孫皓単語

ソンコウ

孫皓(そんこう。242284年)とは、中国時代の第四代皇帝である(在位264年~280年)。
字は元宗。 幼名は彭祖。皇后は滕氏。「孫晧」の表記もある。
最後の皇帝であり、三時代最大の暴君として知られる。

また、狂気の情あり機知に富むやり取りあり、更には書に石碑仏教にと、様々な逸話を残している人物。

二宮の鬼子

孫皓の孫和は、初代皇帝孫権皇太子に立てられていたが、孫権の後継者をめぐる内紛(二宮の変)に巻き込まれ、十三年(250年)皇太子され、南陽王として長沙においやられた。
二年(253年)、孫権の死後に実権を握った諸葛恪孫峻に殺されると、孫峻孫魯班は孫和に諸葛恪とのつながりを咎め、王位も剥奪し新都に追放、自殺に追い込んだ。孫和の正妻氏も共に自殺し、孫和の子達は孫皓の実に育てられた。
皇太子であった嫡され自殺に追い込まれ、宮廷は諸葛恪孫峻孫綝と、皇帝嫡さえ行う相次ぐ権臣の専横。政争に明け暮れ互いに殺しあう皇族たち…
二宮の変以来続く宮廷の暗闘のを幼いに焼き付け孫皓は育っていった。

三年(258年)9月孫魯班、全尚、そして皇帝孫亮らが権臣孫綝の暗殺を計画。しかし計画は発覚し、孫綝孫魯班と全尚を追放。孫亮も退位に追い込み、新たに琅邪王孫休を即位させた。
孫和を陥れ自死に追い込んだ反孫和の筆頭、孫魯班の失脚。
これにより、孫和の息子である孫皓たちは復権を果たし、新皇帝孫休により、孫皓は程侯に、たちもそれぞれ侯に封じられた。
同年11月孫休クーデターにより孫綝は殺孫休は、即位前からの心濮陽布らと共に親政を始め、混乱が続いたの安定をめざしてゆく。
程侯になった孫皓は、ここで程県であった万彧と親しい交わりを結ぶ。
だがようやく侯にとりたてられたばかりの太子の息子皇帝孫休はまだ若く、男子も四人。本来なら孫皓が皇帝になる可性などなかった、はずだったのだが…。

永安七年(264年)、皇帝孫休が急死した。
昨年には交趾で反乱、更にはの滅亡と、当時の危機的状況にあった。孫休の子はまだ幼少であり、群臣達は頼もしい君を望んでいた。
孫休の重臣である濮陽布、そして孫休皇后朱夫人に「程侯には長沙桓王(孫策)の才知あり」と説得したのが、今は左典軍となっていた万彧であった。
かくて国難迫る中、中の期待を担って孫皓は即位した。時に23歳。

皇族粛清

孫皓は位につくと、その年の内にの孫和に文皇帝という諡号を与えた。そして陵を葬し、墓守のために200以上の園を作り、墓を守る役職を設け、任に当たらせた。さらに新しいを作り、そのに季節ごとに陵の祭礼を行うよう命じた。
これだけでも篤い祭礼であるが、さらに建業に孫和のを立てた。
に孫和の霊を迎えたとき、 覡の「孫和様の霊は衣服も顔色も生きているときのままとお見受けします」との報告を聞いた孫皓は感涙にむせび泣き、七日のうちに三度の祭を行い、の別なく歌舞を演じさせた。
さらに、生の何氏の位を上げて太后とした。

孫皓のこの姿勢からは、孫和こそが正統な皇統であるとの強な思いが見える。
その反面、孫皓は他の皇族たちを次々と粛清してゆく。

元年(264年)9月、前皇帝孫休皇后であった朱太后は皇后にされた。これは太后からの格下げを意味する。
さらに甘露元年(265年)7月に孫皓は皇后を迫し、死においやった。
また、孫皓は孫休の4人の子を捕らえて小城に閉じ込め、年長の2人を殺した。
孫休心であった濮陽布は、孫皓を即位させたことを後悔したが、それを万彧に讒言され、結局孫皓に誅殺された。

孫皓には3人のがいたが、そのうち孫謙は、後述する施但の反乱に担ぎ上げられ、後に孫皓に母親息子含めて殺された。
孫俊は聡明で評判高かったが、これも孫皓に殺された

二宮の変で孫和と皇太子の位を争った孫覇の息子、孫基・孫は会稽へ追放された。

建衡二年(270年)孫皓が寵愛していた王夫人が亡くなり、孫皓は哀しみのあまり数ヶ間引きこもってしまい、人前に姿をあらわさなくなった。そのため「孫皓は実は死んでいて、孫奮(孫権息子)と孫奉(孫策の孫)のどちらかが即位する」という噂が流れた。孫皓は怒り、孫奮と五人の子を、また孫奉も殺した。

同年。口都督孫秀(孫権の孫)は、孫皓を恐れてに亡命した。

璽元年(276年)、皇族の孫楷(孫堅の血統ではない)がに投降した。

二宮の変以来相次いだ政変につづいて、この孫皓の粛清。こうしての皇族はほぼ根絶やしとなってしまった。

また、の著名な史・学者であり、孫皓が寵愛していた昭(曜)も、後に不を買って処刑される。
史書で孫和の本紀をたてるよう命じられたのを拒否したことが原因であった。
史書で本紀とは皇帝の記録のことであり、「皇帝に即位していない孫和を皇帝として扱うことはできない」という姿勢が孫皓の逆鱗に触れてしまったのである。

内憂

孫皓は即位直後から、相次ぐ内の反乱に応対しなければならなかった。

孫休時代に交趾で起こった呂の乱。呂に救援を依頼した。
孫皓が即位した元元年(264年。の咸熙元年)司馬昭の命を受け呂の救援に赴いたのは、の時代から南中を守備していた南中都督霍弋
霍弋の南中から兵を出し、交州三を占拠。南方に押さえられてしまった。

また、武陵でも反乱が発生。は、霍弋と同じくの時代から東を守備していた羅憲を武陵太守・東監軍に任じ、反乱を支援させた。

建衡三年(271年)、霍弋の死後、陶璜陶コウ)らの活躍もあって、は交州を奪還した。しかし、後述する施但の反乱等、孫皓時代のには反乱や疫病が相次いだ。
紀三年(279年)、郭馬の反乱。孫皓が広州の戸籍を調しなおして課税を強化しようとしたことに対する反乱であり、この郭馬の反乱は、直後の侵攻とも相まって、滅亡の重要要因となってしまうのである。

外患

孫皓との最大の課題はやはり、同盟を併し、北、西、南と三方から囲みこんだへの対応であった。

孫皓の即位直後の264年(の咸熙元年、の元元年)。司馬昭は、に降伏を薦める書簡を送ってきた。
孫皓は返書で「皓、申し上げる」「私も王のように世を正しく導いてゆきたいと願っております」とへりくだり、使者を陽に送った。
の使者は陽でに会ったのち、司馬昭に宴席に誘われた。その宴席で使者は二人の人物を紹介された。
「あちらが安楽(劉禅)、あちらが匈奴の単(呼)です」
の地と匈奴を従え、皇帝をもしのぐ司馬昭の権勢を、の使者たちは見せつけられた。

に変わったころから、孫皓は盛んに北伐の計画を進めてゆく。

  • 元年(266年)陽侵攻を群臣と図るが、陸凱の反対もあり沙汰止みに
  • 三年(268年)孫皓は東関に親征し、施績が江夏に詰める。万彧が襄陽、丁奉諸葛靚は合肥に出兵。軍と突するが、結局敗退
  • 建衡二年(270年)丁奉が渦口に入るが、揚州刺史の牽が撃退する
  • 鳳凰二年(273年)魯淑と薛瑩が西に出兵したが、陽の戦いで王渾に撃退された
  • 紀元年(277年)口の督の孫慎が江夏から南に軍を進め、焼討ちをかけて住民を略奪
  • 279年(西の咸寧五年。紀三年)滅亡の前年においても、の安東将軍王渾は「孫皓に北伐の動きあり」と陽に上表している

また、甘露元年(265年)9月。孫皓は建業から武遷都した。西陵督歩闡の上表をうけてのことであり、荊州防衛の強化、あるいは荊州からの北伐の意図があったものと思われる。
しかし、これによって揚州の民衆は、貢納を長江のはるか上流の武にまで送らねばならず、負担が増え不満が高まった。
陸凱をはじめ臣下たちの遷都反対の諌言も相次ぐ中、翌宝元年(266年)10月、永安(の永安ではなく、現在の浙江のあたり)の山賊の施但らが数千人の徒党を集めて反乱、孫皓の異である永安侯の孫謙をかついで程まで進み、建業近郊の孫和の陵まで襲われた。
遷都は反乱と内の疲弊を招いただけに終わり、その年12月に都は建業に戻された。

建衡三年(271年)正月、孫皓が多くの重臣たちと、や妃まで引き連れて(建業の西)にまで行幸するというの事件がおこる。

内では後述する「孫皓がまーた変なお告げに従ったのかよ」と噂されたが、の側では「孫皓は寿侵攻を狙っているのでは」と判断され、司馬望が増援に赴いている。
において、孫皓は北伐に積極的な君と見られていることがわかる。

しかし結局、孫皓の北伐ははかばかしい結果をあげることは出来ず、を疲弊するだけであった。陸抗は「むやみな出兵は取りやめて、兵士民衆のを養い相手の隙や短所を十分見定めた上で行動してください」と諫めた。

権臣処刑

皇族を粛清し続けた孫皓は、臣をも次々と追放殺してゆく。

  • 孫皓の顔色を伺うことなく諫言してきた、誇り高く威厳ある気質の王蕃は、宴席のとき正殿の前庭でり殺された
  • 清廉な人格者であった楼玄を、孫皓は交州に追放し、更に現地の武将に殺を命じた。楼玄に敬意を抱いたその武将は命を守らずにかばったが、やがてそのことを知った楼玄は自殺した。
  • 民衆の財貨を強奪させた孫皓のを法に従って処刑した中郎将の陳。孫皓は激怒し、焼いたで陳の首をりおとした
  • 「民が疲弊し反乱が頻発しているのは租税や徴用のため」と諫言した賀は免職され、後拷問を受け殺された

また、孫皓の粛清で特徴的なのは、自分で可がり取り立てた権臣たちをも処刑するところである

  • 孫皓即位に尽し、隷からのし上り大抜されたため、多くの人から軽蔑されていた万彧
  • 諛追従で上に巧みに取り入り、権をかさに来てを献上させたり、 勖を讒言し一家皆殺しに処したにもかかわらず列侯の爵位まで与えられた何定
  • 讒言誣告を盛んに行うことで昇進し、孫皓から深い寵を受けた
  • ずるがしこく立ち回り孫皓に取り入り九卿の位まで上り、土木工事を好み民衆を労役に借り出した岑昏

孫皓の寵臣として権勢を振るったこれらの臣は、後にことごとく孫皓自身により失脚あるいは処刑された

しかし、これら佞臣と呼ばれる人物たちの事跡を見てみると

  • 万彧:右丞相に上り詰め、丘の守備を任されるなど要職についており、かつ失策などは特に記されていない。また、良臣とされる楼玄を宮中に任用しするよう上奏したのも万彧である
  • 何定:孫皓の命を受けて口に兵五千を率い、孫秀を亡命まで追い込む。また、勖を一家皆殺しにした讒言「交阯奪還のために出させた勖が、部下を殺して勝手に軍を帰還させた」は虚偽ではなく事実
  • 淑:「誣告や讒言を受付け調する部署の責任者」という、もっとも人から嫌われやすい役職についたこと

など、一概に奸臣とばかりは言えない側面もあるため、
低い柄の人材を抜して重臣族に対峙しようとする皇帝孫皓と、反発する族層のさみでつぶされた人々と捉えることもできる。

また、諫言する臣下の中にも、処罰されなかった者もいる。後述する陸凱や陸抗、また覈などである。
覈は、孫皓が臣下を殺追放しようとするたびに反対し助命を嘆願した。その他諫言や推薦等、通以上の上奏文をげた。最後には小さなことで譴責を受けて免職されたが、命は奪われなかった。

天発神讖碑

「孫皓は占いやお告げにすがり政を乱した」ということはよく知られているが、孫皓がのめりこんだ「占いやお告げ」とは讖緯説のことである。
讖緯説。王莽光武帝が、そして近くは後漢末期袁術劉備、はてはから譲をうけたが即位の論拠として利用した、未来を予言する儒教の学説。
孫皓はこの讖緯説を使い、の正統化と皇帝権威の伸を図った。

孫皓の讖緯でとりわけ有名なものが、璽元年(276年)に建てられた讖碑と、封儀式である。

璽元年、鄱陽から報告があった。
「歴陽山の石の筋が字の形となった。それには
 楚九州九州都。揚州士,作天子。四世治,太
と書かれていた」
孫皓は「九州の都となる。そして朕は大帝(孫権)から四代である。太君とは即ち朕である」として
石に銘を刻んで碑をたてて祥瑞に報いた。これが讖碑である。

また同年、の陽羨山の岩の各所に瑞祥が表れている、と報告があった。そこで、記念として山名を「山」と称して封を行い、石碑を建てた。これが封山碑である。

このようにして建てられた讖碑は、掘り込まれている書体の異形さで名が知れている。
後世の評価も

  • 「篆書体でもなく、隷書体でもない。極めてまれなもの」
  • 「奇怪の書」
  • 蛇神
  • 「関わりすぎると心身に異常をきたす」
  • 「孫皓の異常な心理の発露」

等々結構ひどい言われようであるが、反面この書を取り入れた徐三のような書もいる。
また、讖碑は拓本が、封山碑は石碑が現存しており、時代の重な遺物となっている。

このように瑞兆が相次ぐ孫皓時代の。この記事をここまで読まれた皆様にもお分かりいただけただろうか?孫皓時代の元号は異様に多いのである。
上記のほかにも頻繁に瑞兆が報告され、そのつど元が行われた。孫皓治世16年のうち、元は8回。大赦は12回。
瑞兆を、元を、そして大赦を。恩徳を見せつけばら撒く暴君の、このむなしさと回り感。

陸凱-忠壮質直

建衡二年(270年)口都督の孫秀が出奔しに亡命して以降、臣の亡命が相次いだ。
璽元年(276年)8月下督の孫楷がに降伏したのをはじめ、当時のの記録(「書」)には、年に数人の割合で続々とに投降してくる将の記録が記されている。

ついには鳳凰元年(272年)8月、要枢の地西陵を守備していた歩闡に投降。西陵ごと寝返るという大事件が勃発する。

臣下たちの相次ぐ処刑、粛清、離反。その中で最後まで孫皓を諌めを支え続けたのが陸氏一門の陸凱と、陸遜の子陸抗であった。

 陸凱は元々軍人としてのキャリアが長かったが、孫皓が即位してまもなく、右丞相万彧と並ぶ左丞相に任じられた

陸凱の諫言は、として以下の内容になる

  • 北伐には反対。むやみな出兵はを損ねる
  • 奸臣は遠ざけよ。何定のような小人は重用しないよう
  • 民衆を休めよ。遷都や宮殿建造、北伐と重税で民衆は農業さえできず困窮している

孫皓の方針とは逆であり、陸凱とは当然頻繁に衝突することとなる。

三国志書」陸凱伝に「二十項の上表文」という文章が載っている。
陸凱の諫言に対し孫皓は「あなたの諌めは根本から間違っているのだ」と正面から否定。
それに対し陸凱は二十項をあげて孫皓の政策を底的に批判し尽くすという内容で、陳寿

「荊州や揚州の者からよくこの上表文のことを聞かされるので、いろいろ取材してみたが、実際に上表があったことを知る人はいない。
更に、もし孫皓が見たのならそのままに済ませるとは考えられないほどあまりにな内容である。
文章は書いたが上奏はしなかったのか、あるいは死の直前に託したのか、偽が分からないので本文には載せない。
しかし、孫皓の政策を明らかにして、後世のめとするに足るものと考え、本文の後に付載する」


と前置きした上で掲載したいわく尽きの文章である。
また、陳寿も記したように、孫皓の政策とその問題点がなんだったのか、が分かりやすくまとまっている文章になっている。

さらに陳寿三国志書」に「次のような事件があったという者もある」と、事実は否かは保留した上で陸凱の孫皓立計画も記す。
二十項の上表文と同じく、事実かどうか不明と前置きしながらの掲載は、過剰な装飾や、偽の分からぬ評は排するスタンス陳寿としては極めて異例のことであり、陳寿が陸凱と孫皓、そして末期の政情に関して史以上に同時代人として(正史三国志が校了したのは滅亡から十年と経たない時期)大いに関心を抱いている様が伺える。

建衡元年(269年)陸凱は死去。死の直前、孫皓は中書の董を遣わし、申し述べたいことがないかたずねた。
「何定や奚煕は、国家の大事を委ねるに足らない」
「姚信、楼玄、賀張悌逴、薛瑩、滕脩、陸喜、陸抗は社稷の根幹となる人材。彼らに厚いご配慮を」
陸凱はこう答えた。

孫皓は以前から陸凱に不満を持っていたが、重臣である上に陸抗が健在である間は手が出せなかった。陸抗が死んでから、陸凱の家族を交州へ追放し報復した。

陸抗幼節

当時陸抗は大司馬施績の守備を継ぎ、本拠を楽郷に置いて、信陵・西陵・夷・楽郷・公安の各軍を統括する任務に就いていた。
上述した、歩闡と西陵がに寝返った時、陸抗はすぐに西陵急行の名将羊祜らの援軍と対峙し、二転三転する攻防戦の末、遂に西陵を奪回した(西陵の戦い)。

その後陸抗は、羊祜とは敵同士でありながら、互いに才を認め合い篤い交わりを結んだ(陸之交)。
疑心を抱いた孫皓は陸抗を詰問するが、その後鳳凰2年(273年)に陸抗は大司馬・荊州牧に任じられる。

また孫皓は、自分の(異。孫和の正妻氏の)を、陸抗息子がせており、孫皓にとっても陸抗とその一門は欠かせない人材であったことがわかる。

そんな陸抗は、だが翌鳳凰三年(274年)に死去。死の直前に孫皓に宛てた上奏文で陸抗

  • 西陵は今、北と西の二方面から敵の圧をうけている。もし敵が長江上流から軍船で攻め込んできたら、西陵は陥落する
  • 西陵は国家存亡の要であり、を挙げても対処しなければならない
  • 以前私は西陵に精兵3万を要請したが、送られてきたのは普通の兵だけだった
  • 現在軍の消耗は益々しく、兵士たちは疲弊しきっている。次に変事あれば、もう対処も難しくなるかもしれない
  • 募兵の制度や兵士内配分等を革し、なんとしてでも西陵に8万の兵を配備してください
  • 私が亡くなりましたら、どうかこの西方の土地に陛下ご自身でお心を十分にお注ぎいただきますよう

と、今のの厳しい現実を訴えた。

かつてのの地、いまや対の前線基地となっていた益州では益州刺史王濬により討伐の大船団が建造されていた。
太守は、長江上流から流れてくる木屑を見て、の軍船建造を知り、孫皓に増援を要請した。

めにも、陸抗の上にも、孫皓は何の対応も打たなかった。あるいは打てなかったのだろうか?

上下離心

二年(267年)、 孫皓は顕明宮(昭明宮)という巨大な宮殿を建設した。孫皓の政策中、武遷都と並んで陸凱を始め臣下たちから最も批判されたのがこれであった。

今まで述べた以外で、三国志書」本文に記されている孫皓の暴虐さは以下の通り。

  • 宴席ではいつも皆を酔いつぶれるまで飲ませ、酩酊時の失態や失言を記録させ、厳罰を与えた。
  • 後宮にはすでに数千人の女性がいたが、更に新しい宮女を入れ続けた。
  • 宮中にを引き入れ、意に沿わぬ宮女は殺してそのに流した。
  • 人の顔を剝いだり、を抉った。
  • 民衆を労役にかり出した

過剰な装飾が少ないといわれる正史本文でさえこれである。注釈に引かれている「江表伝」等ではさらにすさまじい暴虐振りが記されている。 布の娘姉妹を後宮に入れた逸話など)

宮中に血と粛清が沸きおこっているとき、その外もまた疲弊にあえいでいた
覈、陸凱、陸抗らの諌言の多くには、民の疲弊、重税と兵役、女の徴発への言が多数見られる。

  • 孫権死後、軍役が相次ぎ、兵士は疲弊し軍需食料は底を尽き、兵士たちに配給する衣料もない
  • 兵役と土木工事で民衆は農作業をする間もなく、田は荒れ果てている
  • 都の諸官、地方官、派遣された宦官、監察官らがそれぞれ民を徴用し、浪費している
  • 後宮に多数の宮女を召し上げたため、妻を得られない男が多数出て、たちの親は嗟のを上げている
  • 民衆が財を奪われ餓えに苦しむ中、な宮殿建築が建てられている……

郊外の江江寧県で発掘された西時代の墓に、以下の文字が書かれた磚(墓室にはめ込み副葬する、絵の描かれた石)があった。
「太歳 下太[1]
子はが滅びた西暦280年のこと。建業近郊の人々でさえも、定されたことを下太と祝賀し、しかもそれを墓に副葬している。と孫皓が人々からどれだけ恨まれ見放されていたかを示している。

[1]文京著「中国歴史04 三国志世界講談社

「…こうしたことのため、上下の人心は離れ、も孫皓のためにを尽くそうとする者がなくなった。悪事を積み重ねることも極まって、もう命を継ぐことができなくなっていたからなのであろう」
三国志書」三嗣伝)

六路侵攻

279年(の咸寧五年、紀三年)の討伐の大動員をかけた。

更に全軍の統括として大都督賈充、 物資輸送を担当する度支尚書張華
六路20万の軍勢が長江全域に展開し、に侵攻した。

寿から出撃した王渾。かつての因縁の係争地合肥を横に南下し、建業に迫った。孫皓は迎撃したが大敗。諸葛靚は敗退し、沈瑩、孫震や丞相張悌は戦死。建業近郊でのあっけない敗北を眼前にし、は恐慌状態に陥った。

かつてのの都、成都から出撃した王濬軍は、大船団を率い長江を進撃した。軍はの船団を防ぐために、長江に鎖をはり、また船底を破るため錐を水中に設置した。だがこれらも王濬唐彬軍に突破された。
西陵。かつて夷陵と呼ばれた地。陸遜劉備軍を撃破したの栄の地。歩一門と陸抗が生涯をかけて守備した要枢の地。280年(の咸寧六年、紀四年)2月、西陵、夷は次々に陥落し、陸抗の子陸晏と陸は戦死した。

襄陽から出撃した杜預軍。襄陽から江陵へ、71年前に曹操劉備を追撃した長坂の戦いをを想起させる経路で進撃して都督の孫歆を捕虜に。ついで江陵を占領し江陵督延をった。陵、陽、衡陽などの荊州南は、相次いでに下った。

王濬唐彬軍は長江を更に下り、の古戦場を通過し、口を攻略。ついで王戎と合流し武に攻め寄せる。孫権以来のの副都武も陥落し、江夏太守朗と、武諸軍虞昺は降伏した。
郭馬の乱鎮定に向かっていた陶濬侵攻を聞き、武に戻っていたが、このときの状況を孫皓に上奏した。
「武より西では、もう守りに当ろうとする者もない。守りに当らぬのは、軍糧が足らぬからでも、が堅固でないからでもない。兵士も武将も戦いを放棄してしまったからだ」

かくて、いまだ建に篭中のを除く、から建業へいたる長江全域がの支配するところとなった。

王濬唐彬が行くところ、軍は土崩瓦解、防ぎとめようとするものはもいなかった」
三国志書」三嗣伝)

陶濬からの上表がありました…
兵士たちが戦いを放棄したからといって、どうして兵士たちを恨めましょう。
を滅ぼすのではありません。これは私が自ら招いたことなのです。
死んで土中に葬られたとき、なんの面があって四人の先さまと顔をあわせることができましょう」
三国志書」三嗣伝注「江表伝」、孫皓が、何氏の、何植に宛てた書簡)

罪己の書簡

孫皓は、游擊軍の軍1万で出撃させるが、軍の旗を見るや降伏した。
3月陶濬は建業に帰還し孫皓に進言した。
の船はみな小でございますゆえ、もし二万の兵をお預かりすることができ、大船に乗って戦えば、十分に打ち破ることができます」
孫皓は兵を与え、翌日には出撃することになったが、兵卒達はそののうちにみな逃亡してしまった。
かつて曹操を打ち破り、幾度となく襲来するの侵攻を跳ねのけ続けた軍はこうして消滅した。

王濬司馬伷王渾らが建業近辺に集結し、総攻撃が迫る中、孫皓は薛瑩、胡の言を受け入れ、の各将軍に投降書簡を送った。

3月15日、 建業に侵攻した王濬に対して、孫皓は降伏した。孫権即位以来51年。時に孫皓39歳。
孫皓は陽に護送され、司馬炎から帰命侯に封じられた。
その4年後の 太康五年(284年)12月、孫皓は陽にて死去した。

孫皓は降伏に際し、の群臣達に次のような書簡を送った。

「…みずから思うに、浅薄な徳でもって過って位につき、とるに足らぬ素質しかないのに、王をこえた重任を担った。
…小人たちをそばに近づけたがために、残虐な行いが助長され、そのは広く広がって、忠良な者たちが被害をうけることとなった。しかも愚昧にして私にはそのことがわからず、彼らの、君臣の間をへだてる計略に載せられて、私が諸君たちに背いたのだ。
…いま大いなるは、四定し、賢才ある者を取り立てることに心をくだいている。これぞ英俊の士がその志をのばすべきときなのだ。
…乱れたを去り、治まった朝廷に仕えるのは、不忠ではないのである。王が移り朔がまったからといって、その志を十分に伸ばさぬことがあってはならない。諸君の今後のいっそうの努と発展とを祝し、自を祈る。これだけが私の申したいことだ」

三国志書」三嗣伝注「江表伝」)

論評

陳寿正史中で最悪の評価を与えた人物、それが孫皓である。

「…孫皓は度しがたい悪人で、ほしいままに暴虐をはたらき、忠諫者を誅し、讒諛者を昇進させ、民衆たちを酷使して、淫乱奢侈をきわめたのである。当然、斬首の刑に処して、万民に対して謝罪すべきであった」

三国志書」三嗣伝)

他の同時代の論評も、だいたい陳寿と同様「滅亡の本人」であるが、
最後まで軍に抵抗したは、戦後武帝司馬炎から「孫晧がを滅亡させた原因は?」とたずねられたとき
 「は英邁で、宰相たちは理に明るかった。滅びたのは人のではどうにもならぬ命です」と答えた。

「三国志演義」では

を撃滅してのと北伐になぜか自信満々の謀な男として描かれている(演義が描写した袁術に似たノリ)。

正史との大きな相違点として、

そのほか、降伏後陽で司馬炎賈充に相対したときに、資治通鑑のエピソード二編、

  • 司馬炎は孫皓に席を与え「朕はこの席を用意して、長いこと卿を待っていたぞ」
    孫皓「臣も南方で、席を用意して陛下をお待ちしておりました」
    司馬炎は大いに笑った。
  • 賈充が「あなたは南方におられた頃、いつも人のを抉り、顔の皮を剝いでいたそうですが、それはどんな刑罰に当るのですか?」
    孫皓「人臣の身にして君を弒した者や、奸計をめぐらす不忠者に、この刑を与えたのです」
    賈充は黙り込んで恥じ入った。

が書かれている。

エピソード

滅亡した他の三皇帝たち、 劉禅や曹奐とべると、孫皓のエピソードはかなり豊富に残されている。

  • 正面から見つめられるのを好まない」視線恐怖症の気があったとされる。
    そのことを陸凱に諌言されてからは、陸凱にのみ見つめることを許した。
  • 時代は、仏教中国に本格的に伝えられ、訳や寺院建立が始まった時期であり、孫皓にも
    仏教邪教とみなした孫皓が寺を破壊しようとしたとき、高僧康僧会を召しだし、善悪応報の仏教教義に関して討論した」
    「孫皓が像に小便をかけたら陰部に痛が走り、これ以来孫皓は仏教に帰依した」
    などの説話が残されている(詳細は下記「康僧会問答-孫皓と仏教」の欄を参照)。
  • 正史三国志書に書かれている、昭が孫皓の不を招いてからのエピソード
    昭は元来が弱かった。以前孫皓から礼遇を得ていたときには、宴席時にの量を減らしてもらったり、ひそかにの代わりにを賜っていたが、不を招いて以降は強いてを飲まされた」
    が、中国への伝来を示す最も古い文献だという。
  • 孫皓が顔剥ぎの話での人士をやり込める逸話は、上記の賈充相手のほかに、王済が相手になっているバージョンも存在する

    司馬炎が王済と囲碁をしていた。見ていた孫皓に王済は聞いた。「なぜ好んで顔の皮を剥いだのだ?」
    孫皓は、「君に礼な者がいれば、その顔を剥いだのです」と答えた。
    王済はこのとき脚をだらしなく囲碁の下に伸ばしていたので、大いに恥じて脚を引っ込めた」

    王済はに侵攻した王渾の子。司馬炎婿として寵を得、西貴族のなかで大いに流行っていた贅沢自慢の中でもとりわけ悪趣味な、
    「この豚肉人間で育てたのです」のエピソードの持ち
    かつての亡暴君と、西の奢侈堕落の徴のような貴族との邂逅の逸話になっている。

「爾汝歌」

孫皓と臣下たちの逸話が「世説新」には多く記されているが、その中でも、武帝司馬炎との「爾歌」の逸話はとりわけ有名である。


  • 武帝司馬炎が孫皓にたずねた
    南方の人は好んで「あんた」だの「おめえ」だのと言い合う恋愛民謡(爾歌)を作ると聞いているが、あなたは少しはできるかね?」
    孫皓はちょうどを飲んでいたので、杯をあげてに勧めて歌った。
    昔与為隣   今与為臣   上一桮   寿万
    昔はと隣たり  今はと臣たり  に一桮のを上る  の寿を万たらしめん

    昔は「おめえ」と並んでいた
    今は「おめえ」の臣下になった
    「おめえ」に一杯のを差し上げ
    「おめえ」の長寿をいのりましょう


    武帝はたずねたことを後悔した。」



「爾」「」はともに、二人称「あなた」の江南方言。また、ではなく「歌」とあるのは、これは江南土着の民謡をあらわす。恋愛の内容が多く、中原貴族たちからは紀を乱す淫俗の内容と蔑まれていた。

陽の宮殿において、蔑まれていた故郷江南訛りで江南土着の民謡の節を歌い上げることで、中原皇帝を「おめえ」呼ばわりしてやりこめる江南にて生まれ育った王の元君にふさわしいエピソードといえる。

また、西時代はこのように中原貴族に蔑まれていた江南民謡=「」「歌西曲」は、やがて数十年を経て、南貴族階級や宮廷も唱するほど浸透し、唐代のにまで影を及ぼすようになる。
そういうはるか後代までみまわすと、六最初の王としてのの元君、にふさわしいエピソードともいえる。

康僧会問答-孫皓と仏教

時代は、仏教が本格的に中国に伝来し、訳や寺院建立が始まった時期であるが、三時代の仏教布教に最も影を与えた君。それが孫権と孫皓であった。
をはじめ三時代における仏教の関わりは正史三国志」にも、「三国志演義」にもほとんど記述がない[1]ため、現時点で一般的にはあまり知られていない逸話であるが、
時代に記された仏教伝記集「高僧伝」や録集「出三蔵記集」には、にやって来た高僧康僧会と孫権・孫皓との問答や交流が、かなりのを裂いて紹介されている。

[1]仏教について正史(陳寿本文と裴松之注釈含め)が触れているのは、書にある仏教集団のリーダー笮融の伝と、孫綝伝にある「孫綝仏教寺院を打ち壊して僧侶たちをった」のみだろうか。

後の東南北朝仏教盛の先駆けとなった、そして孫皓の中国史世界史的意義にも重要な逸話であり、
また「像に放尿しはしゃいでいたら、股間を腫らしてのたうち叫ぶ皇帝」などのインパクトありすぎるエピソードは、孫皓という人物のキャラクター把握するためにも重要である。


※この欄の執筆には、岩波文庫「高僧伝」のほかに、平井俊榮「高僧伝の注釈的研究(3) 」exitを参照にした。

康僧会、孫権と会う

の有名な高僧、康僧会。「康」の名字が示すとおり、先祖はサマルカンド出身。その後代々インドに住み、の代のとき、商売のため交趾に移住した。
康僧会は学問に通じ、仏教の三蔵のみならず、儒教の六経や文、讖緯説にも精通していた。

康僧会は仏法江東の地に振させたいと志し、十年(247年)建業に着いた。[2]

[2]その一年後の十一年(248年)、交州では嫗の乱がおこる(討伐軍の陸胤が全裸になり、処女嫗を動揺させ撃破したとの逸話が伝わる戦い)。
士燮の死後、は士氏を滅ぼし交州の直接支配を続けていたが、この支配に対し交州では不がつもり、この後もたびたび反乱を起こしている。
康僧会が建業に上した一因として、交州の不穏な現状もあったのかもしれない。

建業で布教に努めた康僧会は、そこで皇帝孫権の知己を得た。
孫権は康僧会のためにを建立した。これが最初の仏教寺院、建初寺である。

その後、の実権を握った孫綝による仏教弾圧もあったが、康僧会は建業にて布教や経典の翻訳、著述を進めていた。

孫皓、応報思想を問う

さて孫皓が即位すると、法令は苛酷残虐となり、淫祠邪教棄するとし、やがてそれは寺にも及んだ。
孫皓は命じた。「もしの教えがまぎれもなく正しく、儒教典と一致するのであれば、その教えを信奉するがよい。しかし、もし実がないのであれば、みな悉く焼き払う」

孫皓は、建初寺に昱という人物を遣わし、康僧会を詰問させたが、ついに屈させることはできなかった。
昱は戻って孫皓に報告した。
「とても臣の及ぶところではありません。どうか陛下自らが確かめなさるように」

孫皓はをやって、康僧会を迎えにいかせた。宮殿に赴き席に座る康僧会。召集された多くの賢臣たちが見守る中、孫皓と康僧会との問答が始まった。[3]

[3]なお、孫皓はすでに仏教を知識として知っていた可性がある。
後漢献帝の末年に江南にやってきた仏教徒(出した僧ではなく、在信者)支謙は孫権に気に入られ、博士の官に任命され、当時のを代表する儒昭らとともに、東宮の補導係となった、と「高僧伝」にある。
また、「祖統紀」巻35、「法運通塞志」17の2には、の時代に立てられたとされる寺院4つが載っているが、そのうちのひとつ徳潤寺は、五年(242年)に尚書闞沢が建てた、とある。
(なお、五年にこの寺が建てられたとすると、「建初寺が最初の仏教寺院」という「高僧伝」の記事と矛盾が生ずる)
昭は前述した様に、太子となった孫和に使え、孫皓にも寵された大儒学者。
また闞沢も、尚書と共に太子太傅も兼任して、孫和や孫覇の教育に当たっていた重臣。
孫和や孫皓と親しく、仏教にも関心を持っている孫権昭や闞沢。孫皓が彼らを通じて仏教の知識を得ていた可性があるのではないか?

孫皓「の教えが説き明かす「善悪の応報」とはいかなるものか」
康僧会「(中略)『易経』に<善を積めば子孫にまで福が及ぶ>と言い[4]、『経』に<福をめてもに外れない>という[5]のは、儒教格言でありますが、それはそのままの教えでもあります」

[4]「易経」卦にある
[5]経」大麓にある

孫皓「もしそうであれば、周孔子の教え(儒教)がすでに明らかにしていることではないか。どうしてめての教えが必要なのか」
康僧会「周孔子は卑近の事柄について概略を示しましたが、の教えは、深く知り難いことを詳細に明らかにしております。[6]ですから、悪事を行えば地獄の長い苦しみがあり、善事を修めれば天宮の長い楽しみがあると言い。このことをもって善をすすめ悪をとどめる事由としております。なんと大いなる教えではありませんか」
孫皓は、その時は返す言葉がなかった。

[6]本文「周孔所言、略示近。至釈教。則備極微。」微と言う言葉は仏教か?

孫皓、仏像に放尿し股間を腫らす

さて、孫皓が後宮の庭園を整備させていると、地中から高さ数尺の像が掘り出された。
孫皓はその像を便所に置き、四月八日に会と称して小便を注ぎ、臣下たちと笑って楽しんだ。
するとまもなく全身が腫れ上がった。陰部の痛みがとりわけしく、孫皓の絶叫はに届くほどであった。[7]

[7]「高僧伝」の原文は「挙身大腫。陰処痛。叫呼。」。また、「出三蔵記集」には「まだ日も暮れぬうちに陰嚢が腫れて痛み、泣き叫んで痛みを耐えることができなかった」とある。

孫皓はあちこちので祈祷するがさっぱり直らない。
たまたま仏法を信仰している女がいたので尋ねると「陛下寺に行かれて祈願をなされませ」
孫皓は頭をもたげ「というは偉大なのか?」
女「偉大なでございます」

女は例の像を殿上に安置して、香油で数十回洗い焼香した。
孫皓は頭して懺悔すると、痛みが和らいだ。

孫皓は康僧会を呼び出し、罪業と福業の由縁についてあれこれ尋ねた。孫皓は暴虐を抑制できない乱暴な性格だが、生まれつき理解はあったので、康僧会の解説を大いに喜んだ。

孫皓は、康僧会と話すうちに沙門(出者が守る禁則・規則)に興味をもち、見せてほしいと頼んだ。康僧会は、出していない在信者用のめ、孫皓に見せた。
さらに善意にあふれた孫皓は、ますますきれいな心になってゆき、ついに康僧会から五[8]を授かった。

[8]不殺生(生き物を殺さない)、不偸盗(盗みをしない)、不邪淫(他人の妻と姦通しない)、 不妄(をつかない)、 不飲(を飲まない)の五つ。
なお南北朝時代仏教徒は、いまだ仏教に縁がない人々にに五を説明するとき、方便で儒教の五常に対応させて説明することがあったという(上記五の順番に、仁、義、礼、信、智に対応)

十日にして孫皓の病は癒えた。孫皓は康僧会の寺を更に立に荘厳に建て増し、皇族たちに仏教を信奉するよう言い聞かせた。

康僧会はにおいて、正しいの教えをしきりに説法したが、孫皓の性格が暴であるために、深い教えを説くまでには至らなかった。ただ因果応報の卑近な事柄を述べて、その心を開かせたのである。
(皎「高僧伝」中「の建業の建初寺の康僧会」)


孫皓と康僧会との問答は、インド思想とギリシア思想との出会いを記した「ミリンダ王の問い」ほどの深い哲学的思索にまでは至っていないものの、儒教仏教の文化の衝突と出会いを記した重な史料となっている。

また孫皓は「学問を好み」と正史に記され、讖碑や封山碑に見られるように、皇帝の強化のための讖緯説にまで精通しているインテリでもある。儒教や讖緯説にまで見識のあった康僧会は、孫皓と学問上で話が合う可性が十分にある。

また五を授かり仏教に帰依した孫皓。仏教が広まり始めたばかりのこの時期では、物しさの興味本位での帰依であったかもしれない。しかし康僧会が讖緯説に精通していたのなら、「讖緯説と同じように、仏教皇帝強化のために使えないか?」という興味を孫皓が持った可性もあるかもしれない、後の南北朝皇帝たちのように。

更に、昭も陸凱も陸胤も陸抗丁奉も亡くなってゆく中、康僧会は祖孫権と面識のあった数少ない生き残りの一人でもあり、孫皓が康僧会を重視し重用する理由付けは大いにあるのではないか?

インド文化と中国文化の出会い、サマルカンドからインドそして中国へとつながる海上交通路、五胡から南北朝に至る仏教と世俗権との結合と対立の先駆け、後期の臣下たちそして孫権仏教とのつながり…孫皓と康僧会との出会いと交流は、さまざまな文化的ロマンをかき立てる。

2804月に降伏し、孫皓は建業を離れることになる。康僧会が建業にて亡くなったのは、そのわずか5ヵ後、9月のことであった。

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孫皓の伝は、こちら「書」三嗣伝にあり

演義最終回杜預を薦めて 老将 新たな謀を献じ 孫皓を降して 三分 一統に帰す」は孫皓の即位から降伏までを描く

中原の書体とは全く異なる、独自の異形の書体は「奇怪の書」「心身に不調を来す」とまで評される。の文化を、そして暴君孫皓の所業を今に伝える重な遺物。

「問おう、の教えが説き明かす「善悪の応報」とはいかなるものか?」
高僧康僧会との仏教問答像に放尿し呵呵大笑。その後股間を腫らしてのたうち泣き叫ぶ…。
正史にも演義にも描かれていない、孫皓のもう一つの姿を記した「康僧会」の伝を収録。

重臣陸凱との問答諸葛誕息子諸葛靚との問答族賀陸抗との衝突に挟みの孫皓…。
『世説新』には孫皓の逸話も多く収録されている。この下巻に収録「排調 第二十五」には、孫皓と西武帝司馬炎との問答『爾歌』の逸話を収録。

侠客や任侠の徒が博奕や盛りで杯を飛ばし暴れまわり、遠方からの商品があふれる市場は人だかりでごった返す、雑で荒々しいが活気ある都建業。
そんな建業を統べる王(孫皓)は、桀殷紂に並ばんと壮麗な宮殿を築き、狩猟には名干将を帯び蛮族と六軍を従え赴く。
虎も大蛇狩り打ち倒しなお飽き足らず、その後に楼船を連ね大宝を生け捕り、宴を開き兵士たちにと女をふるまう覇気ある奢王であった…。
この『文選 賦編 上』には西左思が記した「三都賦」のうち、都建業と王(孫皓)を描写した「都賦」を収録。

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孫皓

66 ななしのよっしん
2018/05/18(金) 15:03:39 ID: uOqaAnwa2B
pixiv孫皓大百科ニコニコの丸パクリ
67 ななしのよっしん
2018/06/27(水) 09:45:02 ID: fFcxBH4kGY
配下に政治丸投げで自身の導でやったことも言動もど残ってない劉禅
良くも悪くも自分からあれこれ行動しまくった孫皓は対極的な存在だしな
個人に着したら孫皓の方が想像や考察に頼らずいろいろ書けるのは確か
68 ななしのよっしん
2018/06/27(水) 21:56:32 ID: ZLoAgzxg+e
記録がいとどうしても妄想になるからなぁ
劉禅は暗愚」という根拠のない妄想と「劉禅は名君」という根拠のない妄想がぶつかり合ってめちゃくちゃになるのは仕方ない

半面、孫皓みたいに記録が多いと面くはないけどな
デタラメ妄想しようと思ったらまず書の信憑性から否定しないといかんという
69 ななしのよっしん
2018/08/02(木) 21:28:09 ID: ygSxDTfs/9
そもそも臣も皇帝になった経緯も違うよりによって亡同士をべてどっちが劣ってるか勝ってるかなんてやって楽しいかね
70 ななしのよっしん
2018/08/07(火) 03:33:44 ID: hWusKrLbGY
なんとなくローマ皇帝っぽいイメージ
71 ななしのよっしん
2018/08/09(木) 13:58:29 ID: ZK1z12FOX4
三国志演義」で劉備孫権お見合いをしたので有名な甘露寺だけど、
実際に甘露寺が創建されたのは孫皓の時代だとか。
https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/39167879.htmlexit

甘露年間に創建されたから甘露寺なのか
孫皓仏教のつながりって結構あるんだね
72 ななしのよっしん
2018/08/15(水) 10:35:05 ID: ygSxDTfs/9
には江南地方仏教盛の下地を作った支謙が仕官してたからな
後漢末の頃には既に揚州は笮融も排出しているし
73 ななしのよっしん
2018/09/12(水) 21:18:36 ID: yUOAYcMfDC
同じ江南の東不自然なまでに皇帝孫策並に短命ばっかで
や南斉は孫晧と同じ様に皇族大粛清して
梁は孫権と同じ様に武帝が長生き過ぎて碌して、
陳はと同じように攻め滅ぼされるって結果的には江南
から何も成長していない様な感じに・・・
74 ななしのよっしん
2018/12/23(日) 11:38:03 ID: +kx3tnIN1D
無双の後期をゲーム描けない原因かもな
75 ななしのよっしん
2018/12/24(月) 22:42:16 ID: ZLoAgzxg+e
最近は司馬ピックアップに伴ってやられ役需要も出てきてる

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