宇都宮公綱(1302~1356)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
概要
藤原道兼の子孫を称する鎌倉幕府の有力御家人で、鎌倉時代には豊後守護に同族がなっている。
宇都宮公綱は宇都宮貞綱の子で、文武両道の猛者であり、『太平記』には「坂東一の弓取り」と記されている。
1331年の元弘の乱の際は、1332年から楠木正成に対峙する六波羅探題の支援へと向かい、赤坂城・千早城を攻めた。その後後醍醐天皇が再度挙兵すると、六波羅探題軍とともに幕府軍として出陣するが、探題、鎌倉幕府滅亡後、天皇に降伏することとなった。
建武政権では雑訴決断所の奉行を務め、1335年に足利尊氏が建武政権から離反すると、新田義貞の軍勢に従軍して、箱根・竹ノ下の戦いで敗戦後は尊氏の上洛軍に同行した。しかし尊氏の九州落ちには従わず、再び後醍醐天皇のもとに戻っている。
その後関東の南朝軍の主力として活躍し、1337年の北畠顕家の二度目の西上を支援し、1352年には後村上天皇から東国静謐の命を受けるなど、晩年まで南朝のために尽くした。しかし息子の宇都宮氏綱は、幼いころから家臣の芳賀禅可に担がれて北朝軍につき、以降宇都宮氏は北朝として活動していくのである。
また宇都宮氏歴代にも言えることだが、宇都宮公綱も文化に増資が深く、『新続古今和歌集』に入選するなど和歌にも秀でていたようである。
関連項目
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