孟達とは、
ここでは1について説明。
最初の裏切り
字は子敬、後に子度と改める。涼州扶風郡(陝西省宝鶏市)の人。
父の孟他は後漢の十常侍の一人、張譲に家産を傾ける程の賄賂を贈って涼州刺史の地位を得た人物である。
その子の孟達は故郷にいたとき飢饉に遭い、同郷の法正と共に劉璋の元に身を寄せた。
劉璋が張魯への備えのために劉備に援軍を求めた時、法正と一緒にこれを出迎え、そのまま法正と共に劉備に仕えた。この際、劉備の叔父さんの劉子敬と同じ字ということで自分の字を子度と改めた。
やがて劉備が漢中を攻めると孟達の軍は房陵を奪い、太守の蒯祺(蒯良の甥で、諸葛亮の姉婿)を殺した。そのまま上庸に進撃し、太守の申耽を降伏させた。孟達は上庸に劉備の養子、劉封と駐屯するが二人の仲は良くなく、劉封が孟達の軍楽隊を没収するなどの出来事があった。
二度目の裏切り
荊州の関羽が魏の領土だった樊城を包囲するも関羽が曹操と孫権の挟撃にあうと、劉封と孟達は何度も援軍を求められるが、上庸が占領したばかりで治まっていないという理由で二人はこれを拒否。関羽が敗死したことで二人は劉備に恨まれることになった。
孟達は劉備の怒りを恐れ魏に多数の兵士を連れて投降する。魏の君主曹丕は孟達を新城太守、散騎常侍に任じ孟達に夏侯尚、徐晃らと上庸を攻めさせ劉封を追い出し申耽と弟の申儀を降服させた。劉封には魏に降るよう手紙を贈っている(劉封はこれに従わなかったが結局賜死する羽目になった)。
曹丕は孟達の容姿や才能を寵愛し、外出して一緒に車に乗った時は「君は劉備の刺客ではあるまいな」と冗談を飛ばすほどだった。司馬懿や劉曄が孟達は信用出来ないと諫言しても曹丕は従わず孟達への厚遇を続けた。
しかし曹丕が崩じ、親友だった桓階や夏侯尚が同じ頃に逝去すると、元々降伏者として周りから疑いの目で見られていた孟達の心に不安が生じるようになる。
最後の裏切り
孟達は曹丕の生前から諸葛亮と書簡をやり取りしており、魏への北伐に向けて、魏を内部から揺さぶるために、費詩の反対を押し切り諸葛亮は孟達に誘いをかける。しかし孟達はなかなか決断しなかったため、諸葛亮はしびれを切らして、孟達が申儀との仲が悪いのを利用して魏に孟達の謀反計画が漏れるように差し向けた。
魏の諸将は孟達が蜀や呉と連携しているから慎重に動くよう言ったが、司馬懿だけは孟達に対して即決で対処すべきと主張し、魏帝に図らず独断で州泰の先導で昼夜兼行で道を急ぎ、わずか八日間で上庸に到達した。
もともと孟達は、諸葛亮に「司馬懿のいる宛から洛陽まで八百里、上庸まで千二百里離れています。魏帝に奏上してから城下に迫るまで一ヶ月はかかるからそれまで防備は固められます」と言っていた。しかし司馬懿の神出鬼没ぶりにさすがに孟達は慌て、必死で抵抗したが、申儀の妨害や、孟達の甥の鄧賢や部将の李輔の降伏等もあり、包囲十六日で上庸は陥落、孟達は斬られ洛陽に送られ晒された。
孟達の子の孟興は蜀に仕え、蜀の滅亡後は故郷の扶風郡に帰った。
逸話
各メディアにおける孟達
三国志演義
演義では字は子慶。劉封に対して、「かつて劉備との養子縁組に反対していた」とまで言って関羽への援軍を出さないように説得している。その後、劉備死後に司馬懿が曹丕に提案した五路侵攻作戦の一端を担うも、相手が旧友の李厳だったため、病気を装って進軍しなかった。そして再び蜀に寝返ろうとした時、魏軍の先鋒となった徐晃の額を矢で射抜いている。
横山三国志ではなんか普通に小物臭が漂う言動が目立っている(特に再び蜀に寝返ろうとした場面とか)。
三国志大戦
Ver3.0では蜀だったのにVer3.5では魏に属している。裏切り者のイメージをも払拭させる彼のVer3.5の脱力セリフといえばやっぱり
「シクジッタカー」
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関連項目
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