宗貞国(そう・さだくに 1422 ~ 1494)とは、対馬国の大名である。宗家11代当主。宗盛国の次男。兄に宗盛俊。子に宗茂明、宗材盛、宗右馬がいる。
人物
この時代、北九州では少弐氏と大内氏とが激しく対決していた。1433年に少弐満貞が戦死すると、生き残った少弐一族は対馬へと逃れてきた。対馬の宗氏はかつては少弐氏の配下で(守護代だったが守護大名に昇格した)、そうした縁から彼らを匿い、支援した。
だが1467年、10代当主・宗成職(しげもと)が跡継ぎのいないまま、大内氏との戦いで戦死した。当時の宗氏には成職の弟・宗鑑盛や、伯父・宗宗俊、また貞国にも兄・宗盛俊がいたが、協議の末に家督は貞国(成職の従兄弟にあたる)が継ぐことになった。
なお父・宗盛国は9代当主・宗貞盛の弟。1445年に盛国の弟・宗盛世と共に大内氏の前に戦死している。
1468年に正式に家督を継ぐと中村に新たな居館を築いた。これがのちの中村館であり、1486年に78年間続く宗氏の本拠地であった佐賀(さか)より移転している。これにより以後の宗氏の本拠地は対馬北部から南部になった。更に多くの家に分裂していた宗氏の統一に着手して対馬の島主としての権限の確立に努めた。
家督継承と同年、少弐教頼が大内政弘により自害する。以降は教頼の子・少弐政資を支援し、少弐氏は一時的に筑前を掌握するまでに至ったが、反転攻勢してきた大内政弘に圧迫されて少弐氏と義絶した(この後の少弐政資は勢力を弱体化させてゆき、貞国の子・宗材盛の時代に滅亡する)。これ以前の宗氏は九州本土にも所領を持っていたが、すべて大内氏に奪われたため、李氏朝鮮との貿易に活路を見出した。
1492年に次男・宗材盛に家督を譲って隠居し、2年後に死去。
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