宇都宮国綱単語

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宇都宮国綱1568~1607)とは、戦国武将である。

概要

宇都宮広綱息子下野宇都宮氏最後の当。いろいろありつつも何とか生き残ってきた宇都宮氏。彼も何とか豊臣秀吉に仕え、公家成大名の一員となったが、おそらく浅野長政石田三成の政争の余波で易させられてしまった。

北条氏政との戦い

領域的には下野最大の大名となった宇都宮広綱は、佐竹義昭との婚姻を機に、佐竹氏と同盟を結んだ。以後、上杉・北条・武田の戦いに振り回されるうちに、元3年(1572年)に皆川俊宗が反乱する。宇都宮広綱はすでに病気であり、甲相同盟の成立が、皆川俊宗の暴走を招いたようだ。

しかし、宇都宮広綱は、佐竹義重らと連合してこれにあたる。結果、北条氏政皆川方につき、後北条氏対「東方の衆」と呼ばれる北関東国衆連合の戦いに入る。

しかし、正4年(1576年)に小山秀綱のが落。同族の結城晴朝危機感から、宇都宮広綱の次男で宇都宮国綱の結城朝勝を養子とした。かくして、佐竹結城宇都宮の同盟は、北条氏政の侵攻を押しとどめ続けたのである。

小牧長久手の戦いと連動した沼合戦でも決定的な勝負はつかず、下野は徐々に北条氏政のものとなった。宇都宮国綱は多気山に居を移し、これに抵抗し続けた。しかし、時代は大きく変わることとなる。

宇都宮仕置とその後…

正18年(1590年)に豊臣秀吉が後北条氏攻めを行った。ここで宇都宮国綱は、いとこ・佐竹義宣とともに、豊臣秀吉に臣従する。かくして、後北条氏滅亡後、豊臣秀吉はこの宇都宮国綱の領地で東の配分を定める宇都宮仕置を行い、豊臣大名となった宇都宮国綱は、羽下野従として、公家成大名の一にもなったのである。

かくして、彼の取次となったのが、浅野長政である。宇都宮国綱は浅野長政示で、領地の検地を進め、常陸佐竹氏と同様、近世大名への転換を進めていた……はずだった……。

ところが、慶長2年(1597年)、宇都宮国綱が易される。この理由として以下の3点がされてきた。

  1. 中の内紛
  2. 領知の過少申告による軍役忌避
  3. 豊臣政権内部の閥抗争

ここで、市村高男や江田郁夫らに検討が進められているのが、3である。これは以下の理由である。

  1. 綱と一緒に同じ下野の千本・王野氏も易に処せられたばかりか、一時は佐竹義宣易も取りざたされていたこと
  2. 佐竹氏を擁護する石田三成に対し、浅野長政はその対極の立場にあったこと
  3. 易後の宇都宮蒲生秀行会津から移り、会津には上杉景勝が越後から移り、越後には堀秀治越前から移るなどの一連の転封が構想されていたこと

つまり、石田三成浅野長政の集権、分権の争いが、両者痛み分けに終わった結果、宇都宮国綱一人だけが盛大に割を食ったとするのである。ただし、宇都宮国綱も領知の過少申告や、浅野長重との養子縁組を断るなど、浅野氏との関係に失点が多かった。要約すると、浅野長政ともっと良好な関係が結べていれば、佐竹氏のように回避できた可性もあったかもしれないのだ。

宇都宮国綱は、当初は悲しみつつもこの状況を受け入れた。しかし、状況を悟り始めた慶長5年(1600年)には侫人のせいでこうなったのだとしており、おおよそこれは浅野長政しているとされている。

易後の旧宇都宮領には、上述の通り蒲生秀行が入った。忠明が書いたとされている『当代記』には、浅野長政と協して宇都宮領を収めようとしたこと、宇都宮国綱へ豊臣政権が散々無茶振りしてきたことが一気に表面化し、宇都宮国綱がいなくなった混乱で、悲惨な状態になっていたことが書かれる。

一方で、宇都宮国綱は宇喜多秀家に預けられた。そして、復権を狙って、臣団を引き連れ朝鮮にわたる。ところが、これが全な徒労に終わる。とはいえ、宇都宮国綱は豊臣秀吉死後に徳川家康に接近し、この経験から一人浅草したとされる。結果、宇都宮国綱の息子宇都宮義綱が徳川頼房以後の水戸に仕えたこと、綱のが徳和子のになったこと、などの徳への接近につながったのである。

なお、結城氏に入った結城朝勝は、結城秀康の養子入りに伴い追い出され、佐竹氏に付き従った。末芳賀高武は石田三成に仕え、こので以後の史料に恵まれないとされている。

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける宇都宮国綱の力一覧。

均的なパラメーター。列伝がかなり正確なしい武将。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 45 政治 48 68 野望 54 教養 54
覇王 采配 75 戦闘 55 智謀 44 政治 56 野望 54
天翔記 戦才 100 智才 96 政才 122 75 野望 66
将星 戦闘 45 智謀 53 政治 62
烈風 采配 65 戦闘 40 智謀 61 政治 55
世記 采配 54 智謀 49 政治 46 野望 46
蒼天録 統率 45 知略 51 政治 57
下創世 統率 45 知略 51 政治 57 教養 49
革新 統率 58 武勇 67 知略 57 政治 64
統率 58 武勇 67 知略 57 政治 64
創造 統率 56 武勇 64 知略 58 政治 64

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宇都宮国綱

1 ななしのよっしん
2021/06/05(土) 16:07:04 ID: PblpsK2nIS
非常に詳しいけど綱に関する記述がちょっと短すぎないかなあ
ほとんどが宇都宮氏の歴史で埋まっちゃってて少し残念な感じがある
宇都宮氏」とか記事化すればすっきりしそうな気もするが…どうだろう?
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2 ななしのよっしん
2021/06/05(土) 16:17:09 ID: Kesh2LrwVu
そこら辺は荒川善男論文あたりでフォローできるので、ちょっと待っててくだせえ
後、宇都宮国綱易事件は研究史が厚いので、もっと伸ばそうと思えば伸ばせる
(正直初稿は手を抜いて済まなかった感はある)
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3 ななしのよっしん
2022/12/16(金) 19:41:18 ID: QyHp2cxfuP
中央の政争に巻き込まれただけだわな
石高半分詐称説も当時の宇都宮が18万石で下野全体で37万石だから、本当は倍だったなんて話だと宇都宮だけで下野国分なんてあり得ない数字になるし

けど宇都宮の当ってみんなありそうなのにな、成綱の後が忠綱以外ならもっと安定してたんじゃないかなあ
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4 ななしのよっしん
2023/06/08(木) 13:17:38 ID: xqagWVJJpc
前半は下野宇都宮氏の記事として新たに作り、ここでは綱の記述をにした方がいいんじゃないかな
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