宇野光雄単語

ウノミツオ
1.9千文字の記事
  • 0
  • 0pt
掲示板へ

宇野光雄(うの みつお)とは、「おとぼけのウーやん」と呼ばれた元プロ野球選手である。故人。

概要

1917年4月10日生まれ。愛知県名古屋市出身。

県立和歌山中学校に進学。春の甲子園大会に4年連続で出場し、1936年の大会では優秀選手賞を受賞するなど、全サードとして知られた。

卒業後、慶應義塾大学に進学。飯島滋弥らとともにチームの中心として活躍し、慶応大の一時代を築いたものの戦争化し応召。戦争が終結し1945年卒業卒業後1年間のみだが慶応大の監督を務め、チームリーグ優勝に導き、別当薫大島信雄らをプロ世界に送り出した。

監督退任後、倉電線を経て1947年読売ジャイアンツに入団。ただ、戦時下で手榴弾を投げ続けたで肩を壊した状態であり、1948年シーズン途中に引退

退団後、新東宝(現:東宝)に就職。人気女優山田五十鈴の付き人を務め、非常に良好な関係を気づいていたという。

1950年、慶応大の先輩である水原茂に誘われる形で巨人二軍監督に就任。若手選手たちの練習の手伝いをしているうちに、肩の怪が癒えていることに気づき、シーズン終盤に現役復帰。同年は39試合に出場し、打率.300マークした。

1951年からサードレギュラーに定着。川上哲治青田昇とともにクリーンナップを任され、打率.303、59打点、23盗塁記録

1952年南村不可止に5番を譲り6番打者として活躍。打率.290、54打点、11盗塁の成績を残す。

1953年オールスターゲームに出場したものの、新加入の枝文治が好調だったこともあり出場機会をやや減らした。1954年キャンプ中に、国鉄スワローズへ移籍。

国鉄ではコーチ兼任選手としてプレー。初年度の1954年、四番打者として活躍。打率.291、56打点、19盗塁記録し、オールスターゲームにも2年連続で出場し、ベストナインにも選出された。翌1955年も四番打者としてプレーし、打率.259、43打点記録している。

1956年、兼任監督に就任。監督としては前年より順位を一つ上げた4位の成績を残す。選手としては9試合の出場に終わり、同年限りで現役を引退

監督専任となった1956年以降、エース金田正一の奮闘もあり少ない戦の中で健闘するも1959年まで5年連続で4位とAクラスの壁を破ることはできず、1960年、最下位に沈み同年限りで解任。

その後1961年大毎オリオンズ監督に就任したが2年連続で4位に終わり、1962年限りで解任された。

大毎退団後、解説者としての活動を経て、1969年中日ドラゴンズヘッドコーチに就任し、1970年まで務めた。

中日退団後は解説者として活動する傍らレストランを経営していた。

1994年4月17日に多発性髄腫のため死去。享年77歳。

人物・エピソード

シュアな打撃と走塁技術の高さを武器に活躍した巧打者。肩は古傷ので強くなかったが、ライン際の鋭い打球の処理が上手く、ボテボテの当たりにはベアハンドキャッチで対応するなど三塁守備の名人でもあった。

飄々とした言動やとぼけた表情から「おとぼけうーやん」と呼ばれしまれた。そのキャラを活かし、表情や発言をブラフとして利用するなど、頭的でしたたかな選手でもあった。

通算成績

打撃成績

通算:9年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 633 2372 2155 251 604 30 292 73 24 7 165 21 146 78 .280 .336

監督成績

通算:7年 試合 勝利 敗戦 引分 勝率
NPB 922 426 474 22 .473 Bクラス7回

獲得タイトル

関連項目

【スポンサーリンク】

  • 0
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

東方MMD (単) 記事と一緒に動画もおすすめ!
提供: てるてる
もっと見る

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

宇野光雄

まだ掲示板に書き込みがありません…以下のようなことを書き込んでもらえると嬉しいでーす!

  • 記事を編集した人の応援(応援されると喜びます)
  • 記事に追加して欲しい動画・商品・記述についての情報提供(具体的だと嬉しいです)
  • 宇野光雄についての雑談(ダラダラとゆるい感じで)

書き込みを行うには、ニコニコのアカウントが必要です!