宇奈月温泉事件(うなづきおんせんじけん、昭和9年(オ)第2644号妨害排除請求事件、大審院昭和10年10月5日判決民集14巻1965頁)とは、法学部に入ると最初に勉強する事件である。
事件の概要
北陸新幹線黒部宇奈月温泉駅にその名を冠し、富山地方鉄道が宇奈月温泉駅まで伸び、黒部峡谷鉄道によって黒部峡谷への足掛かりとしても知られる宇奈月温泉は、現在でこそその名は広く知られているが、明治時代まではそもそも「桃原」という地名はあったものの誰も住んでいない荒地だった。そこに目をつけた者が1917(大正6)年にこの地を愛本温泉として開発したのが、宇奈月温泉のルーツとなる。しかしそもそもこの地は湯が沸く土地ではなく、黒部峡谷を7.5kmほど遡った黒薙温泉から樋を使って温泉を引いていた。黒薙温泉は源泉温度が約98度と非常に高く、7kmも輸送するうちに温度が適温になる…という目論見だった。しかし季節によっては逆に温度が下がりすぎてしまい温めなおさなければならないなど問題が噴出し、早くも1921(大正10)年には営業終了してしまう。しかしここで、日本でアルミニウムを精錬する計画を立てていた高峰譲吉や三共製薬が黒部川に目をつけた。発電所の建設を目指し、その作業員の福利厚生施設として、民間利用も可能な温泉リゾート化も念頭に旧愛本温泉の権利を買い上げ、ここに宇奈月温泉が誕生する。
宇奈月温泉では黒薙温泉からの湯の引き方を愛本温泉時代の樋からパイプに変えることで、温度の問題を解決した。1923(大正12)年に完成したこのパイプが通る土地の利用権はほぼ全て有償又は無償で得て、黒部鉄道(現:富山地方鉄道)によって運営されていたのだが、利用権を得ずにパイプを通した土地(以下、甲土地)が2坪(約6.6平米)だけあった。この土地はある地元民によって所有されていた3000坪(ほぼ1ha)の土地の一部で、確かに土地の利用権を得てはいなかったが、どうやら元の所有者は暗黙の内にではあるものの了解していたようである。またこの土地は利用が難しい急傾斜地であり、端的に言って特に価値のない土地だった。実際、利用もされていない天然のまま放置された土地であった。
その後、1928(昭和3)年に甲土地を含む3000坪の土地は1坪あたり26銭で売却されてXのものとなった。Xはこの土地には利用権のないにもかかわらずパイプが通っていることを知って土地を購入していた。このパイプが宇奈月温泉の生命線そのものであることも…。
甲土地の所有者Xは、土地の利用権がないのにパイプが甲土地を通っているのは不法占拠にあたるとして、黒部鉄道に対して次のように要求した。
「26銭で買った土地を、25倍以上の7円で買い取れ」。単純比較はできないが、大卒初任給が80円くらいだった時代である。そんななかで、Xは利用価値のない土地を総額2万円以上で買え、と言ってきたのである。パイプの建設費が30万円であることを考えれば、なかなかの巨額であった。
たった2坪のために3000坪の土地を高額で買い取ることはできない。かといって長さにして6mのために7500mのパイプを再び引き直せば、その期間中は当然湯の供給が停止するから温泉の営業は出来ず、その損失は莫大である。しかも元所有者からは了解を得ていたし、Xだってそのことは知っていたのである。黒部鉄道は要求を拒否した。そこでXは所有権に基づく妨害排除請求[1]の訴えを起こした。
判決
第1審・第2審ではXの請求を退けたため、Xは大審院(現在の最高裁判所)に上告した。
大審院は以下のような理由でXの請求を棄却した。
- 所有権が侵害されたら所有者は裁判によってその除去を請求できる。これは当然である。
- しかし、所有権侵害でも損失が軽微で、逆に侵害を除去するほうが著しく困難になる場合もある。
- Xはそのような状態に目をつけて不当に利益を得る目的で土地を購入し、侵害状態の除去を迫ったり、他の物件まで不当に高額な買い取りを要求したりするような態度は権利を保護することに値しない。
- Xの行為は不当な利益の獲得と、相手に損害を与えることを目的として所有権を利用しているだけで、社会通念上の所有権の目的に反してその許されるべき範囲を逸脱するものであり、「権利の濫用」に他ならない。
判決の意義
当時、権利の濫用については民法上明文化されていなかったが、この判決では、
という2つの要件を明らかにし、2つとも満たされると権利の濫用であるとして権利行使は認められないという論理を示した。これにより日本の民法における権利濫用理論が確立されたと評価されている。
民法第一条 私権は、公共の福祉に適合しなければならない。
2 権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。
3 権利の濫用は、これを許さない。
余談
- 事件の争点となった場所付近には記念碑が建てられており、碑文には高岡法科大学の吉原節夫名誉教授の解説が書かれている。なお、土地自体は宇奈月ダムが2001年に完成したことにより水没している。また、パイプ自体もこのダム建設により付け替えられたため現存しない。
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https://twitter.com/kurobe_unazuki/status/1312961808416731137
- 有斐閣の『民法判例百選Ⅰ』という本の1番目にこの事件が掲載されている。この本は法学部の基礎テキストとして多くの学生が購入することになるもので、法律を学ぶ者が最初に扱う判例として知られている。
- 宇奈月温泉の温泉むすめ「宇奈月明嶺」の公式プロフィール
には「苦手なもの:権利の濫用(みんな仲良く)」とあり、本事件を意識したものとなっている。もともとは「勉強、甘いケーキ」だったようだが、2021年に「現地の要望」があって現在のものに変更された
。このほか、宇奈月温泉では「権利ノ濫用除 お守り
」が神社で授与されるなど、「法学者の聖地」として密かな人気を集めている。(関連リンク→法学者の聖地と言われる「宇奈月温泉」で静かな人気‟権利ノ濫用除お守り” とは
)
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関連項目
脚注
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