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姜維』とは、三国志に登場する武将である。

概要

姜維(202-264) 出身。字は伯約。最終官位は大将軍。

若い頃から武勇に優れ、兵法も心得ていた。

魏から蜀へ

諸葛亮の北伐において偵察に出た彼だったが、諸葛亮が次々に諸将を降させたため太守である遵が姜維に対しても疑心暗鬼に陥り、逃亡。締め出された彼はに降らざるを得なくなった。趙雲との一騎打ち孔明の罠は演義の創作によるところが大きく、厳密に言えば子のような存在ではない。
しかし高く評価したのは事実であり、思わぬ拾い物に「州で最高の人物」と喜んだ諸葛亮は以後彼を重用する。

諸葛亮没後、後を継いだエンは新たな戦略としてへ向かう作戦を立てたが、持病や反対により断念(費褘と一緒にされて勘違いされがちだが彼は外征よりの思考である)。
代わりに姜維を鎮西大将軍に任じ、北方を任せた。エンの死後である247年には郭淮夏侯覇と戦い、周辺の異民族を従えさせることに成功している。

249年には司馬懿クーデターにより夏侯覇へ亡命、これに機会と見た姜維は亡き諸葛亮の意思である北伐を再開しようと試みる。

理想か妄執か

北伐の意思を表明した姜維だったが、費褘に「丞相諸葛亮でさえ成果がなかった中原制圧、我々だけではかに及ばない。を高め良い人材を見つけてからにしよう」と一万以上の兵は与えられなかった。エン亡き後を支える重なブレーンであった費褘だが、253年に彼はの降将・循に宴会の最中に殺されてしまう。

以降、軍権を引き継いだ姜維は諸葛恪からの要請を受け、他の文官や費褘の発言を無視して北伐を再開してしまう。夏侯覇と共に軍を次々と撃破し、256年に大将軍に就任した。しかし鄧艾の前に大敗して失敗し自ら後将軍へ降格するよう願い出た。

257年には諸葛誕の乱に乗じて北伐を敢行するも失敗。元が将だった上ににおける閥の立場は弱いものであったため、この頃から民衆や文官からの反発が次第に大きくなっていく。
さらに、この頃に諸葛亮が残した中防衛策を編し、防戦体の容を攻勢体に変化させた。

その後、とうとう征伐が起こる。黄皓によって援軍要請が握りつぶされ援軍が遅れたが、それでも姜維は閣で鍾会に撤退を考えさせるまでにる。しかし鄧艾が陰より成都を急襲する作戦を立案・決行、劉禅らはあっけなく鄧艾に降してしまう。姜維もやむなくに降る。

その後、鍾会が野心を持っていたことを見抜き、これを利用して反乱をおこを再しようとするが、鍾会に皆殺しにされるとの偽情報を流された将兵が反逆、鍾会と共に最期を遂げた。

三国志演義では

まず劉備諸葛亮の印が強い演義においては、劉備の武と孔明の知を兼ね備えたように見える姜維が滅亡まで話の中心に据えられるように描写している。そのため彼の北伐による失態は全く描写されず、そのために文官らに疎まれを傾けるほどの謀な武者としての側面は全くなくなっている。
また衰退の原因を全て姜維以外の、特に宦官であった黄皓と、これを重用した劉禅、そしてこれを止められなかった諸文官の責に帰さしめている。

評判

上述のように「諸葛亮の遺児」という扱いを受け、特にびいきが強い演義では諸葛亮死後の軍事面で延命させた功臣として描写されやすく、またその才をして鍾会鄧艾の将兵からの評価も高かった。
また真・三国無双などにおいて美男子としてモデリングされたこともあり、その筋からの人気も高い。

しかし文人の意見は陳寿や孫盛がむやみに外征を行った事に関して批判を行う一方で、郤正裴松之が姜維の弁護を行うなどっ二つに別れている。少なくとも、諸葛亮亡き後、(の強大化を除けば)武官不足を顧みずに攻めていった北伐による疲弊は政務の混乱のそれよりも大きかった……と見ることは何ら不自然ではない。

だが後世の作品ではその見方は採用されず、姜維については全くの清廉であり劉禅黄皓・文官が諸悪の根源であるという意見のほうが強くなってしまった。その反発から、現代では逆に過剰な否定を行なう者も見受けられる。

その他

姜姓の名前漢字変換が煩わしいからか、または「きょうい」と打つよりも「生姜繊維」「生姜維新」と書いて訂正する方が楽なためか、姜維ではなく『生姜』と書く人がいる。

各メディアの姜維

漫画『横山光輝三国志』

単行本60巻では姜維の奮闘と滅亡までが描かれている。

ゲーム『三國志』

三國志シリーズでは、演義において趙雲一騎打ちで互に戦い、諸葛亮の計略を2度見破り、逆に利用したことから、統率、武勇、知が90前後の一流武将として扱われている。諸葛亮死後のにとっては大陸制覇のとなる男であり、末期シナリオ劉禅軍は彼のおかげで較的難易度は低い。少なくとも軍よりはラク。

値は補足の項を参照。

『三國無双』

三國無双シリーズでは2作の『』から参戦。以後、リストラどころか存在そのものを抹消されてしまった『5』を除き出演し続けている。
三国志後期の武将のため出番が少ない上に外見も割と普通なため、空気キャラと呼ばれることがある。しかし、美形なためか同シリーズ太史慈徐晃べると人気が高い。汚いなさすがイケメンきたない

三國無双6』以降は同世代の武将や、五丈原以後の話の追加に伴い、彼自身も『4』以前の扱いから一変して大きくクローズアップされるようになり、後期重要キャラとしての地位を確固たるものにしている。もう空気キャラなんて呼ばせない!代わりに別の武将が空気になっちゃったけど
ストーリーモードでは北伐からその後の末までも描かれ、志を受け継ぎ奮闘する英雄としての姿、重荷を全て背負った事により痛々しく暴走する姿、北伐によりを疲弊させた姿等、視点次第で彼の印ガラリと変わるようになっている。

『三国志大戦』

三国志大戦』では武将の名前よりも使えるカードがあるか否かで人気が分かれるため、武将ファンとしての人気と一緒くたにはできない。また、本作品ではこれまで姜維は全てカードとして登場している。

012R姜維』 2コスト 武7/知7 武インフレ著しい3では低スペック。計略の挑発も同計略を持つ1.5コスト馬謖(武5/知7)の方が使いやすいのが現状。特技である「募兵」の回復量次第ではデッキ構築から即漏れてしまう。また同等のであるイラスト違いのEXカード楽進孫尚香呂姫と共にEXカードが発売されたが、単独カードでの価値がいちく落ちたのが姜維だった。

059SR姜維』 2.5コスト 武8/知7 やや心許ないスペックだが、兵が少ないほど武が上がり輪状態となる計略を持つため前出し役として十分すぎるほどの働きを見せる。後は周りのカードプレイヤーがさばく技量次第。

077R姜維』 2コスト 武7/知7 イラストは『巨人の星』でおなじみの川崎のぼる氏。こちらも低スペックながら、一戦場に出現できる「縮地」計略の使い方次第で化ける面カード

この他、軍師カードEXカードも存在する。

余談だが、『三国志大戦2横山光輝LE姜維を使ってを落としたときのセリフが「この剣、もはやのために使えませぬ」と勝ったのに何故か滅亡時のセリフチョイスされている。

ニコニコ歴史戦略ゲー

ニコニコでは一般的に年代・寿命に制限のい「英雄集結」のシナリオが選ばれ、五虎将軍べると扱い易い為か、そこそこ出番がある。キャラ付けも、若々しい熱血だったり、ヤクルト大好きだったり、北伐バカだったりとまちまち。

補足

コーエー三國志シリーズにおける姜維の力一覧。

一貫して一線級の武官。知が高いため下手をすれば五虎将軍を喰いかねない実を秘める。

力一 統率 政治 身体 運勢
三國志 80 97 73 80
三國志II 91 94 88
三國志III 91 92 72 85 88 75
三國志IV 89 91 95 86 85
三國志V 93 96 81 87
三國志VI 95 90 94 79 80
三國志VII 86 89 62 80
三國志VIII 89 92 76 82
三國志IX 85 89 92 66
三國志X 91 89 90 68 77
三國志11 90 89 90 67 80

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姜維

411 ななしのよっしん
2023/06/04(日) 22:25:49 ID: h2aMgMzjoY
>>410
それは初めて聞いたけども、中防衛に関してならなおさら隴西は関係ないと思う。

隴西から中へ向かうルートは、結局を通って山→武都を通るしかなく、を取られてる時点と別に変わりない(まあしいて言えばの後方の憂いはなくなるので動きやすくなるが)。

そのルートも、中から見てみれば既に4本ある北からの侵攻ルートが西にも一本増えるというだけで、結局中の防御には25%の差しかない。

隘路の入り口で迎撃できる他のルートべれば大軍が動きやすい分やや守りづらいのは事実だが、↑で言った通り補給コストにキツイこの地では軍もそんなに大軍を動かせないのでゴジュッポ・ヒャッポ。

さらに部隊が沓中にいる以上、そのルートを使って中を狙うと後方をどつかれる可性が出てくる。
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412 ななしのよっしん
2023/06/04(日) 22:35:08 ID: h2aMgMzjoY
あ、ごめんなさいコメ408のアンカー
>>406
だった!でも通じたみたいだしいいか!
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413 ななしのよっしん
2023/06/04(日) 23:35:02 ID: U0NWJBPO/b
>>411
定戦で見せたように東から10万、中央から3万、西から3万というような形で攻めてきた際、は長安からの敵に加えて狄と陰から中の後方を伺う相手への対処も同時に必要となります

北方の戦いに出せる兵は総動員をかけてせいぜいが6万といった所でその圧倒的に少ない兵を割いてそれぞれへの対処をしなければいけないわけです

姜維が2万、廖化張翼で2万でそれぞれ狄と陰の対応をし、、砦に残した守兵2万で拘束して進軍を遅滞させる形になるのでしょうが中を守れるのか甚だ心もとないとしか思えないですね

史実のようにを放棄して戦線を後方に下げる算が大きいと思うのですが……実際、姜維は督中だった胡済を寿に下げて防衛線を変更してますからね
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414 ななしのよっしん
2023/06/05(月) 00:02:34 ID: CedPwm540C
>>408
>>409
>>411
たしか鄧艾が陰から江油に奇襲をかけたのは鍾会率いる約10万の大軍によって中(陽関)が陥落した後のことであったと思います。

征討時の隴西方面から攻め入った鄧艾の3万の軍は元々、沓中に駐屯する姜維部隊諸葛緒の3万の軍と挟撃するための部隊のはずなので、大軍である必要はなかったのではないでしょうか?むしろ、姜維率いる機動部隊を封殺するために動かしやすい兵なのだと思います。

また、上記の2点にあるように征討時に軍は中と沓中(及び武都)を同時に攻めることによって片方を攻めた際に側面を突かれる可性を消しています。
10万の軍を大軍を配せるルートから中に、少数の機動部隊を隴西及び雍州から沓中に進めたことで沓中にいた軍の機動部隊閣まで後退させられ、中は支を大軍によって抑えられた結果、守将の降を招いてしまい要所(陽関)が落ち、陥落してしまったのだと思います。
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415 ななしのよっしん
2023/06/05(月) 00:05:06 ID: CedPwm540C
書き込むのに時間がかかっていたら>>413さんのほう先にが詳しく書かれてましたね。
失礼を致しました。
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416 ななしのよっしん
2023/06/06(火) 21:01:50 ID: h2aMgMzjoY
繰り返すけども、の論点は「隴右がに支配されるとは詰む→故に姜維の積極北伐方針は積極的防衛であり一正しかった」という説が妥当だとは思えない、ということのみだからね。
そこに絞って述べていくわよ。
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417 ななしのよっしん
2023/06/06(火) 21:03:24 ID: h2aMgMzjoY
>>413

複数ルートを使った大規模な侵攻は既に子午の役でやられているし、この時も武都からの西回りルート郭淮が攻めてきたが、魏延呉懿が撃退している。

つまり「この西回りルートから攻められたら中は詰み」「他のルートから同時進行されたら詰み」という理屈は成立しない。
なので中が落ちたのは侵攻ルートの問題ではなく、他の理由によるものだ、という結論になるよね。

は戦果のい出征を重ねたことによる軍事の低下と、内の政治的分裂による士気の低下と揮系統の混乱と、そして総指揮官姜維中にいなかったことなどを因とみる。
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418 ななしのよっしん
2023/06/06(火) 21:04:32 ID: h2aMgMzjoY
>>414

開発が進んだ西の時代になっても州の人口はなお3万戸に過ぎず、雍州も山脈の西側は同じぐらいの数しか住んでない(長安方面にはいっぱいいるけど)。
地勢や異民族との関係を考慮しても、この辺の生産+輸送で3万+3万の軍を送り出すのは、ほぼ限界ギリッギリの動員だったと思われる。

そして繰り返すけども、この鄧艾諸葛緒の後方拠点となった地域は相当に前からの支配下にあり、実際子午の役でもそこからのルートが使われている。
つまりとしては隴右があろうがなかろうが、滅亡時と同様の戦略で攻めていくことは可だったということになる(安定度によって動員兵に多少の違いはでるだろうけど)。

よって「隴右がの手に入ればは詰み」「だから姜維はこの地域に攻撃を仕掛けていた」「実際の滅亡時の動きがその拠」という理論は成立しない。それで詰むんならもっと前から詰んでることになるもんね。
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419 ななしのよっしん
2023/06/08(木) 07:05:47 ID: U0NWJBPO/b
>>417
その頃は複数ルート使えるなんてとても言えるような状況じゃないんですよ。雍州刺史・郭淮の使えた兵が数千程度、第3次北伐で郝昭の守っていた陳倉に至っては僅か千でしたからね。曹真に陳倉狙われるのをわかっていて修理までさせたのに置けた兵はたったのそれだけ。この時代に隴西方面でが運用できた兵というのはその程度のものだったのです

そりゃ、魏延呉懿も陳式も攻め放題なんですよ。長安駐屯の中央軍を拘束している限り数的優勢にある別働隊は攻め放題なのですから。子午の役で郭淮が率いた兵もその程度だったはずで牽制程度にしかならなかったものを使えてたというのは違うと思うのです

雍州・州の兵というのは、諸葛亮が死んだ後に司馬懿が長い時間をかけて屯田兵を増やして作ったものです。ご存知とは思いますがの兵役は兵戸制で現地の民を徴兵していたのではなく職業軍人を移動させて駐屯していました。戸籍も民と兵は別でした
屯田兵を増やし拠点を築き物資集積拠点を作り軍事拠点として使えるようにする。それを続けていって万単
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420 ななしのよっしん
2023/06/14(水) 22:25:05 ID: CedPwm540C
>>418
自分としては姜維は「防衛の為の北伐(積極的防衛)」をしていたのではなくやはり「いずれを打倒する為の北伐(積極的攻勢)」をしていたのだと思っています。その為に隴西方面の確保は必須だったのだと思います。

の(中から)可な北伐ルートは↑で仰っている曹真)の中侵攻ルートとほぼ同じでに4つですが、諸葛亮姜維共に数度の北伐においてどのルートを選んだ場合でも隴西方面への進出及び制圧を度々試みています。

隴西という地域は【】と【】とでは利用価値の重要度が違ったのだと思います。

】にとっての隴西は【侵攻に使う場合】は↑でも仰っているようにへの侵攻ルートが一つ増える程度の重要度しかありませんでした。もちろん、後年は整備と統治の結果によって多くの兵を送り込むことが出来るようになるので、重要度が変わってきますが‥‥。
【防衛する場合】は整備すれば行軍が容易になり、の侵攻に対して即座に援軍を送り込める様になる。奪われると軍の前線が押し上げられることで、族の反乱、の侵攻ルートの増加、他の方面へ攻勢が強まる可性が高まる為、重要度が高くなります。

】にとっての隴西は中から他の山、(陳倉)、長安いずれの方面へ進出するにしても背後になる地域であり、族との連携に必要不可欠な地域であるため【奪えた場合】他方面への進出する際の後方の安全確保、族との連携、後方の地域拡大による糧秣等の輸送ルートの確保、侵攻時の選択肢の増加、中方面への圧拡散等のメリットがあるため、重要度がかなり高くなります。
しかし、【奪えずに整備・統治された場合】他方面への進出する際、常に後方を脅かされる可性がある、族との連携が難航、中方面への圧及び侵入ルートの増加、速な敵部隊の展開による形勢の不利等のデメリットがあるため重要度がさらに高くなります。
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