「寧々(高台院)」(ねね 1542?~1624年)とは、戦国時代~江戸時代の女性。豊臣秀吉の正室。天下人である夫を支えて日本史に名を刻んだ女傑である。
名前については「おね」「ねい」「寧」など様々な説があり、また多くの敬称で呼ばれていたが、この記事では「寧々」で統一表記する。
概要
尾張国(愛知県西部)の武家・杉原家に生まれ、浅野家の養女となる。
成長すると木下藤吉郎(豊臣秀吉)に嫁入り。夫が出世すると、寧々は不在がちな秀吉に代わり領地の政務を担当したり、親戚の子供たちを育てるなど良き妻として活躍した。
寧々の父は木下家からの入り婿。秀吉に「木下」の名字を与えた説がある。
木下・杉原・浅野の三家の人々は秀吉に仕えて、秀吉の壮年期から豊臣政権の樹立後まで活動して秀吉の事業を支えた。
本能寺の変、賤ヶ岳の戦いを経て夫が天下人になると、寧々は朝廷や寺社との交渉で活躍。
秀吉の死後は豊臣家と徳川家の仲を取り持ち、豊臣秀頼と千姫の婚儀に尽力した。
やがて豊臣家と徳川家との間で戦が始まり、夫婦が築き上げた豊臣氏は滅亡してしまう。
徳川家の庇護を受けながらも寧々は豊臣氏の存続を図った。
豊臣氏を継がせた養子の成長を見届けた寧々は、80歳前後という当時としては稀な長寿で世を去った。
人物
晩年の粛清や某半島絡みで酷評されることが多い秀吉とは対照的に、寧々は人柄や業績を高く評価される場合がほとんどである。
秀吉の母「大政所」によく孝行し、仲が良かったとされる。
寧々に養育された福島正則、加藤清正など秀吉の親類からは母のように慕われたという。石田三成たちも寧々を敬うなど、次代に大きな影響を及ぼした。
前田利家の妻である「まつ(芳春院)」とは尾張時代からの親友とされている。二人は高齢になってからも一緒に温泉に行った記録があり、仲が良かったとみられる。
また寧々と秀吉は豪姫(前田利家とまつの娘)を養女に迎えて養育し、宇喜多秀家に嫁がせた。豪姫と秀家は成長した後も秀吉・寧々夫妻への敬慕を忘れなかった。
秀吉と淀の方の間に生まれた豊臣秀頼は、秀吉没後に寧々が大坂城から去った後は寧々と会う機会はほとんど無かったようだが、寧々をもう一人の母と慕い敬った。
寧々も豊臣秀頼の健やかな成長を願い、寺社へ頻繁にお参りした。
他の夫人たちとの関係
しかしぐう聖の寧々も、秀吉の女癖の悪さにはブチ切れたことがある。
秀吉は織田軍の上洛後から側室を次々に寵愛し、長浜城主になって家族を呼び寄せた後もそれは変わらなかった。
激怒した寧々は、主君の織田信長に夫の行状を糾弾する手紙を送りつけた。
信長は返書の中で寧々をべた褒めしつつ、寧々が秀吉と離縁しないよう気を遣い、正室として堂々と振る舞うようアドバイスをした。
寧々と秀吉の間に子供は生まれなかったが、当時秀吉と他の夫人(南殿)との間に子供が生まれていたという説があり、このことが不満を爆発させるきっかけだったのかもしれない。
また寧々の母は秀吉を嫌っていたという。
秀吉と南殿の子(石松丸)は幼くして亡くなり、秀吉は石松丸を弔うために方々の寺社へ頼んだという。
そして南殿のその後は不明。
秀吉は女好きで大勢の側室を抱えたが、次の子は長い間授からなかった。
南殿と石松丸の件は寧々の黒歴史や秀吉のトラウマになったのかもしれない
<他の夫人との関係>
上記のエピソードもある寧々だが、その後は側室たちの面倒をよく見ており、イベントがあると彼女たちと一緒に遊びに行くこともあった。
ドラマや小説では寧々と対立することが多い淀の方も、当時の史料では寧々とは仲が良かった――というより寧々は、実家を二度も滅ぼされて後ろ盾を持たない淀の方の庇護者だった。
秀吉は淀の方や京極竜子(淀の方の従姉)を寵愛して九州征伐や小田原の役では戦地に呼び寄せたほどだが、秀吉と連絡を取って二人を送り出したのが寧々だった。淀殿が懐妊した時も秀吉はすぐに寧々に報告した。
秀吉は寧々の面子を立て続けた。寧々から訴えを聞いた信長の方から秀吉に忠告したのかもしれない。
ついでに秀吉は私生活を寧々に管理されていたのかもしれない。
淀の方と京極竜子は秀吉が主催した花見の席で秀吉から賜る杯を奪い合い、花見に参加していた「まつ」が二人を仲裁した、という話を前田家の家臣が書き記した。
淀の方の権勢を示す例として有名な話だが、その場には寧々もいた。
淀の方と京極竜子は後々も寧々と深く関わっており、当時寧々の面目を潰すほどの争いをしたとは考えにくい。杯の件は夫人たちが共謀して秀吉をからかったのだろうか。
なお当時は「一人の正妻以外は全て側室」という厳格な決まりがあったわけではなく、少なくとも淀殿と京極竜子は正室扱いを受けていたとされる。
<社交界の女主人>
豊臣政権が誕生すると、秀吉は京都に聚楽第を建設。周囲には諸大名に屋敷を建てさせ、そこに諸大名の妻子を住まわせた。
寧々は聚楽第を管理した。
この聚楽第は公家衆もしばしば訪れた場所であり、その地で暮らした諸大名の妻子は人質ではあったが同時に客人でもあった。
聚楽第は社交場として機能した。
この仕事は寧々の自尊心を大いに満足させるものだっただろう。
寧々が大坂城から聚楽第へ移ると、入れ替わりで淀の方が大坂城へ移った。
大坂城にいた秀吉の母は、聚楽第へ移り住んだ。
彼女は息子たちと同じ城で暮らすよりも、寧々の側にいることを選んだ。
内助の功
近江時代の秀吉は各地の戦で忙しく、寧々は長浜城主の仕事を代行した。
旧浅井領は織田家と敵対した本願寺や延暦寺の影響力が強い土地だったが、大きな混乱は生じなかった。
本能寺の変では明智光秀に味方した京極高次(京極竜子の兄弟)の挙兵に追われて、寧々は秀吉の母と共に美濃まで逃亡する羽目になった。
ただしこの時は明智方に対抗できる軍勢が隣国にも不在、長浜城を占拠した京極高次は近江の旧領主だった京極家と浅井家双方の血を引く貴公子、など悪条件が重なっており、寧々の政治に落ち度があったわけではない。
寧々と秀吉の母の逃亡を助けたのは、本願寺教団の称名寺だった。
賤ヶ岳の戦いの後は、朝廷との交流を担当。
やがて寧々が管理する聚楽第への後陽成天皇の行幸が実現した。行幸は織田信長の時代さえ実現できなかった一大事であり栄誉だった。
従一位の位と北政所の称号を与えられた寧々は、宮中の行事を主催することもあった。
寧々は多くの神社仏閣の支援者でもあり、各地の寺社に頻繁に参詣や寄付を行った他、秀吉が寺社と揉め事を起こすと寧々が仲裁したこともあった。
また秀吉が九州征伐直後に伴天連追放令を発した際、寧々はキリシタンに同情を示し宣教師たちを感動させた。
秀吉が大陸出兵を開始して自身は九州名護屋へ移ると、寧々は大坂城に入って政務を代行し、聚楽第を政庁にした豊臣秀次と協力して後方支援を司った。
寧々は豊臣政権の重鎮でもあった。
秀吉の強みの一つには、軍事では弟の豊臣秀長、銃後では寧々という代行者がいた点が挙げられる。
こうした寧々の活動を支えたのが、寧々に仕えた女性たちだった。
秀吉の家臣たちの家族、かつての主家である織田家の女性たちも寧々に仕えた。
秀吉に敵対した人々も寧々に従った。
さらに僧侶や神官、公家たちも寧々に協力した。豊臣政権の官僚たちは当然寧々に従った。
寧々はまさにもう一人の天下人だったのである。
他方、秀吉が行った晩年の政策で批判されることが多い豊臣秀次や功臣たちの粛清、大陸出兵、禁教令に反対した形跡はない。
寧々は政策では秀吉と同じ意見を持っていたか、または自分の主義主張は出さず秀吉を支える役に徹していたのかもしれない。
秀吉没後
1598年11月、寧々の生母が死去。その七日後に、寧々と苦楽を共にした秀吉が病没した。
寧々は落飾して豊国神社への参詣を頻繁に行った。
大陸で戦っていた将兵の引き揚げという大事業が終わり、翌1599年1月に秀吉の死が公表されると、秀吉が抑えつけていた諸大名の対立が激化した。
3月、伏見で島津忠恒が伊集院忠棟を殺害。
同月には政権の実務を司る五奉行の石田三成が加藤清正たちに襲撃された。
伏見で生じた混乱は京都中に波及したため、襲撃事件では寧々が自ら乗り出して仲裁したが、これらの事件により豊臣政権の権威は著しく傷つけられた。
寧々は諸大名を引き連れて秀吉を祀る豊国神社や方広寺に参詣し、人々の不安を鎮めると共に豊臣政権の勢威回復に努めた。秀吉没後もある程度の権力を保っていたとみられる。
一方、二つの事件を仲裁して勢威を高めた徳川家康は、伏見城へ移り与党を増やしていった。
9月に徳川家康の暗殺を計画したとして五奉行の浅野長政(寧々の義弟)が失脚。
この事件では大蔵卿の局も失脚。大蔵卿の局は淀殿の乳母であり、豊臣の公務で活躍していた。
同月、寧々は政務で使っていた大坂城西の丸を徳川家康に譲り、京都へ移った。
政界からの引退だった。
ただし京都新城に移り住んだ寧々は、僧侶・神官・公家衆との交流を続けており、人々は寧々の動向を気にした。
また寧々は夫を祀る豊国神社へ参詣する際、豊臣政権の奉行衆トップの前田玄以や増田長盛を従えて行くこともあった。
豊臣の母である寧々は強い影響力を保持したことが窺える。
<徳川家康暗殺計画事件>
家康によって暗殺計画の関係者と断定された人々
・前田利長……父と共に豊臣政権樹立の大功労者。事件の前後に前田家中の親徳川派を粛清した疑いあり。打倒家康を豊臣氏(=寧々)に打診した。
・浅野長政……寧々の義兄弟。事件の前までは豊臣政権の中心人物の一人だった。ただし息子の浅野幸長は家康台頭を後押しした急進派。
・大蔵卿局……淀の方の乳母だが、豊臣政権では公務に従事。息子の巻き添えで失脚。後述のように寧々と関わる機会が多かった女性。
・大野治長……大蔵卿局の子。本人よりも母親を失脚させるために利用された?
・土方雄久……前田利長の親戚。
加藤清正たち武断派VS石田三成たち文治派、豊臣子飼い武将の対立を利用する徳川家康
の構図で語られることが多い秀吉没後の政争だが、寧々が豊臣政権では秀吉に次ぐ権力者だったこと、後述の孝蔵主事件など当時の史料を合わせて考えると、寧々に対して徳川家康あるいは家康支持者が仕掛けた権力争いの一面もあったとみられる。
その後の寧々は豊国神社へ頻繁に通った。
この頃、寧々の側近(というより重臣)の孝蔵主が大坂へ行き長期滞在した。
また大蔵卿局が身柄を拘束されたので、寧々は彼女を復帰させようと大坂へ乗り込んだ。
すでに大坂城内の人事についても家康派の影響力が及んでいたようだが、寧々は看過せず抗議した。
1600年に関ヶ原の戦いが勃発。
東軍に味方して大津城の戦いで籠城した京極家の人々(京極竜子、京極高次、浅井初)を救うべく、寧々は孝蔵主を派遣して京極軍と西軍の仲裁を行わせた。
一度は失敗したが寧々は諦めず孝蔵主を再度派遣し、今度は淀の方が送り出した使者と共に仲裁を行わせて京極家を救った。
東西抗争中に寧々は自身の居城である京都新城の一部解体を行わせ、資材を諸将へ贈った。
西軍の敗北が上方に伝わると、寧々は木下家定(兄)に護衛されて後陽成天皇の御母堂の屋敷へ移った。
<東西どちらに味方したのか>
創作では寧々は淀の方と対立して大坂から出て行った、徳川家康を支持して西の丸を譲った、という筋書きが多い寧々だが、
・豊国社への参詣を利用して、西軍の主力を担った宇喜多秀家やその妻の豪姫と連絡を取り合った疑い。
・石田三成の娘を保護して養育。
・大谷吉継の母は寧々に仕えていた。
・豪姫は関ヶ原の戦いの後、すぐに実家の前田家へ戻らず寧々に仕えた。
・関ヶ原の結果が伝わったすぐ後に、天皇の御母堂の屋敷へ避難。
等々通説が疑われるような行動をした。
極め付けが孝蔵主事件である。
<孝蔵主逮捕事件>
関ヶ原の戦いの後に、孝蔵主ら寧々の侍女達が大坂で捕らえられた。
知名度は低いが、これは大事件と考えるべきことである。
この事件の後、寧々は侍女を大坂城へ派遣することを控えるようになった。
事件後に寧々と大坂城の大蔵卿局が偶然か否か、同じ日に豊国神社へ参詣したことが数回あった。
豊臣の意地
天下人ではなくなった豊臣氏を存続させるべく、寧々は秀吉の遺言である豊臣秀頼と徳川千姫の婚姻の実現に尽力し、千姫は無事に輿入れした。
大仕事を終えた寧々は、その頃養母が亡くなったこともあり表舞台から身を引いた。
朝廷から「高台院」の称号を与えられて、秀吉の供養と秀頼の健やかな成長を願って寺社への参詣を続けた。
交流のある僧侶・神官を通じて大坂城の人々とは連絡を取り合っていたようである。
その頃、小早川秀秋をはじめ甥たちが若死にしてそれぞれの家が断絶。
同じく甥の木下勝俊・利房が争ってそれぞれの所領を幕府に没収されるなど不幸が続いた。
寧々は木下兄弟を救うために奔走した。
この時の家康は寧々からの要望に激怒した、という話がある。
信長への手紙や大蔵卿局の件もそうだが、寧々は押しの強い人物だったのかもしれない。
<豊臣氏の滅亡>
徳川幕府の政策に反発する人々は幕府に対抗するために豊臣氏へ期待を寄せるようになり、この動きは抑え役だった加藤清正たちの死後に激化した。
寧々は豊臣秀頼の無事を願い、ますます寺社参詣を行った。
しかし豊臣氏への圧力を強めた幕府は、遂に最後通牒を突きつけた。
豊臣秀頼は開戦を決断し、牢人衆を集めて決戦に臨んだ。
1614年、大坂冬の陣が勃発。
寧々は開戦前に大坂城へ入ろうとしたが、鳥羽の関所で幕府の役人に阻止された。
翌年大坂夏の陣が始まると、寧々は再び大坂城への入城を図ったが、今度は甥の木下利房に止められた。
豊臣氏は幕府軍に滅ぼされてしまい、秀頼と淀の方、大蔵卿局たちは自害。秀頼の息子たちは処刑された。
幕府軍は落ち武者狩りを行い、秀吉が発展させた大坂の町も襲って殺戮略奪放火を行い、大坂の町は一度壊滅した。その有様が描かれた屏風が現存している。
豊臣氏を滅ぼした後、幕府は秀吉を祀る豊国神社への迫害を始めた。
社領や宝物、設備まで奪われた豊国神社は勤務していた神官たちの多くが離散し、存続の危機に陥った。
寧々は戦後も幕府から丁重に扱われていたが、侍女たちと共に豊国社への参詣と資金援助を続けて神社を支えた。
この時寧々が立ち上がらなかったら、豊国神社は本当に潰されていたかもしれない。
豊国社への支援活動は、後に京極竜子も行った。
寧々は秀頼と淀殿の法事も主催した(淀殿の妹で徳川秀忠の正室江姫が行ったという説もある)
晩年の寧々は病気がちだったが豊国神社への支援を続ける一方、甥の息子を養子にして豊臣氏を継がせることを幕府に認めさせた。
1624年、長い闘病生活の末に病没。夫と一緒に築いた豊臣の誇りを、最期まで貫いた。
戦国無双
CV:山崎和佳奈
戦国無双2で初登場。名義は「ねね」。秀吉の天下統一に対して内助の功があったということから、忍であるというオリジナル設定がある。
作品によっては関ヶ原の戦いに乱入し東軍と西軍の仲裁をすることも。
子供が居ない代わりに秀吉子飼いの次世代の武将達を実の子の様に可愛がっており、ねねを慕う武将達も多い肝っ玉母さん。その慈愛や面倒見の良さは一部のシナリオで暴走しがちで、我が子の様に可愛がる対象は羽柴・豊臣に従う将兵に留まらず敵対者や目上の人間にも及ぶ。そのお説教に頭の上がらない者も多く、ある意味作中最強のキャラクター。衣装の露出度は高い。スキンシップも多く、たまに説教相手や悩む相手を母親の様に抱きよせることもある(それにドギマギしたり、嫉妬を買ってしまう武将も多いのだが)。
そんなねねでも流石に上司である織田信長・濃姫夫妻には頭が上がらない。夫の親友・前田利家の妻・松とは仲がよい。秀吉の浮気症には史実同様に悩まされている。ゲーム中に子飼いとして登場するのは石田三成、加藤清正、福島正則だが三成は理屈っぽく反抗的、清正は横恋慕同然の感情を寄せ(ねねコン)、正則は猪突猛進だが素直な性格と三者三様である。もちろん、全員ねねには頭が上がらずシリーズでは、ねねが関ヶ原の戦いを仲裁するIFステージが定期的に製作されている(通称ねねヶ原)。そのステージでは甥の小早川秀秋もねねが何よりも恐ろしいと東軍西軍ではなくねね軍に味方してくれる。
モーションは2で一回リストラされたくのいちによく似ており、使いやすさではねねの方に軍配が上がる。特殊技は分身の術(本体の動きに追従する)と変化の術(近くにいる武将や雑魚に変身できる)と忍者らしいもの。
戦国大戦
統一名称は「ねね」となっている。ver1.0からの参戦である。
この2枚の計略は「お尻ぺんぺん!」で、範囲内の味方の最も武力の高い「1.5コスト」の武将の統率力と移動速度が上がる。同時期に出た秀吉は1.5コストなので対象になる、が本人の統率は高目な上計略も統率と関係ない一夜城なのでシナジーは薄い。むしろ弟の豊臣秀長(山津波の計)のほうが相性はいい。
Ver2.0では豊臣家の新設により彼女も豊臣家で登場した。
計略は慈母の恵愛で、撤退している豊臣家の味方を一人復活させて武力を上げる。更に日輪ゲージが増える。日輪ゲージを消費する程武力と復活時兵力が上がっていき、大絢爛(3消費)なら更に統率力も上がる。
決して計略は弱くなくスペックも悪くないのだが、使用率は芳しくない。
また同時期にはココロコネクトの永瀬伊織版ねねが登場している。こちらはDVD付録であった。
計略は「誰かが望む私」で、敵武将の能力をコピーする。無消費では武力、1消費で統率も、2消費で速度もコピーし、3消費では更に兵力が上限を超えて回復し効果時間も長くなる。
相手の強さに依存するため、効果時間は短いが計略効果が絶大な上杉謙信の「毘天の化身」等をコピーすれば効果も絶大である。また奥義で三十六計(相手の移動速度が激減する代わりに相手の武力が上がる)を使い、それをコピーすることで能動的に高い武力になる事も一応可能。総じて相手の超絶強化カウンターとしての意味合いが大きい。
そしてVer3.0では、主におっぱいが成長した姿のねねが登場した。
計略「天下人の片翼」は、将配の一つでラインが長い程豊臣家の味方の統率が上がるもの。この計略は夫の秀吉と同じく5消費まで可能で、4消費で武力も上がり、5消費でライン切断がなくなる。上の台詞はSSRのものだが旦那の計略「日輪の天下人」が「日輪の輝きで、天下を覆い尽くせ!」なので意識しているのだろう。
将配はラインが長い程効果が上がるが間に敵が入ると切断されて効果が無くなるという欠点があり、5消費ではその心配がないので使いやすくなる。効果時間も長めだが効果もそれなりである。
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