安倍晴明(あべの せいめい/はるあき/はるあきら、921~1005)とは、平安時代中期の陰陽師である。
安倍氏(土御門家)の祖でもある。伝奇系の話が多いことでも有名。
史実の安倍晴明
921年に生まれるが、「どこで」「誰と誰の間に生まれ」「どういう血筋で」「幼少の頃は何をしていたのか」がはっきりと分かってない。色々と説はあるのだが分からないのである。謎に包まれた出自を持ってたからなのか、後述する伝奇的な話が多かった…のかもしれない。
同時期の陰陽師である賀茂忠行・保憲父子に師事し、陰陽道と天文道を学ぶ。
960年40歳で陰陽寮の学生的な役職であるという遅めの出世街道を歩んでいた晴明だったが、その頃から天皇より占いを命ぜられていたりと、既に朝廷や貴族からの信頼はあった模様。
師匠の賀茂保憲が没した辺りから頭角を現し始め、当時の皇太子の命で那智山の天狗を封ずる儀式を行った。この頃から記録に「晴明が占いをやった」「晴明が儀式を行った」等と出てくるが、それは先述した皇太子が天皇(花山天皇)に即位し信頼を受けていたからである。
花山天皇が退位した後も、藤原道長などの貴族から信頼を集めていたと当時の貴族の日記からも読み取れる。「天皇が病に伏せたので、晴明が禊を奉仕したところ病から回復した」「酷い干ばつが続いたので晴明に雨乞いをさせたら雨が降った」などと記されるとおり、当時から伝承にも負けない活躍をしていた。
その後は主計寮(税の監査と把握をする機関)に異動。一見畑違いに見えるかもしれないが、主計寮では算道(数学)の知識が無いと就けない所なので、天文道で培った計算能力が買われたと言う事になる(別の事情があったのではとも言われている)。
左京権大夫、穀倉院別当、播磨守の役職を歴任し、息子2人がそれぞれ天文博士と陰陽助に任ぜられるなど、安倍氏を一代で師匠である忠行の賀茂氏と並ぶ陰陽家にしてしまった。
1005年、晴明は84(83)歳という長い人生に幕を閉じた。妖怪の類では。
実はこれだけの活躍をしながらも、陰陽寮のトップである「陰陽頭(おんみょうのかみ)」に就任する事は無かった。
が、最終的に位階は陰陽頭より上の「従四位下」(陰陽頭は従五位下相当)になった。
伝承の安倍晴明
何故、安倍晴明が伝承で凄い人物として書かれる様になったのか。
詳しい事は陰陽師の記事に譲るが、日本の陰陽道は分かりやすく言えば、「呪術」「占い」「天文学」「気象」「科学」などをミックスし成立したものである。
それらの卓越した知識を持つ晴明、そして朝廷と貴族からの信頼から晴明の出来事は神秘化されていき、伝奇的な話が作られていったのである。
ちなみに晴明が死んだ11世紀の間に、この手の話は出来てたらしい。あの時代に83か84歳まで生きてればそりゃ出来るよね。
以下に簡潔に記述してゆく。
- 白狐と人の間に生まれた、いわゆる半人半妖。
- 幼い頃より鬼の類が視え、ある夜に賀茂忠行の共をしていたら、鬼が視えたので忠行に知らせた。この事で忠行は晴明が優れた才能の持ち主と悟り、瓶から瓶に水を移すが如く、全てを教えこんだ。
- 播磨国から来た陰陽師から術比べを挑まれたので、いとも容易く懲らしめた。
- 寺で同席した公卿たちに「陰陽道の術でカエルを殺してみせよ」とせがまれたので、術を用い一切手を使わずにカエルをペッタンコにした。
- 晴明の屋敷では式神を家事に使い、誰もいないのに門が勝手に開け閉めしていた。
- 花山天皇が出家するのを天文で察知し、式神を使って朝廷に急いで知らせようとしたが、天皇は丁度その頃寺に向かっていた。
- 晴明がある時、カラスにフンをかけられた蔵人少将を見て、カラスの正体が式神だと見破り、蔵人少将の呪いを解いた。
- 藤原道長が可愛がっていたワンコがある時、道長の外出を止めようとした。驚いた道長は晴明に占わせると、ワンコは道長が式神の呪いにかけられそうなったのを察知したんだと告げ、式神を使って呪いをかけた陰陽師を見つけ出し捕らえた。
- 貴船神社に祈願し鬼となった橋姫の腕を渡辺綱が切り落とし、晴明が封印した。
ある伝承では
以下は安倍晴明が編纂したと言われる、占い・実用書「金烏玉兎集」に書かれている話である(実際は晴明の死後に作られたもの)。
凄い話なので、別個にして記述する。
帝の御前で術比べで晴明に負けた道摩法師(芦屋道満と言われているが別人説アリ)はその後、晴明の弟子となった。
しかし、追い落とそうと狙っていた彼は、晴明がとある秘書を持っていることを知る。彼は晴明の妻と不倫関係になり、その秘書がどこにあるかを聞き出そうとした。晴明より道摩法師と妻の仲の方が親密になったと見計らった彼は、遂に秘書が石の箱の中にあると聞き出す。しかし、開け方は妻でも分からなかった。なので、晴明が不在の時にそれを見せてもらい、何とかして箱を開けた。
晴明が帰宅した時に「私はこの秘書を授かった」と晴明に告げ、晴明は「それは自ら唐に渡り入手したもの。お前が持っているはずがない」と道摩法師を叱ったが、道摩法師は「今こそ晴明を抹殺する好機」「ではその秘書を私がもっていたらその首をいただく」と言い、晴明はそれに応じてしまった。道摩法師はあらかじめ書き写しておいた秘書を懐から見せると、晴明の首を刎ねて殺してしまった。
晴明に秘書を授けた唐の上人は晴明が殺されたことを察知し、日本にやって来た。そして無残にも殺された晴明の骨を拾い集め、術をかけて晴明を蘇生させた。弟子を殺された報復の為に晴明と共に、道摩法師と晴明を裏切り道摩法師の妻となっていた元妻の元へ向かった。
上人は道摩法師に「晴明はおるか」と聞き、道摩法師は「かつてはここにいたが、首を刎ねられて死んだ」と答えた。上人は「そんなはずはない。さっきそこで彼と会った」と言い、道摩法師は「貴方の言う事こそ、そんなはずはない。もし晴明が生きていたらこの首を差し上げよう」と答えたので、蘇生した晴明を呼び、道摩法師に見せた。こうして道摩法師は約束通り首を刎ねられ、元妻も一緒に殺された。
つまり、「弟子となった陰陽師に一度殺されたが、秘書を授けてくれた師匠が察知し来日して蘇生してくれた。しかも自分を殺した犯人と裏切った妻も殺してくれた。」という話である。
でもこの話、凄いのは晴明じゃなくて師匠のほうではないだろうか?
それどころか晴明は妻を寝取られていたり、安易に首を賭けた話に乗ってしまい殺されていたりと、なかなか可哀想な役どころである。
関連項目
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