小田原城 日本100名城 23 |
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別名 | 小峯城、小早川城 |
城郭構造 | 平山城 |
天守構造 | 複合式層塔型3重4階 |
築城主 | 土肥氏、大森頼春(諸説あり) |
築城年 | 14世紀末~15世紀半ば(諸説あり) |
廃城年 | 1870年(明治3年) |
概要
室町時代前期から江戸時代末期まで使われた城。黎明期である14世紀末はどこに所在していたのか不明だが、15世紀半ばには現在と同様八幡山尾根にあったとされている。後北条氏の最盛期には、八幡山尾根を中心として周囲の山々や低地をも城郭として包含したが、江戸時代に入るとその規模は縮小していった。
戦国時代の城の中でもとりわけ難攻不落の名城として知られており、北条氏康の時代には上杉謙信や武田信玄といった並居る戦国大名の攻撃を凌ぎ切っている。その後も後北条氏の軍事的・政治的拠点として機能し、豊臣秀吉による小田原征伐のころには日本最大の中世城郭にまで発展した。
現代では小田原城址公園として整備されており、内部では天守や常磐木門などの再建物、土塁・堀などの遺構、歴史見聞館や常盤木門SAMURAI館といった史料館が点在している。
2006年(平成18年)、日本城郭協会により日本100名城に選定された。
歴史
室町時代
14世紀末、土肥氏によって小田原城は建てられたとされている。ただしどこに所在したのかはわからず、現在に伝わる小田原城との繋がりは不明である。1416年(応永23年)、土肥氏は上杉禅秀の乱に加担するも、幕府方に鎮圧され失脚。代わって大森氏が小田原城を治めるようになる。15世紀中頃、ちょうど享徳の乱が勃発したころには、大森氏によって小田原城が現在の位置(八幡山の尾根)に整備されている。
1495年(明応4年)、後北条氏の祖である北条早雲が大森氏を襲い小田原城を強奪。以後、後北条氏の軍事的・政治的拠点として発展を遂げた。1561年(永禄4年)には上杉謙信、1569年(永禄12年)には武田信玄によって計2回の侵攻を受けるも、いずれも凌ぎ切っている。
1590年(天正18年)3月、後北条氏が惣無事令を破り私戦を始めたことから、豊臣秀吉は約20万人以上もの軍勢を引き連れて小田原征伐へ赴く。後北条氏は豊臣軍に備え、城下町全体を囲む約9kmもの総構えを完成させた。「城の中に街がある」という小田原城のイメージはこの総構えによるものである。しかし後北条氏の主力は小田原城に籠城していたものの、味方の支城は続々と陥落。当てにしていた伊達政宗も豊臣方として参戦したため、同年7月には開城。以後、後北条氏は没落する。
小田原征伐の際、籠城か出撃かを巡って後北条氏家臣団の間で揉めに揉めたことから、「長引いて容易に結論の出ない会議」を指して「小田原評定」という故事成語が誕生した。
江戸時代~現代
後北条氏の滅亡後、小田原城は徳川家康の家臣である大久保氏に与えられたが、本多正信との政争に敗れ改易を受けてしまう。そこから約20年間は幕府から派遣された城代が城を治めた。この間に多くの城郭建築が破却されている。その後、1632年(寛永9年)には城代ではなく稲葉氏が小田原城を治めるようになり、小田原藩の政庁・近世城郭として整備されていった。現在の本丸・二の丸・三の丸の姿はこのときの工事によるものが大半である。
小田原城は小田原藩の政庁として機能したが、一方で徳川将軍家の拠点という側面もあった。たとえば、城内では江戸幕府専用の米蔵があった御用米曲輪が整備されていたり、将軍家専用の御殿が設けられていたりしていた。また2代目将軍・徳川秀忠の隠居先とする構想もあったという。いずれにしろ、小田原城は江戸城を守る要衝として位置付けられていたのだろう。
1685年(貞享2年)、稲葉氏は越後高田に転封され、翌年には再び大久保氏が小田原藩を治めるようになる。しかし1703年(元禄16年)の元禄地震や1707年(宝永4年)の富士山大噴火など、小田原藩は相次ぐ災害に見舞われる。小田原城もその例外ではなく、災害のたびに城郭建築の修復で藩の財政が圧迫されたため、廃城令が布告される2年前の1870年(明治3年)には藩知事の大久保氏によって廃城願が提出されている。維持費が捻出できないため、このときに天守も払い下げ・解体されている。
1873年(明治6年)には陸軍省の所轄になるものの、1890年(明治23年)に元藩知事の大久保氏に払い下げられ、翌年には小田原市がこれを買い受け・借り入れている。さらに1901年(明治34年)には本丸・二の丸が宮内庁の所轄となり、皇族の避寒地として御用邸が落成した。しかし1923年(大正12年)の関東大震災により御用邸は崩壊。石垣もほぼ崩壊した(後に再建)。
1938年(昭和13年)に二の丸・総構の一部が国の史跡に認定されると、1953年(昭和28年)には天守台の石垣が再建される。戦後復興の最中、小田原市民の小田原城天守再建の機運はますます高まり、1959年(昭和34年)に本丸・二の丸・土塁が国の史跡に指定されると、翌年には天守再建までに至った。なお観光利用・展望のことを踏まえ、3重目には本来なかった廻縁・欄干が設けられている。そのため、天守の区分としては復元天守ではなく復興天守にあたる。
天守再建にあたって展開された「天守閣復興瓦一枚寄付運動」では、主に市内の自治体によって約240万円分もの瓦(21,366枚)が集まった。これは天守全体で使用された瓦の約1/3にあたり、瓦には寄付者の名前が今もなお刻まれている。
その後も城郭建築の再建は続き、1971年(昭和46年)には常磐木門、1997年(平成9年)には銅門、2009年(平成21年)には馬出門が復元されている。現在は江戸幕府の米蔵があった御用米曲輪の整備が続いている。
ギャラリー
天守北側眺望 |
天守東側眺望 |
天守南側眺望 |
天守西側眺望 |
常磐木門 |
銅門 |
馬出門 |
本丸 東堀跡 |
二の丸 東堀 |
三の丸土塁 幸田門跡 |
箱根口門跡 |
大手門跡 鐘楼 |
北条氏政・氏照 墓所 |
北条早雲 銅像 |
アクセス
開館時間・休館日・入館料
午前9時~午後5時まで開館(入館は16時半まで)。ただしゴールデンウィークなど一部期間は開館時間が1~2時間延長される。休館日は12月の第2水曜日(常盤木門SAMURAI館は営業)と12月31日~1月1日。
天守閣への入館料は大人510円、小・中学生200円。常盤木門SAMURAI館への入館料は大人200円、小・中学生は60円。天守閣・常盤木門共通チケットは大人610円、小・中学生220円。
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