居合とは、日本武術の一種である。古くは「居相」「抜合」「座合」「抜剣」「鞘の内」「利法」「抜刀術」などの呼ばれ方もしていた。
概要
居合とは、本来立合に対する言葉である。
そんなことを言われてもなにやらよく分からないし、現在ではその辺りの区別はどうでもいいとされているのだが、とにかく敵の不意の攻撃に対し、納刀した状態から間髪入れずに応じて勝つ剣技だと覚えておけば良い。遡れば平安時代あたりからこの種の剣技は存在していたと思われるが、一般的には戦国時代の頃に研究され発達したと考えられている。
軍事的な言い方をすると「即応性」を高める技術であり、帯刀状態から一動作で攻撃に入れるメリットは現代人が思うよりも遥かに大きく、朝鮮出兵時には(背中に剣を背負っていた)現地兵が抜刀するより先に斬り付けることができたとも言われている。
有名な居合人
居合で名を残した人物、もしくは居合を嗜んだ有名人を列記する。
林崎甚助重信
現在居合の祖とされているのが、天文十一年(1542年)に奥州出羽の国、林崎村(現在の山形県村山市楯岡町)に生まれた甚助さんである。父親の仇討ちの為に剣術を研鑽し、林崎明神に参篭して神授を受け、見事仇討ちを果たしたといわれている。
「五寸の短刀で突いてくるのを三尺三寸の太刀を抜いて勝つ」技法を研究し、ついに完成させたというエピソードはあまりにも有名であり、彼の遺した居合の形は現在でも伝承されている。曰く、「居合の生命は電瞬にあり」
彼が神託を受けた林崎明神は現在甚助も祀られ、林崎居合神社となっている。
一説によると、彼が居合を研究したのは、「相討ち」を克服しようとしたからだと言われている。一度刀が抜かれてしまえば相討ちは避けられない。ならば刀が鞘の内にある間に勝負を決したらどうだろう。この発想から居合、抜刀術の研究へと目を向けたのだ、と。
この話が真実だとすると、初期の居合は護身の剣ではなく、先手必勝の必殺剣だということになる。そもそも甚助が仇討ちのために剣術を研究していたことを考えると、あながち嘘とも思えない。さらに言うと、居合を最も有効に遣ったのは、幕末の暗殺者達である。
長谷川主税助英信
江戸中期、享保年間の人である。林崎流の七代を継いだ長谷川英信は、刀を佩いた古伝の居合を刀を差した形に改め、長谷川英信流を編み出し、これを土佐で広めた。この流儀は現代まで伝わって夢想神伝流の原型となった。
大森六郎左衛門
新陰流の達人で、剣の形と小笠原流礼法を元に正座による居合を創始した人物である。彼の弟子である林六太夫守政が彼の考案した居合を英信流に加え、これを大森流と称した。現在では夢想神伝流の初伝として有名である。
中山博道
昭和の剣聖。現代居合道の祖とも言われる人物である。細川義昌に長谷川英信流下村派を、森本免久身に長谷川英信流谷村派を学ぶ。彼の伝えた居合は後に夢想神伝流と称され、現代居合における一大流派となった。
田宮平兵衛重正
田宮流の流祖。林崎甚助の高弟の一人で「美の田宮」と称された。尚、田宮流を名乗ったのは二代目の田宮長勝からである。
中村半次郎(桐野利秋)
幕末四大人斬りの一人。野太刀自顕流の使い手で、雨だれが地面に落ちるまでに三度刀を抜き、納めることが出来たと伝えられる。
河上彦斎
常江主水
幕末期の林崎流の達人。別段有名人というわけではないが、面白いエピソードが残っている人である。
ある時彼は娘を連れて湯治に出かけた。その道中、山で六人の山賊に囲まれてしまう。下手に逆らうわけにもいかず、震えながら財布を出して金を見せる。それを見た山賊達が油断して近づいてきた所を抜き打ち一閃、斬り捨てて窮地を脱したという。居合の腕は勿論だが、機転と演技力の有効性を示す逸話である。
福沢諭吉
「学問のススメ」で有名な慶応義塾創設者。立身新流の免許皆伝であり、晩年まで鍛錬を怠らなかったと伝えられる。
居合の流儀
夢想神伝流、無双直伝英信流、神夢想林崎流、田宮流、新田宮流、伯耆流、鐘捲流、関口流、水鴎流、無外流、信抜流、貫心流、天真正自顕流、立身流、民弥流
辺りだろうか。他にも香取神道流や柳生心眼流などでも、居合の技術は伝承されている。
道歌
居合とはへちまの皮のだん袋 身はすっかりとしてどっちやら
架空の場合
使い手一覧
- トウカ(うたわれるもの)
- アスベル・ラント(テイルズオブグレイセス)
- 松ノ原 小鳥、大岡 忠相(常住戦陣!!ムシブギョー)
- モンスターハンターのプレイヤー(太刀装備時)
- 緋村剣心(るろうに剣心)
- 橘右京(サムライスピリッツ)
- 高嶺響(月華の剣士)
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関連項目
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