富樫泰縄単語

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富樫泰縄 / 富樫晴泰(?~1570?)とは、戦国時代の武将である。

概要

加賀一向一揆に推戴された富樫泰高富樫氏の最後の当。もはや、富樫介の称号すら失い、いつ亡く なったのかも定かではない。

ここまでのあらすじ

富樫氏とは富樫荘を開発拠点にした斎藤氏の諸流であり、鎌倉時代末期になると加賀守護とすらみなされる存在と化していた(もちろん実際は北条氏なので違う)。この富樫氏は在御家人としても活躍し、富樫高家等が元の変で六波羅探題方として楠木正成だの千種忠顕だのの迎撃に出張っていたのである。

ところが、足利高氏の離反に伴い在御家人の多くがこれに従い、中先代の乱の後に富樫高家富樫氏で初めて加賀守護に任じられた。南北朝時代の動乱でこの富樫高家足利尊氏に従い、幕府内部では相当重要な地位にあったのではないかと言われる。

観応の擾乱で、その息子富樫は引き続き在して尊氏となり、在富樫加賀で色々差配していた富樫氏。康安2年(1362年)の桃井直常迎撃である平岡野合戦ですでに富樫富樫もいなかったのか、吉見氏頼らの手を借りて何とか防いだ。ところが、富樫の後、細川頼之排斥の康の政変でこの富樫は失脚させられたのである。

以後、加賀は30年近く斯波氏が支配したのだが、斯波義将死後の弱体化する斯波氏に付け入り、富樫富樫満成の2人が守護に任じられたのであった。なお、このうち富樫はともかく、富樫満成は庶流の久安氏の当であり、い話将軍の近臣であった。ところが、この富樫満成もいろいろあって粛清され、富樫が再び一守護となったのである。

ところが、富樫足利義教の勘気に触れてしまい、その富樫泰高が守護となった。ところがこの6日後に嘉吉の乱が起き、富樫富樫泰高の対立が生じたのである。

これに連動したのが、中央での畠山細川勝元の抗争である。両は対立する富樫氏の戦いに盛大に噛み、加賀は再び富樫泰高富樫の2人が守護になることで決着がついた。

そして百姓の持ちたる国へ…

ここでさらなる問題が生じる。赤松氏の復権で富樫が守護を罷免され、赤松政則加賀に配置されたのである。これによって案の定富樫赤松政則の抗争が始まり、富樫泰高富樫の死をきっかけに富樫和解し、その子富樫政親に守護を譲ったのである。

この富樫政親であるが、当初山名宗全営にいたらしい。が、応仁の乱の序盤に牙旗を足利義政が抱えた時に細川勝元の東軍に離反。赤松政則細川勝元営の人物だったため、ともに東軍にいたのである。ところが、もともと畠山だった在臣達は細川氏を憎んでいたのか、盛大に反発して混乱を招いた。

赤松政則が旧領に復帰した結果、富樫政親は一守護に戻った。ところが、朝倉孝景の東軍離反を快く思わなかった富樫政親は彼に従わず、朝倉孝景はその富樫幸千代をそれに代えようとした。結果、富樫政親は西軍っぽい動きを見せた結果、ある事件が起きる。本願寺如の下向である。

かくして、東軍では富樫幸千代が守護となり、富樫政親は守護を追われ、戦いを始めた。ここら辺は一向一揆に絡んでくるのだが、富樫政親は本願寺を、富樫幸千代高田を味方に師、結局富樫政親が勝ったのである。

以後、富樫政親京都将軍の活動に参加し、鈎のにも加わった。ところが、長享元年(1487年)にこうした富樫政親への反発が起き、起が生じた。彼らはすでに退いたはずの富樫泰高を擁立し、長享2年(1488年)にあっけなく富樫政親に勝ってしまった。

かくして、富樫政親は滅び、富樫泰高の末裔たちが、一向一揆に擁立される構造になったのである。

泰高流富樫氏の歩み

富樫泰高は数十年ぶりに表舞台に出、足利義尚も仕方なく彼の守護の地位を認めた。以後、この記事の人物に至るまでを見ていく。

鈎のが終わって足利義材の代になっても、幕府は引き続き寺社本所領の回復富樫氏にめた。富樫泰高はこれに従い、少なくとも足利義材政権での地位を固めたのである。

ところが、明応の政変で、加賀赤松政則に与えられる。結果、富樫泰高足利義材の脱出後に彼に従ったが、一足利義澄にも付き、加賀は両勢に分裂したのだ。ただし、足利義材落と、赤松政則の死によって、富樫泰高は一和解足利義澄方に復帰したようである。

富樫泰高の後は孫の富樫稙泰が継いだ。永正の一にはもはや富樫稙泰の意志は見えず、一向一揆に振り回されていたような感じのポジションになってしまったのである。

ところが、起死回生を図って摂津元直を介して朝廷に持ち掛けた富樫介の補任に失敗した中御門宣胤は富樫介がもはや何か分からず、加えて寺社本所領への介入もやめられず、よくわからないまま、失敗したらしいのだ。

加えて、本願寺の内部抗争である享錯乱の結果、富樫稙泰富樫泰俊子は加賀を追われてしまった。こうして、富樫稙泰息子である富樫泰縄が、当になったのである。

富樫氏の滅亡

この富樫泰縄であるが、後に足利義晴から偏諱を得て、富樫晴泰(軍記だの民俗誌だのでは富樫時とか富樫晴貞とか)に名前が変わる。ただし、彼はへの遠慮から富樫介や次郎ではなく小二郎を称していたようだ。

この富樫泰縄は『日記』の文5年(1536年)10月に登場する。代始めの礼がここなのだが、5年以上経っている背景には、文法だののがあったとされる。

文10年(1541年)に足利義晴を献上し、おそらくこの結果、偏諱を得て富樫晴泰となったらしい。こうした通り、富樫氏はもはや本願寺宗将軍の権威でしか存立できなかったのである。

こうした富樫泰縄の発給文書が、治3年(1557年)10月の『善性寺文書』、永元年(1558年)11月の『重雑談』等に残っている、なお、ここで富樫加賀介として発給しており、理由はどうあれ、もはや富樫介を名乗らなくなってしまっていた。

というか、ぶっちゃけ、富樫泰縄の一次史料で裏付けられる事績はここまでである。

近世富樫氏系図によると、富樫泰縄の子供には祖和尚上、豊者といった存在が挙げられている。江戸時代の『昔日北録』によると、富樫泰縄と思われる富樫晴貞子は、元元年(1570年)5月に伝澄寺と野々市したとされる。織田信長に呼応した結果一勢に囲まれ自害したとあるが、当時の史料が存在しないことから、事実かは全くの不明というしかない(この史料富樫泰俊がなぜか加賀にいる展開でもあるし…)。

なお、越前に落ち延びた富樫泰俊には、近世の系図によると稙者の子供がいたそうで、こちらは『越州軍記』によれば、正2年(1574年)の越前一向一揆に絡んだ際、溝江長逸らが討たれたのと一緒に、自害したとのことだが、これまた事実かは不明。

結局のところ、加賀守護富樫氏は、一向一揆の後もいたはいたのだが、いつの間にか断絶した、というレベルのことしかわかっていない…残念ながら…。

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける富樫晴貞の力一覧。

『昔日北録』の富樫晴貞名義でなんと創造から初登場である。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 - 政治 - - 野望 -
武将風雲録(S1) 戦闘 - 政治 - - 野望 - 教養 -
覇王 采配 - 戦闘 - 智謀 - 政治 - 野望 -
天翔記 戦才 - 智才 - 政才 - - 野望 -
将星 戦闘 - 智謀 - 政治 -
烈風 采配 - 戦闘 - 智謀 - 政治 -
世記 采配 - 智謀 - 政治 - 野望 -
蒼天録 統率 - 知略 - 政治 -
下創世 統率 - 知略 - 政治 - 教養 -
革新 統率 - 武勇 - 知略 - 政治 -
統率 - 武勇 - 知略 - 政治 -
創造 統率 53 武勇 60 知略 45 政治 58
大志 統率 52 武勇 58 知略 47 内政 57 外政 51

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富樫泰縄

1 ななしのよっしん
2024/02/03(土) 00:44:25 ID: qEiw4g/4lK
「勧進帳」で有名な冨樫氏もわけのわからない状態で消えるとは諸行無常だなあ
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