寛容のパラドックスとは、英国イギリスのある哲学者が提唱した、逆説パターンの一つである。
かいつまんで言うと、多様性尊重と多様性崩壊はほぼイコールだぞ、ということ。
概要
日本で言えば「あちらが立てばこちらが立たぬ」ということわざに類似性を発見できる概念である。
社会や政府が人権やポリティカル・コレクトネスなどに対してもし、神のように寛容であったり何でも許そうという立場を採用した場合、逆にその社会やその政府であるような国は、不寛容な勢力や人々によって寛容でなくなったり、(国民の精神も政府の考え方も含めての)寛容の精神が破壊されたりしてしまうだろう、という逆説である。
逆説とは(おおまかにいえば)数行で文自体が矛盾しているのに筋が通っている説のことであるが、実際上記のように不寛容な人種によりなにかがタブーとなったり規制されたりする例は、それこそ各種のポリティカル・コレクトネスが原因の事件などを見ると、(完全に正しいとは言わないまでも)否定しにくいかあながち間違ってはいないと思われるゆえ、上記の寛容にまつわる説は逆説の一種と見て良いと考えられる。
極端な話であるが、不寛容な人間が毛利元就の三本の矢のごとく、束になって規制推進のために活動したりした場合、それらの活動が遠因や間接的要因となり寛容な人間が精神的苦痛をこうむり、ひどい場合は発狂したりストレスを苦に自殺するとか、というようなことも考えられてしまうのだ
こうした点を踏まえ、哲学者の一部は、種や自分の精神の保存のために寛容性を捨てなければならない事もある、と主張しているという。
関連項目
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