YouTubeで「UNO is Perfect」のチャンネルがある。
概要
銚子商業高校出身。高校3年生時の1976年の夏の甲子園に出場を果たし、その年のドラフト会議で中日ドラゴンズから3位指名を受けて入団した。1学年上に篠塚利夫(巨人)、2学年上に中日でも同僚となる土屋正勝が在籍していた。
プロでは2年目から徐々に出場機会を増やし、3年目の1979年に正岡真二を押しのけてレギュラーに抜擢された。翌1980年には初の規定打席にも到達した。1981年には打率.282 本塁打25本を記録して主軸打者として完全に定着するが、守備面では後述する珍事件も起こしている。1982年には初の30本塁打も記録し、チームのセ・リーグ優勝に貢献した。
1984年には、37本塁打を記録して初の本塁打王に輝いた。阪神タイガースの掛布雅之と本塁打同数で最終カード2試合の直接対決を迎えたが、中日山内・阪神吉田両監督の「談合」で敬遠合戦となり、両者で本塁打王を分け合う結果となった。翌1985年には初の40本塁打以上となる41本塁打を記録した。タイトルには届かなかったが、これは現在でも遊撃手の最多本塁打記録である。2年連続で全試合出場も果たした。
しかし、ケン・モッカが退団してサードにコンバートされた1986年は大スランプに陥ってしまう。出場試合数も激減し、打率.211 本塁打10本とレギュラー定着以降は最低の数字に終わった。
星野仙一が監督に就任した1987年は、ショートに復帰する。再び全試合出場を果たし、本塁打数も30本に戻した。翌1988年は、新人の立浪和義が抜擢されたためセカンドにコンバートされる。本塁打数こそほぼ半減したものの、全試合出場は継続され、打率・打点共に前年と遜色ない数字を残した。
1989年は立浪が故障したため、再びショートに戻った。やや欠場する機会が増えたものの、初の打率3割を記録し(リーグ6位)、前年以上となる本塁打25本も記録した。だが、立浪が復帰した1990年以降はサードや外野での出場が多くなり、徐々に数字も悪化していった。
高木守道が監督に就任した1992年は、打率・本塁打共に低迷し、オフには「地元出身のスター選手」を求める千葉ロッテマリーンズの要望で移籍することとなった(宇野勝・長嶋清幸←→今野隆裕・横田真之)。だが成績は低迷し、ロッテ在籍2年目の1994年オフに戦力外通告を受け、そのまま引退した。
ヘディング事件
1981年8月26日の読売ジャイアンツ戦(後楽園球場)で、守備の際に飛球を捕ろうとしたところ、目測を誤ってボールを頭部に当てるエラーを喫した。
詳細は、「宇野ヘディング事件」を参照されたし。
ヘディング事件・後日談その1「不幸中の幸い」
打球が直撃し頭を抑えて倒れ込んだ宇野であったが、幸い軽い程度で済み、大事には至らなかった。
ヘディング事件・後日談その2「幸い中の不幸」
この事件によって日本で初めて「珍プレー好プレー」というジャンルのテレビ番組が誕生し、彼は一躍時の人となった。
しかし同時に、彼にとって不幸なことに、「面白い守備をする人」という本人にとっては最悪以外の何物でもないイメージが定着してしまった。
テレビでは「ヘディング事件」ばかりがクローズアップされ、珍プレーは彼のエラーを中心に構成されるようになった。守備力は低く評価され、「簡単なフライをヘディングするぐらいヘタクソなショート」というレッテルを貼られた。
プロの一軍でプレーする事実を踏まえて、当たり前の事だが、宇野の守備力は当時のショートの中でも上手い方である。しかし普通なら他の野手に任せる打球に対してアグレッシブに突っ込んでいったり、無理な体勢からでも地肩の強さで送球したり、そういった好プレーを心がけている反面エラーが量産されてしまったり、想定外の珍プレーが起こったりするのである。
それに「珍プレーを連発する=守備が下手」という構図は全くの事実誤認である。メディアは、そういう面白いエラーをした場面だけを抜き出しているため、詳細を知らない視聴者はそのように不当な評価をするのだ。しかし、いくら好プレーを連発しているとはいえ、テレビはエラーのほうを多めに放送してしまう。最初のうちは人気者として面白がられたりインタビューでおどけたりしていた彼も、何度も何度も何度も毎年毎年毎年ヘディングの場面だけを放送されたりネタにされ続けたら……ヘディング事件から20年近く経ってスタジオに呼ばれた時には、「ハイハイ、またヘディングね」とでも言いたげな顔で、もうニコリとも笑わなかった。彼の心情は、彼のYouTubeを参照されたい。
宇野勝は、ショートとして初めて40本塁打を記録した大打者であり、
非凡な守備センスを持った、類い希なる名内野手である。
後に二塁手で名手とされる菊池と同じく、『普通の選手なら追いつきもしないが、追いつけるせいでエラーと記録される』選手なのである。
その他の珍プレー
- 1982年4月24日:大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)戦では、ユニフォームを忘れたため、コーチから背番号77のユニフォームを借りて試合に出場した。
- 1984年5月5日:大洋ホエールズ戦では、右翼手のエラーで出塁するも、1塁走者の大島康徳を追い越したため、アウトになった。
- 1993年(ロッテ移籍後):日本ハムファイターズ戦では、先発投手が怪我の手当てを受けている間に、マウンドで投球練習をしていると、打席に入った相手チームのバッターにライトオーバーのヒットを打たれた(正規のピッチャー交代はしておらず、試合も中断中のため、ノーカウント)。
関連動画
関連項目
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