宮崎繁三郎とは、旧日本陸軍中将である。太平洋戦争中、日本屈指の野戦指揮官と言ってもいいだろう。
概要
陸士・陸大をごくごく平凡な成績で出たあと、参謀本部や情報畑の勤務をこなす。とかく戦前の日本陸軍の参謀本部勤務者は「傲岸不遜」「独断専行」「責任回避」といった側面が目立つが、彼はそういったことはなかったようだった。
彼が一躍名を馳せているのは、ノモンハン事件、インパール作戦といった過酷な戦場において一定以上の功績を挙げたのみならず、その後の行為が賞賛されているからにほかならない。
圧倒的な敵兵力、それ以上に凶悪な無能な味方上層部(ノモンハンでは関東軍の辻政信以下恩賜の軍刀組などの参謀連中、インパール作戦などでは牟田口廉也、木村兵太郎など)という過酷極まりない戦場においてよく部下を率いて勇戦した。
また功績はこれのみにとどまらない。
ノモンハン事件では大隊指揮官として圧倒的なソ連軍を前に陣地を確保しつづけ、停戦協定前に陣地に自らの部隊名と日付を刻んだ意石碑を埋め、後の国境画定作業を有利なものにするなどの功績を挙げる。
またインパール作戦では兵団指揮官として激戦でも常に先頭にたって指揮したものの補給が続かず、師団長は指揮官である牟田口を批判して独自に撤退することを選び、宮崎に撤退時にあたって殿(しんがり…最後尾にたって敵の反撃を食い止める必要がある)部隊を率いるよう命令され、これによく答えて見事撤退を果たした。
この際、自分が指揮する部隊の負傷兵を見捨てないと自ら負傷兵の担架を担ぎ、少ない食料を分けあたえる一方、たとえ他部隊の負傷者であっても収容し、死亡者は埋葬していったという。
その後、師団長となり過酷な防衛戦を戦いぬく。ビルマ方面軍指揮官木村兵太郎が戦場を逃げ出すと各地で戦線は崩壊、過酷な後退戦闘を続ける中、補給も続かず重装備の大半を失ってもなお、自滅・降伏を避け、なんとしてでも敵中を突破、脱出することを選択。部隊の半分を失ったものの脱出に成功した。
終戦後、イギリス軍に降伏したのちもよく不当な扱いをうけた部下のためにイギリス軍の矢面にたって抗議をしていたという。
戦後、下北沢に小さな陶器店を開いて、なんら名声を喧伝することもなく清貧のままその後の人生を暮らした。
死の間際、彼が口にしていたのはビルマ方面での過酷な撤退戦を思い出したのか「敵中突破で分離した部隊を間違いなく掌握したか?」という言葉だったという。
戦争中、いかなる過酷な状況にあっても部下にはけっして弱音を吐くことなく、また無茶な命令を繰り返す上層部に対しても文句や批判を口にしたことはなかったという。高い指揮能力と部下に対する統率能力、また高潔な人格などをもって太平洋戦争中屈指の野戦指揮官として名を残し、名将を上げよとすれば必ず名前があげられる将官の一人といえるだろう。
関連項目
- 6
- 0pt
- ページ番号: 4197145
- リビジョン番号: 2802291
- 編集内容についての説明/コメント:

