富嶽(爆撃機)とは、大東亜戦争(太平洋戦争)中、大日本帝國が設計したが実現しなかった超大型爆撃機である。
概要
大東亜戦争中に日本が設計し、開発中止となった超大型戦略爆撃機。全長46m、全幅63m、全高8.8m、自重42トン。武装は爆弾搭載量20トンと20mm機関銃4門。スーパーフォートレスの異名を持つB-29を遥かに凌駕する巨体で、6基のプロペラで飛行する設計だった。製作担当は中島飛行機。散見される資料によれば爆撃機だけでなく雷撃機(搭載魚雷20本)や輸送機として運用する計画もあったという。
計画の始まりは1942年9月。伊25に搭載された零式小型偵察機がオレゴン州の爆撃に成功したとの報告が入り、これに刺激を受けた中島飛行機創設者の中島知久平氏はアメリカに直接打撃を与える「必勝防空計画」を立ち上げた。その中にはZ機(富嶽)による爆撃が含まれていた。仮称のZはアルファベットの最後に来る事から最終兵器を意味していた。
日本を出撃した富嶽は、当時日本だけが発見していたジェット気流に乗って高度1万mを飛行。1万mまで迎撃に上がれる戦闘機は存在せず、悠々とアメリカ大陸を爆撃する。その後、大西洋を抜けてドイツ及び枢軸国が支配する地に着陸して燃料補給。ここから引き返して再度アメリカを爆撃するか、ソ連を爆撃しながら日本へ戻るルートが考案された。
さっそく中島飛行機内で設計が行われた。知久平氏は国会議員を務めていたので、予算獲得のために奔走したが誰もが荒唐無稽な夢物語だとして真剣に取り合わなかった。Z機の設計開発は陸海軍にも知れ渡ったが、知久平氏の説得にも関わらず反対意見が多数を占めた。政界ではダメだと思った知久平氏は軍関係者へ接触し、自ら執筆した98ページにも及ぶ必勝防空計画の冊子を軍首脳部や高松宮殿下、井上大将に配布して賛同を呼びかけた。1943年8月に説得成功。一発逆転に一縷の望みを託し、ようやく計画が本格始動する。1944年2月に陸海軍と軍需省が協同で計画委員会を立ち上げ、正式に富嶽と命名された。設計には、陸軍用と海軍用の二種類が存在したと言われている。軍の承認も得て設計に取り掛かったが……。
富嶽のスペックは、当時の日本の技術と工業力ではとても再現できないものだった。特にエンジンの問題が深刻だった。非力なエンジンしか作れないゆえ、どうやっても富嶽の巨体を飛ばせなかったのだ。仮に高出力エンジンを開発できたとしてもレシプロでは結局力不足だった。渋々軽量化を行い、爆弾搭載量を15トンに減らした。離陸後にタイヤ1つを落とす案もあった。
そんな中、開発チームに激震が走る。1944年7月7日に守備隊が玉砕し、サイパン島が失陥。絶対国防圏が破綻したことで、最大の支援者だった東條内閣が総辞任してしまった。後任の小磯内閣は空襲への備えを重視したため、8月に計画中止を言い渡され頓挫。富嶽は闇に葬られる事になった。
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