小夜左文字とは…
本稿では1を取り扱う。
西行法師(「新古今和歌集」収録)
小夜左文字とは、悲劇に彩られたといわれている左文字派の短刀である。
概要
左文字派の刀工によって製作された短刀。長さは8寸5厘(約24cm)と短刀の中ではやや大振りで厚めなのが特徴。さる悲劇を耳にした山内一豊が当人にあたる研師を召し抱えるとともに、この左文字も入手する。後に細川幽斎に懇願されたために譲り、幽斎はその悲劇と冒頭で記載した西行法師の歌の一節からこの左文字に「小夜」と名づけ、以後小夜左文字と呼び愛蔵したいう。幽斎が亡くなってからは子孫へと受け継がれていったが、寛永4年に小倉藩大飢饉が起こってしまう。当時、小夜も受け継いで領主となった細川忠利は領民の飢餓を救うために小夜左文字と大名物の茶器「有明の茶入(安国寺肩衝茶入)」を売ってしまった。
黒田家、浅野家、土井家などに伝わった後、京都の商人が所有。昭和になってから戦前戦中を代表する刀工である柴田果刀匠が所持。その後、個人所有でありながら重要文化財指定を受ける。
小夜左文字に纏わる悲劇
時は安土桃山時代。日坂(現在の静岡県)に、ある夫婦が暮らしていた。子供も生まれてこれからというときに夫が病で若くして死去。このままでは暮らしていけないと思った母親は幼子を抱え、夫が秘蔵していた筑州左文字の短刀を売りに出かけていった。しかし、小夜中山峠の頂上付近まできた所で何者かに母親は切り捨てられ、刀は奪われてしまった。頂上付近に残ったのは母親だった亡骸と幼い子供だった…。幼子は復讐を誓うが頼りは父が遺した刀のみ。「研師のところにいればあの短刀に出会える機会があるかもしれない」…そう考えた幼子は掛川の研師に弟子入りした。
月日は流れ、あの時の幼子は研師として仕事をするようになった。ある日、一人の浪人が刀の研ぎを頼みに訪れる。彼は茎を改めたところ、なんと表裏に『筑州住 左』という銘が刻まれていた。この刀こそ、彼の父が遺し、母親の命とともに奪われた短刀であった。しかし、取り戻してくれた人だったら困るので念のために、どのようにして手に入れたかそれとなく聞いてみた。そしたら、あのころと同じ状況を話したので、彼こそあの時、母親を殺した男だと確信。
「今宵の立会……盲亀の浮木、優曇華の花待ちたること久し、此処で逢うたが百年目!親の仇だ!いざ、尋常に、勝負、勝負!」
そう口火を切るやかつて奪われた短刀を浪人の腹に突っ込み、見事仇を討つことが出来た。
夜泣き石
ちなみにこの話には少々のバリエーションがあり、「子供を抱えた母親」ではなく「妊婦」だったとする話もある。そちらのバージョンでは、妊婦は盗賊に斬り殺されたが妊婦の魂魄が近くにあった丸い石に乗り移ったため、その石は夜毎に泣く「夜泣き石」に変じたという。
なお、この「夜泣き石」とされる石は現存しており小夜の中山付近に安置されている。ただしなぜか別々の場所に2つあるらしい。
関連項目
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