官渡の戦いとは、三国志における前半最大の見せ場である。ちなみに中期は赤壁で、後期は関羽死亡の樊城の戦い、
劉備惨敗の夷陵の戦い、そしてかの有名な諸葛亮の北伐と言えるだろう。
概要
西暦200年と言う、何とも切りの良い数字でかつ中華中原地域の覇者を決める重大な戦いである。
当時、中原地域(黄河と長江の間にある地域)を支配していた曹操と、河北(黄河以北)を支配していた袁紹。
共に勢力が均衡し、ついには両者雌雄を決せざるを得なくなる時がやってきた。それがこの官渡の戦いである。
兵力、領地で勝る袁紹。数多の人材を集め、その質に定評のある曹操。
勝った方が相手の領土を手に入れ、中華最高の勢力を誇る事となる、いわば歴史のターニングポイント。
両者とも、決して負けられない戦いであった。
戦局
まず先に動いたのは袁紹であった。檄文を発し、兵を集めた袁紹は曹操へと宣戦布告をする。
そしてこの時に先鋒に出たのが、音に聞こえた猛将顔良。演義では関羽が曹操の将として戦慄の登場をする、白馬の戦いである。
緒戦の白馬の戦いにおいて、顔良は曹操軍に破れ戦死。またその後、軍を引いた曹操を深追いした文醜が倒れ袁紹軍はその二枚看板を失う事となる。
しかし、二枚看板を失ったといえども袁紹軍は強大で、未だその勢いは衰える事を知らなかった。
袁紹は圧倒的な兵力を活かした圧迫陣形でついに曹操軍を官渡砦に押さえ込む事に成功。ここに戦況は膠着する。
領地の関係上兵站の量に差があった曹操陣営は、徐々に食料が底を突き始め、一時は撤退を考えるまでにまで追い込まれた。
さて、誰もが袁紹の勝利を予想していた中、この状況を変化させる者が現れた。名を許攸。袁紹軍の元軍師である。
袁紹に献策を却下されるなど不満がたまって居た彼は、曹操陣営へと投降。袁紹軍の兵糧庫の場所を教えた。
曹操軍はこれを打ち破り袁紹軍の兵站を大きく破壊。これにより軍の維持が困難となった袁紹軍は敗走し、三国志前半における最大の合戦、官渡の戦いは曹操の勝利で幕を閉じた。
豆知識
なお、実はこの敗戦直後の段階では、未だ袁紹の方が勢力は大きかった。
これを疲弊させ、ついに曹操に倒されたのはひとえに後継者騒動による物が大きい。
この事柄は後に曹操の後継者を決める際にも引き合いに出された。
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