屋鋪要(1959年6月11日~)とは、横浜大洋ホエールズ、読売ジャイアンツに所属していた元プロ野球選手である。現役時代は俊足・好守の選手として活躍した。
よく「屋敷要」と間違える人がいるが、「屋鋪要」なのでご注意を。
概要
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1977年のドラフトにおいて大洋ホエールズから6位で指名され入団。同期に後の大エース遠藤一彦が居た。
代走中心ではあるが高卒ルーキーにして一軍出場を果たし、ジュニアオールスターでは本塁打を含む2安打2盗塁の活躍でMVPを獲得した。翌1979年も打席数は少ないものの82試合に出場し、消化試合ながら3試合先発出場も果たした(初スタメンはルーキーイヤーであったが、あくまで偵察メンバーであった)。
1980年は長崎慶一の控え選手として105試合に出場(うち25試合に先発出場)し、初の2桁盗塁となる14盗塁を記録した。翌1981年も同じく控え選手として105試合出場であったが、チーム事情もあって先発出場は61試合に増え、打席数も前年の2倍近くに増えた。
監督が関根潤三に交代した1982年も前年同様の立ち位置であった。後半戦にレギュラーに定着しかけたが、内野の控え選手であった高木豊が突如外野にコンバートされたため出場機会を奪われることとなり、前年を上回る72試合に先発出場したものの出場機会数そのものは減少した。秋にスイッチヒッターに転向する。
1983年は阪神タイガースから移籍してきた加藤博一に開幕スタメンの座を奪われるもののすぐさま奪い返してようやくレギュラーに定着、初の規定打席にも到達した。翌1984年は初の打率3割(.305)を記録し、初のゴールデングラブ賞(外野手)にも選出された。
近藤貞雄が監督に就任した1985年、高木、加藤博一と共にスポーツカートリオ(スーパーカートリオ)の一員となった。3番打者に抜擢されると2年連続の打率3割(.304)を記録した他初の2桁本塁打となる15本を記録する。盗塁も前年の11から一気に飛躍する58を記録したものの、トップの高橋慶彦が73という途方もない数字を残してしまったためタイトルには届かなかった。2年連続のゴールデングラブ賞(外野手)にも選出された。
振り回す癖がついてしまったせいか、翌1986年は打撃が一気に低迷する。加藤の故障でスーパーカートリオも崩壊するが、48盗塁を記録して初の盗塁王に輝いた。3年連続のゴールデングラブ賞(外野手)にも選出された。
古葉竹識が監督に就任した1987年、初の全試合出場を果たし、自己最多の153安打を残して打率も.291まで回復した。48盗塁で2年連続の盗塁王に輝き、4年連続のゴールデングラブ賞(外野手)にも選出された。しかし、翌1988年は開幕してすぐに同じチームのパチョレックと接触するというアクシデントに見舞われ、これが影響したのか再びの打撃不振に陥り、3年連続の盗塁王に輝いたものの数は33と激減した。5年連続のゴールデングラブ賞(外野手)にも選出された。
1989年、1990年と不振でスタメンから陥落するが、1991年にようやく復調し、1992年にはレギュラーに返り咲いた。
球団名が横浜ベイスターズとなり近藤昭仁が監督に就任した1993年、開幕時点ではレギュラーであったが徐々に出場機会が減り、後半戦は完全に出場機会を失った。その年のオフ、球団から呼び出された屋鋪は一緒にスーパーカートリオを結成した高木豊、詐欺師市川和正、山崎賢一、大門和彦、松本豊と共に突然自由契約を宣告されてしまう。一説にはこの年巨人からFA宣言し、横浜に入団することになる駒田徳広の獲得資金を用意するためとも言われているが詳細は不明。
この時屋鋪は「引退試合もコーチの話もない、ただのゴミ扱いだよ、16年も頑張ってきたのに・・・」と涙を流して悔しがったという。
そんな屋鋪に巨人の長嶋茂雄監督が手を差し伸べ、屋鋪は巨人に入団することになる。
余談だが巨人は「巨人軍は紳士たれ」というモットーがあるため屋鋪のトレードマークでもあったヒゲは剃らねばならないのが普通だが、屋鋪は長嶋監督から直々に「剃るな」と言われたため、巨人において初めてヒゲを生やすことを許された選手となった。
94年、古巣との初対決となった4月12日の横浜戦、この試合で屋鋪は9回表に代走して出場し、その裏横浜の攻撃で守備固めに入ったが、ロバート・ローズの放った打球を風にあおられたこともあってか後ろに逸らしてしまい横浜にサヨナラ勝ちを許してしまう(記録上はローズのサヨナラツーベース)。このミスに屋鋪は大変悔しがったが監督の長嶋からは「君に取れないなら誰にも取れない」と励まされ、その後も長嶋は屋鋪を代走・守備固めとして使い続けた。
この年は初めて日本シリーズにも出場し、ファインプレーなども記録して長嶋巨人の日本一に貢献した。
翌95年はシェーン・マックが加入したこともあって前年よりも出場機会は減り、この年限りで現役を引退した。
引退後は巨人で2度に渡ってコーチを務め、現在は解説者や鉄道カメラマンなどとしても活動している。
人物・プレースタイル
現役時代印象に残っているのは88年10月20日に盗塁王を獲得した日と94年の日本シリーズ第2戦目、前者はその日の夜に息子が生まれ、後者は初めて日本シリーズで打てたからだという。
また趣味の一つにSLがあるが、これは小学生の時から好きでSLの雑誌にコラムを連載したり、自分が撮影した写真を投稿することもある。全国にあるSLをすべて撮影するのが目標らしい。
選手としては特に盗塁にこだわりがあり、当初は盗塁はあまり得意ではなかったらしいが、リードのとり方であったり、ピッチャーのフォームの見方などを研究して牽制が来る/来ないがわかるようになっていったという。
また一般的に「足にスランプはない」と言われているが屋鋪はこれを否定し、「プレッシャーのかかる場面では、足が縮みますよ。メンタルな部分はすごく影響しますね。」と答えている。
通算成績
通算:18年 | 試合 | 打席 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 1628 | 4675 | 4263 | 1146 | 58 | 375 | 327 | 46 | 25 | 343 | 20 | 804 | .269 | .323 |
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関連項目
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