小野鎮幸単語

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「小野鎮幸」(おの・しげゆき 1546 ~ 1609)とは、立花道雪立花宗茂の2代に渡って仕え、立花軍のとして活躍した猛将。立花中においては由布惟信と共に立花双璧(双とも)と呼ばれ、豊臣秀吉からは日本の一人として賞されている。

通称は「小野和泉

※「ジョン・レノン」の妻「オノ・ヨーコ」は彼の子孫と言われるが、詳細は不明。

立花双璧
由布惟信(由布下)
小野鎮幸(小野和泉

双璧誕生

小野鑑幸の子に生まれる。初めは大友宗麟より軍付として立花道雪派遣されていたが、その中で由布惟信によって見い出され、立花の直臣に取り立てるようにへ推挙された。しかし与える知行地がいを事を理由にが断ろうとすると、惟信が自らの知行地を減らしても良いからと嘆願した事から、鎮幸は立花の直臣となった。

その後、立花道雪陶を受けた鎮幸は将として頭を現し、由布惟信と共にとして活躍していく事となる。実際に戦場でこの二人が右翼左翼を片ずつ担当する事も多く、度々活躍し勝利に貢献した。

その他「小野鎮幸」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。exit

知勇兼備

小野鎮幸は、生涯22度の大戦(小さな戦いは数えられない程)に参加し、

  • 戦場にて受けた疵→67箇所
  • うち、より上の疵→44箇所
  • うち、による疵→5箇所
  • うち、による疵→7箇所

もの戦傷を負いながらも最前線で戦い、活躍した。その勇猛な働き振りに、大友立花からあわせて68通もの感状(功績明書類)を発行されている。

武勇の他に智謀も長けており、秋月文種を攻める際には同に仕えていた従兄弟を寝返らせる事に成功、古処山攻略に貢献した。

※後に古処山に戻った秋月文種の子・秋月種実は、領内の「小野」姓の者を皆殺しにしたと言われている。

の戦いでの大敗と立花道雪の病死とで大友の勢が衰退した頃、島津は大軍を率いて九州を制覇するべく北上して来た。これに対して立花宗茂の実高橋紹運が僅か763の兵と共に岩屋に籠って玉砕前提で時間を稼ぎ、さらに立花宗茂立花に籠って島津軍を迎え撃った。小野鎮幸も宗茂に従い、時に奇襲をかけ、時に策を用いて徹底抗戦を行った。やがて豊臣秀吉九州征伐軍の上陸を知った島津軍が退却を開始すると、宗茂は援軍の到着を待たずに反撃に転じた。高鳥居まで追撃した際、小野鎮幸は両足をで撃ち抜かれてしまうが、なお地にしたまま采配をとって戦いに勝利したという。

九州征伐後、立花宗茂豊臣秀吉の直臣として柳川の大名となると、小野鎮幸は功績第一として家老に任命されると共に5000石の知行を与えられた。またこの時、日頃から大を飲んでいた鎮幸の身体を気遣った手紙を送られている。

なお、5000石は柳川立花中において最大の石高であり、宗茂がいかに鎮幸を重用していたかが見て取れる。

日本日本柱七本)
立花 小野鎮幸(小野和泉
本多忠勝本多平八郎
島津 島津忠恒
黒田 後藤基次後藤又兵衛
上杉 直江兼続
加藤 飯田直景飯田覚兵衛
吉川 吉川広家

日本七槍

柳川立花家老となってからの小野鎮幸は、それまでの名将ぶりから打って変わってからでも賄賂を受け取り、守銭奴の陰口をかれるようになる。

そんな中でも、文の役に立花臣として参加して

立花小野和泉あり

と武名を示して帰し、豊臣秀吉の元へと上した際に、拝謁した豊臣秀吉より、

和泉九州において立花大友第一の功労者であり、朝鮮においても数々の武勲を立てた。
余は以前からその方の事を聞き及んでいたが、その捌きはに当代日本の一である。

と高い評価を受けた。

その後慶長の役が始まった際、立花の財政は度重なる合戦で逼迫しており、戦費を賄えない事態に陥ってしまった。この時、小野鎮幸がそれまでに溜め込んだ賄賂全てに私財を足して差し出し、立花は出兵することが出来た。

立花中にて鎮幸を守銭奴と陰口をいた者達は、その深謀遠慮に驚き、自らの浅はかさを悔いた。

主家改易

関ヶ原の戦いの際は西軍に付くことをして参戦、立花宗茂に従って京極高次が籠る大津攻略した。しかしその間に戦場である関ヶ原の戦いが一日で決着がついてしまい、西軍は敗北する。

そして柳川に戻って程なく、鍋島信生(鍋島直茂)勢が家康への恭順を示すために大軍(1万2千~3万2千とも)で攻め寄せて来た。また黒田如水加藤清正の軍も向かって来ていたため、対鍋島戦に割ける兵は一部だけであった。さらに君・立花宗茂徳川家康に対して謝罪の使者を出している途中であったため、表立って戦う訳にもいかない。この難局に際し、小野鎮幸は宗茂に代わって総大将として3千の兵を率いて出する。緒戦は揮の乱れがありながらも果敢に奮戦し、鍋島勢の十二段構えののうち九段までを打ち破り、鍋島勢先鋒を退却に追い込んだ。しかし寡兵の悲しさ、次第に味方が討ち取られていき、鎮幸も討ち死に寸前まで戦うが、ついに撤退する。

立花勢は尚も柳川に籠して抗う構えであったが、立花宗茂加藤清正黒田如水(慶長の役では共に戦った仲である)らの懸命の説得に応じ、開する。

その後、諸大名の執り成しも虚しく立花易となると、立花宗茂加藤清正に預けられる事となった。小野鎮幸もまた宗茂と共に肥後の地に赴き、旧立花臣達の再雇用先の確保の尽した。鎮幸は清正より4000石の知行を与えられ、加藤に仕える事になった。

やがて立花宗茂由布惟信ら僅かな臣と共に放浪のに出るが、小野鎮幸は肥後に残った。しかしこれは鎮幸が宗茂と袂を分かったわけではない。加藤に仕える旧立花臣達のめ役を務め、君の妻である立花誾千代立花ギン千代)の世話を行い、浪人生活を送る宗茂らにこつこつと仕送りをし、立花支援を続けるのである。

清正と!

小野鎮幸が加藤臣となって加藤清正と会見した際に、鎮幸の知勇兼備・用意周到・深謀遠慮な点について驚嘆し、

彼は実に無敵の士である。
彼に攻めさせれば、いかなる堅であっても攻め破れぬと言う事はいであろう。
に武夫の本領を得た者である。

と他の臣に話す程に評価して厚遇した。

清正が鎮幸に対して、

自分は、幼少の頃より合戦に明け暮れ、読書などとは全く縁であった。

愚痴をこぼすと、鎮幸は、

某など、すでに六十にもなろうという齢なのに、未だ「いろは」を書く事もままなりません。
朝鮮の役の折り、毛利輝元より書状が届き、使者にその返書をめられましたが、字を書く事が出来ないので大変こまりました。
丁度その時、内田元叙が通りかかり、彼に頼んでようやく返書を与える事が出来ました。
それゆえ、帰したのち妻に「いろは」を習い、今になってようやく、にじり書くまでになりました。

などと言う。鍋島直茂を苦しめた知将がまともに字を書けなかったとは思えず、清正は鎮幸が自分に気を遣っているに違いないと思った。しかしその後内田元叙に確認してみたところ事実であった事が判明し、その正直さに

小野和泉は小事でもをつかなかった。まして大事はをつかぬであろう。

と言ってますまず厚遇した。

またある時、清正と鎮幸が将棋を打っていると、隣の部屋にいる近習の者同士が喧嘩を始めてしまった。将棋が敗色濃厚だった清正が喧嘩の仲裁を理由に席を立とうとすると、鎮幸は

君たる者が、この位の事で立ち上がられてはいけません。
某が何の為にこの場に居るのかお忘れか。
もし所に押し入って来る様であれば、不肖この老人が取り押さえましょう。
殿は落ち着いて所に居られて下さい。

と睨みつけ、戦略的撤退を見透かされた清正は赤面する他なかったと言われている。

このようなエピソードは、まさに立花道雪陶の賜物と言えよう。

名誉の疵

宴の席にて、加藤三傑と言われた飯田直景森本一久・一心らが

立花の戦功をよく聞きますが、宗茂自身が奮戦して最も戦功があったのはいずこの戦場か。

と小野鎮幸に聞いてきた。鎮幸が答えずにいると、今後は鎮幸自身の武功をるようにめられたがやはり答えなかった。

宴が終わると、加藤三傑らは、

小野和泉の事を人は英雄傑と言うが、柳川ではそうであっても、肥後に来ればその辺にいるただの者と同じだ。

と言って冷笑し、譜代の加藤臣が旧立花臣の者達を見下すような潮が広まった。

後日、再び宴が催された際に同じ話題を振られた小野鎮幸は、準備万端とばかりに上着を脱いで自らの身体に刻んだ戦傷の数々を見せ付けつつ、

私が参加した合戦は数え切れません。そこで、今日は感状を持参しました。

と、大友立花から発行された68通の感状を使って戦傷のひとつひとつを事細かく説明した。

全てを細かく説明されたらそれだけでが明けてしまうといって降参する加藤臣達に対して、鎮幸がさらに

かつて等の君・清正木坂において、木山弾正と戦された折、清正の一を折られたが、遂に弾正を討ち取ったと聞いている。
その時、らは何処に居て、どういうご活躍をなされていたのですか。
不肖ながら某は、戦場において君を濫りに危険なに合わせたり、又自ら奮戦させる事がい様に努めてきたが、らはどのようになさるのか。

と尋ね返すと、加藤臣達はも答える事が出来なかった。以降、宴の席では武功の話はしなくなったといわれている。

その後

その後も小野鎮幸は立花のため立花宗茂支援し続けるが、その成就を見る事なく肥後にてした。享年62歳。

関ヶ原で西軍に付いて易となった大名は数あるが、旧領に復帰できたのは宗茂ただ一人である。それは鎮幸の死去から11年後の事であった。宗茂は柳川の地に再び入った際に鎮幸の一族を柳川に呼び戻して厚遇し、以後小野柳川家老職を世襲した。

関連動画

豊臣の為に戦う立花宗茂縁の下の持ちとして史実同様に活躍する「豊臣の盛衰」

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける小野鎮幸の力一覧。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 78 戦闘 75 智謀 66 政治 62 野望 24
天翔記 戦才 154(A) 智才 144(A) 政才 118(C) 78 野望 24
将星 戦闘 智謀 政治
烈風 采配 戦闘 智謀 政治
世紀 采配 智謀 政治 野望
蒼天録 統率 知略 政治
下創世 統率 72 知略 68 政治 44 教養 36
革新 統率 72 武勇 75 知略 58 政治 44
統率 62 武勇 75 知略 58 政治 44
創造 統率 69 武勇 73 知略 58 政治 47

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小野鎮幸

1 一番乗り
2010/04/05(月) 20:01:41 ID: sefJEJQLZe
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2 ななしのよっしん
2010/10/28(木) 00:37:38 ID: 9vOi2xsBwO
これ絶対立花宗茂の記事書いた人と同じ人が書いてるだろww
流石ですww めちゃくちゃ詳しいww
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3 ななしのよっしん
2011/08/30(火) 08:28:42 ID: pagR77CpF5
4000石の知行を与えられて下等に仕えることになり

下等は誤字ですね、だれか編集してください
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4 ななしのよっしん
2012/02/29(水) 00:44:55 ID: atNkiHhuSg
小野C……いや、なんでもない
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5 ななしのよっしん
2014/09/19(金) 12:55:12 ID: ztUy5Jgbju
立花双璧
由布惟信を正兵の将、小野鎮幸を奇兵の将として対するくだりがあるが、
君への忠の形もまたそれぞれ、「正」と「奇」というべきか・・・
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6 ななしのよっしん
2016/01/12(火) 00:07:13 ID: CvM7mpkOUi
小野和泉だけでなく当時武士の鑑と言われる人たちのエピソードは多少の脚色はあったとしても、
命をし命を奪う覚悟責任と罪科に耐えうる精を持ってるからこそ清廉で剛健で慈悲深いんだろうな
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