宗像興氏(むなかた・おきうじ ? ~ 1511)とは、筑前国の戦国武将である。宗像家71・73・75代大宮司。宗像氏定の嫡男。家系図上では宗像氏繁、宗像宗繁、宗像氏郷(嶺氏郷か?)の父となっているが、宗像宗繁の生年が1469年であり、この3人が誰の子かは不明。
興氏以前のここ100年の宗像氏
宗像氏は宗像郡を中心に勢力を広げていた豪族であり、宗像大社の大宮司でもあった。
南北朝時代の宗像氏は九州探題の一色範氏、今川了俊に味方して、2代将軍・足利義詮より感状を受け取り、壱岐守護となるなど、北九州において幕府方の一角として活躍した。
今川了俊の九州探題解任後は渋川満頼が九州に入り大内氏の影響を受けるようになった。筑前国は元々少弐氏の領土でもあり、大内氏と少弐氏の争いに巻き込まれるようになった。宗像氏も大内方と少弐方に分かれ、時の当主であった宗像氏経は叔父・宗像氏忠と争うことを余儀なくされた。それ以降数十年にもわたって氏経方と氏忠方の内紛が続けられたのであった。この内紛は1433年に少弐満貞の討死によって幕を閉じた。
これ以降宗像氏のスタンスは親大内、対少弐として戦国の世へと突き進むこととなった。
宗像氏略系図(氏郷まで)
宗像氏俊 | ─ | ─ | ─ | 宗像氏頼 | ─ | ─ | 宗像氏経 | ─ | ─ | ─ | 宗像氏俊 | ─ | ─ | ─ | 宗像氏郷 | |
│ | │ | |||||||||||||||
─ | ─ | 宗像氏重 | ─ | ─ | ─ | 宗像氏信 | ─ | ─ | ─ | 宗像氏弘 | ||||||
│ | │ | |||||||||||||||
─ | ─ | 宗像氏忠 | ─ | ─ | ─ | 宗像氏勝 | ─ | ─ | 宗像氏正 | |||||||
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─ | ─ | 宗像氏継 |
宗像氏当主一覧表(55代~70代)
当主名 | 生年 | 没年 | 備考 | 父親 |
宗像氏頼 | 1357 | 1391 | 55代 | 宗像氏俊 |
宗像氏重 | 1359 | 1396 | 56代 | 宗像氏俊 |
宗像氏経 | ???? | ???? | 57代・60代 | 宗像氏重 |
宗像氏忠 | ???? | ???? | 58代 | 宗像氏俊 |
宗像氏勝 | ???? | ???? | 59代 | 宗像氏忠 |
宗像氏信 | ???? | ???? | 61代・63代 | 宗像氏重 |
宗像氏俊 | 1416 | ???? | 62代・65代 | 宗像氏経 |
宗像氏継 | ???? | ???? | 64代 | 宗像氏忠 |
宗像氏弘 | 1430 | 1446 | 66代 | 宗像氏信 |
宗像氏正 | 1431 | 1458 | 67代 | 宗像氏信 |
宗像氏郷 | ???? | 1478 | 68代 | 宗像氏俊 |
宗像氏佐 | ???? | ???? | 69代・72代・74代 | 宗像氏郷 |
宗像氏定 | ???? | 1487 | 70代 | 宗像氏郷 |
生涯
1487年、父の死で大宮司を継承し、1495年に病没した大内政弘の跡を継いだ大内義興により一字を拝領し興氏と名乗る。1487年の時点では幼名だった。
『訂正宗像大宮司系譜』では陶興房の娘(陶晴賢の姉)を娶り、一女をもうけている。(この娘が山田事件の首謀者の一人となる。)また、父も陶弘護(興房の父)の娘を娶っているが、これが興氏の母親という可能性は低い。
叔父・宗像氏佐が再び大宮司を狙っており、1497年に氏佐に攻め込まれて山口へと逃れる。
1500年に問田弘胤・問田興之父子を中心とした大内氏により補任されるも、翌1501年に再び氏佐に攻め込まれて山口へと逃亡した。
1504年に再度補任され、3度目の大宮司就任となった。興氏と氏佐の争いはそれ以降も継続しており、内紛を抑えて融和を図る策を考えていた。
1508年に義興が足利義尹を将軍に据えさせるために上京することになり、興氏もこれに従軍することと相なり、在京してては大宮司の任務がとれないということもあり、氏佐の子・正氏に家督を譲ることで宗像氏の内紛は解決した。
1511年に船岡山の戦いで戦死した。正氏が義興より正式に家督相続を認められるのは興氏の死から7年後の1518年のことである。
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関連項目
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