇位継承制度につき多角的な視点から質疑した。園部逸夫は戦後の女性天皇に関する議論の論点を以下の六種類に分類している。
- 皇位継承を男系男子に限定しているのはなぜか
- 皇室典範は男女平等を定めた憲法14条や国連女性差別撤廃条約に違反しないのか
- 皇位継承者数を確保するために女性天皇を認めるべきではないのか
- 諸外国も女性に王位継承資格を認めており、我が国も女性天皇を認めるべきではないのか
- 女性天皇を認めるためには皇室典範のみならず憲法改正が必要か
- 政府は女性天皇についてどのような研究を行なっているのか。またどのような状況になったら検討を行うのか
例えば1の皇位継承を男系男子に限る理由については、それを支持する立場からは「皇室の歴史・伝統」と「女性は天皇は合わないとする国民意識」の二つが論拠が挙げられている。その中には昭和54年の三原朝雄総理府総務長官のように国民意識の推移により皇位継承制度も変わり得るという説明がされる時もある。これらの主張への反論として、国民意識は必ずしも男系男子を支持していないことや、歴史上存在した女性天皇。および女神アマテラスの前例が挙げられた。
男系論の一例
瓜生順良宮内庁次官「男子の方が適当な方がある場合においては常に男子の方が皇位につかれた、そういう歴史的な伝統というものを基礎にしてそういう風にきめられたものと私は思います」昭四三・四・三衆・内閣委
関道雄法制局第一部長「日本の国民感情として、天皇は男子の方が立たれるということが象徴ということの感情的な一つの背景、歴史的なと申しますか、一つの歴史によってつちかわれた感情が背景をなしておる、そういう考え方に立っておるのではないかというふうに考えます」昭和四一・三・一八衆・内閣委
加藤紘一内閣官房長官「私は伝統に基づいて、そして歴史的にこれだけ長く続いた皇室制度というものは、日本国内だけではなくて、外国からも非常に畏敬の念を持って見ていただけるものであろうと思っております」平四・四・七参・内閣委
女系論の一例
三石久江議員「血統とか遺伝質が男性のみによって伝わるということを信ずる人は恐らく現代では皆無であろうと思います。血統は父と母からそれぞれ等しく子に伝わるもので、父系、母系いずれであってもその子孫に差はないのです」平四・四・七参・内閣委
星川保松議員(社会党所属)「男系の男子が日本古来の伝統であるようなお話なわけでございますけれども、アマテラスオオミカミ様は女神様でございまして、それで卑弥呼、これもやはり女子でございまして、その後はずっと平安時代は女系家族なんというものもあったのございまして、男系の男子でなければならないというのは日本古来の伝統ということは言えないんじゃないか」平二・五・二四参・内委
受田新吉議員「世界の大きな流れというものを見たときに、昔の古い伝統を今頃持ち出されて、男系相続が日本の伝統などというこの議論は、どうも法制局長官としてまずい議論じゃないか」昭三四・二・六衆・内閣委
9節 日本国憲法と皇位継承
戦後皇室典範が施行されてから数十年経ち、憲法学上の皇位継承解釈にも変化が現れている。
憲法第二条「世襲」
第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
皇室典範
戦前の皇位継承の資格は『大日本帝国憲法』に「皇男子孫」と明記され、皇室典範を待つまでもなく男系男子に限定されていたが、戦後憲法は二条に「世襲」を定めるだけでそれ以上のなんら限定もない。横田耕一は「『世襲』なる言葉に『萬世一系』を読み込むならば、伝統的天皇の伝統なるものが読み込まれ、『男系男子』といった要請が生じることになる余地があるが、そのような読み込みを行うことには何の根拠もない」と述べている[1]。
すなわち憲法二条「世襲」は男系・男子、女系・女子いずれをも含むものであり、現在の男系男子継承の法的根拠は普通法である皇室典範にのみに存在する。よって法学の多数説は憲法改正せずとも皇室典範の改正で女性天皇や女系への皇位継承可能になると認めており、また政府もそれを公認している。
関道雄内閣法制局第一部長「必ず男系でなければならないということを、前の憲法と違いまして、いまの憲法はいっておるわけではございません」昭和41年3月18日 衆・内閣委
こうした解釈に対し反対論もあり、小島和司は第二条の世襲は皇位継承の伝統を背景とした規定であり、そこで定める「世襲」は女系を含まず、憲法は皇位継承資格を男系男子に限っていると主張している。また渋谷秀樹も同様に日本国憲法における天皇の地位が伝統的に継承されてきたものであることを強調して、女性・女系天皇を認めるには憲法改正または国民投票が必要であるとの見解を示した[2][3]。
いずれにせよ国民主権を是とする現行憲法下では、皇位継承の順序は国民が決めるものである。戦前の皇位継承は「將來ニ臣民ノ干渉ヲ容レサル」ものであり、国会が審議の対象外に置いたのに対し、新憲法は皇位継承の順序を皇室典範に譲っている。これは天皇の地位が「主権の存する日本国民の総意に基く」ものであるという国民主権の原則が必然的に要請するところであった[4]。
天皇制の連続説・断絶説
憲法学では日本国憲法の天皇条項と天皇の歴史について二つの考え方がある。
①「宣言的規定説」(連続説):明治憲法的な天皇制を排斥しつつ、長い歴史的存在としての「天皇」を存続させるものと捉える見解。
「日本国憲法は,国民主権という,人類普遍の原理を採用しながら,同時に,天
皇の存在を認めた。天皇の制度は,普遍的な原理という立場からではなく,日本
固有の歴史,伝統あるいは国民感情を考慮し,尊重するという立場から,必要が
認められ存置されたものである。」『憲法Ⅰ〔第 3 版〕』清宮四郎
「日本国憲法は国民主権主義を採用したが,天皇制そのものは,連合国軍総司令部
の意向もあり(略),象徴天皇制という形で存置された。しかし,明治憲法の天
皇制と日本国憲法の天皇制とでは,原理的に大きな違いがある。『憲法(第 6 版)』芦部信喜
②「創設的規定説」(断絶説):歴史的存在としての天皇を完全に拒否したうえで、無から新たに「天皇」と称する存在を創設したと捉える見解。
(略)天皇制に関する基本的なことが,ことごとく,根本的に変化しているこ
とがわかる。天皇の地位についても,その基礎についても,その権能についても,
すべてそうである。これらのことは,どれも天皇制に関する基本的なことで,そ
の本質を構成するものである。そうしてみると,天皇制の本質が根本的に変化し
たことになる。天皇制が変質したわけである。言葉の上では,同じように天皇と
いい,天皇制といっても,いままでの天皇や天皇制と,新しいそれとは,実質の上で,
決して同じものではない。根本的にかわっている。『天皇制』横田喜三郎
現行憲法は,天皇の地位を国民の総意にかからしめ(1 条),天皇が国家機関と
しての地位を占める場合,『国政に関する権能』(略)の一切を奪いながら(4 条),
天皇制という制度の役割を『象徴』と宣言した。『憲法理論Ⅰ』阪本昌成
連続説、断絶説と言いつつ内実として二つの説に大きな相違が有るわけではない。連続説でも新旧の天皇制の原理的な相違は認めており、断絶説でも天皇制の過去からの存続自体は認めている。両者の違いは新旧の天皇制の共通点と相違点のいずれに重点を置いているかに過ぎない[1]。
両者が問題となるのは憲法第2条の皇位の「世襲」に関するものである。連続説、断絶説どちらでも日本国憲法下での初代天皇が昭和天皇になるのは共通だが、断絶説では昭和天皇が124代天皇であることが否定される。断絶説によって昭和天皇が初代天皇と確定した以上、憲法での「世襲」、皇室典範の「皇統に属する」とは昭和天皇の血統に属する者の世襲を指すことになる[2]。
女性差別撤廃条約
国連女性差別撤廃委員会(以下、CEDAW)は、2016年に引き続き2024年にも「『皇室典範の規定は委員会の権限の範囲内ではない』という締約国(日本)の立場に留意する」と前置きした上で「家父長的な固定観念が背景にある」皇室典範の是正を勧告している。これに対し林芳正官房長官は、日本の皇位継承のありかたは「国家の基本に関わる事項であり」、「皇位に就く資格は基本的人権に含まれていない」ことから委員会に対して削除の申し入れを行い、翌年に対抗措置として CEDAW の事務を担う国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)に対して、日本が支払っている任意拠出金の使途からCEDAWを外すよう求めている。
CEDAWの活動は「女性差別撤廃条約(女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約)」に基づいている。これは国家間の合意である国際法であり、「あらゆる形態」という通り締結国は「すべての経済的、社会的、文化的、市民的及び政治的権利の享有について男女に平等の権利を確保する義務」を負う。その範囲に例外はなく、対象は国家、民間企業、個人のいずれをも問わない。窓口も広く開かれており、一個人が直接CEDAWに通報することも可能である(ただし日本は個人通報制度に批准していない)。
同条約は1979年の国連総会で成立し、日本は批准を渋る政府に対して市川房枝議員が超党派をまとめて交渉したことで、1985年に批准した。これに伴い、父系優先主義をとり、父が日本人である場合のみに子供が日本国籍所得を認めていた国籍法が父母両系に改められている。また同様に男女雇用機会均等法が同条約の国内法の受け皿として制定された。
国際条約は批准されれば自動的に国内的効力が生まれる(「条約の自動的受容」)。日本国憲法でも国際法の遵守が義務付けられており、政府が批准した国際法が国内法と矛盾した場合にはそれを是正する必要がある。しかしそれをどういう形で是正するのか最終的に判断するのは締結国であり、日本の場合は政府、及び違憲審査権を持つ裁判所である。ただし国際法である以上、締結国が勝手に解釈できるものではなく、国際機関であるCEDAWの了解と是認を得られるだけの合理性、衡平妥当性を備えている必要がある。
女性差別撤廃条約の締結国はCEDAWに条約の実施状況を報告する義務があり、CEDAWはそれに審査し締結国に勧告を発する。しかし政府報告書審査での最終見解および選択議定書下での見解はいずれも法的拘束力はなく、その勧告を国内でどのように実施するかは締結国である日本政府の裁量に委ねられている。日本は皇位継承問題の他に、男女の賃金格差についてCEDAWから度重なる改善勧告を受けているが、労働基準法を改正するのか、それとも新法を立法するのかは日本政府の自由である。
女性差別撤廃条約には留保事項があり、条件付きで同条約を締結している国家は多い。日本と同様に王位の男系継承を行っている他国は「王位継承法と矛盾しない場合に限る」などと留保をつけており、例えばサウジアラビアは「イスラム法と矛盾があった場合、王国は条項を遵守する義務はない」としている。
Saudi Arabia
“1. In case of contradiction between any term of the Convention and the norms of islamic law, the Kingdom is not under obligation to observe the contradictory terms of the Convention.
日本は無留保で締結しているため、留保をつけている他国の王室と比べることは不可能である。またバチカン市国やチベットは同条約に締結していないため、ローマ教皇やダライラマと比較することもやはり不適当である。なお同条約には留保を撤回する条項はあるが、留保の追加・修正を規定する条項はない。
- 『女性差別撤廃条約と私たち』林陽子
- United Nations Treaty Collection,Convention on the Elimination of All Forms of Discrimination against Women
- 『「家父長的な固定観念が背景に」国連の担当委員、日本勧告を語る』朝日新聞デジタル2024年10月10日
憲法十四条「法の下の平等」
第14条 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
戦後憲法の14条では「法の下の平等」が定められており、1946年の国会でも新皇室典範で女性・女系天皇を禁じるのは憲法違反になるのではないか?という問題が広く審議された。法学上の解釈では「そもそも皇統の世襲原理が『法の下の平等』の例外であり、皇族は憲法規定の『飛び地』である。よって男女平等に関しても同じく『法の下の平等』の例外であり、女性・女系天皇禁止は違憲には当たらない」という「飛び地」論が当時から現代に至るまで支配的であった。近年の憲法解釈では天皇・皇族が世襲制であることに対する違憲論は依然としてほとんどない[1]一方で、皇室典範の性差の違憲説が徐々に増えつつある[2]。
大津浩は「天皇制自体が生まれつきの身分又は門地による差別を前提として成り立っているところから、伝統に基づくこれらの差別をすべて合憲ないし憲法の枠外に置く考え方が根強いが、世襲制以外のいかなる平等原則違反もその合理性はないと考えるべきである。性差による継承順は憲法14条に違反し、厳格審査基準ないし中間審査基準(いずれも違憲審査の一種)で審査されなければいけない。この点で、伝統の維持や皇位継承に混乱が生ずるおそれなどの理由は差別の合理性の根拠たり得ない」としている[3]。
松井茂記は「明治憲法下で男子直系主義を定めたのが、天皇は統帥権を持つ軍の最高指揮官であったためであるから、非連続説の立場では女帝の禁止は現行憲法第一条『天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く』違反というべきである」と述べている[4]。
辻村みよ子も皇室典範の形式的不平等規定を合理化することはできないとする立場である。世襲原則が憲法14条の例外だとしても世襲原則が当然に性差別を内包するものでない以上、性差別を合理化する積極的根拠が見出せない。女性天皇問題は「女性が天皇になる権利」ではないため権利侵害の問題ではない。しかし象徴としての天皇の地位(形式的・儀礼的な行為だけを行う職)に就くのに性別要件が必然的なものでない以上、このような性別に基づく異なる取り扱いが日本の法制度と慣習上の性差別を助長・温存する機能を果たしていることなどからすると、合理的理由のない差別的取り扱いと認めることができる。またあらゆる法制上や慣習上で性別に基づく不合理な差別を排除する国際法、女性差別撤廃条約に明白に抵触すると解される[5]。
横田耕一も女性・女系天皇の排除を違憲と主張する。天皇の世襲が皇族という国民の中の一部の人々に限定されていることが14条の例外だとしても、その一部の人々の中で不平等がある場合、それは平等原則に違反することになる。そのため女帝否定を合憲とするためにはそれが「合理的な差別」であることが示されなければならず、またそこでは伝統は決定的な理由にはならない。というのは「伝統だから」という理由で差別が許されるとするならばほとんどの差別は容認されることになるからである。新皇室典範作成時に伝統以外で女帝排除に用いられた論理を挙げると以下のようになる。
- 女系が許されないため女帝は一代限りとなり皇位が不安定となる
- 女帝の配偶者の選考や取り扱いをめぐって複雑な問題が生じる
- 女子の公事担当能力は女子に劣る
- 皇族が増えて国庫負担が増大する
- 君臣の別が混淆する
1については平等原則から女系天皇を認めれば問題がなく、2についてはなぜ女帝の配偶者だけ問題になるのかが説明できない。3については偏見ないし固定観念であり問題外である。4は確かに国庫負担の増加は望ましくはないが、男女差別を容認して負担の軽減を図ることは許されないので別の形での解決を考えるべきである。5は封建思想以外のなにものでもない。よって女帝否定には合理的理由はなく、従って女帝の排除は違憲と結論できる[6]。
以上のような違憲論に対し奥平康弘は、天皇制自体がすでに近代立憲主義の例外的な制度であるなかで、性差別という点だけに焦点を絞って議論するのはおかしい。皇室典範は男性も差別しているのであり、性差別といっても皇族女子という特殊な身分の者だけに関わる事であり、女性差別撤廃条約 第1条「人権及び基本的自由」とは無縁である。このような形での天皇制の「民主化」「平等化」を求めるのは意味がないだけでなく、天皇の政治利用を強化する危険な面を持っていると反論している[7]。
- 『新版 体系憲法事典』P458
- 『憲法 第5版』辻村みよ子、P167
- 『新版 体系憲法事典』P417
- 『日本国憲法 第3版』松井茂記、P267
- 前掲、辻村、P167
- 『象徴天皇制の構造 憲法学者による解説』「『皇室典範』私注』横田耕一、P112
- 『ファンダメンタル憲法』「天皇制と男女平等原則」野中俊彦、P20
3章 世数と皇位継承
3章では世数と皇位継承の関わりと、世襲親王家誕生の経緯を詳説する。原則として皇位継承者は1世子孫、つまり天皇の子供であることが条件であり、2世3世子孫は皇位継承からはかけ離れた存在であった。3世子孫から即位した皇極(重祚して斉明)は敏達の曾孫としてでなく、舒明の皇后という経歴が重視して推戴されたものであり、その弟で同じく3世子孫の孝徳天皇はキョウダイ継承の原則に従ったものであった。大正時代まで天皇の一人に数えられた神功皇后は継体と同じく開化天皇の5世子孫であるが、こちらも仲哀の皇后であったことが重視されたと見られる。また後花園と光格は嫡流の天皇の養子に入ることで擬制的に1世として扱われている。
| 1世(天皇の子) | 112代 | |
| 2世(天皇の孫) | 8代 | |
| 3世(天皇の曾孫) | 4人5代 | 皇極、孝徳、斉明、後花園、光格 |
| 4世(天皇の玄孫) | 0代 | |
| 5世(天皇の来孫) | 1代 | 継体 |
「1節 継嗣令と親王宣下」では律令体制下における皇位継承法を解説する。律令の継嗣令では天皇の5世子孫以下は皇親(皇族)にあらずとされていたが、この法文はほとんど最初から有名無実化していた。また律令では天皇の子女ならば皇位継承権を持つことを意味する「親王」号を無条件で得ることになっていたが、嵯峨天皇の時代に「親王」になれるのは親王宣下を受けた者だけと定められ、その他大勢の子供は姓を賜って臣籍降下していった。親王宣下は天皇の子でもなかなか受けられず、まして2世、3世で親王になるのはかなり難しかった。しかし鎌倉時代以降、政治的な要因から天皇の猶子(養子)となることで1世子孫を擬制し、世数を超えて皇籍に残った皇族が多く生まれていく。やがてその中から家領を代々相続する世襲親王家が誕生した。それらの親王家は「皇統御扣ノ御家」として世数が離れても皇位継承権を持っていた。
「2節 擬制父子継承」。世数の離れた「親王」は正確には世数を無視しているのではなく、天皇の娘と結婚し婿養子となるか、天皇の猶子(養子)となるか、あるいはその両方を行なって擬制父子関係を結び1世子孫を擬態することで皇位継承権を得ている。この慣習はかなり古くから存在し、古墳時代、それまでの王統と異なる出自であった仁賢天皇は雄略天皇の女を配偶者にしている。また同じく遠戚から即位した継体天皇も仁賢の女と結婚することで婿養子的に前代の皇統を継承している。親等が離れたところから即位した中世の後花園天皇や近世の光格はいずれも天皇の養子となることで疑似的に1世子孫として登極しており、光格天皇の場合は嫡流の内親王を娶って婿養子の形にもなっている。
3節 中世の世襲親王家」。当初は1世子にのみに限られていた親王宣下だが、まず2世以降の内親王に、次に出家した2世以降の法親王に(当時は出家した皇族は還俗しても皇位継承権はなかった)、そして鎌倉へ皇族将軍を送るために惟康親王が2世孫から親王宣下を受けた。そのような流れはどんどん拡張され、親王宣下は政治的かつ恣意的に濫用されるようになっていき、やがて世襲親王家が生まれていく。世襲親王家誕生の背景には中世に幾重にも分裂した皇統と、門跡(有力寺院の住職)の存在があった。鎌倉時代後期から皇統は2本、3本、4本と次々と分かれていったが、天皇家にはそれを1本に収斂させる意向がなかったく、むしろ親王宣下によって嫡流でない皇統の保存に努めた。また中世世界では宗教界の権威は無視できない存在である。朝廷は有力寺社を皇室の管理下に置くために皇族を法親王にして門跡(住職)に就かせていたのだが、建前上は法親王は子供を作れないため、寺社に送る皇族の数を常に一定確保する必要があった。しかし嫡流だけではその数は補えず、皇族の供給源として傍系宮家が需要された。以上のような時代背景を負って鎌倉時代には四辻宮家、岩倉宮家など小さな宮家が生まれ、室町時代には木寺宮家や常磐井宮家など永世的に当主が親王宣下を受ける世襲親王家が誕生していく。
┬崇光天皇─栄仁親王─貞成親王┬貞常親王─……伏見宮家─……近代11宮家
| └─(彦仁親王)
| ↓養子
└後光厳天皇─後円融天皇─後小松天皇=後花園天皇─後土御門天皇─……今上天皇
└称光天皇
「4節 伏見宮家の誕生」。旧宮家の先祖であり、21世紀の皇位継承問題で最重要視される伏見宮家もその潮流に乗って生まれた中世世襲親王家の一つである。伏見宮家誕生の背景には、南北朝の動乱の中から発生した崇光院流と後光厳院流が互いに正統(嫡流)を奪い合う政争があった。当時、天皇は後光厳流に独占されていたが、自らを嫡流と自負する崇光院流も正統を奪還する隙をうかがっていた。そんな中で後光厳系が断絶し、崇光院流から後花園天皇が即位する。議論となったのは「後花園の父親は誰なのか?」である。つまり「後花園の父親は血縁上の貞成親王である(=正統は崇光院流に移る)」か「後花園の父は義父の後小松天皇である(=正流は後光厳院流のままである)」かが政治問題となったのである。幕府まで巻き込んだこの論争は最終的に「後花園の父親は後小松」と定められ、後光厳院流が正統として続くことになった。そのため今の天皇も伏見宮家も血統上は崇光院流の末裔であるが、系譜的には今上天皇は後光厳流である。その後、後花園天皇は実家に対し永世にわたって伏見殿御所を称する許可を与えたことで世襲親王家、伏見宮家が誕生する。他の世襲親王家が次々と断絶する中、伏見宮家のみは近代に至るまで存続することとなる。
「5節 近世の四親王家」。江戸時代には伏見宮家に加え、有栖川宮家、桂宮家、閑院宮家が皇統の控えとして存在していた。そのうちの一つ、閑院宮家は近衛基熈と新井白石の進言によって1710年に誕生した比較的新しい親王家であり、血統も近かったこともあり、嫡流が断絶した際には光格天皇を輩出している。親等が離れた身から即位した光格は貴族から軽んじられることがあり、本人も傍系であるコンプレックスを抱いていた。
「6世 永世皇族制度」。現在の皇室典範では男性皇族は世数を超えて永世に皇位継承権を持つと定められている。しかし律令では5世以下は皇親ではないと記され、永世皇族制度はその慣例に反するものであった。明治初期には伏見宮家を含めた四親王家の廃止が検討されていたが、典範作成会議で井上毅が永世皇族制度の導入を提案する。公家グループを中心とした反対派は「永世皇族制によって皇族が増えれば皇室財政を圧迫するし、また皇室の体面を汚す皇族が出てくる恐れがある。さらに伏見宮家の血統は既に20世を数え、血統が隔たっている」と主張し、井上は「律令は5世から皇親でなくなると言っているだけで皇族でなくなるとは書いていない。また五世から即位した継体天皇の前例がある」と述べて対抗した。結局、永世皇族制度は賛成多数(14対10)で可決される。その背景には当時、明治天皇に男子が一人しかおらず傍系宮家が不可欠であったことあった。しかしその後、大正天皇が四人の男子を儲けたことで再び伏見宮系皇族の臣籍降下が再び議論されていくことになる。
1節 継嗣令と親王宣下
天皇の兄弟、皇子は、みな親王とすること{女帝の子もまた同じ}。それ以外は、いずれも諸王とすること。親王より五世は、王の名を得ているとしても皇親の範囲には含まない。
すなわち天皇の子を1世として5世子孫までを皇親(皇族)として認め、6世以降は王を名乗っていても皇親ではないとするものである。この「5世」の規定は、応神天皇の5世子孫である継体天皇を意識しているものと思われる。中国の継承法では「五世則遷」といい4世までが同族扱いである。それに従って養老律令に先んじる大宝継嗣令では4世までが皇親扱いであり5世孫の継体には皇位継承権はなかった。しかし706年、文武天皇の詔で5世までを皇親とするよう改訂がなされる。文武朝は日本書紀の編纂が進行していた時期であり、継体天皇を皇親に含めるための改訂だった可能性は高い[1]。この際、嫡子ならば6世以降も王名が得られるとしている。729年には嫡子以外の6世王でも2世王(天皇の孫娘)を娶って生まれた子は、父系7世だが母系を辿って皇親の範囲に入れることになった。徐々に拡大された皇親の範囲だが、798年の勅で4世王までを皇親とする継嗣令の規定に復された[2]。
律令は明治維新を迎えるまで合法であったため、これに基づけば法的には世数の離れた宮家には継承権がないことになる。ただしこの条文は最初から有名無実化していた。律令体制下でも5世以降の皇親が強制的に皇籍を奪われた訳ではなく平安時代に入っても天武天皇の6世、7世子孫が王を称しており、朝廷が再三にわたって臣籍降下を奨励しても効果は薄かった[2]。それと同時進行で平安初期に嵯峨天皇によって「親王」号を持てるのは血の遠近にかかわらず親王宣下を受けた者に限られるようになり、大多数の皇親は臣籍に入るか出家を強いられた。
中世には四辻宮家、木寺宮家や常磐井宮家、旧宮家の先祖である伏見宮家などが5世の括りを超えて親王宣下されている。これらの世襲親王家は厳密には世数を無視しているのでなく、天皇の猶子となることで1世子孫を擬制して親王となっている。また伏見宮家以外は血統が疎遠になるにつれてフェードアウトしていった。中世世襲宮家が成立した事情は様々だが、その祖は皇位継承有力候補でありながら戦乱、政変のために即位できなかったという共通点を持つ。親王宣下は親王の範囲を減らすためのものであり、天皇の子でも親王になれるのはごく一部であってほとんどは出家する運命にあった。まして2世、3世子孫で親王宣下を受けるのはかなり難しかった。
さていま天子の皇子にてもなくて二代三代の御末にて親王宣下侍るは、一向道理に叶はぬ事也、されどもいづれも天子御猶子の号にて宣下也、しからざるはなき也(『官職難儀』吉田兼右)
「二世、三世子孫に親王宣下するのは道理に合わぬ。天皇の猶子でなかったらありえない」という意味である。伏見宮二代目の貞成親王(崇光天皇の孫)に至っては親王宣下を受けたことで皇位を窺ったとの嫌疑をかけられ出家を強要されていた[3]。
江戸時代、伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮が四親王家と称され「皇統御扣ノ御家」として天皇に然るべき皇位継承者がいない場合は、この親王家の中から適当な人物を選び出すこととされていた[4]。幕末では有栖川宮幟仁(霊元4世子孫)、有栖川宮熾仁(霊元5世子孫)と共に、伏見宮貞教(崇光15世子孫)が親王宣下を受けている。孝明天皇が日米修好通商条約の締結に憤り譲位を表明した際、嫡子の祐宮(明治天皇)にもしものことがあった時は宮家の者に頼むとして伏見宮貞教の名前を挙げており、血の遠近は度外視されている。
- 『継体天皇と王統譜』前田春人、P55
- 『皇親と賜姓皇親』吉住恭子
- 『看聞日記と中世文化』松岡心平
- 『近代皇室制度の形成』島善高、P1
- 『天皇の歴史07明治天皇の大日本帝国』西川誠、P42
- 『天皇はいかに受け継がれたか』歴史学研究会 編、P155
2節 擬制父子継承
天皇家は世数・親等が離れた者が即位する場合、今上天皇の猶子(養子)となるか、今上天皇に血の近い皇女を皇后にして入婿する。あるいはその両方を行なって擬似的に父子継承するのが古代からの伝統になっている。中国では同姓不婚(同一父系一族間の結婚の禁止)の鉄則があるため、嫡流へ入婿する風習は日本の王朝独特のものである。朝鮮社会は中世まではそこまで同姓婚に厳しくなかったが、統一王朝の王で嫡流への入婿は一度もない。
その先駆者となったのは、雄略天皇の娘の春日大娘皇女を皇后にした仁賢天皇である。仁賢にとって雄略は父親を殺した親の仇であったが、自らの継承を確固たるものにするため嫡流の娘を配偶者にしたと推察されている。続く継体天皇も相当に遠縁からの即位であったため、仁賢の娘の手白香皇女を皇后にしている。日本書紀にも「手白髪命を娶せ、天下をお授けしました」とある通り、入婿は政治的に強い意味を持っていた[1]。継体は自分の三人の息子、宣化、安閑、欽明天皇全員に仁賢の娘を嫁がせ、より嫡流の血の濃度を高めようと図っている。飛鳥時代、3世子孫から天皇になった皇極(斉明)の配偶者は舒明天皇であり、同じく3世子孫の孝徳天皇の皇后は舒明天皇の娘の間人皇女である。ただし、この頃は近親婚が基本であったため孝徳に入婿意識があったのかは不明である。
奈良時代の光仁天皇は先代の称徳から8親等離れた遠縁からの即位となった。光仁の父親の施基皇子は天武朝の時代に既に吉野の盟約で天武天皇と擬制父子関係を結んでいた。光仁天皇は即位以前に聖武天皇の娘の井上皇后を娶っており入婿の形にもなっている。それは彼が皇位継承者に選ばれた理由でもあったが、井上皇后は後の政変で廃されてしまったため血統を後に繋げることは出来なかった。
江戸時代、桃園天皇が嗣子を残さぬまま急逝したので、血統が近いという理由で閑院宮家から光格天皇が即位した。この時も、皇統が閑院宮家に移ったとするのでなく、光格が後桃園の養子となって嫡流を継いだという扱いであった。光格は同時に後桃園の娘の欣子内親王を皇后にすることで入婿も行なっている。ここまで擬制父子継承を演出しても親等の疎遠さから苦労したことは上述した通りである。欣子の息子たちは皆夭折してしまったので光格の後を襲った仁孝天皇は別の妃が産んだ子であるが、近世で桜町天皇以来、皇嗣は誰の腹から生まれようが正配の「実子」として扱われる習わしとなっていた[2]。つまり仁孝の「実母」は社会的には欣子であった。
天皇の父親は実際に即位していなくても子が天皇であることを受けて「太上天皇」や「〜天皇」等の尊号が追贈されることがある。例えば守貞親王や誠仁親王は息子がそれぞれ後堀河、後陽成天皇として即位したので太上天皇の尊号を与えられている。擬制父子関係の場合、養父との繋がりを重視すれば実父に「〜天皇」の尊号は与えられず、実父との繋がりも意識した場合は尊号が与えられる。前者の例として後花園天皇の実父の貞成親王は太上天皇の尊号は貰っていない。後者の例として光仁天皇は天武系血統に入婿したが、父親の施基皇子に春日宮御宇天皇の尊号を送って天智系血統意識を保持した。
3節 中世の世襲親王家
宮家成立の時代背景とその役割
平安時代初期に始まった親王宣下の制における「親王」号は皇位継承者の証であり、本来は天皇の兄弟と子(1世子孫)にしか与えられないものであった。それが鎌倉時代後半から「親王」号の機能が変化していく[1]。それ以前から孫女王に対して親王宣下はあったが、1274年には後鳥羽の孫の澄覚が法親王(出家した親王)に任じられ男性孫王への初例となった[2]。当時は一度出家した法親王は還俗しても皇位継承権はなかったため、澄覚は皇位継承とは無縁であった。
鎌倉の皇族将軍になった惟康親王、守邦親王らもまた孫王(2世孫)の親王であり、しかも惟康は一度臣籍降下してから皇籍復帰して将軍になるという変わった経歴の持ち主であった。異例の親王宣下は「親王」号が将軍職の権威に必要であったためである。二人に皇位継承がなかったとは言い切れないが、中世的なイエが発達する社会の中で「王家」、さらにその中で各皇統によって「家」が形成されていくと、「家」内で皇嗣の選別が行われるようになり、親王号があっても皇位への距離は前代に比べて遥かに距離が開いていた[3]。以上のように当初の孫王への親王宣下は内親王や法親王、鎌倉将軍など皇位継承から離れた人物へのものであった。しかしこうしたことが前例となり親王の範囲はどんどんと広げられ、室町時代の中期には世代を超えて親王宣下される世襲親王家が産まれていく。
中世の親王家は、近世四親王家や徳川御三家のように「嫡流にもしもの時があった時の備え」という意味合いは薄かった。備えとしての皇族としての役割は孫、曾孫と血が薄くなるにつれその資格を失っていく。鎌倉時代以降に成立していく中世「イエ」社会の中で、天皇家も「王家」という枠組みが生まれた。その「王家」を構成する天皇・上皇、三后(皇后、皇太后、太皇太后)、女院(権威を与えられた内親王や藤原女)、斎宮、法親王などの門跡(寺院住職)という「王家」を補う存在として「宮家」が産まれていく[4]。
具体的に中世の世襲親王家に求められた役割は門跡(有名寺院の住職)の排出であった。中世には出家した法親王が寺に入室するようになったが、権威のある門跡寺院の場合、法親王は公的には子孫を作れないために皇統から新たな皇族を供給してもらわなければならない。中世で門跡寺院の数が増えると必要な皇子の数も増加し、天皇の実子だけでは不足するようになる。天皇家としては宗教行事を担当するだけでなく、多くの所領と人員を抱える門跡の地位を他に渡すことは避けたかった。また寺院側としても、寺の権威を保持するために皇族を求めた。こうして門跡の供給源として宮家が必要とされるようになっていく[5]。
また嫡流が傍系の血の存続させる意向があったことも宮家成立の要因となった。鎌倉時代後半から皇統は幾重にも分裂し、持明院統と大覚寺統が争った。持明院統の中でもまた崇光院統と後光厳統に分裂し、互いに嫡流の地位を争っていた。しかし皇族たちは相手の皇統を根絶やしにしようとは考えておらず、むしろ貴種性を重視し、皇統から外れた皇統も保護・管理下に置くというのが原則であった[6]。初期の親王家である四辻宮家や岩倉宮家も、嫡流の大覚寺統がその保全に努めたものであった。
初期の宮家
┌四辻宮善統親王─尊雅王─善成王(→源義成)
後鳥羽82┬順徳84┼岩倉宮忠成王─彦仁王(→源彦仁)─源忠房(→忠房親王)─彦良王
| └仲恭85
|
└土御門83─後嵯峨88┬(持明院統)後深草89─伏見92……北朝
└(大覚寺統)亀山─後宇多91……南朝
大覚寺統の後宇多天皇は、消滅しかかっていた順徳の子孫を庇護し、その存続を図った。その動機はいくつか考えられ、英明と讃えられた後鳥羽上皇の正嫡とされた順徳子孫の貴種性を自らの王家内に取り込もうとしたのかもしれないし、平安時代のように親王が参加する朝議の復興を構想していた可能性もある[7]。こうした流れの中で中世宮家、四辻宮家と岩倉宮家が産まれてくる。
岩倉宮の祖の忠成王は、元々は関白によって四条天皇の後継に定められた身であった。しかし鎌倉幕府がそれに反対したため、忠成は親王号も与えられないまま死んでいった。忠成の息子の彦仁王は大した事績も伝わらず、臣籍降下してから息子の源忠房を儲けたのだが、この忠房が当時の貴族の日記に「不審」と書かれるほど摂関家に厚遇された。忠房は出世を重ねるだけでなく、後宇多天皇によって突如皇籍に戻され親王宣下まで行われた。天皇の曾孫(三世孫)が立太子する事例は極めて珍しく忠房は「三世孫王立親王例」として後代に伝えられた。源忠房は臣籍の親から生まれ、生年が分からないため具体的な年間は不明だが、少なくとも20数年も臣籍として暮らした後に親王になったことになる[8]。だが忠房の息子は親王号を受けることはなく臣籍降下し、出世もそこそこに出家した[9]。
四辻宮の祖、善統は本来は順徳統の嫡流扱いだったのだが、後宇多天皇は上記の岩倉宮忠房が正統だと認識していた。そのため善統の息子の尊雅王は事績もほとんど伝わらず、親王宣下もされなかった。しかし尊雅王の子の善成王は臣籍降下し源善成となったものの、当時の貴族から「四辻宮」と呼ばれ源氏でありながら「宮」として認識されていた。善成は晩年に皇籍復帰と親王宣下を望んだが、幕府に「無益之由」と却下され、その後出家した[10]。順徳の血を残すために存続を許された岩倉宮も四辻宮も世襲親王家にはなれなかったことになる。
世襲宮家の成立
亀山┬後宇多┬後二条─邦良親王─木寺宮康仁親王─邦恒王─世平王─邦康親王─……断絶
| └後醍醐─……
└常盤井宮恒明─全仁親王─満仁親王─直明王─全明親王─恒直親王─……断絶
後光厳の時代(在位1352~71)には孫王への親王宣下が禁止されたが、その死後すぐに亀山曾孫の常盤井宮満仁が親王宣下されており、親王宣下の基準は極めて恣意的かつ政治的であった[11]。15世紀中頃までには常盤井宮家だけでなく木寺宮家の邦康親王(後二条5世孫)、伏見宮の貞常親王(崇光3世孫)と代を重ねた俗体(出家しておらず皇位継承権を持った)皇親に親王宣下することが制度化され、世襲親王家が誕生していく[12]。
常盤井宮家の祖、恒明親王は皇位継承有力候補として単なる親王を超えた権威を有しており、その子らは孫王でありながらいずれも親王宣下されていた。曾孫王の満仁は「孫王の立親王、近比禁制しおわんぬ」と後光厳に親王宣下を止められるも幕府も恒明の子孫には一目置いており、後光厳の死後に幕府の圧力で満仁に親王宣下がなされる。『後愚昧記』によれば満仁は親王宣下してもらうために足利義満に愛妾を上納したという噂が当時あったという[13]。
木寺宮家の祖、邦良親王は本来は大覚寺統の嫡流であり、叔父の後醍醐の後を継ぐ皇太子であった。しかし南北朝の動乱の中で皇統は後醍醐の血統に移り、邦良の息子で、父の早世後に皇太子になった康仁親王は廃嫡された。だがその後、門跡候補不足のために木寺宮邦康が弟と共に親王宣下され、木寺宮家の親王宣下が世襲化された。足利義持のブレーンであった三宝院満済は「邦康は孫王でもないので門跡となる資格がかなり不足しているが、後小松の猶子(養子)として入室することができた。近年この形での入室が多いのは貴種が不足しているためである」と日記に記している。当時、門跡に入室する皇親の不足は、公武政権において体制を揺るがしかねない問題となりつつあった[14]。
戦国時代に常盤井宮と木寺宮は断絶してしまったが、そうでなければ伏見宮と同様に門跡の供給源として存続したと見られる[15]。
- 『中世の王家と宮家』松薗斉、P112
- 前掲、松薗、P131
- 前掲、松薗、P111
- 前掲、松薗、P108
- 前掲、松薗、P110
- 前掲、松薗、P112
- 前掲、松薗、P139
- 前掲、松薗、P125
- 前掲、松薗、P137
- 前掲、松薗、P133~134
- 前掲、松薗、P202
- 前掲、松薗、P205
- 前掲、松薗、P169~171
- 前掲、松薗、P202~203
- 前掲、松薗、P205
4節 伏見宮家の誕生
後花園天皇の即位
┬崇光天皇─栄仁親王─貞成親王┬貞常親王─……伏見宮家─……近代11宮家
| └─(彦仁親王)
| ↓養子
└後光厳天皇─後円融天皇─後小松天皇=後花園天皇─後土御門天皇─……今上天皇
└称光天皇
伏見宮家の祖である崇光上皇は、南北朝の動乱の最中に南朝方に拉致されるという憂き目に遭った。後に帰京が許されるも、その条件として「以後、崇光院流からは皇位に就かない」という旨の誓約書を書かされている。しかし崇光とその子孫は崇光院流こそ「天照大神以来の正統」と自負し続けた。崇光の息子で強い嫡流意識を持つ栄仁は、後円融、後小松と後光厳院流の継承が続く中でも天皇即位を夢見続けていたが、皇統安定のために直系継承を望んでいた足利義満の意向によって出家を強いられている。栄仁の子の貞成も同様に親王宣下によって皇位をうかがったという嫌疑をかけられ出家を強制された。
そんな中、後光厳院流の称光天皇が後嗣を儲けないまま崩御した。これにより貞成の息子の彦仁親王が後花園天皇として即位した。貞成は我が子の践祚によって崇光院流の「皇統再興」が念願が成ったと歓喜したが、事は容易に運ばなかった。後花園は遠戚からの即位になったため、慣例に従って称光の父の後小松天皇の養子に入ったのだが、後小松崩御後に後花園の「父親」は、実父の貞成かそれとも養父の後小松なのかが政治問題となった。つまり後花園は崇光院流なのか後光厳院流なのかで解釈が分かれたのである。
室町幕府でも議論は紛糾した。将軍の足利義教は「後光厳院流が永続すべきものなら、そもそも子孫が絶えるはずがない」とし後花園は崇光院流とした。一方で三宝院満済は先述した「以後崇光院流からは皇位に就かない」という御告文を取り上げ、後花園を崇光院流とすることの不可を説き、後光厳院流による継承を取り計らうことが後光厳以来の「公武御契約」であると述べた。幕府の結論は「後花園は養父である後小松の息子」。つまり後光厳院流の継続である。これにより貞成と後花園の親子は社会的には他人になってしまう。
「且つは院(後小松)の御子にならせましまして、いまは我ら(貞成と後花園)を他人におほしめされ、人もさ様に申しければ」『椿葉記』
貞成親王は天皇の父を意味する「太上天皇」の尊号も与えられず、崇光院系の復活も果たせず無念な結末となった。『皇年代略記』や『本朝皇胤紹運録』などの系図類は後花園天皇を「後小松院第二皇子」と実子として扱っており、一方で伏見宮が作成した後花園を貞成の子とする系図に対して万里小路時房は「誠ニ然ルベカラザル事也」と批判している。後に貞成は義教の意向で伏見宮から東洞院への移転、及び仙洞御所(上皇の住居)へ近臣の配分も叶い、公武から上皇扱いを受けるようになっていった。さらに後花園は養父の後小松が隠れた後に、朝臣の反対を押し切って晩年の実父に太上天皇の尊号を送っている。しかしそれで後花園の系譜上の位置付けは変わることはなかった。後花園天皇は後光厳院流として現在の令和の天皇まで皇統を繋ぎ、方や崇光院系は以後一度も天皇を排出できなかった。
伏見宮家の成立
21世紀の皇位継承問題で出てくる伏見宮家、及び派生の旧10宮家とはこの崇光院系の末裔である。貞成の息子の貞常が、兄の後花園天皇から永世にわたって伏見殿御所を称する許可を得て以降、代々伏見宮家の者は親王宣下を受ける事が常例となる。これによって1947年まで約550年続く世襲親王家、伏見宮が誕生する。伏見宮家が正統の証である持明院統累世の家記典籍類[1]を多く伝えていたことも、継承の客体としての家の核を与えたと考えられる。伏見宮家は独自の所領とそれを預かる家臣団を抱え、血統が皇統から疎遠になろうと衰えないステイタスを保持し続けた。
15貞建┬18邦頼─19貞敬
└16邦忠
伏見宮家は以後も嫡流から独立した血統意識を持ち続けた。1759年に伏見宮家は一度断絶し、桃園天皇の子である貞行親王が伏見宮を継いだ。桃園の子(1世孫)が当主となったことで宮家の男系血統は大きく皇室嫡流に近づいたのだが、貞行親王が亡くなると宮家は伏見宮直系継承を頑として譲らず、皇室嫡流の者が宮家を継ぐことを強く拒否している。結局、出家していた邦頼親王(崇光12世子孫)が還俗して宮家を継承し、伏見宮家の男系血統は再び嫡流と大きく引き離された[2]。
明治維新前の伏見宮家は「伏見宮」ではなく「伏見殿」と称し、「(天皇のいる)御所も(伏見宮家がいる)当御殿も同様である」として四親王家でも別格を自負していた[3]。
宮家の宮中席次
世襲親王家が生まれて問題となったのは宮中席次である。傍系宮家と将軍や摂関家のどちらが席次(身分)が上か、中世では定期的に議論となった。
1270年の後嵯峨天皇の代では天皇→上皇→女院→親王・法親王の順であった。1382年、准后(天皇の勅によって与えられる特別な待遇)足利義満もこれに倣い、人臣にして親王の先に立った。しかし准后は立ち位置は必ずしも定まっておらず、後世史料ではあるが『親長卿記』にこの時も議論があったと書かれている。足利義政の時代には准后の義政と伏見宮貞常王(後花園の弟)のどちらを先にするかが問題になり、「義満の先例で既に決まっており准后が上で次が親王」と確認された。しかし時の有識者の一条兼良は「確かに三宮(准后)は親王より上であるが、現在の伏見殿は特別な存在であるので、たとえ准后であっても実際の場では遠慮すべきである」と述べ、この意見は天皇に奏上された[1]。
16世紀末、徳川家康への惣礼する際に、伏見宮邦彦親王と准后二条昭実の礼の前後について「申分」があった。家康は「親王が先」と裁定したがこの処置はこの場限りのものであった。その後、昭実は家の記録と『職原鈔(官職の沿革を記述した書)』を提示し「准后の席次が上」と主張した。だが家康はそれでも「究め難い」として判断を保留し、最終的な決着は禁中并公家中諸法度まで引き伸ばされる[2]。
同法には以下のようにあり、その席次は三公(太政大臣,左大臣,右大臣)→親王(天皇の兄弟や子、孫)→前官の大臣(摂家)→諸親王→前官の大臣(摂家に次ぐ家格の清華家)と明確に定められた。伏見宮家は諸親王に該当する[3]。
第二条 三公の座次。親王の位次は三公の下にあり。摂家の位次は,三公,親王,前官大臣,諸親王。
第三条 清華家の大臣辞任後の座次 辞任後の三公の席次は、親王より下である。
第十三条 摂関門跡の座次。摂家門跡は親王門跡の次座,摂家は,三公の時には親王の上座たりと雖も、前官大臣は親王の次座と定められたるによりこれに准ずる。
後世、傍系から即位した光格天皇は父の典仁親王が天皇の実父でありながらただの親王であるため摂政や三公より席次が下であることを嘆き、父に太上天皇号を送ろうとして幕府との間に一悶着を巻き起こしている(尊号事件)[4]。
明治以降は皇族には隔絶した地位が与えられ、傍系皇族も全ての華族より席次が上となった[5]。
- 『中世の王家と宮家』松薗斉、P192
- 『天皇の歴史5 天皇と天下人』藤井譲治、P284
- 『江戸幕府と朝廷』高埜利彦、P11
- 『天皇の歴史6 江戸時代の天皇』藤田覚、P238
- 『皇后の近代』片野真佐子、P127
5節 近世の四親王家
江戸時代には伏見宮にくわえて桂宮家と有栖川宮家と閑院宮家が四親王家として皇統を守る役目を担った。四親王家は代々当主が天皇の猶子(養子)となって親王宣下を受け、血は離れていても皇位継承権を有していた[1]。近世中期以降に何度か伏見宮家の者が皇位継承者候補になったこともあり、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟が新政府側の明治天皇に対抗するために東武天皇(北白川宮能久親王)を擁立したという説もある。明治天皇には男子が少なく、仮に嘉仁親王(大正天皇)が夭折していた場合、皇統は伏見宮系に移っていたものと思われる。
桂宮家は豊臣秀吉が後陽成天皇の皇子、誠仁親王を猶子にしていたが、秀吉に実子が生まれたため宮家として独立したものである。有栖川宮家は同じく後陽成天皇の皇子、好仁親王を祖とし成立した。桂宮家と有栖川宮家はしばしば直系が断絶し、そのたびに嫡流から皇子を迎えて幕末まで存続していた。
閑院宮家の成立
東山113┬中御門114─桜町115┬桃園116─後桃園118─欣子
| └後桜町117 |
└閑院宮直仁─典仁───────────光格天皇119─仁孝120─孝明121─明治122
一番最後に成立した閑院宮家は、新井白石と前関白太政大臣の近衛基熈の進言によって生まれた。白石は『折たく柴の記』で新宮家創設の理念と経緯を記している。それによれば徳川家は神祖(家康)の功徳にもかかわらず、家綱と綱吉の二代にわたって世継ぎが得られていない。こうした事態を防ぐためには家康の徳を受け継ぐ他はない。その手段として皇室に新しい宮家を作るべきである。現在の皇室は皇太子以外の男女はみな出家してしまっている。一般人ですら誰もが家を持ちたいと思い、親は息子には財産を、娘には嫁ぎ先を与えている。まして侍以上の身分のものでそう思わない者はいない。たとえ皇室の方から申し出がなくても、皇子女が全員門跡に入っている状態を改善しないようで朝廷に仕える義務を果たしているとは言えない。
この国を開かれた天照大神の子孫が衰微していては、徳川家康の子孫がとこしえに繁栄できるわけがない。皇子の数が増えても国家の財産に大した影響がある訳でもない。「皇子の子孫が多くなると幕府の不利になる」という意見もあるかもしれない。確かにかつて以仁王の令旨によって平氏政権は倒れたが、これは平清盛に非道が多くて平家が滅亡する時期にきていたのためである。また鎌倉幕府滅亡の折にも後醍醐の息子の護良親王が活躍したが、彼は一度出家した身であり、現在のように出家した皇族でも武家に不利なことはある。
時の将軍、徳川家宣は白石の進言を「国家の大計」と受理し、その意見は近衛基熈を通じて中御門天皇に嘉納された[2]。基熈もまた家宣に謁見した際に、東山天皇が長年新宮家創立を願ったことを将軍に伝えていた。一方で東山の父の霊元上皇は基熈と反目しており、また実子の富貴宮を祖に新宮家を創立しようとして失敗していため閑院宮家の創設には反対していた。だが結局、1710年に東山天皇の第七皇子の秀宮直仁に親王宣下があり、閑院宮家が創立された(宮号が付けられるのは後年)。なお閑院宮家の創設は、以後の新宮家創設の先例にしてはならないという条件がつけられている[3]。
『折たく柴の記』には白石が皇統断絶を危惧して新宮家を創立したとは書かれていない。後年、後桃園天皇が嗣子なく死んだ時、有栖川宮と伏見宮に若い皇族男子が複数存在しており閑院宮家が皇統断絶の危機を救った訳ではない。
光格天皇の苦悩
江戸時代に後桃園天皇が乳女児(後の光格皇后の欣子内親王)だけを残して急死してしまったため、急遽傍系宮家から天皇を立てなければならなくなった。四親王家のうち桂宮家は当主がおらず、有栖川宮は当主が26歳と若く適当な男児がいない。残された候補の伏見宮と閑院宮のうち相対的に血筋が近く、男子が多かった閑院宮家の祐宮が光格天皇として即位する[1]。傍系にして東山天皇3世子孫という立場から践祚した光格は、嫡流との血の縁遠さからかなり苦労をしたことが伝わっている。
「よって御血縁も遠く相なりし故に、諸人軽しめ奉るには非ずといえども、何やらん御実子の様には存じ奉らず、一段軽きようにも存知奉る族もこれありけり」『小夜聞書』
天皇家の血脈としては遠くなったことから、公家や延臣たちに実子が跡を継いだ時よりも光格を軽視するところがあった。天皇自身も自らの傍流コンプレックスから宣命や宸翰(天皇自筆の文書)に自己卑下的な事を書いている。
「兼仁(光格)眇眇たる傍支の身にして、辱く天日嗣を受伝える事」
「従傍支して皇統を続奉るは」
「愚は宗室の末葉にして」
6節 永世皇族制度
現在の皇室典範では世数を重ねても皇籍離脱を強制されない永世皇族制度を採用しており、百世子孫も皇族の範疇とされている。しかし旧皇室典範作成時には「永世皇族制度は祖宗以来の伝統に反する」と公家出身グループを中心に強い反対運動があった。
近世の宮家は四親王家(伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮)のみであったが、幕末になって出家していた親王方が復飾してきて宮家の数は膨れ上がった。そこで新政府は、世数によって皇族の範囲を定めることで皇族の削減を図った。明治3年、四親王家以外の宮家は本人のみ皇族で二代目より姓を賜って華族に列すると定められた。この時点では四親王家には手は付けられず、新宮家である北白川宮が次世代に継承するなど改革は徹底されていなかった。
その後、皇室典範の作成が進む中で四親王家の解体案が提起されていく。明治15年、岩倉具視が主導した内規取調局の「皇族令」や三条実美草案では「親王より5世に至れば華族になる」と記載されており、いずれも四親王家の廃止が提言されている。三条は「皇族の世数を限定することは親疎の秩序を正し、尊卑の分を明らかにする。私情で皇親を優遇するのは正理を害して国体に益するところはない」と主張して永世皇族制度の反対を唱えた。井上毅はこれらの意見に対し「継嗣を広め皇基を固くする」ために5世以下を華族に列することは不可とした[1]。
明治19年頃の天皇の内論では「新しく親王になった家は四親王家扱いせず」として四親王家以外は原則一代限りの慣例を踏襲した。翌年の会議で「世襲親王制は廃止するが、皇族全員は臣籍降下しない」と決まるものの、更に次の年の「枢密院諮詢案」ではその決定が翻され、全ての皇族を永世皇族にする永世皇族制度が記されていた[2]。これに対し三条を筆頭に東久世通禧、柳原前光、尾崎三良ら京都出身者グループが永世皇族制度について批判を行った。その主旨は「永世皇族制度で百世の後に至るも皇族となれば、皇室費が増加する恐れがあり、また皇族としての品位を保てないような皇族も現れる虞があり、ひいては皇室の威信も落としかねない。すでに伏見宮の血統は皇位を隔てるに20世を数える。よってゆえに桓武天皇以来の前例に従って臣籍降下条を加えよ」というものである。永世皇族制度が伝統に反することは宮内省の共通見解であり、枢密院議長の伊藤博文、宮内大臣土方久元、司法相山田顕義、枢密院副議長寺島宗則らも三条らに同調して永世皇族制反対派に回った[3]。これに対し井上毅は以下のように反駁した。
- 過去に五世子孫から即位した継体天皇の例があり、今後同じように嫡流が途絶えた場合は五世、六世といっていられず百世の子孫も皇族とすべきである。
- 律令は「五世から皇親でない」といっているだけで「五世から皇族ではない」と書かれておらず、賜姓するともしていない。
- 宮家がいれば皇族の婚姻時にも有用である。
- ヨーロッパの王家でも皇族が臣籍降下で皇族でなくなるということはない。プロイセンのホーエンツォレルン王家もホーエンツォレルン・へヒンゲン家やホーエンツォレルン・ジグマリンゲン家などの傍系が存在する[4]。
- 臣籍から皇位継承した宇多天皇は歴史家が不都合に思うところである。姓を賜って臣籍に列するならば臣下なのに皇位継承権を持つという矛盾が生じてしまう。
- 以上のことから多少の支障はあっても皇族の範囲を拡張することは皇室の利益となる[5]。
井上は女系天皇を典範から除くため、その対案となる永世皇族制の導入は必須だと考えていた[6]。最終的に多数決で永世皇族制の賛成が14、反対が10で永世皇族制度は可決された。
明治天皇はすべての典範作成会議に臨席して一言も発さず始終黙聴していた。しかし数日の後に永世皇族制度を批判していた土方久元を召して「前日の議は汝等の論ずる所正鵠を得たり」と告げ、永世皇族制度反対を暗に示した[7]。その後も柳原は「皇族遠系ヨリ漸次(しだいに)賜姓」することは「祖宗以来ノ慣例」であり、仮に永世皇族制度を制定すれば源氏や平氏をはじめ皇族の数は数百万人に昇ることになる。無理やり永世皇族制を決めても十年も経たずに必ず典範を改正することになるだろうと警告した[8]。
実際にその後、大正天皇夫妻が多く男子を儲けたことで今度は伏見宮系皇族を皇籍離脱させる方策が模索される。
- 『近代皇室制度の形成』島善高、P1
- 『天皇はいかに受け継がれたか」歴史学研究会 編、P164
- 『天皇と右翼・左翼』駄場裕司、P120
- 『井上毅傳 史料篇第一』「皇室典憲意見」P514
- 前掲、島、P78、P92
- 前掲、歴史学研究会、P165
- 『「天皇」永続の研究』東郷茂彦、P172
- 前掲、島、P92
4章 十一宮家皇籍離脱の経緯
「1節 皇族の降下に関する施行準則」。前章でも述べたように皇室典範では世数にかかわらず全ての男系子孫を皇族として認める永世皇族制を定めている。その成立背景には明治天皇に男子が一人しかいない状況があったが、大正天皇が4人の子供を産んだことで、血縁の遠い伏見宮系皇族に皇位が回ってくる可能性は減少した。そこで宮内省は伏見宮系皇族を臣籍降下させる方針を立て、特に大正時代には「皇族の降下に関する施行準則」を発議する。この準則は世数の離れた伏見宮系皇族に臣籍降下を強制することが可能にするものであったため、子孫が皇籍身分を失うことを恐れた皇族たちはその成立に強く反対した。宮内省・元老と皇族の論争は紛糾し、準則は半ば強引に可決されることとなる。この法規により将来的に伏見宮系皇族は全員皇籍離脱することになった。しかしその離脱は機械的に行われるものでなく、伏見宮系皇族でも例外的に皇籍に残る可能性が存在したことが指摘されている。
「2節 GHQと皇籍離脱」。しかし準則が効力を発揮する前に日本は1945年の終戦を迎える。戦後、日本に上陸したGHQの目的は日本を国民主権の国にするため皇室改革に乗り出した。戦前の皇室は三井・三菱などの財閥をはるかに超える資産を所有していたが、GHQによって皇室財産は凍結・没収された。伏見宮系皇族は生活するのもやっととなり、十一宮家の皇籍離脱が議論されていく。皇族会議では東久邇宮は離脱に賛成し、竹田宮は反対するなど賛否両論であった。国内世論でも皇籍離脱を支持するものがあり、最終的に宮家皇族は全員皇籍を離れることに決定する。その際、宮内省の加藤進次官は皇族達に対し「万が一にも皇位を継ぐべきときがくるかもしれないとの御自覚の下で身をお慎みになっていただきたい」と告げていたことを戦後のインタビューで述懐している。
「3節 昭和天皇の宮家皇籍離脱への態度」。昭和天皇は皇族会議の中で、宮家の離脱に対し賛成でも反対でもなく中立を貫いていた。天皇の弟の高松宮は日記の中で「天皇が皇族と共にやっていくと言うならそうするし、民主主義でやっていくなら皇族には離れてもらう」と言って、態度をはっきりさせない天皇に不満を募らせていた。しかし昭和天皇は皇籍を離れる宮家には最後まで深い同情の念を示していた。天皇は「菊栄親睦会」という交流会を主催し、その会を通じた旧宮家子孫と皇室の交わりは現在に至るまで途切れていない。その他、大正天皇の皇后の貞明皇后は、皇籍離脱のニュースを聞いて「これでいいのです。明治維新この方、政策的に宮さまには少し良すぎました」と述べて「眉一つお動かしにならなかった」と伝えられる。
嵯峨52┬仁明54┬文徳55─清和56┬陽成57
| | ├貞保親王
| | └貞辰親王
| └光孝58─宇多59─醍醐60……
└源融
「4節 古代の臣籍降下と宇多天皇の即位」。現在の皇位継承問題で、臣籍身分から天皇に即位した先例として宇多、醍醐の親子が注目されている。宇多即位の背景には陽成天皇と摂政の藤原基経の確執が存在した。基経によって陽成が廃位させられた後、陽成の子供達が幼少であったため光孝天皇が中継ぎとして即位した。この際に臣籍にあった源融が自ら皇位に名乗りを挙げたが、基経は「賜姓されて臣下となった者が天皇になることは前例がない」といって断ったと歴史物語『大鏡』に記されている。中継ぎ天皇となった光孝は子孫に皇位継承しない証として子女のほとんどを皇籍離脱させたが、基経は陽成の子に皇位継承させることを嫌い、臣籍にいた源定省を宇多として即位させた。定省の後嗣決定、定省の皇籍復帰、立太子、光孝の崩御、宇多の即位がわずか二日の間に行われたスピード即位劇であった。臣下が登極するという前例のない新儀は基経が権力にものを言わせた結果であるが、過去には天武天皇の孫で臣籍にいた文室浄三、大市の兄弟に即位が求められた先例もあった。また天皇にはなっていないものの、57年間臣籍を過ごしてから皇籍復帰した源兼明(兼明親王)や、臣籍の父から生まれて20数年を過ごしたあとに皇籍復帰した源忠房(忠房親王)なども存在する。
1節 皇族の降下に関する施行準則
臣籍降下の開始
伏見宮系皇族を順次皇籍離脱させる方針は明治に決定していた。井上死後の1907年、伊藤博文は「(傍系)皇族が不相応な望みを持つかもしれないし、財政上の問題からも皇族の数を限ることは急務である」「皇室の根幹を強固にするために遠系の皇族を臣籍に降すことは止むを得ざる措置である」と認識し[1][2]、帝室制度調査局総裁として臣籍降下の規定を中心にした皇室典範補案を明治天皇に提出した。補案は内閣に審議され、山縣有朋元帥を議長とする枢密院で可決した。永世皇族制度を定めた旧皇室典範は改訂が難しかったため、増補という形で臣籍降下を定めた典範増補が行われた。
第一条 王は勅旨又は情願に依り家名を賜い華族に列せしむることあるべし
第六条 皇族の臣籍に入りたる者は皇族に復することを得ず
増補條項義解では、一度臣籍に入った者の皇籍復帰を禁じるのは、一度定まった上下の名分は覆し難いというのが「日本建国以来の伝統」のためだとしている[3]。
この増補による臣籍降下は各皇族の「情願」、つまり自由意志に任されており、本人にその意志がない場合には降下を免れていた。だが「世襲財産を賜ふ」などの好条件をつけられても、この増補により臣籍降下した男性皇族は北白川宮輝久の1名しかいなかった。幕末まで宮中席次が藤原摂家より下位だった宮家も明治維新以降は隔絶した地位を与えられており[4]、各種特権を授けられた文字通りの王侯貴族の身分をわざわざ捨てようとする者は少なかった。
準則の起草
1918年(大正7年)、波多野敬直宮内大臣は皇室の尊厳を守り、皇室財政の安定化の上から「現在の(伏見宮系)皇族は、いずれも皇室と血縁遠きに付き」「(皇族が多すぎることは)喜ぶべきに非ず」と考え、帝室制度審議会に皇籍離脱の基準作成を求めた。当初は永世皇族制度の廃止も唱えられたが、後に首相にもなる平沼騏一郎らが反対して伏見宮系皇族の世数を限る案を主張した。その理由として平沼は、永世皇族制を廃止し律令のように嫡流以外の王族は5世で臣籍降下することにすると大正天皇の5世子孫は嫡流を除いて皇籍離脱してしまうのに、一部とはいえ大正天皇と28親等以上も離れた伏見宮系皇族は皇籍に残り続けるという不均衡が発生してしまうことを挙げた。
平沼騏一郎「現在の(伏見宮系)宮家は皇室と血縁遠きに拘はわらす、之を存し置きて、将来は比較的血縁の近き方(大正天皇の子孫)を臣籍に降すは不均衡」
施行準則の起草者の一人である倉富勇三郎は、伏見宮系皇族を世数で臣籍に下すことは現実的に「到底実行し難」く、仮に実行すれば宮内省は「非常の窮境に陥る」と警告していた。そこで皇族の反対を回避するために当初は臣籍降下の対象を伏見宮系皇族に限っていた草案を、大正天皇の子孫にも適用するよう修正した。倉富はこれによって皇族の不満をいくらか緩和できると考えていた。
帝室制度審議委員会が作成した「皇族の降下に関する内規」報告書は枢密院議長の山縣有朋への提出を経て、枢密院で修正可決される。宮内当局からすれば、皇族の臣籍降下は典範増補ですでに決定済みの事案であり、準則はその運用のための細則にすぎないと考えていたがこれが大きな問題となる[1][2]。
波乱の皇族会議
皇族を強制的に臣籍降下させる準則のことを聞かされた皇族たちは強い抵抗の意志を示した。宮内省から準則制定のための皇族会議出席を求められた久邇宮邦彦は、東伏見宮依仁、閑院宮載仁、伏見宮博恭らと共に会議を中止に追い込んで「痛快之至り」と口にしている。皇族会議は天皇が下付するものであり、異論なく承認されるのが慣例であった。そのためこの事態を予期していなかった宮内省は各皇族の説得に走らなければならなかった。山縣も「皇族は時勢を達観して意見を定める必要があり、皇族が自らの利益のために(陛下の意志に)反対したことが世間に漏れれば、皇族の不徳になるだけではなく皇室の不徳にもなる」と訴えかけたが久邇宮の意見を変えることはできなかった。
伏見宮系皇族達はそれ以前から自分達が軽視されていると感じており、宮内省や大正天皇へ不満を抱えていた。久邇宮は、宮内省は「社会主義の平等論」を採用し皇族を「所謂ありてもよし、なくてもよしと云ふ無用の長物」として扱い続けているため、今後はどれだけ憎まれようと宮内省と対立していくと断言した。また久邇宮は、宮内省を任命した天皇に対しても「日本の天子様の余り神様の如くして、数人に足らぬ余等(皇族)の世話をも御自身御覧にならぬ」と不服を覚えていた。他にも「平皇族」と自嘲して天皇への反発を強めた東久邇宮稔彦や、「宮内省が何事も先ず決めて押し付ける」「皇族の自主性、個性、人権というものを無視している」とする閑院宮春仁が宮内省や天皇への不快感を示していた。当時の大正天皇の病は深刻であり、皇室を率いる家長としての権威は残っていなかった[1][2]。
ようやく開かれた皇族会議では子孫が皇籍身分を失うことを危惧した北白川宮成久、朝香宮鳩彦、伏見宮博恭が異論を述べ、久邇宮も「(伏見宮系)皇族がおらずとも皇位継承には問題なし」とする山縣に対し「ここ4,500年を見ても直系が断絶したことが(称光、後桃園の)2回もある(故に傍系皇族は必要である)」と皇統の控えとなる傍系宮家の役割を主張した。
山縣の発言の背景には、大正天皇に昭和天皇も含めて四人の息子がおり、直系が断絶した場合の備えとなっていたこともあった。
会議は不穏な雰囲気となり、評決も採られることなく終了した。当時内閣総理大臣だった原敬の日記には、当日会議が紛糾したこと、また準則が制定されるまでに甚だしい面倒ごとがあったかことが書かれている。
「皇族會議を宮中に開かれ余(原)司法大臣として出席したり。宮内大臣説明、山縣も枢密院議長として決議の次第を演説したり。皇族方質問など頻に出、形勢穏和ならざりしが、閑院宮は皇族の身上に關する問題故可否の決議なさずして其旨奏上ありたしと發議せられ、一人の賛成ありたるのみにて議長は採決せずして其事に取計ふべき旨宣告せられ其れにて終結したり。皇太子殿下(昭和天皇)もご出席あり、伏見宮議長の職を執らる。是れにて甚だ面倒なりし皇族降下令準則決定せられたり」『原敬日記』大正九年五月十五日[4]
会議の後、山階宮武彦と朝香宮鳩彦以外の皇族は、裕仁皇太子も出席した大正天皇の賜餐をボイコットして山縣を激怒させた[5]。
皇族達が自分の家の利益を念頭に臣籍降下に反対していると考えていた元老たちは種々の場所で憤慨し、西園寺公望はその態度を「町人根性」、山縣は「婦人の愚痴」と評していた。
西園寺「此の如き(皇族が臣籍降下に反対する)意見は、露骨に云えば町人根性なり。此の如き事になりたる病根は何処に在るべきや」
山縣「日本国民と皇室の関係を密接にし、国民同祖挙国一姓(天皇家と国民の先祖は同じである)の観念を養い、以て国民団結の中心を皇室に置くの美風を助長する役割を本来は皇族が担うべきはずなのに、このような態度になっていない」[7]
結局、波多野は皇族会議で議決していないにもかかわらず「会議でも質問はあったが異見はなかった」と押し通し、大正天皇に施行を奏請した。こうして1920年に「皇族の降下に関する施行準則」が内規として裁定される。その後、波多野は宮内大臣を辞職しているが、当時の新聞にはこの皇族会議での失態が辞職の原因であったと書かれている[9]。
準則制定の経緯について、邦彦の私的顧問であった牧野克次は、有耶無耶のうちに陛下の思し召しを盾に強行した点を「実に横暴不遜」と批判し、今後は「無法無暴の擬勅命」が下るに違いないと述べ、そしてこの「悪案」を撤回させるために皇室典範を根本的に改正することを久邇宮に承諾させている[10]。閑院宮春仁も戦後の回想で当時の宮内省の措置は「下克上」であり「全く言語道断」だと述べ、皇族は宮内省に支配される必要なく自主性を持つべきだったと主張している[11]。
春仁王「宮内大臣なり、宗秩寮(宮内省の皇族に関する部局)総裁なり、或はその下僚が、自己の見解を以て、皇族の意志を掣肘するが如きは、全く言語道断」
- 『久邇宮家関係書簡集』P246
- 『私の自叙伝』閑院純仁、P116
- 『天皇はいかに受け継がれたか』歴史学研究会 編、P202
- 『原敬日記』第五巻
- 『天皇と右翼・左翼』駄場裕司、P121
- 前掲、歴史学研究会 編、P203
- 前掲、歴史学研究会 編、Pⅺ
- 『波多野敬直宮内大臣辞職顛末』永井和
- 前掲、永井
- 『久邇宮家関係書簡集』P254
- 前掲、歴史学研究会 編、P203
準則の運用
第一条 皇玄孫の子孫たる王、明治四十年二月十一日勅定の皇室典範増補第一条、及皇族身位令第二十五条の規定に依り、情願を為さざるときは、長子孫の系統四世以内を除くの他、勅旨に依り家名を賜い華族に列す。
此の準則は、現在の宣下親王の子孫、現に宮号を有する王の子孫竝兄弟及其の子孫に之を準用す。但し第一条に定めたる世数は、故邦家親王の子を一世とし実系により之を算す。
「皇族の降下に関する施行準則」は江戸時代末期の伏見宮家当主伏見宮邦家を起点として、嫡男以外の兄弟は一代のみの皇族でありその子は華族に列する。直系でも5世からは満15歳[1]で原則皇籍身分を失うことを定めている。施行期間の短さゆえに5世規定で皇籍を離脱する者はなかったが、準則に規定された天皇の「勅旨」を受ける前に、次男以下の皇族(伏見宮博信、同宮博英、山階宮芳麿、同宮藤麿、同宮萩麿、同宮茂麿、久邇宮邦久、同宮邦英、同宮家彦、朝香宮正彦、東久邇宮師正、同宮彰常)達は「情願」、すなわち自主的に臣籍降下していった[2]。
伏見宮邦家親王┬伏見宮貞愛親王─博恭王─博義王─博明王
├山階宮晃親王─菊麿王─武彦王
├久邇宮朝彦親王┬賀陽宮邦憲王─恒憲王
| ├久邇宮邦彦王─朝融王
| ├梨元宮守正王
| ├朝香宮鳩彦王─孚彦王
| └東久邇宮稔彦王─盛厚王─信彦王
|
|
├北白川宮能久親王┬竹田宮恒久王─恒徳王─恒正王
| └北白川宮成久王─永久王─道久王
├閑院宮載仁親王─春仁王
└東伏見宮依仁王
ただしこの準則に基づく臣籍降下は機械的に行われるわけではなく、皇族会議及び枢密院の議を経て勅裁する必要があり、5世世代でも皇室の状況によっては皇籍離脱しない可能性は存在した。準則制定時の枢密院会議でも、準則が単なる「内規」であり「特殊の事情ある場合に対し固より終始一律を以て揆し難きは止むを得さる所」のものなのか、それとも典範に基づいた「皇室令」に準ずるなのものなのかで議論があった。結局、準則は実質的に皇室令と同等に扱われ、可能な限り準則に則ることが求められたものの、例外については柔軟に対応する含みを残していた。5世規定に関するものではないが、実際に華頂宮博信や東伏見宮邦英に関して例外を求める動きも存在した。準則はあくまで「常例として準拠すへき大体の準則」であり、絶対的なものではなかった。
またこの準則を以て永世皇族制度が廃止されたわけではなく、1946年の宮内大臣説明においても「皇子孫が累世皇族たることを失はざらしむるの主義を採っている」と永世皇族制度が再確認されている。東宮御進講(皇太子教育)の教材である『皇室典範増補』においても同じく「百世皇族ノの主義」と述べられている[3]。
準則が成立してから1947年に11宮家が離脱するまではわずか27年しかなかったため、結局、5世世代が生まれる前に日本は終戦を迎え、この内規の5世規定によって皇籍離脱した者は一人も出なかった。また準則は戦後に廃止されている。11宮家が皇籍離脱していなかった場合に準則がどう運用されたかは不明であるが、参考として確認されている最後の5世世代が生まれた1970年代の皇室には皇太子徳仁、秋篠宮文仁、三笠宮寬仁、桂宮宜仁、高円宮憲仁の若い男性皇族が5人在籍していた。皇族数確保のために6世以降も残るとしたら宮家筆頭の伏見宮家が想定されるが、伏見宮家は現在男系子孫は断絶している。
『皇族の降下に関する施行準則』全体の参考文献
2節 GHQと皇籍離脱
GHQの皇室改革
ミズーリ号での調印を受けて日本に上陸したGHQの統治方針は、日本を天皇主権から国民主権の国に改造することであった。マッカーサーは神道指令で政教分離を徹底させ、教育現場からも天皇の神格化教育を排除し、然る後に天皇や皇族が政治、経済に関わらない制度作りを進めていく。宮内省の職員も約1/4に減らされ[1]皇室は活動を大きく制限された。一方でGHQとアメリカ政府は占領統治の安定化のために天皇制の維持を決定していた。戦後、アメリカ以外の連合国政府および国際世論は、昭和天皇の処刑も視野にいれた処罰、及び天皇制の廃止を求めていたがGHQはそれらの圧力を封殺し、天皇のみならず他の連合国から戦犯指定されていた皇族たちも一人も起訴しなかった。
知日派アメリカ人ジョセフ・グルー「わが国(アメリカ)には、神道は日本の諸悪の根源であると信じている人々がいます。私はそれには賛成しかねます。軍国主義が日本に跳梁跋扈するかぎり(中略)国民の感動性と迷信性に訴えるという方法で神道を利用するでしょう。軍国主義が滅びたとき、そのような力説もまた聴かれなくなるでしょう。神道は必然的に天皇への尊崇を意味するものであり、したがって、ひとたび日本が軍部に支配されない、平和志向の統治者の盾に守られるならば、神道のもつそういった側面は、再建後の日本において資産となることはあっても、負債となるはずがありません」
GHQが目指したのは国家神道から国体神道を除いた神社神道への回帰であり[3]、天皇家の政治権力を周到に奪う一方で国政に関わらない部分の皇室制度は保全に務めた。戦前の宮中祭祀は全て持続され、靖国神社や護国神社など軍国的な大社も、国家と距離を置くことと「護国」の名称変更を強いられたが、取り壊されることはなかった。男女平等から女性天皇の許容を求めながらも日本政府が拒否したらあっさり翻すところにもその姿勢が見える。GHQは「皇族の代数を限ってはどうか」と永世皇族制度の廃止も提言しているが、これも見送られた[4]。君が代に対しても「日本の国歌は天皇より民衆政府を称賛する国歌に書き換えられるべきである」とするフィリピンや「民主主義の観念や諸国家の友愛の観念を具体化した新しい国歌が必要だ」というソ連の意見を退け、君が代の存続を黙認している。「GHQは君が代を禁止した」という説が多く流布しているが、実際禁止はしていない[5][6][7]。
GHQは皇室の政治力だけでなく経済力も念入りに奪い取った。戦前の天皇家は政治、宗教界の頂点であるのみならず経済界でも日本一の資本家であった。有価証券も含めた終戦時の皇室の財産は15億円、別の調査では37億円であり、三井・三菱などの財閥と比べても桁違いの資産を有していた。当時の実質GNP(国民総生産)は200億円であったので皇室財産だけでGNPの7.5~19%を占め、令和5年のGDP(国内総生産)約600兆円から大雑把に現在の価値に換算すると天皇家は45~114兆円の資産を持っていたことになる[8]。15億と37億で評価額に大きな差があるのは「御料林」の評価方法に違いがあったためである[9]。御料林とは皇室財産の基礎として皇室が所有していた森林で、その面積は132万ヘクタールに上る(比較として長野県の面積が約135万ヘクタール)。また以上の資産は全て非課税である。
天皇家の政治力を削ぎ、日本を国民主権の国にするためには皇室財産を減らすことはGHQの必須案件であった。それは宮家も同様で、GHQは1945年10月に昭和天皇の弟3宮家も含めた14宮家の財産を調査し、1946年5月に彼らの免税特権を剥奪した。これにより莫大な財産税が宮家資産にかかり、宗家に及ばずとも多額の財産を有していた宮家は多くの不動産や貯蓄を失った。空襲で邸宅を焼き払われていた彼らにとっては大打撃である。皇室から各官家に贈賜されていた歳費などの支出も打ち切られ、皇族は生活にも困窮した。現在でもGHQによる皇族の財産没収が11宮家の皇籍離脱の最大の要因であり、それがGHQによる半強制であったという見解は強い。
その後GHQは「今上天皇及び男子御兄弟三方の皇族としての已存権を確認す」との意見書を日本側に提出する。昭和天皇と弟達3宮家の皇族身分は保証するが他の11宮家についてはその限りではないということである。GHQは11宮家の臣籍降下について正式に命令を下すことはなかったため、後の判断を委ねられた昭和天皇と宮内省は11宮家の処遇について会議を始めた。
- 『皇族』小田部雄次
- 『立憲君主 昭和天皇 下巻』川瀬弘至、P271
- 『皇室典範』笠原英彦、P70
- 『天皇の歴史⑨天皇と宗教』小倉慈司、山口輝臣
- 『象徴天皇』高橋紘、P67
- 『昭和天皇』ハーバート・ビックス
- 『日の丸・君が代の戦後史』田中伸尚
- 『日の丸・君が代50問50問』歴史教育者協議会
- 『天皇財閥』吉田裕二、P40
東久邇宮稔彦の皇籍離脱論
戦後に傍系皇族が皇籍離脱する流れはGHQの改革が始まる前から一部で始まっていた。最初で最後の皇族内閣となった東久邇宮稔彦は、皇族は「封建的遺風」であり戦後民主主義には合致しないという思想の持ち主であった[1]。東久邇宮は首相辞任後に木戸幸一内大臣に対し、戦争責任を理由に臣籍降下を申し出る。しかし昭和天皇の戦争責任問題を間近に控える中、皇族が自らの戦争責任を言い出すことは到底受け入れられないことであった。
しかし敗戦の責任を痛感していた東久邇宮は木戸の心配をよそに、新聞記者を招いて自らの臣籍降下の決意を表明した。当初は石渡荘太郎宮内大臣が記事を差し止めるも、その一週間後、東久邇宮はまたも同様の答弁を繰り返し「(東久邇宮が)他の皇族にも皇籍離脱を期待している」と報じられたことで、宮内省は慌てて火消しに動くこととなる。天皇の弟である三笠宮崇仁や秩父宮雍仁、および石渡と松平康昌宗秩寮総裁も東久邇宮に注意を加えた[2][3]。
三笠宮「王が戦争責任を感じて臣籍降下を願った結果、天皇にまで戦争責任が及びそうになっている。また臣籍降下をいうことで、他の皇族にも迷惑がかかる」
秩父宮「王の臣籍降下についての言動は軽率で皇族間の結束を乱すものだ」
石渡と松平「天皇は全皇族と行動を共にする決意であり、皇族の臣籍降下はよほどの理由があればともかく、そうでなければ許さない意向である」
厳重注意を受けて公の場で臣籍降下を言うことはなくなった東久邇宮だが、皇族会では同様の主張を繰り返し「11宮家は臣籍降下すべきである」と主張した。これに対して竹田宮恒徳は「降下は易いが、国歌存亡の際、われわれ皇族には皇族としての何かご奉公すべき途があるのではないか」と反論している[4]。
皇族会から皇籍離脱へ
皇族会での議論を元に宮内省でも研究が進められた。論点となったのは「血の遠さ」「皇室強化」「経済上の問題」「政治的理由」の四点であった。特に重視されたのは11宮家の血統の縁遠さである。
「今上天皇からさかのぼれば一八代も前の貞成親王の第二子貞常親王が源というのだから、現皇室とのつづきからは相当離れたものといわざるをえない」
また皇室強化は「枝葉」を伐採することで皇室の根幹をより強固にするという狙いがあった。11宮家の臣籍降下は当時は皇室弱体化ではなく皇室の強化と考えられていた。経済上の理由では、先の免税特権剥奪で皇室として品位を保つだけの支出が難しいこと。政治上の理由として、一平民として国民の中に飛び込んでいくことこそが皇族としての大きな仕事だとされた。
結局、皇室の意思統一ができないまま1946年11月29日、昭和天皇は3直宮を除く伏見宮系11宮家の皇籍離脱を申し渡すことになった。この背景には1945年当時、昭和天皇に2人の男児がいる他、天皇の弟3人が控えているため皇位継承が盤石であったこと。
大正天皇┬昭和天皇(46)────┬皇太子明仁(14)
├秩父宮雍仁(45) └常陸宮正仁(12)
├高松宮宣仁(42)
└三笠宮崇仁(32)─寛仁(1)
また先述した「皇族の降下に関する施行準則」により敗戦がなくとも伏見宮系皇族がいずれ皇籍離脱する流れであったことが考えられる。国内の世論にも「(伏見宮系皇族は)皇位継承者として必ずしも適当ではない。天皇家には直宮が御三方も在らせられる。(中略)これだけ揃っていれば皇位の継承にまごつくことはないであろうし、このさい、皇族の範囲を狭める意味から、遠縁の皇族は臣籍に降下させたほうがいい」というのがあった[1]。
更に、GHQと折衝に当たっていた宮内省の加藤進次官はGHQが早晩皇族廃止問題を提起すると考え、侍従長の大金益次郎と共に先手を打って「直宮以外の『血筋からいっても大変遠い御存在で』ある皇族の臣籍降下を申し出ることで、天皇と直宮をお守りする」という案を昭和天皇と香淳皇后に諒解させたこともあった[2]。重臣会議で鈴木貫太郎元首相に「皇族を減らして大丈夫なのか?」と聞かれた加藤は以下の答弁を行っている[3]。
鈴木「今日、皇族の方々が臣籍に下られることがやむを得ないことはわかったが、しかし、皇統が絶えることになったらどうであろうか」
加藤「皇太子殿下(明仁)もいずれ御結婚をあそばされるでしょうし、三笠宮殿下にも御子息がいらっしゃるのでなんとかなるとは思います」
加藤「離脱なさる宮様方につきましても、これまでの皇室典範からいって皇位継承権を持っておられるのでございますから、皇族を下られるにつきましても、宮内省として全力をつくして十分な生活費をお与えし、品位を保つだけの費用は用意いたすつもりです」
加藤「『万が一にも皇位を継ぐべきときがくるかもしれないとの御自覚の下で身をお慎みになっていただきたい』と(離脱する皇族に)申しあげました」
鈴木は「それでも皇統が絶えたら?」
加藤「万が一にもそのようなことは無いと存じますが、それでも絶えたなら、そのときは天が日本を滅ぼすのですから仕方のないことではありませんか」
鈴木「そこまで考えているのならばよろしい」
宮内省は皇籍離脱する皇族の生活が将来的に困窮しないように一時金の支給をGHQに提案したが「臣籍降下を希望する者、当人の勝手である」と却下される。しかし日本側は粘り強く交渉を続け、それが原因で臣籍降下が遅れることとなった。最終的に軍籍にあった皇族を除き、合計で474万円(戦後はインフレが激しく比較は難しいがおおよそ現在の71億円相当)が離脱する皇族に下賜されることとなった[4][5][6]。
1947年10月13日の皇室会議では議長の宣仁親王、雍仁親王妃勢津子に加え総理大臣、衆参両議長、副議長、宮内府長官、最高裁判所長官らが集まり、11宮家の臣籍降下について審議が行われ、全会一致をもって可決される。続けて行われた皇室経済会議では臣籍に降る宮家に一時賜金を支出する旨が裁可される。翌日14日、宮内府より告示があり11宮家は各宮号を姓として正式に皇籍を離脱した。
- 『皇族』小田部雄次
- 『皇室典範』笠原英彦、P119
- 『香淳皇后』工藤美代子
- 『祖国と青年』昭和59年8月号、P22
- 前掲、笠原、P115
- 『戦後日本 第二巻 線量と戦後改革』「旧資産階級の没落」広田四哉
- 『東久邇宮の太平洋戦争と戦後』伊藤之雄、P330
3節 昭和天皇の宮家皇籍離脱への態度
昭和天皇は11宮家の臣籍降下に関して自分の意見を何も出さず、黙認状態であった。自身の命や皇室そのものの存続が不確かな状況でGHQの真意が読めないままうかつな発言を慎んだと推測されるが、昭和天皇のあやふやな態度は宮家の者を苛立たせた。弟の高松宮は1946年5月の日記に以下のように書き連ねている。
「陛下がほんとに皇族と一緒にやっていうと云う御決心がこの際はっきりせねば臣籍降下のほかなかるべし。即ち物質的にも精神的にも皇族としてなりたちゆかぬ」5/24
「本当に皇室が一つになってやっていくという陛下の御考えならそこから決心してやればよし。また民主主義でいくと決心して皇族を陛下から離すことが天皇の御地位、国体を守るに良いというならそれに徹底するようにしたがよい。要するに長いものに巻かれるに違いないけれど、それをどううまくやるか事務上にあくせくする以上、も少し先に見通しをつけてやるべし」5/31[1]
1946年7月2日の皇族討論会では各皇族が今後の職業や取るべき態度について語り合ったが、朝香宮鳩彦王の質問に対し天皇は「徳を磨き徳を以て仁慈の態度に備えるべき」との抽象論を述べ、高松宮には「皇族の特権剥奪に対する批評の如き言辞は慎むよう」と諭して弟と討論になったと『昭和天皇実録』は書いている。
昭和天皇は戦中には宮家とは疎遠状態であり、特に皇族というだけで政治的な話を持ち込まれることをひどく嫌っていた。高松宮は「万世一系の一つのつながりとして、それでは余りに個人的すぎると思う」「陛下は皇族を何と思って居られるのだ」と不満を書き連ねている。昭和天皇もこれに対して「宮がなにするのか」と反駁している。高松宮は終戦間際に近衛文麿と共謀して、国体護持のために昭和天皇に退位を迫り落飾させるという計画を練っていた。閑院宮載仁や伏見宮博恭は軍部の中枢に座り、強行姿勢で昭和天皇の方針に異議を唱え続けた[2]。1946年には東久邇宮成彦の「皇族たちは天皇の退位に賛成している。退位の場合、高松宮が摂政になるだろう」という発言が報道され、天皇は「東久邇宮の今度の軽挙を特に残念に思召さ」れた[3]。
ただし天皇は戦後、皇族親睦会を頻繁に開催しており不仲のみが強調されるものではない。実際に、昭和天皇は11宮家の臣籍降下へ拒否を明示しなかったものの、最後まで同情的な姿勢を続けていた。1946年11月29日の『昭和天皇実録』には「臣籍降下のやむを得ざる事態につき御説明になる」と記され、正式に宮家が皇籍を離脱した後の1947年10月18日、昭和天皇は皇后と共に表拝謁の間に出御され、元皇族へ勅語を賜った。
その後の食事会ではこう述べている。
皇族として皆さんと食事を共にするのは今夕が最後であります。しかしながら従来の縁故と云うものは今後に於ても何等変るところはないのであつて将来愈々お互いに親しくご交際を致し度いと云うのが私の念願であります。皆さんもよく私の気持ちを御了解になつて機会ある毎に遠慮なく親しい気持ちで御話にお出なさるように希望致します。
茲に盃を挙げて皆さんの御健康と御幸福を祝います。
その後、天皇は菊栄親睦会を正式に命名し、天皇、皇后、皇太后を名誉会員として成年以上の皇族、及び皇籍離脱した元皇族、そしてその直系の子一名とその配偶者を会員とした。会員同士の親睦、知識の増進、人格の修養、また必要に応じ相互扶助が会の目的とされた。毎月一度の例会、ならび春秋に大会が開かれることも決定され、皇籍離脱した当主、及び嫡男の席次は皇族の次、諸員の上とされた。
貞明皇太后の反応
その他、有力皇族の反応として、大正天皇の皇后にして昭和天皇の母親の貞明皇太后は11宮家臣籍降下のニュースを「平然として聴きおいでにな」り「これでいいのです。明治維新この方、政策的に宮さまには少し良すぎました」と述べて「眉一つお動かしにならなかった」と、元皇太后宮職事務主管の筧素彦は伝えている[1]。貞明皇太后は大正天皇が崩じた後も表の政治によく干渉し、昭和天皇と対立することも多い人物であった[2]。
しかし貞明皇太后は11宮家に冷淡だったわけではなく、宮家が皇籍離脱する前年、皇太后は加藤進次官に「臣籍降下なされた場合、皇族様方はどのようになるでしょうか?」と尋ねている。加藤が「今まで通りのお暮らしは実に難しいと思います」と返答すると、皇太后は以下のように続けて11宮家のことを慮った[3]。
「加藤さん、私は言葉のまま従います。私は九条家に生まれ、九つの時、中野に里子に行きました。そこでいろいろと農家の暮しを知っております。どんな苦労でも引き受けます。どうぞご心配なさらないでください。しかし、皇族様方はなかなかそうはいきませんよ。びっくりもするでしょうし、いろいろなことも仰しゃるでしょうし、なかなかお分りにならないと思います。どうかじっくり時間をかけ御納得いただけるまであなたがたの方が落ちついて気を長くしてやらねばなりませんよ。私については御一新(占領下の事態)のこと、何も心配はいりません」
現在の菊栄親睦会
菊栄親睦会はその後、現在に至るまで継続して開催されている。令和に改元された時に内規が改正され、会員の条件は以下のようになった。
| 名誉会員 | 天皇・皇后、上皇・上皇后 | ||
| 会員 | ① | 名誉会員以外の皇族 | ex.敬宮愛子、秋篠宮文仁 |
| ② | 昭和22年に王皇族身分を離れた者とその配偶者。および将来当主の祭祀を継承する者とその配偶者 | ex.伏見博明(博明氏は昭和22年の皇籍離脱時に在命だった) | |
| ③ | 昭和22年以後に皇籍離脱した者とその配偶者 | ex.黒田清子とその夫の黒田慶樹、小室眞子とその夫の小室圭 | |
②の条件により会員は嫡流の嫡男しか会員として認められず、傍系や、嫡流でも次男や娘には参加資格がない。ただし数年に一度大会が開かれ、その時は会員以外の弟や妹、娘も出席している。2022年時点での直近の開催は2020年6月に令和の天皇の即位をお祝いする趣旨で行われた。これは5年ぶりの開催であり、伏見博明氏は自伝の中で「昭和の頃は定期的に行われていましたが、時代も変わって、今の上皇陛下はお忙しくしておられましたからね」と述懐している[1]。
4節 古代の臣籍降下と宇多天皇の即位
臣籍降下の始まり
皇族に姓を与えて臣籍降下させる慣習は奈良時代には生まれており、橘諸兄や在原業平がその代表例である。初期の臣籍降下は、いずれ時が経てば埋もれてしまう王家の名を新しい姓を与えることで残そうとしたものであったが[1]、やがてそこに経済的なインセンティブが加わり、皇族の増加による財政負担を減らすための臣籍降下が増加していった。
平安時代初期に女御、更衣つまり後宮制度が始まったことで天皇の子供の数は肥大化した。嵯峨天皇にいたっては50人にもおよぶ皇子女が生まれたため、814年に卑姓の母から生まれた子32人に一斉に源姓を与えて臣籍降下させた。これが賜姓源氏の始まりである[2]。「源」という氏の由来は、中国の北魏の太武帝が南涼王の子に対して北魏帝室の拓跋氏と「源が同じ」という意味で「源氏」を与えた故事に依る[3]。
宇多天皇の即位
嵯峨52┬仁明54┬文徳55─清和56┬陽成57─元良親王(陽成譲位後に生まれた子)
| | ├貞保親王
| | └貞辰親王
| └光孝58─宇多59─醍醐60……
└源融
9世紀後半、陽成天皇と摂政の藤原基経の関係は冷え切っていた。884年に陽成は病気を理由に退位するが、実施的には基経による廃位である。正統後継者候補には陽成の弟の貞保親王や貞辰親王がいたがいずれも10歳前後であったため、中継ぎとして当時55歳と高齢であった光孝天皇が立てられた。この際に嵯峨天皇の皇子で臣籍降下していた源融が「近き皇胤をたずねば、融らも侍るは」といって自ら皇位に名乗りを挙げたが、基経は「皇胤なれど、姓賜ひてただ人に仕へて、位につきたるためしやある(皇統であっても、賜姓され他人に仕えるようになってから天皇になるのは前例がないことである)」と言って退けたというエピソードが歴史物語『大鏡』で紹介されている[1]。光孝の即位は貴族からの強い反対があり、九条兼実の日記『玉葉』には藤原諸葛が剣の柄に手をかけて「反対するものは殺すぞ」と脅したと記録されている[2]。儒教では親世代から子世代への継承を重視し、世代を遡って地位を継承する逆相続は避けられる。ところが陽成から光孝への譲位は二世代も戻った皇位継承であった[3]。
光孝天皇は我が子に皇位継承しない証として「今有るところの男女は皆薄時に居りし時の者なり」と勅して皇子皇女を(斎院であった二人の娘を除き)全て臣籍降下させた[4]。だが基経の意向により皇統の移動が決まる。正史『日本三代実録』によると、臣籍にいる息子の源定省を皇太子にする案を聞いた光孝は「朕の子供は皆、朝臣の姓を与えた。これは国費を節約し民労を安んずるためである。今、閣僚らの道理に適った言葉に驚いている」としつつも「自分は孝行息子の定省を可愛がっている」と言って了承した。『奉昭宣公書』によれば宇多の即位には最後まで根強い公家の異議があった。だが基経は反対意見を押さえ込み、「息子を頼む」という光孝の「顧託」に応えたとされている[5]。元経は必ずしも定省を気に入ってはいなかったが、元経の妹で当時後宮に大きな勢力を持っていた藤原淑子が熱心に定省を推したのでこれに従ったと言われる。源定省の後嗣決定、皇籍復帰、立太子、光孝の崩御、宇多の即位はわずか2日の間の出来事であった[6]。
光孝の息子の中から兄を差し置いて宇多が選ばれた具体的な理由については、光孝と女御の班子女王の間に生まれ臣籍降下した息子の中で、宇多のみが一度も官暦を持たず経歴を汚していなかったことが要因だと見られる[7]。また鎌倉時代に成立した、王宮貴族の説話集『世継物語』には宇多の優れた資質を示すエピソードが紹介されている。光孝天皇が「わたしが皇位についたらお前たちは何を望むか?」と3人の息子に尋ねた。是忠親王は「大弐(太宰府の次官)になって西の国を十賜りましょう」といい、是貞親王は「東国を十五頂きましょう」と答えた。是忠と是貞は宇多の同母兄であり血統は同格である。光孝は二人の志の低さに失望したが、定省親王(宇多)は「立坊(立太子)してお後を継ぎましょう」と言ったという[8]。『大鏡』には「この帝(宇多)が源氏になっておられたことは世間ではよく知られていなかったのか『王侍従』と申し上げていたそうです」と書かれており、宇多がかつて臣籍にいたことは余り有名でなかったことが示唆されている。
- 『日本の歴史⑤平安建都』瀧浪貞子、P266
- 『天皇家の歴史 上』ねずまさし、P201
- 『六国史』遠藤慶太、P152
- 『綜合日本史大系 平安朝史 上一』川上多助、P154
- 『古代政治史における天皇制の論理』河内祥輔、P258
- 『日本の歴史05 律令国家の転換と「日本」』坂上康俊、P235
- 『平安王朝』保立道久、P50
- 『歴代天皇紀』肥後和男、福地重孝、水戸部正男、赤城志津子
皇位継承候補となった文屋浄三、大市兄弟
臣籍の者を天皇にするという前例のない新儀は基経が権力に物を言わせた結果ではあるが、全く突飛な発想であったわけではなく、称徳天皇死後に天智天皇の孫で臣籍降下していた文室浄三、大市の兄弟が吉備真備の推挙を受けて皇位継承者候補に上がったこともある。この時の動きはかなり進んでいたらしく『日本紀略』によれば真備はまず浄三に申し込んだが固辞され、次に弟に大市を立てようとしたがこれも断られたという。藤原氏から反対意見もあったがその理由は臣籍身分だからではなく、浄三には子供が13人もいてその後継が問題になるというものであった[1]。
史実性は怪しいが歴史物語『水鏡』(12世紀末頃成立)では更に兄弟の皇位継承の話が進展している。それによれば、当時白壁王(光仁)を皇位につけようとする勢力もあったが、浄三を推す声の方が大きかった。浄三が固く辞退したので弟の大市に頼んだ所、大市はこれを承諾する。そこで藤原家の百川、永手、良継らは白壁王を東宮(皇太子)にする宣命を作り上げ、当日の宣命使を呼び寄せて大市を推挙する宣命を隠し、代わりに白壁王を推挙する宣命を読ませてしまった。大市派の人々は呆れ果てて言葉もなかったが異論も出せず、百川はさっさと白壁王を即位させてしまった[2]。
その他、藤原仲麻呂の乱では、仲麻呂は臣籍降下していた氷上塩焼を「今帝」として擁立している[3]。
即位後の宇多天皇
即位してからの宇多には苦労が絶えなかった。『大鏡』によると、陽成上皇はかつて臣籍時代の宇多に命令して舞を踊らせたこともあったため「当代は家人にはあらずや。あしくも通るかな(今の天皇は私の家来ではないか。おそれ多くも仰々しく通るものであるわ)」と嫌悪感を露わにしている。宇多も陽成上皇への対抗心があり、日記『寛平御記』に「この人(陽成)のわざわいは世間に満ちている」「悪い君主は国にとって無益である」と批判を残している[1]。宇多の皇統もまだ不安定で、宇多が早めに息子の醍醐に譲位したのは、皇位が陽成の子孫(元良親王)に再移動する危険性を排除したものと見られる[2]。
執政においても宇多は即位早々に阿衡の争議によって実権のほとんどを基経に奪われ、基経が生きている間は内裏に入ることすらできなかった。宇多の日記には勃起不全に陥るほど追い詰められた苦悩が生々しく描かれている[3]。
「朕は遂に志を得ず、枉げて大臣(基経)の要請に随った。濁世の事はこのようなものである。長歎息すべきである」
「万機を念う毎に寝膳が安らかでない。以来、玉茎は発らず、ただ老人のようである。精神の疲極によって、この事にあたっている」
基経が薨去した後は一時的に天皇親政が再開され、宇多とその息子の醍醐天皇の治世は「寛平・延喜の治」と理想化され、後代の模範となった。しかしやがて藤原氏の権勢は天皇家を凌ぎ古代天皇親政は終焉を迎える。
皇籍復帰の諸例
皇族が臣籍降下した後に皇籍復帰した前例は以下のようになっている。
| 皇族時代の名前 | 皇族時代の身位 | 臣籍降下の年 | 臣籍降下後の姓名 | 皇籍復帰の年 | 皇籍復帰後の身位 |
| 和気王 | 天武天皇の皇祖孫 | 755年 | 岡真人和気 | 759年 | 不明 |
| 笠王 | 天武天皇の子孫 | 764年 | 山辺真人笠 | 774年 | 不明 |
| 不破内親王 | 聖武天皇の皇女 | 769年 | 厨真人厨女 | 772年 | 内親王 |
| 定省王 | 光孝天皇の皇子 | 884年 | 源朝臣定省 | 891年 | 親王→皇太子→即位 |
| 是貞王 | 光孝天皇の皇子 | 870年 | 源朝臣是貞 | 891年 | 親王 |
| 是忠王 | 光孝天皇の皇子 | 870年 | 源朝臣是忠 | 891年 | 親王 |
| 兼明王 | 醍醐天皇の皇子 | 920年 | 源朝臣兼明 | 977年 | 親王 |
| 盛明王 | 醍醐天皇の皇子 | 不明 | 源朝臣盛明 | 967年 | 不明 |
| 昭平王 | 村上天皇の皇子 | 961年 | 源朝臣昭平 | 977年 | 親王 |
| 惟康王 | 後嵯峨天皇の孫 | 1270年 | 源朝臣惟康 | 1287年 | 親王→鎌倉将軍 |
| 久良親王 | 後深草天皇の孫 | 1326年 | 源朝臣久良 | 1330年 | 親王 |
| 家教王 | 伏見宮邦家息子 | 1866年 | 藤原朝臣家教 | 1888年 | 二度目の臣籍降下 |
歴代で臣籍降下してから皇籍を取り戻した年月が最も長いのは10世紀に57年間臣籍にいた源兼明(兼明親王)である。これは時の権力者の藤原兼通が、政敵の藤原兼家を牽制するために、従兄弟の藤原頼忠を左大臣にするべく、現職の兼明を皇籍に戻して左大臣の席を開けさせたと言われる。また出世街道に乗っていた兼明を排除する藤原氏の他氏排斥の意味合いもあり、兼明の兄の源高明も謀反の罪を着せられて失脚している(安和の変)。なお皇籍復帰する際、兼明親王の息子は臣籍に止まっている。
元々は重職にあった兼明だが皇籍復帰後は二品中務卿の閑職に追われ、政治から切り離された。兼明は『菟裘賦』の中に「君昏くして臣諛ふ(君主は暗君、臣下はへつらい)」と当代の円融天皇や兼通への憤懣を書き連ねた後に嵯峨山荘に隠棲し、やがて官職を辞した。
また本人は臣籍降下していないので表にはないが鎌倉時代の源忠房(忠房親王)も注目に値する。忠房は順徳天皇の曾孫で、臣籍降下していた父の源彦仁から生まれた人物である。生年が分からないため具体的な年間は不明だが、忠房は臣民として生まれ、少なくとも20数年も臣籍として暮らした後に親王宣下を受けて皇族に復帰している。その後、忠房の息子は親王号を受けることはなく臣籍降下し、出世もそこそこに出家した[1]。
5章 女帝中継ぎ論(持統〜称徳)
- 序説 正統と正統
- 1節 持統、元明、元正天皇の中継ぎ
- 2節 持統、元明、元正天皇の正統性
- 3節 孝謙(称徳)天皇の中継ぎと道鏡事件
- 4節 天智血統への回帰と「新王朝」意識
- 5節 道鏡皇胤説
- 天智天皇の孫説
- ニギハヤヒ
序説 正統と正統
「過去の女帝は政治上事故が起きた時に臨時に即位する存在であり、然るべき男性天皇が即位するまでの中継ぎの天皇であった」というのが現在の定説であり、批判を受けながらも現代まで有力学説として支持されている。現在では女帝を「中継ぎ」の一言でまとめることはなく、それぞれの時代の政治事情の中で多様な中継ぎの形があったとされている。女性天皇「中継ぎ」論は近世には既に生まれており、女性天皇が法的に禁止された明治から現在に至るまでことあるごとに世論を沸かせている。
しかし女帝が中継ぎであったというだけでは現在なぜ女性天皇の即位を禁じているかの説明がつかない。過去の女帝が中継ぎなら今後も中継ぎとして即位させれば良いということになる。また過去に男性の中継ぎ天皇も数多く存在するのに女性のみ中継ぎ性を強調する理由もない。すなわち問題となるのは「女帝は中継ぎであり、男帝と比較して能力・資質において一段劣り、正統ではない二流の存在である[1]」というニュアンスの女帝中継ぎ論である。換言すれば、女性中継ぎ論とは女帝の正統性に関する議論であり、男性天皇を皇統の本質とするか否かの問題である。
歴史用語には「正統」と「正統」と二つの語が存在する。正統とはいわゆる嫡流のことで、皇統を次世代に伝える天皇を指す。正統の天皇の子が次の天皇となり、正統でない天皇はいわゆる「中継ぎ」であり、傍統や閏統と呼ばれる。皇統譜を見ると分かる通り、男性天皇でも半数以上が正統ではない。だが彼らもまた正統な天皇である。正統でない天皇とは東武天皇や熊沢天皇のような僭称者であったり、神功皇后のように摂位(暫定的に政務をとる職)である。ただし正統な天皇は時代によって変わり、神功皇后も中世の神皇正統記では正統な天皇として扱われている。
よって女帝中継ぎ論は「女帝は次世代の男子に皇位を繋げる、系譜上の中継ぎか否か(=正統かどうか)」と「女帝は形式的に即位しただけの中継ぎであり、男帝に劣る例外的存在であるか否か(=正統かどうか)」は分けて議論されなければいけない。明治以来の皇室典範では「女帝は仮に即位した中継ぎゆえに正統でなくあくまで例外的な存在で、日本に女性天皇制度は存在しない」とされたが、現在の女帝研究ではそれは否定されている。律令でも女帝即位は想定されており、江戸時代までは実際に女帝が誕生している。明治の女帝禁止法は「全く新しい法が古き法の名の下に作り出された[2]」ものである。女性天皇は特殊例外的な存在ではなく大王・天皇として求められた能力や役割は基本的に男性天皇と同じであった。この仮説を「性差を前提としてない女帝論」と呼ぶ[3]。一方で女帝が男性天皇と男性天皇を繋ぐ、系譜上の中継ぎであることは上述したように現在でも有力学説となっている。
以下では持統、元明、元正、孝謙、そして孝謙が再び皇位に就いた称徳天皇の5代4人の女帝が、どのように即位して、どのように次の世代に皇位を繋いでいったのかを述べていく。奈良時代は『日本書紀』、『古事記』の編纂時期にあたり、推古、皇極・斉明の歴史記述とも深く関わるため、時間を前後させて解説する。
40天武天皇
|────草壁皇子
41持統天皇 |───┬44元正天皇
43元明天皇 └42文武天皇─45聖武天皇─46孝謙天皇
- 数字は代数
「1節 持統、元明、元正天皇の中継ぎ」、「2節 持統、元明、元正天皇の正統性」。古代日本の王位継承の原則は兄から弟、姉から弟などキョウダイで大王位を繋ぐ同世代継承である。しかし隋唐王朝のような律令国家を目指す朝廷は伝統的な同世代継承から中国的な父子相承(嫡子直系継承)への転換を図る。特に天武の皇后の鸕野讃良(持統)は愛息子の草壁皇子の直系継承に強くこだわっていた。草壁は天武の後継と目された存在であったが天武崩御時にまだ若かったため持統がしばし称制していたのだが、不幸にも草壁はその間に早世してしまう。慣例に則れば草壁死後の正統後継者は高市皇子など他の天武の息子達であったが、持統は草壁直系継承を守るため自ら女性天皇として即位し、草壁の息子の軽皇子を皇太子に定めた。これが後の文武天皇である。持統の意志を継ぎ、同じく元明、元正女帝も草壁の孫である首皇子(聖武)が「年歯幼稚」であったため、その成長を待つまでに中継ぎ女帝として玉座に登った。当時の皇統意識を示唆するものに正倉院に収められた黒作懸侃刀がある。正統を示すレガリアであるこの刀は最初、草壁皇子から藤原不比等に送られ、草壁死後は不比等の元から文武天皇に授けられた。文武が崩御すると刀は再び不比等に戻り、首皇子(聖武)へと受け渡されている。つまり皇室の正統は持統、元明、元正女帝を飛ばして男子のみに受け継がれていることを示している。
持統から元明の時代は『日本書紀』の編纂が進んでいた時期であり、その中では天武-草壁血統を正当化するために様々な虚飾が施されている。例えば書紀では草壁皇子は「皇太子」と呼ばれ次に天皇になることが確定していたように書かれているが、天武天皇は高市皇子を太政大臣に定め草壁が突出した存在になっていないという矛盾が見られる。そのため草壁が本当に朝臣から後継者と認められていたか不明瞭である。草壁の子、孫の軽皇子や首皇子の皇位継承も保証されたものではなく、群臣の中には他の候補者を推す声も存在した。特に聖武の母親は皇族ではなく、父母共に皇族である男子と比べて血統で劣るという憾みもあった。幼年の子を成長を待つために女帝が中継ぎ即位するという事態はそれまで先例がないものである。古代の皇位継承は常に戦乱を伴い、天皇ですら実力がなければ崇峻や弘文のように殺されることもあった。そのような状況の中、女性天皇は「仮に即位」した非正統な天皇ではあってはいけなかった。そのために女帝達が用いたのは践祚大嘗祭と不改常典である。大嘗祭は古代から続く大王家の神事であり、現在でも宮中祭祀の中で最上位に置かれている儀式である。持統天皇はこれを天皇の即位(践祚)に結びつけ一世一代の大規模儀式にした。律令にも定められた践祚大嘗祭により元明、元正らの女性天皇も自らの正統性をアピールした。「不改常典」は「天智天皇が決めた」という触れ込みの法文で、詳細は不明であるが天皇が即位の際に用いられることから皇位継承法に関わるものと見られる。元明は天皇になる際にこの常典を引き合いに出すことで、自らが法に則って即位した揺るぎない存在であることを世に示した
「3節 孝謙(称徳)天皇の中継ぎと道鏡事件」。孝謙(称徳)天皇は古代最後の女帝である。奈良時代は藤原氏の権力が伸長した時期であった。藤原不比等は持統と昵懇となることで皇権力に介入し、不比等の子女の藤原四兄弟と光明子(光明皇后)の時代には藤原氏の権勢は天皇家を上回るまでになっていた。聖武天皇は藤原氏の母を持ち、その配偶者にも同じく藤原氏の光明皇后を得た。皇后制度が成立して以来、皇后は皇族女性しか就けない定めであり、臣民皇后は前代未聞のことであった。そのため皇族から反対の声が上がったが、藤原四兄弟はその筆頭であった長屋王を謀殺して妹の光明子を皇后に据えた。藤原氏は次に聖武と光明皇后の子を後継者にすることを目論んだが健康な男児が生まれてこない。このままでは他の氏族の妃が産んだ男子が天皇になってしまうことを危惧した藤原氏は、聖武と皇后の子だが女子である阿倍内親王を中継ぎ女帝にすることで皇位を独占しようとした。阿倍内親王(孝謙女帝)は後にも先にも例のない女性皇太子であり、一部にその即位を認めない動きも存在した。そのため阿倍(孝謙)は君臣秩序を示す五節舞を踊ったり、仏教を利用して男女の垣根を超越した(変成男子)「祟仏天皇」になるなどして自らの正統性を強調した。
光明皇后が談志を生むまでの中継ぎであった孝謙天皇はお飾りの感が強く、実権は母の皇后が握っていた。しかし結局皇后は男子を産むことができず、天武-草壁血統は行き詰まりを見せる。孝謙は、天武の孫の淳仁天皇に譲位するが、淳仁も傀儡天皇であり光明皇太后とその甥の藤原仲麻呂が代わって執政していた。仲麻呂は天皇権力を蚕食し自らをほとんど皇族として扱うことで、易姓革命の一歩手前まで来ていた。それでも一応はバランスが取れていた政権も皇太后が死ぬと孝謙上皇の挙兵によって仲麻呂は誅殺、淳仁は廃位させられた。称徳天皇として二度目の玉座に登った女帝は自らは草壁と藤原の血を受け継いでいるという正統意識が強く、それ以外の者を後継者に認めなかった。孝謙時代と異なり大権を掌握した称徳の手によって次から次へと後継者候補が粛清され皇位継承問題は深刻化した。女帝は父母から仏教政治を受け継いでおり、その流れで僧の弓削道鏡を寵愛していた。道鏡は皇族のように扱われ、ついには非皇族の身でありながら皇位をうかがうに至る。しかし貴族層の道鏡への反発は強く目論見は頓挫した。道鏡事件の要因には、草壁系でない者に皇位継承するくらいならば己が師と仰ぐ道鏡に譲位した方が良いと考える称徳の強い嫡流意識と仏教への強い帰依。そしてその背景には藤原氏が皇族化し、朝廷の中で君臣の区別が曖昧になっていたことがあった。
称徳の代に天武系の皇族は大半が粛清されており、女帝の死後は天智の子孫の光仁天皇が即位する。光仁が選ばれた理由には光仁の妃が聖武の娘の井上内親王であったことがあった。井上を通じて女系で草壁の血を残そうという目論みであったのだが、井上とその息子の皇太子も陰謀によって追放され、天武-草壁血統は男系でも女系でも後世に繋げられることはなかった。
高野新笠
|──桓武天皇50─……
┌───────天智38─施基───光仁49
| |──他戸王(廃嫡)
┴天武40─草壁─文武42─天武45┬井上内親王(廃后)
└孝謙46(称徳48)
「4節 天智血統への回帰と「新王朝」意識」。光仁の息子の桓武天皇は天智系への回帰を「革命」と捉え、
自らの即位を「新王朝」の成立とみなした。唐に憧れを持っていた桓武は、中国の儀式である郊祀によって新王朝の成立を天に報告しているが、ここで王朝の始祖とされたのはアマテラスでも神武天皇でもなく、自らの父の光仁天皇であった。このような「新王朝」意識は桓武一人のものではなく、桓武の孫の文徳天皇も郊祀を行い、光仁を天帝に準えている。また桓武の玄孫の清和天皇は十陵四墓制というやはり中国の祖先崇拝を輸入し、天智天皇を皇祖に定め、天武から称徳の天皇を全て飛ばして、天智系の天皇のみを先祖として祀っている。
「5節 道鏡皇胤説」。皇族でないにもかかわらず天皇になろうとしたことで天下の反逆者とされた道鏡であるが、『七大寺年表』と「僧綱補任』などの平安初期の史料には「道鏡は天智天皇の孫」と書かれており、古くから道鏡が皇胤である説が唱えられていた。現代史学ではそれは史実ではないとされるが、道鏡の系譜を遡っていくとニギハヤヒというニニギの兄弟に突き当たり、その祖母は皇祖アマテラスである。つまり神話上は道鏡は皇室の男系親族ということになる。
1節 持統、元明、元正天皇の中継ぎ
草壁皇子の血統、嫡子直系継承の導入
尼子娘
├────高市皇子─長屋王
|
| 大田皇女
| |────大津皇子
40天武天皇
|────草壁皇子
41持統天皇 |───┬44元正天皇
43元明天皇 └42文武天皇─45聖武天皇─46孝謙天皇(48称徳天皇として重祚)
持統天皇、元明、元正天皇の3人の女帝たちは、然るべき幼年男児の成長を待つための中継ぎ天皇であった。元明天皇から元正天皇に譲位するとき、元正は「年歯幼稚」の首皇子(聖武天皇)のために即位したと史書にある。だがこれを「神武天皇の男系男子を守るための中継ぎ」と理解するのは不正確である。然るべき嫡流の天皇とは「母の血が尊く(当初は皇族の母。後に藤原氏の母を重視)」、何より「草壁皇子の血を受け継いでいる」という2条件を満たす天皇を指す。草壁皇子とは天武天皇と持統天皇の早世した息子である。持統は草壁の子孫に皇位継承することを念願としており、持統から称徳天皇までの王権継承は常に草壁皇子の血統を中心に回っていた。同時期に成立した『日本書紀』では草壁血統の正当性を証明するため歴史と神話の造作が行われており、奈良時代のみならず古代日本の重要人物である。
天武以前の皇位継承は同世代継承(キョウダイ継承)と成人継承が原則であり、また皇太子制度、皇后制度が共に未熟なため後継者はほぼ横並び状態であった。だが天武-持統天皇の治世に皇位継承法の大転換が行われる。父から息子への父子直系継承が原則となり、「皇后から生まれた子が立太子を経て次の天皇になる」という嫡流継承、および皇太子制度が整備される。それを補助するために幼男児の成長を待つ中継ぎの女帝が誕生した。
当時の皇室は白村江の敗北を受けて、国内の近代化が喫緊の課題であった。明治の近代化がヨーロッパ化を指すように、古代の近代化とは中国化のことをいう。中国では夏王朝の時代に既に「父子相承(直系継承)」が確立していたが、儲嗣が年少などの場合に王の弟らによって血を伴う継承争いが多発したため、殷王朝では兄弟が中継ぎとして即位する「兄終弟及」が一時行われた。だがそれは「乱嗣」と呼ばれ王朝の衰退期あるいは非常時の現れとして『史記』でもはっきりと批判されている。そこで、殷を滅ぼして興った周王朝では王位継承争いを避けるため「嫡長男の身分を持つものは一人しかおらず、またその身分は生来のもので人為的に変えることはできない」という考えを元に嫡長男継承が確立し、以後の古代中国では皇帝の嫡長男の即位こそ正統と認められた[1][2]。日本もこれに倣って直系嫡子継承を導入したのである。
朝廷は民間においても嫡子直系継承を定着させようと図り、以下にあるように戸主の嫡子が幼年の時は母が後見人になることを記している[3](ただし民間では天皇家のように女性家長が誕生することはほどんとなく、依然として兄弟継承を続けていた)。
天武-持統朝で日本書紀の編纂が始められ、その中で父子直系継承が「伝統」化された。最初期いわゆる欠史八代の天皇は父子継承の一本の直線で結ばれた。そして持統が父子継承原則以上に執着したのが草壁血統の継承であった。持統、元明、元正の三女帝は草壁系男系男子の嫡流継承を安定化させるための即位である。持統は草壁皇子血統を存続させるために多岐にわたる手段を使い、元明、元正天皇の即位は皇后未経験の女帝、息子から母へ、母から娘への継承など異例づくめであった。
草壁皇子は皇太子だったのか
『日本書紀』には天武天皇は自らの息子と天智の息子6人を吉野宮に集めて草壁皇子の皇位継承を約束させ(吉野の盟約)、その数年後、草壁を皇太子に立てたとある。かつては草壁皇子が皇太子であったことは疑う余地のない史実だと思われていたが、荒木敏夫が草壁の立太子を疑問視したことで議論が起こった。また草壁を次期後継者に推したのは天武か、それとも天武の死後に政争を勝ち抜いた持統かでも説が分かれている[1][2][3]。
天武天皇は皇太子である草壁に「万機を摂めしめたまふ」とあるが、同時に大津皇子にも「朝政を聴こしめす」と命じており、後継者指名に混乱を生じさせている。大津皇子の母親は天智の娘の大田皇女であり、血統の尊さでは草壁と同等であった。奈良時代に成立した『懐風藻』によれば大津は身体・風貌が逞しく、自由奔放な性格で規則にとらわれず、幼いころから文武両道に秀でたという。天武死後、大津は謀反の罪で殺されてれしまう。これは愛息の草壁を即位させるための持統の陰謀だったというのが現在の定説である[4]。また母は皇族でないものの高市皇子は壬申の乱で功績があり、戦後の臨時軍事政権ではほぼ皇太子として扱われていたため草壁、大津に次ぐ皇位継承の有力候補であった[5]。高市は持統朝では後皇子尊と呼ばれ、太政大臣に任命されている。「皇子尊」は草壁皇子の尊称であり、また当時の太政大臣の前例は皇太子時代の大友皇子(弘文天皇)のみであった。以上のことを踏まえると、草壁は天武朝において隔絶した後継者候補ではなかったと結論できる。
荒木敏夫は「立太子」や「皇太子」という言葉は、持統期に成立した飛鳥浄御原令以降のものであるとし、草壁皇子が他を圧倒する後継者候補でありえたのか?(草壁が立太子した)天武十年時点で持統の専権が想定できるのか?草壁が皇太子ならなぜ大津皇子の「聴朝政」体制が許されたのか?と疑問を呈した。草壁が皇太子でなかった傍証に、天武時代の皇親冠位明浄位十二階制がある。ここで「皇太子」の草壁は「浄広壱」を授けられている。天皇は超越的な位であり、後に律令で法的に皇太子と定められた軽皇子や首皇子が冠位の対象外になっていることを考えるとその間には大きな一線がある。ただし大津皇子の冠位は草壁より低い「浄大貮」であり二人に格差が付けられていることは、皇太子制度の前夜を思わせるものがある[6]。
荒木の主張を受けて、大平聡は草壁の立太子は「日本書紀撰上の最終段階での論理的必然性から加筆修訂、もしくは創作された結論」であると指摘した[7]。義江明子も荒木の主張に賛同して、阿閇(元明)が皇太妃になったのは彼女が「皇太子」の草壁の妃であったからでなくその逆で、阿閇を皇太妃にすることによって「草壁が皇太子であり天皇に準じる存在であった」ことが、後追い的に"史実"として示されたとする[8]。本間満は草壁の「万機を摂めしめたまふ」と大津の「朝政を聴こしめす」の矛盾がどこまでいっても付き纏い、どちらか一方を虚構とするならば草壁の方であるとする。草壁の立太子は①律令など法的根拠の裏付け、②東宮-春宮坊という東宮(皇太子)官人機構、③都城制による居所としての東宮という制度史的な3つの要素が欠落しており、「草壁皇子尊」や「日並知皇子尊」という不自然な後世的名称の存在や、次項で述べる黒作懸侃刀の内容についての虚構性を見ても史実とは考え難い[9]。
一方で藤原宮出土木簡に阿閇を指して「皇太妃」と書かれているものがある。これに対して木本好信は「皇太妃の尊称は皇太子であった草壁の在世中からあり、それが通称化して持統、文武になっても称され続けたのではないか」と指摘した。本間満はこれに反論し、木簡には「慶雲元年」(文武と元明の時代)とあり、『続日本紀』の大宝元年(文武の時代)の条にも「皇大妃」とあるが、これ以外に「皇太妃」の称が草壁在世中まで遡る史料がないので認められないとした[10]。
遠山美都男は持統中継ぎ説を否定する観点から、『日本書紀』で草壁が「立太子」されたのは将来の皇位継承に向けて執政経験を積ませようとした試みを表現したもので、執政の実績や年齢的な成熟を重視された当時の皇位継承理念からして天武死後の正統後継者は持統天皇であり、草壁が病気になろうがなるまいが天武の次に即位していたのは持統であったと主張している[11]。
- 『吉野盟約の意味』大平聡
- 『持統天皇と藤原不比等』土橋寛、P3
- 『持統天皇』瀧浪貞子、P161
- 『天武朝』北山茂夫
- 『奈良時代』木本好信
- 『日本古代の皇太子』荒木敏夫、P167
- 『日本古代皇太子制度の研究』本間満、P200
- 『古代王権論』義江明子、P198、207
- 前掲、本間
- 前掲、本間、P211
- 『古代日本の女帝とキサキ』遠山美都男、P124
黒作懸侃刀
当時の皇統意識を明示するものの一つが草壁皇子が持っていた黒作懸侃刀である。この刀は最初は草壁から藤原不比等に賜られ、草壁皇子の息子の文武天皇が即位すると彼に献上された。この刀は代々嫡流に送られるとされるのだが、文武の後は再び不比等を経て、今上天皇の元正を飛ばして皇太子の首親王(聖武天皇)に授けられた。
右(刀)、日並皇子(草壁)、常に佩持せられ、太政大臣(不比等)に賜ふ。大行天皇(文武)、即位の時、すなわち献ず。大行天皇、崩ずる時、また大臣に賜ふ。大臣、薨ずるの日、さらに後太上天皇(聖武)に献ず。
刀が草壁─不比等─文武─不比等─首(聖武)と受け継がれていることから、皇位は女帝を飛ばして文武天皇から聖武天皇への継承されたという認識だったのである。
これに対して仁藤敦史は、黒作懸侃刀の伝世が記載された奈良時代の『東大寺献物帳』は、不比等の孫の仲麻呂の権力が確立した時期であり、そこには不比等の事績顕彰のための潤色が入っていると指摘する。草壁皇子薨去直後は鎌足の子孫でない中臣大嶋や意美麻呂などが中臣氏(藤原氏)の氏上的地位にあり、不比等は決して目立つ存在ではなかった。そのため「不比等は草壁皇子に皇位継承について語事を託された」とするこの文書を文字通りに信用することは躊躇われるとする[1]。
本間満は「日並皇子」や「太政大臣」の名称が草壁が死んだ持統三年当時のものとは思われず、草壁と不比等の接点を具体的に示す史料はこの伝承の内容以外に存在しないことから、この刀の伝承は光明皇后、孝謙天皇、仲麻呂が「草壁皇子と不比等はしっかり結びつけられていた」と世間に示すための造作であるとした。奈良時代中期は仲麻呂が権力を握り始め、不比等が撰上した養老律令が施行され、草壁皇子に対して「岡宮御宇天皇」と追号していた時期であった。刀の伝承は当時の天皇家にとっても甚だ好都合の内容であり、仲麻呂がこれを利用して「草壁皇統意識」を創設したと考えられる[2]。
また同じく正倉院宝物で皇位継承に関わる可能性が指摘されるものに赤漆文欟木御厨子(仏像などを収める棚)がある。これは天武→持統→文武→元正→聖武→孝謙と元明を除いて女性天皇にも受け継がれている。元明が飛ばされているのは彼女だけは天武-持統の直系ではなかったからというのが定説である。さらに孝謙天皇は自らの代で天武系が断絶することが自明であったためこの厨子を東大寺に献上したとも推測されている。米田雄介は「本厨子が持統・元正・孝謙の各女帝に伝えられていることに着目して母系制や双系制の観点からの指摘もある。ただ筆者はそのような視点からの理解に至っていないので、問題があるということだけを指摘しておきたい」と述べている[3]。
即位可能年齢
「幼年の男子が育つまでの中継ぎ」の幼年とは具体的に何歳を指すのか。天皇に即位できる年齢には諸説があるが、孝徳天皇の息子の有間皇子が謀反を勧められた時、配下の者がこう諌めていることが参考になる。
「方に今皇子、年始めて一九、未だ成人に及らず。成人に至りて其の徳を得べし」
19歳は成人と認められず、推古即位時の厩戸皇子(聖徳太子)や乙巳の変の時の中大兄皇子は共に19歳であり即位は難しかったことが分かる。
また即位前の欽明天皇が「私は年齢が足りないから貴女が即位してください」と安閑天皇の皇后である春日山田皇女に登極を勧めている。
当時の欽明は日本書紀では30歳だったがそれでもまだ熟年の年齢ではないという認識があった(この出来事が欽明の謙虚さを示すための潤色の可能性もあるが)。古事記では21歳となり若年と言える年齢である[1]。
仁藤敦史は継体から持統までの古代天皇の即位年齢を後世史料も含めて以下のように推定した[2]。
継体:58歳
安閑:69歳
宣化:69歳
欽明:39歳
敏達:35歳
用明:46歳
崇峻:36歳
推古:39歳
舒明:37歳
皇極:49歳
孝徳:50歳
斉明:62歳
天智:43歳
天武:43歳
持統:46歳
文武:15歳
元明:47歳
元正:36歳
聖武:24歳
孝謙:32歳
淳仁:26歳
称徳:47歳
光仁:62歳
桓武:45歳
平城:33歳
嵯峨:24歳
淳和:38歳
持統、元明、元正、孝謙らが中継いだ相手の男性天皇が飛び抜けて若いことが目に付く。嵯峨天皇が若年なのは平城天皇の病によるもの。平安時代中期になると皇位も安定し、やがて幼年の天皇も産まれていく。
中国の「臨朝称制」との比較
鵜野讃良(持統)は天武の死後に数年間即位せずに「称制」という形で執政していた。また史書には明言されていないが、元明女帝も文武の死後の短い期間に称制を行なっていたと指摘されている。古くは幼い愛息(応神)に代わって政務を執った神功皇后や、弟たちが皇位を譲り合っていた間に天皇業を代行していた飯豊青皇女も称制に該当するとされる。称制とは中国で皇帝が幼い場合に皇太后(先帝の妃)が皇帝の代わりに詔を出したり政治を担う行為を指し、「(皇太后)臨朝称制」とも呼ぶ。理念的に女性の政治参加が嫌われた中国であるが、幼帝を後見する皇太后の例は広い時代で数多く見られる。その先駆けとなったのは前漢の初代皇帝劉邦の妃、呂后(呂太后)であり、これを先例として続く王朝の後漢、晋、北魏、唐でもその存在が確認できる。
中国と日本の称制のあり方は2つの点で大きく異なっている。一つは中国では皇太后が称制する間も皇帝が存在しているのに対し、日本では称制中は天皇は不在であった。河内春人はこの違いを「すでに制度的に完成の域に達している中国の皇帝システムと、この段階ではいまだ形成途上にある古代天皇制の質的差異」と述べている[1]。また中国では称制する皇太后が女性皇帝になることはないが、日本では女性天皇になる道が存在したことである。中国では女性に皇位継承権がない上に同姓不婚(同族間での結婚禁止)の原則があったため皇太后は必ず非皇族である。ゆえに称制する皇太后がどれだけ権力を持っていようが女性皇帝になる可能性はなかった(唯一の例外である女性皇帝の武則天は唐の国姓「李」とは異姓であったため、彼女が即位した際に唐は一時的に滅びることになる)。
2節 持統、元明、元正天皇の正統性
軽皇子(文武)と首皇子(聖武)の立場
女帝中継ぎ論では「持統、元明、元正天皇とは仮摂であり、然るべき男系男子の軽皇子(文武天皇)や首皇子(聖武天皇)が育つまでの中継ぎ」とされているが、皇太子制度が未熟だった当時にあっては軽皇子も首皇子も「然るべき男子」と確定していたわけではなかった。高市皇子のように政治力のある他の天武の息子もおり、天智天皇の子孫もいる。当時の伝統的皇位継承法(同世代継承と成人継承)に従えば、彼らの方がよほど「然るべき男子」であった。
当時の王権はまだ不安定で、天皇といえど孝徳のように朝臣から見捨てられたり、最悪の場合は崇峻天皇のように殺されることもあった。なにより天武本人が一皇族の身分から今上天皇を弑逆して皇位についた人物である。天智天皇の後を受け継ぐ「然るべき男子」は当時の兄弟継承の慣行に則れば弟の天武であった。だが天智は伝統に背き、父子継承で子の弘文天皇に皇位を譲ってしまったため壬申の乱が発生した。
この時期に「女帝が皇位に昇り、幼年の男子の成長を待つ」というという過去に一度も前例のない継承を保証してくれるものはなく[1]、まして元明、元正天皇は皇后(大后)未経験というこちらも前例にない女帝となっている。天武と持統は吉野の盟約で他の皇子に草壁血統の継承を約束させたが、それもどこまで信用できるか分からない。『懐風藻 葛野王小伝』によれば草壁皇子の薨去後に後嗣を決める会議で、弓削皇子が異議を唱えようとして葛野王から叱責されている[2]。
時に群臣各私好を挟みて、衆議紛紜
葛野王「我が国の法では神代以来、天位は子孫が相承していて、兄弟におよべば乱が興ることになる」
弓削は同母兄の長皇子を皇位に推そうとしたと見られ[3]、軽皇子(文武)が後継者であることはけして自明のことではなかった。
また元明、元正が中継いだと言われる首皇子(聖武天皇)の即位も朝臣の賛同を得ているものではなかった。当時の皇位継承法では嫡流の天皇は父母共に皇族であることが求められており、非皇族の母を持つ天皇は中継ぎにしかなれなれず、藤原宮子から生まれた首皇子の血統は卑しいと見られていた。天武天皇も正当な皇位継承者は母親が皇族でならねばならないとし、非皇族の母は親であっても敬う必要はないと詔して違反者には処罰まで行っている。
更に藤原氏の伸長を快く思わない皇族・豪族もいる。そこで藤原不比等は文武天皇の嬪(妻妾の位の一つ)であり、名家出身であった紀竈門娘と石川刀子娘の号を落とし、首のライバルになりうる彼女の息子の広成皇子、広世皇子(同一人物説あり)を臣籍降下させた。また不比等は実際に軍事衝突が起きる可能性も予期し、元明天皇の即位の四日後に授刀舎人寮(天皇親衛軍)を創設して首皇子反対派の動向に備えている[4][5][6]。
異例の即位となった元明は心穏やかでなく、即位の際に御名部皇女が女帝に向けて詠んだ万葉歌にその不安がはっきりと現れている。
わが大王物な思ほし皇神のつぎて賜へる吾無けなくに(わが大君よ、何もご心配はいりません。皇祖の神が大王についでお与えになった私がおりますものを)
松尾光は元明は大王家の家督を相続していない草壁皇子の皇太子妃であり、「前例のない皇太子妃を即位させるよりも、天武の別の皇子や皇孫に譲るべきである」という元明登極への強い反対が背景にあったと分析している[7]。
- 『古代女帝の時代』小林敏夫、P139
- 『天武朝』北山茂夫、P268
- 『持統天皇』直木孝次郎
- 『持統天皇』瀧浪貞子、P165
- 『奈良時代』木本良信、P11,16
- 『藤原不比等』上田正昭、P163
- 奈良県立万葉文化館 研究者のコラム『万葉歌の魅力をさぐる⑧』松尾光
践祚大嘗祭と不改常典
このような状況にあって持統達は女帝であろうと「絶対に揺るぎない正統な天皇」であることを広く認めさせなければいけなかった。そこで利用したのが践祚大嘗祭である。令和の天皇が即位する時にニュースで頻繁に報道されていたように、大嘗祭は天皇の正統性を証明する、宮中祭祀の中でも最上位に置かれる儀式である。儀式自体は古代から行われていたが、これを天皇の即位に結びつけたのが持統天皇である。天武朝から大嘗祭の大規模化が図られ、持統天皇の代で史上初めて大嘗祭が一世一代の儀式として行われた。これを古代の大嘗祭と区別して践祚大嘗祭 という。
文武天皇の代で大宝律令が制定され、践祚大嘗祭は成文法となった。以後、践祚大嘗祭は即位式と並んで正統な天皇には必要不可欠なものとされた。中世には一時断絶期があったものの、江戸時代に復活し現在に至るまで厳かに営まれている。
元明天皇は史上初めて律令に則って即位した初代律令天皇であった。この儀式を経て持統、元明、元正天皇は自らの正統性をアピールした[1]。
不改常典に元明天皇の正統性をみる説もある。不改常典は元明から桓武天皇の即位の時などに引用される宣命であり、その内容については謎が多く、大きく分けて近江令説と皇位継承法説がある。皇位継承法説にも嫡子継承法説や、天皇家と藤原家の共同統治説などがある。また現天皇の後継者決定権を規定するものであった可能性もある。それまでの天皇は群臣から推戴されるのが慣例であったが、現天皇の後継者の決定に強い権威を持たせることで、文武から指名された元明の正当性を強調する狙いがあった。8世紀前半には即位の宣命は長々と即位の経緯を説明していたが、桓武天皇は「天智天皇の不改常典に従い、(先代の)光仁天皇から皇位を受けた」と簡潔に自らの正統性を主張したこと[1]もそれを傍証している。
不改常典は天智天皇が定めたとされるが、元明以前の天皇においては何らふれられていない。もし天智が本当にこの皇位継承法を定めたのならば、武力で皇権を掌握した天武の行動は常典の原則を踏み躙ったことになる。天武を例外に置くとしても、不改常典で皇位継承法が明文化されていたら吉野の盟約で草壁皇子の皇太子擁立を他の皇子に確認させる必要はない。また草壁死後に後継者を巡って「衆議紛紜」するはずもない。結論として、実際には不改常典は元明が父の天智に仮託して創作したものとするのが妥当である[2]。
女帝の執政
飛鳥時代後半から奈良時代前期は日本が律令体制を形成していく過程にあった。その中で持統、元明、元正は政治に深く携わり、譲位後も太上天皇として新天皇の後見役として大きな役割を担った[1]。とりわけ持統は天武朝では夫と共治体制を取り、夫の死後は天皇大権を掌握し称制し、草壁死後は実際に女性天皇となり、譲位後は太上天皇として文武を後見するなど生涯を通じて朝政の中心にあった。天武は政治的パートナーとしての持統を重用し、壬申の乱の折には共に軍隊を差配し、死の際には天下のことは全て任せるようにと言い残している。
壬申の乱の記述:「鸕野は672年6月に、大海人皇子(天武)に従って東国に危難を避け、軍衆を集結させ、共に謀計を定められた。そして勇敢な兵士数万人に諸々の要害の地に配置するように命じられた」
持統立后時の記述:「鸕野が皇后になられた。皇后は最初から(天武)天皇を補佐して天下を治めてこられた。天皇の執務のさいにはつねに助言され、天皇の政治を助けてこられた」
文武が成長すると持統は孫に譲位するが、文武の即位年齢は15歳とこの時代にあってかなりの若年であったため、持統太上天皇が強力なリーダーシップを発揮し、持統と文句が並んで天下を治めていたことが『続日本紀』に書かれている。律令においても太上天皇の地位は天皇と同格にあり、譲位後の持統や元正の地位は法的にも保証されていた[2]。
「関くも威き藤原宮に御宇倭根子天皇(持統)、丁酉の八月に此の食国天下の業を、日並知皇太子(草壁皇子)の嫡子、今御宇しつる天皇(文武)に授け賜ひて、並び坐して此の天下を治め賜ひ諧へ賜ひき」『続日本紀』慶雲四年七月
元明・元正らも先代の事業を継承し、平城遷都、和同開珎の発行、記紀の完成、養老律令の編纂といった国家事業が行われた[3]。渡部育子は、文武には皇后がおらずそれに相当する藤原宮子は出産後に心身ともに不調で政治に関わることはできなかったため、持統死後の文武がもっとも頼りにしたのは母の阿閇内親王(元明)であったと指摘している。元明は推古、皇極、持統らと違って史上初めての皇后(大后)出身ではない女性天皇である。皇女時代の彼女の政治関与を直接示す史料はないが、690年に阿閇が持統に付き従って紀伊巡幸をしていることから、元明は10年以上も姉の持統の元で「王」としてのトレーニングを果たしていたと考えられる[4]。病弱の文武が母に譲位を試みた事実からも、文武の阿閇への強い信頼が見てとれる[5]。
「豊祖父(文武)天皇は病に陥って、始めて(母の元明に)位を譲る志を持った。(しかし)元明天皇は謙譲で、固辞して受けなかった」『続日本紀』第四 元明即位前紀
元明は娘の元正に譲位した後も太上天皇として政治的影響力を持ち続けた。その根拠として彼女が崩御した史上初めて「固関」が行われている。固関とは東海道の鈴鹿関、東山道の不破関、北陸道の愛発関を閉鎖することで、後世には天皇崩御時の儀礼的なものとなるが元明崩御時のものは政治的混乱が地方へ波及するのを防いだり、畿内で内乱を起こしたものが東国に逃れて現地勢力と結託するのを防ぐという現実的な意味合いを持っていた。元明の死はそれほど朝廷に政治的動揺を与えるものであった[6]。
皇后(大后)には私部と呼ばれる土地が与えられ、それが推古、斉明、持統らの実力を経済的に裏付けるものになっていた。皇后出身ではない元明、元正は私部は持たなかったが、即位以前から独自の特権が与えられていたことが藤原宮出土木簡によって判明している。元明に関しては「皇太妃宮職解 卿等給付廿端」と書かれた木簡が見つかっている。皇太妃宮職は草壁(皇太子)妃である元明のために設けられた家政機関であり、そこに布が届けられたことを示している。元正は生涯未婚であり皇后でも皇太子妃でもなかったが、「氷高親王宮舂税五斗」と即位以前の元正(氷高親王)に宛てた米の荷札木簡が見つかっており、固有の経済基盤を持っていたことが判明している[7]。
以上のように元明、元正は男帝となんら異なることがないことから、単なる中継ぎではないとの見解も多い。渡部育子は元正に対し、藤原氏との駆け引きや陰謀にもうまく立ち回りながら揺れ動く天平の時代を支えるなど真の為政者だったと評価している。これに対し佐藤長門は、元明・元正は天武・持統両天皇の嫡系継承を維持することを目的として、年齢が幼い皇太子が成長するまで皇位に在位することであったからやはり中継ぎと考えるのが適当であろうとしている。桜田真理恵は、元正は即位すれば天皇権力を発揮することになり男帝と違いがないからといっても、将来の男帝即位を予定して未婚を続けた上で中継ぎ機能が求められたと指摘している。木本好信は、元正が結婚して子を儲けることが避けられていたのは傍系に皇統が移ることを防ぐためである。つまり基本的には自らの皇嗣を持つことが許されていない天皇は中継ぎと理解するのが妥当だと思うとしている[8]。
- 『京都府埋蔵文化財論集 第5集』「古代の女帝とその背景」上田正昭、P249
- 『元明天皇・元正天皇』渡部育子、P50
- 『シリーズ日本古代史④ 平城京の時代』坂上康俊、P102
- 前掲、渡部、P56
- 前掲、渡部、P58
- 前掲、渡部、P174
- 前掲、渡部、P66
- 『奈良時代』木本好信、P18
3節 孝謙(称徳)天皇の中継ぎと道鏡事件
唯一無二の女性皇太子
藤原鎌足─不比等┬武智麻呂─仲麻呂
├房前
├宇合
├麻呂
└光明子
├──┬基親王#早世
聖武天皇 └孝謙天皇(称徳天皇)
聖武天皇と光明子(藤原不比等の娘)の間には基親王という男子があった。彼は藤原の母を持つ草壁系男子だったので皇位継承者として申し分なく、慣例を無視して生後一ヶ月で皇太子に立てられた。しかし彼が夭折してしまったことで藤原の母を持つ草壁系男子がいなくなり皇位継承問題が勃発した。
安積親王は聖武天皇の息子で草壁系男系男子だが、母親は皇族でも藤原氏でもない県犬養広刀自であり、阿倍内親王に比べて血統で劣る。だが逆に橘氏や大伴氏のような反藤原氏派にとっては希望の存在であった。長屋王は高市皇子の子で草壁系ではないが、草壁と元明の娘の吉備内親王を娶っているためその子は草壁系女系子孫である。「長屋王と吉備内親王の子は皇孫扱いにせよ」と勅令を得ており、長屋王の子は女系血統として公的に認められていた。また聖武天皇の母(藤原宮子)は非皇族だが、長屋王の母は皇族なので、血統の純粋性は聖武よりも上であった[1]。
天武天皇┬高市皇子─長屋王
└草壁皇子 ├─膳夫王や葛城王など#父系3世だが母系で皇孫(2世)とされる。
├──吉備内親王
元明天皇
729年に長屋王が謀反の罪に問われ、吉備内親王の子らと共に粛清された。謀反は冤罪であり、長屋王と藤原長娥子との間の子は一人として罪に問われていないことから、草壁系女系の血を狙った藤原氏の陰謀であることは疑いがない。744年にはもう一人の皇位継承候補である安積親王が脚気で急死した。これに関しても、藤原氏を母とする阿倍内親王を即位させるために藤原仲麻呂が対抗馬の安積を暗殺したという説が古くから唱えられている[2]。
仁藤敦史は、藤原氏が暗殺した直接的な証拠はない上に、藤原氏が積極的に皇統を断絶させようとするはずもなく、安積親王は自然死であったとする。暗殺説の裏には「男は女に優先されるはずである」という暗黙の観念があるが、聖武天皇は明らかに藤原氏の母を持たない息子より藤原光明子から生まれた阿倍内親王の即位を優先しており、権勢を誇った藤原四兄弟(仲麻呂の父と叔父たち)が病死した後もそれは変わっていない。仁藤は「この頃の日本の貴族層で女性族長を容認していたのはもはや天皇家だけになっており、女帝を容認する王権と男性優先の貴族層の間には齟齬があり、その皇統意識の違いが政争を引き起こしていく」と述べている。
安積が亡くなる前の738年に、藤原光明子を母に持ち、草壁系女子の阿倍内親王が皇太子に立てられている。後の孝謙天皇であり、日本の歴史上、唯一立太子を経て即位した女帝であった。皇太子という地位は将来「天津日嗣」という神祇祭祀の長たる天皇を継承する地位である。先例のない女性皇太子に対して一部から反対運動が起こる。元正上皇も阿倍の立太子には反対であったし、橘奈良麻呂は皇太子の阿倍を無視して「皇嗣は不在である」とし、彼女を廃して黄文王を皇太子に立てる計画を練っていた。奈良麻呂は孝謙天皇が即位した際の大嘗祭でも再び謀反を企てて、即位後もなお諦めず彼女の廃位を狙うが最期は捕らえられ自殺した。
孝謙天皇の正統性
「光明子が次の男子を産むための中継ぎ」という両親や藤原氏の意向によって即位した阿倍内親王だが、男性皇太子と同等の東宮教育(皇太子が受ける帝王学)を学び、やがて藤原氏の思惑を超えた君主へと成長する。
孝謙は女でありながら正統な天皇となるために様々な工夫がなされた。例えば皇太子時代の内親王は内裏において自ら五節舞を踊っている。この五節舞は、天武天皇が君臣秩序を維持するために創始したという触れ込みで、聖武天皇と元正太上天皇はこの舞によって阿倍内親王が「君臣祖子の理」を天下に示したと述べている。
孝謙の正統性を高めるために重要な役割を果たしたのは仏教である。正倉院の文書の中に護国経典として信仰されて金光明最勝王経(最勝王経)の書写事業が何例か見えるが、これは内親王即位に向けての地位強化の意味があると指摘されている。さらに『法隆寺東院縁起』「皇太子御斎会奏文」によると、内親王の施入(寄付)により聖徳太子と聖武のために法華経講読の法会が挙行されている。前例のない女性皇太子が立太子するまでには周到な計画があったことが窺える[1]。
即位後も重要視されたのは仏教であった。孝謙は大仏開眼会では男性天皇と同等の天子冠である冕冠を被り、男装の天皇となっている。孝謙は出家したまま天皇になることで男女の垣根を超越した「祟仏天皇」を目指した。これらを仏教用語で変成男子という。ただし『続日本史』の中に「母(光明皇后)は『岡宮御宇天皇(草壁皇子)の皇統が絶えようとしている。女子の継ではあるが継がせよう』と私(孝謙)に言った」とあり、孝謙天皇が女であることにやはり一言留保を置いている。( 天平宝字 6年 (762) 6月庚戌 (3日)条)。
草壁系皇統の行き詰まり
┬天武天皇┬舎人親王┬淳仁天皇
| | ├船親王
| | ├池田親王
| | └三原王─和気王
| |
| ├高市皇子─長屋王┬黄文王
| | ├安宿王
| | ├膳夫王
| | ├桑田王
| | └葛木王
| |
| ├新田部親王┬道祖王
| | └塩焼王┬志計志麻呂#父とは別件
| | └氷上川継
| └大津皇子
|
└天智天皇─施基皇子─光仁天皇─桓武天皇─…
孝謙時代の女帝は、母親の光明上太后の意に沿うまま動いていた。天皇大権を象徴する御璽と駅鈴は光明が掌握しており、橘奈良麻呂の乱に際して上太后は「詔」を煥発している。通常、「詔」は天皇が出すものであり、律令では光明のような上太后が出すのは「令旨」である。以上のように孝謙天皇は男性天皇への中継ぎとして権力移譲が不十分な状態にあった。しかし孝謙は母の意向に反して草壁系嫡流を強く自負していた。
孝謙天皇の後は淳仁天皇が即位する。淳仁は天武天皇と新田部皇女の間に生まれた舎人親王の息子であり、藤原系でも草壁系でもない。淳仁は自らを「聖武天皇の皇太子」と名乗り孝謙を無視し、天皇権力の源である御璽と駅鈴は、孝謙を飛ばし光明から淳仁へと受け継がれた。一方で淳仁は嫡流ではないという弱みがあり、即位の詔では当時の権力者の藤原仲麻呂の庇護を示唆するなど、文武以来の宣命で他に見出せない気弱なものになっている。
「皇と坐して天下治め賜ふ君は、賢人の能臣(藤原仲麻呂)を得てし、天下をば平らけく、安く治むるものにあるらしとなも聞こしめす」
道鏡をめぐる諍いもあり孝謙と淳仁の関係は悪く、調停役であった光明の死後に天皇権力は分裂し、最終的に孝謙のクーデタによって淳仁は廃位に追い込まれた。藤原仲麻呂は反逆者として討伐された。孝謙は御璽と駅鈴を淳仁から奪取した上で称徳天皇として重祚する。淳仁を廃位する際、彼女は聖武天皇の遺詔を宣し、自分には皇位後継者を自由に決める権利があると主張した。
「天下を孝謙に授けた以上、王を奴(奴隷)にしようとも、奴を王と言うとも、思い通りにせよ、たとえ汝(孝謙)の後に皇位に即いても、汝に無礼であるような者を皇位においてはいけない」
孝謙(称徳)天皇の治世には皇位継承が問題となったが、これは孝謙が草壁男系血統への継承に強い執着を見せたことにより原因がある。橘奈良麻呂の乱では黄文王や道祖王ら天武系の有力な王が多く命を失い、淳仁の廃位と同時に船親王や池田親王ら皇族の粛清が進んだ。黄文王は母親が、道祖王は祖母が藤原氏であったが、草壁系でない以上は孝謙が彼らを正統後継者に置くことはなかった。史書には当時の皇族の激減と皇位継承の不安が綴られているが、彼女は朝臣から皇太子を決めるよう促されても積極的な対策をとらなかった。
「廃帝(淳仁天皇)が退けられてから、天皇の身内で人望のある人々の多くは、無実の罪をかぶせられ、天皇の位はついに絶えそうになった」
称徳天皇「公卿らが自分の欲や功績を求めて皇太子を立てようとしているが、このようなことを誘うことなく、また誘われることもないように明るく清い心で仕えるように」
道鏡事件
弓削道鏡への譲位未遂事件はこのような流れの中で発生している。簡単に顛末を述べておくと、称徳天皇の治世の末期、太宰府の主神から「道鏡を天皇にすれば天下は太平になる」という宇佐八幡神の神託が朝廷に奏上された。称徳天皇が真偽を確かめるべく和気清麻呂を宇佐に派遣したが「無道の人を排除せよ、天つ日嗣は皇緒を以てせよ」との神託を持ち帰り道鏡の天皇即位が阻止された、というものである。
事件の主体が称徳天皇か道鏡かで説は分かれているものの、称徳がそれを容認したことは動かない。女帝が皇族でない道鏡に譲位を試みた動機は不明瞭である。後世に揶揄されたように、二人の間に男女の情愛関係があったことを直接示す同時代史料は存在せず、二人が出会った時の年齢が女帝は44歳、道鏡は推定60歳近くであることに鑑みれば男女関係をあまりに重視することには疑問が残るが[1]、万葉集の相聞歌(男女の恋慕の和歌)で高齢カップルが見え、また称徳の妹の井上内親王が45歳で子供を出産している[2]ことを踏まえると女帝の肉欲が衰えていたとは断言できない。
一方で、称徳即位の80年前に現れた中国史上唯一の女帝、武則天は怪僧、薛懐義を情夫にしていたことで有名であった。奈良時代にのみ見られる「天平勝宝」などの四字元号は武則天を模範としたものであり[3]、女性中華皇帝の治世は日本にもよく知られていた。また道鏡事件を記している『続日本紀』の編纂を命じた桓武天皇は唐風文化に傾倒し、中国史に精通した君主であった。よって武則天と薛懐義のスキャンダラスなイメージが称徳と道鏡に投影された可能性もある。
事件の要因としてより有力視されるのが仏教の影響である。称徳の統治理念の軸は両親(聖武、光明皇后)から受け継いだ仏教にあった。史上初めて出家した天皇は聖武であるが、それは譲位した後のことである。称徳は入道者のままで神道の最高祭祀者である天皇になったため仏神の習合が不可避となる。女帝は重祚時の大嘗会の詔で、冒頭からその問題について述べている。
ここでは称徳は神道上の神々より仏の方を上に置き、王法より仏法を優先して尊ぶべきとしている。最優先事項であった草壁系男系の血統の断絶が決定的となった時、称徳天皇の目には天照の血統より、彼女が「朕を導き護る仏法の師」と崇める道鏡の方が皇位継承者に相応しいものと映ったと思われる。八重樫直比古の研究によると、称徳の皇位継承思想には仏教典の影響が見られる。称徳は「皇位継承には『天』と『諸聖』の承認が必要である」と訴えたが、それは中国的な「天命思想」に加え、称徳が皇太子時代に写経し、宣命にも引用した仏経典『金光明最勝王経』「王法正論品」に見える王位天授思想にも深淵が求められる[4]。王経では天界の最高神、梵天が前世の積善と諸天の加護があるために人間界では王として君臨し「天子」と称されると説かれている[5]。
まとめると道鏡事件の背景には「称徳の天武-草壁直系嫡流意識」と「聖武以来の称徳の仏教政治」と「藤原氏の皇族化(次項で解説する)」が存在し、史料にはないが「称徳と道鏡の男女の関係」がもしかしたらあったかもしれない。先述の聖武天皇の「奴を王というとも汝の思い通りにせよ」という遺詔も称徳を後押しした。だがそれも貴族層の強い反対によって頓挫する。女帝を呪って志計志麻呂を擁立しようとする陰謀も発覚するなど、称徳・道鏡体制に対する反発は強かった。
- 『古代の人物③ 平城京の落日』「孝謙・称徳天皇御」古市晃、P23
- 『古代の人物③ 平城京の落日』「井家内親王・不破内親王・他戸親王」舘野和己、P167
- 『古代の人物③ 平城京の落日』「淳仁天皇」土橋誠、P44
- 『古代の人物③ 平城京の落日』「孝謙・称徳天皇御」古市晃、P27
- 『国家と宗教』「宣命における「天」と「諸聖」」八重樫直比古、P48
藤原仲麻呂の皇族化と道鏡の対抗意識
道鏡事件の背景には藤原氏の皇族化があった。以下に羅列するように奈良時代には皇族と藤原氏の境目はあいまいになり、藤原仲麻呂の権力は淳仁天皇を傀儡にするほどであった。
- 初の非皇族の皇后の誕生:古来より皇后は皇族にのみ許された地位であり、律令もそれを前提にしていた。しかし藤原不比等の息子らはその慣習を覆し、妹の光明子を立后させようとした。当時の皇后は単に正妻というだけでなく皇太子に準ずる執政権を持ち、将来的に女帝に即位する可能性もある重要な地位であり、そこに天皇家以外の者が立つのは考えられないことであった。当時の有力皇族の長屋王は光明子の立后に反対するが、藤原氏は長屋王を殺し強引に光明皇后を誕生させた[1]。実際に藤原氏は光明皇后を女帝にしようとしていたとも想像され[2]、そうでなくとも上述したように聖武引退後の光明上太后は孝謙を上回る権威と権力と有していた。
- 藤原仲麻呂の大師就任:光明皇后の甥の仲麻呂は淳仁朝で多大な権力を有し、藤原氏の中でも仲麻呂の一族は「恵美」の姓をっており扱いは準皇族であった。仲麻呂が任命された「大師」とは太政大臣の唐風名で、当時の太政大臣といえば前例が「後皇子尊」と呼ばれた高市皇子と大友皇子(弘文天皇)しかおらず、直後に道鏡が任命されただけで、ほとんど皇太子に等しい地位であった。また大師のモデルとなった唐の三師(太師、太傅、太保)や三公(太尉、司徒、司空)という官職は中国では王朝簒奪する者が禅譲を迫る直前に就いたものである[3]。
- 避諱の採用:避諱とは皇帝の実名に用いられている漢字の使用を禁じる中国の礼制である。例えば唐太宗の実名は「李世民」なので「世」と「民」の使用が一般で禁じられる。仲麻呂はこれを日本に導入し「君子部」を「吉美侯部」、「藤原部」を「久須波良部」へと改めた。前者は天皇を指す「君」を避けたものだが、後者は「藤原」を避けており、藤原氏を皇帝と同じように尊ぶことを強制している[4]。
- 淳仁天皇への接近:仲麻呂は石津王という皇族を養子とし、淳仁も仲麻呂とその妻の袁比良を「朕の父母」と呼び、仲麻呂の子供たちを「朕がはらから(兄弟)」と呼んだ。
- 息子の皇子扱い:仲麻呂は息子たちに親王と同じ「品位」を授け[5]、自らの子を「皇子」と称した。
- 三世女王との違法婚:仲麻呂は、息子の久須麻呂と三世女王の加豆良女王(淳仁の姪)を結婚させている。律令の継嗣令では臣下は五世以下の内親王・女王と結婚することができないためこれは違法行為である[6]。
土田誠は、藤原仲麻呂は実際に天皇になろうとしたと推測している。唐帝国を憧憬していた仲麻呂はその治世下で中国式の政策を数多く実施していた。具体例としては、武則天を光明皇后に準えた四字元号の改元、唐を真似た問民苦使(困窮する民間人を救済するための臨時職)の派遣、常平倉・平準署(物価安定を目的とした官司)の設置などが挙げられる。万年通宝を鋳造し、旧銭との交換比率を10:1に決めたのも唐の施策と同じものある。ここまで中国に精通している仲麻呂が易姓革命を考えなかったとは想定しづらい。
それを裏付けるように、中国では禅譲を受けて前王朝を滅びすまでに以下のステップを辿るが、仲麻呂はそのほとんどを満たしている[7]。
| 新王朝の創始者 | 藤原仲麻呂 |
| 大丞相や大相国などの称号を得て政界の最高実力者になる | 仲麻呂は臣下としては誰もなったことのない大師(太政大臣)になった。 |
| 都督内外諸軍事となり、軍事権力の全てを掌握する | 仲麻呂は紫微内相となり「内外の諸の兵事を掌らし」んでいる。 |
| 祖先を顕彰する | 仲麻呂は祖父の不比等が作った養老律令を施行し、さらに「斉の大公の故事に依りて」不比等を近江公に封爵している。「公国」は中国的な名称であり後漢を継いだ「魏公」や北周を継いだ「隋公」など禅譲の前提となるものである。また仲麻呂は藤原氏の事績を編集して「藤氏家伝」を作成している。 |
| 九錫之礼に加えられる | 九錫とは車馬や衣服などを指し、皇帝と同等の待遇を受ける栄典である。仲麻呂には九錫的な特徴はなかった。しかし仲麻呂は避諱の使用や、藤原宮子(聖武母)や光明皇后の墓を山稜と称し、国忌の例とするなど藤原氏を皇族と同待遇にしている。 |
| 皇族と同権力を得る | 仲麻呂は貨幣を鋳造する鋳銭権と、出挙(稲や銭の貸付)する挙稲権を得ており、国家の経済権を掌握していた。 |
| 妻や妻子たちに爵位を与える | 仲麻呂は息子を「皇子」としている。 |
和気清麻呂が諫言した「君臣の別」は一人道鏡のみに向けられたものではなかった。
一方で仲麻呂の死後に道鏡が行った施策はことごとく仲麻呂の模倣であった[8]。
| 藤原仲麻呂の政策 | 道鏡の政策 |
| 東大寺の建立に尽力した | 西大寺の創健に尽力した |
| 従一位太師(太政大臣)になった | 太政大臣禅師になった |
| 太政官から独立し、その優位にたつ紫微中台(後の紫微内相)を設立した | 家政と政務を行う法王官職を設立した |
| 本拠地の近江に保良宮を造営し北京と称した | 出身地の河内の弓削に由義宮を作り西京と称した |
| 開基勝宝・大宝元宝・万年通宝の三銭を新鋳した | 神功開宝を新鋳した |
岸俊男と吉田孝は「仲麻呂には、自ら天皇の位に即こうとする意志はなかったようだが、その一歩手前まで来ていた。仲麻呂に強い対抗意識を持っていた道鏡はそこからもう一歩進もうとしたにすぎない、とも言える」「仲麻呂が自分の一族を皇族に近づけようとしていたこと、また道鏡が仲麻呂を越えようとしていたことを考えると、道鏡の皇位簒奪未遂事件は歴史の流れの中である種の蓋然性があった」と分析している[9][10]。
- 『日本通史第4巻古代3』吉田孝、P47
- 『光明立后の史的意義』岸俊男
- 『日本古代史④平城京の時代』坂上康俊、P202
- 『続 律令国家と古代の社会』吉田孝、P84
- 『続 律令国家と古代の社会』吉田孝、P89
- 『皇親女子と臣下の婚姻史』栗原弘
- 『古代の人物③ 平城京の落日』「淳仁天皇」土田誠、P55
- 『日本の古代7 まつりごとの展開』「天皇と出家」岸俊男、P502
- 『続 律令国家と古代の社会』吉田孝、P89
- 『藤原仲麻呂』岸俊男、P423
光仁天皇の即位と天武-草壁血統の断絶
百済の武寧王─……─高野新笠
|──桓武天皇50─……
┌───────天智38─施基───光仁49
| |──他戸王(廃嫡)
┴天武40─草壁─文武42─天武45┬井上内親王(廃后)
└孝謙46(称徳48)
結局、女帝は後継者を決めないまま世を去り、光仁天皇が後を襲う。彼は天智天皇の孫で非草壁系である。しかし聖武の娘の井上内親王を娶わせることにより、その子の他戸親王(草壁系の女系男子)が次の天皇となる目論みであった。つまり光仁は他戸親王の即位までの中継ぎ天皇である[1][2]。『続日本紀』には以下の童謡が紹介されている。
桜井の「井」は井上内親王で、「白壁」は白壁王(光仁天皇)を指し、光仁は井上内親王のおかげで即位できたと風刺している。また他戸が立太子する際の宣命には「法に従って、井上皇后の子の他戸を立て」るとある[3]。以上のことから光仁が入婿であり、天武-草壁の女系の血が重視されての即位であると当時から認識されていたことが分かる[4]。
だが井上皇后は政変により他戸と共に粛清され、皇位は草壁皇子と血の繋がりのない桓武天皇が受け継いだ。政変は天武-草壁血統を狙い撃ちした陰謀であった。
高野新笠
|────桓武天皇─平城天皇
| | |──子供なし
| |─朝原内親王
光仁天皇 ┌酒人内親王
|────┴他戸廃太子
井上内親王
井上の娘の酒人と、さらにその娘の朝原内親王もそれぞれ桓武、平城天皇の妃となりわずかに草壁の血を繋いだがいずれも男児は産めなかった。結局、持統天皇や称徳天皇が執念を燃やした草壁の血は男系でも女系でも後世に継ぐことは出来なかった。
4節 天智血統への回帰と「新王朝」意識
以上の皇位継承を天智血統と天武-草壁血統の対立と見るのは誤りであり、持統や称徳らに天智系と訣別した「天武系」という血統意識はなかった。天武天皇は天智の娘を3人娶り、皇子たちもそれぞれ天智の娘を嫁にして積極的に天智の血を取り込もうとしている。近親婚が多い古代王家ではあるが、兄弟間での娘の入内はほとんど例がなく、それだけに天智がいかに弟との連携を重視していたかが分かる。文武天皇も天智陵の修造を命じ、天智の忌日(命日)を国忌に制定するなど、母系を通じての天智血統の自負が見られる[1][2][3]。
古代日本は父系で氏姓を受け継ぎつつ、母族への所属意識および母系血統の重要度が強かった。草壁女系子孫の他戸親王を即位させようとした点からもそれがうかがえる。
推古天皇「朕は(母方の)蘇何(蘇我氏)より出たり」『日本書紀』
称徳天皇「人は必ず父方・母方の親族があって生まれ出るものである。そうして父方の王たちと母方の藤原朝臣たちとは、朕の親族であるのだから〜」『続日本紀、天平神護元年十一月二十四日』
天智系と異なる天武-草壁血統の存在が意識され始めたのは称徳の崩御後である。桓武天皇は天智系への回帰を革命と捉えて長岡京への遷都を敢行し、翌年の785年に日本で初めて郊祀を行う。これは宇宙で唯一無二の皇帝の存在を国家的に示す中国の儀式であり、ここで桓武は天照大神でも神武でもなく、自らの父の光仁を始祖とする新王朝の成立を天に報告している。また光仁天皇の陵は元々は聖武天皇陵の付近にあったが喪明けと共に改葬され、施基皇子の陵に近接する場所に移動している。桓武は聖武に入婿していた父親の聖武-光仁という関係を断ち切り、天智-施基-光仁という血統を称揚したのである[4]。ただし桓武天皇は同時に、血の繋がりはなくとも自分が天武-草壁血統、特に聖武天皇の後継者であることを強く自認してたと見られる[5]。
桓武の「新王朝」意識は彼一人のものではなく、桓武の孫の文徳天皇も69年ぶりに郊祀を開催し、光仁天皇を天帝に等しいものとしている[6]。また桓武の玄孫の清和天皇は十陵四墓制を規定し天智天皇を天皇家の皇祖にしている。十陵四墓とは中国の天子七廟を模倣して始められた祖先崇拝儀礼である。十陵四墓制では皇祖と彼らに纏わる四人の臣下の陵墓を指定し、天智天皇を皇祖として起点にし、天武〜称徳を飛ばして①天智、②天智の息子の施基皇子、③施基の息子の光仁天皇が皇統とされている[7]。また中世で般舟三昧院に安置され明治には泉涌寺霊明伝に移された歴代天皇の位牌は。天智と光仁以下の天皇に限られており、やはり神武や天武〜称徳天皇は含まれていない[8]。
中西康裕は、草壁系嫡流意識が強い称徳天皇が皇統でない道鏡を皇位につけようとしたとは到底考えられず、道鏡事件は「前王朝」の失態と「新王朝」の正統性を演じさせるための『続日本紀』編者の創作であるという説を唱えた。道鏡が即位をうかがったことを記すのは『続日本紀』の説明文の部分のみであり、一次史料に近い称徳の宣命のなかでまったく触れられていないのも不審である。宇佐八幡宮神託事件は実際は道鏡とは無関係であり、法均(和気清麻呂の姉)が宇佐八幡の言葉と称して皇位継承に関することを述べ、それが称徳の意図から大きく外れたため処罰されたという事件が称徳の死後に道鏡と結び付けられたと思われる。後世では忠臣の鑑と賞賛された和気清麻呂が光仁朝で不遇であったのも、道鏡を阻止した事実はなく、単に皇位をめぐる皇太子擁立運動に関わっただけであったためと考えられる[9]。
- 『持統天皇』瀧浪貞子、P57
- 『日本古代史④平城京の時代』坂上康俊、P102
- 『古代の天皇祭祀と神宮祭祀』藤森馨、P82
- 『天皇の歴史②聖武天皇と仏都平城京』吉川真司、P238
- 『桓武天皇』瀧浪貞子
- 『謎の平安前期』榎村寛之、P186
- 『天皇と儒教思想』小島毅、P148
- 『神武天皇論』監修 清水潔、P196
- 『続日本紀と奈良朝の政変』中西康裕
5節 道鏡皇胤説
天智天皇の孫説
弓削道鏡が施基皇子の息子、すなわち天智天皇の孫だという説がある。同時代史料に道鏡が皇胤とするものはなく、道鏡が皇統だとすると辻褄が合わなくなる事柄が多いので現在の史学では史実とは認められていないが、前近代にはかなり信じられていた学説であった。
道鏡皇位覬覦事件にはいまだ謎が多い。道鏡は非皇統の身で皇位を狙った大罪人として近世から現代にかけて非常に嫌われたが、当時にあっては庇護者の称徳天皇を失った後の道鏡は都から追放されたものの、罪人扱いではなく造下野薬師寺別当に任じるという名目であり以後は念仏三昧の余生を送っている。称徳女帝の意を汲んで「道鏡を皇位につけよ」と上奏した阿曾麻呂も多褹嶋守に左遷されたが、道鏡死後には大隅国の国司に任命されている。社稷を揺るがした大事件にもかかわらず当事者の処罰が随分穏当である。こうした矛盾から実は道鏡は皇胤だったのではという発想が出てきたものと考えられる。
最も古くに道鏡皇胤説を唱えた史料は平安朝の初期に編纂された『七大寺年表』と「僧綱補任』であり、ここには「弓削道鏡は天智天皇の孫で施基皇子の第6子である」と書かれている。公卿補任頭書が引用する『帝王系譜図』でもやはり道鏡は施基皇子の第6子になっている。室町時代の『皇胤紹運録』にも施基皇子の息子、光仁天皇の弟として「道鏡禅師」の名前が見える。こちらでは道鏡は施基親王の第8子とされている。足利義満が薨去した折に義満に太上法皇の尊号を追号すべきか否かで議論が起こった。本来、法皇は皇族でなければ名乗れない身分だが道鏡は非皇族にして法皇であった。その議論の中で大外記の中原師胤が「道鏡は天智帝の孫なり」と前例にはならないとしている。道鏡が天智天皇の皇胤であったことは当時の知識人の間で広く認められていた。江戸時代中期の歴史家、土肥経平も道鏡皇胤説をとっており、その上で道鏡を臣籍身分で皇位を狙った簒奪者、逆臣と罵っている。
ニギハヤヒ
道鏡を排出した弓削氏は、古代名族の物部氏の傍系氏族であり、物部氏の始祖は神武天皇と相争ったニギハヤヒである。ニギハヤヒは記紀神話では皇統とは無縁の神であるが、神道書『先代旧辞本紀』ではアマテラスの子孫とされている。よって道鏡は系譜上は天皇家と同一父系一族である。
先代旧辞本紀
アマテラス─アメノオシホミミ┬ニニギ─ホオリ─神武天皇─……─称徳天皇
└ホアカリ(ニギハヤヒ)─……┬物部氏
└弓削氏─……─道鏡
- 『先代旧事本紀』には記紀には見られない物部氏の系譜・逸話が多くあり、これは物部氏の家伝に基づいた信頼できる情報と考えられる。例えば松前健『日本の神々』や田中卓『日本建国史と邪馬台国』の中で旧事本紀が援用されている。
6章 女帝中継ぎ論(推古と皇極・斉明)
- 1節 推古天皇の即位
- 2節 女帝推古の執政と「摂政」厩戸皇子の執政
- 3節 皇極(斉明)天皇と中大兄皇子
- 4節 大兄と大妃制度
- 大后制度の成立とその役割
- 大后・大兄と皇位継承
- 5節 仲天皇と中皇命
- 間人皇女は女性天皇だったか
- 6節 ヒメ-ヒコ聖俗二重体制
推古と皇極(斉明)天皇の事績は後世史料の『日本書紀』に多くを頼ることになるが、そこには多くの歴史の造作と加筆が含まれている。「天皇」と呼ばれていたかも定かでない彼女たちの朝廷は皇室制度の全てが未成熟であり、大王(天皇)といえど豪族連合の長に過ぎず即位には豪族からの推戴が求められた。推古と皇極の2人の女大王は、幼年の草壁系皇子の成長を待つために即位した持統、元明、元正女帝と異なり、登極時に他に即位すべき有力男性皇族が存在し、かつ子世代への生前譲位を行っていない。そのためその中継ぎ性にはいろいろな議論がある。
この時代は古代女王制の名残か、二人の他にも女性天皇の影が色濃い。安閑天皇の皇后である春日山田皇女は一度即位を薦められており、孝徳天皇死後にその皇后の間人皇女が一時的に即位した可能性がある。他には天智天皇の皇后の倭姫王も一時即位を勧められているが断っている(実際に即位したという説もある)。
「1節 推古天皇」。推古天皇は現在代数に含まれている最初の女性天皇である。当時の朝廷は蘇我馬子が権力を握っており、その勢いは崇峻天皇を殺してしまうほどであった。崇峻を継ぐ形で即位した推古天皇だが『日本書紀』にはその経緯は詳細には書かれていない。そのため状況論から推古の即位事情を考察する必要がある。当時の朝廷には男性皇族が数多く存在し、中でも穴穂部皇子、彦人大兄、厩戸皇子(聖徳太子)、竹田皇子(推古の息子)などが有力であったと推定される。女帝中継ぎ論では「推古天皇は紛糾する皇位継承争いを緩和するため、将来的に若い男性皇族に繋ぐことを想定して即位した中継ぎ女帝だった」と説明される。しかし推古が皇位継承争いを緩和するための存在ならば即位後に厩戸を「皇太子」に定め政権を委ねたことは矛盾であること。また中継ぎと生前譲位は不可分であるにもかかわらず、推古は譲位することなく終身天皇であり「皇太子」の厩戸は即位することなく死んでいる。そのため推古を中継ぎと認めることはできないという反論も存在している。
「2節 女帝推古の執政と「摂政」厩戸皇子の執政」。書紀によれば推古は厩戸を「摂政」にして「万機を以って悉くに委ぬ」、つまり政治の全てを委ねたとある。この箇所は旧皇室典範作成時には「女性の推古に政治能力がないため代わりに男性皇族の厩戸が執政していた」と女帝禁止の論理に援用された。しかし現在は推古が政治能力のないお飾り天皇であった可能性は認められていない。書紀には推古が即位前から政治に携わり、天皇になってからも軍事、仏教振興、経済政策など幅広く政治に関わっていたことが書かれている。馬子の姪である推古には蘇我氏の後ろ盾があり、さらに大后に与えられる私部という私有地によって高い経済力を有していた。推古と馬子が密接な関係であった事のは疑いないものの、馬子が王領の拝領を申し出た時は推古はそれを断っており傀儡的な存在ではなかった。
書紀では厩戸は「摂政」「皇太子」と書かれているが、それらの制度が成立するのは律令体制以後のことである。壬生部(太子の私有地)と斑鳩宮という大邸宅を有し、隋書では「ワカミタフリ(太子)」と呼ばれる厩戸が皇族の中で突出した存在であったことは事実だが、女帝即位時に推古39歳、厩戸19歳、馬子42歳と年齢的にも隔絶している中で、実際の厩戸の政治関与がどれほどのものであったか議論がある。書紀の「万機を以て悉く委ぬ」という表現も中国・朝鮮史書の皇太子の文章を引用したものであり厩戸が文字通り全ての政治を担っていたとは考えられず、厩戸の単独の仕事とされる十七条憲法も後世に加筆された痕跡が存在する。書紀で厩戸が顕彰されているのは書紀編纂時に持統天皇が草壁皇子と厩戸を重ねあわせたという説もあり、書紀の中では史実ではない太子の仏塔創建伝説や、仏陀の逸話を流用した生誕伝説など数々の聖人化エピソードが挿入されている。
現在では厩戸皇子は推古、馬子、太子の三頭体制の一角であり、基本的には推古の詔・勅を受け、馬子の補助として働く存在であったと考えられている。厩戸は推古朝を支える重要な政治家の一人ではあったものの、推古や馬子を上回る権威を持つことは最後までなかった。「政治のできない女帝の代わりに政治していた聖徳太子(厩戸)」というイメージは11世紀の史書『扶桑略記』の中にも見られるが、旧皇室典範で女性天皇が禁じられた後に世の中に普及したものである。明治初期の歴史教科書は推古天皇の執政を中心に記述しているのに対し、典範制定後の教科書では当時は太子が執政していたことになっており、推古は「女帝であったので太子に政治させた」と書かれている。
蘇我法提郎女
|───古人大兄
敏達─押坂彦人大兄┬────1舒明
| ├───5中大兄(天智)
└茅渟王┬2皇極(4斉明)
└3孝徳
- 数字は舒明を1とした継承順
「3節 皇極(斉明)天皇と中大兄皇子」。推古の後は上の系譜の順に皇位継承されていった。皇極の治世では蘇我馬子の子孫の蝦夷と入鹿が専横していたが、乙巳の変(いわゆる大化の改新)によって蘇我氏宗家は滅びた。変の後に皇極は孝徳に譲位し中大兄皇子が「皇太子」に定められるが、やがて孝徳は朝臣から見捨てられ皇極が斉明の名で復位した。斉明は終身皇位にありその治世は息子の中大兄が政治を主導したとされる。斉明の死後も中大兄はなかなか天皇にならず7年という長期にわたる称制を経てから天智天皇として即位した。以上の皇位継承には不可解なところが多く、数多くの学説が提唱されている。
まず皇極が即位した経緯に関して、こちらも書紀には詳しいことが書かれていなので推古と同じように状況論から女帝の即位事情を考察する必要がある。舒明天皇の死後の朝廷では聖徳太子の息子の山背大兄王と舒明の息子の古人大兄皇子が有力後継者であった(中大兄は当時16歳で若すぎる)。女帝中継ぎ論では「山背大兄と古人大兄の皇位継承争いをひとまず回避するため、中継ぎとして女性天皇が擁立された」と解説される。「皇位継承緩和のための中継ぎ女帝」という論理は推古中継ぎ論と同じものであり、背景にはやはり推古と同様に蘇我氏があったことが想定される。『日本書紀』では皇極の治世は「古来の道に基づいて政治を行なわれた」とされている。なお山背大兄と古人大兄は共に皇位継承争いの中で殺された。
蘇我氏宗家が乙巳の変によって倒されたのち、皇極は弟の孝徳に公式では史上初めての生前譲位を行うのだが、その理由が不明である。息子の中大兄を将来的に天皇にしたいのであれば皇極がそのまま天皇でいればよく、孝徳に譲ったせいで皇位継承争いが拡大している(孝徳の息子の有間皇子は後に中大兄に殺された)。これを合理的に解釈するために、乙巳の変の首謀者は中大兄ではなく孝徳天皇であったという説や、緊迫する国際関係の中で中国が嫌う女王を廃位させた説、皇極と蘇我氏は不可分で蘇我氏宗家の滅亡と共に皇極も強制廃位させられた説、当時女帝は中継ぎでその子供が即位できないという暗黙のルールが存在していたため、中大兄を天皇にする目的で皇極は退位した説などが唱えられている。
孝徳が崩御すると斉明が重祚するがこれも不可解である。当時の中大兄は30歳で、やや若いとも言えるが十分に即位可能な年齢である。こちらも様々な説があり、皇極は孝徳によって強制退位させられたのだから孝徳がいなくなれば彼女が復位するのが当然であった説、中大兄が軍事に関わりすぎて血の穢れが忌避された説などがある。遠山美都男は定説のように皇極が蘇我氏の傀儡であったならば斉明が復位するのは辻褄が合わないとし、皇極・斉明天皇の登極は当時の同世代継承法に則ったものであり、女帝には中継ぎとは言えない能力と権威を持っていたと唱えている。
斉明の時代から約100年後に書かれた『藤氏家伝』には斉明は「悉々く庶務を以って皇太子(中大兄)に委ぬ」と書かれており、女帝-摂政体制の存在が見てとれる。馬子的存在がいなかった中大兄の事績は厩戸よりはっきりしており実際に多くの政治を主導していたことは疑いがないが、斉明が全くお飾りであったわけではない。『日本書紀』によれば女帝は土木工事を好み、数々の巨大建造物や用水路の工事を始めている。その規模は大層なものであったらしく、斉明の失政を理由に反乱計画まで起こっていた。さらには唐との決戦が間近に迫ると斉明は67歳の老体を押して九州の地まで天皇親征を果たしている。「悉々く庶務を以って皇太子に委ぬ」と書かれた『藤氏家伝』の編纂責任者の藤原仲麻呂は女性君主を認めない儒教思想に深く傾倒し、また当時女上皇孝謙との関係が悪化していた人物であるため、「藤氏家伝』の女帝斉明の評価にも一歩留保が必要とされる。斉明が九州で没すると中大兄は7年にわたる称制を行ってから天智天皇として即位した。7年という異様に長い称制の理由は全く不明で、同母妹との近親相姦説など数多くの仮説が提唱されているがいずれも決め手を欠き、定説が存在しない状態である。
「4節 大兄と大后制度」。古墳時代には一人も存在しなかった正位の女性天皇が飛鳥時代以降誕生した原因は、この頃から「大后」制度が成立したことが大きい。記紀では神武天皇の時代から「皇太子」や「皇后」が存在していることになっているが、史実で皇后や皇太子が登場するのは天武朝以後の律令体制以後であり、飛鳥時代にはその前身となる「大兄」「大后」と呼ばれる身分が存在した。大后は私部と言われる私有地によって独立した経済力を持ち、大王が崩御した直後は大権を代行するなど「地位は天皇に等しい」存在であった。最初に大后となった人物は諸説あり、安閑妃の春日山田皇女、敏達妃の豊御食炊屋姫(推古)が候補に挙げられる。前者は欽明に女性天皇即位を要請されており、後者は実際に即位している。また皇位継承に際して「大兄」と呼ばれる皇族が有力候補であった。ただし大兄は皇太子と違い複数人存在し、その起源は大王継承ではなく豪族の族長権の継承にあったとも考えられている。
「5節 仲天皇と中皇命」。女帝中継ぎ論に関連して、古文書に「仲天皇」「中皇命」という女性天皇を指す言葉が見える。これは従来「ナカツスメラミコト」と読み「中継ぎ天皇」という意味だと解釈されてきた。近年では、皇后を中宮と呼ぶことから中宮天皇=皇后天皇説や、天皇と神を"中継ぐ"女性という巫女説や、ナカツスメラミコトは天智天皇の妹の間人皇女を指し、その語義は女帝として即位した間人皇女を指す固有名詞だという説も有力視されている。孝徳天皇の大后でもあった間人は孝徳の死後に女性天皇となった可能性は多くの専門家が指摘するところであり、当時造られた弥勒像の銘文もそれを示唆している。
「6節 ヒメ-ヒコ聖俗二重体制」。邪馬台国で男弟が卑弥呼を補佐したように、弥生・古墳時代の日本は兄妹・姉弟がそれぞれ宗教(聖)と政治(俗)を担い、男女共同で統治する体制が広く見られた。例えば『山城国風土記』には玉依彦と玉依姫の兄妹があり、記紀でも阿蘇都彦・阿蘇都媛のような「ヒコ」と「ヒメ」の一対の存在が多く確認できる。これをヒメ-ヒコ制と呼び、先史時代の日本の典型的政治体制であった。天皇陵である西殿塚古墳にも大王に匹敵する人物が埋葬されていることが想定され、天皇とそれに並ぶ女性が男女合葬されている可能性が指摘されている。古墳時代では夫婦合葬の例は少なく、その女性は天皇の同族女性であったと考えられる。
1節 推古天皇の即位
飛鳥時代に初めての正式な女帝、推古天皇が立った。当時の朝廷は蘇我馬子が権力を握っており、その権勢は崇峻を殺害するにまでに至る。崇峻の死後に後継者候補が林立し、争いを緩和するために推古天皇に皇位に登った。推古朝では「皇太子」である厩戸皇子(聖徳太子)が「摂政」として政治を担い女帝を輔弼(補佐)したとされる。
後継者争い緩和のための女帝
┌33推古天皇
| ├──竹田皇子
29欽明天皇┼30敏達天皇─彦人大兄─34舒明天皇─…
├31用明天皇─厩戸皇子(聖徳太子)─山背大兄
├32崇峻天皇
└穴穂部皇子
『日本書紀』には推古天皇の即位は「皇位が空位になったので群臣は額田部皇女(推古)を推戴した。彼女は2度辞退した後に即位した」と記すのみである。最初の女帝であるが、書紀の記述にはそれらしい特別な斟酌はなく、男帝と全く同じ形で記事を連ねている。これは書紀撰集が行われたのが女帝の相次いだ時代で、女帝が特別のものとは考えられなかった通念によるものと考えられる[1]。推古が2度辞退したのも中国皇帝の例に倣ったもので特に政治的意味はなく、状況論から推古の即位事情を推察する必要がある。
┌推古 ┌尾張皇子
| |──┴竹田皇子
欽明┼敏達┬彦人大穴皇子
| ├難波皇子
| ├春日皇子
| └大派皇子
|
├用命┬厩戸皇子
| ├来目皇子
| ├殖栗皇子
| ├茨田皇子
| └麻呂子皇子
|
├崇峻─蜂子皇子
└穴穂部皇子
この中で有力候補とされたのは太字で示した四人である。
| 名 | 没年 | 備考 | 予想される後援勢力 |
| 穴穂部皇子 | 587年 | 物部氏と近しく、推古即位前に馬子に殺された。 | 物部氏 |
| 竹田皇子 | 不明 | 推古と敏達の息子であり、推古は遺詔で竹田皇子の陵への合葬を望むなど息子への強い愛着を持っていた。587年に物部守屋討伐に参加して以来史書から姿を消している。 | 母の推古 |
| 彦人大兄皇子 | 不明 | 「大兄」の称号を持ち、生き残った3人の中では最も皇位に近かったと考えられるが、蘇我氏と血縁関係が薄かった。物部戦争に加わっていないことからそれ以前に死んでいた可能性もあるが、中世の『本朝皇胤紹運録』にれば彦人の息子の舒明天皇が593年に産まれており、舒明には二人の弟妹がいるので600年ごろまでは生きていたと推察される[3]。 | 後援はないが最年長の優位性があったか? |
| 厩戸皇子 | 622年 | いわゆる聖徳太子。祖母、生母共に蘇我氏の出であり、蘇我馬子との間には強い血縁関係があった。 | 蘇我氏 |
| 鈴木靖民 | 推古天皇は、蘇我氏の影響の強い厩戸皇子の即位を防ぎ、当時は若年だったであろう愛息の竹田皇子への将来的な践祚のために中継ぎ女帝として即位した[4]。 |
| 熊谷公男 | 蘇我馬子が当時最有力候補であった彦人大兄を外すために推古天皇を中継ぎにして厩戸への即位を狙った[5]。 |
| 吉村武彦 | 崇峻が馬子に暗殺され欽明の息子にもはや妥当な人材がいなくなった。そのため欽明の孫世代の彦人大兄、竹田皇子、厩戸皇子が有力候補にあがったがこの三人の年齢はいずれも20歳前後と見られ即位年齢に達していなかった。そこで天皇暗殺という政治的危機のなか、蘇我氏主導のもとで馬子の姪の額田部皇女(推古)が選出された。額田部は既に一定の政治的経験を積んでおり、その実績も評価されたのであろう[6]。 |
| 河内祥輔 | 6世紀初頭から父子嫡流継承が皇位継承のルールになっていた。この時代でいう嫡流とは父が天皇で母も皇族、つまり男系かつ女系天皇でなければならず、蘇我氏を母に持つ天皇などは傍系でありその子供は天皇になれなかった。最初は継体-欽明-敏達の嫡流ラインを継ぐために若年の竹田皇子の中継ぎとして用明天皇が即位したが、竹田が夭折してしまったのでルールを曲げて、母親が蘇我氏の厩戸を次世代の大王候補とし、若い皇子(推古即位時は19歳)の成長を待つ中継ぎとして推古が即位した[7]。 |
河内説は近年有力視されているが、倉本一宏は「河内説のような大王位継承原理が存在していたとしてもそれはあくまで理念上の産物であり、実際には傍系として中継ぎ扱いされる天皇の方が圧倒的に多いのであるからもはやそれを原理と称して良いか躊躇せざるを得ない。竹田皇子が直系の大王位を伝える王統であったのならば竹田が死亡した時点で同母弟の尾張皇子が候補に上がってもよいものであるがそのような形跡はない」と反論している[8]。
有力皇位継承候補への呪詛事件
推古即位の皇位継承関係に関して、推古天皇即位の5年前に中臣勝海連が穴穂部皇子を天皇にするために対抗馬の彦人大兄と竹田皇子を呪殺しようとした事件が参考になる。このことから当時、皇位に最も近かったのは厩戸皇子よりこの二人であることが分かる。
結局この時に即位したのは穴穂部でも彦人でも竹田でもなく、同世代継承の原則によって用明の弟の泊瀬部皇子(崇峻)であった。岸俊男は「大王の妻である大后もまた王位継承資格者であった」と指摘しているが、それではこの事件のような王位継承争いで推古の名前が上がっていないことが説明できない[9]。しかしこの呪詛事件の史実性には疑問も残る。額田部皇女(推古)が敏達と結婚したのは571年で、竹田はその額田部の第二子である。よって事件が起きた587年の段階では竹田の年齢はどれだけ上振れしても15,6歳であり、到底皇位継承に関わるような年齢ではない。また彦人皇子が「太子」と冠しているのも不審である。これは後に彦人の子孫が皇位を独占し、彦人が「皇祖」と称えられたことに伴う潤色と考えられる[10]。
推古の経済力を支えた額田部
黛弘道は、推古が最初の女帝になった理由の一つに、推古が皇族の中で抜きん出た財産家であったことが考えられると述べている。古代皇族には私有地として住民に課役を負わせる「部」が設定されており(部民制)、部を多く持つ皇族は高い経済力を保持することを意味していた。この部を皇族間で比較すると、蘇我氏系の皇族は非蘇我氏系と比べて広く部を所有しており、さらにその中でも推古(額田部皇女)の所有する額田部の範囲は日本全国25カ国に分布し抜きん出ていた。額田部によって元々強固な経済基盤を所有していた推古が皇后に与えられる私有地の私部も追贈されたことで、当時の皇族の中で群を抜いた財産家になったことが想定される[11]。これに対し告井幸男や水谷千秋は、額田部を継承したから推古は額田部皇女と名付けられたのでなく、推古が古代豪族の額田部臣に養育されたことで額田部皇女とされたとしている。つまり額田部は推古の私有地ではなかった。古代皇族は阿倍内親王(称徳天皇)の諱が阿倍臣から取られるなど、養育氏族や乳母にちなんだ名付けをされることが多く、推古もその一人と考えることができる[12][13]。
譲位しなかった女帝
当時の天皇は男女性差なく終身制であり「然るべく男子に生前譲位する」という考え方自体がなかった。推古天皇の治世は36年の長きに亘り、先に竹田皇子も厩戸皇子も薨去してしまう。ただし『扶桑略記』などで推古に先んじる女帝として扱われている飯豊青皇女は中継ぎ「即位」した後に男帝に生前譲位しており、継体天皇も死の直前ではあるが安閑天皇に生前譲位を行っている。
また初めて皇極天皇が公式に生前譲位を行ったのが645年で、推古の崩御から17年しか離れていない上に乙巳の変からわずか二日での譲位劇となっているので、終身天皇制がどこまで厳密に守られるべきルールとされていたのかは不明である。
- 『六国史』坂本太郎、P114
- 『古代の人物①日出づる国の誕生』「推古天皇」倉本一宏、P193
- 『日本の歴史03大王から天皇へ』熊谷公男、P215
- 『岩波講座 日本通史 第3巻 古代2』P15
- 前掲、熊谷、P215
- 『蘇我氏の古代』吉村武彦、P115
- 『日本古代史③飛鳥の都』吉川真司、P16
- 前掲、倉本、P192~193
- 『日本古代王権の研究』荒木敏夫、P151
- 『推古天皇』義江明子、P63
- 『物部・蘇我氏と古代王権』黛弘道、P10~12
- 『名代について』告井幸男
- 『日本の古代豪族100』水谷千秋、P255
推古中継ぎ論への反論
以上の推古中継即位論に対しての反論も存在する。
官文娜は、殷や周王朝など古代中国王家の兄終弟及(兄弟継承)が嫡子への生前譲位とセットだったことと比較し、太子である厩戸皇子に生前譲位しなかった推古の中継ぎ性を否定した。「紛糾する王位継承問題を緩和するために女性を中継ぎで即位させた」という一般的な見解も、推古没後に山背大兄と田村皇子の争いなどが起こり、女帝の即位は王位継承問題の複雑化を防ぐ役割は果たしていない。新大王が豪族に推戴される慣習があり、皇太子制度も未成立な当時の皇位継承で重要視されたのは性差ではなく「即位年齢」と、中大兄が述べるように「恭遜の心」と「民望」であり、古代日本の皇女には正統な皇位継承権があった[1]。
大平聡は「男帝即位が困難な状況において当面の危機を回避するために推古が即位したのならば、女帝が男性である聖徳太子を皇太子にして政権を委ねたのは大きな矛盾である」と問題提起する。「大后は皇后の前身制度であり、敏達の大后であった推古は王権の分掌者であった」、つまり推古は大后の身分から即位したという定説に関しても、国家形成に向けて権力の中央集権を目指していた時期に、その権力の中枢において、権力を分割して複数人格がその行使にあたるという事態を想定するのは無理がある。大后は一つの尊称に過ぎず、律令の皇后のような制度的呼称とは認め難い。よって推古の即位は敏達の妃であったことでなく、欽明の子供であったことにその本源的理由を求めるべきである。当時の皇位継承には男子優先原則はあったが、それでも推古は欽明の孫世代の厩戸や竹田よりも政治能力が評価されていた[2]。
遠山美都男は「崇峻暗殺後に前大后であった推古が即位することになったのは彼女の政治的な経験と実績が高く評価された結果と考えるべきであり、推古を中継ぎと捉えるのはどう考えてもおかしい。推古=中継ぎ女帝論の根拠には厩戸皇子(聖徳太子)の存在があり、女帝の統治に不安や不足があったと考えられていたためであるが、それは事実ではない」と主張している[3]。以下2節以降で、遠山の学説も交えながら推古天皇の執政能力と厩戸の政治参加の実態について解説していく。
2節 女帝推古の執政と「摂政」厩戸皇子の執政
女帝-摂政体制
「推古」という名前は奈良時代の後期に付けられた漢風諡号であり、「推」の字は引用元の『逸周書』には「息政外交曰推(自ら政治を執らず、外交に恃む)」と定義されている[1]。また推古天皇の治世について『日本書紀』には以下のよう厩戸皇子に「万機」を委ねたと記されている。
さらに11世紀の歴史書『扶桑略記』や12世紀の歴史物語『水鏡』では推古天皇が「朕は女人なり。性、物を解へず。宜しく天下の政は、皆太子(厩戸皇子)に附くべし」と詔したと記されている。
「勅曰。朕女人也。性不解物。冝天下政治皆付太子。百寮万民聞而悦之。厩戸皇子爲皇太子。万機之政悉委太子」『扶桑略記』[2]
現代史学では田村圓澄が、推古は崇峻暗殺の悲劇を繰り返さないため、新しい権威を持つ執政官として厩戸を立て、自らは不執政の立場を貫いた。すなわち天皇が宗教的権威の体現者の地位に留まると同時に政務を委ねられた執行者(厩戸)が天皇に代わって政治の衝に当たったと考察している[3]。
推古の執政
「男帝には摂政は置かれないが、女の推古は統治能力がない故に摂政を置かれている」という論理で、女帝中継ぎ論の根拠の一つになっている女性-摂政体制であるが、厩戸皇子(聖徳太子)が文字通り「万機(全て)」の政治を行っていた説は古くから否定されている。厩戸の伝記である『上宮聖徳法王帝説』には以下のように書かれており、当時の政体が推古の下に厩戸と蘇我馬子が控える三頭体制であったことが分かる[1]。
「少治田宮御宇天皇(推古)ノ世に、上宮厩戸豊聡耳命、島大臣(蘇我馬子)と共に天下ノ政を輔ヶて、三宝を隆にす」『上宮聖徳法王帝説』
蘇我氏の血が濃い推古と厩戸
蘇我稲目┬馬子
├─堅塩姫
| |───────┬推古
| 欽明 └用命
| |──┬崇峻 |───厩戸
└小姉君 └─────穴穂部
現在では推古は天皇として積極的に政治参加していたと見る向きが強い。推古は即位以前から穴穂部誅殺の詔を出し、泊瀬部皇子(崇峻)を天皇を推挙するなど軍事や皇位継承に携わっている。また『日本書紀』では当時の推古を「炊屋姫尊」と、天皇と同様に「尊」号で記し、彼女が天皇不在の際には「詔(君主の命令)」を出す立場であったことを示している[2]。敏達の大后であった推古は、中国漢王朝で皇后の官を私官と書いたことにちなむ私部という私有地(部)を与えられており経済力も盤石であった。 即位してからも国の大事を決める際は「以万機悉委」ているはずの推古が主導権を取り「皇太子・大臣および諸王・諸臣に詔して」いる。推古十一年に「天皇事」を委任されている厩戸が自らの意向で仏を祀ろうとした際もいちいち推古の裁可を必要としており、軍事面でも推古の意向で新羅への出兵が行われている[3][4][5][6][7][8]。
「この月、皇太子(厩戸)は推古天皇に申し上げて、仏の祀りのための大楯と靱(矢を入れる武具)を作り、旗幟(合戦用の旗)を描いた」
「新羅と任那が戦った。推古天皇は任那を助けようと思われた。この年、境部臣に大将軍を命ぜられ、穂積臣を副将軍とされた。一万あまりの兵を率いて、任那のために新羅を討つことになった」
以上のような推古を執政を助けたのが蘇我馬子である。馬子は崇峻天皇を暗殺するほどの人物であったが、叔父-姪の関係にある馬子と推古は生涯通じて良好な関係を築いていた。それを示すものとして推古二十年、馬子は推古を讃える歌を詠み、推古もまた返歌で叔父の馬子への賛辞を示している[9]。
馬子「わが大君の入られる広大な御殿、出で立たれる御殿を見ると、まことに立派である。千代、万代にこういう有様であってほしい。そうすればその御殿に畏み拝みながらお仕えしよう。今私は慶祝の歌を献上します」
推古「蘇我の人よ、蘇我の人よ。お前は馬ならばあの有名な日向の国の馬。太刀ならばあの有名な呉国の真刀である。そんなにすぐれた人物だから蘇我の人を大君がお使いになるのももっともなことだ」
皇女時代から政治的に一心同体であった二人だが、女帝が馬子の傀儡という訳ではない。一度、馬子が王権の直轄領である葛城県を欲し、推古に賜りたいと述べた。これに対し推古は舅である馬子の言葉を尊重したいとしながらもそれを拒否している[10]。馬子が大王に匹敵する権力者といえど、推古はその意のままになる人物ではなかった。
「朕の世にしてこの県を失えば、のちの君は『愚に癡しき婦人、天下に臨みて頓に其の県を亡せり』と非難するであろう。あに独り朕の不賢のみならんや、大臣も不忠とならん。これ後の葉の悪しき名ならん」『日本書紀』
義江明子は推古天皇の和風諡号とされている豊御食炊屋姫は実際には諡(死後に送られた名)ではなく、生前に彼女の業績を顕彰した讃え名だと推察した。大安寺の由来を記した『大安寺縁起』(8世紀成立)には「仲天皇」と呼ばれる女性が「炊女として(寺を)造り奉らむ」と記載されている。また平安時代において平野祭りや園韓神祭では巫女の一種として「炊女」の称が見え、仏に対する御食奉献の働きが「炊女」の語で示されたものと考えられる。よって推古の炊屋姫(カシキヤヒメ)とは推古が寺院造営に関わったことを示しており、雄略天皇のワカタケルのような讃え名であると見られる[11]。
またその陵墓からも推古の強い権威が看取できる。推古の陵は『日本書紀』では「今は飢饉で民が飢えているから私のために陵を建てて厚く葬ってはならない」という遺詔に従って息子の竹田皇子の陵に合葬したことが記されるのみだが、『古事記』では「御陵は大野岡上に在り。後に科長の大陵に遷す」とあり推古が後代「大陵」に遷されたことが分かる。平安時代、天皇陵の祭祀について書かれた『延喜式』には推古の陵には「陵戸一烟・守戸四烟」の合計五烟が当てられている。陵戸、守戸とは陵を管理する官吏・人民であり、持統天皇の詔では「先皇の陵戸は五戸以上置け(中略)もし陵戸足らずは百姓を以て(守戸に)充てよ」とある。参考に神武陵と、推古前後の天皇陵の陵戸・守戸の数を一覧にすると以下のようになる[12]。
| 備考 | |||
| 神武 | 守戸五烟 | 5 | |
| 継体 | 守戸五烟 | 5 | |
| 安閑 | 陵戸一烟・守戸二烟 | 3 | |
| 宣化 | 守戸五烟 | 5 | |
| 欽明 | 陵戸五烟 | 5 | |
| 敏達 | 守戸五烟 | 5 | 推古の夫 |
| 用命 | 守戸三烟 | 3 | |
| 崇峻 | 無し | 0 | 無しは歴代で崇峻のみ |
| 推古 | 陵戸一烟・守戸四烟 | 5 | |
| 舒明 | 陵戸三烟 | 3 | |
| 孝徳 | 守戸三烟 | 3 | |
| 皇極(斉明) | 陵戸五烟 | 5 | |
| 天智 | 陵戸六烟 | 6 | 平安の皇統の始祖として扱われ格が高い |
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推古陵のランクは前後の男帝より高く、律令陵墓制度形成期(7世紀末~8世紀前半)の推古への評価の高さを物語る。また推古の前任の崇峻が陵戸・守戸共にゼロである点も注目される。蘇我氏の専横の代表とされる崇峻暗殺であるが、その陵の扱われ方は臣民が崇峻の治世を低く評価し「先帝」と見なしていなかった証と見ることができる[13]。
遠山美都男は「当時の皇位継承が年齢を重視していたことは、大王には何よりも政治的な経験や実績が求められていたことを物語っている。崇峻が馬子に殺されても政治的混乱が起きなかったのは、崇峻が人格・資質の基準を満たしておらず、朝臣がそれを承認していたためと考えられる。それ故にこの事件の後に即位する大王には高い基準が問われたに違いない。それを踏まえて推古が登極した事実から、大后として政治的な経験も実績も豊かな彼女こそがこの時点でもっとも大王に相応しいと判断されて王位継承することになったとみなして良い。推古は敏達の大后時代から大王在位の50年以上にもわたって実績を積み重ね、次期大王を指名するにまで至っている」と述べている[14]。
上田正昭は「6世紀末は隋が中国を統一し朝鮮半島情勢も不穏であり、それを受けて日本も北九州に大軍を集めるなど国際緊張感が強い時代であった。そんな折に権力集中のシンボルとして宮中祭祀の最高司祭者として登極したのが推古である」と述べている[15]。
安井良三は「蘇我氏の母を持つ推古は、馬子の後援によって即位した」とする従来説に反対し、炊屋媛(推古)の欽明の子という血筋と大后としての執政経験を評価すべきであり、その即位は推古本人が主導したものであったと主張している。一般に蘇我馬子は崇峻を暗殺するなど大王家に背き、専横を極めたとされる。しかし実際に馬子が敵意を向けたのは大王家ではなく、反炊屋媛派の皇族たちとその背後にいた物部氏であり、むしろ炊屋媛の権力は馬子を上回るほど絶大であったことがうかがわれる。馬子が穴穂部を誅殺する際も、用命・崇峻を擁立する際も炊屋媛の合意が必要されていることもそれを傍証している。また史書では明記されていないが、馬子の崇峻暗殺も炊屋媛の命令があったことが推察される。その根拠として、馬子に崇峻暗殺を命じられた実行犯の東漢直駒は、事件の後に馬子に殺されている。しかし書記では彼が処刑されたのは天皇暗殺の罪ではなく、馬子の娘を奪ったことが原因とされている。この事実は大王弑逆という大事件には馬子以上の権力者、つまり炊屋媛が介在していたと考えられる。炊屋媛が自ら皇位を踏んだ理由は愛息の竹田皇子を即位させるためであったと考えられる。竹田は上で述べたように中臣勝海連に呪詛されていることからも皇位に近く、また物部戦争で参戦した皇族の中で「泊瀬部(崇峻)、竹田、厩戸、難波、春日……」と崇峻の下、厩戸の上の二番目に名前が書かれており王族の中でも序列が高かったことが分かる[16]。
- 『蘇我氏』倉本一宏、P58
- 『推古天皇』義江明子、P60
- 『聖徳太子』坂本太郎、P40
- 『日本の時代史③ 倭国から日本へ』森公章、P16
- 『天智天皇と大化改新』森田悌、P13
- 『飛鳥の朝廷と王統譜』篠川賢
- 『物部・蘇我氏と古代王権』黛弘道、P12
- 『日本書記研究 第十冊』「推古女帝と仏教」安井良三、P234
- 『蘇我氏の古代』吉村武彦、P122
- 『日本古代史』長谷山彰、P42
- 『推古天皇の讃え名"トヨミケカシキヤヒメ"をめぐる一考察』義江明子
- 『訳注 日本史料 延喜式 中』P721
- 『推古天皇』義江明子、P69、157
- 『古代日本の女帝とキサキ』遠山美都男、P37、40、49
- 『古代日本の女帝』上田正昭、P118
- 『日本書紀研究 第十冊』「推古女帝と仏教」安井良三、P216
厩戸皇子の「万機」の執政
推古朝の政治の第一人者は蘇我馬子であった可能性が高い。しかし馬子の子孫(蝦夷・入鹿)が乙巳の変で討たれ蘇我氏が反逆者の一族となったことは『日本書紀』の推古朝の記述にも影響を与えた。書紀は馬子を悪人として描くようなことはしていないが、馬子が主導した事績や、太子が馬子と共同で進めた事績を太子に重点を置いて描く傾向が認められる。ただしやろうと思えば馬子の業績を全て太子のものに捏造することも可能だったはずだが、馬子は晩年に至っても賞賛されておりそうはなっていない。その理由として乙巳の変で蘇我氏宗家が滅んでも記紀編纂時期には馬子の子孫がまだ活動しており、彼らに配慮したとも考えられる[1]。なお記紀編纂期に即位していた文武、元明、元正天皇らはいずれも馬子の直系子孫でもある。
| 事績 | 考証 |
| 皇太子であった | 当時は「皇太子」という位は存在しなかったが、斑鳩宮という巨大宮に住み、『隋書』では「ワカミタフリ=太子」と呼ばれていることからも皇位継承の有力候補であったことは事実と考えられる。 |
| 摂政であった | 当時は「摂政」という職掌は存在しなかったが、政治に深く参画していたことは史実と思われる。しかし19歳という年齢を考えると推古即位直後から政権の中枢にあったかは不明。また書紀では推古の治世後半に「皇太子(厩戸)」の名前がほとんど現れなくなっている。 |
| 万機を総覧し、女帝推古の代理であった | 書紀の「万機を以て悉く委ぬ」は海外史書の表現を引いたもので、厩戸が政治の第一人者であった可能性は低く、推古も積極的に政治参加し、その一番の輔弼者は蘇我馬子というのが定説である。 |
| 遣隋使を派遣した | 書紀に太子の名前はなく、使節の派遣に関与していたか説は分かれている[2]。太子が住む斑鳩は飛鳥から難波の海に出るルートの要所にあるため外交は太子が主導した? |
| 十七条憲法を制定した | 書紀では厩戸単独の仕事とされている。憲法の文章に後世的な語句があり記紀編纂時に作文されたことは確実であるが、それが全くゼロから作った創作物なのか、厩戸の書いた原型が存在したのかは不明である。 |
| 冠位十二階を定めた | 書紀に太子の名前はない。朝鮮王朝の制度に酷似しているため、渡来人と関連が深い蘇我馬子が主体となった? |
| 仏教を興隆した | 三経義疏というお経の注釈書を著すなど太子が熱烈な崇仏者であったことは事実と考えられるが、馬子の仏教振興事業が一部太子のものになっている可能性がある。 |
| 多数の仏寺を創建した | 確実なものは推古と共に建立した斑鳩寺(法隆寺)のみで、四天王寺は説が分かれ、残りは全て厩戸は無関係、あるいは主導者ではなかったとされる。 |
厩戸皇子の時代には「皇太子」や「摂政」という職位は存在せず、厩戸が実際にどれだけ主体的に政治に関与していたかは議論が分かれている[3]。たとえば『日本書紀』には「皇太子が十七条憲法を作った」とあるものの、この憲法に使われる用語に後世的要素が見受けられるとして、推古朝の文章とは認めない学説も根強い。ただし用語は書紀撰述に際して加筆や潤色が加えられた可能性もあり、太子が作った憲法が日本書紀で加筆されたのか、奈良時代に創作された全くの仮構なのか、説は分かれている(次項で解説する)[4]。
日本書紀に現れる「万機を以って悉くに委ぬ」という聖徳「太子」の「摂政」に関する表現は、中国や朝鮮の史書を模倣したものであると考えられる。
書紀では他に、草壁皇子が天武朝で「万機を摂めしたまう」とある。また奈良時代に成立した『懐風藻』では、大友皇子(後の弘文天皇)が天智天皇の治世で「百揆を揔べて」「万機を親らにする」とされている。その役割は天皇にかわって全政治権力を行使したのでなく、全権を掌握する天皇のもとで、その執政のために政権中枢の一員となって補佐するものであった[5][6]。なお「万機(全て)」の政務に携わり、天武から「大小のことは全て皇后(持統)と皇太子(草壁)に言うように」と遺言された草壁だが、書紀には草壁の具体的な政治参加の記述はほとんどなく、天武死後の葬送儀礼が唯一の例である。
「万機」という語は後世の文書でも定型語として用いられている。
「なんぞ疾を抱くの残体にして、久しく端揆(職責)を辱しめ、数職を兼帯して、万機を佐くること闕くべきむや」『乞骸骨表』770年成立。吉備真備が称徳天皇に向けて出した辞職届[7]
「景行天皇五十一年辰酉、秋八月、稚足彦尊を立てて皇太子となす。この月武内宿禰を以て棟梁の臣となすなり。万機を摂行せしむ」『革命勘文』901年成立[8]
坂本太郎は「40歳の心身健かな推古天皇が、万機をわずか20歳の太子に任せて世捨て人のような生活に隠遁するはずはない。その意味では摂政などは必要がなかったが、馬子だけによる輔弼の偏向性を是正し、太子と馬子とを両輪とする天皇親政の万歳を目指したのではないか」と述べている[9]。
遠山美都男は「当時は男性大王でも政治的な補佐を必要としており、敏達の時代に大后制度が整備されたことで敏達の大后の推古が大王大権を分掌していた。その推古が即位すると彼女も同様に執政を補佐する皇族を必要とし、厩戸がその役目を果たした[10]」。しかし「厩戸が大王候補として国政に参画する場合でも、年齢がまったく問題にならなかったとは思われない。厩戸は推古が即位した当時まだ20歳であり、大王としての即位はもちろん、有力な皇子として国政に参画することもなお遠い将来のことだったに違いない」[9]として、実際に厩戸が国政に参加したのは皇子が斑鳩宮という巨大宮殿を造営し、朝廷内部での立場の上昇が見られる30歳以降であると考察している[12]。書紀でも「皇太子」が命じたとされる制度改革などの記事が急に増えるのは推古九年の斑鳩宮建設の時期からである。その頃には他の候補者たちが亡くなり厩戸が皇位継承する可能性が上がったということも想定される[13]。
なお厩戸皇子は推古二十九年に薨逝しているが、その半分に当たる推古十五年の神祇祭拝記事を最後に書紀からほとんど名前が見えなくなっていく。「皇太子」が臨席して然るべきシーン、たとえば隋の使者が国書を奉呈する場面でも「皇子・諸王」とあるだけで「皇太子」の名前は見えない。次に「皇太子」が登場するのは6年後の推古二十一年であるが、これも片岡山飢人という伝説話であって政治に関わりがない。その次の登場はさらに7年後(推古二十八年)に厩戸と馬子が史書編纂を行なっているもので、それが最期の政治参加記事になる。つまり厩戸は推古朝の半分は活動がほとんど記されていないことになる。その原因には馬子と疎遠になった、高齢で斑鳩と飛鳥の往復が億劫になった(斑鳩と飛鳥はかなり距離が離れている)などが想像しうるが、実際のところは不明である[14]。
- 『聖徳太子 実像と伝説の間』石井公成、P99
- 『日本書紀の成立と伝来』「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建」榊原史子、P317
- 『詳説 日本史』
- 『日本古代史③飛鳥の都』吉川真司、P27
- 『聖徳太子』吉村武彦、P42
- 『聖徳太子』大平聡
- 『日本思想大系8 古代政治社會思想』P40
- 『日本思想大系8 古代政治社會思想』P53
- 『聖徳太子』坂本太郎、P41
- 『古代日本の女帝とキサキ』遠山美都男、P43
- 『天皇と日本の起源』遠山美都男、P60
- 『蘇我氏四代』遠山美都男、P150
- 前掲、石井、P105
- 前掲、石井、P192
冠位十二階と遣隋使の検討
厩戸皇子の事績として有名なものに冠位十二階の制定、遣隋使の派遣、十七条憲法の執筆があるが、『日本書紀』で「皇太子(厩戸)」が行ったと明記されているのは十七条憲法のみである。
冠位十二階は『隋書』にも日本の冠位制度のことが書かれており推古朝で実際に実施されたことが分かる[1]が、『書紀では「始めて冠位をおこなう」とあるだけでその主語は書かれていない。しかし聖徳太子の伝記『上宮正徳法王帝説』には厩戸と蘇我馬子が冠位制度を定めたように書かれている。冠位十二階では蘇我氏は氏族制度に基づいた「大臣」という古い冠位の下に「紫冠」という新しい冠位を頂いている。このようなやりかたは百済の位階制度によく似ている。また等級を十二に分けている点は高句麗の制度と同じである。さらに高句麗、新羅、百済の冠位制はいずれも冠・帯また衣服の色や冠に付帯する飾りによってその位階を示していること[2]も合わせて考えると、日本の冠位十二階は朝鮮王朝、特に百済の制度を参照して作られたものと考えられる[3]。直木孝次郎は「百済人の帰化人との関係の深さを踏まえると馬子が中心になって制度を作り、厩戸はそれに協力した程度だろう」と考察している。吉村武彦は「『法王帝説』は伝記的性格を有するので厩戸の活動に関しては少し差し引いて評価したほうがいいだろう」と述べている[4]。
書紀や『隋史』に記録される遣隋使は一般に聖徳太子の業績とされるが、書紀には太子の名前は見えずそれを主導したのは誰か不明である。直木孝次郎は「第一回遣隋使(これは書紀に記述がない)が行われた年に、蘇我氏一族の境部臣を大将軍にして新羅へ大規模の出兵していることから第一回は馬子が主導したと考えられる。第二回、三回に関しては、使者となった小野妹子は蘇我氏と関係が薄いこと、この頃の太子が大陸へ続く難波の海に近い斑鳩に居住地を移していること、同時期の新羅出兵の将軍に太子の同母弟の来目皇子、異母弟の当麻皇子が任命されていることから太子が関与した可能性は高い。ただし境部臣の軍が戦果をあげたのに対して両皇子の軍事行動は途中で頓挫しており、馬子の実力は太子より上だったことを思わせる。妹子の通辞(通訳)を務めた鞍作福利も、仏教の信仰と仏像の彫刻を通じて蘇我氏と関係を持っていたことから、二回、三回の遣隋使は馬子の助言・協力によって成功したのだろう」と述べている[5]。
近年では推古がいた「飛鳥」、厩戸がいた「斑鳩」、二人によって建立された四天王寺が位置する「難波」の三所は、朝鮮半島へ繋がる交通網として外交と連動して計画的に整備されことが指摘されている[6]。斑鳩宮は陸路では竜田道から渋川路を経て大阪湾に出ることができるし、水路では亀ノ瀬の難所があるものの大和川水運を利用して摂津の港津に出ることができる。塚口義信は、以上のことから厩戸の斑鳩への遷宮は対外交渉の拠点作りにその最大の目的があり、したがって推古朝の外交政策の中心人物は女帝でも馬子でもなく聖徳太子であったと考えるのが自然だろうと考察している[7]。
- 『日本の歴史2 古代国家の成立』直木孝次郎、P91,92
- 『聖徳太子』田村圓清、P113
- 『聖徳太子』坂本太郎、P82
- 『蘇我氏の古代』吉村武彦、P117
- 『直木孝次郎 古代を語る8 飛鳥の都』直木孝次郎、P87
- 『日本書紀の成立と伝来』「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建 「厩戸皇子」像の検討」榊原史子、P317
- 『日本書紀研究 第三十四冊』「聖徳太子と推古朝の外交政策」塚口義信、P24
十七条憲法の信憑性
十七条憲法に関しては書紀に「皇太子、親ら肇めてこれを作る」とあり、厩戸単独の仕事であることが強調されている。だが憲法には不自然なところが多く、江戸時代からすでに本当に太子の作なのか疑われていた。簡単なところでは憲法制定の年がやや不可解である。厩戸が憲法を制定したのは推古十二年に当たるが、これは干支では甲子に該当する。干支は十干(甲乙丙丁…)と十二支(子丑寅卯…)を組み合わせたものであり、甲は十干の1番目、子は十二支の1番目ということで非常に縁起がいい年である。だがこれは太子が縁起のいい年を選んだか、年月が不明だったので日本書紀編纂者が縁起のいい年を選んだ可能性もある。『法王帝説』では憲法制定の年が推古十三年で書紀と一年ズレており、伝承が一つではなかったことが分かる。
また十七条憲法は7世紀初頭の文章としては漢文として美しすぎるということもある。憲法は儒教、仏教、法家などの説を盛り込み、文章も『詩経』『尚書』『孝経』『論語』『左伝』『礼記』『管子』『孟子』「墨子』『荘子』『韓非子』『史記』『漢書』『文選』など幅広い漢籍から引用されている。例えば有名な一条「以和爲貴(和を以て貴しと為す)」は『論語』「里仁偏」の「礼之用和為貴」や『礼紀』「儒行篇」の「礼之以和為貴」に基づくものである。しかしこれも「だからこそ聖徳太子は天才なのだ」とも言えるし、直接引用したのでなく美辞名句集のような書物から孫引きした可能性も存在する。
より根本的なところでは戦前の津田左右吉が指摘した、十二条「国司や国造は百姓から税を貪ってはならぬ」にある「国司」の語句が推古の時代にはそぐわないことである。国司が生まれるのは後世に国庁が設置され「国司」が中央から派遣されるようになってからのことなので、「国司」の語句を含む条文は推古朝の文章そのままではないことが確実になる。
直木孝次郎は、二条「天皇の詔を受けたら、必ず謹んで従え。君を天とすれば、臣は地である」や十二条「国に二人の君はなく、民に二人の主はない」という天皇を絶対視するような文章は、大王に匹敵する権力を持った蘇我氏が存在し、また諸豪族が多数の私有部民を有している時期に、天皇と豪族の差は「天地の隔たり」と表現できるほど大きなものであったか疑問を呈している。このような天皇の神格化は、壬申の乱を経て天皇の地位が上昇した天武朝や、公地公民制が実現し豪族の私有部民が消失した持統朝、つまり『日本書紀』の編纂時期の社会背景が最も似つかわしい。
また近年では『日本書紀』の音韻研究から、書紀は正格漢文で書かれたα群と倭習に満ちたβ群に分かれていることが判明している(参照『12章 記紀の歴史叙述』「1節 記紀と中国思想」「日本書紀α群執筆説中国人」)。これによればまず渡来人一世(すなわち在日中国人)が正しい漢文法でα群を執筆し、その後、倭人が漢文法に誤りが多いβ群を書いたと想定される。書紀の推古朝の記述はβ群に属し、その術作は書紀編纂が開始された天武朝以降、書紀完成間近に潤色・加筆された可能性がある。このことから推古朝の原史料が書紀成立期まで現存し、書紀の編集にそのままの形で利用されたということにはならなくなった。
しかし「国司」のように後世的な職掌や、条文に倭習があることが事実だとしても、その全てが後世の作品とは必ずしもいいきれない。一条「和を以て貴しとなす」といって豪族の融和を図ったり、二条「篤く三宝(仏、法、僧)を敬え」と仏教を尊重しているのもいかにも太子らしさがあり、また天皇のことを「天皇」でなく「君」で通している点にも古さが見える。よって十七条憲法は、後世に文章が修飾されていることは明確であるが、全文が後世にゼロから生まれた創作物であるかどうかは不明ということになる。熊谷公男は「憲法十七条が太子ひとりの作かどうかはともかくとして推古朝当時のものとする論者も多く、現在に至るまでこちらの方が多数意見といってよい」と評している[1]。
厩戸建立寺院の信憑性
当時の仏教は個人の内面的信仰の問題に止まるものではない。中華皇帝が造寺・造塔や出家や写経によって皇帝の長寿と繁栄を願わせることで王権強化を図ったように、古代大王家の仏教振興にも政治的な意味合いがあり[1]、推古の仏教振興政策も女帝の政治参加の一つに数えることできる。以前は推古朝の仏教政策は馬子と厩戸に依るものであって、「不執政」大王の推古の関与は薄かったとされていた。馬子と厩戸が深く仏教に傾倒し仏閣造営や経典の普及に努めたたことは疑いがないが、現在では『日本書紀』で推古が皇太子(厩戸)と大臣(馬子)に詔して仏教興隆を命令じたり、自ら仏寺造営を主導していることが評価され、女帝もまた積極的に仏教興隆策を講じていたと考えられている[2]。一方で厩戸の興した仏教振興策の中には史実性が疑わしかったり、史書では推古や馬子との共同事業とされているものが「聖徳太子」一人のものとされていることが多い。
馬子や推古と共に創建された仏寺
| 名称 | 伝承での創建者 | 考証 |
| 四天王寺 | 太子(紀)、馬子と太子(説)、推古と太子(帳) | 太子説、渡来人系の難波吉士説、阿倍氏説、蘇我氏説で分かれる |
| 広隆寺(蜂丘寺) | 太子→秦氏(紀)、太子(説)、推古と太子(帳) | |
| 中宮寺 | 太子(説)、推古と太子(帳) | |
| 葛木寺 | 太子(説)、推古と太子(帳) | 葛木氏の氏寺で、葛木氏が建立に尽力したと考えられる |
| 斑鳩寺(法隆寺) | 太子(説)、推古と太子(帳) | 事実と考えられる |
| 橘寺 | 太子(説)、推古と太子(帳) | |
| 法起寺(池後寺) | 太子(説)、推古と太子(帳) | |
| 飛鳥寺(元興寺) | 馬子(書紀)、馬子と太子(説)、推古が太子と馬子に命令(元) | 書紀で馬子の造寺の詳細に過程が記されており、創建を主導したのは馬子と考えられる |
| 紀=『日本書紀』、説=『上宮聖徳法王帝説』、帳=『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』、元=『元興寺縁起』「丈六光銘」 | ||
『日本書紀』には推古天皇は「皇太子(厩戸)と大臣(馬子)に詔して三宝(仏、法、僧)の興隆を図った」とあるように、仏教振興は推古朝の国是であった。厩戸も少年の頃から熱心な崇仏者として知られ、百済の渡来僧から仏教を学び、そこで得た知識を講経を通じて推古にも伝えていた。現代でも「聖徳太子が建立した」という謂れの寺院は奈良の各地に数多く存在し、その中でも有名なものを聖徳太子建立七大寺と呼ぶ。しかし747年に成立した『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』には(厩戸の父の)用命天皇ならびに過去の歴代の天皇ため、推古天皇と聖徳太子が「法隆寺学問寺、并四天王寺、中宮尼寺、橘尼寺、蜂岳寺(蜂岡寺)、池後尼寺(法起寺)、葛木尼寺」を造立したと記され[3]、7つの寺院を建てたのは女帝と厩戸の二人の事績になっている。また寺院の建立には渡来人の技術者が関わっていることから百済人を統括していた蘇我氏も参画していたことは確実と見られ、考古学的研究成果も併せて考えると実際に太子が推古朝で建立・創建した可能性のある寺院はほとんどなく、学説的に支持され得るのは異説も多い四天王寺と、推古と共に創建した法隆寺(斑鳩寺)のみである[4][5]。
たとえば『上宮聖徳法王帝説』では厩戸は「元興・四天皇等の寺を起つ」と、元興寺(飛鳥寺)と四天王寺のことが書かれているが、『日本書紀』では馬子が百済から仏舎利(ブッダの骨)・僧侶、寺工、露盤博士(仏塔のパーツの専門家)、瓦博士、画工などの工人を得て飛鳥の真神原で造営が始まったとあり、元興寺造営の主体が馬子であることに疑いはない。その後の工事の記述も詳細で、現存する元興寺の木材の年代調査によっても586年伐採と確認され、書紀の記述が正しかったことが裏付けられた[6]。後世、孝徳天皇が仏教興隆に功のあったものとして厩戸の名を挙げず、蘇我稲目、馬子の名を挙げている[7]ことからも、馬子とその父、稲目が日本仏法の基礎を築いた外護者であったことが分かる。しかし乙巳の変(いわゆる大化改新)で蘇我家宗家が滅び、檀越(檀家)を失った元興寺は、経営の便宜上「推古と馬子の共同の発願であった」とか「推古が太子と馬子に命じて建立せしめた」などと天皇家との結びつきが強調されるようになったと見られる[8]。
厩戸の四天王寺創建伝説
『日本書紀』には推古即位の年に「四天王寺を難波の荒陵に造り始めた」とあるが、その主語は書かれていない。しかし物部戦争の際に、厩戸が戦勝を祈って四天王を奉る寺を建てることを約束したという有名な逸話と併せて四天王寺は厩戸が創建したというのが一般的な理解である。だがこのエピソードは物語性が強くかつ不自然で、これまでの研究においても史実ではないという見解が繰り返されてきた[9]。
書紀によれば、物部守屋と戦闘中の厩戸は「白膠木」を切り取ってあっという間に四天王像を作って髪に置き「もし勝利したら『護世四王(四天王)』のために寺塔を建てましょう」と祈願した。それを見て馬子も「諸天と大神王のために寺塔を建てましょう」と誓願した。しかし切迫した戦場の中で、木を切り取って素早く像を掘るというのは事実とは考えられない。また当時の厩戸は14歳であり、参戦した皇族の中でも名前は3番目に記述され序列が低く、戦闘自体も厩戸は「軍の後に随えり」とあり最前線から離れた所にいた。戦闘にあたってまず頼るべきは武神である四天王であるが、「ひさごの花」の形に髪を結っている(つまり子供の)厩戸が、軍の総大将にして大臣の馬子に先んじて四天王に祈願するのもかなり不自然である。よって厩戸と馬子の誓願は、本来一つの誓願を二つに分けて記された可能性がある[10]。
また厩戸は四天王を「護世四王」と呼んでいるが、この語は義浄訳「金光明最勝王経』に見える言葉である。さらに厩戸が四天王僧を彫った「白膠」もやはり「王経」の中で特別な力を持つ香木の一つとして記載されている。この「王経」が日本に伝来したのは703年であるから、厩戸の四天王建立伝説が生まれたのは703年から日本書紀が成立した720年の間に限定することができる。なお別訳の王経はもう少し古くから存在していたが、この訳には「護世四王」は語はあるが「白膠」の語がないので引用元とは考えられない[11]。
出土瓦から見た四天王寺の創建者
考古学的には四天王寺の瓦は斑鳩寺(の若草伽藍という建物)に使用された素弁八葉蓮華文軒丸瓦と同笵(同じ型)のものが使われていることが判明している。四天王寺の瓦は若草伽藍よりも笵傷(瓦の型に生じた傷)が進行していることから、四天王寺の建立は若草伽藍よりも後ということが分かる。
佐藤隆によれば、四天王寺の瓦を制作していた楠葉平野山瓦窯では瓦と共に須恵器も焼かれていた。この須恵器は7世紀の前葉でも新しい段階から7世紀中葉にかけて位置付けられるとし、さらに法隆寺若草伽藍の造営に伴って埋め立てられた溝から7世紀前葉の土器が出土している。以上のことから四天王寺の造営は620年代~630年代に始まったと考えられる(厩戸皇子の死去は622年)。
佐藤説に対し網伸也は、この瓦製作所は四天王寺の瓦を焼くことが主目的であり、それが完成した後に須恵器も並行して作るようになったので、須恵器の年代から瓦の年代を推測することはできないと反論した。加藤謙吉は佐藤説を支持し、造営が開始された時期は620~30年代であり、四天王寺のある難波の地はさまざまな氏族が集まった組織である難波吉士の勢力圏であることから、四天王寺を創建したのは難波吉士とした。元々の四天王寺は海外使節に応対する施設とタイアップする形の宗教施設として准官寺的な寺院(公的も用いられる私寺)であったが、645年の乙巳の変の後に王権が関与することで寺の性格が変わり、官寺的な要素が強くなった。すなわち本来の四天王寺と厩戸皇子の関わりは本質的に認め難い[12]。
これに対して三舟隆之は、四天王寺は620年代には造営されていて、後世に舒明天皇によって創建された吉備池廃寺(百済大寺)と同笵の瓦が使用されているところから、難波吉氏のような一氏族の寺院ではないと反駁した。蘇我氏の持つ造寺集団を使役することが可能である地位、また多くの仏寺を作る経済力、そして篤い仏教信仰を兼ね備えた人物として、四天王寺の創建者はやはり厩戸皇子と考えられる[13]。推古二十年代(610年代)には法隆寺の若草伽藍が完成していることから四天王寺の創建年代も推古二十年代で、推古三十一年(623年)の「新羅からきた仏像と金塔、舎利を四天王寺に収めた」という記事からこのときには四天王寺の金堂は完成していたと考えられる[14]。
- 『聖徳太子 実像と伝説の間』石井公成、P49
- 『日本書紀研究 第十冊』「推古女帝と仏教」安井良三
- 前掲、石井、P157
- 『日本書紀の成立と伝来』「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建 「厩戸皇子」像の検討」榊原史子、P301
- 『聖徳太子』吉村武彦、P93
- 『推古天皇』義江明子、P90
- 『直木孝次郎 古代を語る8 飛鳥の都」直木孝次郎、P89
- 『聖徳太子』田村圓澄、P74
- 前掲、榊原、P311
- 前掲、石井、P86
- 前掲、榊原、P312
- 前掲、榊原、P307
- 『日本書紀の成立と伝来』「片岡山飢者説話の形成 『日本書紀』『日本霊異記』万葉集』から」三舟隆之、P263
- 前掲、榊原、306
「聖」化される厩戸皇子
「聖徳太子」には古い時代からさまざまな聖人伝説がある。ここではそのうち太子生誕伝説と片岡山飢人伝説について検討する。聖徳太子が厩で生まれたという有名な伝承は仏陀の逸話が元となったと見られ、片岡山飢人伝説は中国の道教思想に由来する創作話である。
太子生誕伝説
「厩戸」皇子の名前の由来は皇子が厩で生まれたことに因んでいる。『日本書紀』によれば母の穴穂部間人皇女が「禁中を巡行して諸司を監察」しているとき馬の役所に「至った」時に陣痛が始まり「厩の所で」太子を「労せず」産んだとある。臨月の妊婦、しかも皇后になる以前の穴穂部が禁中を監察しているのはかなり不自然であり、これは厩戸を聖人化するために創作された逸話と考えられる。
馬小屋で生まれた聖人というとイエス・キリストが有名であるが、聖書にはそのようなイエス誕生譚は存在せず、イエスが馬小屋で生まれたという伝承は後世のものである。唐代のネストリウス派キリスト教文献でも、少なくとも現存する写本にはそのような逸話は書かれていない。厩戸皇子のこの説話はイエスではなく仏陀の誕生を参照したものと見られる。隋の闍那崛多が訳した仏伝『仏本行集経』「樹下誕生品」では仏陀が生まれる様子を、「王の夫人である」聖母摩耶が「臨月の身」で、あちこちの樹を「観看し」て周り、ある樹の下に「至り」その樹の「ところで」枝を握ると「苦しむことなく子を産んだ」。その子は「産まれるとすぐ話した」とある。そして王の子である釈尊は当然「太子」と呼ばれている。以上のように仏陀と厩戸の生誕の状況はかなり酷似しており、この話が厩戸の生前から存在したか、書紀編纂期に生まれたものかは不明だが太子の生誕が潤色された物語であることが窺える。仏陀の誕生には見えない「厩」に関しては何らかの史実を繁栄している説が強く、現存史料には見えないが厩戸の何らかの馬を飼う氏族に関わりがあったと考えられる。なおここでいう「厩」は粗末な家畜小屋ではなく、当時にあっては馬を飼うと同時に高等教育現場でもあった[1]。
片岡山飢人伝承
片岡山飢人伝承とは『日本書紀』、『日本霊異記』、『万葉集』に載っている不可思議な物語である。書紀のあらすじは以下のようになっている。
聖徳太子が片岡山に遊行した際に、道で飢人に出会った。太子は飢人に飲食と自らが着ていた衣服を与え、歌を詠んだ。翌日、使者が太子に飢人の死を報告し、太子は墓を作って埋葬させた。数日後、太子があの飢人はただの人でなく「真人」であろうと告げその場所を見に行かせたところ、墓には屍骨はなく衣服のみが畳んで置かれていた。太子がその衣服をいつものように着たところ、時の人は「聖の聖を知ること、それ実かな」と感嘆した。
『万葉集』や『日本霊異記』にも大筋同じ話が掲載されているが、細かいところで数多くの異動が見える。例えば太子が出会った人物は書紀では「飢人」だが、霊異記では「病人の物乞い」で万葉集では「死人」あり、太子が出向く場所も異なっている。
この説話は道教の神仙思想の尸解仙思想(人が死んだ後に生き返り仙人となること)をモチーフにしており、戦前から津田左右吉や久米邦彦によって聖徳太子信仰に基づく虚構の説話と評価されていた。田村圓澄は、この逸話は「『隠身の聖』を見抜いた聖徳太子こそ『聖』であるという主題を見ることができる」とし、高壮至は「この逸話は太子の伝記『上宮聖徳太子伝補闕記』の史料になった『調使膳臣等二家記』から採取され、太子の片岡遊行に付随して尸解仙や高僧伝が二次的に付加されたものである」と指摘した。飯田瑞穂も「調使家記」を逸話の原資料と認め、調使氏が渡来系氏族であることから大陸由来の神仙思想の尸解仙説も調使氏によって太子伝に盛り込まれたとする。
三舟隆之は書紀、霊異記、万葉集の伝承はそれぞれモチーフは酷似するものの細部において異なる点があることから、ある元となった説話をベースにそれぞれ別々に形成されていったものと考察した。明日香村の遺跡から「道性」という僧侶が「飢者」や「女人」へ食料を支給していたことを示す木簡が出土しており、当時は飢饉の際には僧侶が救恤活動を行なっていたと分かる。「片岡山飢者説話」の飢者や病人についてもその救済に仏教者が関わり、その活動に仏教信仰が篤い厩戸や法隆寺の僧侶が携わっていた可能性がある。その仮定に沿うと、この説話はまず斑鳩や片岡で飢者や病人に対する悲傷歌が生まれ、それがやがて仏教信仰に篤い「聖徳太子」を顕彰する原説話となっていったことが想定できる[2]。
三経義疏撰述の信憑性
聖徳太子の撰述書に「三経義疏」と呼ばれる注釈書がある。これは太子が仏経典の講義を行う中で作成した『勝鬘経義疏』『法華経義疏』『維摩経義疏』の三つの総称であり(義疏とは「解説」の意)、特に現存する法華義疏は太子が直筆したものとされる。学術的には「三疏をすべて太子の作と見る」説、あるいは「全て後世の偽作と見る」説、「太子は監督しただけであって朝鮮からの渡来僧が書いた」説などで分かれている。
『日本書紀』では太子が勝鬘経と法華経の講経(経典の授業)を行ったと記されているが、講経と注釈書撰述は質的に異なる作業なのでこれだけでは何とも言えない。また維摩経についての記述もない。一方で『上宮聖徳法王帝説』には法隆寺の史料に基づいた各義疏の記述があり「上宮御製疏」と太子が作ったことが明記されており、さらに8世紀半ばの『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』にも「上宮聖徳法王御製造」と書かれ法隆寺系の史料には三疏が太子撰述であると伝わっていたことが分かる。また745年以前に東大寺の写経所が法隆寺から『勝鬘経義疏』と『法華経義疏』を、禅院寺から『勝鬘経義疏』を借りており、しかもその書には「上宮王撰(聖徳太子が書いた)」の文字が記述されていた。つまり遅くとも8世紀半ばには「聖徳が撰述した」と伝わる義疏が実在したことになる[1]。
井上光貞は「法王帝説の記述に、義疏の作成に高句麗の僧・慧慈が師匠として加わっていることが注目され、慧慈以外にも朝鮮系外来僧が義疏の執筆に積極的に加わっていたと推測される。つまり『上宮王撰』とは厩戸がたった一人で述作したという意味ではなく、厩戸を指導者として外来僧の協力による学問的活動の成果であった。それが後世の聖徳太子信仰の発展によって厩戸一人の制作であるとする偉人観が拡まっていったと考えられる」と主張している[2]。
三疏のうち勝鬘経義疏に関して学会に大きな衝撃を与えたのが、太子の勝鬘経義疏と7割ほど内容が一致している敦煌写本の発見である。藤枝晃は「勝鬘経義疏は敦煌写本(B)の元になった注釈(A)を略抄した中国北地の二流の文献(C)であり、遣隋使が日本に持ち帰ったものを購経の際に太子が読み上げたにすぎず、それがやがて太子の作になった」と主張した[3]。
現存する最古の勝鬘経義疏は鎌倉時代の宝治刊本(D)であり、これはCを中国で改修されたものと考えられる。勝鬘経義疏が元の文献を単に写しただけのものならば、それを厩戸皇子の著作とすることはできない[4]。
これに対して東野治之は「中国の学問は儒教・仏教共に先行研究をほとんどそのまま踏襲した上でわずかにオリジナルな見解を加えるのが普通であり、酷似した別の著作が存在すること自体なんら不思議ではない。このような学問の方法が古代日本にも摂取されたことは『令集解』に集められた各種律令の注釈を見ても明らかである。つまり勝鬘経義疏に酷似する敦煌写本があるからといって太子の勝鬘経義疏が古代日本の著作でないとはいえず、また内容に独創性が低くても安易にその価値を低く観るべきではない」と反論している[5]。
また東野は太子直筆の『法華義疏』に関してもそれは史実であると唱える。その根拠として法華義疏 第一巻巻頭にある文字には「大委国」の時が見える。倭を「委」と表記する用法は有名な「漢委奴国王」の金印や百済の文献を引用した日本書紀の記述、そして藤原宮跡から見つかった「伊委之」など、要するに非常に古いものである。つまりこの『法華義疏』は遅くとも8世紀初頭までに書かれたものと推察できる。更にこの書は表紙はボロボロになっていて題名が読めず、それをめくると短冊状の紙が貼られており、そこに表題と上宮王について書かれている。太子の著作であると示すだけなら表紙を取り替えるのがすっきりするが、それを敢えて避けて内側に別の貼り紙をするという手段がとられたのは「義疏の原型をそのまま残したい」という強い意向の現れと見える。すなわちこの『法華義疏』は太子の生原稿である可能性が高いと言える[6]。
- 『聖徳太子』吉村武彦、P107
- 『聖徳太子』吉村武彦、P107
- 『聖徳太子 実像と伝説の間』石井公成、P168
- 『聖徳太子』吉村武彦、P107
- 『大和古寺の研究』「『勝鬘経義疏』の「文」と「語」」東野治之、P145
- 『大和古寺の研究』「ほんとうの聖徳太子」東野治之、P116
厩戸の地位とワカミタフリ
厩戸皇子は「皇太子」ではなかったものの単なる一皇族ではなく、皇位継承有力候補として朝廷内での地位は高かった。たとえば大后に私部が置かれたように推古十五年には皇子の名代(直属の支配地、支配民)も改められ、厩戸の財政基盤として壬生部(乳部)が国家秩序に組み込まれている[1]。さらに厩戸は30歳の時に斑鳩宮を造営しているが、このような宮は全ての皇族が持てるものではなく、同母兄弟の最年長の皇子だけに認められるものであった。平群群斑鳩町にある法隆寺東院地下遺構がそれに当たると考えられており、近年の発掘調査では斑鳩宮は最小でも一町(約109m)四方という大規模なものであったことが判明している。このような大きな宮殿を新たに営むことができたことは厩戸の大王家内部における身分の高さを証明している[2]。また厩戸の長男の山背大兄は父親が即位していないにもかかわらず次世代の最有力天皇候補になっており、厩戸が天皇に準じる位置にあったことを示している[3]。
厩戸の呼び方に関しても『古事記』で兄弟たちは単に「久米王」「植栗王」と表記されるだけなのに対し、厩戸のみ「厩戸豊聡耳命(ウマヤトノトヨトミミノミコト)」と「命」号がついており、『古事記』編纂段階で既に大王に準じる特別な扱いになっている。聡明さを讃える「トヨトミミ」も元興寺縁起の塔露盤銘に「有麻移刀(巳)刀弥ゝ乃弥己等」とあり生前の称と考えられる。さらに法隆寺の釈迦三尊像光背は厩戸が死んだ翌年に造立されたとみられ、そこには「上宮法皇」の語が刻まれており、こちらに関しても生前から成立していた可能性が高い。すなわち厩戸皇子は生前から「仏法に優れた王」と称えられる存在であった[4]。
また『隋書』には「太子を名付けて利歌彌多弗利と為す」、『翰苑』には「王の長子を利哥彌多弗利と号す、華言の(中国でいう)太子なり」と述べて厩戸を「太子」としている[5]。ただし「わかみたふり」=「(皇)太子」というのは中国側の認識であって、その実態は不明である。平安時代の『源氏物語』や『宇津保物語』には「わかむどほ(を)り」という語があり、これは「皇太子」ではなく皇族の若者一般を意味する。また奈良時代の木簡の中に、長屋王の子女に「若翁」という二字が付されている事例が数多く確認される。東野治之は、漢字の古訓を豊富に載せる鎌倉時代の『字鏡抄』で「翁」を「タフレヌ」としていることから「若翁」を「ワカミタフリ」と訓読した。ワカミタフリがもともとは皇族一般を指す言葉であったならば、厩戸が太子であったとは言えなくなる。
これに対して平安時代後期の辞書『類聚名義抄』の「翳」の訓に「タフレキ」があることから「翳」と「翁」が混合された可能性もあり、また木簡に「智 珍努若翁…智努若王」との習書が見えることから「若翁」は「若王」と同じとする説も呈されている。一方で鎌倉時代以前に成立した『音訓篇立』にも「翁」の訓の一つに「タフレヌ」があり、また「王」をあえて字画の多い「翁」と書く理由が不明である[6][7][8]。
門脇禎二によれば「ワカミタフリ」は田村皇子(舒明天皇)を指している。「村」という漢字を「ムラ」と読むのは奈良時代中頃以後のことで、飛鳥時代には「フレ」、「フリ」と読んでいた。その語源は古代朝鮮語で「村落」を意味するPörであり、神武天皇の諱の「イワレヒコ」も「イワ(岩)」+「村(フレ)」。神武が即位した「橿原(カシハラ)」も「クシ(古代朝鮮語で「大」)」+「村(フル)」となる。「ワカミ」は「高み」や「深み」と同じく「若い状態」を指す語なので、ワカミ/タ/フリとは若い+田+村。つまり「若君の田村」で当時若年であった田村皇子を意味する[9][10]。
- 『天皇の歴史①神話から歴史へ』大津透、P233
- 『蘇我氏四代』遠山美都男、P150
- 『聖徳太子 実像と伝説の間』石井公成、P102
- 『推古天皇』義江明子、P88
- 前掲、大津
- 『聖徳太子』大平聡、P62
- 『長屋王家木簡の研究』東野治之、P24
- 『長屋王家木簡の基礎的研究』森公章、P24
- 『日韓古地名の研究』金沢庄三郎、P21、266
- 『日本古代王朝と内乱』「推古朝成立のころ」山尾幸久、P125
厩戸が「聖」化された理由
以上に見てきたように厩戸皇子が有力後継者候補として政治に深く関わり生前から高い評価を受けていたことは史実だが、同時に『日本書紀』で美化が行われていることもまた事実と考えられる。その理由についても様々な考察が存在する。
大平聡は、日本書紀の中で厩戸が「皇太子」にされたのは草壁皇子に擬せることで、「草壁が生きていれば必ず即位が約束されていた」ということを歴史的事実として定着させるためであるとした。書紀が編纂されていたのは、推古朝から約100年離れた天武朝〜奈良時代初期である。その頃の権力者であった持統や藤原不比等は皇位の草壁系嫡流継承の確立を目指しており、書紀もその正統性を補強するものでなければならなかった。
草壁皇子は、史書上の厩戸皇子と境遇が酷似している。草壁の父、天武天皇が崩じた後、天皇位は空位のまま持統天皇が称制を行った。草壁皇子を成長を待つための持統の中継ぎであったというのが定説であるが、天武天皇崩御時に草壁は24歳である。若いとも言えるが文武天皇が15歳で即位していることを考えると中継ぎを置くほどでもない。そして女帝持統が4年も称制している間に草壁は薨去し結局即位することはできなかった。これは推古天皇が王座にある間に薨じてしまった厩戸のシチュエーションと共通している。また史書の二人の政治参加の描写も酷似している。
持統天皇が即位を熱望していた草壁皇子は当時にあって決して次の天皇を約束された存在ではなかった。持統は24歳の草壁を即位させなかったのではなく、何かの要因で出来なかったと推察される。当時、天武天皇の息子である高市皇子という草壁の対抗馬がいた。草壁死後、高市は皇位継承最有力候補であったが、持統は彼の即位を防ぎ、草壁の遺児の軽皇子(文武天皇)の即位を目指すために女帝として中継ぎ即位した。持統は従来の兄弟継承から父子継承へと皇位継承のルールを変更するために草壁皇子の血統が正統性を高める必要があった。そこで史書で厩戸皇子を草壁皇子に比類させることで「生きていれば必ず天皇なるはずだった皇太子」としてのイメージを草壁に付けたのである[1]。
直木孝次郎は「推古朝で渡来人の力を統合し、政治や仏教興隆を指導した人物は聖徳太子ではなく蘇我馬子であった。しかし蘇我氏宗家を滅ぼし、天皇を中心とする中央集権型の律令国家形成を目指す7世紀後半の朝廷はそれを認めることができなかった。大豪族の蘇我氏が推古新政の功労者となってしまうと、その子孫を滅ぼした中大兄皇子(天智天皇)が悪者になりかねない。そのため馬子の功績を小さく評価する必要があり、代わりに取り上げられたのが厩戸皇子であった。こうして書紀編纂者は馬子の功績の多くを太子のものにすり替えて太子の地位を高めた。「聖徳」という名称もその過程で作られたものだろう(「聖徳」の確実な初出は707年の金石文、書紀完成は720年)」と推察している[2]。
新川登亀男は「比較的信頼度の高い古史料は厩戸を『皇太子』と呼んでおらず、厩戸=皇太子は書紀独自の理解と表現であったと見て良い。厩戸は推古の即位と同時に20歳で皇太子になっているが、書紀で他に20歳で皇太子になった人物には中大兄皇子(天智)と草壁皇子がいる(前章で述べたように書紀はこの両者の血統を非常に重視している)。特に天皇の即位と同時の立太子は、書紀の中でも中大兄と厩戸の二人に限られ例外的な記述である。厩戸と中大兄はそれぞれ当時の推古、孝徳と親子関係も兄弟関係もなく、何らかの作意が考えられる。こうした『皇太子』へのこだわりは書紀全体を貫く課題であり、厩戸の立太子は皇位継承の不透明な時期に皇太子の制度の理想型を書紀が創作してみせたものであった」としている[3][4]。
大山誠一は「書紀編纂の最終段階において皇太子だったのは首皇子(聖武)だった。首の立場を強固なものとし、天皇位への即位を円滑なものとするために、持統朝で確立した皇太子の地位を厩戸皇子に当てはめ『日本書紀』は厩戸を皇太子にしたのだろう」と考察している。榊原史子によれば、聖武天皇は国分寺の塔に金字の『金光明最勝王経』を安置することを命じている。国分寺の正式名称は「金光明最勝王経四天王護国之寺」であり、聖武朝では『金光明最勝王経』「四天王護国品」に基づいた寺院が各地に建立されることとなった。「厩戸の四天王寺創建伝説」で上述したように書紀の厩戸の説話には金光明最勝王経と四天王に関わる創作話があり、「皇太子」厩戸の像は聖武天皇の姿と重なっている[5]。
- 『聖徳太子』大平聡
- 『直木孝次郎 古代を語る8 飛鳥の都」直木孝次郎、P89
- 『聖徳太子の歴史学』新川登亀男、P12
- 『日本書紀の成立と伝来』「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建」榊原史子、P314
- 前掲、榊原、P314
明治時代の推古天皇と聖徳太子のイメージの変化
現在の「政治ができない女性天皇を輔弼する男子皇太子」の女帝-摂政イメージは戦前の教科書が影響している。明治20年代に旧皇室典範が定められ、天皇は男性でなければならず、過去の女性天皇は全員仮摂(中継ぎ)とされた。これにより過去の女帝たちの事績は矮小化されていった。明治5年の歴史教科書『史略』では聖徳太子は「厩戸皇子を太子として摂政にせしむ。冠位十二階を定む。小野妹子を隋国へ遣はす」とあり、日本書紀の記述に則って諸々の事績の主体は女帝推古になっている。しかし旧皇室典範で女帝が禁じられる前後から「皆、厩戸皇子ノ立案ナリ」と推古の業績は聖徳太子のものに変更されていった。それらは『日本書紀』と矛盾し、後世史料である江戸時代の『日本政記』や『大日本史』を参考にしたものであった。
明治26年には旧皇室典範の草案者にして女帝否定派の筆頭であった井上毅が文部大臣に就任する。その翌年に出版された『小学校用 日本歴史』では「推古天皇が女帝であるから、そのお世嗣・皇太子である聖徳太子が摂政に就いて女帝の御名代として政治を行った」、「太子の早世によって皇位につくことがなかった」とされている。これ以降「聖徳太子が天皇にならなかったのは彼が推古より早く死んだためである」、「推古が女であったから聖徳太子が摂政になった」という教科書記述が定着した。明治32年の『新撰 帝国史談』でも「是等は、太子の摂政中にありし事共にて、皆、其御計らいなり」と推古朝の政策が聖徳太子主導であることが強調されている。天皇は男子でなければならないとする旧皇室典範では摂政が置かれるのは天皇が「幼年」か「故障者」であったので、女である推古は「故障者」と見做されていた[1]。
『内国史略,8巻 元』、『小學国史,12巻. 卷之2』1874年(明治7年)、『日本畧史.上』1879年(明治12年)、『小學日本略史』、『小學日本史』
いずれも「推古天皇」で項目が立てられ、聖徳太子(厩戸皇子)を皇太子にして摂政させたことを記した後、教科書によって多寡があるが、推古の業績として仏教の興隆、朝鮮半島にある任那への軍事行動、遣隋使の派遣、冠位十二階、屯倉(日本各地にあるヤマト王権の直轄地)の設置と幅広く記述してある。さらに『小學国史』では、摂政であった神功皇后と異なり推古は「正位に即」いたとして推古天皇が正統な大王であることが書かれている。一方の聖徳太子は『日本書紀』で太子の仕事と明記される憲法十七条の制定や仏寺の建立、歴史書の編纂の他は、推古の「勅」や「詔」を受けて執政していたとされている。
『尋常小學日本歴史 兒童用 巻一』1909年(明治42年)、『小學國史 尋常科用 上巻』1940年(昭和15年)、『初等科国史.上』1943年(昭和18年)
「聖徳太子」あるいは「法隆寺」で項目が立てられ、解説対象が聖徳太子になっている。推古の政治参加の記述はほぼゼロで、『尋常小學日本歴史』では「推古天皇は女帝にてましませしかば、政治を皇太子にまかせ給ひき」と、推古は女性であるゆえに太子に政治を任せたと書かれている。
現行の高校教科書(山川出版、学校図書、実教出版)では古代史研究の成果が取り入れられ、聖徳太子にかける比重は次第に少なくなっていき、政治改革も蘇我馬子の存在を重視する見解が増えている[2]。
なお典範とは無関係に、聖徳太子の人気は明治中期から大正時代にかけて急上昇していた。生前から中世まで神聖視され続けた太子であるが、江戸時代に入ると林羅山や熊沢蕃山などの一部の儒学者から批判を受けるようになる。太子は「馬子と結んで崇峻天皇を暗殺した」と糾弾され、日本が堕落したのは「皆な上宮太子(聖徳太子)よりおこれり」と説かれた。水戸学においても、太子は清らかだった日本に外国の野蛮な教え(仏教)を導入し、憲法十七条では一言も「神」の名が見えておらず敬神の心がないと痛罵された。幕末から明治初めに行われた廃仏毀釈運動も拍車をかけ、明治元年には法隆寺は寂れ、僧侶は数人しかおらず、伽藍(寺の建物)も雨漏りする有様であった。
それが明治十年代半ばから太子の再評価が始まる。西洋人のフェノロサが法隆寺の仏像を絶賛し、寺院の宝物は日本が誇る文化物と見直されるようになる。当時の日本は列強との不平等条約改正や近代憲法制定を目指しており、大国隋と「対等外交」し憲法の元祖を定めた太子はナショナリズムの観点から高評価された。大正時代にはその流れはさらに進み、上宮教会や聖徳太子奉讃会などの団体により「太子こそ日本文化の祖だ」と世間に喧伝された[3]。
『扶桑略記』と『水鏡』の聖徳太子評
先述したように後世資料の『扶桑略記』(11世紀末成立)と『水鏡』(12世紀末成立)には、推古が「私は女性であるので物が分からない」と述べて聖徳太子に政治を任せたという記述がある。
「推古天皇は即位された翌年に『私は女の身である。全てのことに考えが至らない。だから国家の世事は聖徳太子が摂行してください』と仰せられたので、国民はみな喜び合いました。厩戸皇子はこの時に皇太子に立たれまして、正式に政治を執り行われましたのです」『水鏡』
これまで述べてきたように、推古が政治の全てを太子に任せて自らは政務に一切関わらなかったというのは史実と認められない。この記述に関して、両書の記述全体に聖徳太子礼賛が顕著に見られる点が留意される。
『扶桑略記』は神武から堀河天皇にかけての事柄を仏教の発展史の観点から記した歴史書であり、『水鏡』は漢文で書かれた扶桑略記を翻訳した歴史物語である。両書共に仏教的価値観に基づいて書かれており、特に『水鏡』は太子が仏法を日本に広め定着させた功績から、全体を通して最も詳細に取り上げられている。水鏡では敏達から推古にかけて太子の誕生からその死までの逸話を逐一に追っており、薨去に際しては以下のように高い評価を与えている[1][2]。
「推古天皇二十九年二月二十二日、聖徳太子が亡くなってしまわれた。お年は四十九歳でした。天皇をはじめ万民一同は、まるで自分らの父母に死別したかのようにたいへん悲嘆にくれたのでしたよ。
右にはだいたい、太子の事についてその一端だけを申しました。又もここに、改めて猶、申し続けるべきでないかも知れませんが、太子の素晴らしい事はご承知でしょうけれども、どうしても繰り返し申さずには居られないのですよ。
聖徳太子がこの世に出現なさらなかったら、「到底、この無明長夜から抜け出せない」という訳で、私らは仏法の名も理法も知らない哀れな身であったでしょう。仏法の教えは天竺から唐土に伝わって三百年という時、百済に伝わって、更に百年経ってこの日本へと渡来されたのでありました。
その時、もし太子のお力や識見がなかったなら、この国の人々は皆、あの物部守屋の悪い考えに從わせられて、まるで無明の闇に迷っていたことでありましょうよ」『水鏡』
3節 皇極(斉明)天皇と中大兄皇子
2人目の女帝である皇極天皇は史上初めて公式に生前譲位した天皇であり、また初めて重祚した天皇である。皇極天皇即位当時の朝廷は馬子の子孫である蘇我蝦夷、入鹿親子が専横を奮って大王家を圧迫しており、その中で即位した皇極(斉明)女帝の治世は通説の中継ぎ論に基づくと以下のように説明できる。
- 641年、皇極は後継者争いを防ぐために緊急避難的に中継ぎ即位する
- 645年には中大兄皇子(天智天皇)が中臣鎌足と手を組んで蘇我氏宗家を滅ぼした(乙巳の変)
- 皇極は息子の中大兄に譲位を申し入れるが辞退され、代わりに皇極の同母弟の孝徳天皇が即位し、中大兄は皇太子となった
- 中大兄は孝徳を傀儡としていたがやがて二人の関係は悪化し、中大兄は皇極や朝臣を連れて旧都に戻り、孝徳を見捨てた。
- 孝徳の死後に皇極が斉明天皇として重祚した。
- 斉明朝では中大兄が称制し、政治の万機を担った(女帝-摂政体制)。
- 斉明の死後、中大兄はすぐに即位せず6年間称制してから天智天皇として践祚した。
以上を踏まえ皇極(斉明)に関する皇位継承には以上の5つの論点がある。
①皇極の即位
蘇我馬子┬蝦夷─入鹿
└蘇我法提郎女
|──古人大兄
1欽明┬2敏達─押坂彦人大兄┬────5舒明
| | |──10中大兄(天智)
| └茅渟王┬7皇極 (9斉明)
| └8孝徳
|
├3用明─厩戸─山背大兄
├5推古
└6崇峻
- 数字は欽明を1とした継承順
- 先述したように、当時の皇位継承は直系(嫡流)継承でなく、同世代(キョウダイ)継承が基本であり、世代数が重要であった。
- 上の系譜は世代ごとに色分けしている。欽明天皇の子世代、孫世代、曾孫世代、玄孫世代
- 皇極と孝徳天皇は実際には欽明の玄孫だが、皇極は舒明天皇のキサキとして、孝徳は皇極の弟として曾孫世代として扱われる。
- 後に定められた律令では、天皇の兄弟と息子を親王としている。律令の注釈書では継嗣令にある「女帝の子もまた同じ(く親王である)」を拡大解釈し、女帝の兄弟もまた親王としている[1]。よって皇極の弟の孝徳は三世王でありながら親王(一世王)的な存在であった。
蘇我氏系譜
皇極天皇の即位に関して、日本書紀にはただ「皇后が天皇として即位した」とあるだけで経緯は書かれていない。よって今回も状況論から皇極即位の経緯を推察する必要がある。
書紀では皇極即位の記述は簡潔だが、その前代の舒明が即位する様子は詳細に描かれている(舒明紀の半分は即位事情に費やされている)。推古天皇はその死に際して彦人大兄の息子の田村皇子(舒明)と厩戸の息子の山背大兄を呼んで以下のように諭した。
田村皇子に向けて「天皇となって人々を養うことについては簡単に発言すべきことではない。いつも重んじてきたところだ。だから汝は謹んで察するがよい。軽々しく発言してはならない」
山背大兄王に向けて「汝は未熟である。心に望むところがあっても騒がしく言ってはならない。必ず群臣たちの言葉を待ってそれに従いなさい」
推古が死に際に敢えて呼び出したことからもこの二人が次世代天皇候補がであることは分かるが、その遺詔は曖昧でどうとでも受け取れるものであった。そのため蘇我氏内部で田村を推す蝦夷(馬子の息子)と山背大兄を推す境部摩理勢(馬子の弟)の間で争いが起き、蝦夷が摩理勢を殺す形で田村皇子が選ばれた[2]。
13年後、舒明するとその妃の皇極が即位する。父も祖父も天皇でない3世王の皇極はもともと皇位継承とは縁がない存在だったが、舒明の大后となることで皇位継承資格を獲得していた。しかし先述の通りその経緯は全くの不詳である。当時の朝廷には3人の有力男性皇族がいた。
| 名 | 備考 |
| 中大兄皇子 | 舒明と皇極の息子で後の天智天皇。母も妃も蘇我氏ではない非蘇我系皇族。皇極即位当時は十代半ばだった。舒明の次世代。 |
| 山背大兄王 | 厩戸皇子の息子。母は蘇我氏だが蘇我氏の妃は持たない。本人には蘇我氏貴族意識があったが、皇極が即位した翌年に蘇我入鹿によって殺される。舒明と同世代。622年に49歳で死んだ厩戸の長子なので皇極即位時(642年)には40代半ばであったと推測される[3]。 |
| 古人大兄皇子 | 舒明と法提郎女(馬子の娘)の子で中大兄の異母兄。馬子を外祖父に持つ蘇我系皇族になる。乙巳の変の後に中大兄に殺される。舒明の次世代。 |
皇極の即位の解釈として有力視されているのは(それを「中継ぎ」と呼称するかは別として)推古と同じように皇位継承争い回避としての緊急避難的女帝である。すなわち蘇我蝦夷は若い世代の古人大兄を推していたが舒明と同世代の山背大兄の勢力も侮れず、無駄な諍いを避けるために同世代継承の論理に則り舒明の皇后であった宝皇女が担ぎ出されたという論理である。主旨は同じでも各論者でニュアンスが異なるため一覧にして掲載する。
| 鎌田元一 | 「蝦夷の意中は馬子の孫である古人大兄であったが山背を推す勢力も強かったと予想され、加えて中大兄が16歳と若いとはいえ殯で誄(哀悼の意)を奉るほどの成長もあり油断ならなかった。このような状態で王位継承の争いをひとまず回避するため、先代大王の妃である皇極が擁立されたものと見られる」[4] |
| 市大樹 | 「舒明天皇死後の皇位継承は、舒明の同世代継承か、一つ下の世代(古人大兄と中大兄)に皇位を移すか紛糾したと考えられる。蝦夷は古人大兄を推していたが当時の王位継承は世代内継承であったため山背大兄も無視できない。皇極の即位はいわばその妥協の産物として舒明と同世代の皇極が選出されたのであろう」[5] |
| 大津透 | 「山背大兄、古人大兄、中大兄のいずれとも決め難い状態で皇極が中継ぎ女帝として即位した」[6] |
| 熊谷公男 | 「蘇我氏が皇極を担ぎ出したのは山背大兄の即位を阻止して古人大兄の即位の芽をつまれないようにすることが目的であった」[7] |
| 森公章 |
「蘇我氏は古人大兄の即位を目指したが欽明玄孫世代である古人大兄の即位のためには曾孫世代の山背大兄が邪魔だった。そこで曾孫世代かつ大后としての権威を有する皇極女帝を即位させ、その後に山背大兄を討滅した」[8] 「皇極は敏達系王族と蘇我系王族を結節する位置にあり、前皇后としての経歴が『古の道に順考へて政をしたまふ』と評価されて即位にいたったのだろう。推古が王族の代表の厩戸、群臣の代表の蘇我馬子という権力核の下に40年近く安定した統治を続けたので、舒明朝のさざなみに鑑みて女帝の下で有力皇族・豪族が協業して権力集中を実現するという型(女王分権型)に期待するところがあったのかもしれない」[9] |
| 倉本一宏 | 「有力候補が複数存在する中で玄孫世代の古人大兄や中大兄に大王位を継承させるとなると世代交代を伴う。曾孫世代の山背大兄が残っている中での世代交代は紛争を招きやすく、しかも古人大兄と中大兄のいずれに継承させればいいのか明白になっていない情勢での前大王の大后の即位というのはぎりぎりの選択であった」[10] |
| 森田悌 | 「宝皇女(皇極)がスムーズに即位したようであるが、有力候補として山背大兄、軽皇子(孝徳)、古人大兄らがいて群臣も一人に決定できない状況があり、おそらく大臣蝦夷の主導下で協議を行い、宝皇女擁立で意思統一が図られたとみてよい。蝦夷が山背大兄の即位を嫌い、古人大兄の擁立を狙う状況下では宝皇女による襲位以外に延臣の間に選択の余地は無かったと思われる」[11] |
| 吉川真司 | 「書紀は宝皇女を「皇女(1世王)」と表記するが実際には押坂王家に属する「孫王(3世王)」に過ぎなかった。したがって血統的には天皇位からかなり遠い人物であったが、有力な皇位継承候補者として山背大兄・中大兄・古人大兄という三人の「大兄」がおり、上宮王家・押坂王家・蘇我本宗家それぞれの思惑から紛擾が予想されたため、事態を先送りすべく(皇極としては長子中大兄の成人を待つべく)大后という立場から皇位についたものと考えられる」[12] |
おおよそ共通するのは「蘇我氏が主導になり、皇位継承争いを回避するため」に皇極は即位したことである。しかし皇極が即位した翌年、蘇我氏によって皇位継承争いが勃発している。上宮王家事件とも呼ばれるこの政変で、蘇我入鹿は「上宮王ら(山背大兄)を廃し、古人大兄を天皇にする」と主張し、斑鳩宮にいた山背大兄を討滅している。書紀ではこの行動が入鹿の独断専行であることが強調され、父の蝦夷は入鹿の軽率な行動に嘆き悲しんだとある。だが平安時代に成立した『聖徳太子伝補闕』ではこの軍勢に蝦夷、そして軽王(孝徳天皇)や巨勢徳太・大伴連馬養など後に左大臣・右大臣になった有力氏族も加わっている。補闕は上宮王家(聖徳太子の家)と深い関係にあった調使氏と膳氏の記録を参考にして撰述されたもので、それなりに信頼できる史書である[13]。また奈良時代に藤原鎌足の曾孫が編纂した『藤氏家伝』では入鹿は「諸皇子と謀って行動を起こした」とあり、こちらにしても独断専行にはなっていない[14]。
蘇我入鹿の専横の一つに数えられる山背大兄王の殺害だが、蝦夷だけでなく有力皇族・氏族も斑鳩宮攻撃に参加している「補闕」「家伝」の記述を信じるならば、山背大兄排除は蘇我宗家と非蘇我氏勢力の共通利害であったことになる[15]。倉本一宏は「父親が天皇でない二世王にすぎない山背大兄が斑鳩という交通の要衝に蟠踞して独自の政治力と巨大な経済力を擁しているというのは支配者層全体にとってもけっして望ましいことではなかっただろう」と考察している[16]。また不自然なことに「古人大兄を天皇にするため」に山背大兄を倒したにもかかわらず、事件後に肝心の古人大兄については何の記事もなく、天皇位に就いたことも確認できない[17]。
平林章仁は、通説に反して皇極の即位は女帝自身の主導であったと指摘している。皇極即位時には表立った闘争があったようには思われないにもかかわらず、史上二人目の女帝が誕生しているが、この背景には皇極の自身の属する皇統への強い執着が存在したと考えられる。たとえば皇極は同母弟の孝徳に譲位し、孝徳には自らの娘の間人皇女を嫁がせている。蘇我氏の意中は蝦夷の甥の古人大兄であり、王家内の序列に従えば舒明死後に古人が即位するのが順当であったが、古人との血の繋がりのない皇極は舒明の大后としてそれを阻止し、自らの王統継承を目指して自ら即位したのではないかと推察される。その代わりに皇極は蘇我氏に(馬子が推古に割譲を要求して断られた王領の)葛木県を除く、(5世紀の大豪族の)葛城氏の旧権益の継承を認めたものと思われる。皇極即位年に蝦夷は葛木高宮への祖廟と今来への双墓の造営を行なっているが、これらは蘇我氏が葛城氏遺産を継承した象徴的営為であった[18]。
- 『注標 令義解校本 坤』P42
- 『聖徳太子 実像と伝説の間』石井公成、P225
- 『直木孝次郎 古代を語る8 飛鳥の都」直木孝次郎、P127
- 『岩波講座日本通史第三巻古代2、七世紀の日本列島』鎌田元一、P24
- 『岩波講座日本歴史第2巻 古代2、大化改心と改革の実像』市大樹、P258
- 『天皇の歴史01 神話から歴史へ』大津透、P273
- 『日本の歴史03 大王から天皇へ』熊谷公男、P246
- 『日本の時代史3 倭国から日本へ』森公章P40
- 『天智天皇』森公章、P30
- 『蘇我氏』倉本一宏、P113
- 『天智天皇と大化改新』森田悌、P36
- 『シリーズ日本古代史③飛鳥の都』吉川真司、P50
- 前掲、吉川、P54
- 『蘇我氏の古代』吉村武彦、P141
- 『日本の時代史3 倭国から日本へ』森公章P40
- 『蘇我氏』倉本一宏、P114
- 前掲、吉川、P55
- 『日本古代史足研究叢書⑤蘇我氏の研究』平林章仁、P54
皇極中継ぎ論への反証
「男子の皇位継承者が一人に絞れない際に、政治力のない女帝を中継ぎで立てた」とする皇極天皇中継ぎ説に対する反論も存在する。
遠山美都男は「当時の王位継承は執政能力が重視されており、舒明の大后であった皇極は山背大兄、古人大兄、軽皇子(孝徳)、中大兄を上回る政治的実績を持っていた。したがって皇極は蘇我氏の傀儡ではなく中継ぎ天皇とは言えない。推古が構想していた皇位継承は敏達統と用明統の両統迭立であり、崩御の直前に敏達の孫の田村皇子(舒明)と用命の孫の山背大兄を呼び出し、それぞれの血統から順番に大王を排出することを約束させた。そのため舒明の死後は、用明統の山背大兄の即位が順当であったはずだが、舒明は敏達統の正統(嫡流)化を狙って妻の皇極を次代大王に指名したと考えられる。推古が次代の大王を指名したように、舒明にもまた次代の大王指名権が与えられていた。皇極は本来は玄孫世代だが叔父の舒明と婚姻を結ぶことで曾孫世代となって世代条件をクリアし、また大后に与えられる私部に加えて財部と呼ばれる服属集団も支配下に置いていた点が大臣や群臣らからも評価されていたと見られる。
皇極は蘇我稲目の玄孫であることから、皇極の家産経営には蘇我氏が深く関与していたとみなして間違いない。入鹿の山背大兄討滅も皇極の命令を受けてのことと考えられる。書紀には入鹿が「独り謀りて」とあるがこれは「独断で」という意味ではない。書紀の別箇所で同様の表現として舒明が即位する際に蘇我蝦夷は「大臣と為て独り嗣位をを定めむと欲へり」とある。この「独り」は蝦夷の独断ということではなく、本来は重要な決定は群臣が合議で決めるところを「独り」大王から命令を受けて実行したという意味になる。よって入鹿の「独り謀りて」も同様に皇極の命令を独りで受けたという意味に解釈される。すなわち上宮王家討滅事件とは皇統の安定化を狙った皇極による山背大兄排除であり、同様に乙巳の変での入鹿・蝦夷が粛清されたのも、皇極が弟の軽皇子と共謀して古人大兄を排除することに目的があった」と主張している[1][2]。
蘇我氏と皇極の関係
義江明子は「皇極(宝皇女)の諡号は『天豊財重日足』で、同母弟の孝徳『天万豊日』と比べて「タカラ」の字が目立ち、それが彼女の資質に関わる重要な要素であったことが了承される。姉弟の母の吉備姫王は「吉備嶋皇祖母命」と称され蘇我稲目の曾孫にあたる人物である。孝徳朝では「官司の直営田と吉備嶋皇祖母の各地の貸稲(稲を貸して利息をとるもの)を廃止し〜」と、わざわざ官営の田と並べて彼女の名前が語られていることから、吉備姫が富裕な皇族であったことがわかる。当時の家財は男女で等しく継承される双系的なものだったため、皇極は父からは彦人大兄の、母からは蘇我氏の財・領地・領民を受け継いでいた。さらに皇極は孝徳の皇后として十余年にも及ぶ統治実績があり、天智、間人(孝徳の皇后)、天武からなる同母子集団の女の長=ミオヤとして豪族たちとの広範な人格的関係を築き上げていたと推定される。安易な中継ぎ論に流れることなく、有力王族の一員にしてキサキという皇極の立脚点から皇極即位の背景を理解すべきだろう」と述べている[3]。
②皇極の譲位
乙巳の変の後、皇極は同母弟の孝徳に史上初めて公式に生前譲位を行った。即位した孝徳は50歳であり、慣例に従った同世代継承であった。『日本書紀』によれば、皇極は当初は息子の中大兄皇子に譲位しようとしたが、皇子と鎌足は「(異母)兄の古人大兄が健在なのに即位するのは良くない」として叔父の孝徳に皇位を譲った。孝徳もまた古人大兄に譲ったが、最終的に孝徳が即位した。当時の中大兄は19歳であり、年齢的に即位は難しかった。
なぜ皇極が皇室史上初の生前譲位を行ったのかは諸説存在する。一つには若年であった中大兄の成長を待ち、古人大兄を抑えるための譲位だったという。だがそうであるならば皇極が玉座に座ったまま中大兄が成長した後に譲位すれば良く、わざわざ譲位する必要がない。孝徳は後に皇極・中大兄と反目しており傀儡にできるような人物ではなく、また『書紀』に孝徳が傀儡であったという記述もない。孝徳に皇位を譲ることで古人大兄を抑えられても、今度は孝徳天皇の息子の有間皇子が皇位継承の有力候補に上がってしまう。有間皇子は年こそ若かったが彼の母族の阿倍氏は軍隊の要職についておりその勢力は侮れないものがあった。当時の著名な将軍、阿倍比羅夫も阿倍一族に連なる人物である。実際に有間皇子は中大兄の脅威として見られ、後に絞首刑になっている[1][2]。
その矛盾点を解消するのに近年注目されているのは遠山美都男や篠川賢などが提唱している、乙巳の変の首謀者は書紀が示す中大兄と中臣鎌足ではなく軽皇子(孝徳)だったという説である。以下に挙げる乙巳の変の主要参加者および孝徳朝の重臣は中大兄を除き、全員が和泉国和泉郡とその周辺、摂津・河内一帯に本拠や権益の所在地を有している。そしてその地は即位前の孝徳の本拠があった場所である。
- 蘇我倉山田石川麻呂(入鹿暗殺の折、彼の注意を引きつけるために朝鮮三国の上表を読み上げた。後に右大臣)
- 中臣鎌足
- 巨勢徳太(将軍として蝦夷を支援する東漢氏を武装解除させる)
- 高向国押(東漢氏の離反を策動)
- 船恵尺(蝦夷邸から『天皇記』『国記』の史書を持ち出す)
- 阿倍(倉梯)麻呂(左大臣)
- 大伴長徳(孝徳の即位の儀で威儀を飾る)
- 僧旻と高向玄理(国博士)
このうち石川麻呂と阿倍麻呂は孝徳に妃を入れて婚姻関係を結んでいる。すなわち乙巳の変は孝徳を中核として地縁や姻戚関係によって結集していた豪族たちのグループが主導していたもので、鎌足や中大兄はその一構成員でしかなかったと考えられる。この説に則れば皇位を狙った孝徳が中大兄を手駒として蘇我氏宗家を倒し、皇極から皇位を譲り渡された。だが結局は皇極に皇位を取り返されたと辻褄が合う[3][4][5]。
遠山の説では皇極と孝徳は共犯だったとしているが、仁藤敦史は同じく乙巳の変の中心人物を孝徳としながらも、皇極はこれに参加しておらず政変によって孝徳が女帝を強制廃位させたと考察している。書紀では古人大兄は乙巳の変の原因を「韓政」の対立だと語っている。当時の日本は白村江の戦いを間近に控え、唐との間に緊張感が走っていた。その大唐帝国は女君主を酷く嫌っており、643年には善徳女王が統治していた新羅に対して援軍の条件に「婦人王」の廃止を求めている。これを受けた新羅は647年(つまり乙巳の変の後ではあるが)に反女王派の毗曇が善徳女王打倒を目指した内乱を起こしており、女帝を擁する日本も対岸の火事ではなかった。すなわち古人大兄のいう「韓政」の対立とは、大国の唐や新羅に接近する親唐派と、従来通り唐と距離を置き百済と親密な関係を維持する対唐独立派の対立である。親唐派グループの中心であった孝徳は緊迫した国際情勢を背景に唐が嫌う女性君主を廃位させ、男帝として即位したと考えられる。そして独立派であった斉明の重祚は強制退位させられた女帝・中大兄の反撃であった[6][7]。
女性君主と政治不安の関連を暗示するものとして、斉明朝から100年の後、760年に成立した藤原氏の家伝『藤氏家伝』で蘇我入鹿が山背大兄王を討つ呼びかけで以下のように「皇后(皇極天皇)が臨朝(即位せずに皇后が政治)していると、山背大兄が反乱を起こすに違いない」と述べている[8]。
方に今、天子崩殂りたまひて、皇后朝に臨みたまふ。心必ずしも安くあらず。焉ぞ乱無けむ。外甥の親を忍びず、以て国家の計を成さむ
「今、舒明天皇が亡くなって大后宝皇女(皇極天皇)が大王として政治を行っているが、それでは心に不安なものがある。このままでは内乱が起きるに相違ない。山背大兄がわが蘇我氏のミウチだからという理由で遠慮することなく、除くべきものは断固として除き、国家の安泰をこそはかりたいと願っている」
市大樹は、乙巳の変以前から皇極は譲位する意向を持っていた(あるい譲位を要請されていた)可能性があったと考察している。書紀には蘇我氏の山背大兄討滅の直前に、群臣・伴造に対する饗応があり「叙位」が議せられたという記事がある。この「叙位」とは譲位を意味しており、女帝を嫌う唐の国際的伸長を背景に皇極の退位が議論されていたという。しかし話し合いは古人大兄の即位を目論んでいた蘇我氏にとって不本意な結果に終わり、蘇我勢力は山背大兄襲撃という実力行使に出たと見られる[9]。別の見解では、皇極天皇は蘇我氏の傀儡であったため、蘇我氏宗家の滅亡と共に皇位を追われたという説も有力視されている。つまり皇極天皇は「譲位」したのでなく強制廃位であったと見る考え方である[10][11]。
皇極が強引に廃位させられたという見識を傍証するものとして、佐竹昭は「孝徳朝に立てられた日本初の元号『大化』は、従来の改元が翌年の正月をもって改めるのに対し大化は孝徳の即位と同時に始まりを置いている。これは中国では譲位(簒奪)の場合の称元法であり、その内実において孝徳の新政権の出発の宣言と見ることが可能である」と指摘している[12]。
瀧浪貞子は以上の説とは異なり、皇極が退位したのは将来的な中大兄の即位のためだったとしている。初期の女帝の即位は立太子と不可分であり、女帝の実子の継承権は失われることになっていた。推古は厩戸皇子(聖徳太子)の立太子と共に即位し、推古の子の竹田皇子は継承権を消失した。皇極もこのルールに基づき古人大兄の立太子と共に即位したため、中大兄が天皇になるためには母親を退位させなければならなかった。斉明崩御後に天智が6年間も即位できなかったのもこの女帝の子は即位できないという皇位継承法のためである[13]。
- 『天智天皇』遠山美都男、P166
- 『日本古代の王権と王統』篠川賢
- 『大化改新』遠山美都男
- 『偽りの大化改新』中村修也
- 『古代日本の女帝とキサキ』遠山美都男、P70
- 『女帝の世紀』仁藤敦史、P99
- 『東アジアからみた「大化改新」』仁藤敦史、P10
- 『天智天皇』遠山美都男
- 『岩波講座日本歴史第2巻 古代2、大化改心と改革の実像』市大樹
- 『日本古代史③飛鳥の都』吉川真司、P57
- 『古代日本の女帝』上田正昭
- 『古代の人物①日出づる国の誕生』「斉明(皇極)天皇」佐竹昭、P266
- 『持統天皇』瀧浪貞子
③斉明の重祚
孝徳が崩御した後に皇極は斉明天皇として重祚する。この時の詳細も『日本書紀』には書かれておらず、今回も中大兄皇子の即位は見送られている。この頃の中大兄は30歳になっており、やや若いとも言えるが即位してもおかしくない年齢に達している。孝徳の息子の有間皇子との後継者争いを防ぐためだったとも言われており、上述したように有間は後継者争いに敗れて中大兄に殺されている。
または「皇極は孝徳勢力によって強引に廃位させられたのだから、孝徳の死後は皇極が復位するのは当然だ」と認識されていた可能性もある。その根拠として、重祚した斉明天皇は皇極時代の王宮であった飛鳥板蓋宮を即位の場所に選んでいる。当時の大王は即位のたびに遷都するのが基本だったので、斉明の即位は皇極朝の延長だと考えられていた。ただし火事が原因で斉明が飛鳥板蓋宮にいたのは短期間で結局彼女も遷都している[1]。
瀧浪貞子は「孝徳天皇を見殺しにした中大兄皇子に非難が集中するのは当然で、孝徳死後にすぐさま即位したのでは皇位の簒奪者、亡者とみられ、人望を失うことは明らかであったため即位を見送った。この際、中大兄は孝徳の皇后の間人皇女を中継ぎ女帝として即位させようとしたが拒否されたため、仕方なく母親を重祚させた」とする[2]。
中村修也は「当時、血の穢れを受けた皇子は神聖なる大王にはなりにくい不文律があった。例えば蘇我入鹿が山背大兄王を討伐する際に、古人大兄が入鹿の行動を止めており、ここに権力者と血の穢れとの関わりが描かれている。また用明朝で皇位継承有力候補であった穴穂部皇子が三輪君逆を殺害しようとした際に、蘇我馬子が『王たる者は刑人に近づけず』と諫言している。ここでは罪人に近づくことでの穢れしか述べられていないが、実際は罪人を自ら殺害する、あるいは殺害の場にいることによる血の穢れの方が忌むべきことだった。血の穢れ観念が生まれた時期は不明だが、日本書紀編纂時にはそのイメージが確立していたことは確かだろう」としている[3]。
中村の血の穢れ説に対し、遠山美都男は「中村氏がいうような『血の穢れ』に対する極端な忌避があったとは考え難い」と述べる[4]。書紀成立以前にその手で殺人を犯した天皇は、天智の他に2代の綏靖天皇、21代の雄略天皇、25代の武烈天皇がいる。綏靖天皇は兄のタギシミミノミコトを射殺した勇敢さを讃えられて、もう一人の兄のカムヤイミミノミコトから大王の座を譲ってもらっている。
神淳名川耳尊(綏靖)は、兄(カムヤイミミノミコト)の持っていた弓矢を引きとって、手研耳命を射られた。一発で胸に命中させ、二つめを背中に当てついに殺した。そこで神八井耳命は、恥じて自分から弟に従った。神淳名川耳尊に譲って言われた。「私はお前の兄だが、気が弱くてとてもうまくはできない。ところがお前は武勇にすぐれ、自ら仇人を倒した。お前が天位について、皇祖の業を受けつぐのが当然である。私はお前の助けとなって、神々のお祀りを受け持とう」
また軍を率いて自ら戦場に出た天皇は神武天皇を筆頭に、志毘臣を攻め滅ぼした仁賢天皇、壬申の乱の勝者となった天武天皇など数多く存在する。
遠山美都男は「女帝が中継ぎの傀儡天皇という定説は誤りであり『乙巳の変で皇極が強制退位させられた』という主張は後に斉明が重祚した件とも辻褄が合わない。中大兄を差し置いての斉明の重祚は、彼女が属する欽明の曾孫世代を支持する群臣層が背景にあり、玄孫世代の中大兄を支持する声は少数派であったのだろう。斉明は大兄の「ミオヤ」として、史上初めて血縁(世代内)継承でなく、正嫡という血統によって大王推戴されることになる「ミコ」の中大兄のために相応しいプロセスを荘厳に準備する必要があった。その例が中大兄の倭京の中心である後飛鳥岡本宮の造営や、狂心渠と揶揄された運河の掘削であった。また斉明女帝は、東北・北海道遠征や百済救援戦争も主導していた。これらの軍事行動の目的は、敏達統の権威と正当性を誰が見てもわかるように示すことであった」と主張している[5]。
④女帝-摂政体制
『日本書紀』には皇極時代の女帝は「古来の道に基づいて政治を行なわれた」とあり、同時に蘇我入鹿が「自ら国政を執り、勢いは父(蝦夷)よりも強かった」とされている。また即位元年に国に日照りが続いたので蝦夷が雨乞いを行ったが効果がなかった。そこで今度は皇極が祈祷すると雨が降り始め、潤った百姓は女帝を「この上もない徳をお持ちの天皇である」と礼賛している。「藤氏家伝」では皇極の評価は辛く、「皇極には政治的な求心力がなく、皇室の権力は衰退して政治は蘇我蝦夷やその子、入鹿を中心に行われるようになった」とある。斉明として復位してからは書紀には「皇太子(中大兄)」に関する特別な記述はないが、「家伝」で斉明天皇は「悉々く庶務を以って皇太子に委ぬ(政治は全て皇太子の中大兄皇子にお任せになった)」とあり、女帝-摂政制度の存在が示唆されている。実際に斉明女帝は即位時62歳という高齢(これは年代不確かな初期大王を除くと最年長タイ)ということもあり、政治の多くを息子に任せていたというのが定説である。
しかし斉明は政治力のないお飾りという訳ではなかった。先述したように斉明女帝は宮殿や渠の設営など大工事をいくつも主導しており、書紀にも「時好興事(天皇は工事を好まれた)」と記されている。女帝が始めた工事に駆り出された人の数は凄まじく、それを原因として有間皇子(孝徳の息子)の反乱計画まで発生している。書紀には斉明天皇を主語として「大きな蔵を立てて人民の財を集め積んだこと」「長い用水路を掘って七万人以上の人夫に食糧を費やしたこと」「二百隻の舟に石を積んで運び、岡を築くというようなことをしたこと」が女帝の3つの失政として糾弾されている。
考古学的には明日香村大字岡の酒船石のある丘陵の中腹から、砂岩の切石を四段に積んだ石垣が数十メートルにわたって発掘されている。年代を特定する遺物は発見されなかったが、石垣の場所が斉明の宮と推定される遺跡の東約300mに所在し書紀の記述と合致することから斉明の築いた石垣ではないかという推測が強い[1]。これらの大工事を中大兄が主導した可能性もゼロではないが、女帝は中大兄が十代半ばだった皇極の時代から数多くの大規模工事を発起していることは留意される[2]。これらの大工事は女帝の個人的な好みだけの問題ではなく、極度に緊張する東アジアの国際関係の中、来朝する高句麗・百済・新羅の使者に日本の国威を示す示威行為でもあった[3]。
「皇極天皇は大臣(蝦夷)に詔して『大寺を造りたいと思う。近江国と越国の、公用の人夫を集めるように』と言われた。また諸国に命じて船舶を建造させた」
「皇極天皇は大臣に『今月から十二月までの間に宮殿を造りたいと思う。国々に用材を採らせるように。また東は遠江まで、西は安芸までの国々から、造営の人夫を集めるように』と言われた」
他に斉明天皇の事績に挙げられるのは天皇親征である。朝鮮半島情勢がいよいよ不安定になった時期、斉明は難波宮を行幸し、九州まで自ら出陣している(御船西征)。飛鳥時代での天皇親征は珍しいことである。中大兄が67歳で晩年を迎えていた母に九州遠征を命じるとは考えづらく、彼女自身が望んで前線に向かった可能性が高い。万葉集に残る、額田王が女帝に代わって詠んだ「熟田津に船乗りせむと月まてば 潮もかなひぬ今はこぎいでな」という征西軍を鼓舞する歌からは斉明の積極的な士気が窺える[4]。結局、斉明女帝は陣頭指揮をとりながら九州の地で没し、中大兄はその死を深く嘆いている。
熊谷公男は「斉明は息子に政治の全てを任せたお飾りではなく、高い政治力を有する女帝であった」と述べている。皇極は譲位後も皇祖母尊として朝廷で重きをなして発言力は高く、孝徳との決別や斉明の重祚は中大兄でなく彼女の意志が大きかった。皇祖母尊とは天皇号が成立する以前の尊称で、皇室の女性尊長を意味する[5]。千田稔は「通説のように斉明朝の政治を本当に中大兄皇子が主導していたのか疑っても良い」と述べて、中華帝国を目指す日本の国家事業を推進した斉明の天皇権力を積極的に認めている[6]。
「斉明は政治を悉く皇太子に委ねた」と記す『藤氏家伝』を編纂した藤原仲麻呂は、中国文化に傾倒し、朝廷の唐風化を進めると共に儒教的徳治政治を行い、また女上皇の孝謙と政治的対立を深めつつあった人物である。皇極女帝への「政治的求心力がないため王室衰微し、君主による政治ができなかった」という否定的な評価は、仲麻呂の孝謙へのネガティヴなイメージが投影されていた可能性がある[7]。
更に、上述した『藤氏家伝』の蘇我入鹿の檄文では、皇極天皇を天皇でなく皇后と呼び、その執政を「臨朝(皇后が即位せずに政治すること)」と表現し、女帝を正式な天皇として見なしていない。ただし家伝の他の箇所では女帝を「後崗本天皇」と呼んでいることから、その扱いには一貫性がない。これは家伝が編纂された当時、皇后・皇太后として天皇大権を行使していた光明皇后が皇極天皇のモデルになった故と考えられる[8][9]。
遠山美都男は「斉明天皇が在位しているのだから中大兄の『称制』は厳密な意味での『称制』とは言えず、正式即位前の中大兄の執政を『称制』と名付けたのはあくまで日本書紀であった。日本書紀では天智天皇を王政復古を成し遂げた英雄的人物と捉えていたので、即位前の天智の権力執行を『称制』という中国的な概念を用いて表現したのは自然なことである。天智の執政を『称制』と命名したのは、同じく正式に即位する前に天皇権力を夫から受け継いだ鸕野讃良(持統天皇)と考えられる。彼女が自らの執政を正当化するために日本書紀の天智天皇関係記事に手を加えた可能性は極めて高く、中大兄の『称制』はその一つである[10]」「東北遠征と百済救援という二大軍事作戦を企画しただけでなく、後者では自ら陣頭指揮を実行したことから見ても斉明を単なる中継ぎとすることは当たらない[11]」としている。
河内春人は「書記では中大兄は孝徳朝や斉明朝で皇太子の立場で政治の実権を掌握していたとするが、近年では孝徳朝の再評価が進められ、必ずしも中大兄のみが政治の中心であったわけではないことが指摘されている。皇太子制度が成立していない段階ではいかに大兄であろうと独自にミコトノリ(天皇の命令)を発布する主体になりえず、仮に中大兄の実権を認めるとしてもそれは治天下王のミコトノリを通じて具現化したからであり、中大兄の政治的立場は孝徳や斉明の存在があってこそであった。『中大兄が皇太子として自ら政治を推し進めた』というのは天皇権力を代行しうる皇太子のイメージに引きずられたものであり、たとえば『聖徳太子の摂政』が史実として認められていた時代の産物である」と述べている[12]。
中村修也は、上で述べた有間皇子の謀反は、従来は中大兄が皇位継承のライバルを追い落とすために有間に謀反を唆して殺したという中大兄主導説が有力であるが、実際にはこれを主導したのは斉明であると主張している。乙巳の変の首謀者を孝徳と見た場合、斉明にとって有間は簒奪者の息子であった。孝徳が崩御した時点で斉明が重祚するのに最も邪魔なのは有間であり、彼の15歳という若年につけ込んで彼女が即位した後も孝徳朝の重臣たちが有間を中心として反女帝勢力として集まっており目障りな存在であった。斉明を親に持つ中大兄は順当に行けば次の大王は自分であるため有間を特別に危険視する必要はないが、斉明は本来は孝徳死後に有間が即位するべきところを自らが大王に就いたため負い目があった。すなわち有間皇子謀反事件とは息子の邪魔を取り除き反斉明派の息の根を止めるべく女帝が起こしたものと考えることができる[13]。
- 『直木孝次郎 古代を語る8 飛鳥の都」直木孝次郎、P138
- 前掲、直木、P141
- 前掲、直木、P148
- 『天皇の歴史01神話から歴史へ』大津透、P310
- 『日本の歴史03大王から天皇へ』熊谷公男、P278
- 『平城京遷都』P129,137
- 『藤原仲麻呂』仁藤敦史、P176
- 『天智と持統』遠山美都男、P92
- 『現代語訳 藤氏家伝』ちくま学芸文庫版、沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉 訳、P22
- 『天智と持統』遠山美都男、P52
- 『古代日本の女帝とキサキ』遠山美都男、P100
- 『王権と信仰の古代史』「天智「称制」考」河内春人、P116
- 『王権と信仰の古代史』「蘇我赤兄の再評価」中村修也
『藤氏家伝』の史料批判
『藤氏家伝』は奈良時代に鎌足の曾孫の藤原仲麻呂が編纂した書物である。上下2巻からなり、上巻には「鎌足伝(大織冠伝)」に鎌足長子の「貞慧伝」が含まれ、下巻は仲麻呂の父の「武智麻呂伝」である。皇極・斉明の評価に関わる「鎌足伝」は『日本書紀』と同文の箇所がある一方で独自の記載もあり、その関係の濃淡が学会で議論されてきた。矢嶋泉は「鎌足伝」は独自の伝記史料は存在せず、書紀を参照しつつ仲麻呂独自のアレンジを大幅に加えた作品であると指摘し、仁藤敦史もこれに賛同している。よって上述したように『藤氏家伝』での女帝の執政の評定は、仲麻呂の主観が混じっている可能性がある。
また『藤氏家伝』には鎌足と軽王子の関係性について矛盾が見られる。たとえば入鹿打倒を目論む鎌足は最初は軽王子(孝徳天皇)と共に行動を起こそうとするが、軽は器量不足であると判断して中大兄に鞍替えしている。しかし乙巳の変の後、鎌足は軽の即位が「民望に答る」と進言し、これが「大臣の本意」であったとする。また鎌足は入鹿は「長幼の序」を失っていると批判しておきながら、自らは若い中大兄を選んでいるのは言行不一致である。鎌足は孝徳朝で側近として「内臣」に任命されており、中大兄が孝徳と離別して飛鳥に戻った直後にも鎌足は紫冠と封戸が与えられるなど、孝徳の在命中は鎌足と孝徳は良好な関係が維持されている。よって鎌足が孝徳から中大兄に支持を変えたのは、孝徳朝の後半以降とするのが妥当である。
⑤中大兄皇子の称制
斉明崩御の際、皇位継承候補は中大兄(天智)、間人皇女(孝徳の皇后)、大海人(天武)の3人が存在していた。最年長の中大兄は37歳と年齢的には申し分なかったはずだが母の死後も7年も称制という形で即位を避けていた。天皇位が長年空位になる前例は、継体と安閑の間に2年、持統が夫の殯宮儀礼と草壁の成長を待つため3年空けた例がある程度で、天智のように7年の空位は異例中の異例である。
中大兄が長きにわたって称制していたという事実は、その理由がなんであれ孝徳朝・斉明朝での「皇太子」中大兄皇子の政治的主体性に再考を迫るものである。中村修也は「従来研究で孝徳・斉明の二人の政策そのものに論及されることがほとんどない。しかしそれは中大兄の孝徳朝・斉明朝での『皇太子』としての地位を史実として信用した上に立脚した論である。斉明朝には中大兄が『皇太子』であった可能性は高いが女帝死後の称制期間の謎が解かれていないため確実ではない。孝徳朝に至ってはその必然性が全くなく中大兄の立太子は可能性すらありえない。よって孝徳・斉明天皇の独自の政治を評価しなおす必要が生じてくる」と述べている[1]。
なぜ中大兄は母の死後もなかなか即位しなかったのかに関して多くの学説が提唱されているが、いずれも問題点があり依然詳細不明のままである。以下の議論は主に森公章の解説に依る。
1.「天皇として即位するより皇太子として自由な立場で政治を行うため」説
「皇太子でいる方が自由に政治ができるから中大兄はなかなか天皇にならなかった」という説は現在では否定されている[2]。「皇太子」制度が成立するのは天武後裔の草壁皇子、あるいは軽皇子(文武)の時代であり、当時の中大兄皇子が皇位継承最有力候補といっても天皇と同じ政治的権限を持つことはない。むしろ困難な時期に政治を領導するには天皇の座こそが求められるものであったはずである。
2.「乙巳の変や古人大兄殺害など、中大兄の血塗られた足跡が天皇即位を遠ざけた」説
これに関しては「斉明の重祚」の項で既に述べた。また中大兄の即位時にそのような過去を払拭できたとは考えられない。
3.「二段階即位説。つまり中大兄は称制していたのではなく、斉明崩御時に「治天下大王」として即位し国内外の問題を克服する強力な政治体制・王権構築の課題を果たした上で、7年目に「治天下天皇」として即位した」説。
この説の根拠として『万葉集』一巻の17,18番が称制6年目の近江遷都の歌になっているにもかかわらず、それより数字が下の16番の歌の題詞に「天皇」の文字が使われている。つまり称制時代に既に「天皇」と呼ばれ、中大兄が即位したように扱われている。しかし『日本書紀』では称制時代を含めて「天智紀」に仕立てており『万葉集』はそれと論理を同じくするものでしかなく確実な証拠とはみなしがたい。また『万葉集』は斉明天皇の歌も時系列順に配列されておらず、天智の歌が年次順である保証もない。
4.「中大兄は大友皇子(弘文天皇)を後継者に考えており、その成長を待つために称制していた」説。
これに関しても弟の大海人がいるという状況があり、後継者決定のためにはむしろ中大兄は早く即位した方が有利である。
天智の称制に関連してキーパーソンになるのが、孝徳天皇の皇后にして天智の同母妹の間人皇女である。
孝徳天皇が詠んだ歌に「吾が飼う駒を人見つらむか」の語句がある。「吾が飼う駒」とは夫を見捨てて中大兄と共に飛鳥京に去っていった間人皇女を指し、「見る」には男女相会の意が存在する。近親相姦が多い古代天皇家だが、同母所生児同士の婚姻は「奸」として忌避されていた。中大兄と間人が夫婦であったならば、中大兄が即位しても同母妹は皇后に立てられない。それゆえ間人皇女が死ぬまで中大兄は天皇になれなかったと考えられる。だがこの説の論拠は上記の歌謡の字句のみであり証明が難しい。
6.「間人が孝徳崩御後に女性天皇となり難波朝廷を営んでいた」説
この説の根拠になるのは『新唐書』「日本伝」の「永徽初年、其の王孝徳即位し元(元号)を改めて白雉と曰ふ」という記述である。「永徽
初年」とは650年であり『日本書紀』で皇極が孝徳に譲位した645年と食い違う。さらに『藤氏家伝』には「白雉」の元号は「白鳳」と呼ばれ、16年続いたと書かれている。650年から16年目の616年は間人皇女が死亡した年である。つまり孝徳死後も間人が女性天皇となり、斉明や中大兄がいる飛鳥京とは別に難波朝廷を維持していたが、その死によって天智が即位可能になったという状況が想定しうる。だが『新唐書』「日本伝」にはいくつかの誤りがあり、外国史料だあからといって全面的に信頼することはできない。また『藤氏家伝』の「白鵬」のような書紀にない私年号の存在には疑問があり、遅くとも孝徳と間人の息子の有間皇子が中大兄に殺された頃には孝徳支持勢力は壊滅していたはずで、その後も間人が難波朝廷を担い続けたとする証拠は見出し難い。
7.「天智称制4年目に間人皇女が死に、6年目に間人が斉明と合葬され、その翌年に中大兄が即位するため、斉明死後、中大兄は殯宮儀礼を継続し、その後は間人の存在が障害になっていた」説。
この説も、朝鮮情勢が逼迫する中で中大兄が、後の持統の殯宮儀礼3年を大幅に超えて儀礼を継続した理由が不明である。天皇の空位は何より政情不安を惹起するので回避すべきことであったはずである。また間人の存在を重視するにしても間人死後も称制が続いている点に疑問が呈される(間人皇女については「5節 仲天皇と中皇命」も参照)。
遠山美都男は斉明中継ぎ説を否定する立場から、中大兄の正式な即位が遅れたのは斉明が主導した北方への対蝦夷遠征や百済救援戦争という巨大な成果を引き継ぎ、真の後継者となったことを周囲に認めさせるために多大な時間を要したためと推断している。中大兄が大津宮に遷都したのも大津が琵琶湖を介して北陸に続く敦賀(現福井県)に連絡しており、蝦夷支配を強化するのに至便な場所であったためである。斉明は大津の北の平浦に行幸しており、この時すでに大津という場所に着目していた可能性は高い。中大兄が近江大津宮に祖国が滅亡して亡命してきた百済貴族を大量に登用したのも、白村江の敗戦で果たせなかった百済救援の課題を百済貴族を起用することで百済を服属させている様を演出したものと思われる[3]。
4節 大兄と大妃制度
大后制度の成立とその役割
大兄と大后は皇太子と皇后の前身となる身分である。記紀には古い時代から「皇太子」と「皇后」が現れているが、実際にそれらの制度が成立したのは天武、持統朝以降であり、それ以前は大兄、大后と呼ばれていた。推古登場以前に大王家で王位継承争いは何度も起きているのに紛擾緩和を目的とした女帝が誕生しなかったのは、6世紀に大后制度が確立してきたことが要因とされる[1]。
『日本書紀』に以下にあるように、古代の大后・皇后の存在は天皇に並ぶものであった[2]。
ただし大兄と皇太子、大后と皇后は完全にイコールの地位でなく、大兄と大后がいつ成立し、どのような政治的意味を持ったのかには議論がある。
史書で最初に大后とされるのは敏達天皇の「皇后」の広姫であるが、彼女には政治参加の所伝が一切なく史実上の初代大后であるかは疑わしい。岸俊男は大后の成立について「それまで個々の后妃に住んでいる宮号を付して与えられていた名代(宮の経営に必要な世襲奉仕集団の伴と、物資を貢納する部民)を、ある時期から后妃の私有物(私部)として定立化し、宮廷組織の整備が進む中で特定の一人を大后とするようになった」と指摘している。この私部が初めて置かれたのはやはり敏達天皇の妃である豊御食炊屋姫、すなわち後の推古天皇であるため、初代大后は推古であったと考えられる。
吉田晶は「大后は大王の死後に殯宮に籠って大王霊を奉斎し、次世代の大王の即位にあたって前王の霊を新王に付与する役割を持っていた。よって大后は殯宮の期間中は大王に準ずる地位を占めたと想定され、そのため大后は嫡流に近い王族の出身であることが必要であった。殯宮儀礼が始まったのは安閑朝であり、安閑天皇の妃の春日山田皇女が初代大后である」と推測した。小林敏夫は先述したような推古の積極的な政治参画を念頭に、妃が大王と共治・輔政という立場に立てるようになったことが大后制の成立の本質だとしている。遠山美都男もやはり推古の積極的な政治参加と、歴代大后が産んだ皇子がほとんど大王になっていないことから、大后に期待されたのは後の皇后のように嫡子を産むことではなく大王の補佐役となり、大王権力の一部を代わりに執行することであったと考察している[3]。
大后・大兄と皇位継承
荒木敏夫は「初期のヤマト王朝で皇位継承権があったのは皇子と大后のみで、皇女には皇位継承権がなかった」と指摘している。皇女が皇位継承争いに加わった例はなく、国政に積極的に参加した皇女の存在も見出すことはできない。また皇太子の前身制度である「日嗣のみこ」は男を想定しており「日嗣のひめみこ」と呼ぶべき存在は想定し難い[4]。ただし古代の皇女は「ヒメミコ」と呼び分ける場合があるだけで、皇女が「ミコ」と呼ばれることも多かった。たとえば天武の娘の大来皇女を「大伯皇子」、長屋王の娘の山形女王を「山形王子」と表記している木簡が見つかっている。『日本書紀』では最初期から皇子=男、と皇女=女を区別しているが、皇極朝の記事に「男女を呼びて王子と曰う」とあるように本来、天皇家は王族の男女を区別せず、性別も世数も関係なく全員「御子(ミコ)」と呼んでいた。それが天武-持統朝で天皇の子を特別に「皇子」と呼ぶようになり、男女別の出仕法や禄法が定められ、それに対応して親王/内親王、王/王女の書き分けが始まったと考えられる。内親王を「ミコ」と呼ぶ用例は以後も広く見られ、平安時代の『古今和歌集』には桓武皇女「たかつのみこ」、文徳皇女「あきらけいこのみこ」の名が記載されている[5][6]。
井上光貞は押坂彦人大兄や中大兄などの名に見られる「大兄」は嫡長子を指していると考え、王位継承者の有力候補とした。6、7世紀は大王の地位はキョウダイ継承が基本であり、それが尽きた後に次世代の大兄に王位が戻るとした。大兄は皇太子と違い同時に複数の大兄が存在することもあったが、井出久美子や門脇禎二などは一人の大王には一人の大兄が存在し、大兄は皇太子の前身的称号であったと断定した。一方で、史書に現れる7人の大兄のうち実際に大王になったのは3人に過ぎず、一般の豪族においても7世紀半ば以降に「大兄」の称号が使用された事例があることから、大兄と王権継承は直接関わる地位ではなく、大王家も含めた豪族の「宗主権(族長権)」の継承に関わる呼称であったという学説も存在する。また小林敏男は初代大兄を継体朝の勾大兄皇子(後の安閑天皇)とし、大兄の地位は大王が自らの輔政の地位に長子を据えたところから始まり、王位継承者となったのはその結果であるとしている。
遠山美都男は大兄と大妃は後世の皇太子や皇后とは同一視できない地位であり、王権の安定化のための制度であったとする。飛鳥時代の権力構造は、大王と諸豪族との間に個別に築かれた人格的隷属関係の集積によって成り立っていた。従って結集核である大王の死がそのまま大王家の権力構造の崩壊に直結する危険性があり、それゆえに同世代継承によって複数の熟年した王位継承者をプールしなければならなかった。しかしその構造では大王死後の継承紛争が不可避となり、各皇子がそれぞれ関係を結んだ首長たちを巻き込んだ皇位継承争いを起こす危険性があった。それを防ぐための安全装置として考えられたのが大兄と大后および女帝の即位である。大兄は皇子の中から皇位継承者を絞ることで皇位争いの激化を防いだ。また推古、皇極(斉明)らは女ゆえに王位継承とは無関係な「第三の立場」であったため、皇位継承争いを調停する目的で即位したとする(ただし遠山は近年「女帝は第三の立場から中継ぎ即位した」という説を撤回し「女帝は中継ぎではなかった」と主張している)。
荒木敏夫は「大兄」は同母兄弟の代表(多くは長子)を指し、王位継承争いに絡むものであったと指摘している。古代の家族では子供は母の宮で過ごすため同母兄弟姉妹の絆は強く、逆に他の妃が産んだ異母兄弟は住まいを異にし、日常的な繋がりは乏しかった[7]。
大后制度を以てしても後継者争いで血が流れることは避けられなかった。これは結果的に偶然そうなったのではなく、女帝が中継いだところで、その次の天皇は誰にするのかという話になり、問題は何も解決しないからである。女帝即位で後継者が自然減少する訳ではないし、後継者が自然死したとしても今度は若い後継者が育ってくるので結局争いは緩和できない[8]。推古の場合は女帝崩御後に後継者を田村皇子(舒明天皇)にするか山背大兄王にするかで蘇我蝦夷と境部臣摩理勢との間で議論が紛糾し、最終的に蝦夷が摩理勢を殺すことで決着がついている(山背大兄王も後に殺される)。皇極(斉明)女帝も重祚時も含めて後継者争いが勃発し、多数の皇族が死んでいる。
女帝即位、大兄制度でも緩和できない皇位継承争いを緩和し、大王位の安定化に益するため考案されたのが後世の皇太子制度である。皇太子制度の成立によって、大王位を巡る争いは皇太子を巡る争いに転化し、天皇位そのものは安定することとなる[9]。
- 『女帝推古と聖徳太子』中村修也、P100
- 『古代人の一生』吉村武彦、吉川真司、川尻秋生 編
- 『古代日本の女帝とキサキ』遠山美都男、P32
- 『可能性としての女帝』荒木敏夫
- 『長屋王家木簡の研究』東野治之、P2,101
- 『推古天皇』義江明子、P6
- 前掲、義江、P10、44
- 前掲、中村
- 『日本古代王権の研究』荒木敏夫、P151
5節 仲天皇と中皇命
飛鳥時代の女帝中継ぎ論に関連して『大安寺伽藍縁起并流記資源財帳』に見える「仲天皇」、『万葉集』巻一に見える「中皇命」の語句がある。用例が少なく様々な解釈が取られており、定説はない。
大正時代の喜田貞吉『中天皇考』は、称徳天皇の詔の中にある「中都天皇」が元明天皇であることに注目し、「中皇命」は「ナカツスメラミコト」と読み「中天皇」と同じ意味で、『大安寺伽藍縁起并流記資源財帳』の「仲天皇」は天智天皇の妃である倭姫皇后であり、『万葉集』の「中皇命」は皇極天皇を指しているとした。
その議論を受けた土屋文明は「仲天皇」と「中皇命」は共に孝徳天皇の妃の間人皇女であるとし、中天皇は中宮天皇(中宮は皇后の意)か中間天皇の略であるとした。つまり当時にあっても女帝は男帝と男帝を繋ぐ中継ぎの天子と考えられていたという説である。間人皇女を「中宮太皇后」と呼んでいる史料もあり、中宮天皇と呼称されていたことは確実であったと見られる。田中卓は土屋説の「仲天皇」と「中皇命」が間人皇女を指すことは支持しつつも、その語義は中間天皇(中継ぎ天皇)ではなく、中大兄に類する間人皇女だけを指す固有名詞であるとした。
折口伸夫はこれらの見解とは全く異なり、中皇命は皇極(斉明)天皇を指しているとし、スメラは「最高、最貴」の義の語源、ミコトは「御言執ち」であると解釈した。したがってナカツスメラミコトとは神と天皇との間に立つ仲介者的な聖語伝達者、高巫であり、それが男子天皇不在の際に統治の表面に現れたものが女帝であるという女帝巫女説を唱えている。こちらにしても国政統治者が男性であることを前提としており、女帝を例外として見ている[1]。
中天皇が神意を承け、其告げによつて、人間なるすめらみことが、其を実現するのが、宮廷政治の原則であった。さうして、其両様竝して完備するのが、正常な姿であつたのだが、時としては、さうした形が行はれずに、片方のなかつすめらみこと制だけが行はれることがあつた。さうして、其が表面に出て来ることが、稀にはあつた。此がわが国元来の女帝の御姿であつた。だから、なかつすめらみこと単式の制で、別に誰かゞ実際の政務を執れば、国は整うて行つたのである[2]。
最初の女帝推古には巫女王としての側面は見られないが、皇極天皇には微かにその面影がある。皇極元年、国が日照りで悩んでいたので皇極は南淵河上で跪いて四方を拝し天を仰いで祈ったところ立ち所に雷鳴して大雨が降ったという[3]。
中村生雄は女帝を巫女とする折口説を分析し「政務を執行する人間天皇よりも、天皇と神を取り次ぐ中皇命の方が格段に重要な意味があると折口は見なした。そもそも中皇命が単独でいるのが本来の形であり、実務執行者である天皇は二次的、副次的な存在に過ぎなかった。折口説を敷衍して宮中祭祀の原則に従うかぎり、天皇は断じて宮廷の主役ではなく、中皇命の補助役に過ぎない」と述べている[4]。
伊藤博も中皇命は間人皇女であるとしたが、その語義は中間天皇(中継ぎ天皇)でなく、原始的シャーマン女性から離れつつあった時代に皇后と天皇の中に立って祭祀を行い、人の世の幸を予言する神的・聖女的存在であると論じた。この場合、中皇命は固有名詞でなく職掌名である。
東野治之は「皇命」をスメラミコトと読む用例は他になく、長屋王家出土木簡の中で長屋王が「長屋王子」「長屋皇子」「長屋皇」と尊称がさまざまに表記され、いずれも「ミコ」と呼ぶことから、「中皇命」は間人皇女を指してナカツミコノミコトと読むとした。「中」とは兄の中大兄皇子に対偶する固有名詞として理解できる。後世にミコノミコトと呼ばれた人物には天武の息子の草壁皇子、高市皇子、聖武の息子の安積親王がおりいずれも皇位継承有力候補であったことから、彼女がミコノミコトと呼ばれていたことは間人皇女が天智死後に称制していた説を補強する[5]。
森田悌は『大安寺伽藍縁起并流記資源財帳』の「仲天皇」は持統天皇を指していると述べる。このテキストでは斉明天皇の死が迫った病床で大安寺の造営の責任者を決める時、中大兄皇子がまず申し出て、その次に「仲天皇」が「自分も夫と共に奉仕します」と名乗りでている。中大兄を「夫」と呼んでいることから中大兄皇子の妃の倭姫女王と、愛人関係が噂される間人皇女は有力候補であるのだが、実際に寺を造営しているのは天武-持統の夫妻である。ここでは持統は中継ぎ天皇の語義で「仲天皇」と呼ばれた。
また森田は万葉集の「中皇命」はナカツスメラミコトではなくナカツオホキミノミコトと読み、間人皇女であるとする。葛城皇子(天智天皇)が「古人大兄皇子に次ぐ」という意味で「中大兄」と呼ばれたように、間人皇女も3人兄弟の真ん中の子であるので「中皇命」と呼ばれたと考えられる。
| 読み | 中皇命 | 仲天皇 | 意味 | |
| 喜田貞吉 | ナカツスメラミコト | 皇極天皇 | 倭姫皇后 | 中宮(皇后)天皇 |
| 土屋文明 | ナカツスメラミコト | 間人皇女 | 間人皇女 | 中宮天皇か中間(中継ぎ)天皇 |
| 田中卓 | ナカツスメラミコト | 間人皇女 | 間人皇女 | 中大兄に対応した固有名詞 |
| 折口伸夫 | ナカツスメラミコト | 皇極天皇 | 神と天皇との中に立つ巫女 | |
| 中村生雄 | ナカツスメラミコト | 神と天皇との中に立つ巫女 | ||
| 伊藤博 | ナカツスメラミコト | 間人皇女 | 皇后と天皇の中に立つ巫女 | |
| 東野治之 | ナカツミコノミコト | 間人皇女 | 中大兄に対応した固有名詞 | |
| 森田悌 | ナカツオホキミノミコト | 間人皇女 | 持統天皇 | 間人は中大兄に対応した名、持統は中継ぎ天皇 |
- 『天皇と王権を考える7 ジェンダーと差別』義江明子、P23
- 『折口信夫全集20』、P12,14,15
- 『日本の古代7まつりごとの展開』岸俊男、P46
- 『神話と歴史叙述』三浦佑之、P175
- 『長屋王家木簡の研究』東野治之、P100
間人皇女は女性天皇だったか
古代の皇后は私部(私有地)を与えられ、時に自ら即位するするほどの経済力と政治力を有しており、孝徳皇后の間人皇女にも同様の権能が期待されていたと考えられる。間人が死去した際には330人が得度(出家)を打っているが、これは天武天皇が病になった際に平癒を祈った100人よりはるかに多く、間人が敬意を払われるべき存在であったことをうかがわせる。上記の中皇命と仲天皇が間人を指すという解釈もあり、間人が実際に女性天皇として即位していたという説は根強い。
間人即位説の傍証になりえるものとして、野中寺弥勒蔵台座銘がある。この古代仏像には以下のような文章が刻まれている。
「丙寅の年」とは中大兄皇子の称制5年目(つまり天智の即位前)にあたるが、この銘文では「中宮(皇后の御所)にいる天皇が病気になっている」とある。この「中宮にいる天皇」は斉明天皇を指す指す説もあるが斉明が病気になってからだいぶ年月が経っているため、称制4年目に間人皇女が崩じていることを考慮して「中宮にいる天皇」は間人皇女を指すという解釈も存在する。病気治癒を祈った仏像が完成する前に間人が死去したという時系列ならば銘文の記述は矛盾なく理解可能である。
一方でなぜ『日本書紀』は間人の即位に触れないのかという大きな問題がある。神功皇后や飯豊青皇女のように大昔の「女性天皇」と違い、間人皇女は記紀編纂と50年も離れていない人物であり、人々の記憶は明白だったはずである。森公章はこの疑問に関して「間人は正式に即位しなかったとしても、天皇位を代行するような役割を果たし、その記憶が『仲天皇』の呼称に反映されているのではないか」と提唱している。
6節 ヒメ-ヒコ聖俗二重体制
邪馬台国の女王、卑弥呼には統治を「左ける」男弟が存在した。鬼道を操る卑弥呼が聖を担い、男弟が実務を執って俗を担う。このように姉-弟(兄-妹)による聖俗二重体制をヒメ-ヒコ制と呼び、邪馬台国のみならず日本列島に広く見られた。『山城国風土記』には玉依彦と玉依姫の兄妹がおり、記紀でも阿蘇都彦・阿蘇都媛のような「ヒコ」と「ヒメ」の一対の存在が多く確認できる。その原始的伝統は地方豪族ではかなり後代まで残存し続けた。
大王家もまたヒメ-ヒコ制が見られ、崇神紀の系譜に記されるヤマトヒコとチチツクヤマトヒメ。ヤマトタケル物語のヤマトタケルとヤマトヒメの組み合わせなどがある。しかし大王家ではかなり早い時期から高い宗教的権威を保有するヒメを原始的二重統治の場から分離してたようで、垂仁朝にはヤマトヒメをアマテラスに付けて伊勢の地に至り、ヤマトヒメは初代斎宮となったとする伊勢神宮と斎宮の起源譚が記されている[1][2]。こうしてかつては中央で聖を担っていた未婚の皇族女性は、伊勢神宮の斎宮や京都加茂神社の斎院などに名残を留めるだけになった[3]。
西郷信綱は「兄と妹の絆の強弱は社会によって違うけれど、親族組織の網の目が横にひろがってゆく上で、かなめの役をなすのが兄と妹であることは、いうまでもない。この絆は、父系的社会より母系的社会の方が相対的に一そう強いであろう。もっとも、兄と妹の絆の強弱を一般的に父系・母系という範疇にかかわらせて説くには無理があるらしい。古代日本にかんしていえば、父系社会であるにもかかわらず、そこではこの絆がとりわけ強かったし、また独特の形となってそれがあらわれたとみてよさそうである」「壱与は卑弥呼の姪にあたる女であっただろう。これを母系制ということはできない、まして母権制と呼ぶべきでない。妹であろうと娘であろうと、女に霊的職掌がわりつけられたことじたい、すでに父系制のしわざであった」と述べている[4]。
倭王権の初期大王墳墓
3世紀後半に築かれた初期大王墳、西殿塚古墳は立ち入り調査は許されていないものの、後円部の頂上に大きな方型壇が営まれており、ここに大王が眠る竪穴式石室が存在することが想定されている。その一方で前方部先端の頂上にもほぼ同型同大の方型壇が見られ、ここにも埋葬施設が営まれている可能性が大きい。すなわち西殿塚古墳には大王と共に、それと同格の存在が合葬されていることになる。4世紀後半に奈良盆地の建造された島の山古墳には男女が合葬されていることを踏まえると、西殿塚古墳にも大王に匹敵する権力を持った女性がいたことが考えられる。魏志倭人伝によれば女の卑弥呼が主導的に国を治め男弟はそれを補佐していたが、後世の島の山古墳では女性埋葬者の方が男性埋葬者よりも簡易になっており男性の権力が強くなったことを示している。両者が同型同大の埋葬施設を持つ西殿塚古墳は、その間を繋ぐ存在だといえる[5]。
- 『古事記 古代王権の語りの仕組み』都倉義孝、P72
- 『弥生の王国』鳥越憲三郎、P36
- 『日本の歴史①神話から歴史へ』井上光貞、P227
- 『古事記研究』西郷信綱、P75
- 『古墳とヤマト政権』白石太一郎、P86
7章 以後の女帝と女帝中継ぎ論
古代女帝は称徳天皇を以て終焉を迎える。しかしその後もところどころに女性天皇誕生の気運があり、女性天皇は必ずしも忌避されるものではなかった。「1節 称徳以後の女帝」で可能性として存在した女性天皇の例を見ていく。「2節 女帝の終焉」では女性天皇が誕生しなくなった経緯を解説する。その理由は様々な原因が考えられ一つに絞れるものではないが、時代背景として藤原氏の台頭と朝廷の中国化があった。初の臣民皇后となった光明皇后以後、藤原氏が皇后を独占することによって皇族女性が皇后の立場から女性天皇に昇る道が閉ざされた。また平安初期に朝廷の諸制度は次々と唐風化され、女性は政治の表舞台から消えていった。「3節 明正天皇の即位」「4節 後桜町天皇の即位」では数百年ぶりに誕生した明正天皇と後桜町天皇について説明する。性別だけが理由ではないが、二人の女帝即位はそれぞれ大きな問題となり一部で反対運動も存在していた。
「5節 近世の女帝中継ぎ論」「6節 戦前の女帝中継ぎ論」「7節 戦後の女帝中継ぎ論」は江戸時代から現代史学における女帝中継ぎ論を検討していく。近世では一部の学者から既に女性天皇は中継ぎであるという認識が生まれていた。明治以降は学術的にもそれが補強され、現在女性天皇は中継ぎであることは定説となっている。「8節 男性中継ぎ天皇とされる人物」では126代の天皇のうち中継ぎとして即位した男性天皇の実例を見ていく。中継ぎとして天皇になった男帝の数は少なくないものの、男帝の場合は女帝と異なり婚姻制限をされていなかったので、中継ぎの立場を脱するため政治的・軍事的に働きかけ嫡流の地位を獲得していく者も多かった。
1節 称徳以後の女帝
称徳天皇以後、数世紀にわたって女帝は出てこなくなるが、時折女帝が生まれる兆候は存在した。後世の話なので史実とは信じ難いものの鎌倉時代の歴史物語『水鏡』には、光仁天皇が「酒人内親王を皇太子にしたい」と発言した話が伝えられている[1]。酒人内親王の母は、称徳天皇の妹の井上皇后である。
瀧浪貞子は、井上皇后が廃位されたのは光仁天皇を呪詛したからと史書にはあるももの高齢の光仁をわざわざ呪う理由が曖昧であるため、呪詛事件は光仁の廃位を願ったものではなく「井上皇后が女帝になり、息子の他戸皇子が成長するまでの中継ぎになるつもりですよ」という誣告を光仁が信じてしまったという説を唱えている[2]。
12世紀には鳥羽天皇の皇女である暲子内親王(彼女も未婚)が2度に渡って女帝に即位する可能性があった(次項で詳しく述べる)。14世紀には女帝ではないものの、治天の君(天皇家の家長)に西園寺寧子が君臨する事態が起きている。後伏見天皇の女御であった寧子は、姓があることか分かるように非皇族である。皇族ならざる女性が皇室の頂点に立つというのも南北朝時代の皇統の混乱をよく象徴している。
女性天皇候補となった暲子内親王
中世の史書『愚管抄』によれば、近衛天皇が崩御した後の皇位継承候補は以下の四人であった。
当時の治天の君であった鳥羽上皇は、雅仁を「即位の器量ではない」と嫌っており真っ先に外したが、残りの3人からは絞りきれなかった。そこで摂関家に相談したところ「(守仁親王を即位させるにしても)父の雅仁親王がいる以上は先に即位させなければいけない」との返答を得た。上皇は仕方なく雅仁を後白河として中継ぎ即位させた。
暲子内親王が皇位継承候補になったという記事は愚管抄の他に『今鏡』(1170年頃成立)や『古事談』(1212~15年頃成立)にも記載されている。『今鏡』では鳥羽上皇は「女院(暲子の母親の得子)の御事のいたはしさにや、姫宮(暲子)を女帝にやあるべきなどさへ計らせ給ふ」とあり、得子への思いやりから暲子即位を思い立ったことになっている。そのため『保元物語』では「牝鶏之晨(メンドリがオンドリより先に鳴くのは不吉。「転じて女性が政治に口を出してはいけない」という中国の諺)を引用して、得子は鳥羽院政を混乱させた女として指弾されている。しかし当時の暲子は19歳であったが、妹が10代半ばで結婚しているにもかかわらず暲子には婚姻の動きが見られず「未婚の内親王」に留め置かれている。このことから暲子は鳥羽の得子への一時の情念で皇位継承者に挙げられたのでなく、近衛天皇の病弱さに鑑みて女帝候補としてストックされていたものと考えられる。
その後の暲子は出家して女院号を賜り、父母から八条院荘園という莫大な財産を受け継いでいる。『たまきはる』という日記には暲子が皇位継承について後鳥羽を推薦し、後鳥羽が暲子を表敬訪問したという記事がある。この際には暲子も再び皇位継承候補として挙げられており、暲子の存在意義が軽くなかったことを示唆している。結局、暲子が即位することはなかったが即位式用の女性の礼服も用意されており登極の可能性は皆無ではなかった[1][2]。暲子が女帝候補になったということは、古代以降も女性天皇が忌避されていなかったことを意味し、女帝が例外的な存在ではないことを示している[3]。
2節 女帝の終焉
古代に頻出した女帝が以降、数世紀姿を見せなくなったのは様々な原因が考えられる。一つに平安初期に「王の終身性」が否定されたことにある。それまで退位した天皇とその皇后は自動的に「太上天皇」、「皇太后」になっていたが、嵯峨朝以降それらの尊号は新天皇から宣下されるようになった。これにより皇太后から女帝に昇る可能性がなくなった。
藤原氏の台頭と皇族女性の地位の低下
奈良時代末期からの藤原氏の台頭は女帝消滅の大きな要因となった。飛鳥時代では皇族しか皇后(大后)になれなかったため、元妃が政治権力を握り女帝に即位するというルートが存在した。しかし藤原氏が史上初めて非皇族の光明子を立后させ、皇位継承法に転換が起こった。9世紀になると嵯峨天皇の皇后の橘嘉智子のように、皇族でも藤原氏でもない皇后も誕生してきた。淳和天皇の皇后の正子以降は皇后自体がいなくなる。このような状況では朝廷の女性権力者は天皇の母である藤原の娘となり、彼女は藤原氏なので女帝にはなれない。すなわち摂関政治期には政治権力を持った皇族女性が生まれる余地が少なく、ひいては女性天皇が誕生する可能性は低くなった。また9世紀半ばに藤原良房が臣民として初めて摂政になって以後は幼帝を後見するのは藤原氏になり、ますます女帝の需要は下がった。
平安初期は宮廷の女性全体の社会的地位が下がっていた時期であった。光明皇后までの皇后宮は宮城外に設けられ、その経済基盤も天皇とは別に独立していた。しかし奈良時代末から皇后宮は宮城内に取り込まれ、内裏のうちに置かれるようになった。唐風文化の興隆と共に儒教の男尊女卑の思想が広がり、奈良時代までは天皇と並んで男女の官人を治めていた皇后が、キサキたちを含む女官の頂点と位置付けられるようになり、結果として政治世界における皇后の地位は低下していった[1]。
皇后だけでなく女官もまた平安時代以降に社会的位置づけが大きく変わっていく。奈良時代までの日本は女性が公職に就いて政治に深く関与していたことが文献や考古学の成果から判明している。岸俊雄が再現した推古天皇の小墾田宮は、宮門を入ると朝庭があり、その奥に閤門を隔てて大王の居所がある。閤門に入ることができるのは原則として女性のみであり、女帝と蘇我馬子や聖徳太子らの意思交換は、特別な場合を除いて大王側近の皇族女性や女性宮人らを通じて行われた。吉川真司はこの仕組みは推古宮だけでなく、男帝も含め、律令制が成立する以前の普遍的な姿であるとする。
日本の正史、六国史の中で第二の『続日本紀』から第五の『日本文徳天皇実録』までの四冊では女官への叙位が頻繁に記載されている。たとえば聖武朝に陸奥で金山が発見された時、喜びを分かち合うために官人への叙位が広く行われ、女性官吏への叙位も積極的であった。
「男のみが父の名を負い、女は何らかかわりのないものであろうか。双方とも、ともにお仕えすることが道理であると思し召される」
奈良時代には聖武天皇に取り立てられた女官が、出身地の国造に就任することもあった。奈良時代の国造は6世紀のそれと異なり行政権でなく祭祀を司るものであったが、それでも国内における権威は卓越していた。その後の藤原仲麻呂の乱でも孝謙上皇に仕える女官たちがその目覚ましい働きを讃えられ、軍事的功績に与えられる勲位を得ている。
しかし六国史の第六『日本三代実録』(858~887年の国史)では女性への叙位がほぼ記録されなくなる。この時期「女官の名前は明記すべきものではない」という認識が強くなっていったのである。女性は官人登用試験の受験資格が与えられず、文人官僚になる選択肢もなかった。奈良時代では和気広虫や吉備由利などの女官が男性と等しく考課(政務の実績による人事評価)されていたのだが、この時代はそのようなこともなくなった。女性が着る服装も、華美ではあるが機能性が悪く動きづらい十二単になっていく。
六国史の第三『日本後紀』では平城上皇が寵愛する藤原薬子と共に起こした謀反(薬子の変)に対して『書経』を出典とする儒教の諺「牝鶏晨す(メンドリがオンドリより先に鳴くのは不吉。転じて女性が政治参加すると家や国が滅びるという意味)」を引用し、古代の聖王にも劣らないと言われた平城上皇の破滅は女性を政治に介入させたせいであると記されている。『日本後紀』が成立した840年には「女性は政治に携わるべきではない」という儒教倫理が朝廷に定着しつつあった。
「(平城)天皇は心を内寵(薬子)に傾け、政治を婦人に委ねた。『雌鳥が時を告げるようになれば家は滅びる』という。ああ惜しいことである」『日本後紀』逸文 天長元年七月乙未
10世紀になると女性の「名前」すら分からなくなっていく。紫式部や清少納言のような一般知名度の高い女性であっても本名は不明である。名を呼ばれるときも一部の例外を除いて「誰々の女」と、本名で呼ばれることはなくなった。やがて皇族女性であっても名前どころか存在したかどうかすら不明瞭になっていく。
朝廷の公文書は全て漢字を用いるため、政治に携わるためには漢文の素養が必要不可欠であったが、平安初期から女性の漢籍離れが進んでいく。9世紀までには漢籍に通じる女性が男性と同じように国家の中枢で政治に関わる道が存在した。例えば飯高朝臣諸高は地方(伊勢)出身ながらも漢語の知識を活かして女官見習いの采女として奈良の天皇に代々に仕え、最終的に称徳天皇の下で大臣に匹敵する従三位まで昇進して国家機密を扱っている。称徳天皇本人も皇太子時代から漢籍の詰め込み教育を受けており、桓武天皇も娘に熱心な漢文教育を施している。
しかし9世紀中頃から「女に漢文は不要。漢文を読める女は恥ずかしい」という風潮が広まっていく。「女手」と呼ばれた平仮名の発明は女性の漢文離れに拍車をかけ、10世紀後半には漢文学者の娘に生まれ漢文に精通している紫式部が「一」という漢字も読めないフリをし、漢文の知識をひけらかす清少納言に「ことさらに賢ぶって漢字なんか書き散らしている」と批判するほどの社会の雰囲気が醸造されていた。
ただし平安時代以降、女性が全く政治から排斥されていた訳ではない。例えば一条天皇の中宮として、後一条天皇と後朱雀天皇の母后となった藤原彰子は「母后令旨」によって重要案件を裁断するなどしていた。彼女に仕える紫式部らの女房も、奈良時代のように公職には就かなかったものの、藤原実資との取次に勤しむなど後期摂関政治を支える存在であった。また一条朝以降、女性皇族や上級貴族の中に「女院」という称号を授けられ、権威付けられた者もいた。上記の藤原彰子や、女帝候補となった暲子内親王も女院を宣下された女性の一人である。だがその女院も鎌倉時代以降形骸化し、以後の日本で女性権力者は皆無ではないものの、より珍しい存在となった。
朝廷の中国化
また一つに、平安初期は皇室が大きく中国化した時代だった事が挙げられる。天皇家は古来から中華皇帝を目標にしていた。それは日本が中国との同化を目指したものではなく逆に脱中国を図った結果である。中国から「遅れた蛮夷の国」と見下されないために日本は文明化を目指し、当時の最先進国であった中国の文化を取り入れたのである。これは明治時代に西洋列強の植民地にならないために日本が国家のありとあらゆるものをヨーロッパ化したのと揆を一にしている。
中国南北朝期から隋にかけての中国仏教は個人の内面的な信仰である以上に、造寺造塔や出家や写経によって皇帝の長寿と繁栄を願わせることで王権強化を図る政治的な意味合いがあった。推古天皇や聖徳太子が仏教興隆に熱心に取り組んだのも、倭国の伝統的な大王を中国風の皇帝に近づける改革の一環である[1]。飛鳥時代後期からは唐の律令の導入、道教思想に基づいた「天皇」の称号、長安をモデルにした都の建造、『史記』や『漢書』を真似た正史の編纂が推し進められる。奈良時代には諸国郡郷名著好字令で日本全国の地名は唐風の2字に改名された。儒教政治を敷いた淳仁朝では官職の唐風改名が行われ、「イワレヒコ」や「ヲホド」ら初期の大王に、漢籍から引用された「神武」や「継体」といった漢風諡号が送られた。さらに朝廷は日本に儒教を普及するために儒経典『孝経』を天下の家ごとに一部ずつ所蔵するよう命じた[2]。その皇室の中国化の流れが平安初期にますます進展する。とりわけ桓武、嵯峨の親子は中国文化を憧憬しており、嵯峨朝では皇室関連の事物は次々と唐風に改められ、中国の儀式・儀礼が導入された。
桓武天皇は母方が百済系であり「百済王家は朕が外戚なり」と言うほど百済の血統を重視していた。桓武朝では渡来人系氏族が重用され、初の渡来人系の公卿や渡来人系の妃が誕生している。蝦夷討伐で名を上げた坂上田村麻呂も渡来人系氏族である。桓武天皇が積極的に征夷を行った理由は、父の対蝦夷政策の継承という面も持つが、自身を中国皇帝に準え、「中華が夷狄を支配する」との理念上の思いが強かったからと推測される。桓武は天帝を祀る中国の儀式である郊祀を日本で初めて行い、また身分の高い人物の実名を避ける「避諱」を唐から取り入れ、光仁の諱である「白壁」の地を「真髪部」に、自分の諱の「山部」の地を「山」に変更させた。
奈良時代までの天皇は儒教や「礼」のイデオロギーよりは、神話的・氏族制的なイデオロギーの中心にあり、中国の礼制で定められていた服喪(近親者が亡くなった後、一定期間喪に服す儀礼)を、「死の穢れから隔離されるため」という理由でに実施していなかった[3]。しかし桓武天皇は『文章経国思想(儒教的な文化が発達すると国の秩序が定まるという思想)」に影響され、父の光仁が崩御した後、「孝行のために三年は喪に服し政務を見ず天皇祭祀も放棄する」と宣言して臣下を慌てさせている。
桓武の息子の嵯峨天皇は更に皇室の中国化を進めた。ヤマト朝廷での日本の貴人に対する礼法は「匍匐礼(両手を地に着け、四つん這いで進む礼)」と「跪伏礼(両手を地について跪き貴人を拝する礼)」であったが、推古朝で中国を模範とした「文明化」が図られ「宮門を出入りするときは匍匐礼を取るが、朝廷内では中国式に立礼をすること」とし、大化改新後は匍匐礼も跪伏礼も廃止して立ち礼のみにされた。しかし中国式の礼法はなかなか定着せず、以後何度も匍匐礼と跪伏礼の禁止令が出された。 その流れで嵯峨朝で改めて礼法を中国式にせよと法令下された。
更に嵯峨朝では朝廷の儀式、貴族の服装、五位以上の位記が唐風に改められた。また宮殿や門の名も唐風の二字に変えられ、新しい額が掲げられた。大内裏の十二門は大化改新以前の遠い昔にこれらの門を警備していた氏族の名に因んだ由緒ある名前が付けられていた。しかし伝統が捨てられ玉手門は談天門、伊福部門は殷富門、大伴門は応天門、佐伯門は藻壁門などと改名された。寝殿(天皇のプライベート空間)、南殿(内裏の正殿)と呼ばれていた建物も、それぞれ仁寿殿、紫宸殿と中国長安城にある建物の名称に変更された。これらの呼び方は現在の京都御所でも使われている。
天皇、皇族の服装も同様に中国式に「文明化」された。即位式や元旦に臣下から朝賀を受けるときには袞冕十二章(冕服)、その他の儀式では黄櫨染と中国皇帝の衣服を着るよう定められ、それに準じて皇太子や皇后の衣服も唐風にされた。「桓武天皇」で画像検索するとヒットする「延暦寺所蔵桓武天皇画像」が袞冕十二章である(ただし服装規程が出来たのは桓武の息子の嵯峨朝であり、この画も中世後期に作られたもので実際桓武はこの中国皇帝衣装は着ていない)。この時期の中国志向は平安中期以降はなりを潜めるものの、皇室の服装規程は明治初期まで約1000年間維持された。日本民俗学の祖、柳田国男は明治の世に唐風を廃したことに対し「新しい時代の要求に順応して改革された新儀」といって復古主義者を批判している[4]。
また清和天皇も中国の天子七廟を真似て十陵四墓制を始めている。規模で及ばないが、日本でも科挙を真似て血縁に依らず学識に基づいた官人登用試験が8世紀から行われていた。明治維新以前の日本における「学識」とは常に中国思想と仏教思想に精通していることである。その試験では中国の有職故実を引用して政治を語ることが求められた。例えば「儒家や仏家の思想を踏まえて天地の始終を論じなさい」や「宗廟の祭祀(中国の父系祖先祭祀)について答えなさい」といった具合である。
しかし嵯峨天皇らは何もかもを中国風にしたわけではなく、神事の際には日本の伝統的な帛衣を着衣している。この事から当時の天皇は対外的には中国皇帝を目指しつつも、神事の際にはヤマト王権の「オオキミ」であり続けたと考えられる。外装は外国風にしながらも本質的なところは保守的であり、和魂漢才の精神に法っている。
3節 明正天皇の即位
近世には明正天皇と後桜町天皇の二人の女性天皇が誕生している。古代の女帝と比較して、近世の女性天皇即位の経緯は詳細に記録されている。二人の即位にはいずれも一部に強い反対があったが、その原因を女帝の性差のみに原因を求めるのは誤りである。特に明正の場合は女性天皇であることよりも、当時の朝幕関係の緊張に焦点が当てられる。
1629年、約800年ぶりの女帝である明正天皇の誕生は内外を驚かす事件となった。その理由は後水尾が幕府どころかほとんど朝臣にも知らせず、俄に7歳の娘に譲位したことにあった。承久の乱から武家の世になって以降、皇位継承は幕府が統括する習わしになっており、後水尾の行動はそれを無視したものであった。
江戸幕府と後水尾天皇の対立
17世紀初頭、長い戦乱の時代を終わらせた徳川幕府は、禁中並公家中諸法度を定めるなど朝廷との新たな関係の構築を模索していた。しかしそれは天皇にとっては武家による権益の侵害に他ならなかった。特に明正即位と関連づけられるのは紫衣事件という叙任権闘争である。これは明正の父の後水尾が幕府に無断で高僧に紫衣の着用を許した事が問題視されたものである。幕府は皇室の宗教界への影響を減らすことを目的に関係者を流罪に配して後水尾を怒らせた。この事件により幕府が朝廷より優位に立つことがはっきり示された。しかし幕府としては徳川統治の正統性の源泉を皇室に置いていたため、武力による脅しで天皇家を支配していると世間には思われたくなかった。この後に起きる「女帝騒動」とは皇位継承を幕府の管轄に置きたい徳川家と、皇位継承を掌握しておきたい天皇との均衡の中で発生した事件であった。
┌家光 ┌高仁親王(夭折)
徳川家康─秀忠┴和子 ├光融院(夭折)
|──┴明正(女一宮、興子内親王)109
後水尾108┬後光明110
├後西111
└霊元112─……
1608年、すでに天下人になっていた徳川家康は孫娘の和子を政仁親王(後水尾)に入内させる計画を練っていた。徳川の女を入内させ、生まれた子供を天皇にすることで皇室の外戚になろうとしたのである。しかしこの政略結婚は大坂の陣や家康の死などで延期され続け、1618年に再び縁談の話が進むものの後水尾が和子入内の前に他の官女との間に子を儲けていたことが事件化した。幕府は禁裏に「風紀紊乱」ありとして公家の粛清を行う。徳川家から潔癖を求められた後水尾は将軍秀忠を恨み、以後頻繁に譲位を仄めかすようになる。
ようやく後水尾に入内した和子はまず女一宮(明正)を産み、続けて1626年に高仁親王を得た。翌年、後水尾は生まれたての男児に譲位の意向を示し幕府もこれを了承するも、即位の準備を進めていた矢先、高仁は病死してしまう。気を落とした後水尾は娘の女一宮への譲位を図ったが、幕府は「女性天皇は過去にも先例が多く吉例である」と女帝即位を認めながらも、(妊娠中の)和子がまもなく子供を産むので時期尚早であると諫止した。
「(前略)ひめ宮(女一宮)の御かたへ御くらい(皇位)をゆつり(譲り)まいらせられたきとおほしめし候よし、むかしもめてたきためしおほく(昔もめでたき例多く)候まゝ(後略)」徳川秀忠から大納言への手紙
明正即位後に朝廷と幕府の仲介役に立った細川三斎(忠興)の記録によれば、この頃和子以外の腹から生まれた後水尾の子供は間引きされていたという風聞があったという。しかし直後に和子は男児(光融院)を産むが、この幼児は八条宮家に養子に出され皇位継承から外されている。徳川家が外戚となるためには待望だったはずの男児が養子に出されていることから、当時の幕府は外戚政治を行うよりも後水尾との関係改善を目指していたものと推察される。そして、その児童も生後数ヶ月で死んでしまった。
病にも苦しんでいた後水尾は、灸治療を受けるためにも(在位中は「玉体」に傷がつくため灸が使えない)いよいよ女一宮へ譲位する意志を固め、摂家・大臣クラスの主な公家10余人に、女一宮を中継ぎ天皇に立てる是非を諮った。
鷹司信房が「主上御養生の為に、女一宮へ御譲位あるべきかとの事。女帝先例度々の様に承り候間、子細これなく存じ候」と述べているように、先例の多い女性天皇には公家の大方は消極的賛成していたが、烏丸光広は「女帝の儀、先蹤(前例)これ無きにあらずと雖も、頑愚にして覚悟なきに候」と前例を認めつつやんわり反対の立場をとっている。
| 治療目的の後水尾の譲位の是非 | 女一宮(明正)への譲位の是非 | 備考 | |
| 鷹司信房 | ◯ | ◯ | |
| 九条忠栄 | ◯ | ◯ | |
| 二条康道 | △ | せひ(是非)をしらす候 | ひろく御沙汰 |
| 花山院定煕 | ◯ | ◯ | |
| 西園寺実益 | ◯ | ◯ | |
| 日野資勝 | ご養生の儀ごもっとも | ||
| 三条西実条 | いづれもごもっとも | ||
| 烏丸光広 | ◯ | ×(頑愚にして覚悟なきに候) | |
| 今出川宣季 | △ | △ | |
| 中院通村 | ◯ | ◯ | |
| ◯=賛成、△=どちらとも言えない、×=反対 | |||
しかし幕府は後水尾の決意を軽く見て今度は諫止すらせず、代わりに家光の乳母の春日局を派遣して天皇に対面させた。地下(無位無冠)の女が徳川の武威を背景に参内したとあって公卿らは「帝道、民の塗炭に落ち候事に候」と憤慨し、天皇自らも幕府への憤懣を溜め込んだ。後水尾は春日局の参内とほぼ同時に、幕府に関与させず女一宮(興子)に内親王宣下して女帝即位の舞台を整えていく。
「俄の御譲位」事件勃発
春日局との対面から1ヶ月後、後水尾は幕府どころか、明正の母の和子も含めてほとんどの朝臣に知らせないまま興子内親王に揖譲してしまった。これを知っていたのは武家伝奏(幕府とのパイプ役)の中院通村一人だけであり[1]、他の公家たちは恐慌状態に陥った。
幕府側の担当者である京都所司代の板倉重宗も「不慮俄かの御譲位なかなか廃亡言語道断の御事也」と不快感を顕にしている。さらに幕府お抱え儒家の林羅山の「女帝、上代より程久しき事、その上、然るべき例これなし(女性天皇の前例ははるか大昔のことである上に、特に女帝の世が太平だったということがない)」という答申も伝え、女帝を即位させた朝廷へプレッシャーをかけた。
羅山の息子の林我峯は編年史『玉露叢』の中で「本朝は神国」っであって、姫神である「天照大神」を祀り「天津日嗣を萬世まで伝え」てきたが、女性天皇は「久く稀なる御事」なので、後の世で「御外戚の御勢(徳川家の圧力)」で明正女帝が即位したと言われると大変であると心配している。
一時は朝幕関係の悪化が懸念され、後水尾の復位まで提案される。実際に秀忠の怒りは並々のものではなかったが、最終的に幕府は「叡慮(後水尾の意志)に任せらるべし」「姫宮への御位御譲り、是非なし」と穏当に事態を落着させ、幼い明正に代わってしっかり朝政を行うことを摂関家に求めている。幕府から承認を得た朝廷は、明正の即位の儀を着々と進めていった。満5歳の幼子だった明正は儀式の最中も片手に人形を持っていたとされる[3]。
後水尾の譲位の真意は分からないが、幕府側はこれを紫衣事件などを巡って武家が皇室に圧力をかけすぎたせいだと認識していた。しかも後水尾には男児がおらず、明正を「おろし参ら」せて代わりに男帝を即位させることもできなかった。また後水尾を復位させるとなると広域の関係者の処罰が要請され、朝幕関係はさらにこじれることになる。それを避けるため幕府は明正の即位を認めざるをえなかった。鎌倉時代以降、武家が統括するはずの皇位継承が無断で行われたことで徳川家の権威に傷がつき、幕府はこれを教訓に明正の後光明への譲位からはより力を入れて皇位継承を管理・統括している。
幕府による明正政務の否定
こうして成立した明正女帝だが、幕府は彼女を生涯にわたって抑圧した。明正即位後の幕府は、後水尾の権能を極力否定するそれまでの方針を転換し、後水尾に院政を認めて滞っていた官位叙任を正常化させた。明正が15歳で成人すると、後水尾上皇は摂家の九条道房と摂政の二条康道に、明正は「天子御作法(政務)」が可能であるかを諮問している。ここで言う政務は毎朝御拝事や四方拝事などの朝廷儀式を主催する仕事を指し、九条の回答は明らかでないが、二条は女帝の政務は可能であると回答している[4]。
それに伴って朝廷は明正の成人で摂政を関白に変えること(復辟という)を幕府に打診したが、幕府側は家光の体調不良を理由これを延期している。九条道房はこの際に「本来、復辟は11〜15歳で行われるのが習わしであり、15歳というのはおかしい。万事、幕府の承認を得てからでなければ公事が決定できない」と不満を漏らしている。その後、朝廷側が取り下げたのか幕府側が承認しなかったのかは不明であるが、結局復辟は行われなかった。幕府がこの問題に正面から向き合わなかった理由の一つに京都所司代の板倉重宗が、朝廷が復辟という大事なことを事前に幕府に相談もせずに進めようとしたことに不快感を示したことにあった。歴史学者の久保貴子は「史料上で明正が天皇に必須な学問を修めている様子が伝わらないことから後水尾も明正はあくまで中継ぎと考えており、明正が本来の形で天皇の政務を機能させることはなかったであろう。ただ皇位にいる以上、四方拝・節会などの儀式は行った方が良いとの考えがあったのではないだろうか」と推察している[5][6]。
幕府は譲位後の女帝の行動も厳しく制限し、上皇となった明正は新院御所での遊覧も許されず、兄弟姉妹との対面も年始のみ、それ以外は摂関家であってもあってはならないなど禁欲的な生活を強いられた[7]。
「新院御所での遊覧は無用とする。例外として禁裏や仙洞御所、女院御所での遊覧に一同でご覧になるのは良い。兄弟姉妹との対面は歳首(年始)のみとし、それ以外では摂家などであっても対面してはならない。御幸(天子の外出)は仙洞御所や女院御所へは構わず、禁裏や妹の女二宮邸へは、(後水尾)上皇や女院が一緒ならばよい。しかし、たびたびの御幸は控え、御幸の際には院参の公卿二人が供奉すること」
ともあれ明正女帝が生まれたことで、以後の皇位継承で女性皇族が候補に入ってくることになり、明正の甥の東山天皇は明正の即位を「吉例」として5歳の秋子内親王を後継者に指名している。これに対して幕府は東山が長く在位することを希望し、また東山がまだ壮年であることを理由に譲位を承認しなかった[8]。
- 『シリーズ 日本人と宗教 近世から近代へ1 将軍と天皇』「江戸幕府と朝廷」高埜利彦、P7
- 前掲、今谷、P5
- 『日本歴史 840号』「江戸時代の皇位継承」高埜利彦、P30
- 前掲、野村、P279
- 前掲、野村、P130
- 『後水尾天皇』久保貴子、P128
- 前掲、久保、P130
- 『天皇の歴史⑥江戸時代の天皇』藤田覚、P1253
4節 後桜町天皇の即位
弟から姉への「譲位」
明正の即位から約100年後、近世二人目の女帝である後桜町天皇が誕生する。事の発端は緋宮智子内親王(後桜町)の弟、桃園天皇が病で急死したことにあった。突如天皇が不在になるという緊急事態に対処すべく関白近衛内前を筆頭とする摂関家は桃園の死を秘匿したまま協議し、幼年(5歳)であった英仁(後桃園)が「十歳」になるまで、智子
を「暫く御在位」させることを決めた。
近衛内前「未だ(後桃園が)御幼稚に候ゆえ、(叔母の)緋宮御方御(後桜町として)践祚、親王御方十歳ばかりにならせられ候まで、御在位あらせられ候ように、叡意御治定のよし」『御湯殿上日記』
関白らは桃園の遺詔として明正天皇という女性天皇の前例と、後光明天皇が亡くなった際に後西天皇が中継ぎとして即位した前例を持ち出している。その他、智子即位を正当化するために偽造された可能性もあるあるが「(桃園と後桜町の父の)桜町天皇は本来は(弟の)桃園ではなく(姉の)智子に譲位する考えだった」という記事が正親町公明の日記に載っている。
桃園の父の桜町は生前から息子の健康状態を心配しており、「皇統之事」で「子細」が生じた場合についての遺言を残していた。当時の武家伝奏であった久我通兄の日記『通兄公記』によれば、桜町は桃園が「幼年」のうちに問題が生じた場合、閑院宮直仁に皇位を譲るように言っていたとある。久我と共に武家伝奏を務めていた柳原光綱の『柳原光綱卿日記』にもほぼ同様のことが記されており、こちらではもしもの時は「一品宮」に皇位を渡すように言っている。当時、一品の親王は閑院宮の他に有栖川宮職仁がいたので、そのどちらかということになる。すると関白はこの桜町の遺言を無視して女性天皇を立てたことになる。
霊元┬東山─中御門┬桜町┬後桜町
| | └桃園┬英仁(後桃園)
| | └二宮(伏見宮貞行)
| └閑院宮直仁─典仁─光格─……今上天皇
└有栖川宮職仁─織仁
後桜町即位の史学的論点
以上のことから後桜町女帝即位には研究史上の二つの問題がある。
藤田覚は「女帝即位の裏には英仁の健康不安があった。英仁は幼いころから左目の視力がなく、腹部にも出血があった。関白はこのような健康不安を抱えた5歳の儲君がちゃんと成長するのかどうか不安で10歳まで様子を見ようとして中継ぎ天皇を即位させた」と推察している。
野村玄は「後桜町が中継ぎだとしても、あえて不安の多い女帝を立てる必要がない。世襲親王家から男帝を中継ぎに立てればよく、事実、関白が中継ぎの先例として持ち出した後西天皇は世襲親王家の高松宮家の人物であった。摂家衆があえて後桜町を即位させたのは、血統的にかけ離れた傍系よりも直系へのこだわりがあったと考えられる。
傍系宮家といえど後水尾天皇の皇子であった後西と違い、他の世襲親王家は親等が隔たっている上に、将来的に英仁への禅譲が円滑に行われる保証がなく、事実上の皇統変更になってしまう恐れがあった」。また英仁を直接即位させなかった理由に関しては、関白が将来的な皇位継承者の不在に備えて上皇を確保しておきたかった考えられる。摂関家は皇位継承に際して候補者の絞り込み・人選はできても、最終決定権を持っていない。そのため高次の発言権を持った上皇を手元に置いておくために後桜町を英仁の前に即位させたと見られる。この懸念は的中し、後桃園が崩御した後の光格天皇の即位には後桜町上皇が最終的な決定を下している[1]。
石田俊は、当時の儀礼では英仁が即位してしまうと母親が英仁の養育に関与できなくなるため即位を引き伸ばしたと考察している。桃園の没直後、智子(後桜町)と青綺門院(桜町天皇の正配、桃園と後桜町の母)が、英仁の母親である一条富子について、立后宣下を受けた上で薙髪(出家)させたいと考え、関白にそのことを相談した。しかし関白は他の摂関家当主とも話し合って富子は幼い英仁と同居して養育する立場であるので立后宣下も薙髪も延期してほしいと要望した。ここからは富子が英仁が同居して養育することが摂家にとって大きな意味を持っていた点が確認できる。英仁が即位しなかった理由は、ここに求められる。女帝即位に際して摂関家は青綺門院に対し、英仁でなく後桜町女帝が即位することは「(英仁)親王之御為ニも宜」と述べているが、これは母との同居が可能であるという意味と解釈できる。
英仁が母に養育されることの重要性は当時の朝廷構造の変化にあった。近世の皇室では、皇嗣の養育は生母の実家、いわゆる外戚が担うことになっていた。しかし桜町天皇の代から皇嗣の「実母」は、皇嗣が誰の腹から生まれようが父親の正配偶者であると定められた。これにより外戚による政治関与がなくなったものの、幼帝の養育責任者が不在になる問題があった。父親がいれば良いのだが、英仁の父の桜町は既に死去している。その歪みが宝暦事件(尊王思想が弾圧された事件。朝廷内の主導権争いでもあった)という政争を引き起こしていく。そこで摂家はそのひずみを抑えようと英仁と母親を同居させるべく、後桜町を中継ぎ即位させるという選択をしたと考えられる[2]。
「衆議嗷々」する公家たち
桃園の死が隠蔽されていたことで公家たちの間にはさまざまな風聞が飛び交い(「就大変雑説区々」)、女帝即位には様々な意見(「衆議嗷々」)があったと言われる。とりわけ幼いとはいえ現に後継者となる英仁や、二宮(英仁の弟)がいるのに後桜町を立てたことへの批判が多かった(明正即位時には後水尾の子供は女児しかいなかった)。関白から先例を探せと命じられた広橋兼胤は「『幼稚』の親王が受禅した先例は多い。『幼稚』の親王が践祚した事例は上皇がいた。女性天皇の皇位継承は稀にあるが、今回のような事情であったのだろうか?」と書き連ね、ついにその事例を見つけられなかった。
公卿の野宮定晴(定和)は後桜町の即位に「希代の珍事、古今未曾有の事」「古今類なし、ひとえにこれ新儀」「ああ末代王道衰弊の時」「弟帝が姉兄に譲る御事、また未だ聞かず」「心神裂けるがごとく」と最大限に怒りを表している。野宮の怒りは止まらず「現在だけではなく万代の後まで批判は消えない。臣下としてこのことを嘆かないのならば禽獣(ケダモノ)と同じだ。この裏には何か秘密の謀計があるのではないか?」とまで訴えた。
後桜町の政務
このような批判もあったものの、関白は京都所司代を通じて幕府に女帝即位の了解を求める文書を提出した。その文書には明正の前例に従って、女性天皇の場合は関白が摂政になることを記す別紙が付随していた。幕府は「天皇の叡慮に任せる」と問題なく女帝践祚を承認する。桃園天皇の死から幕府の容認までわずか5日のことであった。こうして即位した後桜町は23歳の成人女性であったが、事前の取り決め通りに関白ではなく摂政が補任された。
その後、英仁が成長すると後桃園として受禅するものの皇子なく崩御し、皇統の嫡流は途絶えた。その後、摂関家は閑院宮から師仁親王(光格)を推挙し、後桜町上皇の宸翰(天子の文書)によって最終的な決定が下された[3]。後桜町は光格の後見人として上皇政治を行い[4]、傍系から即位した光格天皇は後桜町から何事かについて天皇としてあるべき心構えの教訓を受け取っていた。その他、後桜町は光格を宮廷の重要な社交の場である「御内会」に参加させるために古今伝授を授けたり、公家たちにも学問奨励指示を出している記録が見られる[5]。
- 『日本歴史 2006年10月号』「女帝後桜町天皇の践祚とその目的」野村玄
- 『日本史研究 618号』「近世朝廷における意思決定の構造と展開」石田俊、P135
- 前掲、野村、P80
- 『京都府埋蔵文化財論集 第5集』「古代の女帝とその背景」上田正昭、P249
- 『光格天皇』藤田覚、P48,192,194
近世の女帝への眼差し
明正と後桜町は女性天皇という点でいくつか男性天皇と異なる特徴がある。
既に述べてきたように、男帝の場合は未成年時には摂政が置かれ、天皇が成人すると関白に変わる。しかし明正は幕府の意向によって成人年齢に達しても摂政のまま据え置かれていた。後桜町は即位時に23歳の成人女性であったが、明正の前例に則って関白ではなく摂政が設置された。
天皇の最も重要な務めは「神事」である。神事は権力者の幕府でも取って代わることができず、神事を行う事が天皇・朝廷の存在意義であった。しかし近世では女性の生理は「穢れ」と見なされ、女性天皇はその大事な神事を安定的に行えなかった。たとえば中世に廃絶した朝儀が多くある中、江戸時代まで続けられていた四方拝という儀式がある。明正が未成年の間は四方拝は開催されず、女帝が成人に達した時に摂関家の間で明正が儀式とどう関わるかが議論された。内大臣九条道房は、古代女帝の先例を元に明正がその場に出るべきだとした上で「御故障」がある際は代理が務めても構わない。節会も「御障り」で出御しないことはあっても、3回に1回は出るべきだとしている。ここでいう「御故障」「御障り」とは単なる体調不良などかもしれないが、月経を指している可能性が高い。
後桜町の頃には朝廷神事の中でも最上位に置かれる大嘗祭が復活していたが、後桜町が女帝故にその日取りの決定が難しかった。大嘗祭の日付は11月の「中の卯の日(2回目の卯の日)」か「下の卯の日(3回目の卯の日)」に行なわれる慣例になっていたが後桜町の「月の御障り」を考慮し、初めの卯の日に設定し、その日が「御障り」になったら後の卯の日に変更するという二段構えの計画が立てられた。即位後も四方拝の場は設けるものの後桜町が出御することはなかった。また毎年の新嘗祭も後桜町は一貫して出御することはなかった。
ただし、このように月経の血を「穢れ」と見なす思想は9~10世紀から顕著になったもので、近世の女帝に特有のものであった。(参照『13章 女性皇族の婚姻』「3節 女性皇族と穢れ」)
また京都の真言宗泉涌寺は「御寺」と称し、天皇家の菩薩寺であった。ここには江戸時代の14人中12人の男性天皇の肖像画が所蔵されており、女帝二人は排除されている。二人とも男児が育った時点で譲位しており、共に中継ぎの役割が明確な天皇であった。
後水尾「女一宮(明正)に御位あづけられ、若宮御誕生のうえ、御譲位あるべき事」『資勝卿記』
関白近衛内前「未だ(後桃園が)御幼稚に候ゆえ、(叔母の)緋宮御方御(後桜町として)践祚、親王御方十歳ばかりにならせられ候まで、御在位あらせられ候ように、叡意御治定のよし」『御湯殿上日記』
ただし女性天皇の性差が必ずしも問題視された訳ではない。後桜町の譲位の宣命では位を譲る理由として自らの「庸質(凡庸な才)」「薄徳の身」を挙げており、「女性の身でありながら」という表現はなかった[1]。
5節 近世の女帝中継ぎ論
近世では朱子学(儒教)が広まったことから女帝、女摂政の否定的主張も多くなる。その中でも注目すべきは水戸光圀が編纂した『大日本史』である。本著は中世では天皇の一人に数えられた神功皇后を摂政へ格下げしている点に特徴があった。大日本史は幕末の尊王運動に影響を与え、やがてそれは日本政府の公式見解となった。現在でも宮内庁は神功を代数に含んでいない。
水戸光圀は安積澹泊や栗山潜鋒といった学者たちに神功皇后論の執筆を命じ、神功皇后を「皇太子を立てたにもかかわらず権力を私した僭位」と結論づけている。
栗山潜鋒「皇后が既に皇太子がましますにも拘らず、七十年にも亙って南面(政治)してゐたのは、僭位といわざるを得ない」「日本書紀が皇后を『摂政』と書したのは卓見であつたが、一紀として建てたことは惜しむべきである」『神功皇后論』[1]
ただしこの決定は神功皇后が女性であることとは無関係であり、澹泊は元明天皇、元正天皇を「君徳を備えた天皇」と高く評価している。推古天皇にも以下のように賞賛を惜しまない。女性君主を認めない儒教に依拠する議論ながらも、必ずしも女性天皇を否定的に評価しない思想が当時あった。
「これ(推古)国朝、女主登極の始なり。帝既に坤則(女の守るべき道)を往時に正し、乾符(天子のしるし)を当宇(謁見の場)に握る。誠に宜しく政令を修挙して、以て祖法の道に遵うべし」
「帝(推古)頗る駕馭(人使い)の道を知る。馬子、葛城県を賜らんことを請うに、帝、詔してこれを拒む。辞直にして理正しく、悪まずして厳なり」
この議論を受けて、儒者で垂加神道家の遊佐木斎は『読神功皇后論問答』や『女帝立否論』を著し、女帝そのものの是非について議論を深めた。木斎は皇位は神孫のみに継承されるがゆえに女帝が即位しても問題ないが、女帝の役割は先帝の男子孫が成長するまでの「中継ぎ」であると捉えていた。だが「女帝は中継ぎ故に即位すべきではない」と女帝を否定した明治の論者と異なり、木斎は女帝を積極的に否定する色が薄い。
「女帝は決して神道の本意にあらざるなり」という主張に対して、木斎は天照大神や神功皇后などの統治の功績を引用して反論していく。木斎の議論は錯綜しており「女帝には問題がない」としつつも「恣意的な女帝即位で天皇への敬意が失われる」と言っている。「女帝をあえて立てるべきではない」と言う一方で将来的な女帝の即位の可能性を認めている。このような矛盾した主張は、儒者の立場から女帝を否定したいが、現実政治の中で江戸時代に女帝は存在する。そんなジレンマの中から生まれたものだろうと推察される。
6節 戦前の女帝中継ぎ論
明治23年(1890年)に小中村清矩は『女帝論』を著し、その中で女帝を三種類に分類した。この分類は現在の女帝論でもよく使われている。
| ①政治事情によって即位した女帝 | 推古天皇、皇極天皇 |
| ②父親の意志に基づいて即位した女帝 | 孝謙天皇、明正天皇 |
| ③皇太子の成長を待つための中継ぎの女帝 | 持統天皇、元明天皇、後桜町天皇 |
旧皇室典範の製作責任者である井上毅も小中村清矩の女帝論自体には強く影響を受けているが、井上は女帝は「皆」③の幼男児の成長を待つための中継ぎであると主張した。これに対し、当時の元老院議員にして歴史学者であった重野安繹は、聖武・光明の女性皇太子の立場から皇位を継いだ孝謙天皇の反例を出し、「皆」を「率子」に変更するよう提案している[1]。
喜田貞吉は女帝は事故がある時にやむを得ない状態の時に誕生するものであるとしつつも、それにしては古代には女帝が大量に出現していることから「男帝の次にはほとんど毎代必ず女帝の立つべき習慣ありて、女帝は普通のこととして、少しも怪しまざりしを見る」と結論している。喜田は男帝と女帝が交互に即位する皇位継承法に則れば天智天皇の次に大友皇子(弘文天皇)が即位したのは不自然であるとして、天智の皇后の倭姫が中天皇(ナカツスメラミコト)として即位したと主張した(参照『6章 女帝中継ぎ論(推古と皇極・斉明)』「5節 仲天皇と中皇命」)。
7節 戦後の女帝中継ぎ論
学術的に女帝中継ぎ論に強い影響を与えたのは、1964年に上梓された井上光貞の『古代の女帝』である。井上は女帝を「古代の本来の女帝」と「律令制の導入によって変質した女帝」の二種類に分類した。古代には皇位継承上の困難な事情がある時に便宜上の処置として皇后が即位する慣行があり、それが本来の女帝である。推古、皇極(斉明)、持統がこれに該当する。これに対して元明、元正、孝謙(称徳)は皇后経験者でない。これは律令制によって父子直系継承が導入され、幼少の直系男児の成長を待つための女帝であった。
井上の女帝中継ぎ論は学会で広い支持を得ると同時に多くの批判が寄せられた。
| 1 | 巫女王の段階 | 卑弥呼、飯豊青皇女 |
| 2 | 巫女王から女帝の過渡期の段階 | 推古、皇極(斉明)、持統 |
| 3 | 女帝の段階 | 元明、元正、孝謙(称徳) |
上田は「巫女王から女帝への転移自体が古代天皇制の変転と密接に関わっており、女帝の即位は偶発的ではなく必然性を持って現れる」と主張する。
小林敏男は女帝が全員中継ぎではなく、推古と皇極(斉明)は中継ぎとは無関係であるとする。また斉明以後の女帝でも皇太子制度が未成熟で、天皇に個人の資質が求められた7世紀には幼帝や統治能力がない者は皇位から排除される論理が働いており、女帝もまた男帝と同様に正統な天皇であってその本質・性格が変更されることはないと述べる。中継ぎ天皇であることが明確な元明天皇の時代にも遷都が行われ、古事記が撰上され、風土記が編纂されるなど国家の重大事業が進行している[1]。
荒木敏夫は男性でも孝徳天皇など中継ぎ天皇は多数存在し、女帝だけ中継ぎ性を強調するのは性差を前提とした理解があると言う。また荒木は推古の例を取り上げて皇位継承争いを緩和するために必要なのは「女」の天皇ではなく、皇位継承に関わらない「第三の立場」の天皇であったと言う。敏達天皇の妃であった推古が即位しても新しい後継者候補が生まれないため、将来的な皇位継承争いの拡大を抑止できる。それゆえ推古は群臣から推戴されたのである[2]。
近年主流の学説は、女帝が頻出した飛鳥時代から奈良時代をキョウダイ継承から直系継承への過渡期とみなし、血統を繋ぐ直系(嫡流)以外を中継ぎの傍系とするものである。既に紹介したものと重複するものもあるが、以下主要学説を並べる。
継体┬欽明(嫡子)─┬敏達(嫡子)─押坂彦仁大兄┬舒明(嫡子)─天智(嫡子)
├安閑(中継) ├用命(中継) └茅渟王┬皇極・斉明(中継)
└宣化(中継) ├推古(中継) └孝徳(中継)
└崇峻(中継)
河内祥輔は「王女(キサキ)を母とする王こそが王位継承の資格に優れ、ヒメを母とする王の継承資格よりも勝るものとされていたのである。王位継承の直系と傍系の区別の根拠をこの婚姻形態のもたらす血統性の差異に求めたい」と考えた。つまり母親の血の貴賤によって嫡子が決定されたという。また王位継承における姉妹を含むキョウダイ継承については直系継承の形成に付随する補助的存在であり、直系の者が年少などすぐに王位につけないとき、その条件の成熟を待つまでの空白を埋めるための役割であるとした。
滝浪貞子は、女帝が即位する第一条件は「所生皇子排除」を原則とする立太子の実現に同意することであったという。つまり女帝はその即位と同時に自分の子の皇位継承権を失い、別の皇族を立太子する必要があった。ゆえに男帝の場合は中継ぎ即位であっても途中で嫡流に取って代わる可能性は残るが、女帝の場合は中継ぎを運命づけられていた。
佐藤長門は、中継ぎ男性天皇は女帝と違い結婚と産児に制限がない点に区別があるとする。女帝中継ぎ否定論は「男性にも中継ぎ天皇は存在した」と述べるが、その例に挙げられている孝徳、光仁、光孝、後白河はいずれも女性天皇とは異なった特徴を持っている。まず孝徳天皇が中継ぎであるとする史料的根拠は乏しく、他戸王への中継ぎとして即位した光仁天皇も結局、他戸への継承は行われていない。自らの子女に賜姓して実子の即位の可能性を絶った光孝天皇の場合も、その死後に実子である宇多天皇が皇籍復帰して即位したことによって計画は成就しなかった。唯一、後白河天皇のみは二条天皇への継承がなされたため中継ぎとして成功したと言えなくもないが、国家や天皇制そのものが変容している院政期の事例を7、8世紀のそれと単純に比較してはならず、またその即位は光仁の場合と同じく、子より父が先に即位する父帝優先の原則に則ったもので、女帝と同列に論じることはできない[3]。
成清弘和は、古代日本の親族形態との関連において王位継承の規則性を求めた。日本律令に支配者層(天皇家含む)の親族形態が父母双系的親族集団と規定されているならば、それは取りも直さず日本独自の親族形態の残存と評価できる。そして女帝が頻出した時期の王位継承を規定しているのは、天智が制定し、天武が改変した直系継承を旨とした『不改常典』であり、そこには中継ぎとしての女帝も存在しえた。その中には中継ぎというより緊急的避難的な女帝の即位も見られるが、同時に父母双系的親族集団に則った入婿による王位の継承といった事象も確認できる。南部昇も同じく女帝の継承を「直系皇位」継承の中の「中継ぎ」の役割を果たしていると考えた。
これらの中継ぎ論に対して官文娜は、中国の夏、殷、周王家の「父子相承(直系継承)」と「兄終弟及(同世代継承)」を比較して、古代日本の王位継承に直系継承は存在せず女帝にも中継ぎの役割はなかったとする。古代中国では嫡子が年少の時に王弟が摂代として立つことはあったが、それは嫡子が成長した際に譲位することとセットであった。翻って日本の飛鳥時代には生前譲位の慣行がなく推古と斉明はそれぞれ聖徳太子と中大兄皇子が成人しても終身天皇の座に居続けた(皇極は孝徳に譲位しているが、即位時の孝徳は50歳であり次世代への中継ではない)。ゆえに女帝は直系継承における中継ぎの意義を持っていない。「皇位継承争い緩和としての女帝中継ぎ」という一般的理解も、推古崩御後に皇位継承争いは起きており、争いの複雑化を防ぐ役割を果たしていない。
8節 男性中継ぎ天皇とされる人物
長い歴史の中で中継ぎとして即位した男性天皇の数は少なくない。しかし女性天皇と違い婚姻制限をされていない男性天皇は中継ぎの身を脱しようと政治的・軍事的に働きかけ、その結果子孫に皇位を繋いでいることも多い。
以下に示した例の他に、篠川賢は31代、32代の用命、崇峻天皇は「仮に即位した中継ぎであった」と見ており[1]、遠山美都男は大海人皇子(天武)は天智と同母兄弟のため本来は即位できず、母親の出自が低い39代弘文天皇は、天武系と天智系の両方の血を受け継いでいる草壁皇子や大津皇子が成長するまでの中継ぎであったと主張している[2]。また鎌倉後期から始まった両統迭立時代は正統(嫡流)と中継ぎが目まぐるしく入れ替わり、中継ぎ天皇の定義を「即位時に、その子孫には皇位継承しない予定だった」とするならば、89代の後深草から南北朝が合一するまでの天皇の大半が中継ぎということになる。
27代 安閑天皇、28代 宣化天皇のケース
仁賢天皇─手白髪皇女
|────────欽明29
継体26 |────敏達天皇
|───┬宣化27─石姫皇女
尾張連草香─目子媛 └安閑28
遠縁から即位した継体天皇は嫡流の仁賢娘の手白髪皇女を嫡妻とし、手白髪との間に生まれた欽明天皇を「嫡子」に定めた。『日本書紀』によれば欽明は幼かったためまず二人が天皇となり、その後は欽明が天下を治めたとある。
「この方(欽明)が嫡妻の子であるが、まだ幼かったので二人の兄(安閑、宣化)が国政を執られた後に、天下を治められた」『日本書紀』
ただし安閑も「太子」とされており「嫡子」欽明と矛盾していることから、その史実性を疑う向きもある。(参照『10章 継体天皇の即位』「6節 継体即位の前後」「欽明天皇は「嫡子」だったか」)
36代 孝徳天皇のケース
乙巳の変で蘇我宗家が滅んだ後、皇極は19歳だった息子の中大兄に譲位を申し入れたが断られたので、皇極の弟の孝徳が受禅した。その即位年齢は50歳であった。孝徳の死後は孝徳の息子の有間皇子でなく斉明が重祚し、次の代には中大兄が天智として即位した。孝徳の有間は謀反を唆されて中大兄に殺されている。
49代 光仁天皇のケース
高野新笠
|──桓武天皇50─……
┌───────天智38─施基───光仁49
| |──他戸王(廃嫡)
┴天武40─草壁─文武42─天武45┬井上内親王(廃后)
└孝謙46(称徳48)
奈良時代は天武-草壁の血統が重要視されており、称徳の代で草壁男系の血が途絶えたため女系で草壁の血を繋ぐよう光仁は井上と結婚し、他戸親王が即位するまでの中継ぎとして即位した。しかし他戸は陰謀により母親と共に廃され、後には桓武が登極した(参照『5章 女帝中継ぎ論(持統〜称徳)』「3節 孝謙(称徳)天皇の中継ぎと道鏡事件」「光仁天皇の即位と天武-草壁系皇統の断絶」)。
58代 光孝天皇のケース
陽成天皇が摂政の藤原基経によって退位させられた後、幼年だった貞保や貞辰の成長を待つまでの中継ぎとして光孝天皇が55歳の高齢で即位した。光孝は実子に皇位継承させないために子女をほぼ全員臣籍降下させた。しかしその後、基経の意向によって源定省が皇籍復帰し、宇多として即位した(参照『4章 十一宮家皇籍離脱の経緯』「4節 古代の臣籍降下と宇多天皇の即位」)。
64代 円融天皇のケース
村上天皇が嫡流と見込んでいたのは冷泉の統であった。しかし冷泉には奇行が目立ち、しかも病がちであったので乳幼児だった冷泉の子(花山)が育つまで、一代限りの中継ぎとして11歳の円融天皇を即位させた。当時は外戚政治が盛んであったが藤原氏は中継ぎの円融に娘を入内させることはなく、円融が成人しても藤原の女が副臥(元服した男子に、妃候補の女性が添い寝する風習)することはなかった。
冷泉天皇
|─花山天皇
藤原師輔┬伊尹─懐子
├兼家───詮子
| ⇅対立 |
└兼通─媓子 |─一条天皇─……
| |
円融天皇
しかしその後、朝廷の実力者の藤原伊尹が死んだことで村上や冷泉の影響力が薄れ、皇位継承の方針に翳りが生じ始める。円融は一代限りの身から脱却しようと、弟の藤原兼家より出世が遅れて焦っていた兼通と手を組み、兼通の娘の媓子を中宮(皇后)にすることで新たな皇統創設を画策した。それは半ば上手くいくが、媓子との間に後継者の皇子が生まれることはなかった。兼通の死後、兼家も遅ればせながら円融に娘を入れて一条天皇を儲けた[3][4]。
72代 白河天皇のケース
11世紀後半に即位した後三条天皇は、母が藤原氏ではないため外戚から解放された存在であった。後三条は藤原氏に介入されない皇位継承を目指し、息子の白河に譲位した際に非藤原氏の母から生まれた2歳の実仁親王を皇太弟に立てた。後世史料ではあるが14世紀頃成立の『源平盛衰記』には実仁に何かあった時には同母弟の輔仁親王が後を継ぐという遺詔もあった。
しかしその後、実仁が15歳で早死にすると、一年の空白を開けて白河が皇太子にしたのは遺詔にあった輔仁でなく自分の息子の善仁であった。さらに白河は即日譲位して善仁を堀河天皇として即位させた[5]。
77代 後白河天皇のケース
藤原璋子 ┌崇徳75 ┌高倉80─……
|───┴後白河77┴二条78─六条79
鳥羽74 |
|───┬──────姝子
藤原得子 ├暲子(女帝候補)
└近衛76
院政期、鳥羽上皇が正統(嫡流)と考えていたのは近衛天皇であった。近衛が重病になった時には、近衛の息子が生まれるまで二条に中継ぎさせる計画もあったが、結局、近衛は子亡くして17歳で崩御してしまう。そこで鳥羽は次善の正統として二条を選び、近衛から二条へ皇位を継承させようとした。いずれにせよ鳥羽は後白河の存在を無視しており、「後白河は天皇の器ではない」と言うほど毛嫌いしていた。
近衛の死後、暲子内親王を女帝にするという案もあったが、関白の藤原忠通の「現存する父からまず即位させるのが順当である(父帝優先の原則)」という献策によって後白河が中継ぎ天皇として即位した。後白河は中継ぎで、二条こそが近衛から皇位を受け継いだ正統天皇である証として、二条は近衛の同母妹の姝子内親王を皇后にした[6]。
95代 花園天皇のケース
後嵯峨88┬後深草89─伏見92┬後伏見93┬光厳①─┬崇光③─……
| └花園95 └光明② └後光厳④─……
└亀山90─後宇多91┬後二条94─邦良親王
└後醍醐96─後村上97┬長慶98
└後亀山99
鎌倉時代末期、皇統は後深草系(持明院統)と亀山系(大覚寺統)が交互に天皇になる両統迭立状態にあった。二つの皇統はそれぞれ自らが正統であると自負し、皇位の独占を狙っていた。互いに早く自分の統に皇位を戻したいがために相手に譲位を迫ることを繰り返したため、この頃の天皇は幼くして即位し若くして譲位することが多かった。自分の統に後継者が用意できないと相手に皇位を独占されてしまうため、ワンポイントリリーフとして中継ぎを頻繁に出さなければいけなかった[7]。
花園天皇の兄の後伏見が譲位したのはわずか14歳で、元服も済んだばかりで子供はまだいなかった。皇位は大覚寺統の後二条に移されるが、その後の持明院統には正統後継者がいないため花園が中継ぎとして皇太子となった。その後、後伏見に嫡子の量仁親王(光厳天皇)が生まれると、花園は甥の量仁に熱心な教育を施した。譲位に関する日記も皇位への未練は見られず、淡々としている[8]。
96代 後醍醐天皇のケース
大覚寺統も状況は同様であった。大覚寺統の正統後継者候補とされたのは後二条の息子の邦良親王であったが、邦良は病弱であったため中継ぎとして後醍醐に急遽玉座が回ってきた。後宇多は息子の後醍醐を「一代の主」として即位させるため立太子にいくつか条件を付けた[9]。
一方で後宇多は後醍醐の子の継承権を完全には否定せず、場合によっては即位することもありえると書いている。河内祥輔は「大覚寺統が皇位を独占するために後継者候補が欠けることはあってはならず、邦良系だけでなく後醍醐系にも皇位継承の可能性を認めておかなければならなかった」と分析している[10]。
後醍醐が期待された役割はあくまで邦良のリザーバーであったが、後醍醐はこれを拡大解釈して自らが正統になるために討幕の兵を挙げ、以後長きにわたる南北朝時代の動乱が始まる。
北朝2~3代 光明、崇光天皇と4代 後光厳天皇のケース
治天の君であった光厳天皇の構想していた皇位継承順は弟の光明→息子の崇光→従兄弟の直仁親王であり、元々は光明と崇光は一代限りの中継ぎであった[11][12]。光明は院政を敷く兄の意向に従って政治に深く関わることもなく、粛々と崇光に譲位した[11]。崇光も父の光厳から「皇位や所領について自分の子孫が継承するのは崇光までで、崇光の死後は花園の嫡子の直仁に皇位を継承させ、皇統を花園の系統に戻しなさい」と命じられ、崇光もそれに従って即位後に直仁を皇太子に定めた。
花園は光厳の学師ではあったものの、それだけで花園に皇統を移すのは異常である。なぜ光厳が自分の子孫でなく直仁を選んだのかは明確には不明で、板倉晴武は「直仁は花園の子でなく光厳の隠し子であった」と推察し、家長遵嗣は「直仁の生母の正親町実子が足利尊氏の遠い親戚だったためその関係を重視した」との説を唱えている。
しかし政変によって光厳、光明、崇光の三上皇および直仁は南朝に拉致され、予定されていた皇位継承は破綻する。後に残された北朝には正統な継承者もなく、即位を命じる上皇もおらず、即位に必須とされた三種の神器もなかった。そこで北朝の群臣たちは西園寺寧子(光厳と光明の母)を治天の君に定め、約850年前の継体天皇を前例にして「群臣推戴」という形で後光厳天皇を即位させた。非皇族の女性に命じられ三種の神器もないまま登極した後光厳天皇は、長い天皇家の歴史の中でも最も権威のない即位となった。
その後、軟禁から解放され京都に戻ってきた光厳上皇は所領および(嫡流の証とされた)琵琶と文書を崇光の系統に留め置き、後光厳をあくまで緊急避難的中継ぎ天皇として扱った。だが後光厳は父親の決定に反発し皇位を自らの息子(後円融)へ継承させた。光厳の死後も互いに自らが嫡流と自負する後光厳系と崇光系の間で皇位継承争いが長く続けられていくことになる[13]。(参照『3章 世数と皇位継承』「4節 伏見宮家の誕生」「後花園天皇の即位」)
111代 後西天皇のケース
嫡流と目されていた後光明は子供がいないまま22歳で病死してしまった。生前、後光明は霊元を養子にする意向を持っていたため後継は霊元に定まったが、当時の霊元はまだ生後4ヶ月の乳児であったので後水尾上皇が「後西を中継ぎに立てて、霊元が14,15歳になったら譲位させてはどうか」と提案した。幕府との相談の上でこの案が通り、後西天皇が誕生した。
後西天皇は後水尾の八男であり、兄が全て出家していたため消去法的に高松宮(後の近世四親王家の一つ、有栖川宮)を継承していた。そのため天皇になる訓育は受けておらず、幕府も後西が「御作法よろしからざれば」いつでも霊元に譲位させよと釘を刺している[14]。
- 『物部氏』篠川賢、P207
- 『古代日本の女帝とキサキ』遠山美都男、P128
- 『王朝時代の実像1 王朝再読』「冷泉朝・円融朝初期政治史の一考察」沢田和久
- 『平安朝の女性と政治文化』「兼通政権の前提」栗山圭子
- 『王朝時代の実像15 中世の王家の宮家』松薗斉、P15
- 『天皇の歴史04 天皇と中世の武家』河内祥輔、新田一郎、P32
- 『中世の王家と宮家』松薗斉、P58
- 『歴代天皇紀』
- 『後醍醐天皇』兵藤裕己、P18
- 『天皇の歴史04 天皇と中世の武家』河内祥輔、新田一郎、P172
- 『光明天皇に関する基礎的考察』石原比伊ロ、P115
- 前掲、松薗、P121
- 『北朝の天皇』石原比伊呂、P62
- 『天皇の歴史06 江戸時代の天皇』藤田覚、P88
8章 崇神〜仁徳天皇の継承
「1節 崇神天皇の実在性」では10代天皇、崇神の物語と実在性について検討する。現在の歴史学では神武から9代 開化までの初期天皇は実在せず、御肇国天皇(ハクニクシラススメラノミコト)、すなわち「初めて国を治めた天皇」という意味の異名を持つ崇神天皇こそが実在した可能性がある実質的な皇室の始祖というのが現在の定説である。前代の大王たちと比べて輪郭がはっきりしている崇神であるがその事績は多分に神話的であり、それがそのまま事実であったとは考え難い。よって崇神伝承はヤマト王権が奈良盆地の祭祀権を掌握していった行程を物語したものと考えられている。また崇神は四人の皇族将軍を四方に派遣して逆らうものを討伐させた「四道将軍」伝説を持つが、こちらに関してもヤマト王権が地方勢力を征討していった数世紀にわたる長い期間の戦いを物語化したものとされる。
15代 応神天皇は伝承の上でも考古学的にも画期が見られる人物であった。そのため戦後には、大陸から来た騎馬民族が畿内に入り天皇になったという騎馬民族征服説や、九州勢力が東漸してそれまでの崇神王朝を倒して新しい王朝を打ちたてたとする三王朝交替説が唱えられた。現在の史学では騎馬民族説や王朝交替説はほぼ支持されていないが、物語上、応神は始祖王として描写され、また父の仲哀より母の神功皇后との結びつきが強いこともあり、現在も応神に関連する系譜には疑いが投げかけられている。「2節 三王朝交替説」「3節 応神天皇の実在性」ではそれらの論点に関する議論を解説する。
神功皇后は応神を妊娠したまま海を渡って新羅を服従させたという「三韓征伐」伝説を持ち、近代まで日本初の女帝として扱われた人物である。その物語もやはり極めて神話的である上に朝鮮史料との矛盾が多いため、数世紀にわたる倭国の朝鮮攻略の史実を伝説化したものと考えられている。神功は応神の母系ではあるが神功を除いて応神天皇を語ることはできない。「4節 神功皇后伝承の考証」では皇后の史実性を詳細に見ていく。
┌───────(間4代)─────神功皇后
| |──応神15
開化9┴崇神10─垂仁11─景行┬ヤマトタケル─仲哀14
└成務13
逐次、記紀伝承を紹介していくが全文を掲載すると煩雑になるので、適宜こちらのサイト(「古代日本まとめ」
)を参照してもらいたい。
1節 崇神天皇の実在性
歴史人物は「実在した」と「実在しない」の二分論では論じられないこ。例えば「崇神天皇が実在した」とは「ミマキイリヒコイニヱ(崇神の和風諡号)と呼ばれる人物が存在した」のか「(記紀の崇神伝承にあるように)神祇祭祀制度を確立し、四将軍を各地へ派遣した王が存在した」のか「記紀の年代観に検討を加えた時期に、日本列島を支配した王が存在した」のか、いずれの意味か不明である[1]。よって実在したか、実在しなかったかでなく、個々の伝承を考察し、その史実性や伝承の由来を検証することが肝心である。
崇神以前と以後
記紀の記述で、崇神天皇までの天皇と崇神以後の天皇には以下のような大きな違いが見られる。
- 欠史八代と呼ばれる2代〜9代の8人の天皇は、系譜(帝紀)に載っているだけで、治世にまつわる歴史物語(旧辞)がほぼ存在しない。これに対して崇神以後の天皇には旧辞が揃っており、事績が伝わっている。
- 『古事記』の崩年干支(天皇が死んだ年の暦)の記載は崇神天皇から始まっている。
- 崇神天皇は御肇国天皇と呼ばれ「初めて国を治めた天皇」と称されている。よって神武天皇は神話上の初代であり、崇神は実在した初代の大王として崇拝されていたものと見られる。
崇神伝承の検討
『日本書紀』の崇神伝承は神託を通じて神々と対話する神話物語が展開される。その中で崇神は天照大神を笠縫邑に祭司し、大和の地霊(土着)神である倭大国魂神を祀り、疫病の流行を引き起こしていた大物主神を三輪山に崇めた。
遠山美都男は「崇神紀」の記述は創作性が高く崇神天皇は実在の人物ではないという。崇神が天照大神、大国魂神。大物主神を祀ったという伝説は史実ではなく「大王家がヤマト地方の祭祀権を掌握し、宗教的平定をした」という理想の歴史象である。
また崇神の和名「ミマキイリヒコイニヱ」は「ミマキ」、「イリヒコ」、「イニヱ」と3つに分解できる。「ミマ」は「貴人の末裔」の意味で、「キ」は墳墓を指す「奥つ城」である。よって「ミマキ」は崇神紀に出てくる箸墓のことと思われる。「イリ」は「憑り付く」の意で「イリヒコ」はシャーマン男性を指す。「イニヱ」は不明瞭だが「贄(神々への献上品)」と語感が近い。すなわちミマキイリヒコイニヱという名は箸墓の物語、シャーマンとしての神々への託宣物語、神々への奉献物語と3種の神話から構成されており、造作された疑いが濃厚となる。
稲荷山鉄剣銘の意冨比垝(オオヒコ)と『日本書紀』の大彦命(オオヒコノミコト)
崇神の実在性と関連するものに、稲荷山古墳出土鉄剣銘(参照『11章 古代日本の社会構造』「稲荷山古墳出土鉄剣銘文」)がある。鉄剣銘に見える「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」は雄略天皇(オオハツセノワカタケ)を指し、また「意冨比垝(オオヒコ)」は、崇神天皇が派遣した四道将軍の一人「大彦命」と名前が一致している。系譜では大彦命は孝元天皇の息子で、崇神天皇の叔父である。
稲荷山古墳出土鉄剣銘に記されたオワケの系譜
意冨比垝(オオヒコ)─多加利足尼(タカリノスクネ)─弖已加利獲居(テヨカリワケ)─多加披次獲居(タカハシワケ)─多沙鬼獲居(タサキワケ)─半弖比(ハタヒ)─加差披余(カサハヨ)─乎獲居(オワケ)
「(崇神は)大彦命を北陸に遣わした。武渟川別を東海に遣わした。吉備津彦を西道に遣わした。丹波道主命を丹波に遣わした。そして、(崇神)天皇は「もし、吾が命を受け入れない者がいたら、武器を用いて討ち取れ」と詔した。四人に印綬を授けて将軍に任命した」『日本書紀』
もし鉄剣銘にある意冨比垝が書紀の大彦命と同一人物であるならば、大彦命とその血縁者である崇神の実在性が確証できることになる。
「意冨比垝」と「大彦命」が同じ人物かは議論が分かれている。「オオヒコ」は「オオ」+「ヒコ」という普通名詞的な名前であり、偶然名前が一致した可能性も十分考えられる。例えば『皇太神宮儀式帳』には川俣造らの遠祖として「大比古」の名が見えるが、これもまた「オオヒコ」である。これに対して圧倒的多数の研究者が鉄剣銘の「意冨比垝」を「大彦命」に比定している。その根拠として名前が一致することに加えて、両者の活動していた年代がほぼ同じであることと、大彦命の後裔氏族(阿倍氏や膳氏など)は東国(武蔵国)と深い関係を有することが挙げられる。下の表にあるように世代的にも近似し、年代的にも仮に一世代を30年とすると(「世」という漢字の語源は「三十」である)意冨比垝の活動時期は西暦230~260年である。一方の『古事記』によると崇神の崩年干支は258年であり一致する。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
| ワカタケル(雄略) | 允恭 | 仁徳 | 応神 | 仲哀 | ヤマトタケル | 景行 | 垂仁 | 崇神 |
| オワケ | カサハヨ | ハタヒ | タサキワケ | タカハシワケ | テヨカリワケ | タカリノスクネ | オオヒコ |
しかし記紀の年代が史実と認められるか疑問が残る。4世紀代の日本で暦が使われていたどうかも不明である上に『日本書紀』と『古事記』の二書で崩年干支が一致する天皇は安閑、用命、崇峻、推古の四人にすぎずその四人も日付は一致しないことから崩年干支が史実に基づくものとは必ずしも言えない。さらに『古事記』で天皇が崩御した日付は古事記に登場する13人全員が3日~15日の中に含まれている。これが偶然である確率は約0.00002%に過ぎず、動機は不明であるが造作されたものと考えられる[1]。
さらに大彦命の子孫や末裔の氏族には鉄剣銘にある名前と近しいものが確認できる。たとえば大彦の孫に田心命(タゴリノミコト)という人物がいるが、鉄剣銘にある「タカリノスクネ」と、それぞれ尊称を除いた「タゴリ」と「タカリ」で名前が似ているとも言える。また阿倍氏の豊韓別(トヨカラワケ)も鉄剣銘の「テヨカリワケ」に比定でき、両者ともオオヒコの孫という点でも一致する。鉄剣銘のタカハシワケは個人名ではないが、阿倍氏傍系の膳氏が改名して高橋朝臣を名乗っていることと一致する。タサキワケもやはり氏族名であるが佐々貴山君(ササキヤマギミ)に近しい。「ハタヒ」に関しては『日本書紀』欽明紀に『膳臣巴提便』という名前がある。大彦の子孫である「巴提便」は「ハテビ」と読めるはずだが、書紀の古訓は「ハスヒ」である。完全に一致しないものの近いものがある[2][3]。
| 鉄剣銘の8代 | 比定される人物・氏族 | 備考 |
| オオヒコ | 大彦命 | |
| タカリノスクネ | 田心命(タゴリノミコト) | 大彦命の孫 |
| テヨカリワケ | 豊韓別(トヨカラワケ) | 大彦命の末裔の阿倍氏の人物。大彦命の孫。 |
| タカハシワケ | 高橋朝臣(タカハシアソン) |
大彦命の末裔の膳氏が本拠地の名前から改姓した氏族名 |
| タサキワケ | 佐々貴山君(ササキヤマギミ) | 大彦命の末裔の氏族名 |
| ハタヒ | 巴提便(ハテビ?) | 膳氏出身の人物。書紀では「ハスヒ」と読まれる |
| カサハヨ | ||
| オワケ |
また系譜では人物の尊称が「ヒコ」→「スクネ」→「ワケ」と変遷しているが、これは記紀の系譜に見られる敬称の変遷と一致している。「ヒコ」、「スクネ」、「ワケ」号を持つ人物は記紀に頻出するが、そこ分布には偏りがある。「ヒコ(彦)」は10代崇神〜21代雄略まで、「スクネ(宿禰)」は10代崇神〜15代応神に多く23代顕宗で見えなくなる。「別(ワケ)」は12代景行〜38代天智に見られ、それぞれ鉄剣銘の敬称と時代的に矛盾がない[4]。
意冨比垝(オオヒコ)の実在性
しかし大彦命と意冨比垝がそれぞれ実在の人物とは限らず、よって崇神の実在性は証明できないという反論も存在する。
古代では複数の氏族が架空の先祖(多くは神武から応神の間の初期大王の皇子)を共有することで同祖系譜を作成し、血縁に依らない擬制親族集団を構成していたことが判明している。溝口睦子は、記紀。9世紀の『新撰姓氏録』・『先代旧事本紀』に掲載された豪族系譜と鉄剣銘の系譜を比較し、両者は以下のようにその構造や特色が極めて似ていることを指摘した[1]。
- 系譜は、神話・伝説的部分と現実的・歴史的部分という異質な二つの部分からなっている。
- 豪族の始祖は、四道将軍の一角である大彦命のように、日本建国伝説上の著名な人物である。
- 神話・伝説部分は複数の氏が先祖を共有する「同祖構造」を持っている。
- 氏族の職掌の起源が、大王への「奉仕」の形式で語られることが多い。
- 二つの異質な部分の接点あたりを境にして、人名の表記に変化が見られる。
3に関して大彦命は『日本書紀』では7氏族の始祖となっており、9世紀の『新撰姓氏録』ではさらに増えて38氏に上っている。その中には吉志や難波忌寸など渡来人系の氏族も含まれている[2][3](参照『12章 記紀の歴史叙述』「6節 同族系譜の思想』)。5に関して鉄剣銘の8人はタサキワケとハタヒの間に名前の変化が見られ、系譜の接続の痕跡が確認できる(参照『10章 継体天皇の即位』「1節 『上宮記』の史料批判」「上宮記系譜の分解と意富々等」)。よって古代豪族系譜で史実として信頼できるものは本人の父や祖父などの下部分のみになる。
オオヒコ─タカリノスクネ─テヨカリワケ─タカハシワケ─タサキワケ─↙︎
─ハタヒ─カサハヨ─オワケ
鉄剣銘文でいえば「オオヒコ-タカリノスクネ」と「テヨカリワケ-タカハシワケ-タサキワケ」が実在しない共同祖先系譜にあたり「ハテヒ-カサハ-オワケ」が実在する人物だと考えられる。「オオヒコ」という名前は貴人男性を意味する尊称「ヒコ」に美称の「オオ」を冠しただけのシンプルなものであって、一族の始祖としては一般的なものである。
仮にオオヒコが孝元天皇の子供であれば「オオヒコノミコト」「オオヒコノ君」「オオヒコノ王」などという表記になるはずである[4]。またオオヒコが孝元天皇の息子なのは記紀を確認して初めて分かることである。オワケがワカタケル(雄略天皇)と同族であるならば、血統の正統性を示す大事な系譜なのに銘文に孝元の名前が現れていないのは不自然である[5]。
よってオオヒコは史実上の人物でなく、崇神天皇の実在性を保証するものではない。
- 『日本古代史族研究叢書⑦阿倍氏の研究』大橋信弥、P127
- 前掲、大橋、P1263
- 『古事記研究』西郷信綱、P100
- 『稲荷山古墳の鉄剣を見直す』「一一五文字の銘文が語る古代東国とヤマト王権」小林敏男、P101
- 『直木孝次郎古代を語る3神話と古事記・日本書紀』直木孝次郎、P206
大彦命(オオヒコノミコト)の実在性
先述したように崇神天皇は大彦命ら四人の皇族将軍を四道に派遣したという伝承を持つ。しかし記紀ともに戦闘など具体的叙述が見られず、特定の歴史的事件の反映を見るのは困難である。
戦前の津田左右吉は、四道将軍伝承は「四方経略(東西南北を攻め取り、天下を統治する)」という概念によって作られた物語であるとした。『古事記』には崇神に派遣された武渟川別が大彦と「往き遭った」ことからその地が「相津(会津)」と名付けられた書かれているが、これも7世紀中盤のヤマト王権のエミシ経略の反映であると考えられる。井上光貞は津田説を受けて崇峻天皇(6世紀末)が近江臣満や宍人臣雁、阿倍の臣を東海道や北陸道に派遣して蝦夷や越などの国境を視察させた史実が崇神の四方将軍派遣伝承成立の背景になったと論じた。
上田正昭は、崇峻が臣下を派遣した地域は崇峻期以前から倭国家権力が強く浸透した地域であることから、この伝承は段階的に形成されてきあたと見るべきであったとする。米沢康は、伝説そのものが史実でなく6世紀以降の史実の反映があることを認めた上で、伝承の核となる古代伝承があることを指摘し、それは元々は個別的であり大彦伝説もその一つであり、それが崇峻のような史実を踏まえ、さらに崇神朝を内外平定の世とする記紀構想によって四道将軍伝説がまとめられたと考えた[1]。塚口義信は、大和朝廷の先兵となって各地を転戦した3世紀後半から4世紀代の武将をモデルに、5世紀後半にオオヒコ伝承の原型が作られ、後に潤色・改変されて8世紀の日本書紀の四道将軍の伝承に定着していったと推察している。
大橋信弥は、会津の地名起源譚はヤマトタケルの物語と同工異曲であり、四道将軍伝承は王権史の構成の要請から「ハツクニシラススメラミコト(初めて国を治めた天皇)と呼ばれた崇神が「四方」平定し国土統一したという事績を語ったものとした。『古事記』では語られていない西道の逸話を『日本書紀』で付加して「四道」にしているのはそういう意図を明確に語るものである[2]。
ただし四道将軍の物語は全くの机上から生まれたものでなく、別個に成立していた古い所伝を増補・合成して生まれたものというのが定説である。記紀成立は8世紀初頭であるが、四道将軍伝説の原型はかなり早くから見られ、470年代に倭王武が中国に朝貢した際の上奏文は以下のようにある。
「昔より祖禰(先祖)が躬ら甲冑を擐き(着て)山川を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。北の海を渡りて平らぐること九十五国」『宋書』倭国伝
ここでは皇室の「祖禰(先祖)」が東と西と北を平定したことが語られており、皇族将軍が四方を攻め取った四道将軍伝説と同じ構造である。朝鮮の史書にも3世紀以降頻繁に倭の攻撃を受けたことが書かれており、大和朝廷による征服戦争が律令制成立の時点まで断続してあったことは歴史的事実と認められ、その史実を元にした四道将軍の伝承の祖型となった物語郡が5世紀の宮廷で語られていたことが分かる[2][3][4]。
- 『日本書紀研究 第十四冊』「初期大和政権とオオビコの伝承」塚口義信、P167
- 『f日本古代史族研究叢書⑦阿倍氏の研究』大橋信弥、P253
- 『日本国誕生の風景』角林文雄、P126
- 『記紀神話伝承の研究』泉谷康夫、P153
- 「初期大和政権とオオビコの伝承」塚口義信、P173
2節 三王朝交替説
| 1代 神武〜9代 開化 | 実在しない |
| 10代 崇神〜14代 仲哀 | 崇神王朝、三輪王朝、古王朝、イリ王朝 |
| 15代 応神〜25代 武烈 | 応神王朝、河内王朝、中王朝、ワケ王朝 |
| 26代 継体〜今上天皇 | 継体王朝、越前王朝、新王朝 |
戦後、皇室タブーが解禁され「万世一系」に対する史学的研究が始まった。その一つとして大きなインパクトを学会に与えたのが水野祐の三王朝交替説である。ここでは神武から開化を実在の人物ではないとした上で、仲哀天皇と応神天皇、武烈天皇と継体天皇の間に系譜的断絶があるとして、崇神〜仲哀を古王朝(イリ王朝、三輪王朝)、中王朝(ワケ王朝、河内王朝)、新王朝(越前王朝)の三つの王朝が古代に存在したと論じられた。
王墓築造場所の移動現象
王朝交替論で重要な論点とされてきたのは、王墓群の築造地域の移動現象である。初期の大王墓は大和盆地東南部に集中するが、やがて大和盆地北部へ移動する。古墳時代中期には奈良を離れて大阪平野の河内と和泉に古市古墳群、百舌鳥古墳群が形成される。大王墓は大王の本拠地か本貫地(氏の発祥の地)であり、大王墓の移動は王位継承集団が変わったものと考えられる。更に墓に埋葬される威信財(鏡や甲冑)の内容が変化することも王朝交替説を説明している[1]。
初期ヤマト王墓の移動
奈良盆地の東南部(大和古墳群、柳本古墳群など)→奈良盆地の北部(佐紀古墳群)→大阪の河内(古市古墳群)と和泉(百舌鳥古墳群)
ただし「墓は本貫地(本拠地)に営まれる」という原則が当時存在したかは明確でなく、考古学者の間でも議論が分かれている[2]。また奈良盆地東南部の古墳群(大和古墳群、柳本古墳群)と大阪平野の古墳群(古市古墳群、百舌鳥古墳群)は大和川で結ばれており「大和川流域」という括りで見れば一体と呼ぶことも可能である[3]。
皇族の名前の変化
古代皇族の和名も応神天皇の代で何らかの画期があったことを示している。応神の和風諡号はホムダワケであり、それ以前で実在した可能性があり、イリヒコの名を持つ崇神天皇(ミマキイリヒコ)や垂仁天皇(イクメイリヒコ)とは名前の構造が異なる。一方で「ホムダワケ」は、応神以後の仁徳天皇(オオサザキ)、履中天皇(イザホワケ)、反正天皇(タジヒノミズハワケ)と名前の構造が等しい。崇神の血統に「イリ」の名を持つものが多く、応神の王統に「ワケ」の名を持つものが多いことから、古王朝をイリ王朝、中王朝をワケ王朝と呼ぶ。更に歴代天皇で漢風諡号に「神」を持っているのは神武天皇と崇神天皇と応神天皇の三人だけで、それら全員が新王朝の始祖とされる人物である[1]。
崇神のミマキイリヒコや垂仁のイクメイリヒコイサチには「イリ」の名前が入っている。日本書紀と古事記では「イリ」の名を持つものは27名登場するが、そのうちの24人(崇神の直系子孫が20人、崇神の兄弟の直系子孫が4人)が崇神朝から、崇神の孫の景行朝の間に出てくる。例外の3人中2人は神話時代の人物であり、実質的に「イリ」の名を持つものはこの時期に限定されているため「イリ」が後世の造作とは考えづらい。よって先述した応神入婿説では「イリ」は崇神の系統を示すものであり、イリが見えなくなる応神の代で崇神系統から応神系統に変わったと考えられる。
イリ系譜
ミマキイリヒコ(崇神)┬イクメイリヒコ(垂仁)┬イニシキイリヒコ
├トヨキイリヒコ ├─────────────フタヂノイリヒメ
├トヨスキイリヒメ ├ワカキニイリヒコ |──┬ヌシノイリヒメ
├ヌナキイリヒメ └オホタラシヒコオシロワケ(景行)─倭武 └仲哀─応神
├トヲチニイリヒメ |──────┬イホキイリヒメ
├ヤサカイリヒコ───ヤサカイリヒメ ├イナセイリヒコ
└オホイリキ ├タカキイリヒメ
├ワカキイリヒコ
├イサキイリヒコ
└オホキイリヒコ
|─ホムダノマワカ┬タカキノイリヒメ(応神妃)
シリツキマワカ └ナカツヒメ(応神妃、仁徳母)
崇神の直系でないイリ系譜
開化┬崇神
└ヒコイマス┬ヤツリノイリヒコ
├イリネ
└タニハノチヌシ┬ヌハタニイリヒメ(垂仁妃)
└アザミニイリヒメ(垂仁妃)
「イリ」の意味ついては郎女(イラツメ)や郎子(イラツコ)と同じだと言う説(本居宣長説)や、皇子・皇女の中で特に天皇が宮中に入れて自ら養ったものがイリヒコ・イリヒメだという説がある[2][3]。
始祖王 応神天皇
応神天皇は皇室の第二の宗廟と言われる八幡宮の祭神として古くから敬われていた。宗廟とは祖先崇拝の施設であり、応神は伊勢神宮のアマテラスと並んで「皇室の始祖」として信仰されてきたことになる。
現在、全国には約四万の八幡宮が存在し、その本家が大分県の宇佐八幡宮である。宇佐八幡の史料での初出は奈良時代の『続日本紀』と古く、道鏡事件で「天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ」と神託したことでも知られる。宇佐八幡宮は祭神に誉田別尊(応神)、息長帯姫命(応神の母の神功皇后)、比売大神を祀っているが、このうち比売大神は他の八幡神社で異同があり、応神の父の仲哀や、応神の息子の仁徳天皇、あるいは神功伝承に現れる宗像三女神や、神武天皇の母の玉依姫に代わっているのに対し、応神と神功はどの八幡宮でも必ず奉賽されている。これは八幡信仰の原型が宇佐の地に古くから存在した「母神が御子神を産むと」いう地方的母子信仰にあり、それが皇統の神功-応神と結びつき、二柱を祭神とした信仰形態へと代わっていったことに起因する[1]。
記紀の記述でも応神天皇が「始まりの王」として描写されていることは複数の専門家が指摘している。
伝承によれば神功皇后は応神を妊娠したまま新羅を平定し、九州で応神を出産した。しかし二人が畿内に戻る最中、応神の異母兄弟の香坂王と忍熊王が反乱を起こしたため、皇后はこれを鎮圧しなければならなかった。菅野雅雄は、九州で生まれたばかりの応神が母の神功に抱かれて都のある畿内へ向かう様子は、アマテラスが生まれたばかり孫ニニギを日向(九州)へ降臨させる天孫降臨神話に類似してると指摘している。また九州から倭へ向かう途中に香坂王と忍熊王の反乱を鎮圧しつつ入京する姿は、九州から敵対勢力を討ちながら為政の地を求めて東征した神武東遷伝説と同じ話の構造である[2]。
西郷信綱は、神が妊娠中の皇后の腹の子(応神)を指して「すべてこの国は皇后のお腹においでになる御子の治むべき国である」と言った神託と、アマテラスがニニギを天孫降臨させた際に授けた「葦原の中心の国は我が御子の治むべき国である」の神託と類似性を指摘している。ただし西郷はニニギの天孫降臨が大嘗祭における王の模擬的な誕生であるのに対し、応神は現に仲哀の妃が妊むところの子をいっており安易に両者を重ね合わすのはまずいと結論している[3]。
また神功皇后の項で詳述するが、応神天皇は神と神功皇后の間に生まれた「神の子」であった。神によって母親が処女懐胎して英雄が生まれるという始祖王生誕伝説は洋の東西を問わず存在する。
応神天皇入婿説
記紀の系譜
王朝交替説の派生として井上光貞は応神の大叔父の成務天皇、応神の父母の仲哀天皇、神功皇后の実在性は認められないとした上で、応神天皇入婿説を唱えた。この3代の和風諡号は成務は「ワカタラシヒコ」、仲哀は「タラシナカツヒコ」、神功は「オキナガタラシヒメ」であるが、この「タラシ」という名称は、舒明天皇の「オキナガタラシヒヒロヌカ」、皇極天皇の「アメトヨタカライカシヒタラシヒメ」などタラシの名を持つ天皇が多く存在する7世紀以降の造作だと考えられる。『隋書』に日本の天皇について「その王は多利思比孤」とあるように「タラシ」は飛鳥時代の天皇の一般的な称号であった。
塚口義信は「タラシ」の称号は日神信仰、日の御子思想に関係があることを突き止め、「タラシ」の敬称が生まれたのは日神伝説の全体が纏ってきた推古朝以降とした。直木孝次郎は仲哀天皇の名「タラシナカツヒコ」は普遍的な敬称の「タラシ」と「ヒコ」を取ると「ナカツ」が残る。つまり仲哀天皇は崇神血統と応神血統を中つために創作された「中継ぎ天皇」であると解釈した[1]。
成務、仲哀天皇に関する事績は極めて少なく、仲哀の父が伝説上の人物であるヤマトタケルであることも二人の実在性を低くしている。よって井上は実際の系譜を以下のように再現し、応神天皇がナカツヒメを娶って入婿したと主張した。
崇神天皇─垂仁天皇─景行天皇─五百木之入日子命─品陀真若─中日売
├─オオサザキ(仁徳)
ホムダワケ(応神)
中日売(ナカツヒメ)もまた崇神血統と応神血統をナカツ(中継ぐ)存在であった。このように二つの異なる血統を女系継承によって結ぶことをナカツヒメ婚といい、他に継体系譜などに見られる[3]。この説に則ると、仁徳天皇は実際は女系天皇であるが、後世に系譜を父系で繋げるためにヤマトタケル伝説や神功皇后伝説が生まれた。そのためヤマトタケル周囲の系譜には混乱が多く、『古事記』では景行天皇がヤマトタケルの曾孫(つまり自分の4世子孫)を妻にしたり、ヤマトタケルの母親が5世代も前の孝霊天皇の孫だったりと事実とは考え難い親族関係が形成されている。
景行天皇─ヤマトタケル─若建王─須売伊呂大中日子王─迦具漏比売命
|
景行天皇
孝霊天皇┬孝元天皇─開化天皇─崇神天皇─垂仁天皇─景行天皇
| |───ヤマトタケル
└若健吉備津日子┬────────────伊那毘大郎女
└吉備健日子(ヤマトタケルの従者)
また『播磨国風土記』では「成務天皇の時代に、景行天皇が印南別嬢を娶った」とあるが、成務の時代にはその父の景行はすでに死んでいる[5]。さらに神功皇后は朝鮮遠征に行く際に子供が生まれないように鎮懐石をぶら下げて15ヶ月妊娠した末に応神天皇を出産したという到底現実的ではない逸話を持つ(神功皇后の実在性については後述する)。
吉井巌は、崇神、垂仁の血統にイリヒコ・イリヒメの名称をもつ人物が多く、しかもその称をもつ人物は応神以後に現れないことに着目してイリを持つ人物の実在性は高いと考えた。よって実際の系譜は以下のようになり、応神天皇はタカキイリヒメを娶って入婿したとする。こちらにしても仁徳天皇は女系天皇となる。
応神天皇
├──仁徳天皇
「タラシ」号
天皇の名前で「タラシ」が見えるのは飛鳥時代以降だが、「タラシ」という称号自体は古くから日本で使われていた痕跡がある。応神の曽祖父の景行天皇は、遠征中に「鼻垂」と「耳垂」という「妄りに名号を仮り」た敵対勢力と出会っている。この二人の名にある「垂」とは、天皇の名前に用いられる「タラシ」と同じものと考えられる。坂元義種は「統一国家が成立する前の日本では、クマソタケルやイヅモタケルのような「タケル」が各地方にいたように、鼻垂や足垂のような「タラシ」もまた存在していた。しかし景行の伝承が示す通り、その頃にはヤマト朝廷はその存在を認めない歴史的状況になっていた」と述べている。
「タラシ」は古事記では「帯」、日本書紀では「足」の字で統一されている。平安時代の神道書『古語拾遺』では「帯」について「小治田朝(推古朝)に至るも太玉の胤、絶えざること帯の如し」と記述され「帯(オビ)」とは連なり、垂れ下がっているもの。すなわち皇位が連綿として継続している意味と解釈している。これに対し坂元は「帯」には天孫降臨神話が背景にあるとし、「天から垂れてきた尊貴の血筋」と解釈した。日本書紀の「足」は「満足」、「充足」などの熟語から理解できるように「十分に満ち足りている」という意であり、天皇に備わる徳性を称えたものとも考えられる。
河内王権論
応神新王朝説(河内新王朝説)をさらに発展させたのが直木孝次郎である。直木は以下の根拠から応神から新王朝が始まったと主張した。
まず応神-仁徳と武烈の史書での描写のされ方がある。『日本書紀』では武烈天皇は「妊婦の腹を裂いた」など、漢籍から引用された数々の暴虐エピソードが挿入されているが、これは「王朝の終わりには暴悪な君主が現れる」という中国の儒教主義的・徳治主義的歴史思想に基づいて創作された物語と解釈できる。『古事記』には武烈の悪虐が載っていないこともそれを傍証している。一方で河内王権の創始者である応神-仁徳は王朝の創始者にふさわしく「聖帝」として描写されている。仁徳には有名な「民の竈」のエピソードをはじめ多くの聖帝逸話があり、応神は具体的な物語こそないものの書紀に「立居振る舞いに不思議にも聖帝の兆しがあった」とやはり聖帝として扱われている。このように聖帝として扱われる天皇は応神-仁徳の前後には見えない。つまり聖なる天子の応神-仁徳によって新王朝が始まり、暴虐の武烈によって王朝が終わるという思想がはっきりと現れている。
また記紀で各豪族の始祖が出てくるのは、ほとんど全員といって良いほど神代・神武〜応神の間である。以下の表[1]は『古事記』と『日本書紀』で各氏の始祖が現れる時期を示しているが、古事記では172/176氏族が、書紀では73/80氏族が神武から応神の間に自らの始祖を置いている。神代も含めるとその割合はさらに増え、記では200/204氏族、紀では93/111氏族となる。これは「応神以前は氏族の始祖が現れる時代にふさわしい神話的世界だ」という思想が当時あったことが理由だと考えられる。
| 古事記 | 日本書紀 | |||||
| 皇系氏族 | 非皇系氏族 | 合計 | 皇系氏族 | 非皇系氏族 | 合計 | |
| 神武 | 21 | 8 | 29 | 0 | 10 | 10 |
| 綏靖 | 0 | 1 | 1 | 1 | 1 | |
| 安寧 | 3 | 0 | 3 | 0 | 0 | 1 |
| 懿徳 | 3 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 |
| 孝昭 | 16 | 0 | 16 | 1 | 0 | 1 |
| 孝霊 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 孝元 | 30 | 2 | 32 | 7 | 0 | 7 |
| 開化 | 23 | 0 | 23 | 0 | 0 | 0 |
| 崇神 | 3 | 2 | 5 | 2 | 2 | 4 |
| 垂仁 | 18 | 0 | 18 | 2 | 2 | 4 |
| 景行 | 21 | 1 | 22 | 13 | 4 | 17 |
| 成務 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 仲哀 | 0 | 2 | 2 | 0 | 2 | 2 |
| 神功 | 0 | 7 | 7 | |||
| 応神 | 7 | 2 | 9 | 4 | 14 | 18 |
| 仁徳以降〜 | 3 | 1 | 4 | 3 | 4 | 7 |
| 合計 | 156 | 20 | 176 | 35 | 45 | 80 |
また古代天皇の即位儀礼として難波の淀川河口でミソギをする八十島祭が行われていたが、その慣例は難波が新しい政権の起こった地であることを示唆する。イザナギ、イザナミの国産みは最初に淡路島、次に四国を作ったことから分かるように大阪湾で行われており、応神王朝の本拠地と合致する。さらに万葉集の大伴家持は以下のように、難波(河内)の都が神代の昔から創始せられたことを感慨に耽っている。
くわえて仁徳朝の五世紀以降に有力になった大伴、物部、中臣などの豪族は河内に関連のあるものが多い。たとえば大伴連の本拠地は摂津国住吉郡から和泉にかけての地域、物部連は河内国渋川郡一帯の地、中臣連は河内国河内郡のあたりというように難波周辺ばかりである。彼らは最初に大和に生まれ河内に進出したのでなく、逆に河内に本拠地があったのが大和に入ったものと考えられる。
王朝交替説への反論
現在、水野祐の王朝交替説をそのまま評価する学者はほとんどいない。王朝交替が起きたとされる仲哀天皇と応神天皇、武烈天皇と継体天皇の間に大きな軍事的衝突が起きた形跡はなく、新大王の治世下で前代の政治体制がほぼ保存されている点も新王朝成立といった大きな政治的変動が起きていなかったことを示す。ただし王朝交替がなかったことは、古代大王家で男系継承が続いていたことを必ずしも保証しない。
王朝交替説は大王家にそれ以前から男系世襲制度が存在することを前提とした学説であり、その前提が崩れた場合、男系血統の断絶と政治的断絶は別の問題となる。応神天皇や継体天皇が簒奪者でなく、前王朝の大王の娘を娶って正統に大王位を継承した人物であったとすると、政治的変動の痕跡が残ることはない。現在の有力学説は大別して以下の2つに分かれ、中国の易姓革命のような大きな政治変革が起きたという可能性はほぼ認められていない。また後者の説でも連続説と新盟主説で分かれる。
- 初期のヤマト王権には父系世襲原理が存在せず、諸豪族の中で実力を認められた者が入婿、あるいは擬制親族関係を通じて王位を受け継いでいた。
- 初期のヤマト王権には既に父系血統原理が根付いており一貫して父系継承が行われていた。
前者の説をとる場合、応神の子の仁徳天皇、継体天皇の子の欽明天皇などが女系天皇ということになる。
門脇禎二は、王墓が奈良盆地から大阪の河内に移動したのは、大和の勢力が河内地方に進出し、河内平野の大開拓事業を主導したことが原因であると考えた。平野邦雄も王朝の画期の意味を対外的契機による王権の質的変化に求めても十分説明がつくとして王朝交替説を否定する。河内王朝と呼ばれる応神王統の場合も、史書に「河内に宮を定めた」とあるのは河内王朝(応神〜武烈天皇)12代のうちわずか3人のみで、始祖の応神の皇居は『古事記』では「河内大隅宮」ではなく奈良の「大和軽島明宮」であり、ヤマトとカワチは一体的に扱われている。平野は「古代には父系-男系による万世一系の系譜は成立していないはずであり、それを否定しようとする新王朝説は、逆に万世一系を前提としていて承引できない」と結論する[2][3]。
白石太一郎は「初期倭王権の王墓は大和古墳群、柳本古墳群、箸中古墳群、鳥見山古墳群と呼ばれる4つの古墳群に分かれて営まれていた。古墳群はそれぞれ別個の血縁集団が営んだものと想定されるので、初期大王は記紀に見られる男系世襲制とはおよそかけ離れたものであった。初期大和王権の本貫地(本拠地)は河内と大和(奈良盆地南部)を結ぶ大和川領域であり、大和から河内への王墓の移動は盟主権の移動であり、王朝の交代といった性格ではない」「古墳時代末期から中期にかけて王墓が築かれた奈良盆地北にある佐紀古墳群は大和川領域ではない。王墓が移動する以前の佐紀には大型の古墳が存在せず、傍系の王統に盟主権が移ったとも考えづらい。よってこれは男系継承が未成熟な段階で王墓の築造地が母方の外戚の本貫地に移った可能性がある」と述べる[4][5]。
岡田精司は「三輪系王統(崇神系統)はその権力機構や統治機構の実態が不明確であり、またその権力が未成熟であるため王朝と呼べるか疑問である。河内大王家(応神系統)と近江大王家(継体系統)への継受についても、継体天皇は前の政権における大連などの執政官や、伴造などの官僚機構もすべて前政権の宮廷組織・人民支配機構をそっくりそのまま継承しており、血統においても前の大王家の王女を妻とすることによって入婿の形で継承者となっている。よって河内大王家と近江大王家を『王朝』として区別しうるものなのか疑問が残る」としている[6]。
- 『古墳時代の国家形成』下垣仁志、P237
- 『日本の歴史②倭人争乱』田中琢
- 『日本古代史と応神天皇』直木孝次郎、P62
- 『古墳とヤマト政権』白石太一郎、P110
- 『古墳から見た倭国の形成と展開』白石太一郎、P185
- 『古代の地方史3 畿内編』P66
3節 応神天皇の実在性
伊藤博は『古事記』(上中下の三巻構成)が応神天皇条を以って中巻が終わり、仁徳を以て下巻が始まる理由を「応神を遠つ世の殿の天子、仁徳を近つ世の初頭の天子とする時代区分」と考え、応神を虚構の存在としている。
- 記紀において通常の天皇は(皇位継承に特殊な事情のある者以外は)父祖の天皇の条下に出生記事が記されている。しかし応神天皇の出生記事は父の仲哀条に存在しない。
- 応神母の神功皇后の伝説が生まれたのは天武朝かそれ以後と考えられるが、応神即位以前の物語に応神独自の伝承はなく、神功の物語と共に語られている。つまり応神の伝承も天武朝以後に神功伝説の創出と共に付加されたものと考えられる。
- 『古事記』では神功皇后の子供は「ホムヤワケ、オホトモワケ、またの名をホムダワケ(応神)」と、オホトモワケ=ホムダワケ(応神)となっている。このことから元々は応神と神功皇后は無関係で、後世にオホトモワケの別名としてホムダワケ(応神)が結び付けられた可能性がある。
- 応神天皇の即位以後の物語は、応神の後継者が本拠地にしていた河内・摂津(大阪平野)のものが少なく、応神以前の天皇が本拠地にしていた大和地方(奈良盆地)に関するものが多い。
吉井は応神天皇の存在を「難波に本拠を持つ新しい王朝の初代天皇としてすでに仁徳天皇があり、応神はさらにその上に重ねられた天皇である」と結論づける。応神の伝承を生み出したのは継体天皇であり、仁徳王朝を受け継いだ継体が、自らが仁徳王朝と同格の血統であることを誇示するために仁徳の先代に応神を創り出した。応神が冠したホムダワケの名は大雀(オオサザキ、仁徳天皇)の別称か、仁徳王朝の支配者たちを呼ぶ代々の通称であると考えられる。
応神仁徳同一人物説
吉井説を受けた直木孝次郎は、応神天皇を単純に架空の人物とするのでなく、応神、仁徳の親子は元々1人の天皇であり後世に二人に分かれたと考えた。その根拠として以下のように述べる。
品陀(ホムダ)は応神であり、大雀(オオサザキ)は仁徳である。この歌の冒頭「品陀の日の御子である大雀」は本居宣長が考えたように「応神の皇太子である仁徳」と解釈するのが通例である。しかし応神と仁徳が親子であるという先入観から離れて歌を読めば「品陀の日の御子(大王)」は応神そのものを解すことができる。つまり歌では品陀と大雀は同一人物として扱われている[1]。
- 『新撰姓氏録』にある酒部公の伝承に「仁徳の時代に兄曽々保利と弟曽々保利の兄弟が朝鮮半島からやってきた」とある。一方で『古事記』の応神天皇の段に「須須許理という人物が朝鮮からやってきた」とある。曽々保利(ソソホリ)=須須許理(ススコリ)は同一人物とすると、応神と仁徳の時代が一体に扱われている[2]。
- 『日本書紀』の応神紀にある「枯野の物語」と『古事記』の仁徳の段にある物語は、全体として同じ話である[3]。
- 応神以後の大和朝廷では、皇族の名前や宮の名前を由来として名代・子代という部(直轄地)が設定されていく。たとえばオオサザキ(仁徳)のためにはサザキ部、磐余稚桜宮にいた履中のためにはイワレ部、タジヒノミツハワケ(反正)にはタジヒ部などである。しかし応神にはその名に因む部は存在しない[4]。
- 仁徳天皇の黒日売と、応神天皇の兄媛の物語など二人の叙述には類似点が見られる。
- 『日本書紀』では痴情の絡れによる悲劇が頻繁に起きている。しかし応神と仁徳が一人の女性(髪長比売)を争ったエピソードは珍しく穏当に決着している。これは二人が元は同一人物であったと考えると辻褄が合う。
- 応神系統の天皇はホムダワケ(応神)をはじめ、イザホワケ(履中)、ミツハワケ(反正)とワケがついている。しかしオオサザキ(仁徳)にはワケがついていない。これはオオサザキがホムダワケの別名だと考えると自然である[5]。
- 『日本書紀』は実在が不確かな初期天皇も含めほぼ全ての大王の陵の場所を語っているが、唯一応神の陵は場所を記さず不審である。『古事記』には応神陵の場所は「河内の恵賀の裳伏の岡」とあり、それに従って現在は誉田陵が応神陵に指定されているが、複数存在する『古事記』の写本のうち卜部家の系統のものには「御陵在河内恵賀之裳伏[百舌鳥陵也]岡也」という分注が加えられている。現在の誉田陵が大阪府羽曳野市にあるのに対して百舌鳥古墳群は堺市にある。そしてこの百舌鳥古墳群には仁徳天皇陵こと大山古墳が存在する。本居宣長は「このような注は後世の人のいたずらであり、問題になることではない」としている[6]。
古代史の権威である直木孝次郎の唱える応神仁徳同一人物説は一時有力学説となったが、直木は後にこれを翻し、応神は崇神王朝に入婿して即位したが、その仁徳の母親(中日売)は崇神王朝と血統的に繋がっておらず、仁徳は崇神朝と男系でも女系でも無関係であるとした。『日本古代史と応神天皇』直木孝次郎
4節 神功皇后伝承の考証
応神は物語の観点では父の仲哀より母の神功の方が繋がりが強い。神功皇后の伝承は神託によって夫を失い、応神を妊娠したまま海をわたって新羅、百済、高句麗を屈服させ(三韓征伐)るなど神秘的な描写に彩られている。朝鮮側の史料を突き合わせて神功伝説を検討すると、その大部分は空疎であり史実性に欠けるものである。一方で日本は神功が実在したら生きたであろう4世紀の何百年も前から朝鮮半島に軍事的進出しており、神功伝説に歴史的背景があったことは確実視されている。
三韓征伐の史実性
『日本書紀』では神功紀の中に邪馬台国の女王、卑弥呼の描写がある。書紀編纂者は皇后を卑弥呼に比定したため、4世紀の人物である皇后を卑弥呼の時代に合わせるため干支を2周(120年)ないし3周(180年)古く記述している。皇后の三韓征伐伝承は朝鮮側の史料を踏まえて検討すると非常に矛盾が多く、また記紀の中でも多くの齟齬が見られる。
書紀の中で神功皇后は神がかりし「海の彼方の新羅を討て」と仲哀に託宣した。しかし仲哀は海外に人が住んでいる土地があることを信じなかったため祟り殺されてしまった。しかし倭国は仲哀以前の崇神、仁賢の時代から新羅と外交関係を結んでおり、仲哀がそれを知らないのは不可解である。神話時代まで遡ればスサノヲが新羅の蘇尸茂梨にいたという伝説も存在する。中国の史書にも倭国が弥生時代から外交していたことが記されている。これは時間軸とは逆に仲哀紀が先に生まれ、その後に崇神や垂仁の伝承が生まれたためと考えられる[1][2]。
さらに伝承では神功が新羅を降したことで、百済と高句麗は勝つ見込みがないことを知り、以後朝貢を絶やさないことを誓った。しかし神功が即位(称制)して46年目に「東の方に日本という尊い国があることを聞いた」百済王が使節を出し、降伏から45年以上経った47年にようやく朝貢して日本の群臣を感激させたとある。これは神功の親征説話と47年の朝貢記事は元々独立した物語として成立したことを示している[3]。また皇后に降参した新羅王は「阿利那礼河が逆流しない限り日本に朝貢を絶やさない云々」と神功に誓っている。阿利那礼は現在の漢江と見られるが、これは4世紀には新羅でなく百済の領土である。漢江が新羅の領土になったのは6世紀のことであり、後世的な地理知識で物語が構成されている[4]。
神功が服属させた新羅王の名は『日本書紀』では「波沙寝錦」、書記の一書(異伝)では「宇流助富利智干」となっている。しかしいずれにせよ該当する新羅王は新羅史書『三国史記』に登場しない。寝錦は新羅の古代王号「尼師今」と同音の異訳であることから、ハサムキンを新羅五代王の「波婆尼師今」に比定する説もあるが、この波婆尼師今は伝説時代の人物であり実在可能性はなく、在位も西暦80~111年と神功のいた4世紀とは200年以上もかけ離れている。よって神功が屈服させた新羅王が実在したとは考えられない[5]。一書の宇流助富利智干に関しては『三国史記』には249年に、倭人が新羅の大臣の「舒弗邯于老」を殺したとある。名前前半の舒弗邯は官職名であり、「于老」と宇流助富利智干の「智干」は同語であり同一人物と考えられる。舒弗邯于老は3世紀の人物である上に大臣であって新羅王ではないという食い違いがある[6]。
以上に述べたように古い情報や新しい情報が錯綜する三韓征伐伝承であるが、日本が4世紀以前から朝鮮半島に圧力を加えていたことは事実である。その根拠の一つに好太王碑がある。好太王は391~412年に在位した高句麗王であり、碑によれば好太王が即位した年に倭が海を渡ってきて百済・新羅などを「臣民」にしたという。碑には「倭人その国境に満ち、城池を潰壊し、新羅を民と為し」とあることからも日本の圧迫が強力であったことが窺える。碑によれば高句麗は新羅の求めに応じて倭を攻撃して一進一退のせめぎ合いをしていた。これは書紀で皇后が新羅を倒し、その皇威に敬服した高句麗が自ら服属してきたという記述と矛盾するものである[7]。
好太王碑に記される朝鮮半島での倭軍の動き
| 年次 | 出来事 |
| 391年以降 | 倭が朝鮮半島で軍事活動 |
| 399年以前 | 倭が百済と同盟を結ぶ |
| 399年 | 倭が新羅を攻める |
| 400年 | 高句麗が新羅を救援し、倭兵を追撃する |
| 404年 | 倭が半島西岸を北上し、帯方界に侵入して大敗する |
また日本史料と朝鮮史料で一致するところもある。『日本書紀』には人質としては新羅からハサムキン王の息子ミシコチハトリカンキがやってきたが、謀をして母国に逃げ帰ったという。三国史記にこれと似た記事があり、ナフツ王の子で倭への人質となっていたミシギン王子が新羅の忠臣によって倭を騙して帰国したとされる。ミシコチハトリカンキのうちハトリカンキは爵位のことなので、それを除いたミシコチとミシギンは音が通じ、これは実際の事件を根拠にしている可能性がある。しかし『三国史記』でミシギンが逃亡したのは5世紀初頭の418年のことであり、皇后の時代を合わず、仮に史実であっても皇后の新羅遠征とは無関係のことであったと見られる[9]。
皇后に朝鮮に派遣された将軍の葛城襲津彦は大陸から桑原・佐糜・高宮・忍海らの工人を連れ帰ったとある。これに関して7世紀後半の工房跡である飛鳥池遺跡より出土した木簡に渡来系工人の「佐備」の名前が見え、神功紀の一部が史実であることが考古学的に確認される。また伝承で百済王が神功に献じた七枝刀は、石上神宮に伝わる七支刀であることが確実である。
記紀が成立した奈良時代には神功皇后伝説が畿内だけでなく広く伝承されていたことが知られている。現在の福岡県の説話を集めた『筑前風土記』にも気長足姫尊(神功皇后)が大三輪の神を祭り新羅を平定されたとあり、筑紫の大三輪社の鎮座由来を語っている。奈良時代には新羅との関係で摩擦が多く、新羅平定伝承を持つ神功皇后の信仰的存在感が強かった。たとえば737年には新羅が礼儀を欠いていることを告げるため、伊勢神宮や大神社に並んで神功皇后を祀る筑紫の住吉、八幡神社と香椎宮に進物が祀られた。これは神功が大三輪の神の加護を願って新羅平定したことに倣ったものである[10]。
実際に皇后伝承が成立した時期は不明だが継体天皇の時代、物部大連麁鹿火の妻が神功皇后の名前を出してることから、神功の三韓征伐伝承は記紀成立から200年前の6世紀初頭にはすでに完成していたことになる[11]。
- 『倭国』岡田英弘P157
- 『神功皇后』岡本堅次、P29
- 前掲、岡本、P32
- 前掲、岡本、P35
- 前掲、岡本、P36
- 『神功皇后』肥後和男、P53
- 前掲、岡本、P62
- 『加耶/任那」仁藤敦史、P91、111
- 前掲、岡本、P40
- 『六国史』遠藤慶太、P40
- 前掲、岡本、P70
神の子 応神天皇
応神の母の神功皇后は、夫の仲哀死後に石を抱いて15ヶ月の妊娠を経て応神を出産したと史書にある。医学的にいえば応神の父は仲哀ではありえない。ただし古代には偉大な人物は長く胎内にいるという信仰があり、藤原鎌足や空海も12ヶ月も母の腹の中にいたと伝承されている。本居宣長も応神が長く胎内にいたことを讃えている[1]。
皇統譜での応神の出自
記紀では神功皇后は夫の仲哀天皇との交合ではなく神の神託によって孕んでおり、応神天皇の父親は仲哀でなく神であることが示唆されている。
武内宿禰の「腹の子はいずれの子か?(坐其神腹之御子、何子歟)」という問いに対して神は「男子である」と不自然な回答をしている[2]。「神の腹」という表現も「神が憑り移って宿した巫女の子」という意味に解釈できる[3]。
そこで後世の伝承や思想家の中には応神の父系血統に疑問を抱く者もあり、現在の史学でも仲哀-応神間で父系血統の断絶が起きたとする論拠となっている。
「是に(神功)皇后、(住吉)大神と密事(不倫)あり」『八幡愚童訓』
新井白石「仲哀天皇の死去のもようもはっきりしないし、また応神天皇誕生についても出産月を遅らせたことなど疑わしく思えたからであろうか、仲哀天皇の二王子が挙兵したが勝つ事ができずに二人とも殺されてしまった」『読史余論』
江戸中期の学者藤貞幹「神武帝御裔、仲哀帝に尽くと云ふ。応神帝は何くより出させ玉ふや。胎中天皇(応神)、いろいろ疑わしく思はるる也」『衝口発』
中世に書写された『宇佐託宣集』は『住吉縁起』を引用して、神功皇后と住吉大明神が夫婦となり、妊んで八幡神(応神)が生まれたことが記されている。また「一に云う」(異伝)として、オホタラシヒメ(神功皇后)が異国調伏を神々に祈っていた時、ヒコナギサ(神武天皇の父)が夜来て「汝わが婦とならば祈りを叶えよう」と言ったので、ヒメはこれを承諾して新羅遠征後に夫婦の契りを結んだという。更に孝謙朝の宇佐八幡宮の神託には「大帯姫(神功皇后)は吾が母なり。すなわち娑竭羅竜王の夫人なり。(中略)これ八幡(応神)は竜王を父となす」と、応神天皇の父親は竜王になっている。住吉大神は海神としての面が強く、応神の父親を竜王とする伝承は九州中心に数多く残っている。
神なる父によって母が処女受胎して異形の子が生まれるという英雄伝説は洋の東西を問わず見られるもので、アレキサンダー大王も母オリンピアの寝所にゼウス大神が訪れた結果生まれたという神婚伝承を持っている[4]。アジアの例では高句麗の始祖王、朱蒙(東明王)の父親は天帝の子の解慕漱で母は河神の娘の柳花である。
母子神信仰
神功-応神のように、神と結ばれて処女懐胎した母とその子を崇拝する聖母子神信仰は古代に広く行われていたことが柳田國男、石田英一郎、三品彰英などから指摘されており、記紀の神功伝説の原型になったと考えられている。また北九州の母子神信仰は大陸由来と見られ、それが神功皇后が新羅王の末裔である事実とと関連して論じられる。
上賀茂、下鴨神社は古代母子神信仰の一例であり、他にも『宇佐託宣集』『惟賢比丘筆記』などに震旦(中国)王の娘の大比留女が日光を浴びて7歳で処女懐妊し、母子共に祀られたという伝説が見える。この大比留女が祀られている香椎聖母宮は、仲哀と神功を祀る香椎宮の東に位置しており、香椎の地一体に古くから聖母信仰が存在し、先祖霊とも考えられていた母神崇拝がやがて神功皇后のこととされるに至ったと推測できる。
中世でも聖母、神母、人聞、仁聞などと呼ばれる母神崇拝が諸国にあり、往々にしてその母神は御子神を伴っている。特に北九州では八幡信仰に関連して出てくることが多く、出口米吉はこれが古い母神崇拝に基づくものであると論じている。その他、日本と朝鮮の中央に位置する対馬では、日光によって処女受胎した天童法師伝説が存在する。三島彰英は天童法師信仰の聖所である天童地は樹林の中に石を積んだ累石壇が朝鮮で往々にして母子神を祀る石壇に酷似しており、それが大陸由来であることを明らかにしている。北九州の母神崇拝も大陸系の名残が多く見られ、香椎の南に存在する多々良村・多々良浜は古朝鮮の地名であったタタラを由来としている。宇佐八幡の信仰に関しても「辛国(韓国)の城」に初めて天降ったといい、祠官に辛島勝(勝は渡来人の姓)という人物もおり、大陸的な巫覡(男女の神官)・文化と繋がりがあることが広く認められている。松前健は、このような渡来文化的色彩の多い母神・御子神の伝承が次第に史実化し、応神の出自伝承として皇統のなかに織り込まれていったのだろうと述べている。
神功皇后もその血統は朝鮮由来であり、神功皇后の母親は、新羅の王子アメノヒボコの子孫である。『古事記』の応神記にもアメノヒボコの説話があり、皇后の出自が外蕃(外国の神)であることが示唆される。このアメノヒボコの妻の一人にアカルヒメという、神功と同じく処女懐胎した母から生まれた女性がいる。アカルヒメは『日本書紀』ではツヌガアラシトという名前で、難波と豊前に存在するヒメコソ神社の神になっている。このヒメコソ神社は『延喜神名式』では豊前国「辛国息長大姫大目命神社」と記載されている。カラクニ・オキナガ・オオヒメとは「韓国(新羅)から渡ってきた息長氏の姫」を意味し、神功の名前「オキナガ・タラシ・ヒメ」「オオ・タラシ・ヒメ」と酷似していることから神功皇后の源像の一つであったと考えられる。辛国息長大姫と神功皇后が同一人物である説は古く江戸時代から存在しており、国学者、伊藤常足はこの説を紹介した上で全く道理に合わないことであると言っている[1]。
「御名の似たるに因りて、息長足姬の御事なりと云説は、いみしきひがことなりかし」
神功皇后の実在性
戦後の歴史学では神功皇后の実在性を疑う意見が強く、6世紀以降の女帝の存在を反映させたと伝説上の人物というのが定説である[1]。皇后に関して、それまでの皇統(崇神系)と新しい皇統(応神系)を結びつけるための橋渡し役としての役割があるとする皇統交替論(王朝交替論)。あるいは神功物語の中にある地名や習俗の由来話や霊言譚などの神話的側面を皇后の本質的内面と見て、海辺に祀られる母子神崇拝が神功-応神という形で皇統の中に組み込まれたとする母神源像論が唱えられた[2]。
戦後の神功研究に大きな影響を与えた直木孝次郎は皇后不在説を定説化した人物である。その説によれば女性天皇というのは推古以降の産物であり、それ以前に女帝が存在したことは考えづらい。また神功皇后が実在したとしたら4世紀のことになるが、その頃は神功が征服した新羅はまだ大きな勢力でなく、好太王碑文に見られるように当時の強力な相手は高句麗であった。すなわち皇后伝説の形成は、後進勢力であった新羅が勢力を増し日本との関係が緊迫した5世紀末以降のものである。神功を祀る香椎宮は奈良時代まで史料に見えないため、神功の新羅征服伝承は7世紀以降に香椎宮縁起談として形成されたと見られる。女帝や皇后が自ら外征軍の指揮をとるのは斉明天皇が北九州に出征したのが唯一の例であることから斉明が神功のモデルの一人であった[3][4]。
さらに皇后の和風諡号「オキナガタラシヒメ」のタラシ号も「応神天皇の実在性」で述べたように後世的な名前であり、「オキナガタラシヒメ」という名前それ自体も7世紀の舒明「オキナガタラシヒヒロヌカ」とその妻の皇極「アメトヨタカライカシヒタラシヒメ」を足し算した名前になっている[5]。夫の仲哀天皇も実在したとは考えられない。仲哀の和風諡号はタラシナカツヒコという。タラシは古代天皇の称号であり、ヒコは男性への敬称にすぎない。すなわちタラシナカツヒコを「中継ぎ天皇」すなわち、崇徳王朝と応神王朝の媒介とする天皇の意味と解釈しできる[6]。
以上の神功皇后は実在不在論に対して、田中卓は先史時代にも卑弥呼など女帝的存在があることを指摘し、神功皇后という人間は実在していたとする。タラシ号に関しても雄略天皇の娘にワカタラシヒメがおり、古くからタラシ号は讃え名として存在していたとみる。以下の表に並べたようにタラシ号は古代豪族の中にも多く発見できる[7]。
| タラシ号を持つ古代人 | 備考 |
| ヨソタラシヒメ | 尾張氏出身。5代孝昭天皇の皇后 |
| アメタラシヒコクニオシヒト | 孝昭とヨソタラシヒメの子、大豪族のワニ氏の祖 |
| ヌタラシワケ | 11代垂仁天皇の息子 |
| イカタラシヒメ | 山背ノカリハタトベの子 |
| タラシヒコオオエ王 | 12代景行天皇の子孫 |
- 『六国史』遠藤慶太、P45
- 『大和国家と神話伝承』松前健、P150
- 『天皇の歴史01 神話から歴史へ』大津透、P120
- 『続 田中卓著作集2 古代の住吉大社』P42、66
- 『続 田中卓著作集2 古代の住吉大社』P42、66
- 前掲、松前、P156
- 『続 田中卓著作集2 古代の住吉大社』P42、66
神功皇后は女性天皇だったか
神功皇后は近代に至るまでは代数に含められることが多い「女性天皇」であった。記紀でのオキナガタラシヒメ(神功)は「天皇」と称されておらず、その治世は「摂政」と表記されている。一方で神功は書紀では他の天皇と同じように「本紀」を立てられており、常陸、播磨、摂津国の『風土記』では「息長帯比売天皇」と表記されている。『風土記』は律令政府の命で作成された公文書であるため、当時の政府は神功を天皇扱いすることを問題視していなかったことが分かる[1]。なおヤマトタケルや飯豊青皇女など、神功と同じように『風土記』で「天皇」と呼ばれたり、皇帝にしか使われない「陵」や「詔」などの語句が使われ、天皇に準ずる人物は他にも数多く存在する(参照『12章 記紀の歴史叙述』「5節 代数に含まれない天皇」)。しかしその中でも本紀を立てられているのは神功のみである。
神功が埋葬されている狭城盾列池上陵は他の天皇と同じように「陵」とされている。律令の注釈で「即位の天皇を除く以外、皆悉く墓と称す」とあるように「陵」の語は本来は天皇にしか使われないものである。実際には聖徳太子や光明皇后など天皇以外の墓も「陵」とされているが、記紀より古くに伝えられていた山陵群には歴代天皇と神代三代(神武の曽祖父、祖父、父)に加えて神功陵が記されていた可能性が高い。神功陵は他の非天皇陵よりも良い扱いを受けおり、陵を監守する守戸の数も他の天皇と同じ数が充てられ、その陵霊の御威光で平安時代初期には祟りを恐れて特別に弊物(神への贈り物)が捧げられていた。これらの点に鑑みても律令体制下において神功は他の天皇と同格として考えられていたことが分かる[2]。
中世の歴史書『愚管抄』や『神皇正統記』では神功は「十五代目」と扱われ、『愚管抄』では「国主」、『扶桑略記』では「神功天皇」と記されている。また日本から大陸に渡った奝然が中華皇帝に献上した「王年代記」に依拠して書かれたと見られる[3]『新唐書』や『宋史』などの中国史書では「神功皇后は仲哀の死後に王と為る」「神功天皇」と書かれている。さらに15世紀に李氏朝鮮の申叔舟が撰進した『海東諸国紀』でもやはり「神功天皇」と呼ばれており、対外的に神功皇后は女性天皇として扱われていたことが分かる。
「次は仲哀。仲哀死して、開化の曾孫娘の神功を以って王と為す」『新唐書』「日本伝」
書記で神功皇后紀が立てられた理由は、書記の見本となった『史記』『漢書』で皇帝ではないが専制政治を敷いた呂后(漢皇祖の劉邦婦人)が呂后本紀を立てていること。また書記編纂者が神功を卑弥呼に比定し、その年代に対応させて「69年」の治世を設けてこれを基準として歴代天皇の年紀を配分するためなどが考えられるが、その背景には記紀成立期の朝廷が神功を歴代天皇と同列に扱っていたことがあった[6]。
その後、江戸時代に水戸藩が編纂した『大日本史』では神功は本紀から后妃に移され、大正時代に正式に皇統譜から外され神功は天皇でないことになった。(参照『17章 近代天皇制と伝統』「4節 神功皇后のイメージの変遷」)
- 『風土記から見る日本列島の古代史』瀧音能之、P69,77
- 『飛鳥奈良時代の基礎的研究』「第四 神功皇后紀の成立の事情」時野谷滋、P119
- 『天智天皇』森公章、P195
- 講談社学術文庫版『倭国伝』P263、280
- 『記紀の考古学』森浩一、P228
- 前掲、時野谷、P195、148
9章 倭の五王と王統分裂説
古墳時代中期(4世紀〜5世紀)の大王家に父系出自観念があったのかどうかの参考になるのが『宋書』倭国伝などの中国史書に現れる倭の五王(讃、珍、済、興、武)である。五王と記紀の天皇との比定は古くから行われており、現在ではおおよそ次のように推定されている[1]。
中国の史書には、倭の五王が中国に朝貢したことが記されている。注目すべきはそのうち『宋書』には珍と済の間の続柄(血縁関係)が書かれていないことである。修貢する王の出自というのは中国にとっても重要な情報であり、例えば珍の即位に関しては「讃死して弟珍立つ」としっかり前王との血縁関係が記されているため珍と済の繋がりが書いてないのは異質である。中国は続柄が分からない他国の王は、史書の上では便宜的に父子関係で結ぶ傾向がある。にもかかわらず続柄がかかれていないのは何らかの根拠が存在したと考えられる。
藤間生太は、珍と済の血縁関係が書かれていないのは『宋書』編者のミスでなく、二人の間に実際に血縁関係がなかったか、あっても済はそれを言わず自らが初代であると名乗ったためであると主張した。これを受けて原島礼二は、珍と済の間に男系上の繋がりはなかったとした。これを考古学的に裏付けるように、当時河内に建造された大王墳は古市古墳群と百舌鳥古墳群の二つに分かれている。百舌鳥古墳群に属する16代 仁徳陵と17代 履中陵は前方後円墳の平面計画において極めて類似し、後円部の直径に対して全長がもっとも長い平面形を持っている。一方で古市古墳群に属する15代 応神陵と19代 允恭陵は全長がもっとも短い平面形を持っている。要するに2つの古墳群は古墳の形状が異なっており、陵墓造営技術者が別系統であった可能性が存在する[2]。
この時期の大王は男系的に繋がらない仁徳系と允恭系の二つが存在したという説(二つの大王家説)は、現在でも初期大王家に男系世襲制がなかったことを証明する有力根拠となっている。
『宋書』
『梁書』
┬賛
└弥─済┬興
└武
仁徳系の仁賢天皇は、允恭系の雄略天皇の娘との間に生まれた武烈天皇に皇位継承しているが、この場合どちらかが嫡流というわけではないので女系天皇とは呼べない。
以下ではこの王統断絶説に関する議論を検討する。「1節 王統分説を支持する諸学説」では「実際には倭の五王は異なる父系集団にあった」と考える専門家の意見を取り上げる。それによれば当時の王権は男系血統に拠るものではなく、有力豪族の中から政治力や軍事力が卓越した人物が推戴されて選ばれるものであった。断絶説への反論として「2節 「倭」姓」で、倭の五王がいずれも「倭」という姓を名乗っていることを議論する。姓とは中国語で男系集団を表すものであり、5人が揃って倭姓を名乗っているのならば5人は同一男系集団であると考えられる。
倭の五王は『梁書』ではきちんと父系で繋がっているが、現代史学では『梁書』は史料価値が低く信用に値しないと評価されている。「3節 『梁書』の史料批判』でその評価が正しいのか一考する。また「倭」姓は五王だけでなく「倭隋」という人物名乗っている。もし倭隋が皇族の一員であるならば、やはり「倭」性は同一父系集団を意味するものであり、倭の五王は男系継承していたとみなすことができる。そこで「4節 倭隋」で彼の正体について考察する。倭隋は「平西将軍」という称号を中国から得ていることから、ヤマトから見て西に関わる人物であることが可能性が濃厚である。
中国には日本だけでなく朝鮮王朝も朝貢していたが、その中にも王同士の続柄が記載されていないことがある。それが朝鮮の王統断絶を意味するのであれば、倭の五王の続柄が書かれていないのは血統に断絶があると考えることができる。「5節 百済王の事例」で続柄が書かれていない百済王について詳説する。百済の王統譜もさまざまな矛盾が存在し、初期王の系譜は信用できず、ところどころで血統的断絶が存在したと見られている。
1節 王統断絶説を支持する諸学説
古市晃は当時のヤマト王朝は、大王家とは父系血統で繋がらずとも大王を輩出できる周縁王族家が存在していたとする。倭の五王の時代には王統は複数に分かれており、『宋書』が示すとおり反正天皇(倭王珍)と允恭天皇(倭王済)に血縁関係はなかった。また清寧天皇を以て允恭系の父系血統は断絶し娘の婚姻で仁徳系に統合されたが、その仁徳系も武烈天皇の代で父系は断絶し、地方豪族の継体天皇が入婿で大王になり、以後は父系世襲制が根付いたとしている。記紀に記される大王家への叛逆伝承は実際は大王家と周縁王族の間の争いであり、その「叛逆」を支援したのは朝鮮半島との海路を支配する海人集団であった。海人集団は大和国の葛城や吉備、和歌山の紀伊といった大豪族たちの下に統合されており、その豪族たちが大王家と婚姻を通じて周縁王族の中心として成長していった可能性がある[1]。
鈴木靖民は、倭の五王以前の王権は執政能力、とりわけ朝鮮半島からの鉄輸入を中心とする外交能力を持つと首長たちから認められたヤマト地方の有力首長に継承されるもので、王権の継承には父系血統原理はなかったと述べる。大分県の小迫辻原遺跡などでは、3~4世紀の日本の首長館は一代限りで完結し、継続性がなかったことが暗示されている。5世紀の応神天皇以降の宮居も天皇ごとに宮が移動している状況が見えるが、これはヤマト王権成立以前の首長一代性の名残と考えることができる[2]。
篠川賢は「珍と済、応神と継体に血縁関係はなく、当時の大王家は世襲性でなく有力豪族の長の中から『共立』される存在であった。これに関して大王家の世襲化が始まった欽明天皇から天皇家で近親婚が始まっている点は注目に値する」と述べる。
推古天皇(異母妹)
欽明天皇 |
|────敏達天皇
石姫皇女(姪) |───忍坂彦人大兄 倭姫王(異母妹)
広姫 |────────舒明天皇 |
糠手姫皇女(異母妹) |────天智天皇
斉明天皇(姪) |───弘文天皇
伊賀宅子娘
舒明天皇
|─────天武天皇
斉明天皇(姪) |─────草壁皇子
持統天皇(姪) |───────文武天皇
元明天皇(叔母) |────聖武天皇
藤原宮子
以上の図に見えるように、奈良時代に藤原氏が台頭するまでは、正統(血筋を後世に伝える嫡流)の天皇は全員が2親等以内の近親婚を行なっている。倭の五王が活動した5世紀を通じて王家を支える組織が形成されていき、王統が一般の族長位の継承とは区別される原理を持つことが望ましいとされたとき、皇位世襲原理と共に「嫡流の天皇は皇女を母に持つ」という理念から近親婚が始まった考えられる。
なお継体以前の5世紀の天皇家にも近親婚を行なっているが、それは事実とはみなせない。古代天皇はそれぞれ異なる父系集団から『共立』されていたが、後世にそれを一つの血統に結びつけるための作意を行なっていた。その際に女性を介して二つの血統を中つというナカツヒメ婚が行われた。応神天皇と仲姫、允恭と忍坂大中姫、仁賢と春日太郎皇女の例がそれに相当する。またこの3例は近親婚といってもそれぞれ6親等、4親等、6親等離れているので、たとえ事実であったとしても欽明以後の近親婚とは区別される。いま一つの近親婚のタイプは、仁徳と八田皇女、履中と幡梭皇女、安康と中蒂姫、雄略と栲幡姫皇女、顕宗と小野王などの5例である。これらの例は履中と幡梭皇女の間に中蒂姫が生まれた以外はいずれも子供がなく、王統譜の中では付加的な意味しか持たない。また日本書紀と古事記の間で所伝が異なっている例が多いことからも、このタイプの近親婚は記紀編纂の最終段階で付加された可能性が高く、『日本書紀』にそれらの妻をいずれも後世的な地位である「皇后」としていることからすると、皇族皇后の知識によって造作された近親婚と考えられる[3]。
川口勝康は、記紀に見える父系で繋がった王統譜は継体天皇が自らの継承を正当化するために、自らの系譜と二つに分かれていたヤマトの大王系譜とを統合し、大王系譜の一系化を企てた結果であるとした。「讃、珍、済、興、武の一字名は大王の実名の意訳である」という一貫した比定法により、讃はホムタワケかホムツワケ、珍はミツハワケ(反正)、武はワカタケル(雄略)であり、済と興は記紀には存在しない人物(大王X1と大王X2)と推定される。ホムタワケとホムツワケは史書ではそれぞれ応神天皇と、垂仁天皇の皇子として現れるが、ここではただ「倭王珍の兄」という人物として見る。
A系譜
ヲホド(継体)
|────欽明天皇
┬ホムツワケ(讃)─オシハワケ┬オホケ(仁賢)┬タシラカ
└ミツハワケ(珍、反正) └ヲケ └シラカ(清寧)
B系譜
この再現系譜ではシラカ(清寧)とタシラカ(継体の妃)、ワカタケル(雄略)とワカサザキ(武烈)の名前の類似性から、雄略(父)─清寧(子)と仁賢(父)─武烈(子)という記紀系譜とは入れ替わった父子関係になっている。継体は入婿でホムツワケの擬制三世子孫になるが、後に二世代追加され「ホムタワケ(応神)の五世子孫」という記紀の系譜が完成した。応神天皇の皇后の仲姫命のように、系譜と系譜を女系で繋ぐ女性はナカツヒメと呼ばれたと考えられる。継体系譜の造作された二世代の中に践坂大中比彌王と田宮中比彌王という二人のナカツヒメがおり、践坂大中比彌王を允恭天皇に娶らせることで継体の系譜と他の王統の結びつきを強調する効果を担った[4]。
2節 「倭」姓
この断絶説に対して広く支持を集める有力な反論に「倭」姓に着目するものがある[1][2]。当時の大和王権が中国に朝貢することで正統性を確保していたことは疑いがないが、大王たちは中国に朝貢する際に、中国の姓秩序に入り中国風の一字の姓を名乗った(当時、日本で姓を持っていたのは渡来人系氏族だけであった)。姓を中国風に一字にするのは他の朝貢国も同様で、高句麗王は「高」姓、百済王は「餘」姓を用いている。倭の五王のうち讃、済、武の三人は「倭」姓を名乗っており、よって珍と興も倭姓を名乗っている可能性は高く、五人全員が姓を等しくしている。五王が「倭」姓を用いている以上、二つの王統は同じ父系一族であると考えられる、続柄が書かれていないのは宋側の表記ミスとする[3]。
水谷千秋は倭国王武の「昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき」という上奏文に焦点を当てる。もし珍と済の間に血縁関係がなかったとすると、武の祖禰(先祖)の中に珍や讃は含まれないはずである。よって武にとって珍や讃もやはり父系の祖禰であったと考えられる。もし当時の王権が血統より政治力や軍事力で決まるのであれば、当時権勢を振るった葛城氏や吉備氏から大王が排出されていなければおかしい。珍と済の間の続柄が記載されていないのはこの間の皇位継承がスムーズにいかなかったことを示唆している可能性がある[4]。
だが大王にとって前王との続柄は自らの正統性を証明する重要な情報であり、記載忘れはありえないという見方からいくつかの異論も存在する。
河内春人は五王が「倭」姓を用いていることから、二つの王統は共に応神天皇を始祖とする同一一族ではあるが断絶性を重視すべきとしている。倭済は外交を円滑にするためにあえて断絶を中国に伝えず、前代と同系統であると名乗ったと考えられる。その類似例として歴史は下るが15世紀に中山王国の武寧王を滅ぼした思紹は、明に武寧王の世子を名乗り、存在しない血統的繋がりを主張している。中国の視点では朝貢国は安定していた方が望ましく、7世紀の高句麗で泉蓋蘇文が国王を殺した時、唐は「秩序を乱した」と派兵計画を練っていた。讃グループと済グループはそれぞれ大阪平野の古市古墳群と百舌鳥古墳群を代表する王族グループだったと考えられる[5]。日本は朝貢時に中国に体面の悪い情報を隠す例があり、遣隋使では推古天皇は男王を名乗り、隋使が来日した時も男の代理を出して君主が女帝であることを隠蔽し続けた。なお、この推古の性的配慮説に関して反論もあり、吉村武彦は「皇帝が外国使節に直接謁見する中華式儀礼に対し、倭国は魏志倭人伝に「(王は)見るある者少なく」とあるように王が直に外交使節に接見することはなかった。そこで隋使は女帝推古の代わりに折衝した男子(聖徳太子?)を倭国王と見做しただけで、日本が自国君主が女性なのを隠したと言うわけではない。中国の史書には卑弥呼に関する記述があるが、そこに女だからという政治的配慮は見られない」と述べている[6]。
義江明子は「倭」姓は、中国の君臣秩序内に包摂されて官爵を得るに当たって中国皇帝が命名した「冊封用」の名であり、父系血統集団を意味する姓ではないとする。後に遣隋使の小野妹子と吉士雄成が中国の官職を得る際に「妹子臣を号して蘇因高と曰う」と、それぞれ蘇因高、乎那利(蘇と乎が姓)という名前を中華皇帝から賜っている一方で、推古天皇はもはや除正(皇帝が近隣諸国の君主の称号を認定すること)を必要とせず冊封を求めなかったため、名をアメタリシヒコ(天上世界で満ち足りた立派な男子)とし、中国風の姓である「倭」は用いていない(中国朝廷は、天皇に姓と名があると想定していたので史書にはアメタリシヒコを分解して「姓は阿毎。字は多利思比孤」と記されている)。多利思比孤は男王を自称しており推古でない可能性もあるが、倭王が倭姓を名乗っていない事実は動かない。中国南北朝の動乱によって大陸との交通が途絶えた時期、大王は中国皇帝を真似て氏姓制度を始め、臣下に氏姓を賜る側に回っている[7][8]。
- 『天皇の歴史①神話から歴史へ』大津透
- 『古代天皇の誕生』吉村武彦
- 『倭の五王』河内春人、P175
- 『謎の大王 継体天皇』水谷千秋
- 前掲、河内
- 『聖徳太子』吉村武彦
- 『古代王権論』義江明子
- 『聖徳太子』吉村武彦
3節 『梁書』の史料批判
『梁書』は唐初期に姚思廉によって編纂された正史の一つで、その「倭人伝」は『宋書』「倭人伝」の文章を多く引用しながらも『宋書』にない独自の記述も一部持っている。追加された珍と斉の続柄もその一つであるが、王統断絶説は『梁書』で珍と斉が父子関係で繋がっていることを無視している。古くは明治時代に菅政友が『梁書』を「誤り」と断じて以来、『梁書』は2等史料として信用に足らないというのが定説となっている。
藤間生大は「『梁書』は『魏志倭人伝』と『宋書』の内容を一緒にして簡略にしたもの」と評価し、「『宋書』の記事を引き写しながら珍と斉の関係だけは何も書いていないから、唐代の長子相続の常識に従って一言入れたという程度のものではないか」と述べている。原島礼二もまた「 『梁書』独自の記述には信憑性が少ない」としている。梁の時代に描かれた『職貢図』では百済の使者は威厳ある礼服な一方、倭の使者は土足で、布を身に纏っただけの粗野な格好をしている。これは卑弥呼の時代の服装であり、梁人の倭人への関心の薄さが窺える。倭武の朝貢を最後に大陸との交流が途絶えて以来、中国人が倭のことを知るには太古の文献や人伝いに頼る他なく、倭人認識は貧弱であった。
これに対し坂元義種は『梁書』の系譜記事に積極的な評価を与えている。後述するように『宋書』では、倭国王だけでなく百済王の映と毗の間の続柄も書かれていない。珍と斉が『梁書』で続柄が追加される一方で、映と毗は『梁書』でも続柄が書かれていない。また『梁書』では同じく百済の東城王と武寧王の血縁関係も書かれていない。よって『梁書』には『宋書』の不明とする系譜を同様に不明とする厳密さがあり、珍と斉の父子関係は十分に信頼できると考えられる(参照『16章 神武天皇の考証』「5節 朝鮮王朝系譜との比較」「百済王家の系図」)。
一方で『梁書』が日本に関する独自の情報源を持っていた痕跡も存在する。梁より100年前に存在した東晋の歴史を描いた『晋書』によれば、倭王讃は東晋にも使節を送って朝貢していた。しかし『梁書』の賛に関する記事は「晋の安帝の時、倭王賛有り」と記述があるのみで、賛が東晋に修貢したかどうかまでは語っていない。朝貢・冊封は中華皇帝が周辺諸国と君臣関係を結ぶ重要な外交であり、書き漏らすことは考え難い。実際に『梁書』は他の国の東晋への朝貢はしっかりと記載している。「高句驪伝」には高句麗王の璉の朝貢が、「百済伝」には百済王の映が朝貢していたことがはっきり書いてある。しかも双方とも和賛と同じく安帝の時代のことである。同じ時代の朝貢でも高句麗と百済のものは伝えられ、倭賛のものは記されていないのは、そうした事実が存在しなかった可能性を示唆する。
『晋書』が編纂されたのは『梁書』の完成後なので姚思廉が『晋書』を参照できないのは当然であるが、『梁書』より先に上梓されていた『宋書』には倭賛が東晋に朝貢していたことは書かれていないので、それを参照して『梁書』に「晋の安帝の時、倭王賛有り」とは書けない。この『梁書』の倭賛記事に関して井上光貞は「『梁書』の編者の造作」とし、鈴木俊は「『宋書』以外の新資料を拠ったもの」と評価している。後者の説に拠った場合、姚思廉が『梁書』を編纂する際に『宋書』編者が参照していない日本に関する資料を閲覧しており、そこに珍と斉の続柄に関するものがあった可能性が出てくる。
4節 倭隋
史書には倭の五王以外にもう一人、倭隋という倭姓を名乗っている人物が現れる。この倭隋が倭の五王と同一父系一族であるならば、「倭」は父系一族を表す「姓」であると証明できる。逆に倭隋が五王と血縁関係のない地方豪族であったならば、「倭」姓を共有しているからといって父系的繋がりがあるとは言えなくなる。
438年、倭王珍は麾下の豪族たちにも将軍号を授けるよう宋に申請していた。この時、宋は倭珍を安東将軍に任じると同時に、倭隋ら13人に平西、征虜、冠軍、輔国などの将軍号を認めている。これらは全て三品であり、序列上は倭王と同格であった。中でも倭隋が与えられた平西将軍は特別に高い格があり、珍の貰った安東将軍とはほとんど差がない。
倭済もまた23人の豪族の将軍号と郡太守号の除正を得ており、合計36人の日本人が中国から除正を受けたことになる。倭王からすれば国内で突出した権力を確立するために、それ以下の者とは隔絶した地位を中国から貰いたかったはずであり、実際に倭珍は第二品官の安東大将軍を要望しているが通らなかった。大勢の豪族に除正を認めざるをえず、また王でない倭隋に平西将軍を推薦しなければならかったところに当時のヤマト王権の未成熟さが窺われる。それは除正を受けた人数は10人程度で、王の階位とそれ以外の王族・臣僚の将軍号の較差が大きかった百済王権と比べるとより顕著になる。
| 一品 | 大将軍 |
| 二品 | 驃騎、車騎、安東大将軍など |
| 三品 | 征東、征南、鎮東、安東、平西、征虜、冠軍、輔国など |
| 四品 | 左衛、左軍、建威など |
倭隋の正体については「倭」姓を踏まえて大王家と同一父系グループの人物であるという説と、血統的繋がりのない地方豪族であったという説で分かれている。仮に同一父系グループだとしても、倭王珍の系統とは敵対的だった可能性があり、当時の畿内の古墳群が百舌鳥と古市で二ヶ所に分裂していることもそれを示唆している。
倭隋が別系統であるとする説は、倭隋の将軍号に着目する。倭王珍が賜った安東将軍の「東」は中国から見て「東夷を治めている」という意味で、高句麗王の征東や百済王の鎮東も同じ理屈である。しかし倭隋は平西将軍と「西」を治める将軍になっている。つまり倭隋が日本の西を本拠地とする人物であったと想定できる。倭の五王が畿内を治めていたのと同時期の吉備では、大王墳に匹敵する大古墳が築かれていた。新庄下造山古墳(墳丘長350m。これは日本4位の大きさ)や三須作山古墳(270m)などは規模が卓越しているだけでなく、高さ2mに達する盾形埴輪をはじめ埴輪祭祀を完備し、大型の長持形石棺を持つなど内実も充実している。
吉備氏の系図は『古事記』と『日本書紀』「孝霊二年条」では孝霊天皇を始祖にしているが、『日本書紀』「応神二十二年条」の家系図では大王家とは無縁になっており、これが最も古く正確なものだと考えられる[1]。よって倭隋は吉備(現在の岡山県。畿内から見て西)を本拠地とする大首長であり、大王家と同一父系グループではない。ひいては倭姓を名乗る者が必ずしも同一父系一族でないと言える。吉備は弥生時代から続く一大勢力であったが、雄略天皇に攻撃され勢力を削がれ、以後は大王家に従属的となった。
佐伯有清や藤間生大らも、倭隋は地方の首長であったとする。藤間は「『宋書』の『倭隋』という表現は『倭讃』や『倭済』と同格のものである。これに対して、讃に遣わされた『司馬曹達』や、古く女王卑弥呼に派遣された『大夫難升米』、『次使都市牛利』などは主人直下の臣下であることを示している。倭讃や倭済が畿内地方の首長であるように、倭隋らも、当時多元的国家であった日本の地方(出雲、吉備、北九州、尾張など)を治めていた首長であった。宋書の表現は、一地方の首長として倭隋と倭王が対等な立場にある人間であることを示している」と論じる。
武田幸男も倭隋の「平西将軍」に注目したが、その正体は畿内から北九州に派遣された王族だとした。中国の将軍号における方位性は四夷観(北狄、西戎、南蛮、東夷)に基づいているためかなり厳密で、中国の都から見て東に位置する倭王の将軍号は「安東将軍」「安東大将軍」「鎮東大将軍」「征東将軍」など、倭隋を除いて全て「東」である。これは他の国にも当てはまり、中国から見て西に位置する武都、吐谷渾、河西、宕昌の将軍号はいずれも「西」であり、南に位置する林邑の将軍号は「南」である。そして、その方向性の例外の将軍号を得ているのはいずれも王でない人物や王の僚属である。これはその国の王の将軍号は中国の首都を起点にした将軍号で、王の下に着く僚属が持つ将軍号の方位は、各王の所在地(日本なら畿内)を起点として表記されたものだと推察される。例えば南北朝時代に興った武都国は中国から見て西なので武都王は「西」の将軍位をもらっていた。一方で武都王、楊盛の甥の楊撫は「平南将軍」であった。撫は漢中を守っていたが、ここは武都王の本拠地の武都・隴右・仇池から地理的に見て南である。同様の現象は吐谷渾への除正でも見られる。これらのことから平西将軍たる倭隋の所在は吉備・出雲・北九州などの方面が想定される。
倭隋が倭王と同族であったかを考える比較史料として百済の朝貢は458年では8/11が王族、490年は3/7、495年は0/8であった。確実に「倭隋は地方豪族であった」と言えるほどは王族の比率は低くない。中国の史書は①「初出の人物には姓をつけ、二度目はつけない」、②「既に姓をつけた人物との血縁関係がはっきりしている人物には姓をつけない」という2つの法則を日本のみならず他国でも貫徹しており、「倭」を男系一族を表す姓として扱っている。よって「倭は種族名や国名である」という主張は受け入れられない。上記に挙げた武都王や吐谷渾王の例で、異なる方向を持った将軍の大半は王族であったことも併せて考えると、倭隋は北九州に派遣された王族だったと思われる。それ自体史実でなくても記紀にはヤマトタケル伝説や崇神天皇の四道将軍伝説のように皇族を地方に派遣する慣習があり、倭隋もその一人であった[2]。
- 『倭の五王』河内春人
- 『巨大古墳と倭の五王』原島礼二 他
- 『古代史講義【海外交流篇】』佐藤信 編「第2講 倭の五王とワカタケル大王」森公章、P30
- 『倭の五王』藤間生大
- 『倭の五王 空白の五世紀』坂元義種
5節 百済王の事例
18代腆支王〜21代蓋鹵王
他国の例を見ると、同じく中国に朝貢していた百済王の映と毗の間には続柄が書かれていない。映と毗はそれぞれ腆支王と毗有王に比定され、『三国史記』の系譜では以下のようになっている。
腆支王─久爾辛王─毗有王─蓋鹵王
腆支王は『日本書紀』では直支王の名で登場する。腆支王は幼い頃から日本で育ち、日本人の妻を得て久爾辛王を儲けたという日本に深い縁のある人物である[1]。
腆支王
|───久爾辛王
八須夫人(倭人)
一応、系譜上は四人とも四世代の父子関係で繋がっているのだが、これらの継承には以下のような多くの矛盾が存在する。
- 『三国史記』本文には「毗有王は久爾辛王の長子」とあるにもかかわらず、注釈では「毗有王は腆支王の庶子」とある。
- 『日本書紀』では直支王の死後の久爾辛王の継承が記されるが、何故か死んだはずの直支王が15年後に妹を日本に遣わしたことになっている。
- 『日本書紀』では久爾辛王の次に蓋鹵王の即位が記され、毗有王が存在しなかったような書き振りになっている。
- 『日本書紀』には「即位した久爾辛王は幼年だったため木満致が国政を執った」とあるものの、木満致は蓋鹵王に仕えた木磊満致の事だと思われ50年も時代が異なっている。
直支王─久爾辛王─蓋鹵王
さらに『三国史記』に並ぶ百済の史書『三国遺事』では蓋鹵王の父親が記載されていない[2]。以上のことから当時、百済王権が分裂し王家の交代が起きていたと推察される。百済王映に代わった毗が中国との外交権を掌握した史実を示すのが『宋書』であり、旧王家の久爾辛王はなおも倭国との外交を維持していたものと思われる。よって『日本書紀』の蓋鹵王は毗有王と同一人物と見る。
中国の史書は百済24代東城王と25代武寧王の間の続柄も書かれていないが、こちらに関しても武寧王の出自が日中朝の史書でそれぞれ矛盾している(参照『16章 神武天皇の考証』「5節 朝鮮王朝系譜との比較」「百済王家の系図」)。次項で述べるように中国史書は実態を無視して朝貢にきた王を父子関係で結ぶ傾向があるが、にもかかわらず二人の王脈の断絶を記しているのはそれなりの歴史的根拠があったと見なくてはならない[2]。結論として中国史書で続柄が書かれていない腆支王と毗有王、東城王と武寧王の周辺にはそれぞれ血統の断絶があったと考えられ、同じく続柄が書かれていない倭珍と倭済の間でもやはり同様のことが起きていたことが想定される。
中国史書で父子で繋げられる百済王
中国は爵位を与えた他国の王を、実態とは無関係に父子関係で結ぶことがある。百済25代武寧王から29代法王の系譜は、朝鮮の史書『三国史記』と中国の史書『北史』『隋書』でそれぞれ異なっている。
武寧25─聖26┬威徳27
└恵28─法29─武30
『北史』の百済系譜
武寧─威徳─武
「隆死、子余昌亦通使命於済。(中略)余昌死、子余璋立(武寧が死に子の威徳が北斉に使者を送った。威徳が死んで子の武が立った)」
武寧─威徳─法─武
北朝系の『隋書』では26代聖王と28代恵王が、『北史』ではさらに29代法王が系譜から除かれている。聖王は治世32年の長きにおよび、百済きっての英主と高評価を受けている人物であるが名前が出てこないのは不自然である。以上の百済王のうち武寧、威徳、武は北朝系王朝から授爵されているため、これは中国が朝貢してきた百済王を杜撰に父子関係で結んだと考えられる。中国が実際の系譜と関係なく父子継承で結ぶ傾向は武寧王以前の百済王や、高句麗系譜にも見られる[1]。
日本の場合も『新唐書』では皇統譜と矛盾した多くの父子継承が記載されている。たとえば孝徳の姉であるはずの斉明は唐書では「孝徳の子」となり、書紀で兄、その弟、その妃の関係である天智、天武、持統は唐書では祖父、親、子の直系継承にされている[2]。
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