家長昭博(いえなが あきひろ、1986年6月13日 - )とは、日本のプロサッカー選手である。
J1リーグの川崎フロンターレに所属。元サッカー日本代表。
173cm73kg。ポジションはFW、MF。利き足は左足。通称「アキ」。
概要
プロ入り前
京都府長岡京市出身。小学校1年生の頃かに長岡京サッカースポーツ少年団に入団し、すでに「天才少年」としてその名は知れ渡るようになっていた。
中学生になるとガンバ大阪ジュニアユースへ入団。この頃のチームメイトには本田圭佑や東口順昭がいた。ここでもその実力は飛び抜けていたと言われており、ガンバ大阪の将来を担うスター候補として関係者から期待されていた。15歳以下によるオールスター戦ともいえるメニコン・カップでは西軍の10番を背負い、当時ガンバ大阪下部組織最高の逸材とまで評された。当時の家長について、本田も「アキは別格」と言わしめたほど、
高校生となった2002年に後にW杯のメンバーにも選ばれた本田と東口が昇格できなかったのに対し、当然のようにガンバ大阪ユースへと昇格。1年生ながらもチームのエースとして活躍し、この年のJユースカップ優勝に貢献。高校2年生になる頃には二種登録の選手としてトップチームに昇格する。
2004年6月26日には、J1 1stステージ第15節アルビレックス新潟戦でJリーグでのデビューを果たすと、この試合で初ゴールを決める。二種登録の選手がデビュー戦初ゴールを決めるのはJリーグ史上初の快挙だった。
ガンバ大阪
2004年7月には、高校3年生ながらガンバ大阪とプロ契約を結び、正式にプロサッカー選手となる。その後も公式戦13試合に出場している。
2005年からは背番号が「14」に変更。攻撃的なスタイルを標榜するチームにおいて、おもに左ウイングバックで起用されることが多かった。攻撃陣にタレントを揃えていたチームの中、ワールドユース出場のための離脱期間もあったが、コンスタントに出場機会を増やしていき、シーズン終盤にはレギュラーに定着するようになる。結果、チームは創設以来初となるJ1リーグ優勝に貢献する。
2006年は出場試合数こそ28試合と伸びたが、遠藤保仁や二川孝広、フェルナンジーニョといったタレントを揃えた中盤の中では主役になることができず、運動量の少なさや守備時の貢献度の低さを指摘する声も出るようになっていた。8月5日におこなわれたA3チャンピオンズカップ、蔚山現代戦で精彩を欠いて前半40分で交代させられたうえ、ふてくされて勝手にバスに戻ってしまうという事件を起こす。この行為が西野朗監督の逆鱗に触れ、出場機会が激減するようになる。この頃から西野監督との確執が囁かれるようになる。
背番号が「8」に変更となった2007年も西野監督からの信頼は得られず、サテライト行きを命じられた時期もあった。練習試合でも前半15分で交代させられたこともあり、ポテンシャルを発揮できないままだった。
大分トリニータ
2008年、出場機会を求めて大分トリニータへの期限付き移籍を決意する。環境を変えて新たなスタートを切ろうとした矢先、2月の練習中に右膝十字靭帯損傷の重傷を負い、全治まで6カ月となる。ようやく新天地でデビューしたのは9月27日のJ1第27節横浜F・マリノス戦となった。しかし、離脱中に台頭した金崎夢生の存在もあってシャムスカ監督からの信頼を得られず、出場はわずか4試合に終わる。
この年のオフにはイングランド2部のプリマスFCの練習に参加し、移籍を目指すものの、労働許可証が降りず、断念することになる。
2009年はレンタル期間を1年延長し、引き続き大分でプレーすることになる。シーズン序盤は引き続き控えという立ち位置だったが、チームに怪我人が続出したこともあってレギュラーとしてプレーする機会が増える。シャムスカ監督が解任され、ポゼッションを重視するランコ・ポポヴィッチ監督が就任すると主力として重用され、左WGやボランチとしてプレー。後半戦巻き返したチームにあって活躍するが、前半戦大きく負け越したことが響き、J2降格となる。
セレッソ大阪
2010年1月8日、この年J1へ復帰したセレッソ大阪への期限付き移籍が発表される。4月頃にレネ・クルピ監督が2列目にアタッカー3人を並べるシステムに変更すると、レギュラーとして起用される。夏に香川真司がドルトムントへ移籍したが、乾貴士、清武弘嗣と共にその穴を十分に補う活躍を見せ、チームも終盤まで優勝争いに食い込むほどの躍進を遂げる。ここまで挫折が続いていたが、プロ入り以来最高といっていいシーズンを過ごし、31試合4得点10アシストという成績を残してACL出場権獲得に貢献する。
マジョルカ
2010年12月16日、保有元のガンバ大阪からスペイン・ラ・リーガのRCDマジョルカへの完全移籍が発表される。EU外国人枠の関係で加入から登録されるまでに1カ月がかかったが、2011年2月になって「AKI」という登録名で出場可能となり、2月5日のラ・リーガ第22節オサスナ戦で念願の海外デビューを果たす。その後もスーパーサブという立場ながらコンスタントに出場機会が与えられ、4月9日のセビージャFC戦でリーガ初ゴールを記録。4月24日のヘタフェ戦でもゴールを決め、スペインでの1年目は14試合2得点とまずまずの成績を残す。
しかし、2シーズン目となった2011-2012シーズンが開幕間もない9月に家長を信頼していたミカエル・ラウドルップ監督がフロントとの確執で退任してしまう。後任のホアキン・カパロス監督は守備重視の哲学の持ち主ということもあって構想外となり、前半戦を終えてわずか4試合の出場にとどまる。
蔚山現代
2012年2月、出場機会を求め、韓国・Kリーグの蔚山現代FCへ1年間の期限付き移籍で加入。このときの登録名は「아키」(アキ)。しかし、ここでも12試合1得点と目立った活躍を見せることができなかった。
ガンバ大阪
2012年7月30日、古巣であるガンバ大阪への期限付き移籍が発表される。背番号は後に代名詞的な番号となる「41」。5年ぶりに復帰した古巣は深刻な不調に陥っており、起爆剤として期待されたなかで12試合5得点と奮闘するが、低迷するチームを救うには至らず、G大阪はまさかのJ2降格となる。
2013年はレンタル期間を半年だけ延長し、初めてJ2でプレーすることになる。後半戦に入って宇佐美貴史が復帰したこともあってさらなる契約延長はなされず、契約期間満了により6月で退団する。
マジョルカ
2013年7月、セグンダ・ディビジオンに降格となった保有先のマジョルカへ復帰。だが、チームからの構想からは外れており、前半戦で7試合に出場したのみとなった。
大宮アルディージャ
2014年1月15日、J1リーグの大宮アルディージャに完全移籍で加入することが発表される。大宮では2トップの一角(セカンドトップ)やトップ下が主戦場となり、攻撃の中心としての役割を任される。3月15日のJ1第3節川崎フロンターレ戦で移籍後初ゴールを決めると、期待通りの働きを見せる。しかし、家長の奮闘も虚しく、チームは勝てない試合が続き、大きく低迷。シーズン中盤以降はゲームキャプテンを任され、孤軍奮闘を見せるも状況は変わらず、チームは最終節でJ2降格が決定する。
2015年は他のJ1チームからオファーを受けたものの、大宮に残留しJ2で戦うことを選択する。ポゼッション重視のスタイルを掲げる渋谷洋樹監督から攻撃の全権を任される信頼を受ける。前線と2列目をリンクさせる役割だけでなく、フィニッシャーとしての役割を果たし、これまで以上にゴール数が増える。J2第28節の愛媛FC戦でスポンサーの看板を蹴って2試合の出場停止を受けることがあったが、6月と7月に2か月連続で月間MVPに選ばれるなど、躍動。J2第41節の大分トリニータ戦では、同点ゴールとなるPKを決め、1年でのJ1復帰をもたらす。自身のキャリア初となる二桁ゴールも記載し、充実の1年となった。
J1復帰となった2016年も攻撃の中心として君臨。チームはJ1仕様で堅守速攻に舵を切ったスタイルとなったが、江坂任と共に攻撃を牽引する。シーズン中盤以降に怪我で離脱したが、2シーズン連続での二桁ゴールを記録。ちなみに大宮の日本人選手がJ1で二桁ゴールを決めたのは初めてのことだった。最終的に26試合に出場し11ゴール5アシストという成績を残し、J1復帰1年目でクラブ史上最高順位となる5位と躍進を遂げた最大の立役者とされた。いつしか、「大宮の王様」と呼ばれるほど、絶大な存在感を発揮し、家長がいるかいないかでチームの戦い方が全く変わってしまうほどだった。
川崎フロンターレ
2017年1月5日、J1リーグの川崎フロンターレへの完全移籍が発表される。大宮で絶対的な地位を築いていたものの、「30歳を迎えてさらなる挑戦がしたかった」ことから新天地での挑戦を選んだ。開幕当初は怪我で出遅れたものの、夏頃には右サイドハーフとして定着してチームにフィットするようになり、攻撃に違いを作り出す存在として存在感を見せるようになる。2位で迎えたJ1最終節の大宮戦では、ハットトリックを決めた小林悠のゴールの2ゴールをアシストする活躍を見せ、大逆転でのJ1リーグ初優勝に貢献。
2018年は開幕から好調を維持し、前年を上回るハイパフォーマンスを披露。2列目でタメを作ったり、緩急をつけたドリブルで切れ込み、左足から繰り出す正確なパスとシュートで決定的な仕事を遂行する。川崎のバンディエラである中村憲剛に「苦しい時、突破口を切り開くのはアキの左足」と言わしめる程、チームにとっての重要な存在となっていた。優勝争いにおいて重要となった第30節から第32節では3試合連続ゴールの活躍を見せ、川崎のJ1連覇に大きく貢献。6ゴール7アシストという数字以上の貢献度が評価され、2018年のJリーグ最優秀選手賞とベストイレブンを受賞。十代の頃から天才と称された逸材が挫折を経験しながらも32歳でJリーグの頂点に立った瞬間となった。
2019年はフル稼働した前年の疲れが出たのかコンディションが悪く、出場時間も減ってしまう。10月26日のルヴァンカップ決勝では、北海道コンサドーレ札幌との死闘を120分間戦い抜き、PK戦では5人目として成功させ、移籍後3度目のタイトル獲得となる。しかし、シーズンを通してはJ1リーグでノーゴールに終わり、不本意なシーズンとなった。
2020年は、前年と違って本来の輝きを取り戻し、前年ノーゴールに終わったのが嘘のようにコンスタントにゴールを決める。4-3-3の右ウイングが定位置となり、逆サイドのウイングに三笘薫が頭角を現すと、右サイドの家長のキープ力によってタメを作り、左の三笘のアイソレーションで切り崩す攻撃パターンが確立され、この年の川崎は記録的な圧倒的強さを見せて首位を独走。11月25日のJ1第29節古巣のG大阪戦ではハットトリックを達成して5-0の大勝に貢献し、川崎の史上最速となるJ1優勝決定をもたらす。このとき滅多に感情を表に出さない家長が「今日が終わらないでくれ」と語るほど、歓喜に浸っていた。この年のゴール数も大宮時代の2016年以来となる11ゴールを記録し、2度目となるJリーグベストイレブンに選出される。また、この年の天皇杯決勝でもフル出場し、二冠を経験している。
2021年も引き続き川崎に欠かせない選手として活躍。2月26日のJ1開幕戦横浜F・マリノス戦で2ゴールの活躍を見せる好スタートを切る。夏に三笘薫と田中碧が海外へ移籍したことでチームは再編成を余儀なくされ、ACLに敗退。自身も過密日程の影響でコンディションを崩しスタメンを外れた時期もあったが、高い技術を活かしたチャンスメイクでチームを引っ張り、最年長35歳として相変わらず頼れる存在となり、川崎を連覇に導く。これで川崎に加入して5年で4度のリーグ制覇を成し遂げたことになる。Jリーグアウォーズでは2年連続3度目となるベストイレブンに選出。
2022年もチーム最年長ながらも右ウイングの位置で高い技術を発揮し、苦戦の続くチームを牽引する。6月18日のJ1第17節コンサドーレ札幌戦では2ゴールの活躍を見せる。夏場になるとさらに調子をあげるようになり、特に8月の4試合では2ゴール3アシストの大活躍を見せ、月間最優秀選手に選出される。9月10日のJ1第29節サンフレッチェ広島戦では、2ゴールを決め、Jリーグでは中山雅史の記録を上回る36歳での日本人選手最年長での二桁得点を記録する。結局あと一歩でリーグ三連覇は逃したものの、12ゴール7アシストというキャリアハイの成績を残し、リーグでも飛び抜けた存在感を発揮。3年連続でJリーグベストイレブンにも選出されている。
2023年はオフ期間のトレーニング中に左足を負傷するも開幕には間に合う。J1通算400試合目の出場となった2月25日のJ1第2節鹿島アントラーズ戦では、試合終了間際のPKのチャンスで失敗するも相手のPA内への侵入行為によって蹴り直しとなり、今度は確実に決めて逆転勝利に貢献する。だが、不調のチームに呼応するかのように調子が上がらず、4月1日のJ1第6節札幌戦から11月28日のACLグループI第5節ジョホール戦まで公式戦で241日間ゴールから遠ざかっていた。本人も悔しさを口にしており、リーグ戦では2ゴール4アシストと物足りない数字に終わる。
日本代表
U-20日本代表として2005年にオランダで開催されたFIFAワールドユース選手権2005に出場。G大阪ジュニアユース時代の同僚だった本田と一緒にプレーすることになったが、チームの中心は平山相太だった。左アウトサイドの主力として出場したが、2分1敗でグループリーグを突破したものの、ベスト16でモロッコに敗戦。1勝もできず、世界との差を痛感する大会となった。
2007年3月には、イビチャ・オシム監督からフル代表に選出され、3月27日のペルーとの親善試合でデビューを果たす。その後は2005年のワールドユースを戦ったメンバーが中心となる北京五輪代表(U-22代表)での活動が中心となり、2次予選のときは主力としてプレーする。しかし、最終予選になるとG大阪で出場機会が減っていたこともあり、徐々に序列が下がり、終盤にはメンバーに選ばれなくもなる。2008年2月に負傷したことで長期欠場が続き、北京オリンピック出場メンバーから外れてしまう。
2011年6月におよそ4年ぶりに日本代表に復帰し、アルベルト・ザッケローニ監督からはボランチとして遠藤保仁のバックアップを期待される。しかし、代表に定着することができずこの年の8月10日の韓国戦を最後に日本代表に呼ばれてはいない。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
2004 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 8 | 1 | |
2005 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 24 | 0 | |
2006 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 28 | 2 | |
2007 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 27 | 2 | |
2008 | 大分トリニータ(loan) | J1リーグ | 4 | 0 | |
2009 | 大分トリニータ(loan) | J1リーグ | 26 | 1 | |
2010 | セレッソ大阪(loan) | J1リーグ | 31 | 4 | |
2010-11 | マジョルカ | ラ・リーガ | 14 | 2 | |
2011-12 | マジョルカ | ラ・リーガ | 4 | 0 | |
2012 | 蔚山現代 | Kリーグ | 12 | 1 | |
ガンバ大阪(loan) | J1リーグ | 12 | 5 | ||
2013 | ガンバ大阪(loan) | J2リーグ | 17 | 1 | |
2013-14 | マジョルカ | セグンダ | 7 | 0 | |
2014 | 大宮アルディージャ | J1リーグ | 33 | 6 | |
2015 | 大宮アルディージャ | J2リーグ | 33 | 11 | |
2016 | 大宮アルディージャ | J1リーグ | 26 | 11 | |
2017 | 川崎フロンターレ | J1リーグ | 21 | 2 | |
2018 | 川崎フロンターレ | J1リーグ | 32 | 6 | |
2019 | 川崎フロンターレ | J1リーグ | 26 | 0 | |
2020 | 川崎フロンターレ | J1リーグ | 29 | 11 | |
2021 | 川崎フロンターレ | J1リーグ | 37 | 8 | |
2022 | 川崎フロンターレ | J1リーグ | 34 | 12 | |
2023 | 川崎フロンターレ | J1リーグ | 33 | 2 |
個人タイトル
プレースタイル
彼のプレースタイルは「天才」と称され、誰にもまねできないプレーと言われている。反面、天才肌の選手にありがちなムラが大きく、若い頃に苦労をする原因ともなった。
スピードの緩急で相手選手の間を突き進む力強いドリブルによって相手を2,3人かわすことができ、細かい足技よりもスルスルとすり抜けていくのが特徴的。加えて、ラストパス、クロス、シュートのクオリティが高く、ワンプレーで攻撃に違いを作ることができるクリエイティブなプレイヤー。ベテランになってからは、相手の出方を冷静に見ることができ、自分の持っている武器を的確に判断して勝負できるようになった。
また、フィジカルの強さも大きな武器になっており、体幹が非常に強いため、多少のチャージを受けてもボールを失わない。この力強いキープ力によってタメを作れるため、大宮や川崎では困ったときのボールの預けどころとして重宝されていた。ちなみにフィジカルを鍛えるのに特別な筋トレをしているわけではなく、天性のものと実用的なトレーニングによるものが大きい。
若い頃は運動量が少なく、オフ・ザ・ボールの場面になると動かなくなるため「地蔵」と揶揄されることが多かったが、近年は改善されている。とはいえ、押し込まれる場面での守備の貢献度の低さ、疲れてくると動きが落ちるという部分は欠点として残っている。
エピソード
- 本田圭佑とはG大阪ジュニアユース時代の同僚であるが、実は生年月日も全く同じ。当時エリートだった家長に対し、当落線上にいた本田は何かと張り合おうとすることが多く、2人は当時よく喧嘩もしたらしい。2018年にJリーグMVPを獲ったときはサプライズで映像メッセージを寄せている。
- 好物はバナナ。試合前にはエネルギー補給のため必ず摂取する。
- G大阪時代の監督だった西野朗からは「好調時のドリブルはメッシ以上」と評されている。
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